蘇我蝦夷
- 名前
- 氏(ウジ):蘇我【日本書紀】(そが)
- 氏(ウジ):蘇我豐浦【日本書紀】(そがのとゆら)蘇我豊浦
- 姓(カバネ):臣【日本書紀】(おみ)
- 名:蝦夷【日本書紀】(えみし)
- 名:毛人【上宮聖徳法王帝説】(えみし)
- 豐浦大臣【日本書紀】(とゆらのおおおみ, とゆらのおほおみ)豊浦大臣
- 蘇我大臣蝦夷【日本書紀】(そ我のおおおみえみし, そ我のおほおみえみし)
- 蘇我豐浦毛人大臣【上宮聖徳法王帝説】(そがのとゆらのえみしのおおおみ, そがのとゆらのえみしのおほおみ)蘇我豊浦毛人大臣
- 宗我蝦夷大臣【新撰姓氏録抄】(そがのえみしのおおおみ, そがのえみしのおほおみ)
- 蝦夷宿禰【紀氏家牒逸文】(えみしのすくね)
- 武藏大臣【紀氏家牒逸文】(むさしのおおおみ, むさしのおほおみ)武蔵大臣
- 蝦夷大臣【紀氏家牒逸文】(えみしのおおおみ, えみしのおほおみ)
- 宗我嶋大臣【先代旧事本紀】(そがのしまのおおおみ, そがのしまのおほおみ)宗我島大臣
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 推古天皇18年10月9日)
- 没年月日
- 皇極天皇4年6月13日
- 父
蘇我馬子 【紀氏家牒逸文】
- 母
太媛 日本書紀では「物部守屋の妹」とあるのみ。【紀氏家牒逸文】
- 先祖
- 配偶者
物部鎌姫 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
- 子
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
大臣 【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇即位前紀 推古天皇三十六年九月条】
- 出来事
-
崇峻天皇3年3月
庚戌春三月、学問尼善信らが百済から帰還して桜井寺に住んだ。今の
豊浦寺 である。初めは桜井寺といい、後に豊浦寺という。曽我大臣というのは豊浦大臣と云々。
【上宮聖徳法王帝説 知恩院所蔵本 裏書】 -
推古天皇18年10月9日
-
推古天皇36年3月7日
推古天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年三月癸丑条】 -
推古天皇36年9月
葬礼が終った。
皇嗣は未だ定まっていなかった。この時、蘇我蝦夷臣は大臣だった。
一人で皇嗣を定めたいと思ったが、群臣が従わないのではないかと恐れた。
阿倍麻呂臣と議り、群臣を集めて大臣の家で饗応した。食事が終って散会しようとする時、大臣は阿倍臣に命じ、群臣に語らせて「いま天皇が崩じて皇嗣が定まっていない。もし速やかに計らなければ、乱れがあるのではないかと恐れている。何れの王を後継者とするべきだろうか。天皇が病に臥した日、田村皇子に『天下は大任である。もとより容易く言うものではない。田村皇子よ。慎んで観察するように。怠ってはならない』と詔された。次に山背大兄王に『お前は一人であれこれ言ってしまう。必ず群臣の言葉に従うように。慎しんで背くことのないように』と詔された。これが天皇の遺言であるが、誰が天皇となるべきであろうか」と。
群臣は黙って答えなかった。
また問うても答えなかった。
さらに強いて問うと、大伴鯨連が進み出て「天皇の遺命に従うのみです。群臣の言葉を待つ必要はありません」と言った。
阿倍臣は「どういうことか。はっきりと述べよ」と問うた。
答えて「天皇はどのような御心で田村皇子に『天下は大任である。怠ってはならない』と詔なされたかです。この言葉で皇位は既に定まっています。誰が異論を唱えましょうか」と。時に采女臣摩礼志・高向臣宇摩・中臣連弥気・難波吉士身刺の四臣が言うには「大伴連の言葉に従います。異議はありません」と。
許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣塩手の三人が進み出て言うには「山背大兄王が天皇になるのが宜しいでしょう」と。
ただ蘇我倉麻呂臣だけは「今は簡単に申し上げることは出来ません。再考した後に申し上げましょう」と言った。こうして大臣と群臣は意見がまとまらないことを知って退席した。
これより先、大臣が一人で境部摩理勢臣に「いま天皇が崩じて後継者がいない。誰が天皇になるべきだろうか」と尋ねると、「山背大兄を天皇に推挙致します」と答えた。
この時、山背大兄は
斑鳩宮 に居て、この議論を漏れ聞いた。
そして三国王・桜井臣和慈古の二人を遣わして、密かに大臣に言うには「伝え聞くところによると、叔父上は田村皇子を天皇にしたいと思われているようですが、私はこの話を聞き、立っては思い、居ては思っても、未だその理を得ません。願わくは、はっきりと叔父上の心意を知りたいと思うのです」と。
大臣は山背大兄の訴えに返答は出来ず、阿倍臣・中臣連・紀臣・河辺臣・高向臣・采女臣・大伴連・許勢臣らを召喚して、詳しく山背大兄の言葉を説明した。やがてまた大夫らに言うには「お前たち大夫は共に斑鳩宮に詣でて、山背大兄王に『賤しい私がどうして一人で皇嗣を定められましょうか。ただ天皇の遺詔を群臣に告げただけでございます。群臣は揃って、遺言の通り田村皇子が皇位をお継ぎになることに異議は無いと言います。これは群卿の言葉でございます。特に私の心意というわけではございません。私の考えがあったとしても、恐れ多くてお伝え致しかねます。お目にかかった日に申し上げます』と申し上げよ」と。
大夫らは大臣の言葉を受けて、共に斑鳩宮に詣でた。
三国王・桜井臣を使って大臣の言葉を山背大兄に伝えた。時に大兄王は群大夫らに伝え問わせて「天皇の遺詔は如何に」と言った。
答えて「臣等はその深いお考えを理解致しかねます。ただし大臣の話によりますと、天皇が病臥あそばされた日に、田村皇子に『軽々しく国政に口を出してはいけない。お前田村皇子は言葉を慎むように。怠ってはならない』と詔あそばされ、次に大兄王に『お前は未熟である。あれこれやかましく言ってはならない。必ず群臣の言葉に従うように』と詔あそばされました。これは近侍や諸女王及び采女らの全てが知るとこであり、また大王もご存知であります」と。
大兄王はまた「この遺詔は誰が聞いたか」と問わせると、「臣等はその機密を存じ上げませんでした」と答えた。
さらにまた群大夫らに告げて「親愛なる叔父は労を思い、一人の使者ではなく、重臣らを遣わして教えさとされた。これは大恩である。しかし今、群卿の言う所の天皇の御遺命は、私の聞いたものと少々違っている。私は天皇が病臥あそばされたと聞き、参上して門下で侍っていると、中臣連弥気が中から出てきて『天皇がお召しです』と言うので、進み出て閤門に向った。栗隈采女黒女が庭中に出迎えて大殿に案内した。中では近習の栗下女王を頭として、女孺鮪女ら八人、合わせて数十人が天皇の側に侍っていた。また田村皇子もおられた。時に天皇の御病気が重くなり、私をご覧あそばされることも能わず、栗下女王が奏上して『お召しの山背大兄王が参りました』と申し上げた。天皇はお起きになられて『朕は寡薄だが久しく大業をつとめた。いま寿命が尽きようとしている。病を忌むことは出来ない。お前はもとより朕と心が通じている。寵愛の情は比べるものが無い。国家の大事は朕の世だけではない。お前は未熟であるから言葉を慎むように』と詔あそばされた。その時に侍っていた近習は全て知っている。それで私はこの大恩を蒙り、一度は恐れ、一度は悲しんだが、心は躍り上がり、歓喜して為す術を知らなかった。思えば社稷宗廟は重大事である。私は若くて賢くもない。どうして大任に当ることが出来ようか。この時に叔父や群卿たちに語ろうと思ったが、言うべき時が無く、今まで言えずにいた。私はかつて叔父の病を見舞おうとして、京 に行って豊浦寺 に居た。この日に天皇が八口采女鮪女をお遣わしあそばされ、『お前の叔父の大臣は常にお前のこと憂えて、やがては嗣位 がお前に当るのではないかと言っている。だから慎んで自愛するように』との詔を賜った。既にはっきりこのような事があったのだ。何を疑おうか。しかし私は天下を貪る気はない。ただ聞いたことを明らかにするだけである。これは天神地祇が証明している。願わくは天皇の真の遺勅を知ることである。また大臣の遣わす群卿は、従来厳矛 「嚴矛。此云伊箇之倍虛」とある。厳めしい矛。の中を取り持つように、正大に事を伝える人たちである。故によく叔父に申し伝えるように」と。別に泊瀬仲王が中臣連・河辺臣を呼んで言うには「我ら父子は蘇我から出ていることは天下の知る所である。だから高山のように頼みにしている。願わくは嗣位のことは容易く言わないでほしい」と。
そして三国王・桜井臣に命じ、群卿に副えて遣わして「返事を聞きたいと思います」と言った。
大臣は紀臣・大伴連を遣わして、三国王・桜井臣に言うには「先日に申し上げております。変わりはございません。しかし臣が敢えて何れの王を軽んじ、何れの王を重んじることはございません」と。数日の後、山背大兄はまた桜井臣を遣わして、大臣に「先日の事は、聞いたことを述べただけです。むしろ叔父上に間違いあるのでしょうか原文「寧違叔父哉」とある。これは「叔父上に背くことはありません」と解すこともできるようだと岩波文庫日本書紀の注釈では述べている。」と告げた。
この日、大臣は病が起こり、桜井臣の面前で話すことが出来なかった。
翌日、大臣は桜井臣を呼び、阿倍臣・中臣連・河辺臣・小墾田臣・大伴連を遣わして、山背大兄に申し開きして「磯城島宮御宇天皇の御世から近世に至るまで、群卿はみな賢哲でありました。ただ私は不賢であり、たまたま人が乏しい時に当り、誤って群臣の上に立つことになったのです。それで物事の決定に手間取りますが、今回の事は重大です。人伝に申し上げられません。老臣ではありますが申し上げます。遺勅は誤ってはならないということで、私意ではございません」と。
大臣が阿倍臣・中臣連に伝え、さらに境部臣に「どの王が天皇によいか」と問うと、「以前に大臣自ら問われて私は申し上げております。何を今更伝えることがありましょうか」と答え、大いに怒って行ってしまった。
この時に蘇我氏の諸族が皆集って島大臣の為に墓を造って墓所に宿っていた。
摩理勢臣は墓所の廬を壊して、蘇我の田家 田荘・別業。に退いて仕えなかった。
大臣は怒って身狭君勝牛・錦織首赤猪を遣わし、教えて言うには「私はお前の言葉の非を知っているが、親族の義から害することは出来ない。ただし他人に非がありお前が正しければ、私は必ず他人よりもお前に従う。もし他人が正しくお前に非があれば、私はお前と離れて他人に従う。これを以ってお前が遂に従わないのであれば、私はお前から離れる。国も乱れてしまう。そうなれば後世の人は我ら二人が国を損なったと言うであろう。これは後世の不名誉である。お前は慎しんで逆心を起こすことの無いように」と。
しかし猶も従わず、遂に斑鳩に赴いて泊瀬王の宮に住んだ。大臣は益々怒り、群卿を遣わして山背大兄に言うには「この頃摩理勢が私に背いて泊瀬王の宮に隠れています。願わくは摩理勢を頂いて、そのわけを調べたいと思います」と。
大兄王は答えて「摩理勢はもとより聖皇直後に先王とあることから見て聖徳太子を指すか。に可愛がられていたので、暫く身を寄せていたのです。叔父の情に背くことではありません。どうかお咎めにならないで下さい」と。
そして摩理勢に語って「お前が先王の恩を忘れず、こちらへ来たことは甚だ愛しいことである。しかしお前一人が原因で天下が乱れてしまうことになる。先王が御臨終の際、諸子たちに『諸々の悪を行わず、諸々の善を行うように』と仰られた。私はこの言葉を承り、永く戒めとしている。だから私情が有るといえども、忍んで怨むことは無い。また私も叔父に背くことを良しとはしない。どうか今後は憚ること無く心を改めよ。群臣に従って退出することも無いように」と。
大夫らは摩理勢臣に教えて「大兄王の命に背いてはならない」と言った。摩理勢臣は拠り所が無く、泣きながら帰って家に閉じこもること十日余り、泊瀬王が急に病を発して薨じてしまった。
摩理勢臣は「私は誰を頼りに生きればよいのか」と言った。大臣は境部臣を殺そうとして派兵した。
境部臣は兵が来たことを聞き、仲子 兄弟で中間の子。の阿椰を率いると門を出て胡床に坐って待った。
時に兵がやってきて、命令を受けた来目物部伊区比が絞め殺した。
父子共に死に、同じ所に埋められた。
ただ兄子 長子。の毛津は尼寺の瓦舎 に逃げ隠れた。
そこで一人二人の尼を犯した。これを一人の尼が表沙汰にした。
寺を囲んで捕えようとすると、脱出して畝傍山に入ったので山を探らせた。
毛津は逃げ入る所も無く、頸を刺して山中で死んだ。時の人は歌った。
「
【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇即位前紀 推古天皇三十六年九月条】于 泥 備 椰 摩 虛 多 智 于 須 家 苔 多 能 彌 介 茂 氣 菟 能 和 區 吳 能 虛 茂 邏 勢 利 祁 牟 」 -
舒明天皇元年1月4日
舒明天皇が即位する。
【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇元年正月丙午条】 -
舒明天皇8年7月1日
大派王が豊浦大臣に言うには「群卿及び百寮が参朝することを怠っている。今後は卯の刻の始め卯の刻は午前6時の前後1時間。その始まりは午前5時ころ。に参朝し、巳の刻の後巳の刻は午前10時の前後1時間。その終わりは午前12時ころ。に退朝させよう。これらを鍾で知らせるように」と。
【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇八年七月己丑朔条】
しかし大臣は従わなかった。 -
舒明天皇13年10月9日
舒明天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十三年十月丁酉条】 -
皇極天皇元年1月15日
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皇極天皇元年2月22日
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皇極天皇元年4月10日
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皇極天皇元年7月23日
蘇我臣入鹿の
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月丙子条】豎者 少年の従者。が白い雀の子を獲った。
この日の同じ時にある人が白雀を籠に入れて蘇我大臣蘇我蝦夷。に送った。 -
皇極天皇元年7月25日
群臣が相談して言うには「村々の
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月戊寅条】祝部 の教えに従い、或いは牛馬を殺して諸々の社の神を祭り、或いは頻繁に市を移し、或いは河伯 を祈祷することは全く効果が無い」と。
蘇我大臣は「寺々は大乗経典 を転読して、悔過 すること仏説のように敬って雨乞いしよう」と答えた。 -
皇極天皇元年7月27日
大寺の南の庭に仏菩薩の像と四天王の像を厳飾して、諸僧を召して
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月庚辰条】大雲経 などを読ませた。
時に蘇我大臣は手に香鑪を取り、香を焚いて発願した。 -
皇極天皇4年6月11日
-
皇極天皇元年9月3日
天皇が大臣に詔して「朕は大寺百済大寺。を造り起そうと思う。近江と越の丁を呼ぶように」と。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年九月乙卯条】
また諸国に課して船舶を造らせた。 -
皇極天皇元年9月19日
天皇が大臣に詔して「この月に起して十二月以来を限りに宮室を造営しようと思う。国々に
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年九月辛未条】殿屋材 宮殿造営の木材。を取らせよう。また東は遠江に限りに、西は安芸を限りに宮を造る丁を集めよ」と。 -
皇極天皇元年10月21日
越のほとりの蝦夷数千人が朝廷に帰服する。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月癸酉条】 -
皇極天皇元年10月15日
蝦夷を家に迎えて自ら慰問する。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月丁酉条】 -
皇極天皇元年11月16日
天皇は新嘗を行った。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月丁卯条】
この日、皇子校異:皇太子・大臣もそれぞれ自ら新嘗を行った。 -
皇極天皇元年12月13日
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皇極天皇元年
蘇我大臣蝦夷が己の祖廟を
葛城高宮 に立てて八佾 の舞をした。
歌を作って言うには、「
野 麻 騰 能 飫 斯 能 毗 稜 栖 鳴 倭 柁 羅 務 騰 阿 庸 比 柁 豆 矩 梨 擧 始 豆 矩 羅 符 母 」と。
また国中の民と沢山の
部曲 を集めて、予め双墓 を今来に造った。
一つを大陵 という。大臣の墓とした。
一つを小陵 という。入鹿臣の墓とした。
死後に人に世話させることを望まず、さらに上宮 の乳部 「乳部。此云美父」とある。皇子の養育料を出す部とされている。の民を全て集めて、塋兆所 に役使した。上宮大娘姫王聖徳太子の長女と思われる。舂米女王か。が発憤して歎いて言うには「蘇我臣は国政を専らにして無礼な行いが多い。天に二つの日は無く、国に二人の王は無い。どうして意のままに封民を役使できるのか」と。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年是歳条】
このように恨みを買い、遂には共に亡ぼされることとなる。 -
皇極天皇2年2月
国内の
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年二月是月条】巫覡 らが枝葉を折り取って木綿 を掛け、大臣が橋を渡る時を伺い、先を争って神語 を細かく陳べた。
その巫らはとても多く、聞き取るのは不可能だった。 -
皇極天皇2年10月6日
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皇極天皇2年(11月5日 ~ 12月)
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皇極天皇2年10月14日
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皇極天皇3年3月
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年三月条】休留 「休留。茅鴟也」とある。正字は鵂鶹。フクロウの古名。が大津の家の倉で子を産む。 -
皇極天皇3年6月6日
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月戊申条】剣池 の蓮の中に、一つの茎に二つの萼が付いているものがあった。
豊浦大臣は妄りに推察して「これは蘇我臣が栄えるしるしである」と言った。
そして金の墨で書いて大法興寺 の丈六の仏に献上した。 -
皇極天皇3年6月
国内の
巫覡 らが枝葉を折り取って木綿 を掛け、大臣が橋を渡る時を伺い、先を争って神語 を細かく陳べた。
その巫らはとても多く、聞き取るのは不可能だった。同二年二月是月条に同文あり。老人らは「風が移ろう兆しである」と言った。
時に
謡歌 が三首あった。
その一に曰く「
波 魯 波 魯 儞 渠 騰 曾 枳 擧 喩 屢 之 麻 能 野 父 播 羅 」と。
その二に曰く「
烏 智 可 拕 能 阿 娑 努 能 枳 枳 始 騰 余 謀 作 儒 倭 例 播 禰 始 柯 騰 比 騰 曾 騰 余 謀 須 」と。
その三に曰く「
烏 麼 野 始 儞 倭 例 烏 比 岐 例 底 制 始 比 騰 能 於 謀 提 母 始 羅 孺 伊 弊 母 始 羅 孺 母 」と。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月是月条】 -
皇極天皇3年11月
蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は家を
甘檮岡 に並べて建てた。
大臣の家を上宮門 と呼んだ。入鹿の家を谷宮門 谷。此云波佐麻。と呼んだ。
男女の子らを王子と呼んだ。
家の外には城柵を作り、門の傍には武器庫を作った。
門ごとに用水桶を一つ、木鉤数十を置いて火災に備えた。
常に武器を持った力人 に家を守らせた。大臣は
長直 を使って大丹穂山 に桙削寺 を造らせた。また
畝傍山 の東に家を建てた。
池を掘って城とし、武器庫を建てて矢を蓄えた。常に五十人の兵士を率いて出入りした。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年十一月条】
力人を名付けて東方儐従者 という。
諸氏の人らがその門に侍った。名付けて祖子孺者 という。
漢直 らは専ら二門蘇我蝦夷の上宮門・蘇我入鹿の谷宮門。に侍った。 -
皇極天皇4年6月12日
中臣鎌子連は蘇我入鹿臣の人となりが疑い深く、昼夜剣を持っていることを知っていたので、
俳優 に教えて騙し解かせた。
入鹿臣は笑って剣を解き、中に入って座についた。倉山田麻呂臣は進み出て三韓の表文を読み上げた。
中大兄は衛門府 に戒めて、一斉に十二の通門を固めて往来を止めた。
衛門府を一ヶ所に集めて禄を授けようとした。時に中大兄は長槍を持って殿の側に隠れた。
中臣鎌子連らは弓矢を持って助け守った。海犬養連勝麻呂を使い、箱の中に入った二つの剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に授けて「ぬかりなく忽ちに斬れ」と言った。
子麻呂らは水で飯を流し込んだが、恐れて吐き出してしまった。中臣鎌子連は責めつつも励ました。
倉山田麻呂臣は表文を読み終わろうとしても子麻呂らが来ないのを恐れて汗が体から溢れ、声が乱れ、手が震えた。
鞍作臣が怪しんで「何故震えているのか」と問うと、山田麻呂は「天皇が近くにお出でなので汗が流れてしまいます」と答えた。
中大兄は子麻呂らが入鹿の威に恐れ、怯んで進み出ないのを見て「やあ」と言った。
そして子麻呂らと共に、不意に剣で入鹿の頭と肩を割った。
入鹿は驚いて立とうとした。
子麻呂は剣を振るってその片足を斬った。
入鹿は御座のほうに転び、叩頭して「嗣位にお出でになるのは天の子です。自分の罪がわかりません。どうか明らかにして下さい」と言った。
天皇は大いに驚いて中大兄に詔して「いったい何事であるか」と言った。
中大兄は地に伏して言うには「鞍作「蘇我臣入鹿のまたの名が鞍作である」とある。は天宗を全て滅ぼして日位 を傾けようとしました。どうして天孫を鞍作に代えることが出来ましょうか」と。
天皇は立ち上がって殿の中に入った。
この日、雨が降って水が庭に溢れた。
席障子 で鞍作の屍を覆った。古人大兄は私宅に走り入って、人に「韓人が鞍作臣を殺した「韓(からひと)の政に因り誅したことを言う」とある。。私の心は痛い」と言った。
そして寝所に入り、門を閉ざして出なかった。
中大兄は法興寺に入って城として備えた。
諸皇子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造、全て皆が従い侍った。
人を使って鞍作臣の屍を大臣蝦夷に賜った。
漢直 らは族党を総べ集め、甲 を着て武器を持ち、大臣を助けようと軍陣を設けた。
中大兄は将軍巨勢徳陀臣を使い、天地開闢より君臣の別が始めからあることを賊党に説いて、進むべき道を知らしめた。高向臣国押が漢直らに言うには「我らは君大郎により殺されようとしている。大臣もまた今日明日には殺されることが決まったようなものだ。ならば誰の為に空しい戦いをして処刑されようか」と。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月戊申条】
言い終わると剣を解き、弓を投げ捨てて去っていった。
賊徒もまた随って散り散りに去った。-
皇極天皇4年6月11日
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皇極天皇4年6月13日
蘇我臣蝦夷らは誅殺される前に天皇記・国記・珍宝を全て焼いた。
船史恵尺はすぐに取りに走って焼けた国記を中大兄に献上した。この日、蘇我臣蝦夷及び鞍作の屍を墓に葬ることを許した。また喪中に泣くことを許した。
【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月己酉条】
或る人が第一の謡歌 を説いて言うには「その歌に『はろはろに ことそきこゆる しまのやぶはら同三年六月是月条にある謡歌の第一。』と言うが、これは宮殿を島大臣の家に接して建てた。中大兄と中臣鎌子連が密かに大義を図って、入鹿を謀殺しようとした兆しである」と。
第二の謡歌を説いて言うには「その歌に『をちかたの あさののきぎし とよもさず われはねしかど ひとそとよもす同三年六月是月条にある謡歌の第二。』と言うが、これは上宮の王たちの人となりが素直で、かつて罪も無く入鹿に殺された。自ら報復しなくても。天が人を使って誅殺される兆しである」と。
第三の謡歌を説いて言うには「その歌に『をばやしに われをひきいれて せしひとの おもてもしらず いへもしらずも同三年六月是月条にある謡歌の第三。「われをひきいれて」は同三年六月是月条では「われをひきれて」』と言うが、これは入鹿臣が忽ちに宮中で佐伯連子麻呂・稚犬養連網田に斬られる兆しである」と。-
皇極天皇4年6月12日
明くる日蘇我入鹿殺害の翌日。に、その父豊浦大臣の子孫らを全て滅した。
【上宮聖徳法王帝説】
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