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- 名前
- 氏(ウジ):蘇我【日本書紀】(そが)
- 名:馬子【日本書紀】(うまこ)
- 名:馬古【上宮聖徳法王帝説】(うまこ)
- 蘇我馬子宿禰【日本書紀】(そがのうまこのすくね)
- 蘇我馬子大臣【日本書紀】(そがのうまこのおおおみ, そがのうまこのおほおみ)
- 馬子宿禰大臣【日本書紀】(うまこのすくねのおおおみ, うまこのすくねのおほおみ)
- 馬子宿禰【日本書紀】(うまこのすくね)
- 蘇我大臣馬子宿禰【日本書紀】(そがのおおおみうまこのすくね, そがのおほおみうまこのすくね)
- 蘇我馬子宿禰大臣【日本書紀】(そがのうまこのすくねのおおおみ, そがのうまこのすくねのおほおみ)
- 馬子大臣【日本書紀】(うまこのおおおみ, うまこのおほおみ)
- 嶋大臣【日本書紀】(しまのおおおみ, しまのおほおみ)島大臣
- 蘇我嶋大臣【日本書紀】(そがのしまのおおおみ, そがのしまのおほおみ)蘇我島大臣
- 蘇我馬古叔尼大臣【上宮聖徳法王帝説】(そがのうまこのすくねのおおおみ, そがのうまこのすくねのおほおみ, そがのうまこのすくにのおおおみ, そがのうまこのすくにのおほおみ)
- 宗我馬子宿禰【上宮聖徳法王帝説】(そがのうまこのすくね)
- 巷宜汙麻古大臣【聖徳太子平氏伝雑勘文】(そがのうまこのおおおみ, そがのうまこのおほおみ)
- 宗我馬背宿禰【新撰姓氏録抄】(そがのうませのすくね)
- キーワード
- 後裔は右京
御炊朝臣 【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
- 後裔は右京
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 敏達天皇元年4月30日)
- 没年月日
- 推古天皇34年5月20日
- 父
蘇我稲目 【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十四年五月丁未条】
- 先祖
- 配偶者
太媛 【紀氏家牒逸文】
- 子
- 称号・栄典
大臣 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年四月是月条】
- 出来事
-
敏達天皇元年4月3日
敏達天皇が即位する。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年四月甲戌条】 -
敏達天皇元年4月(3日 ~ 30日)
大臣となる。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年四月是月条】 -
敏達天皇元年5月1日
-
敏達天皇元年5月15日
天皇は高麗の国書を執って大臣に授け、諸々の
史 を召し集めて読み解かせた。
この時、諸々の史は三日の内に読み解くことは出来ず、船史 の祖王辰爾が読み解いて奉った。
これにより天皇と大臣は褒め讃えて「よく勤めてくれた。辰爾よ。お前がもし学ぶことに親しんでいなければ、誰が読み解くことが出来たであろうか。今から始めて殿中に近侍するように」と。
東西の諸々の史に詔して「お前たちの習業は何故か足りない。お前たちは数が多くとも辰爾には及ばない」と。また高麗が上表した国書は烏の羽に書いてあった。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年五月丙辰条】
文字は黒い羽に紛れて読める者はいなかった。
そこで辰爾は羽を飯の気で蒸して、帛 を羽に押してその文字を全て写した。
朝廷の人は皆が驚いた。 -
敏達天皇3年10月9日
天皇は蘇我馬子大臣を吉備国に遣わして、
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇三年十月丙申条】白猪屯倉 と田部 の数を増やした。
田部の名籍 を白猪史胆津に授けた。 -
敏達天皇4年2月
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年二月壬辰朔条】京師 に帰還して屯倉の事を復命する。 -
敏達天皇4年2月
敏達天皇は新羅が未だに任那を復建しないので、皇子と大臣に詔して「任那の事は怠ることのないように」と。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年二月乙丑条】 -
敏達天皇13年9月
百済から来た
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十三年九月条】鹿深臣 が弥勒 の石像一躯をもたらし、佐伯連 が仏像一躯をもたらした。 -
敏達天皇13年(9月 ~ 12月)
蘇我馬子宿禰はその仏像二躯を請い、そして鞍部村主司馬達等・池辺直氷田を四方に遣わして修行者を探させた。
播磨国にて僧で還俗した者を得た。名は高麗恵便。大臣は師とした。司馬達等の女の島を出家させて善信尼という。年十一歳。
また善信尼の弟子二人も出家させた。
その一は漢人夜菩の女の豊女。名を禅蔵尼という。
その二は錦織壼の女の石女。名を恵善尼という。
馬子は一人仏法に帰依して三人の尼を崇め敬った。
そして三人の尼を氷田直と達等に付けて衣食を供させた。
仏殿を邸宅の東方に造って弥勒の石像を安置した。
三人の尼を招いて大会 の設斎 をした。
この時に達等が仏舎利を斎食 の上で見つけ、その舎利を馬子宿禰に献上した。
馬子宿禰は試しに舎利を鉄床 の上に置いて鉄鎚で打ってみた。
その鉄床と鉄鎚は砕けたが、舎利が砕けることはなかった。
また舎利を水に投げ入れてみると、舎利は心に願うままに浮き沈みした。
これにより馬子宿禰・池辺氷田・司馬達等は仏法を深く信じて修行を怠らなかった。
馬子宿禰はまた石川の邸宅に仏殿を造った。仏法の初めはこれより興った。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十三年是歳条】 -
敏達天皇14年2月15日
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年二月壬寅条】大野丘 の北に塔を建てて大会 の設斎 をした。
以前に達等が見つけた舎利を塔の心柱に納めた。 -
敏達天皇14年2月24日
蘇我大臣が病を患った。
卜者 に問わせると「父の時に祭った仏神の御心に祟られています」と答えた。
大臣はすぐに子弟を遣わして、その占いの結果を奏上した。
詔して「卜者の言葉に従って父の崇めた神を祀るように」と。
大臣は詔を承り、石像を敬い拝んで寿命を延ばすように乞うた。この時に国に疫病が起り、民に死者が多かった。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年二月辛亥条】 -
敏達天皇14年3月1日
-
敏達天皇14年3月30日
物部弓削守屋大連は自ら寺に赴き、胡床にあぐらをかき、その塔を斬り倒させて火を点けて焼いた。あわせて仏像と仏殿を焼いた。
焼け残った仏像は拾って難波の堀江に棄てさせた。この日、雲が無いのに風が吹き雨が降った。大連は雨衣を着た。
馬子宿禰とそれに従う僧侶を責めて非難の心を生じさせた。
そして佐伯造御室、またの名は於閭礙を遣わして、馬子宿禰の供養する善信らの尼を呼んだ。
馬子宿禰は敢えて命に違えることはせず、慟哭しながら尼を御室に渡した。
有司は忽ちに尼らの法衣を奪い、からめ捕えて海石榴市 の馬屋で鞭打った。
天皇は任那再建を思い、坂田耳子王を使いとした。
この時に天皇と大連が急に疱瘡を患った。それで派遣は果たされなかった。
橘豊日皇子に詔して「先の天皇の勅に背いてはならない。任那の政を勤め修めなさい」と。また疱瘡を発して死ぬ者が国に満ちた。その疱瘡の患者は「身は焼かれ被打たれ砕かれるようだ」と言って泣きながら死んだ。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年三月丙戌条】
老いも若いも「これは仏像を焼いた罪であろうか」と密かに語り合った。 -
敏達天皇14年6月
馬子宿禰が奏上して「私の病が今も治りません。三宝の力を蒙らずに治すことは困難でございます」と。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年六月条】
馬子宿禰に詔して「お前一人で仏法を行いなさい。他の者は行ってはならない」と。
そして三人の尼を馬子宿禰に返した。
馬子宿禰はこれを受けて喜んだ。
珍しいことだと感嘆して三人の尼を地に頭をつけて拝んだ。
新に精舎を造り、迎え入れて供物を捧げた。 -
敏達天皇14年8月15日
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敏達天皇14年9月5日
-
用明天皇元年5月
穴穂部皇子は炊屋姫皇后を犯そうとして自ら強行に殯宮に入ろうとした。
寵臣三輪君逆は衛兵を呼んで宮の門を閉ざして入れさせなかった。穴穂部皇子は「誰がここにいるのか」と問うた。
衛兵は「三輪君逆がいます」と答えた。七度「門を開けよ」と叫んだが、遂に聞き入れられなかった。
穴穂部皇子が大臣と大連に言うには「逆は甚だ無礼である。殯宮の庭で
誄 を読んで『朝庭を荒らさぬよう鏡の面のようにお浄めし、臣がお仕え奉ります』と申した。これは無礼である。天皇の子弟は多くいて両大臣もいる。誰が勝手にお仕え奉るなど言うことが出来ようか。また余が殯の内を見ようと思っても、拒んで入れようとしない。私が『門を開けよ』と七度叫んだが応じることもなかった。是非とも斬り捨てたい」と。
両大臣は「仰せのままに」と答えた。
穴穂部皇子は密かに天下の王となる事を謀り、偽って逆君を殺そうとした。遂に物部守屋大連と兵を率いて磐余の池辺を包囲した。
逆君は気付いて三諸の岳に隠れた。この日の夜半に密かに山を出て後宮に隠れた。
逆と同姓である白堤と横山は逆君の居場所を密告した。
穴穂部皇子は守屋大連を遣わして言うには「お前が行って逆君とその二子を討て」と。
大連は遂に兵を率いて出発した。蘇我馬子宿禰はその計画を伝え聞き、皇子の所に行って門で会った。
大連の所へ行こうとしていたので「王者は刑人を近づけません。自ら行かれてはなりません」と諫めた。
皇子は聞かずに行ってしまった。馬子宿禰はやむなく随行した。磐余 に至り切に諌めた。
皇子は諫言に従い停止した。そしてそこで胡床にあぐらをかいて大連を待った。大連はしばらくしてやってきた。兵を率いて「逆らを斬り終えました」と復命した。
馬子宿禰は歎いて「天下の乱れは久しくない」と言った。
これを聞いた大連は「お前のような小臣が知るところではない」と答えた。この三輪君逆は訳語田天皇の寵愛を受け、内外の事ことごとくを委ねられていた。
【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年五月条】
これにより炊屋姫皇后と馬子宿禰は共に穴穂部皇子を恨むようになった。 -
用明天皇2年4月2日
天皇は病にかかり宮に還った。群臣が侍った。
天皇は群臣に詔して「朕は三宝に帰依しようと思う。卿らも議るように」と。群臣は入朝して議った。
物部守屋大連と中臣勝海連が詔を違えて言うには「どうして国つ神に背いて他の神を敬うことがあろうか。元来このようなことは聞いたことが無い」と。
蘇我馬子宿禰大臣が言うには「詔に従って助け奉るべきである。誰が異なる考えを生じようか」と。
皇弟皇子 は豊国法師を連れて内裏に入った。
物部守屋大連は横目で睨んで激怒した。この時に押坂部史毛屎が慌ててやってきて、密かに大連に「いま群臣が謀って、あなたの退路を断とうとしています」と語った。
大連はこれを聞き、阿都 に退いて人を集めた。中臣勝海連は家に兵を集めて大連を助けた。
遂に太子彦人皇子の像と竹田皇子の像を作って呪った。
しばらくすると事の成り難いことを知り、彦人皇子の水派宮 に帰伏した。舎人の迹見赤檮は勝海連が彦人皇子の所へ退くのを伺い、刀を抜いて殺した。
大連は阿都の家から物部八坂・大市造小坂・漆部造兄を遣わして馬子大臣に言うには「群臣が私を謀ろうとしていることを聞いた。それで私は退いたのである」と。
馬子大臣は土師八島連を大伴毘羅夫連の所に遣わして、詳しく大連のことを話した。
【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月丙子条】
これにより毘羅夫連は手に弓箭・皮楯を執り、槻曲 の家に行き、昼夜離れずに大臣を守護した。 -
用明天皇2年4月9日
用明天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月癸丑条】 -
用明天皇2年5月
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用明天皇2年6月7日
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用明天皇2年6月8日
宅部皇子が誅殺される。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年六月辛亥条】 -
用明天皇2年6月21日
善信阿尼らが大臣に言うには「出家の道は、戒を以って本とします。願わくは百済に行って、戒法を学び受けたいと思います」と。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年六月甲子条】 -
用明天皇2年6月
百済の調使が来朝する。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年六月是月条】
大臣が使人に言うには「この尼らを率いてお前の国に渡り、戒法を学ばせよ。終わったら返すように」と。
使人は「我らは国に帰り、まず国王に申し上げます。その後に出発しても遅くはないでしょう」と答えた。 -
用明天皇2年7月
蘇我馬子宿禰大臣は諸皇子と群臣に勧めて、物部守屋大連を滅ぼそうと謀った。
泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅らは軍勢を率いて、大連を討つために進発した。
大伴連噛・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣らは軍兵を率いて、
志紀郡 から渋河の家に至った。大連は自ら子弟と
奴 の軍を率いて、稲城を築いて戦った。
大連は衣揩 にある朴の木の枝の間に上り、雨のように矢を射た。
その軍は強く盛んで、家に満ち野に溢れた。皇子たちの軍と群臣の軍は、怯え恐れて三度退いた。
この時に厩戸皇子は
瓢 のように髪を束ねて、軍の後に従っていた。
推し測って「もしかすると負けてしまうのではないか。願わずに成功は難しいであろう」と口にすると、白膠木 を斬り、すぐに四天皇像を作って髪の上に置いた。
そして誓いの言葉を発して「今もし我々が敵に勝つことが出来たら、必ずや護世四王 の為に寺塔を建てましょう」と。蘇我馬子大臣もまた誓いの言葉を発して「凡そ諸天王・大神王たちが我々を助け守って勝利を得ることが出来れば、願わくは諸天と大神王の為に寺塔を建てて三宝を伝えましょう」と。
誓いが終わると、様々な武器を備えて進撃した。ここに迹見首赤檮あり。
大連を枝の下に射落し、大連とその子らを殺した。これにより大連の軍は忽ちに敗れた。
兵士の悉くが黒衣を着て、広瀬 の勾原 で狩りをするふりをして散った。この役で、大連の子と一族は、或いは
葦原 に逃げ隠れ、姓を改め名を変える者があれば、或いは逃亡先も知られぬ者もあった。時の人は「蘇我大臣の妻は物部守屋大連の妹である。大臣は妄りに妻の計を用いて、大連を殺したのだ」と語り合った。
平乱の後、摂津国に
四天王寺 を建てた。
大連の奴の半数と家とを分けて、大寺の奴・田荘 とした。田一万代を迹見首赤檮に賜った。
蘇我大臣もまた願いのままに、飛鳥の地に
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年七月条】法興寺 を起工した。-
用明天皇2年(6月 ~ 7月)
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用明天皇2年8月2日
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崇峻天皇元年
百済国が使いに併せて、僧の恵総・令斤・恵寔らを遣わして仏舎利を献上した。
百済国は恩率首信・徳率蓋文・那率福富味身らを遣わして
調 を進上した。
合わせて仏舎利、
僧の聆照律師・令威・恵衆・恵宿・道厳・令開ら、
寺工 の太良未太・文賈古子、
鑪盤博士 の将徳白昧淳、
瓦博士 の麻奈文奴・陽貴文・㥄貴文・昔麻帝弥、
画工 の白加を献上した。蘇我馬子宿禰は百済の僧らに請うて受戒の法を問うた。
善信尼らを百済国の使い恩率首信らに授け、学問させるために出発させた。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇元年是歳条】
飛鳥衣縫造 の祖樹葉の家を壊して、はじめて法興寺 を造った。
この地を飛鳥の真神原 と名付けた。または飛鳥の苫田 と名付けた。 -
崇峻天皇3年3月
学問尼の善信らが百済より帰還して
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇三年三月条】桜井寺 に住んだ。 -
崇峻天皇5年10月4日
山猪の献上があった。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十月丙子条】
天皇が猪を指差して「いつかこの猪の頸を斬るように、朕が憎いと思う人を斬ろう」と詔した。
武器を多く備えて異常だった。-
大伴の
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十一月乙巳条 或本云】嬪 小手子が寵愛の衰えたことを恨み、人を遣わして蘇我馬子宿禰に言うには「この頃、山猪を献上する者がありました。天皇は猪を指差して『猪の頸を斬るように、いつか朕が思う人を斬りたい』と詔されました。また内裏に多くの武器を用意しています」と。
馬子宿禰はこれを聞いて驚いた。
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崇峻天皇5年10月10日
蘇我馬子宿禰は天皇の詔を聞いた。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十月壬午条】
自分を憎んでいることを恐れ、一族を集めて天皇弑逆を謀った。 -
崇峻天皇5年11月3日
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崇峻天皇5年11月5日
早馬を筑紫の将軍の所に遣わして「内乱によって外事を怠ってはならない」と伝えた。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十一月丁未条】 -
崇峻天皇5年11月(3日 ~ 29日)
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崇峻天皇5年12月8日
推古天皇が即位する。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇即位前紀 崇峻天皇五年十二月己卯条】 -
推古天皇元年4月10日
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推古天皇2年2月1日
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上宮厩戸豊聡耳命は島大臣と共に天下の政を助けて三宝を興隆させた。
【上宮聖徳法王帝説】
元興 ・四天皇 などの寺を起した。 -
推古天皇13年5月
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推古天皇11年2月4日
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推古天皇13年4月1日
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推古天皇15年2月9日
推古天皇が詔して「朕が聞くところによると、昔、我が皇祖の天皇たちが世を治めたまうことは、天地に恐縮して神祇を厚く敬い、遍く山川を祀り、遥か乾坤に心を通わせたという。これにより陰陽は調和して、造化は共に整った。朕の世になっても神祇の祭祀を怠ってはならない。群臣は共に心を尽くして神祇を拝するように」と。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十五年二月戊子条】 -
推古天皇15年2月15日
皇太子及び大臣が百寮を率いて神祇を祀り拝した。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十五年二月甲午条】 -
推古天皇18年10月9日
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推古天皇20年1月7日
推古天皇が群卿のために酒宴を催す。
この日、大臣の寿ぎの歌に曰く
「
夜 酒 瀰 志 斯 和 餓 於 朋 耆 瀰 能 訶 勾 理 摩 須 阿 摩 能 椰 蘇 訶 礙 異 泥 多 多 須 彌 蘇 羅 烏 瀰 禮 麼 豫 呂 豆 余 珥 訶 勾 志 茂 餓 茂 知 余 珥 茂 訶 勾 志 茂 餓 茂 知 余 珥 茂 訶 勾 志 茂 餓 茂 知 余 珥 茂 訶 勾 志 茂 餓 茂 訶 之 胡 瀰 弖 菟 伽 陪 摩 都 羅 武 烏 呂 餓 瀰 弖 菟 伽 陪 摩 都 羅 武 宇 多 豆 紀 摩 都 流 」と。
天皇が答えて曰く「
摩 蘇 餓 豫 蘇 餓 能 古 羅 破 宇 摩 奈 羅 麼 譬 武 伽 能 古 摩 多 智 奈 羅 麼 勾 禮 能 摩 差 比 宇 倍 之 訶 茂 蘇 餓 能 古 羅 烏 於 朋 枳 瀰 能 菟 伽 破 須 羅 志 枳 」と。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十年正月丁亥条】 -
推古天皇20年2月20日
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推古天皇22年8月
病に臥す。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十二年八月条】
馬子の為に男女合わせて千人が出家する。-
推古天皇34年8月
推古天皇卅四年秋八月に島大臣が病に臥す。
大臣の為に男女并せて一千人■■■■。また本に云わく、廿二年甲戌秋八月に大臣が病に臥して、卅五年夏六月辛丑に薨じたという。
【上宮聖徳法王帝説 知恩院所蔵本 裏書】
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推古天皇28年
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推古天皇28年2月11日
上宮厩戸豊聡耳皇太子命と大臣蘇我馬子宿禰が勅を受け、先代旧事・天皇紀及び国記、臣・連・伴造・国造、その他の部民・公民らの本紀を撰録する。
【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 推古天皇二十八年二月甲辰条】
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推古天皇29年2月5日
皇太子厩戸豊聡耳皇子命が
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十九年二月癸巳条】斑鳩宮 で薨じた。 -
推古天皇30年
新羅が任那を討った。任那は新羅に附属した。
天皇は新羅を討とうとした。
大臣に謀り、群卿に問うた。
田中臣が答えて言うには「討伐を急ぐのは良くないと存じます。先ずは状況を察し、逆らったことがはっきりした後に討伐しても遅くはないでしょう。試しに使いを遣わして消息を調べさせて頂きたいと存じます」と。
中臣連国が言うには「任那は元々我が国の官家 であり、新羅が攻めて奪ったのです。戦備を整えて新羅を征伐し、任那を取り返して百済に附属させましょう。新羅から奪い返すことに勝ることがありましょうか」と。
田中臣が言うには「そうではない。百済は反覆の多い国である。道の間すらも欺くのだ。凡そ彼らの言葉は信じられない。よって百済に附属させてはならない」と。
このようにして征討は果たせなかった。そこで吉士磐金を新羅に遣わし、吉士倉下を任那に遣わして任那の事を問わせた。
新羅国主は八大夫を遣わして、新羅国の事を磐金に説明した。
また任那国は倉下に説明した。
そして約束して言うには「任那は小国ですが天皇に附属しています。どうして新羅がたやすく得ることが出来ましょうか。いつも通り内官家 と定め、どうか煩いとはなさりませんように」と。そこで奈末智洗遅を遣わして吉士磐金を副えた。
また任那人達率奈末遅を吉士倉下に副えて両国の調を奉った。しかし磐金らが帰還しないうちに、その年に大徳境部臣雄摩侶・小徳中臣連国を大将軍とし、小徳河辺臣禰受・小徳物部依網連乙等・小徳波多臣広庭・小徳近江脚身臣飯蓋・小徳平群臣宇志・小徳大伴連・小徳大宅臣軍を副将軍とし、数万の兵を率いて新羅を征討させた。
時に磐金らは共に港に集まり、出航するために風波の様子をうかがった。
船軍は海に満ちた。
両国の使人はこれを遠くから眺めて愕然とした。そして引き返して堪遅大舎を代わりに任那の調の使いとして奉った。磐金らが相談して「軍を起こせば前の約束に背いてしまう。こうなっては任那の事を成すことは出来ない」と言うと、出航して帰国した。
ただ将軍らは任那に至り、相談して新羅を襲撃しようとした。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十一年是歳条】
新羅国主は軍勢が多いと聞いて降伏を願い出た。
将軍らは共に議って上表した。天皇はこれを許した。 -
推古天皇30年11月
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推古天皇31年4月3日
一人の僧があり、斧で祖父を打った。
これを聞いた天皇は大臣を召すと、詔して「出家する者はひたすらに三宝に帰して戒法を保つというのに、なぜ容易に悪逆を犯すのか。聞くところによると、僧が祖父を打ったという。全ての寺の僧尼を集めて推問せよ。もし事実ならば重罪とする」と。
それで僧尼を集めて推問した。
そして悪逆な僧尼を集めて罰した。百済の観勒僧が上表して言うには「仏法は西国から漢にやってきて三百年が経った後に百済国に伝わりました。僅か百年でございます。我が王は日本の天皇の賢哲を聞いて、仏像と内典を献上しました。まだ百年に満たないのでございます。それで今は僧尼が法律に慣れておらず、容易に悪逆を犯してしまうのでしょう。ですので多くの僧尼は惶懼して、なすべきことを如らないのでございます。どうかその悪逆な者を除き、それ以外の僧尼は全て罪になさらぬようお願い致します。これは大きな功徳になります」と。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十二年四月戊申条】
天皇は聞き入れた。 -
推古天皇31年10月1日
大臣が阿曇連・阿倍臣摩侶の二臣を遣わし、天皇に奏上させて「
葛城県 は元々私の本貫です。それでその県に因んで姓名としました。願わくは永久にその県を賜り、私が封じられた県としたいと思います」と。そこで天皇は詔して「朕は蘇我から出ている。大臣はまた朕の舅である。それで大臣の言葉は、夜に申せば夜も明かさず、日中に申せば日が暮れないように、どんな言葉でも用いてきた。しかし今朕の世に当り、この県を失えば、後の主君が『愚かな女が天下に臨んでその県を失った』と言うであろう。朕が独り不賢と言われるばかりか、大臣もまた不忠であると言われるであろう。これは後世の悪名となる」と聞き入れることはなかった。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十二年十月癸卯朔条】 -
推古天皇34年5月20日
薨じる。
桃原墓 に葬られる。大臣は稲目宿禰の子である。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十四年五月丁未条】
性質は武略があり、また弁才があった。
三宝を敬い、飛鳥河の傍に家居した。
庭には小さな池を掘り、池の中には小島を造った。
それで時の人は島大臣といった。
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