蘇我興志

  • twitterでツイートする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
名前
  • 蘇我興志(そがのこごし)
  • 興志【日本書紀】し)
性別
男性
生年月日
( ~ 大化5年3月24日)
没年月日
大化5年3月25日
  • 蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかわのまろ【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月戊辰条】
先祖
  1. 蘇我倉山田石川麻呂
    1. 蘇我倉麻呂
      1. 蘇我馬子
      2. unknown
    2. unknown
  2. unknown
出来事
  • 大化5年3月24日

    父の蘇我倉山田麻呂大臣孝徳天皇に反逆を疑われ邸宅を囲まれたため、茅渟(ちぬ)の道から逃げて(やまと)国の境に向った。

    大臣の長子興志はこれより先に倭に在って、その寺を造っていた。
    突然父の逃避を聞いて今来(いまき)の大槻のもとで迎え、先に立って寺に入った。
    そして大臣に「私自ら進んで来襲する軍を防ぎましょう」と願い出たが、大臣は許さなかった。

    この夜、興志は「宮とは小墾田宮を謂う」とある。を焼こうとして士卒を集めた。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月戊辰条】
  • 大化5年3月25日

    大臣が長子興志に「お前は我が身が惜しいか」と言うと、興志は「惜しくはありません」と答えた。
    大臣は山田寺の衆僧及び長子興志と数十人に語って「人の臣たる者がどうして君に逆らうことを企てようか。どうして父への孝を失えようか。およそこの伽藍(てら)は、元より自分の為に造ったのではない。天皇の御為に誓ってお造り申し上げたのである。今私は身刺に讒言され、不当に誅されようとしている。せめてもの願いは、黄泉に行っても忠心を懐いたままでありたいということだ。寺に来たわけは、終りの時を安らかに迎えるためである」と。

    言い終ると仏殿の戸を開き、仰いで誓いを立てて「我は死んでも君王を怨まず」と言った。
    誓いが終ると自ら経死した。妻子ら殉死する者は八人だった。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月己巳条】