天武天皇

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性別
男性
生年月日
( ~ 天智天皇元年12月29日)
没年月日
(天武天皇元年7月2日 ~ )
  • 舒明天皇じょめいてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 皇極天皇こうぎょくてんのう斉明天皇さいめいてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
先祖
  1. 舒明天皇
    1. 押坂彦人大兄皇子
      1. 敏達天皇
      2. 広姫
    2. 糠手姫皇女
      1. 敏達天皇
      2. 菟名子夫人
  2. 皇極天皇
    1. 茅渟王
      1. 押坂彦人大兄皇子
      2. 大俣王
    2. 吉備姫王
      1. 桜井皇子
      2. unknown
配偶者
出来事
  • 舒明天皇の皇子として生まれる。母は宝皇女後の皇極天皇、重祚して斉明天皇。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 若いころは大海人皇子といった。
    生れつき秀でて立派な姿をしていた。壮年となっては雄々しく武徳があった。天文・遁甲をよく用いた。
    天命開別天皇天智天皇の女菟野皇女を召し入れて正妃とした。
    天命開別天皇元年、東宮に立てられた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀】
  • 天智天皇元年

    東宮に立てられる。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀】
  • 天智天皇3年2月9日

    天皇天智天皇。正しくはこの時まだ即位していない。は大皇弟に命じて、冠位の階名を増やし換え、氏上(このかみ)民部(かきべ)家部(やかべ)などの事を宣布させた。

    その冠は二十六階ある。
    大織小織大縫小縫大紫小紫大錦上大錦中大錦下小錦上小錦中小錦下大山上大山中大山下小山上小山中小山下大乙上大乙中大乙下小乙上小乙中小乙下大建小建
    これが二十六階である。

    以前の花を改めて錦という。
    錦から乙まで六階を加えた。
    以前の初位一階に加え換えて大建小建の二階とした。
    これらが異なったところで、残りは以前のままである。

    大氏の氏上には大刀を賜った。
    小氏の氏上には小刀を賜った。
    伴造らの氏上には干楯・弓矢を賜った。
    またその民部・家部を定めた。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年二月丁亥条】
  • 天智天皇7年1月3日

    中大兄皇子が即位して天皇となる。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年正月戊子条】
  • 天智天皇7年5月5日

    天皇蒲生野(がもうの)で薬猟をした。大皇弟後の天武天皇。・諸王・内臣中臣鎌足。・群臣が悉く従った。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年五月五日条】
  • 天智天皇8年5月5日

    天皇山科野(やましなのの)で薬猟をした。大皇弟・藤原内大臣・群臣が悉く従った。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年五月壬午条】
  • 天智天皇8年10月10日

    天智天皇の命を受けて、中臣鎌足大織冠大臣内大臣。の位を授け、姓を賜り藤原氏とする。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年十月乙卯条】
  • 天智天皇10年1月6日

    東宮太皇弟が詔して東宮太皇弟とは大海皇子を指す。割注に「或る本に云うには、大友皇子が詔したという」とある。冠位・法度の事を施行する。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年正月甲辰条】
  • 天智天皇10年5月5日

    天皇は西の小殿で皇太子・群臣らと宴した。
    ここで田舞(たまい)が二度演じられた。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年五月辛丑条】
  • 天智天皇10年10月17日

    天皇は病臥し重態であった。
    そこで蘇賀臣安麻侶を遣わし、東宮大海皇子。を呼んで大殿に引き入れた。
    安摩侶はもとより東宮に好かれていた。
    密かに東宮を顧みて「注意してご発言なさいませ」と言った。東宮は陰謀があることを疑って慎んだ。

    天皇は東宮に勅して鴻業を授けようとしたが、辞退して言うには「私は不幸にして元から多病です。どうして社稷を保てましょう。願わくは陛下、天下を挙げて皇后に託し、大友皇子を立てて儲君となさりませ。私は今日にも出家し、陛下の為に功徳を修めようと思います」と。
    天皇は許可した。

    即日出家して法服を着た。そして自家の武器の悉くを公に納めた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀 天智天皇即位四年十月庚辰条】
    • 天智天皇10年10月17日

      天皇の病は重くなり、東宮を召して臥内に引き入れた。
      詔して「朕の病は重いので後事はお前に任せる」と云々。
      しかし再拝して病を称して固辞して受けずに「どうか大業は大后にお授け下さい。大友王に諸政をお任せ下さい。私は天皇の為に出家して修行したいと思います」と。
      天皇はこれを許し、東宮は立って再拝した。

      内裏の仏殿の南に向い、胡床に腰かけると剃髪して沙門(ほうし)となった。
      天皇次田生磐を遣わして袈裟を送った。

      【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十月庚辰条】
  • 天智天皇10年10月19日

    吉野宮(よしののみや)に入ることになった。
    この時に左大臣蘇賀赤兄臣右大臣中臣金連大納言蘇賀果安臣らが見送り、菟道で引き返した。

    或る人は「虎に翼を着けて放った」と言った。

    夕方には島宮(しまのみや)に着いた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀 天智天皇即位四年十月壬午条】
    • 天智天皇10年10月19日

      東宮は天皇に「吉野に行って仏道を修行したい」と願うとこれを許された。

      東宮はすぐに吉野に入った。大臣らが菟道(うじ)まで送った。

      【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十月壬午条】
  • 天智天皇10年10月20日

    吉野に着いた。
    この時に諸々の舎人を集めて言うには「私は今から入道して修行する。従って修道したいと思う者は留まるがよい。もし仕えて名を成したい者は帰還して公に仕えよ」と。しかし退く者はいなかった。
    さらに舎人を集めて同じように詔すると、舎人の半数が留まり、半数が退いた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀 天智天皇即位四年十月癸未条】
  • 天智天皇10年12月3日

    天智天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十二月乙丑条】
  • 天武天皇元年3月18日

    内小七位小山位か。小山位はいわゆる大宝律令での七位に相当。阿曇連稲敷を筑紫に遣わして天皇の喪を郭務悰らに告げた。
    郭務悰らは皆喪服を着て、三度挙哀して東に向い稽首した。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年三月己酉条】
  • 天武天皇元年3月21日

    郭務悰らが再拝して書函(ふみばこ)信物(くにつもの)を奉った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年三月壬子条】
  • 天武天皇元年5月12日

    (よろい)(かぶと)・弓矢を郭務悰らに賜った。
    この日に郭務悰らに賜った物は、(ふとぎぬ)一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤であった。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年五月壬寅条】
  • 天武天皇元年5月28日

    高麗が前部富加抃らを遣わして調を進上する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年五月戊午条】
  • 天武天皇元年5月30日

    郭務悰らが帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年五月庚申条】
  • 天武天皇元年5月

    朴井連雄君天皇大海人皇子を指す。に奏上して「私は私事で一人美濃に行きました。時に朝廷は宣美濃・尾張の両国の国司に仰せ言をして『山陵を造る為、予め人夫を差し定めよ』と命じられました。しかし人々に武器を持たせています。私が思うには山陵の為ではないでしょう。必ずや有事となり、もし速やかに避けなければ危うい事がありましょう」と。

    或いはある人が奏上して「近江京(おうみのみやこ)から倭京(やまとのみやこ)に至るまで、所々に監視人を置いています。菟道橋の守衛に命じて。皇大弟の宮の舎人が自分達の食料を運ぶ事さえ禁じています」と。

    天皇は警戒して調べさせ、真実であることを知った。

    詔して「私が位を譲って遁世したのは、病を治して天命を全うしようと思ったからである。しかしやむを得ずして禍を受けようとしている。どうして黙って身を亡ぼせようか」と。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年五月是月条】
  • 天武天皇元年6月22日

    村国連男依和珥部臣君手身毛君広に詔して「聞けば近江朝の群臣は私を殺そうとしている。お前たち三人は速やかに美濃国に行き、安八磨郡(あはちまのこおり)湯沐令(ゆのうながし)多臣品治に機密を告げ、まずその郡の兵を集めよ。そして国司たちに知らせて軍勢を発し、速やかに不破道(ふわのみち)を塞げ。私もすぐ出発する」と。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月壬午条】
  • 天武天皇元年6月24日

    東国に入ろうとした時、一人の臣が奏上して「近江の群臣は元より謀心があります。必ずや国中を偽り、道路は通り難くなるでしょう。どうして兵も無く丸腰で東国に入れましょうか。私は成就しない事を恐れているのです」と。
    天皇はこれに従い、男依らを帰還させようと思った。
    大分君恵尺黄書造大伴逢臣志摩らを留守司高坂王のもとに遣わして駅鈴を求めさせた。
    そして恵尺らに言うには「もし鈴を得られなければ志摩は帰還して報告せよ。恵尺は急いで近江に行って高市皇子大津皇子を呼んで伊勢で合流せよ」と。

    恵尺らは留守司のもとに行き、東宮の命を告げて駅鈴を高坂王に求めたが許されなかった。
    恵尺は近江に行った。
    志摩は帰還し復命して「鈴は得られませんでした」と。

    この日に発途して東国に入った。事は急で駕を待たずに徒歩で出発した。

    思いがけず県犬養連大伴の馬に出会ったのでこれに乗ることにした。皇后は輿に乗って従った。

    津振川(つふりかわ)に至り、はじめて車駕が届いたのでこれに乗った。
    この時に始めから従っていた者は草壁皇子忍壁皇子。及び舎人の朴井連雄君県犬養連大伴佐伯連大目大伴連友国稚桜部臣五百瀬書首根摩呂書直智徳山背直小林山背部小田安斗連智徳調首淡海ら二十余人。女孺十余人であった。

    その日に菟田(うだ)吾城(あき)に着いた。
    大伴連馬来田黄書造大伴は吉野宮から追ってやってきた。
    この時、屯田司の舎人土師連馬手は従者へ食料を提供した。

    甘羅村(かんらのむら)を過ぎ、猟者二十余人があった。大伴朴本連大国が猟者の首領だった。
    悉く召して配下に入れた。

    また美濃王を召した。すると参上して一行に従った。
    湯沐()の米を運ぶ伊勢国の駄馬五十匹と菟田郡家(うだのこおりのみやけ)付近で遭遇した。
    そこで米を全て棄てさせ、徒歩の者を乗らせた。

    大野に至ると日が落ちた。山は暗くて進むことが出来なかった。
    その村の家の(まがき)を壊して火を灯した。

    夜半に隠郡(なばりのこおり)に至った。隠の駅家(うまや)を焼いた。
    村の中に呼びかけて「天皇が東国においでになられる。人夫として従う者は参れ」と言った。しかし一人も来なかった。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月甲申条】
  • 天武天皇元年6月25日六月甲申条の記事中で日付が変わっている。厳密には不明なので、テキトーに区切ってます。

    横河(よこかわ)に至ろうとする時に黒雲が現れた。広さは十余丈で天に渡った。
    天皇は怪しんだ。
    そこで火を灯して自ら(ちく)を持ち、占って言うには「天下が二つに分れる兆しだ。しかし私が遂得天下を得るだろう」と。

    急行して伊賀郡(いがのこおり)に至り、伊賀の駅家を焼いた。
    伊賀の中山に至り、その国の郡司らが数百の軍勢を率いて帰服した。

    夜明けに莿荻野(たらの)に至り、暫く駕を停めて食事をした。

    積殖(つむえ)の山口に至り、高市皇子鹿深(かふか)甲賀。を越えて合流した。

    民直大火赤染造徳足大蔵直広隅坂上直国麻呂古市黒麻呂竹田大徳胆香瓦臣安倍が従っていた。

    大山を越えて伊勢(いせ)鈴鹿(すずか)に至り、国司守(くにのみこともちのかみ)三宅連石床(すけ)三輪君子首、及び湯沐令(ゆのうながし)田中臣足麻呂高田首新家らが鈴鹿郡(すずかのこおり)で出迎えた。
    そこでまた五百の軍勢を集めて鈴鹿の山道を守らせた。

    川曲(かわわ)の坂下に至り、日が暮れた。
    皇后が疲れたので暫く輿を留めて休息した。
    しかし夜に曇って雨が降りそうになったので、あまり休息出来ずに出発した。
    寒くなってきて雷雨が甚だしくなった。従う者は衣裳が濡れて寒さに堪えられなくなってきた。
    三重郡家(みえのこおりのみやけ)に至り、家を一つ焼いて凍える者を温めさせた。

    この夜半、鈴鹿関司(すずかのせきのつかさ)が使いを遣わして言うには「山部王石川王が帰服してきたので関に留めております」と。
    天皇は路直益人を遣わして呼び出した。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月甲申条】
  • 天武天皇元年6月26日

    朝に朝明郡(あさけのこおり)迹太川(とおかわ)のほとりで天照大神を遥拝した。

    この時に益人が到着、奏上して「関に留め置いた者は山部王石川王ではなく、これは大津皇子でした」と。
    即ち益人に従ってやってきた。
    大分君恵尺難波吉士三綱駒田勝忍人山辺君安摩呂小墾田猪手泥部眡枳大分君稚臣根連金身漆部友背らも従ってやってきた。
    天皇は大いに喜んだ。

    郡家に行こうとすると、男依が駅馬に乗って来て「美濃の兵三千人を興して不破道を塞ぐことが出来ました」と奏上した。
    天皇は雄依の功を褒めた。

    郡家に至り、まず高市皇子を不破に遣わして軍事を監督させた。
    山背部小田安斗連阿加布を遣わして東海道の軍を興し、また稚桜部臣五百瀬土師連馬手を遣わして東山道の軍を興した。

    この日、天皇は桑名郡家(くわなのこおりのみやけ)に泊り、進まなかった。

    この時に近江朝は大皇弟が東国に入ったことを聞いた。
    群臣は皆驚き、(みやこ)の内は騒がしかった。
    或る者は逃げて東国に入ろうとした。或る者は退いて山に隠れようとした。

    大友皇子は群臣に「どのようにすべきか」と言った。ある臣が進み出て「悠長に構えては手遅れとなります。急ぎ騎馬隊を集めて後を追うべきです」と言ったが、皇子は従わなかった。

    韋那公磐鍬書直薬忍坂直大摩侶を東国に遣わした。
    穂積臣百足及び弟の百枝物部首日向倭京(やまとのみやこ)飛鳥。に遣わした。
    佐伯連男を筑紫に遣わした。
    樟使主磐手を吉備国に遣わして軍を興させた。

    磐手に言うには「筑紫大宰栗隈王吉備国守(きびのくにのかみ)当摩公広島の二人は元より大皇弟に従うことがあった。反逆の疑いがあろう。もし不服そうな顔をすればすぐに殺せ」と。

    磐手が吉備国に至り(おしてのふみ)を授ける日、広島を欺いて刀を解かせた。磐手はそこで刀を抜いて殺した。

    が筑紫に至り、栗隈王が苻を受ける時に答えて言うには「筑紫国は元より外賊から国境を守っています。城を高く、溝を深くして海に向って守備するのは内賊の為にではありません。命を受けて軍を興せば国防が空となります。もしも思いがけない変事があれば社稷が傾きます。然る後に百度臣を殺しても何の益もありません。どうして敢えて徳に背くことがありましょうか。容易く兵を動かせないのはこのような理由です」と。
    この時に栗隈王の二子である三野王武家王は剣を佩いて側に立ち、退くことは無かった。
    は剣を堅く握って進もうとしたが、かえって殺されることを恐れた。それで事を成せずに空しく帰還した。

    東方駅使磐鍬らが不破(ふわ)に至ろうとする時、磐鍬は山中に兵が潜んでいることを想定して一人遅れてゆっくり進んだ。
    時に伏兵が山から出てきてらの背後を遮った。
    磐鍬らが捕えられたことを知り、反転して逃走してどうにか脱出できた。


    この時に大伴連馬来田・弟の吹負は情勢を知り、病を称して倭の家に退いた。
    そして皇位を継ぐのは、吉野にいる大皇弟であろうと思った。
    馬来田が先に天皇に従った。
    ただし吹負は留まり、名をこの時に立てて災いを転じようと思った。
    そして一人、二人と同族及び豪傑を招いて僅かに数十人を得た。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月丙戌条】
  • 天武天皇元年6月27日

    高市皇子は使いを桑名郡家(くわなのこおりのみやけ)に遣わして言うには「御所から遠くては政を行うには甚だ不便です。近い所においで頂きたい」と。

    その日、天皇は皇后を留めて不破に入った。
    郡家に至る頃、尾張国司守(おわりのくにのみこともちのかみ)小子部連鋤鉤が二万の軍勢を率いて帰属した。
    天皇は誉め、その軍を分けて処々の道を塞いだ。

    野上(のがみ)に至り、高市皇子和蹔(わざみ)より迎えて言うには「昨夜、近江朝から駅使が参りました。伏兵を用いて捕えてみると書直薬忍坂直大麻呂でした。何処へ行くかを問うと、答えて『吉野においでの大皇弟を討つ為、東国の軍を集めに遣わされた韋那公磐鍬の仲間です。しかし磐鍬は伏兵を見て逃げ帰りました』と言いました」と。

    天皇が高市皇子に言うには「その近江朝ではの大臣と智謀に富む群臣が協議するが、朕には共に計画を立てる者はいない。ただ若い子供がいるだけである。どうしたものか」と。
    皇子は腕をまくり、剣を按じて言うには「近江の群臣は多いといえども、どうして天皇の霊威に逆らえましょうか。天皇が独りでいらっしゃっても、臣高市が神祇の霊威を頼り、天皇の命を受け、諸将を率いて征討すれば防ぐことは出来ません」と。
    天皇は誉めて、手を取り背を撫でて「決して怠るなよ」と言った。
    そして鞍馬を賜り、全ての軍事を授けた。
    皇子は和蹔に帰った。

    天皇は行宮を野上に建てて住んだ。
    この夜、雷が鳴り雨がひどく降った。
    天皇が祈って「天神地祇が朕を助ければ。雷雨は止むであろう」と言った。言い終ると雷雨が止んだ。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月丁亥条】
  • 天武天皇元年6月28日

    和蹔に行き、軍事を視察して帰還する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月戊子条】
  • 天武天皇元年6月29日

    天皇は和蹔に行き、高市皇子に命じて軍衆に号令させた。
    天皇はまた野上に帰還した。

    この日、大伴連吹負は留守司坂上直熊毛と相談して、一人二人の漢直(あやのあたい)らに語って「私は偽って高市皇子と名乗り、数十騎を率いて、飛鳥寺の北の道から出て軍営に現れる。その時にお前たちは内応せよ」と。
    そして兵を百済(くだら)の家に揃えて南門から出た。

    まず秦造熊犢鼻褌(ふんどし)姿にして馬に乗せて走らせ、寺の西の軍営の中に「高市皇子が不破から来られた。軍勢が多く従っているぞ」と叫ばせた。
    留守司高坂王と挙兵の使者穂積臣百足らは飛鳥寺の西の槻の下に軍営を構えていた。
    ただし百足だけは小墾田(おはりだ)の武器庫にいて兵を近江に運ぼうとしていた。
    この時に軍営の中の兵はの叫び声を聞いて悉く散り逃げた。

    大伴連吹負は数十騎を率いて現れ、熊毛・諸々の(あたい)らと共に連携し、兵士もまた従った。

    高市皇子の命令と称して穂積臣百足を小墾田の武器庫に呼んだ。
    百足は馬に乗ってゆっくり現れた。
    飛鳥寺の西の槻の下に着いた頃、ある人が「馬から降りろ」と言った。百足はぐずぐずしていた。
    するとその襟を取って引き落し、弓で一矢射た。そして刀を抜いて斬り殺した。
    穂積臣五百枝物部首日向を捕えたが、しばらくすると許して軍中に置いた。
    また高坂王稚狭王を呼んで軍に従わせた。

    大伴連安麻呂坂上直老佐味君宿那麻呂らを不破宮に遣わして状況を報告させた。
    天皇は大喜びして、吹負を将軍に任命した。
    この時に三輪君高市麻呂鴨君蝦夷ら及び諸々の豪傑は響きの声に応じるように将軍の麾下に集まった。
    そして近江を襲うことを計画した。軍の中から英俊を選んで別将副将または別働隊の将。と軍監とした。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月己丑条】
  • 天武天皇元年7月1日

    乃楽(なら)に向かう。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月己丑条】
  • 天武天皇元年7月2日

    天皇は紀臣阿閉麻呂多臣品治三輪君子首置始連菟を遣わし、数万の軍勢を率いて伊勢の大山を越えて倭に向わせた。
    また村国連男依書首根麻呂和珥部臣君手胆香瓦臣安倍を遣わし、数万の軍勢を率いて不破から出て真っ直ぐ近江に入らせた。
    その軍勢と近江軍との判別が難しくなることを恐れて赤色を衣の上に着けた。

    然る後、別に多臣品治に命じ、三千の軍勢を率いて莿荻野(たらの)に駐屯させた。
    田中臣足麻呂を遣わして倉歴道(くらふのみち)を守らせた。

    時に近江方は山部王蘇賀臣果安巨勢臣比等に命じ、数万の軍勢を率いて不破を襲わせようと、犬上川(いぬかみのかわ)の側に軍立ちさせた。
    しかし山部王蘇賀臣果安巨勢臣比等に殺された。
    この乱れにより軍は進めず、蘇賀臣果安は犬上に引き返すと頸を刺して死んだ。

    この時に近江の将軍羽田公矢国とその子大人らは一族を率いて降ってきた。
    それで斧と(まさかり)を授けて将軍に任じ、北の越に入らせた。

    これより先、近江方は精兵を放って玉倉部邑(たまくらべのむら)を急襲した。
    そこで出雲臣狛を遣わして撃退させた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月辛卯条】