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- 名前
- 氏(ウジ):蘇我倉山田石川【日本書紀】(そがのくらのやまだのいしかわ, そがのくらのやまだのいしかは)
- 姓(カバネ):臣【日本書紀】(おみ)
- 名:麻呂【日本書紀】(まろ)
- 蘇我倉山田石川麻呂臣【日本書紀】(そがのくらのやまだのいしかわのまろのおみ, そがのくらのやまだのいしかはのまろのおみ)
- 蘇我倉山田麻呂【日本書紀】(そがのくらのやまだのまろ)
- 倉山田麻呂臣【日本書紀】(くらのやまだのまろのおみ)
- 倉山田臣【日本書紀】(くらのやまだのおみ)
- 山田麻呂【日本書紀】(やまだのまろ)
- 蘇我山田石川麻呂大臣【日本書紀】(そがのやまだのいしかわのまろのおおおみ, そがのやまだのいしかはのまろのおほおみ)
- 蘇我石川万侶大臣【日本書紀】(そがのいしかわのまろのおおおみ, そがのいしかはのまろのおほおみ)
- 蘇我石川麻呂大臣【日本書紀】(そがのいしかわのまろのおおおみ, そがのいしかはのまろのおほおみ)
- 倉山田大臣【日本書紀】(くらのやまだのおおおみ, くらのやまだのおほおみ)
- 蘇我倉山田麻呂大臣【日本書紀】(そがのくらのやまだのまろのおおおみ, そがのくらのやまだのまろのおほおみ)
- 山田大臣【日本書紀】(やまだのおおおみ, やまだのおほおみ)
- 蘇我山田麻呂大臣【日本書紀】(そがのやまだのまろのおおおみ, そがのやまだのまろのおほおみ)
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 皇極天皇4年6月8日)
- 没年月日
- 大化5年3月25日
- 父
- 先祖
- 子
- 称号・栄典
右大臣 【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀 皇極天皇四年六月庚戌条】
- 出来事
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皇極天皇4年6月8日
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皇極天皇4年6月12日
中臣鎌子連は蘇我入鹿臣の人となりが疑い深く、昼夜剣を持っていることを知っていたので、
俳優 に教えて騙し解かせた。
入鹿臣は笑って剣を解き、中に入って座についた。倉山田麻呂臣は進み出て三韓の表文を読み上げた。
中大兄は衛門府 に戒めて、一斉に十二の通門を固めて往来を止めた。
衛門府を一ヶ所に集めて禄を授けようとした。時に中大兄は長槍を持って殿の側に隠れた。
中臣鎌子連らは弓矢を持って助け守った。海犬養連勝麻呂を使い、箱の中に入った二つの剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に授けて「ぬかりなく忽ちに斬れ」と言った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月戊申条】
子麻呂らは水で飯を流し込んだが、恐れて吐き出してしまった。中臣鎌子連は責めつつも励ました。
倉山田麻呂臣は表文を読み終わろうとしても子麻呂らが来ないのを恐れて汗が体から溢れ、声が乱れ、手が震えた。
鞍作臣が怪しんで「何故震えているのか」と問うと、山田麻呂は「天皇が近くにお出でなので汗が流れてしまいます」と答えた。
中大兄は子麻呂らが入鹿の威に恐れ、怯んで進み出ないのを見て「やあ」と言った。
そして子麻呂らと共に、不意に剣で入鹿の頭と肩を割った。
入鹿は驚いて立とうとした。
子麻呂は剣を振るってその片足を斬った。
入鹿は御座のほうに転び、叩頭して「嗣位にお出でになるのは天の子です。自分の罪がわかりません。どうか明らかにして下さい」と言った。
天皇は大いに驚いて中大兄に詔して「いったい何事であるか」と言った。
中大兄は地に伏して言うには「鞍作は天宗を全て滅ぼして日位 を傾けようとしました。どうして天孫を鞍作に代えることが出来ましょうか」と。
天皇は立ち上がって殿の中に入った。 -
皇極天皇4年6月14日
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皇極天皇4年6月15日
【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀 皇極天皇四年六月辛亥条】金策 を賜る。-
【日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇即位前紀 皇極天皇四年六月辛亥条 或本云】練金 を賜る。
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大化元年7月12日
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大化元年7月13日
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大化元年7月14日
奏上して「まず神祇を祭り鎮め、然る後に政事を議りましょう」と。
【日本書紀 巻第二十五 大化元年七月庚辰条】 - ・・・
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大化2年2月15日
天皇は宮の東門から蘇我右大臣を使って詔して「
明神 として天下を治める日本の天皇は集まった卿等・臣・連・国造・伴造、及び諸々の人民に詔する。朕が聞くところによると、明哲の人が民を治めるには、鍾を宮殿の門にかけて人民の憂えを聞き、分かれ道に小屋を建てて通行人の不平を聞く。草刈りや木こりの話でも親しく問うて師とするという。それで朕は先に詔を下し、『古来天下を治めるのに、朝廷に善を進める旗や誹謗の木があった。治道を通じて諫める者を招くためである。広く下々に意見を問うためである。管子曰く、黄帝は明堂の議を立てて賢人を観察し、尭は奥の部屋で民の意見を聞き、舜は善を告げる旌を設け、禹は鼓を朝廷に立てて望みがあれば打たせた。湯は辻に設けた庭から民の非を観察した。武王は霊台の園があって賢者の言を聞いた。このように聖帝明王は保っては失することなく、得ては亡くすことはなかったという。それで鍾をかけ、匱を設け、収表人を決める。憂え諫める人は表を匱に納めさせる。収表人に詔して毎朝奏上させる。朕は奏上を聞き、群卿に示して処置を決める。滞ることが無いようにせよ。もし群卿が或いは怠り、或いは徒党を組み、朕の諫めを聞き入れなければ、憂え訴える人は鐘を撞くがよい』と、詔はこの通りである。民は明るく真っ直ぐな心で国を思う気風を持ち、切に諫める陳情を設けた匱に納めた。そこで今万民に明かにする。その表に言うには、国政に仕えるために京 に来た民を引き止めて雑役に使っている云々と。朕はこれを傷ましく思う。民はなぜここに来たのかと思うだろう。しかし遷都して未だ間もなく、落ち着く所がないのは旅人に似ている。これにより使ってはならないのに強いて使ってしまう。これを思うたびに落ち着いて寝られない。朕はこの表を見て褒めることを止め難い。それで諫言に従って処々の雑役を止めさせる。前に『諫める者は名を記せ』と詔したが守られていない。利を求めずに国を助けようとしたのだろう。記名の有無は問わず、朕が忘れていることを諫めてほしい」と。また詔して「集まった国民からの訴えは多かった。今まさに理を解くので宣旨を受けよ。愁訴のため入京して朝廷に集まった者は、しばらくは退去せずに朝廷で待機せよ」と。
【日本書紀 巻第二十五 大化二年二月戊申条】 -
大化3年10月11日
孝徳天皇の
【日本書紀 巻第二十五 大化三年十月甲子条】有間温湯 への行幸に随行する。 -
大化3年
七色十三階冠が制定される。
【日本書紀 巻第二十五 大化三年是歳条】 -
大化4年4月1日
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大化5年3月24日
蘇我臣日向が倉山田大臣を皇太子に讒言して「私の異母兄麻呂は皇太子が海浜にいらっしゃる時を伺って
害 おうとしております。背くこと遠くありません」と。
皇太子は信じた。
天皇は大伴狛連・三国麻呂公・穂積噛臣を蘇我倉山田麻呂大臣のもとに遣わして反逆の虚実を問うた。
大臣は「御返事は天皇の御前で申し上げます」と答えた。天皇はまた三国麻呂公・穂積噛臣を遣わして反状を審らかにしようとしたが、麻呂大臣はまた前のように答えた。
天皇は兵を起して大臣の邸宅を囲んだ。大臣は二人の子、法師と赤猪を連れて茅渟 の道から逃げて倭 国の境に向った。
大臣の長子興志はこれより先に倭に在って、その寺を造っていた。
突然父の逃避を聞いて今来 の大槻のもとで迎え、先に立って寺に入った。
そして大臣に「私自ら進んで来襲する軍を防ぎましょう」と願い出たが、大臣は許さなかった。この夜、興志は宮を焼こうとして士卒を集めた。
【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月戊辰条】 -
大化5年3月25日
大臣が長子興志に「お前は我が身が惜しいか」と言うと、興志は「惜しくはありません」と答えた。
大臣は山田寺の衆僧及び長子興志と数十人に語って「人の臣たる者がどうして君に逆らうことを企てようか。どうして父への孝を失えようか。およそこの伽藍 は、元より自分の為に造ったのではない。天皇の御為に誓ってお造り申し上げたのである。今私は身刺に讒言され、不当に誅されようとしている。せめてもの願いは、黄泉に行っても忠心を懐いたままでありたいということだ。寺に来たわけは、終りの時を安らかに迎えるためである」と。言い終ると仏殿の戸を開き、仰いで誓いを立てて「我は死んでも君王を怨まず」と言った。
誓いが終ると自ら経死した。妻子ら殉死する者は八人だった。この日、大伴狛連と蘇我日向臣を将として軍を率い大臣を追わせた。
【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月己巳条】
将軍の大伴連らが黒山 に至ると、土師連身・采女臣使主麻呂が山田寺から馳せ参じて「蘇我大臣は既に三男一女らと共に自ら経死されました」と告げた。
これにより将軍らは丹比坂 を経て帰還した。 -
大化5年3月26日
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大化5年3月30日
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大化5年3月(26日 ~ 30日)
使者を遣わして山田大臣の資財を収めた。
資財の中で、好書の上には皇太子の書と記されてあった。重宝の上には皇太子の物と記されてあった。使者は帰って状況を報告した。
皇太子は初めて大臣の心が正しく潔いことを知り、悔い恥じて哀しみ歎くことが止まなかった。日向臣を筑紫大宰帥に拝した。世人は「これは
隠流 だろう」と語り合った。皇太子の妃蘇我造媛は、父の大臣が塩に斬られたと聞き、傷心して悲しみ悶えた。塩の名を聞くことを憎んだ。
このため造媛の近侍は、塩の名を呼ぶことを忌み、改めて堅塩 と言った。造媛は遂に傷心して死に至ってしまった。
皇太子は造媛の急逝を聞き、悼み哀しんで激しく泣いた。
野中川原史満が進み出て歌を奉った。「
耶 麻 鵝 播 爾 烏 志 賦 拕 都 威 底 陀 虞 毗 預 倶 陀 虞 陛 屢 伊 慕 乎 多 例 柯 威 爾 鷄 武 」「
模 騰 渠 等 爾 婆 那 播 左 該 騰 摸 那 爾 騰 柯 母 于 都 倶 之 伊 母 我 磨 陀 左 枳 涅 渠 農 」皇太子は歎き褒めて「良い歌だなぁ。悲しいなぁ」と言った。
【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月是月条】
そして御琴を授けて唱和させ、絹四匹・布二十端・綿二褁を賜った。
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蘇我日向 【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月戊辰条】
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