舒明天皇

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名前
  • 漢風諡号:舒明天皇(じょめいてんのう, じょめいてんわう)
  • 和風諡号:息長足日廣額天皇【日本書紀】(おながたらしぬか)息長足日広額天皇
  • 田村皇子【日本書紀】(たむら
  • 廣額天皇【日本書紀】ぬか)広額天皇
  • 高市天皇【日本書紀】(た
性別
男性
生年月日
( ~ 推古天皇36年3月6日)
没年月日
舒明天皇13年10月9日
  • 押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこ【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇即位前紀, 古事記 下巻 敏達天皇段】
  • 糠手姫皇女ぬかてひめのひめみこ田村王たむらのみこ【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇即位前紀, 古事記 下巻 敏達天皇段】
先祖
  1. 押坂彦人大兄皇子
    1. 敏達天皇
      1. 欽明天皇
      2. 石姫皇女
    2. 広姫
      1. 息長真手王
  2. 糠手姫皇女
    1. 敏達天皇
      1. 欽明天皇
      2. 石姫皇女
    2. 菟名子夫人
      1. 伊勢大鹿小熊
配偶者
  • 田眼皇女ためのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】
  • 皇后:宝皇女たからのひめみこ(皇極天皇、斉明天皇)【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 夫人:法提郎媛ほてのいらつめ【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 蚊屋采女かやのうねめ【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこ【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】【母:法提郎媛ほてのいらつめ
  • 葛城皇子かずらきのみこ天智天皇てんじてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】【母:皇極天皇こうぎょくてんのう斉明天皇さいめいてんのう)】
  • 間人皇女はしひとのひめみこ【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】【母:皇極天皇こうぎょくてんのう斉明天皇さいめいてんのう)】
  • 大海皇子おおあまのみこ天武天皇てんむてんのう【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】【母:皇極天皇こうぎょくてんのう斉明天皇さいめいてんのう)】
  • 蚊屋皇子かやのみこ【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】【母:蚊屋采女かやのうねめ
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 第34代天皇てんのう
出来事
  • 日子人太子の子として生まれる。母は田村王

    【古事記 下巻 敏達天皇段】
  • 推古天皇36年3月6日

    推古天皇から「天位に昇って鴻基(あまつひつぎ)を治め、万機を統べて人民を養うことは容易いことではない。常に重く見てきた。お前も慎んで観察しなさい。軽々しく言ってはならない」との言葉を賜る。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年三月壬子条】
  • 推古天皇36年3月7日

    推古天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年三月癸丑条】
  • 推古天皇36年9月

    葬礼が終った。
    皇嗣は未だ定まっていなかった。

    この時、蘇我蝦夷臣大臣だった。
    一人で皇嗣を定めたいと思ったが、群臣が従わないのではないかと恐れた。
    阿倍麻呂臣と議り、群臣を集めて大臣の家で饗応した。

    食事が終って散会しようとする時、大臣阿倍臣に命じ、群臣に語らせて「いま天皇が崩じて皇嗣が定まっていない。もし速やかに計らなければ、乱れがあるのではないかと恐れている。何れの王を後継者とするべきだろうか。天皇が病に臥した日、田村皇子に『天下は大任である。もとより容易く言うものではない。田村皇子よ。慎んで観察するように。怠ってはならない』と詔された。次に山背大兄王に『お前は一人であれこれ言ってしまう。必ず群臣の言葉に従うように。慎しんで背くことのないように』と詔された。これが天皇の遺言であるが、誰が天皇となるべきであろうか」と。
    群臣は黙って答えなかった。
    また問うても答えなかった。
    さらに強いて問うと、大伴鯨連が進み出て「天皇の遺命に従うのみです。群臣の言葉を待つ必要はありません」と言った。
    阿倍臣は「どういうことか。はっきりと述べよ」と問うた。
    答えて「天皇はどのような御心で田村皇子に『天下は大任である。怠ってはならない』と詔なされたかです。この言葉で皇位は既に定まっています。誰が異論を唱えましょうか」と。

    時に采女臣摩礼志高向臣宇摩中臣連弥気難波吉士身刺の四臣が言うには「大伴連の言葉に従います。異議はありません」と。
    許勢臣大麻呂佐伯連東人紀臣塩手の三人が進み出て言うには「山背大兄王天皇になるのが宜しいでしょう」と。
    ただ蘇我倉麻呂臣だけは「今は簡単に申し上げることは出来ません。再考した後に申し上げましょう」と言った。

    こうして大臣と群臣は意見がまとまらないことを知って退席した。

    これより先、大臣が一人で境部摩理勢臣に「いま天皇が崩じて後継者がいない。誰が天皇になるべきだろうか」と尋ねると、「山背大兄天皇に推挙致します」と答えた。

    この時、山背大兄斑鳩宮(いかるがのみや)に居て、この議論を漏れ聞いた。
    そして三国王桜井臣和慈古の二人を遣わして、密かに大臣に言うには「伝え聞くところによると、叔父上は田村皇子を天皇にしたいと思われているようですが、私はこの話を聞き、立っては思い、居ては思っても、未だその理を得ません。願わくは、はっきりと叔父上の心意を知りたいと思うのです」と。
    大臣山背大兄の訴えに返答は出来ず、阿倍臣中臣連紀臣・河辺臣・高向臣采女臣大伴連許勢臣らを召喚して、詳しく山背大兄の言葉を説明した。

    やがてまた大夫らに言うには「お前たち大夫は共に斑鳩宮に詣でて、山背大兄王に『賤しい私がどうして一人で皇嗣を定められましょうか。ただ天皇の遺詔を群臣に告げただけでございます。群臣は揃って、遺言の通り田村皇子が皇位をお継ぎになることに異議は無いと言います。これは群卿の言葉でございます。特に私の心意というわけではございません。私の考えがあったとしても、恐れ多くてお伝え致しかねます。お目にかかった日に申し上げます』と申し上げよ」と。

    大夫らは大臣の言葉を受けて、共に斑鳩宮に詣でた。
    三国王桜井臣を使って大臣の言葉を山背大兄に伝えた。

    時に大兄王は群大夫らに伝え問わせて「天皇の遺詔は如何に」と言った。
    答えて「臣等はその深いお考えを理解致しかねます。ただし大臣の話によりますと、天皇が病臥あそばされた日に、田村皇子に『軽々しく国政に口を出してはいけない。お前田村皇子は言葉を慎むように。怠ってはならない』と詔あそばされ、次に大兄王に『お前は未熟である。あれこれやかましく言ってはならない。必ず群臣の言葉に従うように』と詔あそばされました。これは近侍や諸女王及び采女らの全てが知るとこであり、また大王もご存知であります」と。
    大兄王はまた「この遺詔は誰が聞いたか」と問わせると、「臣等はその機密を存じ上げませんでした」と答えた。
    さらにまた群大夫らに告げて「親愛なる叔父は労を思い、一人の使者ではなく、重臣らを遣わして教えさとされた。これは大恩である。しかし今、群卿の言う所の天皇の御遺命は、私の聞いたものと少々違っている。私は天皇が病臥あそばされたと聞き、参上して門下で侍っていると、中臣連弥気が中から出てきて『天皇がお召しです』と言うので、進み出て閤門に向った。栗隈采女黒女が庭中に出迎えて大殿に案内した。中では近習の栗下女王を頭として、女孺鮪女ら八人、合わせて数十人が天皇の側に侍っていた。また田村皇子もおられた。時に天皇の御病気が重くなり、私をご覧あそばされることも能わず、栗下女王が奏上して『お召しの山背大兄王が参りました』と申し上げた。天皇はお起きになられて『朕は寡薄だが久しく大業をつとめた。いま寿命が尽きようとしている。病を忌むことは出来ない。お前はもとより朕と心が通じている。寵愛の情は比べるものが無い。国家の大事は朕の世だけではない。お前は未熟であるから言葉を慎むように』と詔あそばされた。その時に侍っていた近習は全て知っている。それで私はこの大恩を蒙り、一度は恐れ、一度は悲しんだが、心は躍り上がり、歓喜して為す術を知らなかった。思えば社稷宗廟は重大事である。私は若くて賢くもない。どうして大任に当ることが出来ようか。この時に叔父や群卿たちに語ろうと思ったが、言うべき時が無く、今まで言えずにいた。私はかつて叔父の病を見舞おうとして、(みやこ)に行って豊浦寺(とゆらでら)に居た。この日に天皇が八口采女鮪女をお遣わしあそばされ、『お前の叔父の大臣は常にお前のこと憂えて、やがては嗣位(ひつぎのくらい)がお前に当るのではないかと言っている。だから慎んで自愛するように』との詔を賜った。既にはっきりこのような事があったのだ。何を疑おうか。しかし私は天下を貪る気はない。ただ聞いたことを明らかにするだけである。これは天神地祇が証明している。願わくは天皇の真の遺勅を知ることである。また大臣の遣わす群卿は、従来厳矛(いかしほこ)「嚴矛。此云伊箇之倍虛」とある。厳めしい矛。の中を取り持つように、正大に事を伝える人たちである。故によく叔父に申し伝えるように」と。

    別に泊瀬仲王中臣連・河辺臣を呼んで言うには「我ら父子は蘇我から出ていることは天下の知る所である。だから高山のように頼みにしている。願わくは嗣位のことは容易く言わないでほしい」と。
    そして三国王桜井臣に命じ、群卿に副えて遣わして「返事を聞きたいと思います」と言った。
    大臣紀臣大伴連を遣わして、三国王桜井臣に言うには「先日に申し上げております。変わりはございません。しかし臣が敢えて何れの王を軽んじ、何れの王を重んじることはございません」と。

    数日の後、山背大兄はまた桜井臣を遣わして、大臣に「先日の事は、聞いたことを述べただけです。むしろ叔父上に間違いあるのでしょうか原文「寧違叔父哉」とある。これは「叔父上に背くことはありません」と解すこともできるようだと岩波文庫日本書紀の注釈では述べている。」と告げた。

    この日、大臣は病が起こり、桜井臣の面前で話すことが出来なかった。

    翌日、大臣桜井臣を呼び、阿倍臣中臣連・河辺臣・小墾田臣・大伴連を遣わして、山背大兄に申し開きして「磯城島宮御宇天皇の御世から近世に至るまで、群卿はみな賢哲でありました。ただ私は不賢であり、たまたま人が乏しい時に当り、誤って群臣の上に立つことになったのです。それで物事の決定に手間取りますが、今回の事は重大です。人伝に申し上げられません。老臣ではありますが申し上げます。遺勅は誤ってはならないということで、私意ではございません」と。

    大臣阿倍臣中臣連に伝え、さらに境部臣に「どの王が天皇によいか」と問うと、「以前に大臣自ら問われて私は申し上げております。何を今更伝えることがありましょうか」と答え、大いに怒って行ってしまった。
    この時に蘇我氏の諸族が皆集って島大臣の為に墓を造って墓所に宿っていた。
    摩理勢臣は墓所の廬を壊して、蘇我の田家(なりどころ)田荘・別業。に退いて仕えなかった。
    大臣は怒って身狭君勝牛錦織首赤猪を遣わし、教えて言うには「私はお前の言葉の非を知っているが、親族の義から害することは出来ない。ただし他人に非がありお前が正しければ、私は必ず他人よりもお前に従う。もし他人が正しくお前に非があれば、私はお前と離れて他人に従う。これを以ってお前が遂に従わないのであれば、私はお前から離れる。国も乱れてしまう。そうなれば後世の人は我ら二人が国を損なったと言うであろう。これは後世の不名誉である。お前は慎しんで逆心を起こすことの無いように」と。
    しかし猶も従わず、遂に斑鳩に赴いて泊瀬王の宮に住んだ。

    大臣は益々怒り、群卿を遣わして山背大兄に言うには「この頃摩理勢が私に背いて泊瀬王の宮に隠れています。願わくは摩理勢を頂いて、そのわけを調べたいと思います」と。
    大兄王は答えて「摩理勢はもとより聖皇直後に先王とあることから見て聖徳太子を指すか。に可愛がられていたので、暫く身を寄せていたのです。叔父の情に背くことではありません。どうかお咎めにならないで下さい」と。
    そして摩理勢に語って「お前が先王の恩を忘れず、こちらへ来たことは甚だ愛しいことである。しかしお前一人が原因で天下が乱れてしまうことになる。先王が御臨終の際、諸子たちに『諸々の悪を行わず、諸々の善を行うように』と仰られた。私はこの言葉を承り、永く戒めとしている。だから私情が有るといえども、忍んで怨むことは無い。また私も叔父に背くことを良しとはしない。どうか今後は憚ること無く心を改めよ。群臣に従って退出することも無いように」と。
    大夫らは摩理勢臣に教えて「大兄王の命に背いてはならない」と言った。

    摩理勢臣は拠り所が無く、泣きながら帰って家に閉じこもること十日余り、泊瀬王が急に病を発して薨じてしまった。
    摩理勢臣は「私は誰を頼りに生きればよいのか」と言った。

    大臣境部臣を殺そうとして派兵した。
    境部臣は兵が来たことを聞き、仲子(なかち)兄弟で中間の子。阿椰を率いると門を出て胡床に坐って待った。
    時に兵がやってきて、命令を受けた来目物部伊区比が絞め殺した。
    父子共に死に、同じ所に埋められた。
    ただ兄子(このかみ)長子。毛津は尼寺の瓦舎(かわらや)に逃げ隠れた。
    そこで一人二人の尼を犯した。これを一人の尼が表沙汰にした。
    寺を囲んで捕えようとすると、脱出して畝傍山に入ったので山を探らせた。
    毛津は逃げ入る所も無く、頸を刺して山中で死んだ。

    時の人は歌った。

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    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇即位前紀 推古天皇三十六年九月条】
  • 舒明天皇元年1月4日

    大臣・群卿は共に天皇の璽印(みしるし)を田村皇子に献上した。
    しかし辞して「宗廟を守ることは重大事であるが、私は不賢である。どうして任に当れようか」と言った。
    群臣は伏して「大王は先帝の寵愛を賜り、神も人も心を寄せてます。皇統を継いで人民に光をお与え下さい」と言った。

    その日に即位して天皇となった。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇元年正月丙午条】
  • 舒明天皇元年4月1日

    田部連「闕名」とある。掖玖(やく)屋久島。に遣わす。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇元年四月辛未朔条】
  • 舒明天皇2年1月12日

    宝皇女を立てて皇后とする。后は二男一女を生んだ。
    第一を葛城皇子という。近江大津宮御宇天皇である。
    第二を間人皇女という。
    第三を大海皇子という。浄御原宮御宇天皇である。

    夫人(おおとじ)蘇我島大臣の女の法提郎媛古人皇子を生んだ。またの名は大兄皇子

    また吉備国の蚊屋采女を娶り、生まれたのは蚊屋皇子

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年正月戊寅条】
  • 舒明天皇2年3月1日

    高麗(こま)の大使宴子抜・小使若徳百済(くだら)の大使恩率素子・小使徳率武徳が共に朝貢する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年三月丙寅朔条】
  • 舒明天皇2年8月5日

    大仁犬上君三田耜大仁薬師恵日を大唐に遣わす。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年八月丁酉条】
  • 舒明天皇2年8月8日

    高麗・百済の客に朝廷で饗応する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年八月庚子条】
  • 舒明天皇2年9月4日

    高麗・百済の客が帰国する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年九月丙寅条】
  • 舒明天皇2年9月

    田部連らが掖玖から帰還する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年九月是月条】
  • 舒明天皇2年10月12日

    飛鳥岡(あすかのおか)の傍に遷った。これを岡本宮(おかもとのみや)という。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年十月癸卯条】
  • 舒明天皇2年

    改めて難波の大郡(おおこおり)三韓館(みつのからひとのむろつみ)を修理する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇二年是歳条】
  • 舒明天皇3年2月10日

    掖玖の人が帰化する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇三年二月庚子条】
  • 舒明天皇3年3月1日

    百済王義慈が王子豊章を人質として奉る。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇三年三月庚申朔条】
  • 舒明天皇3年9月19日

    津国の有間温湯(ありまのゆ)に行幸する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇三年九月乙亥条】
  • 舒明天皇3年12月13日

    温湯より還幸する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇三年十二月戊戌条】
  • 舒明天皇4年8月

    大唐が高表仁を遣わして三田耜を送らせた。共に対馬に泊った。
    この時に学問僧の霊雲僧旻、及び勝鳥養、新羅の送使らが従った。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇四年八月条】
  • 舒明天皇4年10月4日

    唐国の使人高表仁らが難波津(なにわのつ)に着いた。
    大伴連馬養を遣わして江口に迎えさせた。
    船三十二艘、及び(つづみ)(ふえ)旗幟(はた)を整飾した。
    そして高表仁らに告げて「天子が遣わされた使いが、天皇の朝廷においでになると聞いてお迎えに参りました」と言った。
    高表仁は「風が吹き荒れる日に、整飾された船でお迎え賜り、喜びかつ恐縮に存じます」と答えた。

    難波吉士小槻大河内直矢伏に先導させて館の前に案内し、伊岐史乙等難波吉士八牛を遣わして客を館に入らせた。
    その日に神酒を賜った。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇四年十月甲寅条】
  • 舒明天皇5年1月26日

    大唐の客高表仁らが帰国した。
    送使の吉士雄摩呂黒麻呂らは対馬まで送って帰還した。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇五年正月甲辰条】
  • 舒明天皇6年8月

    長い星が南方に見えた。時の人は篲星(ほうきぼし)と言った。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇六年八月条】
  • 舒明天皇7年1月

    篲星が廻って東に見えた。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇七年正月条】
  • 舒明天皇7年6月10日

    百済が達率柔らを遣わして朝貢する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇七年六月甲戌条】
  • 舒明天皇7年7月7日

    百済の客に朝廷で饗応する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇七年七月辛丑条】
  • 舒明天皇7年7月

    不思議な蓮が剣池(つるぎのいけ)に生えた。一本の茎に二つの花だった。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇七年七月是月条】
  • 舒明天皇8年1月1日

    日蝕。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇八年正月壬辰朔条】
  • 舒明天皇8年3月

    采女を犯した者を全て調べて罰した。
    この時に三輪君小鷦鷯は取り調べられたことを苦しんで頸を刺して死んだ。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇八年三月条】
  • 舒明天皇8年5月

    長雨で洪水があった。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇八年五月条】
  • 舒明天皇8年6月

    岡本宮(おかもとのみや)が火災に遭い、田中宮(たなかのみや)に居を遷す。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇八年六月条】
  • 舒明天皇8年7月1日

    大派王豊浦大臣に言うには「群卿及び百寮が参朝することを怠っている。今後は卯の刻の始め卯の刻は午前6時の前後1時間。その始まりは午前5時ころ。に参朝し、巳の刻の後巳の刻は午前10時の前後1時間。その終わりは午前12時ころ。に退朝させよう。これらを鍾で知らせるように」と。
    しかし大臣は従わなかった。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇八年七月己丑朔条】
  • 舒明天皇8年

    大旱で凶作だった。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇八年是歳条】
  • 舒明天皇9年2月23日

    大きな星が東から西に流れた。その時の音が雷に似ていた。
    時の人は「流星の音だ」と言った。または「地雷(つちのいかずち)だ」と言った。
    僧旻が言うには「流星ではない。これは天狗である。その吠声が雷に似ているだけだ」と言った。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇九年二月戊寅条】
  • 舒明天皇9年3月2日

    日蝕。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇九年三月丙戌条】
  • 舒明天皇9年

    蝦夷が叛いて参朝しなかった。

    大仁上毛野君形名を召して将軍として討たせた。
    しかし逆に蝦夷に敗れ、砦に逃げ入ったが、遂に賊に囲まれた。
    軍勢の悉くが逃亡して砦は空になった。将軍は惑って為す術が無かった。

    時に日が暮れ、垣を越えて逃げようとした。
    方名君の妻が歎いて「忌々しい。蝦夷に殺されてしまうとは」と言った。
    そして夫に言うには「あなたの先祖は青海原を渡り、万里を越え、海外の政を平らげ、武威は後世に伝えられました。ここであなたの先祖の名を汚せば、必ずや後世に笑われるでしょう」と。
    そして酒を酌んで夫に無理やり飲ませると、自ら夫の剣を佩き、十の弓を張り、女数十人に命じて弦を鳴らせた。
    そのうち夫も起き上がり、武器を取って進撃した。

    蝦夷は軍勢がまだ多いと思い、少し退かせた。

    やがて散り散りになっていた兵が集まってきて隊も整い、反撃して蝦夷を大いに敗り、悉くを虜にした。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇九年是歳条】
  • 舒明天皇10年7月19日

    大風が吹き、木を折り家屋を壊した。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十年七月乙丑条】
  • 舒明天皇10年9月

    長雨があり、桃・李の花が咲いた。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十年九月条】
  • 舒明天皇10年10月

    有間温湯宮(ありまのゆのみや)に行幸する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十年十月条】
  • 舒明天皇10年

    百済・新羅・任那が朝貢する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十年是歳条】
  • 舒明天皇11年1月8日

    温湯より還幸する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十一年正月壬子条】
  • 舒明天皇11年1月11日

    新嘗する。有間に行幸していたために新嘗を行わなかったか同十年の新嘗を指す。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十一年正月乙卯条】
  • 舒明天皇11年1月12日

    雲が無いのに雷が鳴った。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十一年正月丙辰条】
  • 舒明天皇11年1月22日

    大風が吹いて雨が降った。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十一年正月丙寅条】
  • 舒明天皇11年1月25日

    長い星が西北に見えた。
    旻師は「彗星である。これが見えると凶作になる」と言った。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十一年正月己巳条】
  • 舒明天皇11年7月

    詔して「今年は大宮と大寺を造らせる」と。
    そして百済川(くだらがわ)のほとりを宮処とした。
    西の民は宮を造り、東の民は寺を造った。
    書直県大匠(おおたくみ)とした。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十一年七月条】
  • 舒明天皇11年9月

    大唐の学問僧恵隠恵雲が新羅の送使に従って入京する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十一年九月条】
  • 舒明天皇11年11月1日

    新羅の客に朝廷で饗応する。そして冠位一級を賜る。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十一年十一月庚子朔条】
  • 舒明天皇11年12月14日

    伊予温湯宮(いよのゆのみや)に行幸する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十一年十二月壬午条】
  • 舒明天皇11年12月

    百済川のほとりに九重塔(ここのこしのとう)を建てる。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十一年十二月是月条】
  • 舒明天皇12年2月7日

    星が月に入った。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十二年二月甲戌条】
  • 舒明天皇12年4月16日

    伊予より還幸して厩坂宮(うまやさかのみや)に居す。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十二年四月壬午条】
  • 舒明天皇12年5月5日

    大設斎を催す。
    恵隠無量寿経(むりょうじゅきょう)を説かせた。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十二年五月辛丑条】
  • 舒明天皇12年10月11日

    大唐の学問僧清安、学生高向漢人玄理が新羅を通ってやってきた。
    百済・新羅の朝貢の使いも共に従ってやってきた。
    各々に爵一級を賜った。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十二年十月乙亥条】
  • 舒明天皇12年10月

    百済宮(くだらのみや)に移る。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十二年十月是月条】
  • ある本に云わく、請願して寺を造って三宝を恭敬した。
    十三年辛丑春三月十五日舒明天皇13年3月15日。、浄土寺を始めて云々。

    注に云わく、
    辛丑年舒明天皇13年。に始めて地を平らにした。
    癸卯年皇極天皇2年。に金堂を立てた。
    戊申大化四年。に始めて僧が住んだ。
    己酉年三月廿五日大化5年3月25日。大臣が害に遭う。
    癸亥天智天皇2年。に塔を構える。
    癸酉年十二月十六日天武天皇2年12月16日。に塔の心柱を建てた。
    その柱礎の中に円穴を作って浄土寺と刻んだ。
    その中に蓋のある大鋎一口を置いた。内に種々の珠玉を盛った。
    その中に塗金の壷があった。壷の内にもまた種々の珠玉を盛った。
    その中に銀壷があった。壷の中内に鈍金の壷があった。
    その内に青瑠璃の瓶があった。その内に舎利八粒を納めた。
    丙子年四月八日天武天皇5年4月8日。に露盤を上げた。
    戊寅年十二月四日天武天皇7年12月4日。に丈六の仏像を鋳る。
    乙酉年三月廿五日天武天皇14年3月25日。に仏眼を点じた。
    山田寺が是である。

    注は承歴二年戊午承歴2年。に、南一房にてこれを写す。真曜の本である。

    【上宮聖徳法王帝説 知恩院所蔵本 裏書】
  • 舒明天皇13年10月9日

    百済宮で崩じる。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十三年十月丁酉条】
  • 舒明天皇13年10月18日

    宮の北に殯する。これを百済大殯(くだらのおおもがり)という。
    この時に東宮開別皇子は年十六で(しのびごと)を述べた。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十三年十月丙午条】
  • 皇極天皇元年12月13日

    皇極天皇により喪が発せられる。

    この日に小徳巨勢臣徳太大派皇子の代りに(しのびごと)した。
    次に小徳粟田臣細目軽皇子の代りに誄した。
    次に小徳大伴連馬飼大臣の代りに誄した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月甲午条】
  • 皇極天皇元年12月14日

    息長山田公が日嗣の誄を奉る。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月乙未条】
  • 皇極天皇元年12月21日

    滑谷岡(なめはさまのおか)に葬られる。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月壬寅条】
  • 皇極天皇2年9月6日

    押坂陵(おしさかのみささぎ)に葬られる。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月壬午条】
    • 広額天皇を呼んで高市天皇という。

      【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年九月壬午条 或本云】