天武天皇

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名前
  • 漢風諡号:天武天皇(てんむてんのう, てんむてんわう)
  • 和風諡号:天渟中原瀛眞人天皇【日本書紀】あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと, あぬなはらを, あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと, あまぬなはらを渟中。此云農難)天渟中原瀛真人天皇
  • 天渟中原眞人天皇校異【日本書紀】天渟中原真人天皇
  • 大海皇子【日本書紀】(おおあまのみこ, おほあま)大海皇子
  • 大海人皇子【日本書紀】(おおあまのみこ, おほあま)大海人皇子
  • 淨御原宮御宇天皇【日本書紀】はらやにあしたしししす)浄御原宮御宇天皇
  • 大皇弟【日本書紀】
  • 東宮大皇弟【日本書紀】
  • 瀛眞人天皇【日本書紀】(おきのまひとのすめらみこと, を)瀛真人天皇
  • 淸御原天皇【日本書紀】はら)清御原天皇
  • 淨御原天皇校異【日本書紀】はら)浄御原天皇
性別
男性
生年月日
( ~ 天智天皇元年12月29日)
没年月日
朱鳥元年9月9日
  • 舒明天皇じょめいてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 皇極天皇こうぎょくてんのう斉明天皇さいめいてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
先祖
  1. 舒明天皇
    1. 押坂彦人大兄皇子
      1. 敏達天皇
      2. 広姫
    2. 糠手姫皇女
      1. 敏達天皇
      2. 菟名子夫人
  2. 皇極天皇
    1. 茅渟王
      1. 押坂彦人大兄皇子
      2. 大俣王
    2. 吉備姫王
      1. 桜井皇子
      2. unknown
配偶者
  • 持統天皇じとうてんのう【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 大田皇女おおたのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 大江皇女おおえのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 新田部皇女にいたべのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 氷上娘ひかみのいらつめ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 五百重娘いおえのいらつめ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 太蕤娘おおぬのいらつめ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 額田姫王ぬかたのおおきみ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 尼子娘あまこのいらつめ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 𣝅媛娘かじひめのいらつめ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 草壁皇子尊くさかべのみこのみこと【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:持統天皇じとうてんのう
  • 大来皇女おおくのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:大田皇女おおたのひめみこ
  • 第三子:大津皇子おおつのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:大田皇女おおたのひめみこ
  • 長皇子ながのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:大江皇女おおえのひめみこ
  • 弓削皇子ゆげのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:大江皇女おおえのひめみこ
  • 舎人皇子とねりのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:新田部皇女にいたべのひめみこ
  • 但馬皇女たじまのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:氷上娘ひかみのいらつめ
  • 新田部皇子にいたべのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:五百重娘いおえのいらつめ
  • 穂積皇子ほづみのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:太蕤娘おおぬのいらつめ
  • 紀皇女きのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:太蕤娘おおぬのいらつめ
  • 田形皇女たかたのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:太蕤娘おおぬのいらつめ
  • 十市皇女とおちのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:額田姫王ぬかたのおおきみ
  • 高市皇子命たけちのみこのみこと【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:尼子娘あまこのいらつめ
  • 忍壁皇子おさかべのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:𣝅媛娘かじひめのいらつめ
  • 磯城皇子しきのみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:𣝅媛娘かじひめのいらつめ
  • 泊瀬部皇女はつせべのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:𣝅媛娘かじひめのいらつめ
  • 託基皇女たきのひめみこ【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】【母:𣝅媛娘かじひめのいらつめ
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 第40代天皇てんのう【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
出来事
  • 舒明天皇の皇子として生まれる。母は宝皇女後の皇極天皇、重祚して斉明天皇。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 若いころは大海人皇子といった。
    生れつき秀でて立派な姿をしていた。壮年となっては雄々しく武徳があった。天文・遁甲をよく用いた。
    天命開別天皇天智天皇の女菟野皇女を召し入れて正妃とした。
    天命開別天皇元年、東宮に立てられた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀】
  • 天智天皇元年

    東宮に立てられる。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀】
  • 天智天皇3年2月9日

    天皇天智天皇。正しくはこの時まだ即位していない。は大皇弟に命じて、冠位の階名を増やし換え、氏上民部(かきべ)家部(やかべ)などの事を宣布させた。

    その冠は二十六階ある。
    大織小織大縫小縫大紫小紫大錦上大錦中大錦下小錦上小錦中小錦下大山上大山中大山下小山上小山中小山下大乙上大乙中大乙下小乙上小乙中小乙下大建小建
    これが二十六階である。

    以前の花を改めて錦という。
    錦から乙まで六階を加えた。
    以前の初位一階に加え換えて大建小建の二階とした。
    これらが異なったところで、残りは以前のままである。

    大氏の氏上には大刀を賜った。
    小氏の氏上には小刀を賜った。
    伴造らの氏上には干楯・弓矢を賜った。
    またその民部・家部を定めた。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇三年二月丁亥条】
  • 天智天皇7年1月3日

    中大兄皇子が即位して天皇となる。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年正月戊子条】
  • 天智天皇7年5月5日

    天皇蒲生野(がもうの)で薬猟をした。大皇弟後の天武天皇。・諸王・内臣中臣鎌足。・群臣が悉く従った。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇七年五月五日条】
  • 天智天皇8年5月5日

    天皇山科野(やましなのの)で薬猟をした。大皇弟・藤原内大臣・群臣が悉く従った。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年五月壬午条】
  • 天智天皇8年10月10日

    天智天皇の命を受けて、中臣鎌足大織冠大臣内大臣。の位を授け、姓を賜り藤原氏とする。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇八年十月乙卯条】
  • 天智天皇10年1月6日

    東宮太皇弟が詔して東宮太皇弟とは大海皇子を指す。割注に「或る本に云うには、大友皇子が詔したという」とある。冠位・法度の事を施行する。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年正月甲辰条】
  • 天智天皇10年5月5日

    天皇は西の小殿で皇太子・群臣らと宴した。
    ここで田舞(たまい)が二度演じられた。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年五月辛丑条】
  • 天智天皇10年10月17日

    天皇は病臥し重態であった。
    そこで蘇賀臣安麻侶を遣わし、東宮大海皇子。を呼んで大殿に引き入れた。
    安摩侶はもとより東宮に好かれていた。
    密かに東宮を顧みて「注意してご発言なさいませ」と言った。東宮は陰謀があることを疑って慎んだ。

    天皇は東宮に勅して鴻業を授けようとしたが、辞退して言うには「私は不幸にして元から多病です。どうして社稷を保てましょう。願わくは陛下、天下を挙げて皇后に託し、大友皇子を立てて儲君となさりませ。私は今日にも出家し、陛下の為に功徳を修めようと思います」と。
    天皇は許可した。

    即日出家して法服を着た。そして自家の武器の悉くを公に納めた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀 天智天皇即位四年十月庚辰条】
    • 天智天皇10年10月17日

      天皇の病は重くなり、東宮を召して臥内に引き入れた。
      詔して「朕の病は重いので後事はお前に任せる」と云々。
      しかし再拝して病を称して固辞して受けずに「どうか大業は大后にお授け下さい。大友王に諸政をお任せ下さい。私は天皇の為に出家して修行したいと思います」と。
      天皇はこれを許し、東宮は立って再拝した。

      内裏の仏殿の南に向い、胡床に腰かけると剃髪して沙門(ほうし)となった。
      天皇次田生磐を遣わして袈裟を送った。

      【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十月庚辰条】
  • 天智天皇10年10月19日

    吉野宮(よしののみや)に入ることになった。
    この時に左大臣蘇賀赤兄臣右大臣中臣金連大納言蘇賀果安臣らが見送り、菟道で引き返した。

    或る人は「虎に翼を着けて放った」と言った。

    夕方には島宮(しまのみや)に着いた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀 天智天皇即位四年十月壬午条】
    • 天智天皇10年10月19日

      東宮は天皇に「吉野に行って仏道を修行したい」と願うとこれを許された。

      東宮はすぐに吉野に入った。大臣らが菟道(うじ)まで送った。

      【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十月壬午条】
  • 天智天皇10年10月20日

    吉野に着いた。
    この時に諸々の舎人を集めて言うには「私は今から入道して修行する。従って修道したいと思う者は留まるがよい。もし仕えて名を成したい者は帰還して公に仕えよ」と。しかし退く者はいなかった。
    さらに舎人を集めて同じように詔すると、舎人の半数が留まり、半数が退いた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇即位前紀 天智天皇即位四年十月癸未条】
  • 天智天皇10年12月3日

    天智天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第二十七 天智天皇十年十二月乙丑条】
  • 天武天皇元年3月18日

    内小七位小山位か。小山位はいわゆる大宝律令での七位に相当。阿曇連稲敷を筑紫に遣わして天皇の喪を郭務悰らに告げた。
    郭務悰らは皆喪服を着て、三度挙哀して東に向い稽首した。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年三月己酉条】
  • 天武天皇元年3月21日

    郭務悰らが再拝して書函(ふみばこ)信物(くにつもの)を奉った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年三月壬子条】
  • 天武天皇元年5月12日

    (よろい)(かぶと)・弓矢を郭務悰らに賜った。
    この日に郭務悰らに賜った物は、(ふとぎぬ)一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤であった。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年五月壬寅条】
  • 天武天皇元年5月28日

    高麗が前部富加抃らを遣わして調を進上する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年五月戊午条】
  • 天武天皇元年5月30日

    郭務悰らが帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年五月庚申条】
  • 天武天皇元年5月

    朴井連雄君天皇大海人皇子を指す。に奏上して「私は私事で一人美濃に行きました。時に朝廷は宣美濃・尾張の両国の国司に仰せ言をして『山陵を造る為、予め人夫を差し定めよ』と命じられました。しかし人々に武器を持たせています。私が思うには山陵の為ではないでしょう。必ずや有事となり、もし速やかに避けなければ危うい事がありましょう」と。

    或いはある人が奏上して「近江京(おうみのみやこ)から倭京(やまとのみやこ)に至るまで、所々に監視人を置いています。菟道橋の守衛に命じて。皇大弟の宮の舎人が自分達の食料を運ぶ事さえ禁じています」と。

    天皇は警戒して調べさせ、真実であることを知った。

    詔して「私が位を譲って遁世したのは、病を治して天命を全うしようと思ったからである。しかしやむを得ずして禍を受けようとしている。どうして黙って身を亡ぼせようか」と。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年五月是月条】
  • 天武天皇元年6月22日

    村国連男依和珥部臣君手身毛君広に詔して「聞けば近江朝の群臣は私を殺そうとしている。お前たち三人は速やかに美濃国に行き、安八磨郡(あはちまのこおり)湯沐令(ゆのうながし)多臣品治に機密を告げ、まずその郡の兵を集めよ。そして国司たちに知らせて軍勢を発し、速やかに不破道(ふわのみち)を塞げ。私もすぐ出発する」と。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月壬午条】
  • 天武天皇元年6月24日

    東国に入ろうとした時、一人の臣が奏上して「近江の群臣は元より謀心があります。必ずや国中を偽り、道路は通り難くなるでしょう。どうして兵も無く丸腰で東国に入れましょうか。私は成就しない事を恐れているのです」と。
    天皇はこれに従い、男依らを帰還させようと思った。
    大分君恵尺黄書造大伴逢臣志摩らを留守司高坂王のもとに遣わして駅鈴を求めさせた。
    そして恵尺らに言うには「もし鈴を得られなければ志摩は帰還して報告せよ。恵尺は急いで近江に行って高市皇子大津皇子を呼んで伊勢で合流せよ」と。

    恵尺らは留守司のもとに行き、東宮の命を告げて駅鈴を高坂王に求めたが許されなかった。
    恵尺は近江に行った。
    志摩は帰還し復命して「鈴は得られませんでした」と。

    この日に発途して東国に入った。事は急で駕を待たずに徒歩で出発した。

    思いがけず県犬養連大伴の馬に出会ったのでこれに乗ることにした。皇后は輿に乗って従った。

    津振川(つふりかわ)に至り、はじめて車駕が届いたのでこれに乗った。
    この時に始めから従っていた者は草壁皇子忍壁皇子。及び舎人の朴井連雄君県犬養連大伴佐伯連大目大伴連友国稚桜部臣五百瀬書首根摩呂書直智徳山背直小林山背部小田安斗連智徳調首淡海ら二十余人。女孺十余人であった。

    その日に菟田(うだ)吾城(あき)に着いた。
    大伴連馬来田黄書造大伴は吉野宮から追ってやってきた。
    この時、屯田司の舎人土師連馬手は従者へ食料を提供した。

    甘羅村(かんらのむら)を過ぎ、猟者二十余人があった。大伴朴本連大国が猟者の首領だった。
    悉く召して配下に入れた。

    また美濃王を召した。すると参上して一行に従った。
    湯沐()の米を運ぶ伊勢国の駄馬五十匹と菟田郡家(うだのこおりのみやけ)付近で遭遇した。
    そこで米を全て棄てさせ、徒歩の者を乗らせた。

    大野に至ると日が落ちた。山は暗くて進むことが出来なかった。
    その村の家の(まがき)を壊して火を灯した。

    夜半に隠郡(なばりのこおり)に至った。隠の駅家(うまや)を焼いた。
    村の中に呼びかけて「天皇が東国においでになられる。人夫として従う者は参れ」と言った。しかし一人も来なかった。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月甲申条】
  • 天武天皇元年6月25日六月甲申条の記事中で日付が変わっている。厳密には不明なので、テキトーに区切ってます。

    横河(よこかわ)に至ろうとする時に黒雲が現れた。広さは十余丈で天に渡った。
    天皇は怪しんだ。
    そこで火を灯して自ら(ちく)を持ち、占って言うには「天下が二つに分れる兆しだ。しかし私が遂得天下を得るだろう」と。

    急行して伊賀郡(いがのこおり)に至り、伊賀の駅家を焼いた。
    伊賀の中山に至り、その国の郡司らが数百の軍勢を率いて帰服した。

    夜明けに莿荻野(たらの)に至り、暫く駕を停めて食事をした。

    積殖(つむえ)の山口に至り、高市皇子鹿深(かふか)甲賀。を越えて合流した。

    民直大火赤染造徳足大蔵直広隅坂上直国麻呂古市黒麻呂竹田大徳胆香瓦臣安倍が従っていた。

    大山を越えて伊勢(いせ)鈴鹿(すずか)に至り、国司守(くにのみこともちのかみ)三宅連石床(すけ)三輪君子首、及び湯沐令(ゆのうながし)田中臣足麻呂高田首新家らが鈴鹿郡(すずかのこおり)で出迎えた。
    そこでまた五百の軍勢を集めて鈴鹿の山道を守らせた。

    川曲(かわわ)の坂下に至り、日が暮れた。
    皇后が疲れたので暫く輿を留めて休息した。
    しかし夜に曇って雨が降りそうになったので、あまり休息出来ずに出発した。
    寒くなってきて雷雨が甚だしくなった。従う者は衣裳が濡れて寒さに堪えられなくなってきた。
    三重郡家(みえのこおりのみやけ)に至り、家を一つ焼いて凍える者を温めさせた。

    この夜半、鈴鹿関司(すずかのせきのつかさ)が使いを遣わして言うには「山部王石川王が帰服してきたので関に留めております」と。
    天皇は路直益人を遣わして呼び出した。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月甲申条】
  • 天武天皇元年6月26日

    朝に朝明郡(あさけのこおり)迹太川(とおかわ)のほとりで天照大神を遥拝した。

    この時に益人が到着、奏上して「関に留め置いた者は山部王石川王ではなく、これは大津皇子でした」と。
    即ち益人に従ってやってきた。
    大分君恵尺難波吉士三綱駒田勝忍人山辺君安摩呂小墾田猪手泥部眡枳大分君稚臣根連金身漆部友背らも従ってやってきた。
    天皇は大いに喜んだ。

    郡家に行こうとすると、男依が駅馬に乗って来て「美濃の兵三千人を興して不破道を塞ぐことが出来ました」と奏上した。
    天皇は雄依の功を褒めた。

    郡家に至り、まず高市皇子を不破に遣わして軍事を監督させた。
    山背部小田安斗連阿加布を遣わして東海道の軍を興し、また稚桜部臣五百瀬土師連馬手を遣わして東山道の軍を興した。

    この日、天皇は桑名郡家(くわなのこおりのみやけ)に泊り、進まなかった。

    この時に近江朝は大皇弟が東国に入ったことを聞いた。
    群臣は皆驚き、(みやこ)の内は騒がしかった。
    或る者は逃げて東国に入ろうとした。或る者は退いて山に隠れようとした。

    大友皇子は群臣に「どのようにすべきか」と言った。ある臣が進み出て「悠長に構えては手遅れとなります。急ぎ騎馬隊を集めて後を追うべきです」と言ったが、皇子は従わなかった。

    韋那公磐鍬書直薬忍坂直大摩侶を東国に遣わした。
    穂積臣百足及び弟の百枝物部首日向倭京(やまとのみやこ)飛鳥。に遣わした。
    佐伯連男を筑紫に遣わした。
    樟使主磐手を吉備国に遣わして軍を興させた。

    磐手に言うには「筑紫大宰栗隈王吉備国守(きびのくにのかみ)当摩公広島の二人は元より大皇弟に従うことがあった。反逆の疑いがあろう。もし不服そうな顔をすればすぐに殺せ」と。

    磐手が吉備国に至り(おしてのふみ)を授ける日、広島を欺いて刀を解かせた。磐手はそこで刀を抜いて殺した。

    が筑紫に至り、栗隈王が苻を受ける時に答えて言うには「筑紫国は元より外賊から国境を守っています。城を高く、溝を深くして海に向って守備するのは内賊の為にではありません。命を受けて軍を興せば国防が空となります。もしも思いがけない変事があれば社稷が傾きます。然る後に百度臣を殺しても何の益もありません。どうして敢えて徳に背くことがありましょうか。容易く兵を動かせないのはこのような理由です」と。
    この時に栗隈王の二子である三野王武家王は剣を佩いて側に立ち、退くことは無かった。
    は剣を堅く握って進もうとしたが、かえって殺されることを恐れた。それで事を成せずに空しく帰還した。

    東方駅使磐鍬らが不破(ふわ)に至ろうとする時、磐鍬は山中に兵が潜んでいることを想定して一人遅れてゆっくり進んだ。
    時に伏兵が山から出てきてらの背後を遮った。
    磐鍬らが捕えられたことを知り、反転して逃走してどうにか脱出できた。


    この時に大伴連馬来田・弟の吹負は情勢を知り、病を称して倭の家に退いた。
    そして皇位を継ぐのは、吉野にいる大皇弟であろうと思った。
    馬来田が先に天皇に従った。
    ただし吹負は留まり、名をこの時に立てて災いを転じようと思った。
    そして一人、二人と同族及び豪傑を招いて僅かに数十人を得た。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月丙戌条】
  • 天武天皇元年6月27日

    高市皇子は使いを桑名郡家(くわなのこおりのみやけ)に遣わして言うには「御所から遠くては政を行うには甚だ不便です。近い所においで頂きたい」と。

    その日、天皇は皇后を留めて不破に入った。
    郡家に至る頃、尾張国司守(おわりのくにのみこともちのかみ)小子部連鋤鉤が二万の軍勢を率いて帰属した。
    天皇は誉め、その軍を分けて処々の道を塞いだ。

    野上(のがみ)に至り、高市皇子和蹔(わざみ)より迎えて言うには「昨夜、近江朝から駅使が参りました。伏兵を用いて捕えてみると書直薬忍坂直大麻呂でした。何処へ行くかを問うと、答えて『吉野においでの大皇弟を討つ為、東国の軍を集めに遣わされた韋那公磐鍬の仲間です。しかし磐鍬は伏兵を見て逃げ帰りました』と言いました」と。

    天皇が高市皇子に言うには「その近江朝ではの大臣と智謀に富む群臣が協議するが、朕には共に計画を立てる者はいない。ただ若い子供がいるだけである。どうしたものか」と。
    皇子は腕をまくり、剣を按じて言うには「近江の群臣は多いといえども、どうして天皇の霊威に逆らえましょうか。天皇が独りでいらっしゃっても、臣高市が神祇の霊威を頼り、天皇の命を受け、諸将を率いて征討すれば防ぐことは出来ません」と。
    天皇は誉めて、手を取り背を撫でて「決して怠るなよ」と言った。
    そして鞍馬を賜り、全ての軍事を授けた。
    皇子は和蹔に帰った。

    天皇は行宮を野上に建てて住んだ。
    この夜、雷が鳴り雨がひどく降った。
    天皇が祈って「天神地祇が朕を助ければ。雷雨は止むであろう」と言った。言い終ると雷雨が止んだ。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月丁亥条】
  • 天武天皇元年6月28日

    和蹔に行き、軍事を視察して帰還する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月戊子条】
  • 天武天皇元年6月29日

    天皇は和蹔に行き、高市皇子に命じて軍衆に号令させた。
    天皇はまた野上に帰還した。

    この日、大伴連吹負は留守司坂上直熊毛と相談して、一人二人の漢直(あやのあたい)らに語って「私は偽って高市皇子と名乗り、数十騎を率いて、飛鳥寺の北の道から出て軍営に現れる。その時にお前たちは内応せよ」と。
    そして兵を百済(くだら)の家に揃えて南門から出た。

    まず秦造熊犢鼻褌(ふんどし)姿にして馬に乗せて走らせ、寺の西の軍営の中に「高市皇子が不破から来られた。軍勢が多く従っているぞ」と叫ばせた。
    留守司高坂王と挙兵の使者穂積臣百足らは飛鳥寺の西の槻の下に軍営を構えていた。
    ただし百足だけは小墾田(おはりだ)の武器庫にいて兵を近江に運ぼうとしていた。
    この時に軍営の中の兵はの叫び声を聞いて悉く散り逃げた。

    大伴連吹負は数十騎を率いて現れ、熊毛・諸々の(あたい)らと共に連携し、兵士もまた従った。

    高市皇子の命令と称して穂積臣百足を小墾田の武器庫に呼んだ。
    百足は馬に乗ってゆっくり現れた。
    飛鳥寺の西の槻の下に着いた頃、ある人が「馬から降りろ」と言った。百足はぐずぐずしていた。
    するとその襟を取って引き落し、弓で一矢射た。そして刀を抜いて斬り殺した。
    穂積臣五百枝物部首日向を捕えたが、しばらくすると許して軍中に置いた。
    また高坂王稚狭王を呼んで軍に従わせた。

    大伴連安麻呂坂上直老佐味君宿那麻呂らを不破宮に遣わして状況を報告させた。
    天皇は大喜びして、吹負を将軍に任命した。
    この時に三輪君高市麻呂鴨君蝦夷ら及び諸々の豪傑は響きの声に応じるように将軍の麾下に集まった。
    そして近江を襲うことを計画した。軍の中から英俊を選んで別将副将または別働隊の将。と軍監とした。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月己丑条】
  • 天武天皇元年7月1日

    乃楽(なら)に向かう。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年六月己丑条】
  • 天武天皇元年7月2日

    天皇は紀臣阿閉麻呂多臣品治三輪君子首置始連菟を遣わし、数万の軍勢を率いて伊勢の大山を越えて倭に向わせた。
    また村国連男依書首根麻呂和珥部臣君手胆香瓦臣安倍を遣わし、数万の軍勢を率いて不破から出て真っ直ぐ近江に入らせた。
    その軍勢と近江軍との判別が難しくなることを恐れて赤色を衣の上に着けた。

    然る後、別に多臣品治に命じ、三千の軍勢を率いて莿荻野(たらの)に駐屯させた。
    田中臣足麻呂を遣わして倉歴道(くらふのみち)を守らせた。

    時に近江方は山部王蘇賀臣果安巨勢臣比等に命じ、数万の軍勢を率いて不破を襲わせようと、犬上川(いぬかみのかわ)の側に軍立ちさせた。
    しかし山部王蘇賀臣果安巨勢臣比等に殺された。
    この乱れにより軍は進めず、蘇賀臣果安は犬上に引き返すと頸を刺して死んだ。

    この時に近江の将軍羽田公矢国とその子大人らは一族を率いて降ってきた。
    それで斧と(まさかり)を授けて将軍に任じ、北の越に入らせた。

    これより先、近江方は精兵を放って玉倉部邑(たまくらべのむら)を急襲した。
    そこで出雲臣狛を遣わして撃退させた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月辛卯条】
  • 天武天皇元年7月3日

    将軍吹負乃楽山(ならやま)の上に駐屯した。
    時に荒田尾直赤麻呂は将軍に「古京(ふるきみやこ)飛鳥を指す。は元の拠り所なので固く守らなければなりません」と言った。
    将軍は進言に従い、赤麻呂忌部首子人を遣わして古京を守らせた。
    赤麻呂らは古京に到着すると道路の橋の板を外して楯を作り、京の周辺に立てて守った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬辰条】
  • 天武天皇元年7月4日

    将軍吹負と近江の将大野君果安は乃楽山で戦った。
    果安の為に敗れて軍卒は皆遁走した。将軍吹負は辛くも脱出した。
    果安は追撃して八口(やくち)に至り、高所から(みやこ)を眺めると道ごとに楯が立っていた。伏兵を疑い引き返した。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月癸巳条】
  • 天武天皇元年7月5日

    近江の別将田辺小隅鹿深山(かふかのやま)を越え、幟を巻き鼓を抱いて潜行する様子。倉歴(くらふ)に至った。

    夜半に口木を銜えて城柵を穿ち、にわかに陣営の中に侵入した。
    自軍と足摩侶軍の判別が難しくなることを恐れ、兵ごとに「金」と言わせた。
    刀を抜き、「金」と言わない者をひたすら斬った。
    足摩侶の軍は大いに乱れた。急な事で為す術を知らなかった。
    ただ足摩侶だけが気付き、「金」と言って難を逃れた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月甲子条】
  • 天武天皇元年7月6日

    小隅はさらに進んで、莿荻野(たらの)の陣営を急襲した。
    将軍多臣品治がこれを防ぎ、精兵を以って追撃した。
    小隅は難を逃れたが、以後現れることはなかった。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月乙未条】
  • 天武天皇元年7月7日

    男依らが近江軍と息長(おきなが)横河(よこかわ)で戦って破り、その将境部連薬を斬った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月丙申条】
  • 天武天皇元年7月9日

    男依らが近江の将秦友足鳥籠山(とこのやま)で斬った。

    この日、東道将軍紀臣阿閉麻呂らは、倭京(やまとのみやこ)の将軍大伴連吹負が近江方に敗れたこと聞くと、軍を分け、置始連菟に千余騎を率いさせ倭京に急行させた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月戊戌条】
  • 天武天皇元年7月13日

    男依らが安河(やすかわ)のほとりで戦い大いに破った。社戸臣大口土師連千島を捕えた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬寅条】
  • 天武天皇元年7月17日

    栗太(くるもと)の軍を追討する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月丙午条】
  • 天武天皇元年7月22日

    男依らが瀬田(せた)に至る。

    時に大友皇子は群臣らと共に橋の西に大きな陣営を構えた。その後方が見えない程であった。

    旗旘(はた)は野を隠し、埃塵(ちり)は天に連なった。
    鉦鼓(かねつづみ)の音は数十里先まで聞こえ、弩の列からは雨のように矢が乱発された。
    その将智尊は精兵を率いて先鋒として防いだ。
    そして橋の中を三丈ばかり切断して長板を置き、もしも板を踏んで渡ろうとする者あれば板を引いて落そうとした。
    こにより進撃出来ずにいた。

    有勇な士がいて大分君稚臣といった。
    長矛を棄てて(よろい)を重ね着すると、刀を抜いて急いで板を踏んで渡った。
    そして板に繋がった綱を斬り、矢を受けながら陣に突入した。

    軍勢は乱れて逃走した。
    将軍智尊は刀を抜き、退く者を斬ったが止めることは出来なかった。
    智尊は橋の側で斬られた。

    大友皇子の大臣らは辛うじて身を免れて逃げた。

    男依らは粟津岡(あわづのおか)の下に軍を置いた。

    この日、羽田公矢国出雲臣狛が連合して共に三尾城(みおのき)を攻めて降した。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月辛亥条】
  • 天武天皇元年7月23日

    男依らは近江の将犬養連五十君谷直塩手粟津市(あわづのいち)で斬った。

    大友皇子は逃げ入る所が無くなり、引き返して山前(やまさき)に隠れて自ら首を縊った。
    この時にの大臣と群臣は皆散り逃げたが、物部連麻呂と一人二人の舎人だけが従った。


    はじめ、将軍吹負乃楽(なら)に向って稗田(ひえだ)に至った日天武天皇元年7月4日の敗戦から逆算して天武天皇元年7月1日。乃楽に向けて出発した当日ということになる。、ある人が「河内(かわち)から多くの軍勢がやって来ます」と言った。
    そこで坂本臣財長尾直真墨倉墻直麻呂民直小鮪谷直根麻呂を遣わし、三百人の兵士を率いて竜田(たつた)を防がせた。
    佐味君少麻呂を遣わし、数百人を率いて大坂(おおさか)に駐屯させた。
    鴨君蝦夷を遣わし、数百人を率いて石手道(いわてのみち)を守らせた。

    この日天武天皇元年7月1日坂本臣財らは平石野(ひらしのの)に宿ったが、近江軍が高安城(たかやすのき)にいることを聞いて出発した。
    近江軍はらが来ることを知り、全ての税倉(ちからくら)を焼いて皆散り逃げた。それで城の中に宿った。

    明け方日が変って天武天皇元年7月2日。に西方を見てみると、大津(おおつ)丹比(たじひ)の両道から多くの軍勢と旗が見えた。
    ある人が「近江の将壱伎史韓国の軍である」と言った。
    らは高安城から下って衛我河(えがのかわ)を渡り、韓国と河の西で戦った。
    らは兵が少なくて防ぐことが出来なかった。

    これより先、紀臣大音を遣わして懼坂道(かしこのさかのみち)を守らせていた。

    らは懼坂に退いて大音の陣営に入った。
    この時、河内国司守来目臣塩籠不破宮(ふわのみや)大海人皇子のいる野上の行宮。に帰順する心があって軍を集めていた。
    ここに韓国がやって来て、密かにその謀を聞いて塩籠を殺そうとした。
    塩籠は事が漏れた事を知り自ら死んだ。

    一日を経て天武天皇元年7月4日。天武天皇元年7月2日から中一日。、近江軍が諸道に多く配された為、戦うことが出来ずに退却した。


    この日天武天皇元年7月4日、将軍吹負は近江に敗れ、一人二人の騎兵を率いて逃げた。
    墨坂(すみさか)に至り、たまたまの軍と遭遇した。
    さらに退き、金綱井(かなづなのい)に駐屯して散り散りになった兵を集めた。

    近江軍が大坂道からやって来ると聞き、将軍は軍を引いて西に向った。以下、後述される三日後の神懸かりの話から判断して天武天皇元年7月7日以降。

    当麻に至り、壱伎史韓国の軍と葦池(あしいけ)の側で戦った。
    時に勇士来目という者があり、刀を抜いて真っ直ぐに軍の中に突入した。騎士がこれに続いて進んだ。
    近江軍は悉く逃走した。追撃して多くを斬った。
    将軍は軍中に命じて「兵を興した本意は人民を殺す為ではない。元凶を討つ為である。妄りに殺してはならない」と。

    韓国は一人で軍を離れて逃げた。
    将軍は遥かにそれを見て来目に射させた。
    しかし命中せず、遂に逃げおおせた。

    将軍が本営に帰還すると、東国軍が続々と到着した。
    そこで軍を分け、上中下の道大和三道。奈良盆地を南北に貫く三つの道。に当てて駐屯させた。
    将軍吹負は自ら中道に当った。

    近江の将犬養連五十君は中道を通って村屋(むらや)に留まり、別将廬井造鯨に二百の精兵を率いさせて将軍の陣営を襲わせた。
    この時、麾下の兵は少なく、防ぐことが出来なかった。
    大井寺(おおいでら)(やっこ)で名は徳麻呂ら五人が従軍していた。
    徳麻呂らは先鋒として進んで射かけた。の軍は進軍することが出来なかった。

    この日天武天皇元年7月7日以降。三輪君高市麻呂置始連菟は上道に当り、箸陵(はしのはか)で戦って近江軍を大いに破った。
    勝ちに乗じての軍の後続を立った。
    の軍は散り散りに逃げ、多くの兵士を殺した。
    は白馬に乗って逃げたが、馬は泥田に落ちて進むことが出来なくなった。
    将軍吹負が甲斐の勇者に「白馬に乗っているのは廬井鯨である。急いで追って射よ」と言った。甲斐の勇者は急追した。
    に追い着く頃、は急いで馬を鞭打つと、馬は泥から抜け出て逃げることが出来た。

    将軍はまた本営に帰還して軍を構えた。
    これ以後、近江軍が来ることは無かった。


    これより先、金綱井(かなづなのい)に出陣した時天武天皇元年7月4日高市郡(たけちのこおり)の大領高市県主許梅は口を閉じて物を言わなかった。
    三日後天武天皇元年7月7日に神懸って言うには「吾は高市社(たけちのやしろ)に居る、名は事代主神である。また身狭社(むさのやしろ)に居る、名は生雷神である」と。
    そして神意を表して言うには「神日本磐余彦天皇の陵に馬や様々な武器を奉れ」と。
    また言うには「吾は皇御孫命(すめみまのみこと)大海人皇子を指す。の前後に立って、不破(ふわ)までお送り奉って帰った。今もまた官軍の中に立って守護している」と。
    また言うには「西道から軍勢が来る。慎しむように」と。
    言い終ると醒めた。

    それで急いで許梅を遣わし、御陵を祭り拝ませて馬や武器を奉った。
    また(みてぐら)を捧げて高市・身狭の二社の神を礼い祭った。

    その後、壱伎史韓国が大坂から来襲した。時の人は「二社の神の教えられた言葉はまさにこれであった」と言った。

    また村屋神(はふり)に神懸って「いま吾が社の中道から軍勢が来る。社の中道を防げ」と。
    それで幾日も経たずに廬井造鯨の軍が中道から来襲した。時の人は「神の教えられた言葉はこれであった」と言った。

    戦いが終った後壬申の乱終結後。、将軍たちはこの三神の教えた言葉を奏上した。
    勅して三神の位階。を上げて進めて祀った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月壬子条】
  • 天武天皇元年7月22日

    将軍吹負(やまと)の地を平定し、大坂を越えて難波に向った。
    他の別将たちも各々三道を進み、山前(やまさき)に至って河の南に駐屯した。
    将軍吹負は難波の小郡(おごおり)に留まり、以西の諸国の国司たちに命じて官鑰(かぎ)駅鈴(すず)伝印(つたいのしるし)を奉らせた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月辛亥条】
  • 天武天皇元年7月24日

    諸将軍たちは莜浪(ささなみ)割注に「莜。此云佐佐」とある。に集結して、の大臣や罪人らを探して捕えた。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月癸丑条】
  • 天武天皇元年7月26日

    将軍たちは不破宮に向い、大友皇子の頭を捧げて軍営の前に奉った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年七月乙卯条】
  • 天武天皇元年8月25日

    高市皇子に命じ、近江の群臣の犯状を宣告させた。
    重罪の八人は極刑にした。
    右大臣中臣連金浅井(あさい)校異:田根(たね)で斬った。

    この日、左大臣蘇我臣赤兄大納言巨勢臣比等及びその子孫・中臣連金の子・蘇我臣果安の子は全て流罪とした。
    これ以外は全て赦した。

    これより先、尾張国司守少子部連鋤鉤は山に隠れて自死した。
    天皇が言うには「鋤鉤は功のある者であったが、罪も無いのにどうして死んでしまったのか。何か隠れた謀があったのだろうか」と。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年八月甲申条】
  • 天武天皇元年8月27日

    功勲ある者に恩勅して寵賞する。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年八月丙戌条】
  • 天武天皇元年9月8日

    帰還して伊勢の桑名(くわな)に宿る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年九月丙申条】
  • 天武天皇元年9月9日

    鈴鹿(すずか)に宿る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年九月丁酉条】
  • 天武天皇元年9月10日

    阿閉(あへ)に宿る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年九月戊戌条】
  • 天武天皇元年9月11日

    名張(なばり)に宿る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年九月己亥条】
  • 天武天皇元年9月12日

    倭京(やまとのみやこ)に至り、島宮(しまのみや)に入る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年九月庚子条】
  • 天武天皇元年9月15日

    島宮から岡本宮(おかもとのみや)に移る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年九月癸卯条】
  • 天武天皇元年

    宮室を岡本宮の南に造り、その冬に移り住んだ。これを飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)という。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年九月是歳条】
  • 天武天皇元年11月24日

    新羅の客人金押実らに筑紫で饗応し、各々に物を賜る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年十一月辛亥条】
  • 天武天皇元年12月4日

    功勲ある者を選んで冠位を加増した。小山位以上をそれぞれ賜った。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年十二月辛酉条】
  • 天武天皇元年12月15日

    船一隻を新羅の客に賜る。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年十二月壬申条】
  • 天武天皇元年12月26日

    金押実らが帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年十二月癸未条】
  • 天武天皇元年12月

    大紫韋那公高見が薨じる。

    【日本書紀 巻第二十八 天武天皇元年十二月是月条】
  • 天武天皇2年1月7日

    群臣の為に酒宴を催す。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年正月癸巳条】
  • 天武天皇2年2月27日

    天皇は有司に命じて壇場を設け、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位した。

    正妃のちの持統天皇。を立てて皇后とした。
    皇后は草壁皇子尊を生んだ。

    これより先、皇后の姉大田皇女の妃とし、生まれたのは
    大来皇女
    大津皇子

    次の妃大江皇女が生んだのは
    長皇子
    弓削皇子

    次の妃新田部皇女が生んだのは
    舎人皇子

    また夫人、藤原大臣の女氷上娘が生んだのは
    但馬皇女

    次の夫人、氷上娘の妹五百重娘が生んだのは
    新田部皇子

    次の夫人、蘇我赤兄大臣の女大蕤娘は一男二女を生んだ。
    其の一は穂積皇子
    其の二は紀皇女
    其の三は田形皇女

    天皇は初め鏡王の女額田姫王を娶り、生まれたのは
    十市皇女

    次に胸形君徳善の女尼子娘を召して生まれたのは
    高市皇子命

    次に完人臣大麻呂の女𣝅媛娘は二男二女を生んだ。
    其の一は忍壁皇子
    其の二は磯城皇子
    其の三は泊瀬部皇女
    其の四は託基皇女

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月癸未条】
  • 天武天皇2年2月29日

    勲功のあった人たちに爵位を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年二月乙酉条】
  • 天武天皇2年3月17日

    備後の国司が白雉を亀石郡(かめしのこおり)で捕えて貢物とした。そこでその郡の課役を悉く免じ、天下に大赦した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年三月壬寅条】
  • 天武天皇2年3月

    書生を集めて一切経を川原寺(かわらでら)で写させた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年三月是月条】
  • 天武天皇2年4月14日

    大来皇女天照大神宮に立て遣そう伊勢神宮の斎王。と思い、泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)に住まわせた。先に身を清め、次第に神に近づく為である。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年四月己巳条】
  • 天武天皇2年5月1日

    公卿・大夫・諸臣・連・伴造らに詔して「初めて出仕する者は、先ず大舎人に仕えよ。然る後にその才能を選んで適職に当てよ。また婦女は夫の有無や長幼を問うこと無く、出仕しようとする者を聞き入れよ。その選考は官人の例に準ずる」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年五月乙酉朔条】
  • 天武天皇2年5月29日

    大錦上坂本財臣が卒した。壬申年の労により小紫の位を追贈した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年五月癸丑条】
  • 天武天皇2年閏6月6日

    大錦下百済の沙宅昭明が卒した。
    人となりは聡明叡智で秀才と称された。
    天皇は驚き、恩を降して外小紫の位を追贈した。重ねて本国の大佐平の位を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年閏六月庚寅条】
  • 天武天皇2年閏6月8日

    耽羅が王子久麻芸都羅宇麻らを遣わして朝貢する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年閏六月壬辰条】
  • 天武天皇2年閏6月15日

    新羅が即位を祝賀する為に韓阿飡金承元阿飡金祇山大舎霜雪らを遣わした。
    あわせて一吉飡金薩儒韓奈末金池山らを遣わして先皇の喪を弔った割注に「あるいは調使という」とある。
    その送使貴干宝真毛承元薩儒を筑紫に送った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年閏六月己亥条】
  • 天武天皇2年閏6月24日

    貴干宝らに筑紫で饗応し、各々に禄を賜った。そして筑紫から帰国した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年閏六月戊申条】
  • 天武天皇2年8月9日

    伊賀国にいる紀臣阿閉麻呂らに壬申年の勲労の状を詔して寵賞する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年八月壬辰条】
  • 天武天皇2年8月20日

    高麗が上部(しょうほう)位頭大兄耶子前部(ぜんほう)大兄碩干らを遣わして朝貢してきた。
    新羅は韓奈末金利益を遣わして高麗の使人を筑紫まで送った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年八月癸卯条】
  • 天武天皇2年8月25日

    祝賀の使者金承元ら中客以上二十七人を(みやこ)に呼んだ。大宰に命じて耽羅の使人に詔して「天皇は天下を平定して初めて即位したので、祝賀の使者以外はお召しにならない。これはお前たちも見ているであろう。この頃は寒波がやってきている。久しく留めてしまえばお前たちが困ろう。速やかに帰国するように」と。
    そして本国にいる王と使者久麻芸らに爵位を賜った。その位は大乙上である。さらに錦繍で飾り、その国の佐平の位に相当した。
    筑紫から帰国した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年八月戊申条】
  • 天武天皇2年9月28日

    金承元らに難波で饗応し、種々の歌舞が奏された。各々に物を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年九月庚辰条】
  • 天武天皇2年11月1日

    金承元が帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年十一月壬子朔条】
  • 天武天皇2年11月21日

    高麗の耶子・新羅の薩儒らに筑紫の大郡(おおごおり)で饗応し、各々に禄を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年十一月壬申条】
  • 天武天皇2年12月5日

    大嘗に奉仕した中臣・忌部、及び神官の人ら、播磨・丹波の二国の郡司以下の人夫ら全てに禄を賜った。
    そして郡司らにはそれぞれ爵一級を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年十二月丙戌条】
  • 天武天皇2年12月17日

    小紫美濃王小錦下紀臣訶多麻呂高市大寺(たけちのおおでら)割注に「今の大官大寺がこれである」とある。の造司に任じた。
    時に知事(ちじ)寺の管理職。の僧福林が老いを理由に知事を辞したが許されなかった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年十二月戊戌条】
  • 天武天皇2年12月27日

    義成小僧都(しょうそうず)に任じた。
    この日、さらに佐官の二僧を加えた。その四人の佐官あることはこの時より始まる。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇二年十二月戊申条】
  • 天武天皇3年1月10日

    百済王昌成が薨じる。小紫の位を追贈する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇三年正月庚申条】
  • 天武天皇3年2月28日

    紀臣阿閉麻呂が卒する。
    天皇は大いに悲しみ、壬申年の役の労により大紫の位を追贈した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇三年二月戊申条】
  • 天武天皇3年3月7日

    対馬国司守忍海造大国が言うには「初めて銀がこの国から出たので献上致します」と。
    これにより大国小錦下の位を授けた。
    銀が倭国から出たのは、この時が初めてである。それで全ての神祇に奉り、また小錦以上の大夫たちに賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇三年三月丙辰条】
  • 天武天皇3年8月3日

    忍壁皇子を石上神宮に遣わして膏油(こうゆ)で神宝を磨かせた。
    この日に勅して「元来諸家の神府に貯めた宝物は、いま皆その子孫に返すように」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇三年八月庚辰条】
  • 天武天皇3年10月9日

    大来皇女が泊瀬斎宮から伊勢神宮に向う。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇三年十月乙酉条】
  • 天武天皇4年1月1日

    大学寮(ふむやつかさ)の諸学生・陰陽寮(おんようのつかさ)外薬寮(とのくすりのつかさ)、及び舎衛(しゃえ)の女・堕羅(たら)の女・百済王善光・新羅の仕丁(つかいのよほろ)らが薬や珍しい物などを捧げて奉った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年正月丙午朔条】
  • 天武天皇4年1月2日

    皇子以下、百寮の諸人が拝朝する賀正の礼。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年正月丁未条】
  • 天武天皇4年1月3日

    百寮の諸人の初位以上が(みかまき)を奉る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年正月戊申条】
  • 天武天皇4年1月5日

    はじめて占星台を建てる。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年正月庚戌条】
  • 天武天皇4年1月7日

    群臣に朝廷で宴を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年正月壬子条】
  • 天武天皇4年1月17日

    公卿大夫及び百寮の諸人の初位以上が西門の庭で射礼を行った。
    この日、大倭(やまと)国から瑞鶏が献上された。東国から白鷹が献上された。近江国から白鵄が献上された。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年正月壬戌条】
  • 天武天皇4年1月23日

    諸社に(みてぐら)を奉る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年正月戊辰条】
  • 天武天皇4年2月9日

    大倭(やまと)・河内・摂津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狭・伊勢・美濃・尾張らの国に勅して「国内の人民で歌のうまい男女及び侏儒(ひきひと)伎人(わざひと)を選んで推挙せよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年二月癸未条】
  • 天武天皇4年2月9日

    十市皇女阿閉皇女が伊勢神宮に参拝する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年二月癸未条】
  • 天武天皇4年2月15日

    詔して甲子年天智天皇三年を指す。に諸氏に賜った部曲は今後やめよ。また親王・諸王及び諸臣、併せて諸々の寺に賜った山沢(やまさわ)島浦(しまうら)林野(はやしの)陂池(いけ)は前も後も大化の改新の前後に賜ったものか。やめよ。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年二月己丑条】
  • 天武天皇4年2月19日

    詔して「群臣・百寮及び天下の人民は悪事を行うことがないようにせよ。もし犯す者があれば、事に従って罰する」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年二月癸巳条】
  • 天武天皇4年2月23日

    高安城(たかやすのき)に行幸する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年二月丁酉条】
  • 天武天皇4年2月

    新羅が王子忠元大監(だいけん)級飡金比蘇・大監奈末金天沖第監(だいけん)大麻誤記と思われる。大奈麻・大舎を指す説などがあるようだが保留。朴武麻・第監大舎金洛水らが調を進上した。
    その送使奈末金風那奈末金孝福は、王子忠元を筑紫まで送ってきた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年二月是月条】
  • 天武天皇4年3月2日

    土左大神(とさのおおかみ)今の土佐神社。から神刀一口が天皇に進上される。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年三月丙午条】
  • 天武天皇4年3月14日

    金風那らが筑紫で饗応を受け、筑紫から帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年三月戊午条】
  • 天武天皇4年3月16日

    諸王四位栗隈王を兵政官長とし、小錦上大伴連御行を大輔とする。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年三月庚申条】
  • 天武天皇4年3月

    高麗が大兄富干大兄多武らを遣わして朝貢する。
    新羅が級飡朴勤脩大奈末金美賀が調を進上する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年三月是月条】
  • 天武天皇4年4月5日

    僧尼二千四百余人を召して大いに斎会を催す。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年四月戊寅条】
  • 天武天皇4年4月8日

    勅して「小錦上当摩公広麻呂小錦下久努臣麻呂の二人は参朝してはならない」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年四月辛巳条】
  • 天武天皇4年4月9日

    詔して「諸国の貸税は、今後人民をよく観察して、先ずは貧富を知り、三等に選んで定めよ。そして中戸以下に貸与するようにせよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年四月壬午条】
  • 天武天皇4年4月10日

    小紫美濃王小錦下佐伯連広足を遣して、風神を竜田(たつた)立野(たつの)に祀らせた。
    小錦中間人連大蓋大山中曽禰連韓犬を遣わして、大忌神を広瀬の河曲に祭らせた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年四月癸未条】
  • 天武天皇4年4月14日

    小錦下久努臣麻呂は詔使に従わなかったので官位の全てを奪われた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年四月丁亥条】
  • 天武天皇4年4月17日

    諸国に詔して「今後、漁業や狩猟をする者は、檻や落し穴を造ったり、仕掛け槍などを使ってはならない。また四月の朔日から九月三十日までは、隙間原文「比満沙伎理」の狭い梁を置いてはならない。また牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食べてはならない。これ以外は禁令ではない。もし犯す者あれば罪とする」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年四月庚寅条】
  • 天武天皇4年4月18日

    三位麻続王に罪があって因播に流された。一人の子が伊豆島(いずのしま)に流された。一人の子は血鹿島(ちかのしま)に流された。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年四月辛卯条】
  • 天武天皇4年4月23日

    種々の才芸のある者を選んで禄を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年四月丙申条】
  • 天武天皇4年4月

    新羅の王子忠元が難波に至る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年四月是月条】
  • 天武天皇4年6月23日

    大分君恵尺が病にかかって死期が迫った。
    天皇は大いに驚いて詔して「恵尺よ。お前は自分を捨てて公に向い、身命を惜しまなかった。雄々しい心を持って大戦壬申の乱。で戦功を立てた。常にお前のことを思っていたが、お前がもし死んでしまっても子孫を厚く賞する」と。
    そして外小紫の位に上げた。
    数日も経たずに自宅で薨じた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年六月乙未条】
  • 天武天皇4年7月7日

    小錦上大伴連国麻呂を大使とし、小錦下三宅吉士入石を副使として新羅に遣わした。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年七月己酉条】
  • 天武天皇4年8月1日

    耽羅の調使、王子久麻伎が筑紫に至る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年八月壬申朔条】
  • 天武天皇4年8月22日

    大風が砂を巻き上げて家を壊した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年八月癸巳条】
  • 天武天皇4年8月25日

    忠元が拝礼を終え、難波から船で帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年八月丙申条】
  • 天武天皇4年8月28日

    新羅・高麗の二国の調使に筑紫で饗応した。それぞれに禄を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年八月己亥条】
  • 天武天皇4年9月27日

    耽羅王姑如が難波に至る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年九月戊辰条】
  • 天武天皇4年10月3日

    四方に使いを遣わして一切経を求める。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年十月癸酉条】
  • 天武天皇4年10月10日

    群臣の為に酒宴を催す。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年十月庚辰条】
  • 天武天皇4年10月16日

    筑紫より唐人三十人を奉ったので遠江国に住まわせた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年十月丙戌条】
  • 天武天皇4年10月20日

    詔して「諸王以下、初位以上は各人武器を備えよ」と。

    この日、相摸国が言うには「高倉郡(たかくらのこおり)の女人が三つ子の男子を生みました」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年十月庚寅条】
  • 天武天皇4年11月3日

    ある人が宮の東の丘に登り、妖言(およずれごと)して自ら首を刎ねて死んだ。
    この夜に当直していた者すべてに爵一級を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年十一月癸卯条】
  • 天武天皇4年11月

    大地震があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇四年十一月是月条】
  • 天武天皇5年1月1日

    群臣・百寮が拝朝する賀正の礼。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年正月庚子朔条】
  • 天武天皇5年1月4日

    高市皇子以下、小錦以上の大夫たちに衣・袴・褶・腰帯・脚帯・机・杖を賜った。ただし小錦の三階には机は賜らなかった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年正月癸卯条】
  • 天武天皇5年1月7日

    小錦以上の大夫たちにそれぞれ禄物を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年正月丙午条】
  • 天武天皇5年1月15日

    百寮初位以上が薪を奉った。

    この日、朝廷に全員を集めて宴を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年正月甲寅条】
  • 天武天皇5年1月16日

    禄を置いて西門に庭で射礼を行った。的に当てた者には禄物を賜った。

    この日、天皇は島宮(しまのみや)で宴会を催した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年正月乙卯条】
  • 天武天皇5年1月25日

    詔して「国司を任せる際には、畿内及び陸奥・長門の国を除き、みな大山位の人を任ぜよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年正月甲子条】
  • 天武天皇5年2月24日

    耽羅の客に船一艘を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年二月癸巳条】
  • 天武天皇5年2月

    大伴連国麻呂らが新羅から帰国する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年二月是月条】
  • 天武天皇5年4月4日

    竜田の風神・広瀬の大忌神を祭った。

    倭国の添下郡(そうのしものこおり)鰐積吉事が瑞鶏を献上した。その(とさか)海石榴(つばき)の花のようだった。

    この日、倭国の飽波郡(あくなみのこおり)が言うには「雌鶏が雄になりました」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年四月辛丑条】
  • 天武天皇5年4月14日

    勅して「諸王・諸臣が給わった封戸の税は、以西の国をやめ、以東の国に給うように変えよ。また畿外の人で仕えたい思う者があれば、臣・連・伴造の子・国造の子は許すようにせよ。ただしそれ以下の庶人は才能に長けた者のみ許すようにせよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年四月辛亥条】
  • 天武天皇5年4月22日

    美濃国司に詔して「礪杵郡(ときのこおり)にいる紀臣阿佐麻呂の子を東国に遷し、その国の人民とせよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年四月己未条】
  • 天武天皇5年5月3日

    調の期限を過ぎた国司などの犯状を云々と宣べた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年五月庚午条】
  • 天武天皇5年5月7日

    下野国司が「国内の人民が凶年により飢え、子を売ろうとしております」と奏上したが許さなかった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年五月甲戌条】
  • 天武天皇5年5月

    勅して「南淵山(みなぶちやま)細川山(ほそかわやま)の草木を切ることを禁ずる。また畿内の山野の元より禁じられた所は勝手に切ったり焼いたりしてはならない」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年五月是月条】
  • 天武天皇5年6月

    四位栗隈王が病で薨じた。

    物部雄君連が急病を発して卒した。
    天皇は大いに驚き、その壬申年に車駕に従って東国に入った大功があるので、恩を降して内大紫の位を追贈した。そして氏上(うじのこのかみ)を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年六月条】
  • 天武天皇5年(7月 ~ 9月)

    この夏は大旱だった。
    使いを四方に遣わして幣帛(みてぐら)を捧げて諸神に祈らせた。
    また諸々の僧尼を招いて三宝に祈らせた。しかし雨は降らなかった。
    これにより五穀は実らず、人民は飢えた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年是夏条】
  • 天武天皇5年7月2日

    卿大夫及び百寮の人たちの爵位を進め、それぞれに禄を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年七月戊辰条】
  • 天武天皇5年7月8日

    耽羅の客が帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年七月甲戌条】
  • 天武天皇5年7月16日

    竜田の風神と広瀬の大忌神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年七月壬午条】
  • 天武天皇5年7月

    村国連雄依が卒する。壬申年の功により外小紫の位を追贈する。

    星が東に出た。長さ七、八尺であった。九月になって天に渡った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年七月是月条】
  • 天武天皇5年8月2日

    親王以下、小錦以上の大夫、及び皇女・姫王、内命婦(ひめまえつきみ)たちに食封を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年八月丁酉条】
  • 天武天皇5年8月16日

    詔して「四方で大解除(おおはらえ)をしよう。備える物は国ごとに国造が馬一匹・布一常。これ以外は郡司が各刀一口・鹿皮一張・(くわ)一口・刀子(かたな)一口・鎌一口・矢一具・稲一束。また戸ごとに麻一条とする」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年八月辛亥条】
  • 天武天皇5年8月17日

    詔して「死刑・没官・三つの流罪遠流・中流・近流。はいずれも一級下げる。徒罪以下は既に発覚したもの未発覚のもの全て赦免せよ。ただし既に配流された者はこの限りではない」と。

    この日、諸国に詔して放生させた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年八月壬子条】
  • 天武天皇5年8月

    大三輪真上田子人君が卒した。
    天皇は大いに哀しみ、壬申年の功により内小紫の位を追贈した。そして謚して大三輪神真上田迎君という。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年八月是月条】
  • 天武天皇5年9月1日

    雨のため告朔(ついたちもうし)を行わなかった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年九月丙寅朔条】
  • 天武天皇5年9月10日

    王卿を京・畿内に遣わして、人ごとに武器を調べさせた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年九月乙亥条】
  • 天武天皇5年9月12日

    筑紫大宰三位屋垣王に罪があり、土左に流した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年九月丁丑条】
  • 天武天皇5年9月13日

    百寮の人・諸蕃の人たちに禄を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年九月戊寅条】
  • 天武天皇5年9月21日

    神官が奏上して「新嘗の為に国郡を占いました。斎忌(ゆき)割注に「齋忌。此云踰旣」とある。は尾張国の山田郡(やまだのこおり)(すき)割注に「次。此云須岐也」とある。は丹波国の訶沙郡(かさあのこおり)となりました」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年九月丙戌条】
  • 天武天皇5年9月

    坂田公雷が卒する。壬申年の功により大紫の位を追贈する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年九月是月条】
  • 天武天皇5年10月1日

    群臣の為に酒宴を催す。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年十月乙未朔条】
  • 天武天皇5年10月3日

    新嘗に祀る神祇に幤帛を捧げる。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年十月丁酉条】
  • 天武天皇5年10月10日

    大乙上物部連麻呂を大使、大乙中山背直百足を小使として新羅に遣わす。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年十月甲辰条】
  • 天武天皇5年11月1日

    新嘗の為に告朔を行わなかった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年十一月乙丑朔条】
  • 天武天皇5年11月3日

    新羅が沙飡金清平を遣わして政を報告し、併せて汲飡金好儒弟監(だいけん)大舎金欽吉らを遣わして調を進上した。
    その送使奈末被珍那・副使奈末好福清平らを筑紫に送った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年十一月丁卯条】
  • 天武天皇5年11月

    粛慎(みしはせ)の七人が清平らに従ってきた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年十一月是月条】
  • 天武天皇5年11月19日

    詔して(みやこ)に近い諸国に放生させた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年十一月癸未条】
  • 天武天皇5年11月20日

    四方の国に使いを遣わして金光明経(こんこうみょうぎょう)仁王経(におうぎょう)を説かせた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年十一月甲申条】
  • 天武天皇5年11月23日

    高麗が大使後部(こうほう)主博阿于・副使前部(ぜんほう)大兄徳富を遣わして朝貢した。
    新羅は大奈末金楊原を遣わして高麗の使人を筑紫に送った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年十一月丁亥条】
  • 天武天皇5年

    新城(にいき)に都を造ろうとした。限内の田園は公私を問わず全く耕されなかったので荒廃した。しかし遂に都が造られることはなかった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇五年是年条】
  • 天武天皇6年1月17日

    南門で射礼を行った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年正月庚辰条】
  • 天武天皇6年2月1日

    物部連麻呂が新羅から帰る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年二月癸巳朔条】
  • 天武天皇6年2月

    多禰島(たねのしま)の人々に飛鳥寺の西の槻の下で饗応する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年二月是月条】
  • 天武天皇6年3月19日

    新羅の使人清平と、それ以下の客十三人を京に召す。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年三月辛巳条】
  • 天武天皇6年4月11日

    杙田史名倉が天皇を非難したとして伊豆島に流される。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年四月壬寅条】
  • 天武天皇6年4月14日

    送使珍那らに筑紫で饗応した。珍那らは筑紫から帰国した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年四月乙巳条】
  • 天武天皇6年5月1日

    告朔(ついたちもうし)を行わなかった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年五月壬戌朔条】
  • 天武天皇6年5月3日

    勅して大博士百済人率母大山下の位を授け、食封三十戸を賜った。

    この日、倭画師音檮小山下の位を授け、食封二十戸を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年五月甲子条】
  • 天武天皇6年5月7日

    新羅人阿飡朴刺破・従者三人・僧三人が血鹿島(ちかのしま)に漂着する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年五月戊辰条】
  • 天武天皇6年5月28日

    勅して「天社地社の神税は三つに分けよ。一つを神に供え、二つを神主に分け与えよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年五月己丑条】
  • 天武天皇6年5月

    旱魃があり、京や畿内で雨乞いをした。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年五月是月条】
  • 天武天皇6年6月14日

    大地震があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年六月乙巳条】
  • 天武天皇6年6月

    東漢直(やまとのあやのあたい)らに詔して「お前たち一族は七つの良からぬことを犯した。小墾田の御世から近江朝に至るまで常にお前たちは謀事を為した。今朕の世に当り、お前たちの良からぬ行いを責めて罪とする。しかし漢直の氏を絶やそうとは思わない。そこで大恩を降して許そうと思う。今後もし罪を犯せば許すことはない」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年六月是月条】
  • 天武天皇6年7月3日

    竜田風神(たつたのかぜのかみ)広瀬大忌神(ひろせのおおいみのかみ)を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年七月癸亥条】
  • 天武天皇6年8月15日

    飛鳥寺で大設斎をして一切経を読ませた。
    天皇は寺の南門で三宝仏・法・僧。を礼した。
    この時に親王・諸王及び群卿に詔して、それぞれの家ごとに一人出家することを許した。
    その出家者は男女・長幼を問わず、皆願いに従って得度させ、大斎に参会させた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年八月乙巳条】
  • 天武天皇6年8月27日

    金清平が帰国した。漂着した朴刺破らを清平らにつけて本土に返した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年八月丁巳条】
  • 天武天皇6年8月28日

    耽羅が王子都羅を遣わして朝貢した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年八月戊午条】
  • 天武天皇6年9月30日

    詔して「本貫に送られた浮浪人が元の地に戻れば、本貫と浮浪地の両方の課役を科すように」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年九月己丑条】
  • 天武天皇6年10月14日

    内小錦上河辺臣百枝民部卿(かきべのかみ)とする。
    内大錦下丹比公麻呂摂津職大夫(つのつかさのかみ)とする。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年十月癸卯条】
  • 天武天皇6年11月1日

    雨により告朔を行わなかった。

    筑紫大宰が赤鳥を献上した。
    大宰府の諸々の司人にそれぞれ禄を賜り、また赤鳥を捕えた者には爵五級を賜った。
    その郡の郡司らには爵位を加増した。
    郡内の人民には一年分の課役を免じた。

    この日、天下に大赦した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年十一月己未朔条】
  • 天武天皇6年11月21日

    新嘗を行う。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年十一月己卯条】
  • 天武天皇6年11月23日

    百寮の有位の人々に飯を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年十一月辛巳条】
  • 天武天皇6年11月27日

    新嘗に奉仕した神官及び国司たちに禄を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年十一月乙酉条】
  • 天武天皇6年12月1日

    雪により告朔を行わなかった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇六年十二月己丑朔条】
  • 天武天皇7年1月17日

    南門で射礼を行った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇七年正月甲戌条】
  • 天武天皇7年1月22日

    耽羅人が(みやこ)に来た。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇七年正月己卯条】
  • 天武天皇7年(1月 ~ 3月)

    天神地祇を祀るため、全国で祓禊(おおみはらえ)を行った。
    斎宮を倉梯(くらはし)河の河上に建てた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇七年是春条】
  • 天武天皇7年4月1日

    斎宮に行幸しようと思い、吉日を占うと癸巳天武天皇7年4月7日と出た。
    それで平旦(とら)の刻午前四時の前後二時間頃。に先払いを出発させた。
    百寮が列をなし、乗輿に蓋をして出発しようとした時に十市皇女が急病を発し宮中で薨じた。
    これにより行列は停止し行幸はとりやめた。神祇を祭りもなくなった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇七年四月丁亥朔条】
  • 天武天皇7年4月13日

    新宮の西庁の柱に雷が落ちた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇七年四月己亥条】
  • 天武天皇7年4月14日

    十市皇女赤穂(あかほ)に葬った。
    天皇は葬儀に臨み、恩を降して発哀した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇七年四月庚子条】
  • 天武天皇7年9月

    忍海造能麻呂が瑞稲を五茎献上した。茎ごとに枝があった。
    これにより徒罪以下はすべて許された。

    三位稚狭王が薨じた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇七年九月条】
  • 天武天皇7年10月1日

    綿のような物が難波に降った。長さは五、六尺。広さは七、八寸だった。
    そして風に乗って松林や葦原に翻った。
    時の人は「甘露だ」と言った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇七年十月甲申朔条】
  • 天武天皇7年10月26日

    詔して「内外の文武官は、毎年(ふひと)以上の属官の人たちの中で、公平で恪勤な者について優劣を議って進むべき階を定めよ。正月上旬以前に詳しく記して法官に送り、法官は調べて大弁官に申し送るようにせよ。公事で使いを出す日に、病気や父母の喪以外に軽々しく小事によって辞すれば階を進める例には当らない」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇七年十月己酉条】
  • 天武天皇7年12月27日

    臘子鳥(あとり)が天を覆って西南より東北に飛んだ。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇七年十二月己卯条】
  • 天武天皇7年12月

    筑紫国で大地震があった。地が裂けること広さ二丈、長さ三千余丈だった。人民の家屋は村ごとに多く倒壊した。

    とある岡の上にある一家があった。
    地震があった夕方に岡が崩れて場所が移動した。しかし家は全く壊れることは無かった。
    家に人は岡が崩れて家が移動したことに気付かず、翌朝に知って大いに驚いた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇七年十二月是月条】
  • 天武天皇7年

    新羅の送使奈末加良井山奈末金紅世が筑紫に到着して言うには「新羅王級飡金消勿大奈末金世世らを遣わして当年の調を献上する為に臣井山を遣わし、消勿らを送らせました。しかし海上で暴風に遭い、消勿らは皆散り散りになってしまいました。ただ井山は何とか岸に辿り着いたのです」と。
    遂に消勿らが来ることはなかった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇七年是年条】
  • 天武天皇8年1月5日

    新羅の送使加良井山金紅世らが(みやこ)に向かう。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年正月丙戌条】
  • 天武天皇8年1月7日

    詔して「正月の節会に当り、諸王・諸臣及び百寮は、兄姉以上の親族及び己の氏長(うじのこのかみ)を除いて。これ以外を拝礼してはならない。その諸王は母といえども(おおきみ)親王を除き五世孫までを王という。の姓でなければ拝礼してはならない。諸臣は卑しい母自分より身分の低い母。を拝礼してはならない。正月の節会でなくともこれに準ずる。もし犯す者があれば、事に従って罪とする」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年正月戊子条】
  • 天武天皇8年1月18日

    西門で射礼を行った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年正月己亥条】
  • 天武天皇8年2月1日

    高麗が上部(しょうほう)大相桓父下部(かほう)大相師需婁らを遣わして朝貢した。
    よって新羅は奈末甘勿那を遣わして桓父らを筑紫に送った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年二月壬子朔条】
  • 天武天皇8年2月3日

    紀臣堅麻呂が卒する。壬申年の功により大錦上の位を追贈する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年二月甲寅条】
  • 天武天皇8年2月4日

    詔して「辛巳年天武天皇十年。に親王・諸臣及び百寮の武器及び馬を検査する。予め準備せよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年二月乙卯条】
  • 天武天皇8年2月

    大恩を降して貧者を恵んだ。飢えや寒さに苦しむ者に物を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年二月是月条】
  • 天武天皇8年3月6日

    兵衛(とねり)大分君稚見が死んだ。壬申年の大役に当り、先鋒となって瀬田の軍営を破った。この功により外小錦上の位を追贈した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年三月丙戌条】
  • 天武天皇8年3月7日

    越智に行幸して後岡本天皇斉明天皇の陵を参拝した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年三月丁亥条】
  • 天武天皇8年3月9日

    吉備大宰石川王が病により吉備で薨じた。
    天皇は大いに哀しみ、大恩を降して云々。諸王二位を追贈した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年三月己丑条】
  • 天武天皇8年3月22日

    貧しい僧尼に(ふとぎぬ)・綿・布を施す。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年三月壬寅条】
  • 天武天皇8年4月5日

    詔して「食封ある寺の由緒を調べ、加えるべきは加え、止めるべきは止めよ」と。

    この日、諸寺の名を定めた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年四月乙卯条】
  • 天武天皇8年4月9日

    広瀬・竜田の神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年四月己未条】
  • 天武天皇8年5月5日

    吉野宮に行幸する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年五月甲申条】
  • 天武天皇8年5月6日

    天皇は皇后及び草壁皇子尊大津皇子高市皇子河島皇子忍壁皇子芝基皇子に詔して「朕は今日お前たちと共に朝廷で誓い、千年の後まで無事であって欲しいと思うがどうか」と。
    皇子たちは共に「ごもっともでございます」と答えた。

    そして草壁皇子尊が先ず進んで誓って「天神地祇及び天皇よ、明らかにしたまえ。我々兄弟長幼あわせて十余の王は、それぞれ異なる腹より出ております。しかし同異を分けず、共に天皇の勅に従います。互いに助け合い、反目することは無いでしょう。もし今後この誓いに背く者があれば、身を亡ぼし、子孫は絶えることでしょう。決して忘れず、誤りません」と。

    五皇子も次々に誓った。

    その後に天皇が言うには「朕の男子たちはそれぞれ異なる腹から生まれている。しかし皆同じ母から産まれているかのようで愛おしい」と。
    そして衣の襟を開いてその六皇子を抱いた。
    そして誓って言うには「もしこの誓いを違えれば、たちまち朕の身は亡ぶであろう」と。

    皇后の誓いもまた天皇と同じであった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年五月乙酉条】
  • 天武天皇8年5月7日

    還幸する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年五月丙戌条】
  • 天武天皇8年5月10日

    六皇子が共に大殿の前で天皇に拝礼する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年五月己丑条】
  • 天武天皇8年6月1日

    雹が降った。大きさは桃の実のようであった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年六月庚戌朔条】
  • 天武天皇8年6月23日

    雨乞をいする。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年六月壬申条】
  • 天武天皇8年6月26日

    大錦上大伴杜屋連が卒する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年六月乙亥条】
  • 天武天皇8年7月6日

    雨乞をいする。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年七月甲申条】
  • 天武天皇8年7月14日

    広瀬・竜田の神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年七月壬辰条】
  • 天武天皇8年7月17日

    四位葛城王が卒する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年七月乙未条】
  • 天武天皇8年8月1日

    詔して「諸氏は女人をたてまつれ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年八月己酉朔条】
  • 天武天皇8年8月11日

    泊瀬(はつせ)に行幸して、迹驚淵(とどろきのふち)のそばで宴会をした。

    これより先、王卿に詔して「乗馬以外にさらに良馬を用意して、いつでも召し出せるようにせよ」と。

    泊瀬から還幸した日、群卿が用意した良馬を迹見(とみ)の駅家の路頭で観覧した。皆走らせてみた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年八月己未条】
  • 天武天皇8年8月22日

    縵造忍勝嘉禾(よきいね)を献上した。畝が異なるのに穂先が一つになっていた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年八月庚午条】
  • 天武天皇8年8月25日

    大宅王薨じる「薨」ではなく「卒」とする写本あり。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年八月癸酉条】
  • 天武天皇8年9月16日

    新羅に遣わした使人らが帰国して拝朝した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年九月癸巳条】
  • 天武天皇8年9月23日

    高麗に遣わした使人、耽羅に遣わした使人らが帰国して共に拝朝した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年九月庚子条】
  • 天武天皇8年10月2日

    詔して「聞くところによると、最近暴悪の者が里に多くあるという。これは王卿たちの過ちである。暴悪の者があると聞いても煩わしさから治めようとせず、悪人を見ても怠り隠して正そうとしない。見聞きしたことを糺弾してたら暴悪な者も現れなくなるであろう。今後は煩い怠ることなく、上は下の過ちを責め、下は上の粗暴を諫めれば国家は治まる」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年十月己酉条】
  • 天武天皇8年10月11日

    地震があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年十月戊午条】
  • 天武天皇8年10月13日

    勅して僧・尼の威儀及び法服の色、あわせて馬・従者の村里の往来のきまりを定めた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年十月庚申条】
  • 天武天皇8年10月17日

    新羅が阿飡金項那沙飡薩虆生を遣わして朝貢した。
    調物は金・銀・鉄・鼎・錦・絹・布・皮・馬・狗・騾・駱駝の類十余種。
    また別に献物があった。
    天皇皇后太子にも金・銀・刀・旗の類をそれぞれ献上した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年十月甲子条】
  • 天武天皇8年10月

    勅して「諸々の僧尼は常に寺内にいて三宝を護っている。しかし或いは老い、或いは病を患いながらも狭い僧房に寝ていてる。長らく老疾に苦しむ者は動くのも不便で浄地が穢れてしまう。今後は各親族及び篤信の者を就けて、一つ二つの舎屋を空いた土地に立て、老人は身を養い、病人は薬を服するようにせよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年十月是月条】
  • 天武天皇8年11月14日

    地震があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年十一月庚寅条】
  • 天武天皇8年11月23日

    大乙下倭馬飼部造連を大使とし、小乙下上村主光父を小使として多禰島に遣わした。なお爵一級を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年十一月己亥条】
  • 天武天皇8年11月

    はじめて関を竜田山と大坂山に置き、難波に羅城(らじょう)四方を囲む城壁。を築いた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年十一月是月条】
  • 天武天皇8年12月2日

    嘉禾(よきいね)により同年八月庚午条に見える。、親王・諸王・諸臣及び百官の人々に禄物を賜り、死罪以下の全てを赦免した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年十二月戊申条】
  • 天武天皇8年

    紀伊国の伊刀郡(いとのこおり)芝草(しそう)万年茸。霊芝。皇極天皇三年三月条にも芝草の記事がある。を献上した。その形は茸に似ていた。茎の長さは一尺、その(かさ)二囲(ふたいだき)であった。
    また因播国が瑞稲を献上した。茎ごとに枝があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇八年是年条】
  • 天武天皇9年1月8日

    向小殿(むかいのこあんどの)にやってきて、王卿に大殿の庭で宴を賜る。

    この日、忌部首首(かばね)を賜って連という。
    その弟の色弗と共に喜びの言葉を申し上げた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年正月甲申条】
  • 天武天皇9年1月17日

    親王以下、小建に至るまでが南門で射礼を行った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年正月癸巳条】
  • 天武天皇9年1月20日

    摂津国が言うには「活田村(いくたのむら)で桃や李が実をつけました」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年正月丙申条】
  • 天武天皇9年2月18日

    鼓のような音が東方から聞こえた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年二月癸亥条】
  • 天武天皇9年2月26日

    ある人が言うには「鹿の角を葛城山で得ました。その角は本は二枝ですが末は合って肉がついてます。肉の上には毛があります。毛の長さは一寸。不思議ですので献上します」と。
    (りん)の角であろうか。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年二月辛未条】
  • 天武天皇9年2月27日

    新羅の仕丁八人が本土に帰った。恩を垂れて禄物を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年二月壬申条】
  • 天武天皇9年3月10日

    摂津国が白巫鳥(しろしとと)割注に「巫鳥。此云芝苔苔」とある。を献上した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年三月乙酉条】
  • 天武天皇9年3月23日

    菟田の吾城(あき)に行幸する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年三月戊戌条】
  • 天武天皇9年4月10日

    広瀬・竜田の神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年四月甲寅条】
  • 天武天皇9年4月11日

    橘寺の尼房で失火して十房を焼いた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年四月乙卯条】
  • 天武天皇9年4月25日

    新羅の使人項那らに筑紫で饗応して禄物を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年四月己巳条】
  • 天武天皇9年4月

    勅して「諸寺は、今後は国の大寺二つ三つを除き、それ以外は官司が治めることをやめる。ただしその食封ある者は今後三十年までを限りとする。思うに飛鳥寺は司が治めるべきではない。しかし元より大寺として官司が常に治めてきた。またかつての功がある。これにより官が治める例に入れる」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年四月是月条】
  • 天武天皇9年5月1日

    勅して(ふとぎぬ)・綿・糸・布を(みやこ)の内の二十四寺に施した。

    この日、はじめて金光明経(こんこうみょうきょう)を宮中及び諸寺に説かせた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年五月乙亥朔条】
  • 天武天皇9年5月13日

    高麗が南部(なんほう)大使卯問西部(さいほう)大兄俊徳らを遣わして朝貢した。
    よって新羅が大奈末考那を遣わして、高麗の使人卯問らを筑紫に送ってきた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年五月丁亥条】
  • 天武天皇9年5月21日

    大錦下秦造綱手が卒する。壬申年の功により大錦上の位を追贈する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年五月乙未条】
  • 天武天皇9年5月27日

    小錦中星川臣摩呂が卒する。壬申年の功により大紫の位を追贈する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年五月辛丑条】
  • 天武天皇9年6月5日

    新羅の客人項那らが帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年六月戊申条】
  • 天武天皇9年6月8日

    灰が降った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年六月辛亥条】
  • 天武天皇9年6月14日

    雷電が甚だ多かった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年六月丁巳条】
  • 天武天皇9年7月1日

    飛鳥寺の西の槻の枝が自然と折れて落ちた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年七月甲戌朔条】
  • 天武天皇9年7月5日

    犬養連大伴の家に行幸して病を見舞った。そして大恩を降して云々。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年七月戊寅条】
  • 天武天皇9年7月5日

    雨乞いをした。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年七月戊寅是日条】
  • 天武天皇9年7月8日

    広瀬・竜田の神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年七月辛巳条】
  • 天武天皇9年7月10日

    朱雀(あかすずめ)が南門で見られた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年七月癸未条】
  • 天武天皇9年7月17日

    朴井連子麻呂小錦下の位を授ける。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年七月庚寅条】
  • 天武天皇9年7月20日

    飛鳥寺の僧弘聴が死んだ。大津皇子高市皇子を遣わして弔った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年七月癸巳条】
  • 天武天皇9年7月23日

    小錦下三宅連石床が卒する。壬申年功により大錦下の位を追贈する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年七月丙申条】
  • 天武天皇9年8月5日

    法官の者が嘉禾(よきいね)を献上する。

    この日から三日間雨が降り大水が出た。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年八月丁未条】
  • 天武天皇9年8月14日

    大風が吹いて木が折れ、家を壊した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年八月丙辰条】
  • 天武天皇9年9月9日

    朝嬬(あさづま)に行幸する。
    大山位以下の馬を長柄杜(ながらのもり)で観覧し、騎射をさせた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年九月辛巳条】
  • 天武天皇9年9月23日

    地震があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年九月乙未条】
  • 天武天皇9年9月27日

    桑内王が自宅で卒する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年九月己亥条】
  • 天武天皇9年10月4日

    (みやこ)の諸寺の貧しい僧尼及び人民に食料を与えた。
    僧尼一人ごとに各絁四匹・綿四屯・布六端。
    沙弥(しゃみ)と俗人には各絁二疋・綿二屯・布四端。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年十月乙巳条】
  • 天武天皇9年11月1日

    日蝕があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年十一月壬申朔条】
  • 天武天皇9年11月3日

    戌の刻から子の刻まで東方が明るかった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年十一月甲戌条】
  • 天武天皇9年11月4日

    高麗人十九人が本土に帰った。これは後岡本天皇の喪の弔使として留まり帰国していなかった者である。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年十一月乙亥条】
  • 天武天皇9年11月7日

    百官に詔して「もし国家に利となり人民を豊かにする術があれば、朝廷に参って自ら申せ。詞が理に合えば立てて法とする」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年十一月戊寅条】
  • 天武天皇9年11月10日

    西方で雷があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年十一月辛巳条】
  • 天武天皇9年11月12日

    皇后が病にかかった。
    皇后の為に誓願して初めて薬師寺を建てた。そして百人を得度させた。これにより平癒した。

    この日、罪人を赦免した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年十一月癸未条】
  • 天武天皇9年11月16日

    月蝕があった。

    草壁皇子を遣わして僧恵妙の病を見舞わせた。
    翌日、僧恵妙は死んだ。三皇子誰を指すのか不明。を遣わして弔わせた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年十一月丁亥条】
  • 天武天皇9年11月24日

    新羅が沙飡金若弼大奈末金原升を遣わして進調した。
    習言者(ことならいひと)三人が若弼に従ってきた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年十一月乙未条】
  • 天武天皇9年11月24日

    天皇が病気になったので百人の僧を得度させた。しばらくして病は癒えた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年十一月乙未条】
  • 天武天皇9年11月30日

    臘子鳥(あとり)が天を覆って東南から西北に飛んでいった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇九年十一月辛丑条】
  • 天武天皇10年1月2日

    幣帛を諸々の神祇に奉納した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年正月壬申条】
  • 天武天皇10年1月3日

    百寮の諸人が拝朝した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年正月癸酉条】
  • 天武天皇10年1月7日

    天皇が向小殿(むかいのこあんどの)宴を催した節会。

    この日、親王・諸王を内安殿(うちのあんどの)に引き入れ、諸臣は外安殿(とのあんどの)で侍らせた。共に置酒して歌舞を楽しんだ。

    大山上草香部吉士大形小錦下の位を授け、姓を賜って難波連(なにわのむらじ)といった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年正月丁丑条】
  • 天武天皇10年1月11日

    勅して境部連石積に食封六十戸を与え、因以給絁三十疋・錦百五十屯・布百五十端・钁一百口を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年正月辛巳条】
  • 天武天皇10年1月17日

    親王以下小建以上が朝廷で射礼を行った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年正月丁亥条】
  • 天武天皇10年1月19日

    畿内及び諸国に詔して天社・地社の社殿を修理させた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年正月己丑条】
  • 天武天皇10年2月25日

    天皇・皇后は共に大極殿に居た。
    親王を呼び、諸王及び諸臣に詔して「朕は今、律令を定め、法式を改めたいと思う。共にこの事に取り組んでほしい。しかしこれだけに務めてしまえば公事を欠いてしまう。人を分けて行うように」と。

    この日、草壁皇子尊を立てて皇太子とした。そして万機を委ねた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年二月甲子条】
  • 天武天皇10年2月29日

    阿倍夫人が薨じる。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年二月戊辰条】
  • 天武天皇10年2月30日

    小紫位当摩公豊浜が薨じる。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年二月己巳条】
  • 天武天皇10年3月4日

    阿倍夫人を葬る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年三月癸酉条】
  • 天武天皇10年3月17日

    天皇が大極殿にて川島皇子忍壁皇子広瀬王竹田王桑田王三野王大錦下上毛野君三千小錦中忌部連首小錦下阿曇連稲敷難波連大形大山上中臣連大島大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めさせた。
    大島子首は自ら筆を執って記した。
    大島子首は自ら筆を執って記した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年三月丙戌条】
  • 天武天皇10年3月21日

    地震があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年三月庚寅条】
  • 天武天皇10年3月25日

    天皇は新宮の井のそばで試しに鼓・笛の音を出して練習した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年三月甲午条】
  • 天武天皇10年4月2日

    広瀬・竜田の神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年四月庚子条】
  • 天武天皇10年4月3日

    禁式(いさめののり)九十二条を立てた。そして詔して「親王以下庶民に至るまで、金・銀・珠玉・紫・錦・繍・綾、及び氈褥(おりかものとこしき)毛織の敷物。・冠・帯、様々な物を身分に合わせて用いよ」と。
    詳しい内容は詔書にある。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年四月辛丑条】
  • 天武天皇10年4月12日

    錦織造小分田井直吉摩呂次田倉人椹足石勝川内直県忍海造鏡荒田能麻呂大狛造百枝足坏倭直竜麻呂門部直大島完人造老山背狛烏賊麻呂、あわせて十四人に連の姓を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年四月庚戌条】
  • 天武天皇10年4月17日

    高麗の客人卯問らに筑紫で饗応した。それぞれ禄物を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年四月乙卯条】
  • 天武天皇10年5月11日

    皇祖の御魂を祭った。

    この日、詔して「百寮の諸人は宮廷の女官に礼を尽くしすぎる。或いはその家まで行って自分の訴えを取り次いでもらい、或いは贈物を持ってその家に媚びへつらう。今後もしこのような者があれば共に罪とする。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年五月己卯条】
  • 天武天皇10年5月26日

    高麗の卯問が帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年五月甲午条】
  • 天武天皇10年6月5日

    新羅の客人若弼らに築紫で饗応した。それぞれ禄物を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年六月癸卯条】
  • 天武天皇10年6月17日

    雨乞いする。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年六月乙卯条】
  • 天武天皇10年6月24日

    地震があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年六月壬戌条】
  • 天武天皇10年7月1日

    朱雀(あかすずめ)が現れた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年七月戊辰朔条】
  • 天武天皇10年7月4日

    小錦下采女臣竹羅を大使とし、当麻公楯を小使として新羅国に遣わした。

    この日、小錦下佐伯連広足を大使とし、小墾田臣麻呂を小使として高麗国に遣わした。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年七月辛未条】
  • 天武天皇10年7月10日

    広瀬・竜田の神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年七月丁丑条】
  • 天武天皇10年7月30日

    天下に号令して、ことごとくに大解除(おおはらえ)させた。
    この時に当り、国造たちはそれぞれ祓柱(はらえつもの)として奴婢一口を差し出した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年七月丁酉条】
  • 天武天皇10年7月15日

    皇后が誓願して大きな斎会を開き、経を京内の諸寺に説かせた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年七月壬子条】
  • 天武天皇10年8月11日

    大錦下上毛野君三千が卒する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年八月丁丑条】
  • 天武天皇10年8月10日

    三韓の諸人に詔して「以前に十年の調・税を免除することとした。またこれに加えて帰化した年に共に来た子孫の課役を全て免除する」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年八月丙子条】
  • 天武天皇10年8月16日

    伊勢国が白茅鵄(しろいいどよ)白いフクロウ。を献上する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年八月壬午条】
  • 天武天皇10年8月20日

    多禰島が使人らを遣わして多禰の国図を献上した。
    その国は(みやこ)を去ること五千余里、筑紫の南の海中にある。髪を切って草の裳をつける。
    粳稲は常に豊かで、一度植えて二度収穫する。
    特産物は支子(くちなし)莞子(かま)、及び様々な海産物など多数。

    この日、若弼が帰途に就いた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年八月丙戌条】
  • 天武天皇10年9月3日

    高麗・新羅が使人らを遣わして共に拝朝した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年九月己亥条】
  • 天武天皇10年9月5日

    周芳国が赤亀を献上した。それで島宮(しまのみや)の池に放った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年九月辛丑条】
  • 天武天皇10年9月8日

    「諸氏で氏上が未だ定まっていないのであれば、各々氏上を定めて理官に申し遅るようにせよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年九月甲辰条】
  • 天武天皇10年9月14日

    多禰島の人々に飛鳥寺の西の河辺に饗応した。様々な舞楽を奏した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年九月庚戌条】
  • 天武天皇10年9月16日

    彗星が見えた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年九月壬子条】
  • 天武天皇10年9月17日

    熒惑(けいごく)火星が月に入った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年九月癸丑条】
  • 天武天皇10年10月1日

    曰蝕があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年十月丙寅朔条】
  • 天武天皇10年10月18日

    地震があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年十月癸未条】
  • 天武天皇10年10月20日

    新羅が沙喙(さとく)一吉飡金忠平大奈末金壱世を遣わして調を献上した。
    金・銀・銅・鉄・錦・絹・鹿皮・細布の類がそれぞれ数多くあった。
    別に天皇・皇后太子に献上した。金・銀・霞錦・幡・皮の類がそれぞれ数多くあった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年十月乙酉条】
  • 天武天皇10年10月25日

    詔して「大山位以下。小建以上の人たちは各々意見を述べよ国政についての上申。」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年十月庚寅条】
  • 天武天皇10年10月

    天皇は広瀬野(ひろせの)で検見しようとして、行宮を造り終えて準備は整った。
    しかし天皇は行幸しなかった。
    親王以下及び郡卿は軽市(かるのいち)で装った鞍馬を検校した。
    小錦以上の大夫は樹の下に坐を列ね、大山位以下の者は自ら乗って共に大路を南から北に進んだ。

    新羅の使者がやってきて言うには「国王が薨じました」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年十月是月条】
  • 天武天皇10年11月2日

    地震があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年十一月丁酉条】
  • 天武天皇10年12月10日

    小錦下河辺臣子首を筑紫に遣わして、新羅の客忠平に饗応した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年十二月甲戌条】
  • 天武天皇10年12月29日

    田中臣鍛師柿本臣猨田部連国忍高向臣麻呂粟田臣真人物部連麻呂中臣連大島曽禰連韓犬書直智徳、合わせて十人ここでは九名の名が見える。小錦下の位を授けた。

    この日、舎人造糠虫書直智徳に姓を賜って連といった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十年十二月癸巳条】
  • 天武天皇11年1月9日

    大山上舎人連糠虫小錦下の位を授ける。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年正月癸卯条】
  • 天武天皇11年1月11日

    金忠平に筑紫で饗応する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年正月乙巳条】
  • 天武天皇11年1月18日

    氷上夫人が宮中で薨じる。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年正月壬子条】
  • 天武天皇11年1月19日

    地震があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年正月癸丑条】
  • 天武天皇11年1月27日

    氷上夫人赤穂(あかほ)に葬る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年正月辛酉条】
  • 天武天皇11年2月12日

    金忠平が帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年二月乙亥条】
  • 天武天皇11年2月

    小錦下舎人連糠虫が卒する。壬申年の功により大錦上の位を追贈する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年二月是月条】
  • 天武天皇11年3月1日

    小紫三野王及び宮内の官大夫たちに命じて新城(にいき)に遣わし、その地形を調べさせた。そして都を造ろうとした。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年三月甲午朔条】
  • 天武天皇11年3月2日

    陸奥国の蝦夷二十二人に爵位を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年三月乙未条】
  • 天武天皇11年3月7日

    地震があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年三月庚子条】
  • 天武天皇11年3月13日

    境部連石積らに命じて、新字(にいな)一部四十四巻を造らせた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年三月丙午条】
  • 天武天皇11年3月16日

    新城に行幸する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年三月己酉条】
  • 天武天皇11年3月28日

    詔して「親王以下、百寮諸人は今後。位冠(くらいこうぶり)及び(まえも)(ひらおび)脛裳(はばきも)を着てはならない。
    また膳夫・采女らは手繦(たすき)肩巾(ひれ)を着てはならない」と。

    この日、詔して「親王以下、諸臣に至るまで、賜っていた食封を廃止して公に返すようにせよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年三月辛酉条】
  • 天武天皇11年3月

    土師連真敷が卒する。壬申年の功により大錦上の位を追贈する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年三月是月条】
  • 天武天皇11年4月9日

    広瀬・竜田の神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年四月辛未条】
  • 天武天皇11年4月21日

    筑紫大宰丹比真人島らが大きな鐘を献上した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年四月癸未条】
  • 天武天皇11年4月22日

    越の蝦夷伊高岐那らが俘人七十戸を一郡としたいと請うて許された。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年四月甲申条】
  • 天武天皇11年4月23日

    詔して「今後全ての男女は髪を結い上げよ。十二月三十日までに結い終るようにせよ。ただし髪を結い上げる日は勅旨を待て」と。
    婦女が男子のように乗馬するのは、この日からである。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年四月乙酉条】
  • 天武天皇11年5月12日

    倭漢直らに姓を賜って連といった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年五月甲辰条】
  • 天武天皇11年5月16日

    高麗に遣わした大使佐伯連広足・小使小墾田臣麻呂らが使命を果したことを奏上した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年五月戊申条】
  • 天武天皇11年5月27日

    倭漢直らの男女ことごとくがやってきて、姓を賜ったことを喜んで拝朝した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年五月己未条】
  • 天武天皇11年6月1日

    高麗王下部助有卦婁毛切大古昴加を遣わして方物を献上した。
    則ち新羅は大那末金釈起を遣わして高麗の使人を筑紫に送ってきた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年六月壬戌朔条】
  • 天武天皇11年6月6日

    男が始めて結髪して漆紗冠(うるしぬりのうすはたのこうぶり)を着用した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年六月丁卯条】
  • 天武天皇11年6月12日

    五位殖栗王が卒する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年六月癸酉条】
  • 天武天皇11年7月3日

    隼人が多数来て方物を献上した。
    この日、大隅の隼人と阿多の隼人が朝廷で相撲を取った。大隅の隼人が勝った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年七月甲午条】
  • 天武天皇11年7月9日

    小錦中膳臣摩漏が病にかかった。
    草壁皇子尊高市皇子を遣わして病を見舞わせた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年七月庚子条】
  • 天武天皇11年7月11日

    広瀬・竜田の神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年七月壬寅条】
  • 天武天皇11年7月17日

    地震があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年七月戊申条】
  • 天武天皇11年7月18日

    膳臣摩漏が卒した。天皇は驚いて大いに哀しんだ。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年七月己酉条】
  • 天武天皇11年7月21日

    摩漏臣に、壬申年の功により大紫の位及び禄を贈った。
    さらに皇后も官賜に準じて物を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年七月壬子条】
  • 天武天皇11年7月25日

    多禰人・掖玖人・阿麻弥人に禄物を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年七月丙辰条】
  • 天武天皇11年7月27日

    隼人らに飛鳥寺の西で饗応した。様々な舞楽を奏し、各々に禄物を賜った。
    道俗も見物した。

    この日、信濃国・吉備国が共に言うには「霜が降り大風が吹いて五穀が実りません」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年七月戊午条】
  • 天武天皇11年8月1日

    親王以下及び諸臣に命じて、それぞれ法式の応用を上申させた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年八月壬戌朔条】
  • 天武天皇11年8月3日

    高麗の客に筑紫で饗応した。
    この日の昏時(いぬのとき)戌の刻。午後8時前後。に大きな星が東から西に流れた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年八月甲子条】
  • 天武天皇11年8月5日

    造法令殿(のりのふみつくるみあらか)の内に大きな虹が立った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年八月丙寅条】
  • 天武天皇11年8月11日

    灌頂幡(かんじょうのはた)のような形で火の色をした物が空に浮んで北に流れた。これは国ごとに見えた。或いは「越の海に入った」という。

    この日、白気が東の山に起った。その大きさは四囲であった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年八月壬申条】
  • 天武天皇11年8月12日

    大地震があった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年八月癸酉条】
  • 天武天皇11年8月13日

    筑紫大宰丹比島であろう。が言うには「三足の雀がおります」と。

    甲戌(13日)条だが、戊寅(17日)条と癸未(22日)条の間に置いてある記事。
    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年八月甲戌条】
  • 天武天皇11年8月17日

    また地震があった。
    この日の平旦(とらのとき)寅の刻。午前4時前後。に虹が天の中央に当って日と向い合った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年八月戊寅条】
  • 天武天皇11年8月22日

    礼儀・言語について詔した。

    また詔して「諸々の選考を行う者は、よくその族姓及び素行を調べよ。もし素行や能力が優れていても、その族姓が不確かな者は選考には値しない」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年八月癸未条】
  • 天武天皇11年8月28日

    勅して日高皇女割注に「またの名は新家皇女」とある。の病の為に、大罪以下の男女合せて百九十八人全て赦免した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年八月己丑条】
  • 天武天皇11年8月29日

    百三十余人を大官大寺で出家させる。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年八月庚寅条】
  • 天武天皇11年9月2日

    勅して「今後は、跪礼・匍匐礼はやめて難波朝廷(なにわのみかど)孝徳天皇の御世。の時の立礼を用いよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年九月壬辰条】
  • 天武天皇11年9月10日

    日中(うまのとき)午の刻。正午前後。に数百の(おおとり)が大宮に当って高く空に翔けた。二時間ほどで皆散っていった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年九月庚子条】
  • 天武天皇11年10月8日

    酒宴を催す。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年十月戊辰条】
  • 天武天皇11年11月16日

    詔して「親王・諸王及び諸臣から庶民に至るまで全て聞くように。法を犯した者を取り調べる時には、或いは内裏でも、或いは政庁でも、その過失を犯した場所で見聞きした通りに隠すことなく取り調べよ。その犯重罪を犯した者がいれば、上申すべきは上申し、捕えるべきは捕えよ。もし拒んで捕えることが出来なければ兵を起してでも捕えよ。杖罪に当れば杖百発以下、等級に従って打て。また罪状を欺いて無罪を訴えれば、その本来の罪に加えよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十一年十一月乙巳条】
  • 天武天皇12年1月2日

    百寮が拝朝した。

    筑紫大宰丹比真人島らが三足の雀を献上した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年正月庚寅条】
  • 天武天皇12年1月7日

    親王以下及び群卿を召集して大極殿の前で宴を催した節会。。三足の雀を群臣に見せた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年正月乙未条】
  • 天武天皇12年1月18日

    詔して「明神御大八洲日本根子天皇(あきつかみとおおやしましらすやまとねこのすめらみこと)朝廷の大事の際に用いられる辞。の勅命を、諸々の国司・国造・郡司及び百姓たちよ聞け。朕が初めて皇位を継いで以来、天瑞は一つ二ではなく多く現れている。伝えられるところによると、天瑞は行政の理が天道に適う時に現れるという。今まさに朕の世に当り、毎年数多く現れている。恐れ多くも喜ばしい。これは親王・諸王及び群卿・百寮、あわせて天下の人民が共に喜ぶべきものである。そこで小建以上に禄物を与える。大罪以下の者を全て赦す。また百姓の課役を免じる」と。

    この日、小墾田儛(おはりだのまい)、及び高麗・百済・新羅の三国の舞楽を朝廷で演奏した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年正月丙午条】
  • 天武天皇12年2月1日

    大津皇子が初めて朝廷の政務を執った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年二月己未朔条】
  • 天武天皇12年3月2日

    僧正(そうじょう)僧都(そうず)律師(りつし)を任じ、勅して「僧尼を統べ治めること法の如くせよ」と云々。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年三月己丑条】
  • 天武天皇12年3月19日

    多禰に遣わした使人らが帰還する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年三月丙午条】
  • 天武天皇12年4月15日

    詔して「今後は必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いてはならない」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年四月壬申条】
  • 天武天皇12年4月18日

    詔して「銀を用いることは止めなくてよい」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年四月乙亥条】
  • 天武天皇12年4月21日

    広瀬・竜田の神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年四月戊寅条】
  • 天武天皇12年6月3日

    大伴連望多が薨じた。
    天皇は大いに驚き、泊瀬王を遣わして弔った。
    そして壬申年の勲績及び歴代先祖の功を挙げて特別に顕賞し、大紫の位を追贈した。
    鼓を打ち笛を吹いて葬った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年六月己未条】
  • 天武天皇12年6月6日

    三位高坂王が薨じる。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年六月壬戌条】
  • 天武天皇12年7月4日

    鏡姫王の家に行幸して病を見舞う。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年七月己丑条】
  • 天武天皇12年7月5日

    鏡姫王が薨じる。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年七月庚寅条】
  • 天武天皇12年(4月 ~ 6月)記事の順番通りに敢えてここに置いたが、夏は四月から六月。安居が夏で、出家が七月だったか。

    はじめて僧尼を召して宮中に安居させた。浄行者三十人を選んで出家させた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年是夏条】
  • 天武天皇12年7月15日

    雨乞いする。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年七月庚子条】
  • 天武天皇12年7月18日

    京師(みやこ)を巡行する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年七月癸卯条】
  • 天武天皇12年7月20日

    広瀬・竜田の神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年七月乙巳条】
  • 天武天皇12年(7月 ~ 8月)

    この月から始まって八月まで日照りが続いた。
    百済の僧道蔵が雨乞いして雨が降った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年七月是月条】
  • 天武天皇12年8月5日

    天下に大赦する。

    大伴連男吹負が卒する。壬申年の功により大錦中の位を追贈する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年八月庚申条】
  • 天武天皇12年9月2日

    大風が吹いた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年九月丙戌条】
  • 天武天皇12年9月23日

    倭直(やまとのあたい)栗隈首(くるくまのおびと)水取造(もいとりのみやつこ)矢田部造(やたべのみやつこ)藤原部造(ふじわらべのみやつこ)刑部造(おさかべのみやつこ)福草部造(さきくさべのみやつこ)凡河内直(おおしこうちのみやつこ)川内漢直(かわちのあやのあたい)物部首(もののべのおびと)山背直(やましろのあたい)葛城直(かずらきのあたい)殿服部造(とのはとりのみやつこ)門部直(かどべのあたい)錦織造(にしこりのみやつこ)縵造(かずらのみやつこ)鳥取造(ととりのみやつこ)来目舎人造(くめのとねりのみやつこ)桧隈舎人造(ひのくまのとねりのみやつこ)大狛造(おおこまのみやつこ)秦造(はたのみやつこ)川瀬舎人造(かわせのとねりのみやつこ)倭馬飼造(やまとのうまかいのみやつこ)川内馬飼造(かわちのうまかいのみやつこ)黄文造(きふみのみやつこ)薦集造(こもつめのみやつこ)勾筥作造(まがりのはこつくりのみやつこ)石上部造(いそのかみべのみやつこ)財日奉造(たからのひまつりのみやつこ)泥部造(はずかしべのみやつこ)穴穂部造(あなほべのみやつこ)白髪部造(しらかべのみやつこ)忍海造(おしぬみのみやつこ)羽束造(はつかしのみやつこ)文首(ふみのおびと)小泊瀬造(おはつせのみやつこ)百済造(くだらのみやつこ)語造(かたりのみやつこ)、全て三十八氏に姓を賜って連という。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年九月丁未条】
  • 天武天皇12年10月5日

    三宅吉士(みやけのきし)草壁吉士(くさかべのきし)伯耆造(ははきのみやつこ)船史(ふねのふびと)壱伎史(いきのふびと)娑羅羅馬飼造(さららのうまかいのみやつこ)菟野馬飼造(うののうまかいのみやつこ)吉野首(よしののおびと)紀酒人直(きのさかひとのあたい)采女造(うねめのみやつこ)阿直史(あときのふびと)高市県主(たけちのあがたぬし)磯城県主(しきのあがたぬし)鏡作造(かがみつくりのみやつこ)、あわせて十四氏に姓を賜って連という。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年十月己未条】
  • 天武天皇12年10月13日

    倉梯で狩りをする。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年十月丁卯条】
  • 天武天皇12年11月4日

    諸国に詔して陣法(いくさののり)を習わせる。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年十一月丁亥条】
  • 天武天皇12年11月13日

    新羅が沙飡金主山大那末金長志を遣わして進調する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年十一月丙申条】
  • 天武天皇12年12月13日

    諸王五位伊勢王大錦下羽田公八国小錦下多臣品治小錦下中臣連大島、あわせて判官(まつりごとひと)録史(ふびと)工匠(たくみ)らを遣わし天下を巡行させて諸国の境界を区分させた。
    しかしこの年に区分は終らなかった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年十二月丙寅条】
  • 天武天皇12年12月17日

    詔して「諸々の文武の官人、及び国内の有位者たちは、四季の始めの月に必ず参朝せよ。もし重病で集まることが出来なければ、詳しく記して法官に申し送るようにせよ」と。

    また詔して「都城(みやこ)宮室(おおみや)は一ヶ所ではなく、必ず二つ三つ造るべきである。そこで先ず難波に都を造ろうと思うので、百寮の者はそれぞれ赴いて家地を請え」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十二年十二月庚午条】
  • 天武天皇13年1月17日

    三野県主(みののあがたぬし)内蔵衣縫造(くらのきぬぬいのみやつこ)の二氏に姓を賜って連という。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年正月庚子条】
  • 天武天皇13年1月23日

    天皇は東庭にやってきて、群卿が侍った。
    時に、よく射る人、及び侏儒(ひきひと)・左右の舎人らを召して射させた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年正月丙午条】
  • 天武天皇13年2月24日

    金主山に筑紫で饗応した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年二月丙子条】
  • 天武天皇13年2月28日

    浄広肆制定前の位階。広瀬王小錦中大伴連安摩呂、及び判官・録事・陰陽師・工匠らを国内に遣わして、都に相応しい地を視察させた。

    この日、三野王小錦下采女臣筑羅らを信濃に遣わして地形を視察させた。
    この地に都を造ろうというのであろうか。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年二月庚辰条】
  • 天武天皇13年3月8日

    吉野の人宇閉直弓白海石榴(しらつばき)を献上した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年三月庚寅条】
  • 天武天皇13年3月9日

    京師を巡行して、宮室地を定めた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年三月辛卯条】
  • 天武天皇13年3月23日

    金主山が帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年三月乙巳条】
  • 天武天皇13年4月5日

    徒罪以下全てを赦免する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年四月丙辰条】
  • 天武天皇13年4月13日

    広瀬の大忌神・竜田の風神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年四月甲子条】
  • 天武天皇13年4月20日

    小錦下高向臣摩呂を大使とし、小山下都努臣牛甘を小使として新羅に遣わす。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年四月辛未条】
  • 天武天皇13年閏4月5日

    詔して「来年の九月に必ず検閲を行うので、百寮の進止(ふるまい)威儀(よそおい)を教えておくようにせよ」と。

    また詔して「政の要は軍事である。文武官の諸人は用兵・乗馬を習え。馬・武器・装束は詳しく調べて揃えよ。馬のある者は騎士とし、馬の無い者は歩卒とする。共に訓練して集合に支障がないようにせよ。もし詔に逆らって馬や武器に不都合があり、また装束に欠けるところああれば、親王以下諸臣に至るまで皆罰する。大山位以下の者は、罰するものは罰し、杖罪とすべきは杖罪とする。もし訓練してよく技術を習得すれば、死罪と雖も罪二等を減らそう。ただし己れの才に恃んで故意に犯す者は赦すことはない」と。

    また詔して「男女ともに衣服は(すそつき)の有無、及び結紐(むすびひも)長紐(ながひも)は任意に着てよい。ただし参集する日には襴の衣を着て長紐を着けよ。男子は圭冠(はしはこうぶり)があればかぶり、括緒褌(くくりおのはかま)を着けよ。女の年四十以上は髪の結い上げても結い上げなくても、馬の乗り方が縦でも横でも任意とする。別に巫・祝の類は髪を結い上げなくてもよい」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年閏四月丙戌条】
  • 天武天皇13年閏4月11日

    三野王らが信濃国の図を進上する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年閏四月壬辰条】
  • 天武天皇13年閏4月16日

    宮中で斎会を設け、罪ある舎人らを赦免した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年閏四月丁酉条】
  • 天武天皇13年閏4月24日

    飛鳥寺の僧福揚を獄に入れる。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年閏四月乙巳条】
  • 天武天皇13年閏4月29日

    福揚が自ら頸を刺して死ぬ。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年閏四月庚戌条】
  • 天武天皇13年5月14日

    帰化した百済の僧尼・俗人、男女合せて二十三人を武蔵国に住まわせる。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年五月甲子条】
  • 天武天皇13年5月28日

    三輪引田君難波麻呂を大使とし、桑原連人足を小使として高麗に遣わす。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年五月戊寅条】
  • 天武天皇13年6月4日

    雨乞いする。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年六月甲申条】
  • 天武天皇13年7月4日

    広瀬に行幸する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年七月癸丑条】
  • 天武天皇13年7月9日

    広瀬・竜田の神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年七月戊午条】
  • 天武天皇13年7月23日

    彗星ハレー彗星と思われる。同十一月に隕石あり。が西北から出た。長さは一丈余りであった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年七月壬申条】
  • 天武天皇13年10月1日

    詔して「諸氏の族姓を改めて八色の姓を作る。天下の万姓をまとめる。
    一に曰く真人(まひと)
    二に曰く朝臣(あそみ)
    三に曰く宿禰(すくね)
    四に曰く忌寸(いみき)
    五に曰く道師(みちのし)
    六に曰く(おみ)
    七に曰く(むらじ)
    八に曰く稲置(いなき)
    」と。

    この日、守山公(もりやまのきみ)路公(みちのきみ)高橋公(たかはしのきみ)三国公(みくにのきみ)当麻公(たぎまのきみ)茨城公(うまらきのきみ)丹比公(たじひのきみ)猪名公(いなのきみ)坂田公(さかたのきみ)羽田公(はたのきみ)息長公(おきながのきみ)酒人公(さかひとのきみ)山道公(やまじのきみ)の十三氏に姓を賜って真人という。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年十月己卯朔条】
  • 天武天皇13年10月3日

    伊勢王らを遣わして諸国の境界を定めさせた。

    この日、県犬養連手繦を大使とし、川原連加尼を小使として耽羅に遣わした。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年十月辛巳条】
  • 天武天皇13年10月14日

    人定(いのとき)亥の刻。午後10時前後。大地震いわゆる白鳳地震。が起きた。国中の男女が叫喚して逃げ惑った。山は崩れ河は溢れた。諸国の郡の官舎、及び百姓の倉屋・寺塔・神社の破壊は数多く、これによる人民、及び六畜馬・牛・羊・豕・狗・鶏。の死傷は多かった。
    時に伊予湯泉(いよのゆ)は埋もれて出なくなり、土左国の田苑五十余万頃五十万頃は約1200ヘクタール。は海に沈んだ。
    古老が言うには「もしこれが地震なら未曽有である」と。

    この日の夕方、鼓のような音が東方から聞こえた。
    ある人が言うには「伊豆島の西と北の二面が自然と三百丈余り広がって一つの島となった。鼓のような音は、神がこの島を造る時に響いたものだ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年十月壬辰条】
  • 天武天皇13年10月16日

    諸王卿らに禄を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年十月甲午条】
  • 天武天皇13年11月1日

    大三輪君(おおみわのきみ)大春日臣(おおかすがのおみ)阿倍臣(あべのおみ)巨勢臣(こせのおみ)膳臣(かしわでのおみ)紀臣(きのおみ)波多臣(はたのおみ)物部連(もののべのむらじ)平群臣(へぐりのおみ)雀部臣(さざきべのおみ)中臣連(なかとみのむらじ)大宅臣(おおやけのおみ)栗田臣(あわたのおみ)石川臣(いしかわのおみ)桜井臣(さくらいのおみ)采女臣(うねめのおみ)田中臣(たなかのおみ)小墾田臣(おはりだのおみ)穂積臣(ほづみのおみ)山背臣(やましろのおみ)鴨君(かものきみ)小野臣(おののおみ)川辺臣(かわべのおみ)櫟井臣(いちいのおみ)柿本臣(かきのもとのおみ)軽部臣(かるべのおみ)若桜部臣(わかさくらべのおみ)岸田臣(きしだのおみ)高向臣(たかむくのおみ)完人臣(ししひとのおみ)来目臣(くめのおみ)犬上君(いぬかみのきみ)上毛野君(かみつけののきみ)角臣(つののおみ)星川臣(ほしかわのおみ)多臣(おおのおみ)胸方君(むなかたのきみ)車持君(くるまもちのきみ)綾君(あやのきみ)下道臣(しもつみちのおみ)伊賀臣(いがのおみ)阿閉臣(あへのおみ)林臣(はやしのおみ)波弥臣(はみのおみ)下毛野君(しもつけののきみ)佐味君(さみのきみ)道守臣(ちもりのおみ)大野君(おおののきみ)坂本臣(さかもとのおみ)池田君(いけだのきみ)玉手臣(たまてのおみ)笠臣(かさのおみ)の五十二氏に姓を賜って朝臣(あそみ)という。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年十一月戊申朔条】
  • 天武天皇13年11月3日

    土左国司が言うには「大潮が高く上がって海水に揺られ、調を運ぶ船の多くが失われました」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年十一月庚戌条】
  • 天武天皇13年11月21日

    昏時(いぬのとき)戌の刻。午後8時前後。に七つの星が一緒に東北に流れて落ちた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年十一月戊辰条】
  • 天武天皇13年11月23日

    日没時(とりのとき)酉の刻。午後6時前後。に星が東方に落ちた。大きさは(ほとき)のようで、戌の刻に天文は大いに乱れ、雨のように星が落ちた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年十一月庚午条】
  • 天武天皇13年11月

    星が中央に集まって昴星(もうしょう)すばると並んで動いていた。月末に至って消失した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年十一月是月条】
  • 天武天皇13年

    詔して「伊賀・伊勢・美濃・尾張の四国は今後、調(みつき)の年は(えだち)を免じ、役の年は調を免じる」と。

    倭の葛城下郡(かずらきのしものこおり)が言うには「四つ足の鶏がおります」と。
    丹波国の氷上郡(ひかみのこおり)が言うには「十二の角がある小牛がおります」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年是年条】
  • 天武天皇13年12月2日

    大伴連(おおとものむらじ)佐伯連(さえきのむらじ)阿曇連(あずみのむらじ)忌部連(いんべのむらじ)尾張連(おわりにむらじ)倉連(くらのむらじ)中臣酒人連(なかとみのさかひとのむらじ)土師連(はじのむらじ)掃部連(かにもりのむらじ)境部連(さかいべのむらじ)桜井田部連(さくらいのたべのむらじ)伊福部連(いおきべのむらじ)巫部連(かんなぎべのむらじ)忍壁連(おさかべのむらじ)草壁連(くさかべのむらじ)三宅連(みやけのむらじ)児部連(こべのむらじ)手繦丹比連(たすきのたじひのむらじ)「手繦連・丹比連」とする写本あり。靭丹比連(ゆきのたじひのむらじ)漆部連(ぬりべのむらじ)大湯人連(おおゆえのむらじ)若湯人連(わかゆえのむらじ)弓削連(ゆげのむらじ)神服部連(かみはとりのむらじ)額田部連(ぬかたべのむらじ)津守連(つもりのむらじ)県犬養連(あがたのいぬかいのむらじ)稚犬養連(わかいぬかいのむらじ)玉祖連(たまのやのむらじ)新田部連(にいたべのむらじ)倭文連(しつおりのむらじ)割注に「倭文。此云之頭於利」とある。氷連(ひのむらじ)凡海連(おおしあまのむらじ)山部連(やまべのむらじ)矢集連(やつめのむらじ)狭井連(さいのむらじ)爪工連(はたくみのむらじ)阿刀連(あとのむらじ)茨田連(まんたのむらじ)田目連(ためのむらじ)小子部連(ちいさこべのむらじ)菟道連(うじのむらじ)小治田連(おはりだのむらじ)猪使連(いつかいのむらじ)海犬養連(あまのいぬかいのむらじ)間人連(はしひとのむらじ)舂米連(つきよねのむらじ)美濃矢集連(みののやつめのむらじ)諸会臣(もろあいのむらじ)布留連(ふるのむらじ)の五十氏に姓を賜って宿禰(すくね)という。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年十二月己卯条】
  • 天武天皇13年12月6日

    大唐学生土師宿禰甥白猪史宝然、及び百済の役の時に大唐に捕えられた猪使連子首筑紫三宅連得許が新羅を伝って帰国した。
    新羅は大奈末金物儒を遣わしてらを筑紫まで送った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年十二月癸未条】
  • 天武天皇13年12月13日

    死刑以外の罪人を全て赦免する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十三年十二月庚寅条】
  • 天武天皇14年1月2日

    百寮が拝朝する賀正の礼。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年正月戊申条】
  • 天武天皇14年1月21日

    爵位の号を改め、階級を増加した
    明位(みょうい)二階、浄位(じょうい)四階。階ごとに大・広があり、あわせて十二階。これは諸王以上の位である。
    正位(しょうい)四階、直位(じきい)四階、勤位(ごんい)四階、務位(むい)四階、追位(ついい)四階、進位(しんい)四階。階ごとに大・広があり、あわせて四十八階。これは諸臣の位である。

    この日、草壁皇子尊浄広壱の位を授けた。
    大津皇子浄大弐の位を授けた。
    高市皇子浄広弐の位を授けた。
    川島皇子忍壁皇子浄大参の位を授けた。
    これ以下の諸王・諸臣たちに爵位を加増した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年正月丁卯条】
  • 天武天皇14年2月4日

    大唐人・百済人・高麗人、あわせて百四十七人に爵位を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年二月庚辰条】
  • 天武天皇14年3月14日

    金物儒に筑紫で饗応した。筑紫から帰途に就いた。
    漂着した新羅人七人を物儒につけて帰還させた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年三月己未条】
  • 天武天皇14年3月16日

    京職大夫(みさとのつかさのかみ)直大参巨勢朝臣辛檀努が卒する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年三月辛酉条】
  • 天武天皇14年3月27日

    詔して「諸国の家ごとに仏舎を作り、仏像及び経を置いて礼拝供養せよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年三月壬申条】
  • 天武天皇14年3月

    灰が信濃国に降って草木が枯れた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年三月是月条】
  • 天武天皇14年4月4日

    紀伊国司が言うには「牟婁湯泉が埋もれて出なくなりました」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年四月己卯条】
  • 天武天皇14年4月12日

    広瀬・竜田の神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年四月丁亥条】
  • 天武天皇14年4月17日

    新羅人の金主山が帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年四月壬辰条】
  • 天武天皇14年4月25日

    始めて僧尼に請うて宮中に安居させた。

    四月壬辰(17日)条と五月庚戌条の間にある記事。庚寅(15日)条とする写本と、庚子(25日)条とする写本がある。当サイトでは庚子を採用。
    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年四月庚子条】
  • 天武天皇14年5月5日

    南門で射礼を行った。

    天皇は飛鳥寺に行幸した。珍宝を奉って仏を礼敬した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年五月庚戌条】
  • 天武天皇14年5月19日

    直大肆粟田朝臣真人が位を父に譲ろうとした。しかし勅してこれを許さなかった。

    この日、直大参当麻真人広摩呂が卒した。壬申年の功により直大壱の位を追贈した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年五月甲子条】
  • 天武天皇14年5月26日

    高向朝臣麻呂都努朝臣牛飼らが新羅から帰国した。
    学問僧の観常雲観も従って帰国した。

    新羅王は馬二匹・犬三頭・鸚鵡(おうむ)二隻・(かささぎ)二隻、及び様々な宝物を献上した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年五月辛未条】
  • 天武天皇14年6月20日

    大倭連(やまとのむらじ)葛城連(かずらきのむらじ)凡川内連(おおしこうちのむらじ)山背連(やましろのむらじ)難波連(なにわのむらじ)紀酒人連(きのさかひとのむらじ)倭漢連(やまとのあやのむらじ)河内漢連(かわちのあやのむらじ)秦連(はたのむらじ)大隅直(おおすみのあたい)書連(ふみのむらじ)、あわせて十一氏に姓を賜って忌寸(いみき)という。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年六月甲午条】
  • 天武天皇14年7月21日

    広瀬・竜田の神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年七月乙丑条】
  • 天武天皇14年7月26日

    勅して明位以下、進位以上の朝服の色を定めた。
    浄位以上は朱華(はねず)割注に「華。此云波泥孺」とある。朱色。
    正位は深紫、
    直位は浅紫、
    勤位は深緑、
    務位は浅緑、
    追位は深蒲萄(えびそめ)青色。
    進位は浅蒲萄を着る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年七月庚午条】
  • 天武天皇14年7月27日

    詔して「東山道は美濃以東、東海道は伊勢以東の諸国の有位者は課役を免じる」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年七月辛未条】
  • 天武天皇14年8月12日

    浄土寺に行幸する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年八月乙酉条】
  • 天武天皇14年8月13日

    川原寺に行幸して僧たちに稲を施す。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年八月丙戌条】
  • 天武天皇14年8月20日

    耽羅に遣わした使人ら十三年十月辛巳条に見える県犬養手繦らか。が帰国する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年八月癸巳条】
  • 天武天皇14年9月9日

    天皇は旧宮の安殿の庭で宴を催した。

    この日、皇太子以下、忍壁皇子に至るまで、それぞれに布を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年九月壬子条】
  • 天武天皇14年9月11日

    宮処王広瀬王難波王竹田王弥努王を京及び畿内に遣わして、人夫の武器を調べさせた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年九月甲寅条】
  • 天武天皇14年9月15日

    直広肆都努朝臣牛飼を東海の使者とし、
    直広肆石川朝臣虫名を東山の使者とし、
    直広肆佐味朝臣少摩呂を山陽の使者とし、
    直広肆巨勢朝臣粟持を山陰の使者とし、
    直広参路真人迹見を南海の使者とし、
    直広肆佐伯宿禰広足を筑紫の使者とし、
    それぞれに判官一人・史一人をつけ、国司・郡司及び人民の消息を巡察させた。

    この日、詔して「およそ諸々の歌男・歌女・笛吹く者は、己れの子孫に伝えて歌・笛を習わせよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年九月戊午条】
  • 天武天皇14年9月18日

    天皇は大安殿にて、王卿たちを殿の前に召して博戯(はくぎ)双六などの賭け事。をした。

    この日、宮処王難波王竹田王三国真人友足県犬養宿禰大侶大伴宿禰御行境部宿禰石積多朝臣品治采女朝臣竹羅藤原朝臣大島の十人に自身の衣と袴を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年九月辛酉条】
  • 天武天皇14年9月19日

    皇太子以下、及び諸王・卿、合わせて四十八人に(しくま)ヒグマの皮と山羊(かましし)カモシカ皮を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年九月壬戌条】
  • 天武天皇14年9月20日

    高麗国に遣わした使人ら十三年五月戊寅条に見える三輪引田難波麻呂らか。が帰国する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年九月癸亥条】
  • 天武天皇14年9月24日

    天皇が体調を崩した為、三日間、大官大寺・川原寺・飛鳥寺で誦経させた。そして三寺に稲を納めた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年九月丁卯条】
  • 天武天皇14年9月27日

    帰化した高麗人らに禄物を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年九月庚午条】
  • 天武天皇14年10月4日

    百済僧常輝に食封三十戸を賜った。この僧は百歳だった。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年十月丙子条】
  • 天武天皇14年10月8日

    百済僧法蔵優婆塞(うばそく)仏教を信奉して五戒を守る俗人男性。益田直金鍾を美濃に遣わして白朮(おけら)を煎じさせた。これにより絁・綿・布を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年十月庚辰条】
  • 天武天皇14年10月10日

    軽部朝臣足瀬高田首新家荒田尾連摩呂を信濃に遣わして行宮を造らせた。
    思うに束間温湯(つかまのゆ)に行幸なさるおつもりだったか。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年十月壬午条】
  • 天武天皇14年10月12日

    浄大肆泊瀬王直広肆巨勢朝臣馬飼・判官以下、合わせて二十人を畿内の役未詳。に任じる。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年十月甲申条】
  • 天武天皇14年10月17日

    伊勢王らがまた東国に向かうので衣・袴を賜った。

    この日、金剛般若経を宮中で説かせた。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年十月己丑条】
  • 天武天皇14年11月2日

    官用の鉄一万斤を周芳総令(すおうのすぶるおさ)の所に送った。

    この日、筑紫大宰が官用の絁百匹・糸百斤・布三百端。庸布四百常・鉄一万斤・箭竹二千連を申請したので筑紫に送った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年十一月甲辰条】
  • 天武天皇14年11月4日

    全国に詔して「大角(はら)角笛。小角(くだ)管笛。・鼓・(ふえ)幡旗(はた)、及び(おおゆみ)(いしはじき)の類は家に置いてはならない。全て郡家(こおりのみやけ)に収めよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年十一月丙午条】
  • 天武天皇14年11月6日

    白錦後苑(しらにしきのみその)に行幸する。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年十一月戊申条】
  • 天武天皇14年11月24日

    法蔵法師・金鍾が白朮を煎じて献上する。

    この日、天皇の為に招魂(みたまふり)いわゆる鎮魂祭。が行われる。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年十一月丙寅条】
  • 天武天皇14年11月27日

    新羅が波珍飡金智祥大阿飡金健勲を遣わして政を奏上して調を進上した。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年十一月己巳条】
  • 天武天皇14年12月4日

    筑紫に遣わした防人らが海中を漂って衣裳を失った。
    防人の衣服の為に布四百五十八端を筑紫に送った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年十二月乙亥条】
  • 天武天皇14年12月10日

    西方から地震が起こる。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年十二月辛巳条】
  • 天武天皇14年12月16日

    絁・綿・布を大官大寺の僧に施す。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年十二月丁亥条】
  • 天武天皇14年12月19日

    皇后の命令で、王卿ら五十五人に朝服をそれぞれ一具ずつ賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 天武天皇十四年十二月庚寅条】
  • 朱鳥元年1月2日

    大極殿で諸王卿に宴を賜った。
    この日、詔して「朕は王卿に無端事(あとなしこと)なぞなぞ。を問う。正しく答えれば必ず何かを賜ろう」と。

    高市皇子は正しく答えた。蓁摺(はりすり)の御衣三具・錦の袴二具・絁二十匹・糸五十斤・綿百斤・布百端を賜った。
    伊勢王もまた正しく答えた。(くりそめ)の御衣三具・紫の袴二具・絁七匹・糸二十斤・綿四十斤・布四十端を賜った。

    この日、摂津国の人百済新興白馬瑙(しろめのう)を献上した。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年正月癸卯条】
  • 朱鳥元年1月9日

    三綱(さんごう)・律師、及び大官大寺の知事、佐官、合わせて九人の僧を召して俗人の食物で供養した絁・綿・布を施した。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年正月庚戌条】
  • 朱鳥元年1月10日

    諸王卿にそれぞれ袍袴(きぬはかま)一具を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年正月辛亥条】
  • 朱鳥元年1月13日

    諸々の才人・博士・陰陽師・医師、合わせて二十余人を召して食事と禄物を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年正月甲寅条】
  • 朱鳥元年1月14日

    難波の大蔵省で失火して宮室が悉く焼けた。
    ある人は「阿斗連薬の家から失火して宮室にまで及んだ」と言った。
    ただし兵庫職は焼けなかった。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年正月乙卯条】
  • 朱鳥元年1月16日

    天皇は大安殿に諸王卿を召して宴を賜り、絁・綿・布をそれぞれに賜った。

    この日、天皇が群臣に無端事(あとなしこと)なぞなぞ。を問うて、正しく答えた者に重ねて絁・綿を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年正月丁巳条】
  • 朱鳥元年1月17日

    後宮で宴を催す。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年正月戊午条】
  • 朱鳥元年1月18日

    朝庭で盛大に酒宴を催した。

    この日、御窟殿(みむろのとの)の前で倡優(わざひと)らに禄物を賜った。また歌人らに袍袴を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年正月己未条】
  • 朱鳥元年1月19日

    地震があった。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年正月庚申条】
  • 朱鳥元年1月

    新羅の金智祥に宴を賜る為、浄広肆川内王直広参大伴宿禰安摩呂直大肆藤原朝臣大島直広肆堺部宿禰鯯魚直広肆穂積朝臣虫摩呂らを筑紫に遣わした。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年正月是月条】
  • 朱鳥元年2月4日

    大安殿にて侍臣六人に勤位を授ける。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年二月甲戌条】
  • 朱鳥元年2月5日

    勅して諸々の国司から功ある者を九人選んで勤位を授ける。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年二月乙亥条】
  • 朱鳥元年3月6日

    大弁官直大参羽田真人八国が病にかかった為、僧三人を得度させた。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年三月丙午条】
  • 朱鳥元年3月10日

    雪が降った。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年三月庚戌条】
  • 朱鳥元年3月25日

    羽田真人八国が卒する。壬申年の功により直大壱の位を追贈する。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年三月乙丑条】
  • 朱鳥元年4月8日

    侍医(おもとくすし)桑原村主訶都直広肆を授け、姓を賜って連という。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年四月丁丑条】
  • 朱鳥元年4月13日

    新羅の客らに饗応する為、川原寺(かわらでら)伎楽(くれがく)を筑紫に運んだ。
    皇后宮の私稲五千束を川原寺に納めた。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年四月壬午条】
  • 朱鳥元年4月19日

    新羅が奉った調が筑紫から貢上された。細馬(よきうま)一匹・()ラバ。一頭・犬二狗・鏤金器(こがねのうつわもの)、及び金・銀・霞錦(かすみにしき)綾羅(あやうすはた)・虎と豹の皮、及び薬物の類、合わせて百余種。
    また智祥健勲らが別に物を献上した。金・銀・霞錦・綾羅・金器・屏風・鞍皮・絹布・薬物の類、各六十余種。
    別に皇后皇太子、及び諸親王らに献上する物それぞれ数あり。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年四月戊子条】
  • 朱鳥元年4月27日

    多紀皇女山背姫王石川夫人を伊勢神宮に遣わす。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年四月丙申条】
  • 朱鳥元年5月9日

    多紀皇女らが伊勢から帰還する。

    この日、侍医百済人億仁が病にかかり臨死となったので、勤大壱の位を授け、食封百戸を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年五月戊申条】
  • 朱鳥元年5月14日

    勅して大官大寺に食封七百戸を賜り、税三十万束を納める。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年五月癸丑条】
  • 朱鳥元年5月17日

    宮人らに爵位を加増する。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年五月丙辰条】
  • 朱鳥元年5月24日

    天皇が重病となったので、川原寺で薬師経を説かせ、宮中に安居させた。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年五月癸亥条】
  • 朱鳥元年5月29日

    金智祥らに筑紫で饗応して禄物を賜り、筑紫から退去した。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年五月戊辰条】
  • 朱鳥元年5月

    勅して左右の大舎人らを遣わして、諸々の寺の堂塔を掃き清めさせた。そして天下に大赦したので獄は空となった。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年五月是月条】
  • 朱鳥元年6月1日

    槻本村主勝摩呂に姓を賜って連という。そして勤大壱の位を加えて食封二十戸を賜った。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年六月己巳朔条】
  • 朱鳥元年6月2日

    工匠・陰陽師・侍医・大唐学生、及び一人二人の官人、合わせて三十四人に爵位を授けた。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年六月庚午条】
  • 朱鳥元年6月7日

    諸司の人々から功ある二十八人を選んで爵位を加増した。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年六月乙亥条】
  • 朱鳥元年6月10日

    天皇の病を占ってみると草薙剣の祟りありと出たので、その日の内に尾張国の熱田社に送り置いた。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年六月戊寅条】
  • 朱鳥元年6月12日

    雨乞いする。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年六月庚辰条】
  • 朱鳥元年6月16日

    伊勢王、及び官人らを飛鳥寺に遣わして、諸々の僧に勅して言うには「近頃、朕の身体は臭う。願わくは三宝の威光に頼り、身体を安らかにしたいと思う。僧正・僧都、及び諸々の僧は誓願せよ」と。
    そして珍宝を三宝に奉った。

    この日、三綱・律師、及び四寺の和上・知事、合わせて現師位(のりのしのくらい)にある僧らに御衣・御被それぞれ一具を施した。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年六月甲申条】
  • 朱鳥元年6月19日

    勅して百官の人々を川原寺に遣わして燃灯供養(ねんとうくよう)沢山の火を灯して仏を供養する法会。をした。
    盛大に斎会を設けて悔過(けか)罪や過ちを悔い改めること。した。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年六月丁亥条】
  • 朱鳥元年6月22日

    名張の厨司で火災が起きる。

    六月庚寅(22日)条だが、丙申(28日)条と七月庚子条の間にある。
    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年六月庚寅条】
  • 朱鳥元年6月28日

    法忍・僧義照に養老の為、それぞれに食封三十戸を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年六月丙申条】
  • 朱鳥元年7月2日

    勅して「男夫は脛裳(はばきも)を着て、婦女は髪を背に垂らすこと、元のようにせよ天武天皇十一年四月乙酉条の結髪令の解除。」と。

    この日、僧正・僧都たちが宮中に参って悔過した。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年七月庚子条】
  • 朱鳥元年7月3日

    諸国に詔して大解除(おおはらえ)を行う。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年七月辛丑条】
  • 朱鳥元年7月4日

    天下の調を半分に減らし、全ての徭役(ようえき)を免じる。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年七月壬寅条】
  • 朱鳥元年7月5日

    幣を紀伊国の国懸神(くにかかすかみ)・飛鳥の四社・住吉大神に奉る。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年七月癸卯条】
  • 朱鳥元年7月8日

    百人の僧を召して金光明経を宮中で読ませる。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年七月丙午条】
  • 朱鳥元年7月10日

    雷が南方に光って一度大きく鳴った。そして民部省(かきべのつかさ)の庸を納めた舎屋が火災を起った。
    或いは「忍壁皇子の宮の失火が延焼して民部省を焼いた」という。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年七月戊申条】
  • 朱鳥元年7月15日

    勅して「天下の事は大小を問わず、全て皇后及び皇太子に申せ」と。

    この日、大赦した。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年七月癸丑条】
  • 朱鳥元年7月16日

    広瀬・竜田の神を祭る。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年七月甲寅条】
  • 朱鳥元年7月19日

    詔して「天下の人民で、貧しさゆえに稲や資財を貸し与えられた者は、乙酉年天武天皇十四年十二月三十日以前は公私問わず全て免除せよ」と。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年七月丁巳条】
  • 朱鳥元年7月20日

    改元して朱鳥(あかみとり)割注に「朱鳥。此云阿訶美苔利」とある。元年という。宮を名付けて飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)という。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年七月戊午条】
  • 朱鳥元年7月28日

    浄行者七十人を選んで出家させた。そして宮中の御窟院(みむろのまち)で斎会を設けた。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年七月丙寅条】
  • 朱鳥元年7月

    諸々の王・臣たちが天皇の為に観世音像を造り、観世音経を大官大寺に説かせた。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年七月是月条】
  • 朱鳥元年8月1日

    天皇の為に八十人の僧を得度させる。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年八月己巳朔条】
  • 朱鳥元年8月2日

    僧尼合わせて百人得度させた。そして百の菩薩を宮中に据えて観世音経二百巻を読ませた。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年八月庚午条】
  • 朱鳥元年8月9日

    天皇の体調が悪くなったので神祇に祈った。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年八月丁丑条】
  • 朱鳥元年8月13日

    秦忌寸石勝を遣わして、土左大神(とさのおおかみ)土佐国一宮土佐神社。に幣を奉った。

    この日、皇太子大津皇子高市皇子にそれぞれ食封四百戸を加え、川島皇子忍壁皇子にそれぞれ食封百戸を加える。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年八月辛巳条】
  • 朱鳥元年8月15日

    芝基皇子磯城皇子にそれぞれ食封二百戸を加える。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年八月癸未条】
  • 朱鳥元年8月21日

    桧隈寺(ひのくまでら)軽寺(かるでら)大窪寺(おおくぼでら)に三十年を限りとしてそれぞれ食封百戸を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年八月己丑条】
  • 朱鳥元年8月23日

    巨勢寺(こせでら)に食封二百戸を賜る。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年八月辛卯条】
  • 朱鳥元年9月4日

    親王以下、諸臣に至るまで、ことごとく川原寺に集めて天皇の病の為に誓願して云々。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年九月辛丑条】
  • 朱鳥元年9月9日

    天皇の病は遂に癒えず、正宮(おおみや)で崩じた。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年九月丙午条】
  • 朱鳥元年9月11日

    はじめて発哭(みね)を奉り、殯宮を南庭に建てる。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年九月戊申条】
  • 朱鳥元年9月24日

    南庭で殯して発哀した。
    この時に当り、大津皇子皇太子に謀反を企てる。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年九月辛酉条】
  • 朱鳥元年9月27日

    平旦(とらのとき)寅の刻。午前4時前後。、諸々の僧尼が発哭して殯庭を退いた。

    この日、はじめて(みけ)供物。を奉り、(しのびごと)を奉った。
    第一に大海宿禰𬜮蒲壬生の事養育の事。大海人皇子の『大海』は、大海氏に養育された由縁の可能性が高い。を誄した。
    次に浄大肆伊勢王が諸王の事を誄した。
    次に直大参県犬養宿禰大伴が宮内の事を誄した。
    次に浄広肆河内王が左右の大舎人の事を誄した。
    次に直大参当摩真人国見が左右の兵衛の事を誄した。
    次に直大肆采女朝臣竺羅が内命婦の事を誄した。
    次に直広肆紀朝臣真人が膳職の事を誄した。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年九月甲子条】
  • 朱鳥元年9月28日

    諸々の僧尼がまた殯庭で発哭した。

    この日、直大参布勢朝臣御主人が太政官の事を誄した。
    次に直広参石上朝臣摩呂が法官の事を誄した。
    次に直大肆大三輪朝臣高市摩呂が理官の事を誄した。
    次に直広参大伴宿禰安麻呂が大蔵の事を誄した。
    次に直大肆藤原朝臣大島が兵政官の事を誄した。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年九月乙丑条】
  • 朱鳥元年9月29日

    僧尼がまた発哀した。

    この日、直広肆阿倍久努朝臣摩呂が刑官の事を誄した。
    次に直広肆紀朝臣弓張が民官の事を誄した。
    次に直広肆穂積朝臣虫摩呂が諸々の国司の事を誄した。
    次に大隅・阿多の隼人、及び倭・河内の馬飼部造(うまかいべのみやつこ)がそれぞれ誄した。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年九月丙寅条】
  • 朱鳥元年9月30日

    僧尼が発哀した。

    この日、百済王良虞百済王善光に代って誄した。
    次に国々の造らが参上するに従い、それぞれ誄して、様々な歌舞が演奏した。

    【日本書紀 巻第二十九 朱鳥元年九月丁卯条】
  • 持統天皇2年11月11日

    大内陵(おおちのみささぎ)に葬られる。

    【日本書紀 巻第三十 持統天皇二年十一月乙丑条】