天武天皇

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性別
男性
生年月日
( ~ 天智天皇元年12月29日)
没年月日
(天武天皇2年閏6月6日 ~ )
  • 舒明天皇じょめいてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 皇極天皇こうぎょくてんのう斉明天皇さいめいてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
先祖
  1. 舒明天皇
    1. 押坂彦人大兄皇子
      1. 敏達天皇
      2. 広姫
    2. 糠手姫皇女
      1. 敏達天皇
      2. 菟名子夫人
  2. 皇極天皇
    1. 茅渟王
      1. 押坂彦人大兄皇子
      2. 大俣王
    2. 吉備姫王
      1. 桜井皇子
      2. unknown
配偶者
  • 持統天皇じとうてんのう【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 大田皇女おおたのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 大江皇女おおえのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 新田部皇女にいたべのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 氷上娘ひかみのいらつめ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 五百重娘いおえのいらつめ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 大蕤娘おおぬのいらつめ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 額田姫王ぬかたのおおきみ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 尼子娘あまこのいらつめ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 𣝅媛娘かじひめのいらつめ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 草壁皇子尊くさかべのみこのみこと【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:持統天皇じとうてんのう
  • 大来皇女おおくのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:大田皇女おおたのひめみこ
  • 大津皇子おおつのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:大田皇女おおたのひめみこ
  • 長皇子ながのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:大江皇女おおえのひめみこ
  • 弓削皇子ゆげのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:大江皇女おおえのひめみこ
  • 舎人皇子とねりのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:新田部皇女にいたべのひめみこ
  • 但馬皇女たじまのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:氷上娘ひかみのいらつめ
  • 新田部皇子にいたべのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:五百重娘いおえのいらつめ
  • 穂積皇子ほづみのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:大蕤娘おおぬのいらつめ
  • 紀皇女きのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:大蕤娘おおぬのいらつめ
  • 田形皇女たかたのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:大蕤娘おおぬのいらつめ
  • 十市皇女とおちのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:額田姫王ぬかたのおおきみ
  • 高市皇子命たけちのみこのみこと【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:尼子娘あまこのいらつめ
  • 忍壁皇子おさかべのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:𣝅媛娘かじひめのいらつめ
  • 磯城皇子しきのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:𣝅媛娘かじひめのいらつめ
  • 泊瀬部皇女はつせべのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:𣝅媛娘かじひめのいらつめ
  • 託基皇女たきのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:𣝅媛娘かじひめのいらつめ
出来事
  • 舒明天皇の皇子として生まれる。母は宝皇女後の皇極天皇、重祚して斉明天皇。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 若いころは大海人皇子といった。
    生れつき秀でて立派な姿をしていた。壮年となっては雄々しく武徳があった。天文・遁甲をよく用いた。
    天命開別天皇天智天皇の女菟野皇女を召し入れて正妃とした。
    天命開別天皇元年、東宮に立てられた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀】
  • 天智天皇元年

    東宮に立てられる。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀】
  • 天智天皇3年2月9日

    天皇天智天皇。正しくはこの時まだ即位していない。は大皇弟に命じて、冠位の階名を増やし換え、氏上(このかみ)民部(かきべ)家部(やかべ)などの事を宣布させた。

    その冠は二十六階ある。
    大織小織大縫小縫大紫小紫大錦上大錦中大錦下小錦上小錦中小錦下大山上大山中大山下小山上小山中小山下大乙上大乙中大乙下小乙上小乙中小乙下大建小建
    これが二十六階である。

    以前の花を改めて錦という。
    錦から乙まで六階を加えた。
    以前の初位一階に加え換えて大建小建の二階とした。
    これらが異なったところで、残りは以前のままである。

    大氏の氏上には大刀を賜った。
    小氏の氏上には小刀を賜った。
    伴造らの氏上には干楯・弓矢を賜った。
    またその民部・家部を定めた。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年二月丁亥条】
  • 天智天皇7年1月3日

    中大兄皇子が即位して天皇となる。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年正月戊子条】
  • 天智天皇7年5月5日

    天皇蒲生野(がもうの)で薬猟をした。大皇弟後の天武天皇。・諸王・内臣中臣鎌足。・群臣が悉く従った。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年五月五日条】
  • 天智天皇8年5月5日

    天皇山科野(やましなのの)で薬猟をした。大皇弟・藤原内大臣・群臣が悉く従った。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年五月壬午条】
  • 天智天皇8年10月10日

    天智天皇の命を受けて、中臣鎌足大織冠大臣内大臣。の位を授け、姓を賜り藤原氏とする。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年十月乙卯条】
  • 天智天皇10年1月6日

    東宮太皇弟が詔して東宮太皇弟とは大海皇子を指す。割注に「或る本に云うには、大友皇子が詔したという」とある。冠位・法度の事を施行する。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年正月甲辰条】
  • 天智天皇10年5月5日

    天皇は西の小殿で皇太子・群臣らと宴した。
    ここで田舞(たまい)が二度演じられた。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年五月辛丑条】
  • 天智天皇10年10月17日

    天皇は病臥し重態であった。
    そこで蘇賀臣安麻侶を遣わし、東宮大海皇子。を呼んで大殿に引き入れた。
    安摩侶はもとより東宮に好かれていた。
    密かに東宮を顧みて「注意してご発言なさいませ」と言った。東宮は陰謀があることを疑って慎んだ。

    天皇は東宮に勅して鴻業を授けようとしたが、辞退して言うには「私は不幸にして元から多病です。どうして社稷を保てましょう。願わくは陛下、天下を挙げて皇后に託し、大友皇子を立てて儲君となさりませ。私は今日にも出家し、陛下の為に功徳を修めようと思います」と。
    天皇は許可した。

    即日出家して法服を着た。そして自家の武器の悉くを公に納めた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀 天智天皇即位四年十月庚辰条】
    • 天智天皇10年10月17日

      天皇の病は重くなり、東宮を召して臥内に引き入れた。
      詔して「朕の病は重いので後事はお前に任せる」と云々。
      しかし再拝して病を称して固辞して受けずに「どうか大業は大后にお授け下さい。大友王に諸政をお任せ下さい。私は天皇の為に出家して修行したいと思います」と。
      天皇はこれを許し、東宮は立って再拝した。

      内裏の仏殿の南に向い、胡床に腰かけると剃髪して沙門(ほうし)となった。
      天皇次田生磐を遣わして袈裟を送った。

      【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十月庚辰条】
  • 天智天皇10年10月19日

    吉野宮(よしののみや)に入ることになった。
    この時に左大臣蘇賀赤兄臣右大臣中臣金連大納言蘇賀果安臣らが見送り、菟道で引き返した。

    或る人は「虎に翼を着けて放った」と言った。

    夕方には島宮(しまのみや)に着いた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀 天智天皇即位四年十月壬午条】
    • 天智天皇10年10月19日

      東宮は天皇に「吉野に行って仏道を修行したい」と願うとこれを許された。

      東宮はすぐに吉野に入った。大臣らが菟道(うじ)まで送った。

      【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十月壬午条】
  • 天智天皇10年10月20日

    吉野に着いた。
    この時に諸々の舎人を集めて言うには「私は今から入道して修行する。従って修道したいと思う者は留まるがよい。もし仕えて名を成したい者は帰還して公に仕えよ」と。しかし退く者はいなかった。
    さらに舎人を集めて同じように詔すると、舎人の半数が留まり、半数が退いた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀 天智天皇即位四年十月癸未条】
  • 天智天皇10年12月3日

    天智天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十二月乙丑条】
  • 天武天皇元年3月18日

    内小七位小山位か。小山位はいわゆる大宝律令での七位に相当。阿曇連稲敷を筑紫に遣わして天皇の喪を郭務悰らに告げた。
    郭務悰らは皆喪服を着て、三度挙哀して東に向い稽首した。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年三月己酉条】
  • 天武天皇元年3月21日

    郭務悰らが再拝して書函(ふみばこ)信物(くにつもの)を奉った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年三月壬子条】
  • 天武天皇元年5月12日

    (よろい)(かぶと)・弓矢を郭務悰らに賜った。
    この日に郭務悰らに賜った物は、(ふとぎぬ)一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤であった。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年五月壬寅条】
  • 天武天皇元年5月28日

    高麗が前部富加抃らを遣わして調を進上する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年五月戊午条】
  • 天武天皇元年5月30日

    郭務悰らが帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年五月庚申条】
  • 天武天皇元年5月

    朴井連雄君天皇大海人皇子を指す。に奏上して「私は私事で一人美濃に行きました。時に朝廷は宣美濃・尾張の両国の国司に仰せ言をして『山陵を造る為、予め人夫を差し定めよ』と命じられました。しかし人々に武器を持たせています。私が思うには山陵の為ではないでしょう。必ずや有事となり、もし速やかに避けなければ危うい事がありましょう」と。

    或いはある人が奏上して「近江京(おうみのみやこ)から倭京(やまとのみやこ)に至るまで、所々に監視人を置いています。菟道橋の守衛に命じて。皇大弟の宮の舎人が自分達の食料を運ぶ事さえ禁じています」と。

    天皇は警戒して調べさせ、真実であることを知った。

    詔して「私が位を譲って遁世したのは、病を治して天命を全うしようと思ったからである。しかしやむを得ずして禍を受けようとしている。どうして黙って身を亡ぼせようか」と。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年五月是月条】
  • 天武天皇元年6月22日

    村国連男依和珥部臣君手身毛君広に詔して「聞けば近江朝の群臣は私を殺そうとしている。お前たち三人は速やかに美濃国に行き、安八磨郡(あはちまのこおり)湯沐令(ゆのうながし)多臣品治に機密を告げ、まずその郡の兵を集めよ。そして国司たちに知らせて軍勢を発し、速やかに不破道(ふわのみち)を塞げ。私もすぐ出発する」と。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月壬午条】
  • 天武天皇元年6月24日

    東国に入ろうとした時、一人の臣が奏上して「近江の群臣は元より謀心があります。必ずや国中を偽り、道路は通り難くなるでしょう。どうして兵も無く丸腰で東国に入れましょうか。私は成就しない事を恐れているのです」と。
    天皇はこれに従い、男依らを帰還させようと思った。
    大分君恵尺黄書造大伴逢臣志摩らを留守司高坂王のもとに遣わして駅鈴を求めさせた。
    そして恵尺らに言うには「もし鈴を得られなければ志摩は帰還して報告せよ。恵尺は急いで近江に行って高市皇子大津皇子を呼んで伊勢で合流せよ」と。

    恵尺らは留守司のもとに行き、東宮の命を告げて駅鈴を高坂王に求めたが許されなかった。
    恵尺は近江に行った。
    志摩は帰還し復命して「鈴は得られませんでした」と。

    この日に発途して東国に入った。事は急で駕を待たずに徒歩で出発した。

    思いがけず県犬養連大伴の馬に出会ったのでこれに乗ることにした。皇后は輿に乗って従った。

    津振川(つふりかわ)に至り、はじめて車駕が届いたのでこれに乗った。
    この時に始めから従っていた者は草壁皇子忍壁皇子。及び舎人の朴井連雄君県犬養連大伴佐伯連大目大伴連友国稚桜部臣五百瀬書首根摩呂書直智徳山背直小林山背部小田安斗連智徳調首淡海ら二十余人。女孺十余人であった。

    その日に菟田(うだ)吾城(あき)に着いた。
    大伴連馬来田黄書造大伴は吉野宮から追ってやってきた。
    この時、屯田司の舎人土師連馬手は従者へ食料を提供した。

    甘羅村(かんらのむら)を過ぎ、猟者二十余人があった。大伴朴本連大国が猟者の首領だった。
    悉く召して配下に入れた。

    また美濃王を召した。すると参上して一行に従った。
    湯沐()の米を運ぶ伊勢国の駄馬五十匹と菟田郡家(うだのこおりのみやけ)付近で遭遇した。
    そこで米を全て棄てさせ、徒歩の者を乗らせた。

    大野に至ると日が落ちた。山は暗くて進むことが出来なかった。
    その村の家の(まがき)を壊して火を灯した。

    夜半に隠郡(なばりのこおり)に至った。隠の駅家(うまや)を焼いた。
    村の中に呼びかけて「天皇が東国においでになられる。人夫として従う者は参れ」と言った。しかし一人も来なかった。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月甲申条】
  • 天武天皇元年6月25日六月甲申条の記事中で日付が変わっている。厳密には不明なので、テキトーに区切ってます。

    横河(よこかわ)に至ろうとする時に黒雲が現れた。広さは十余丈で天に渡った。
    天皇は怪しんだ。
    そこで火を灯して自ら(ちく)を持ち、占って言うには「天下が二つに分れる兆しだ。しかし私が遂得天下を得るだろう」と。

    急行して伊賀郡(いがのこおり)に至り、伊賀の駅家を焼いた。
    伊賀の中山に至り、その国の郡司らが数百の軍勢を率いて帰服した。

    夜明けに莿荻野(たらの)に至り、暫く駕を停めて食事をした。

    積殖(つむえ)の山口に至り、高市皇子鹿深(かふか)甲賀。を越えて合流した。

    民直大火赤染造徳足大蔵直広隅坂上直国麻呂古市黒麻呂竹田大徳胆香瓦臣安倍が従っていた。

    大山を越えて伊勢(いせ)鈴鹿(すずか)に至り、国司守(くにのみこともちのかみ)三宅連石床(すけ)三輪君子首、及び湯沐令(ゆのうながし)田中臣足麻呂高田首新家らが鈴鹿郡(すずかのこおり)で出迎えた。
    そこでまた五百の軍勢を集めて鈴鹿の山道を守らせた。

    川曲(かわわ)の坂下に至り、日が暮れた。
    皇后が疲れたので暫く輿を留めて休息した。
    しかし夜に曇って雨が降りそうになったので、あまり休息出来ずに出発した。
    寒くなってきて雷雨が甚だしくなった。従う者は衣裳が濡れて寒さに堪えられなくなってきた。
    三重郡家(みえのこおりのみやけ)に至り、家を一つ焼いて凍える者を温めさせた。

    この夜半、鈴鹿関司(すずかのせきのつかさ)が使いを遣わして言うには「山部王石川王が帰服してきたので関に留めております」と。
    天皇は路直益人を遣わして呼び出した。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月甲申条】
  • 天武天皇元年6月26日

    朝に朝明郡(あさけのこおり)迹太川(とおかわ)のほとりで天照大神を遥拝した。

    この時に益人が到着、奏上して「関に留め置いた者は山部王石川王ではなく、これは大津皇子でした」と。
    即ち益人に従ってやってきた。
    大分君恵尺難波吉士三綱駒田勝忍人山辺君安摩呂小墾田猪手泥部眡枳大分君稚臣根連金身漆部友背らも従ってやってきた。
    天皇は大いに喜んだ。

    郡家に行こうとすると、男依が駅馬に乗って来て「美濃の兵三千人を興して不破道を塞ぐことが出来ました」と奏上した。
    天皇は雄依の功を褒めた。

    郡家に至り、まず高市皇子を不破に遣わして軍事を監督させた。
    山背部小田安斗連阿加布を遣わして東海道の軍を興し、また稚桜部臣五百瀬土師連馬手を遣わして東山道の軍を興した。

    この日、天皇は桑名郡家(くわなのこおりのみやけ)に泊り、進まなかった。

    この時に近江朝は大皇弟が東国に入ったことを聞いた。
    群臣は皆驚き、(みやこ)の内は騒がしかった。
    或る者は逃げて東国に入ろうとした。或る者は退いて山に隠れようとした。

    大友皇子は群臣に「どのようにすべきか」と言った。ある臣が進み出て「悠長に構えては手遅れとなります。急ぎ騎馬隊を集めて後を追うべきです」と言ったが、皇子は従わなかった。

    韋那公磐鍬書直薬忍坂直大摩侶を東国に遣わした。
    穂積臣百足及び弟の百枝物部首日向倭京(やまとのみやこ)飛鳥。に遣わした。
    佐伯連男を筑紫に遣わした。
    樟使主磐手を吉備国に遣わして軍を興させた。

    磐手に言うには「筑紫大宰栗隈王吉備国守(きびのくにのかみ)当摩公広島の二人は元より大皇弟に従うことがあった。反逆の疑いがあろう。もし不服そうな顔をすればすぐに殺せ」と。

    磐手が吉備国に至り(おしてのふみ)を授ける日、広島を欺いて刀を解かせた。磐手はそこで刀を抜いて殺した。

    が筑紫に至り、栗隈王が苻を受ける時に答えて言うには「筑紫国は元より外賊から国境を守っています。城を高く、溝を深くして海に向って守備するのは内賊の為にではありません。命を受けて軍を興せば国防が空となります。もしも思いがけない変事があれば社稷が傾きます。然る後に百度臣を殺しても何の益もありません。どうして敢えて徳に背くことがありましょうか。容易く兵を動かせないのはこのような理由です」と。
    この時に栗隈王の二子である三野王武家王は剣を佩いて側に立ち、退くことは無かった。
    は剣を堅く握って進もうとしたが、かえって殺されることを恐れた。それで事を成せずに空しく帰還した。

    東方駅使磐鍬らが不破(ふわ)に至ろうとする時、磐鍬は山中に兵が潜んでいることを想定して一人遅れてゆっくり進んだ。
    時に伏兵が山から出てきてらの背後を遮った。
    磐鍬らが捕えられたことを知り、反転して逃走してどうにか脱出できた。


    この時に大伴連馬来田・弟の吹負は情勢を知り、病を称して倭の家に退いた。
    そして皇位を継ぐのは、吉野にいる大皇弟であろうと思った。
    馬来田が先に天皇に従った。
    ただし吹負は留まり、名をこの時に立てて災いを転じようと思った。
    そして一人、二人と同族及び豪傑を招いて僅かに数十人を得た。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月丙戌条】
  • 天武天皇元年6月27日

    高市皇子は使いを桑名郡家(くわなのこおりのみやけ)に遣わして言うには「御所から遠くては政を行うには甚だ不便です。近い所においで頂きたい」と。

    その日、天皇は皇后を留めて不破に入った。
    郡家に至る頃、尾張国司守(おわりのくにのみこともちのかみ)小子部連鋤鉤が二万の軍勢を率いて帰属した。
    天皇は誉め、その軍を分けて処々の道を塞いだ。

    野上(のがみ)に至り、高市皇子和蹔(わざみ)より迎えて言うには「昨夜、近江朝から駅使が参りました。伏兵を用いて捕えてみると書直薬忍坂直大麻呂でした。何処へ行くかを問うと、答えて『吉野においでの大皇弟を討つ為、東国の軍を集めに遣わされた韋那公磐鍬の仲間です。しかし磐鍬は伏兵を見て逃げ帰りました』と言いました」と。

    天皇が高市皇子に言うには「その近江朝ではの大臣と智謀に富む群臣が協議するが、朕には共に計画を立てる者はいない。ただ若い子供がいるだけである。どうしたものか」と。
    皇子は腕をまくり、剣を按じて言うには「近江の群臣は多いといえども、どうして天皇の霊威に逆らえましょうか。天皇が独りでいらっしゃっても、臣高市が神祇の霊威を頼り、天皇の命を受け、諸将を率いて征討すれば防ぐことは出来ません」と。
    天皇は誉めて、手を取り背を撫でて「決して怠るなよ」と言った。
    そして鞍馬を賜り、全ての軍事を授けた。
    皇子は和蹔に帰った。

    天皇は行宮を野上に建てて住んだ。
    この夜、雷が鳴り雨がひどく降った。
    天皇が祈って「天神地祇が朕を助ければ。雷雨は止むであろう」と言った。言い終ると雷雨が止んだ。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月丁亥条】
  • 天武天皇元年6月28日

    和蹔に行き、軍事を視察して帰還する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月戊子条】
  • 天武天皇元年6月29日

    天皇は和蹔に行き、高市皇子に命じて軍衆に号令させた。
    天皇はまた野上に帰還した。

    この日、大伴連吹負は留守司坂上直熊毛と相談して、一人二人の漢直(あやのあたい)らに語って「私は偽って高市皇子と名乗り、数十騎を率いて、飛鳥寺の北の道から出て軍営に現れる。その時にお前たちは内応せよ」と。
    そして兵を百済(くだら)の家に揃えて南門から出た。

    まず秦造熊犢鼻褌(ふんどし)姿にして馬に乗せて走らせ、寺の西の軍営の中に「高市皇子が不破から来られた。軍勢が多く従っているぞ」と叫ばせた。
    留守司高坂王と挙兵の使者穂積臣百足らは飛鳥寺の西の槻の下に軍営を構えていた。
    ただし百足だけは小墾田(おはりだ)の武器庫にいて兵を近江に運ぼうとしていた。
    この時に軍営の中の兵はの叫び声を聞いて悉く散り逃げた。

    大伴連吹負は数十騎を率いて現れ、熊毛・諸々の(あたい)らと共に連携し、兵士もまた従った。

    高市皇子の命令と称して穂積臣百足を小墾田の武器庫に呼んだ。
    百足は馬に乗ってゆっくり現れた。
    飛鳥寺の西の槻の下に着いた頃、ある人が「馬から降りろ」と言った。百足はぐずぐずしていた。
    するとその襟を取って引き落し、弓で一矢射た。そして刀を抜いて斬り殺した。
    穂積臣五百枝物部首日向を捕えたが、しばらくすると許して軍中に置いた。
    また高坂王稚狭王を呼んで軍に従わせた。

    大伴連安麻呂坂上直老佐味君宿那麻呂らを不破宮に遣わして状況を報告させた。
    天皇は大喜びして、吹負を将軍に任命した。
    この時に三輪君高市麻呂鴨君蝦夷ら及び諸々の豪傑は響きの声に応じるように将軍の麾下に集まった。
    そして近江を襲うことを計画した。軍の中から英俊を選んで別将副将または別働隊の将。と軍監とした。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月己丑条】
  • 天武天皇元年7月1日

    乃楽(なら)に向かう。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月己丑条】
  • 天武天皇元年7月2日

    天皇は紀臣阿閉麻呂多臣品治三輪君子首置始連菟を遣わし、数万の軍勢を率いて伊勢の大山を越えて倭に向わせた。
    また村国連男依書首根麻呂和珥部臣君手胆香瓦臣安倍を遣わし、数万の軍勢を率いて不破から出て真っ直ぐ近江に入らせた。
    その軍勢と近江軍との判別が難しくなることを恐れて赤色を衣の上に着けた。

    然る後、別に多臣品治に命じ、三千の軍勢を率いて莿荻野(たらの)に駐屯させた。
    田中臣足麻呂を遣わして倉歴道(くらふのみち)を守らせた。

    時に近江方は山部王蘇賀臣果安巨勢臣比等に命じ、数万の軍勢を率いて不破を襲わせようと、犬上川(いぬかみのかわ)の側に軍立ちさせた。
    しかし山部王蘇賀臣果安巨勢臣比等に殺された。
    この乱れにより軍は進めず、蘇賀臣果安は犬上に引き返すと頸を刺して死んだ。

    この時に近江の将軍羽田公矢国とその子大人らは一族を率いて降ってきた。
    それで斧と(まさかり)を授けて将軍に任じ、北の越に入らせた。

    これより先、近江方は精兵を放って玉倉部邑(たまくらべのむら)を急襲した。
    そこで出雲臣狛を遣わして撃退させた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月辛卯条】
  • 天武天皇元年7月3日

    将軍吹負乃楽山(ならやま)の上に駐屯した。
    時に荒田尾直赤麻呂は将軍に「古京(ふるきみやこ)飛鳥を指す。は元の拠り所なので固く守らなければなりません」と言った。
    将軍は進言に従い、赤麻呂忌部首子人を遣わして古京を守らせた。
    赤麻呂らは古京に到着すると道路の橋の板を外して楯を作り、京の周辺に立てて守った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬辰条】
  • 天武天皇元年7月4日

    将軍吹負と近江の将大野君果安は乃楽山で戦った。
    果安の為に敗れて軍卒は皆遁走した。将軍吹負は辛くも脱出した。
    果安は追撃して八口(やくち)に至り、高所から(みやこ)を眺めると道ごとに楯が立っていた。伏兵を疑い引き返した。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月癸巳条】
  • 天武天皇元年7月5日

    近江の別将田辺小隅鹿深山(かふかのやま)を越え、幟を巻き鼓を抱いて潜行する様子。倉歴(くらふ)に至った。

    夜半に口木を銜えて城柵を穿ち、にわかに陣営の中に侵入した。
    自軍と足摩侶軍の判別が難しくなることを恐れ、兵ごとに「金」と言わせた。
    刀を抜き、「金」と言わない者をひたすら斬った。
    足摩侶の軍は大いに乱れた。急な事で為す術を知らなかった。
    ただ足摩侶だけが気付き、「金」と言って難を逃れた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月甲子条】
  • 天武天皇元年7月6日

    小隅はさらに進んで、莿荻野(たらの)の陣営を急襲した。
    将軍多臣品治がこれを防ぎ、精兵を以って追撃した。
    小隅は難を逃れたが、以後現れることはなかった。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月乙未条】
  • 天武天皇元年7月7日

    男依らが近江軍と息長(おきなが)横河(よこかわ)で戦って破り、その将境部連薬を斬った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月丙申条】
  • 天武天皇元年7月9日

    男依らが近江の将秦友足鳥籠山(とこのやま)で斬った。

    この日、東道将軍紀臣阿閉麻呂らは、倭京(やまとのみやこ)の将軍大伴連吹負が近江方に敗れたこと聞くと、軍を分け、置始連菟に千余騎を率いさせ倭京に急行させた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月戊戌条】
  • 天武天皇元年7月13日

    男依らが安河(やすかわ)のほとりで戦い大いに破った。社戸臣大口土師連千島を捕えた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬寅条】
  • 天武天皇元年7月17日

    栗太(くるもと)の軍を追討する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月丙午条】
  • 天武天皇元年7月22日

    男依らが瀬田(せた)に至る。

    時に大友皇子は群臣らと共に橋の西に大きな陣営を構えた。その後方が見えない程であった。

    旗旘(はた)は野を隠し、埃塵(ちり)は天に連なった。
    鉦鼓(かねつづみ)の音は数十里先まで聞こえ、弩の列からは雨のように矢が乱発された。
    その将智尊は精兵を率いて先鋒として防いだ。
    そして橋の中を三丈ばかり切断して長板を置き、もしも板を踏んで渡ろうとする者あれば板を引いて落そうとした。
    こにより進撃出来ずにいた。

    有勇な士がいて大分君稚臣といった。
    長矛を棄てて(よろい)を重ね着すると、刀を抜いて急いで板を踏んで渡った。
    そして板に繋がった綱を斬り、矢を受けながら陣に突入した。

    軍勢は乱れて逃走した。
    将軍智尊は刀を抜き、退く者を斬ったが止めることは出来なかった。
    智尊は橋の側で斬られた。

    大友皇子の大臣らは辛うじて身を免れて逃げた。

    男依らは粟津岡(あわづのおか)の下に軍を置いた。

    この日、羽田公矢国出雲臣狛が連合して共に三尾城(みおのき)を攻めて降した。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月辛亥条】
  • 天武天皇元年7月23日

    男依らは近江の将犬養連五十君谷直塩手粟津市(あわづのいち)で斬った。

    大友皇子は逃げ入る所が無くなり、引き返して山前(やまさき)に隠れて自ら首を縊った。
    この時にの大臣と群臣は皆散り逃げたが、物部連麻呂と一人二人の舎人だけが従った。


    はじめ、将軍吹負乃楽(なら)に向って稗田(ひえだ)に至った日天武天皇元年7月4日の敗戦から逆算して天武天皇元年7月1日。乃楽に向けて出発した当日ということになる。、ある人が「河内(かわち)から多くの軍勢がやって来ます」と言った。
    そこで坂本臣財長尾直真墨倉墻直麻呂民直小鮪谷直根麻呂を遣わし、三百人の兵士を率いて竜田(たつた)を防がせた。
    佐味君少麻呂を遣わし、数百人を率いて大坂(おおさか)に駐屯させた。
    鴨君蝦夷を遣わし、数百人を率いて石手道(いわてのみち)を守らせた。

    この日天武天皇元年7月1日坂本臣財らは平石野(ひらしのの)に宿ったが、近江軍が高安城(たかやすのき)にいることを聞いて出発した。
    近江軍はらが来ることを知り、全ての税倉(ちからくら)を焼いて皆散り逃げた。それで城の中に宿った。

    明け方日が変って天武天皇元年7月2日。に西方を見てみると、大津(おおつ)丹比(たじひ)の両道から多くの軍勢と旗が見えた。
    ある人が「近江の将壱伎史韓国の軍である」と言った。
    らは高安城から下って衛我河(えがのかわ)を渡り、韓国と河の西で戦った。
    らは兵が少なくて防ぐことが出来なかった。

    これより先、紀臣大音を遣わして懼坂道(かしこのさかのみち)を守らせていた。

    らは懼坂に退いて大音の陣営に入った。
    この時、河内国司守来目臣塩籠不破宮(ふわのみや)大海人皇子のいる野上の行宮。に帰順する心があって軍を集めていた。
    ここに韓国がやって来て、密かにその謀を聞いて塩籠を殺そうとした。
    塩籠は事が漏れた事を知り自ら死んだ。

    一日を経て天武天皇元年7月4日。天武天皇元年7月2日から中一日。、近江軍が諸道に多く配された為、戦うことが出来ずに退却した。


    この日天武天皇元年7月4日、将軍吹負は近江に敗れ、一人二人の騎兵を率いて逃げた。
    墨坂(すみさか)に至り、たまたまの軍と遭遇した。
    さらに退き、金綱井(かなづなのい)に駐屯して散り散りになった兵を集めた。

    近江軍が大坂道からやって来ると聞き、将軍は軍を引いて西に向った。以下、後述される三日後の神懸かりの話から判断して天武天皇元年7月7日以降。

    当麻に至り、壱伎史韓国の軍と葦池(あしいけ)の側で戦った。
    時に勇士来目という者があり、刀を抜いて真っ直ぐに軍の中に突入した。騎士がこれに続いて進んだ。
    近江軍は悉く逃走した。追撃して多くを斬った。
    将軍は軍中に命じて「兵を興した本意は人民を殺す為ではない。元凶を討つ為である。妄りに殺してはならない」と。

    韓国は一人で軍を離れて逃げた。
    将軍は遥かにそれを見て来目に射させた。
    しかし命中せず、遂に逃げおおせた。

    将軍が本営に帰還すると、東国軍が続々と到着した。
    そこで軍を分け、上中下の道大和三道。奈良盆地を南北に貫く三つの道。に当てて駐屯させた。
    将軍吹負は自ら中道に当った。

    近江の将犬養連五十君は中道を通って村屋(むらや)に留まり、別将廬井造鯨に二百の精兵を率いさせて将軍の陣営を襲わせた。
    この時、麾下の兵は少なく、防ぐことが出来なかった。
    大井寺(おおいでら)(やっこ)で名は徳麻呂ら五人が従軍していた。
    徳麻呂らは先鋒として進んで射かけた。の軍は進軍することが出来なかった。

    この日天武天皇元年7月7日以降。三輪君高市麻呂置始連菟は上道に当り、箸陵(はしのはか)で戦って近江軍を大いに破った。
    勝ちに乗じての軍の後続を立った。
    の軍は散り散りに逃げ、多くの兵士を殺した。
    は白馬に乗って逃げたが、馬は泥田に落ちて進むことが出来なくなった。
    将軍吹負が甲斐の勇者に「白馬に乗っているのは廬井鯨である。急いで追って射よ」と言った。甲斐の勇者は急追した。
    に追い着く頃、は急いで馬を鞭打つと、馬は泥から抜け出て逃げることが出来た。

    将軍はまた本営に帰還して軍を構えた。
    これ以後、近江軍が来ることは無かった。


    これより先、金綱井(かなづなのい)に出陣した時天武天皇元年7月4日高市郡(たけちのこおり)の大領高市県主許梅は口を閉じて物を言わなかった。
    三日後天武天皇元年7月7日に神懸って言うには「吾は高市社(たけちのやしろ)に居る、名は事代主神である。また身狭社(むさのやしろ)に居る、名は生雷神である」と。
    そして神意を表して言うには「神日本磐余彦天皇の陵に馬や様々な武器を奉れ」と。
    また言うには「吾は皇御孫命(すめみまのみこと)大海人皇子を指す。の前後に立って、不破(ふわ)までお送り奉って帰った。今もまた官軍の中に立って守護している」と。
    また言うには「西道から軍勢が来る。慎しむように」と。
    言い終ると醒めた。

    それで急いで許梅を遣わし、御陵を祭り拝ませて馬や武器を奉った。
    また(みてぐら)を捧げて高市・身狭の二社の神を礼い祭った。

    その後、壱伎史韓国が大坂から来襲した。時の人は「二社の神の教えられた言葉はまさにこれであった」と言った。

    また村屋神(はふり)に神懸って「いま吾が社の中道から軍勢が来る。社の中道を防げ」と。
    それで幾日も経たずに廬井造鯨の軍が中道から来襲した。時の人は「神の教えられた言葉はこれであった」と言った。

    戦いが終った後壬申の乱終結後。、将軍たちはこの三神の教えた言葉を奏上した。
    勅して三神の位階。を上げて進めて祀った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬子条】
  • 天武天皇元年7月22日

    将軍吹負(やまと)の地を平定し、大坂を越えて難波に向った。
    他の別将たちも各々三道を進み、山前(やまさき)に至って河の南に駐屯した。
    将軍吹負は難波の小郡(おごおり)に留まり、以西の諸国の国司たちに命じて官鑰(かぎ)駅鈴(すず)伝印(つたいのしるし)を奉らせた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月辛亥条】
  • 天武天皇元年7月24日

    諸将軍たちは莜浪(ささなみ)割注に「莜。此云佐佐」とある。に集結して、の大臣や罪人らを探して捕えた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月癸丑条】
  • 天武天皇元年7月26日

    将軍たちは不破宮に向い、大友皇子の頭を捧げて軍営の前に奉った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月乙卯条】
  • 天武天皇元年8月25日

    高市皇子に命じ、近江の群臣の犯状を宣告させた。
    重罪の八人は極刑にした。
    右大臣中臣連金浅井(あさい)校異:田根(たね)で斬った。

    この日、左大臣蘇我臣赤兄大納言巨勢臣比等及びその子孫・中臣連金の子・蘇我臣果安の子は全て流罪とした。
    これ以外は全て赦した。

    これより先、尾張国司守少子部連鋤鉤は山に隠れて自死した。
    天皇が言うには「鋤鉤は功のある者であったが、罪も無いのにどうして死んでしまったのか。何か隠れた謀があったのだろうか」と。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年八月甲申条】
  • 天武天皇元年8月27日

    功勲ある者に恩勅して寵賞する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年八月丙戌条】
  • 天武天皇元年9月8日

    帰還して伊勢の桑名(くわな)に宿る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年九月丙申条】
  • 天武天皇元年9月9日

    鈴鹿(すずか)に宿る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年九月丁酉条】
  • 天武天皇元年9月10日

    阿閉(あへ)に宿る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年九月戊戌条】
  • 天武天皇元年9月11日

    名張(なばり)に宿る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年九月己亥条】
  • 天武天皇元年9月12日

    倭京(やまとのみやこ)に至り、島宮(しまのみや)に入る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年九月庚子条】
  • 天武天皇元年9月15日

    島宮から岡本宮(おかもとのみや)に移る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年九月癸卯条】
  • 天武天皇元年

    宮室を岡本宮の南に造り、その冬に移り住んだ。これを飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)という。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年九月是歳条】
  • 天武天皇元年11月24日

    新羅の客人金押実らに筑紫で饗応し、各々に物を賜る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年十一月辛亥条】
  • 天武天皇元年12月4日

    功勲ある者を選んで冠位を加増した。小山位以上をそれぞれ賜った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年十二月辛酉条】
  • 天武天皇元年12月15日

    船一隻を新羅の客に賜る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年十二月壬申条】
  • 天武天皇元年12月26日

    金押実らが帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年十二月癸未条】
  • 天武天皇元年12月

    大紫韋那公高見が薨じる。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年十二月是月条】
  • 天武天皇2年1月7日

    群臣の為に酒宴を催す。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年正月癸巳条】
  • 天武天皇2年2月27日

    天皇は有司に命じて壇場を設け、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位した。

    正妃のちの持統天皇。を立てて皇后とした。
    皇后は草壁皇子尊を生んだ。

    これより先、皇后の姉大田皇女の妃とし、生まれたのは
    大来皇女
    大津皇子

    次の妃大江皇女が生んだのは
    長皇子
    弓削皇子

    次の妃新田部皇女が生んだのは
    舎人皇子

    また夫人、藤原大臣の女氷上娘が生んだのは
    但馬皇女

    次の夫人、氷上娘の妹五百重娘が生んだのは
    新田部皇子

    次の夫人、蘇我赤兄大臣の女大蕤娘は一男二女を生んだ。
    其の一は穂積皇子
    其の二は紀皇女
    其の三は田形皇女

    天皇は初め鏡王の女額田姫王を娶り、生まれたのは
    十市皇女

    次に胸形君徳善の女尼子娘を召して生まれたのは
    高市皇子命

    次に完人臣大麻呂の女𣝅媛娘は二男二女を生んだ。
    其の一は忍壁皇子
    其の二は磯城皇子
    其の三は泊瀬部皇女
    其の四は託基皇女

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 天武天皇2年2月29日

    勲功のあった人たちに爵位を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月乙酉条】
  • 天武天皇2年3月17日

    備後の国司が白雉を亀石郡(かめしのこおり)で捕えて貢物とした。そこでその郡の課役を悉く免じ、天下に大赦した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年三月壬寅条】
  • 天武天皇2年3月

    書生を集めて一切経を川原寺(かわらでら)で写させた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年三月是月条】
  • 天武天皇2年4月14日

    大来皇女天照大神宮に立て遣そう伊勢神宮の斎王。と思い、泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)に住まわせた。先に身を清め、次第に神に近づく為である。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年四月己巳条】
  • 天武天皇2年5月1日

    公卿・大夫・諸臣・連・伴造らに詔して「初めて出仕する者は、先ず大舎人に仕えよ。然る後にその才能を選んで適職に当てよ。また婦女は夫の有無や長幼を問うこと無く、出仕しようとする者を聞き入れよ。その選考は官人の例に準ずる」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年五月乙酉朔条】
  • 天武天皇2年5月29日

    大錦上坂本財臣が卒した。壬申年の労により小紫の位を追贈した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年五月癸丑条】
  • 天武天皇2年閏6月6日

    大錦下百済の沙宅昭明が卒した。
    人となりは聡明叡智で秀才と称された。
    天皇は驚き、恩を降して外小紫の位を追贈した。重ねて本国の大佐平の位を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年閏六月庚寅条】