蘇我蝦夷

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名前
  • 氏(ウジ):蘇我【日本書紀】が)
  • 氏(ウジ):蘇我豐浦【日本書紀】ゆら)蘇我豊浦
  • 姓(カバネ):臣【日本書紀】(お
  • 名:蝦夷【日本書紀】(えし)
  • 名:毛人【上宮聖徳法王帝説】(えし)
  • 豐浦大臣【日本書紀】(とゆらのおおおみ, ゆらおほお)豊浦大臣
  • 蘇我大臣蝦夷【日本書紀】(そ我のおおおみえみし, おほおし)
  • 蘇我豐浦毛人大臣【上宮聖徳法王帝説】(そがのとゆらのえみしのおおおみ, ゆらおほお)蘇我豊浦毛人大臣
  • 宗我蝦夷大臣【新撰姓氏録抄】(そがのえみしのおおおみ, おほお
  • 蝦夷宿禰【紀氏家牒逸文】(えすくね)
  • 武藏大臣【紀氏家牒逸文】(むさしのおおおみ, むさしおほお)武蔵大臣
  • 蝦夷大臣【紀氏家牒逸文】(えみしのおおおみ, えおほお
  • 宗我嶋大臣【先代旧事本紀】(そがのしまのおおおみ, しまおほお)宗我島大臣
性別
男性
生年月日
( ~ 推古天皇18年10月9日)
没年月日
皇極天皇4年6月13日
  • 蘇我馬子そがのうまこ【紀氏家牒逸文】
  • 太媛ふとひめ日本書紀では「物部守屋の妹」とあるのみ。【紀氏家牒逸文】
先祖
  1. 蘇我馬子
    1. 蘇我稲目
      1. 蘇我馬背
    2. unknown
  2. 太媛
    1. 物部尾輿
      1. 物部荒山
      2. unknown
    2. 阿佐姫
      1. 倭古連
配偶者
  • 物部鎌姫もののべのかまひめ【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
  • 蘇我入鹿そがのいるか【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年正月辛未条, 上宮聖徳法王帝説, 先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母:物部鎌姫もののべのかまひめ
  • 物部大臣もののべのおおおみ【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十月壬子条】【母:不明】
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 大臣おおおみ【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇即位前紀 推古天皇三十六年九月条】
出来事
  • 馬子宿禰の男子蝦夷宿禰の家は葛城県(かずらきのあがた)豊浦里(とゆらのさと)にあった。それで名を豊浦大臣という。
    また家に兵器を多く貯めていたので俗に武蔵大臣という。
    母は物部守屋大連(または弓削大連という)の妹、名は太媛という。

    守屋大連の家が亡んだ後、太媛は石上神宮の斎神の頭となった。
    そこで蝦夷大臣は物部族の神主家らを下僕として物部首(もののべのおびと)といった。または神主首(かんぬしのおびと)という。

    【紀氏家牒逸文】
  • 崇峻天皇3年3月

    庚戌春三月、学問尼善信らが百済から帰還して桜井寺に住んだ。今の豊浦寺(とゆらでら)である。初めは桜井寺といい、後に豊浦寺という。

    曽我大臣というのは豊浦大臣と云々。

    【上宮聖徳法王帝説 知恩院所蔵本 裏書】
  • 推古天皇18年10月9日

    新羅・任那の使人が朝庭で拝礼した。

    秦造河勝土部連菟を新羅の導者とし、間人連塩蓋阿閉臣大籠を任那の導者とする。
    共に先導しながら南門から入って中庭に立った。
    この時に大伴咋連・蘇我豊浦蝦夷臣・坂本糠手臣阿倍鳥子臣は共に坐位から立って庭に伏した。
    両国の客は各々再拝して使いの旨を述べた。
    四大夫は進み出て大臣に伝えた。
    大臣は坐位から立って政庁の前で聞いた。

    諸客は禄を賜った。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十八年十月丁酉条】
  • 推古天皇36年3月7日

    推古天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年三月癸丑条】
  • 推古天皇36年9月

    葬礼が終った。
    皇嗣は未だ定まっていなかった。

    この時、蘇我蝦夷臣は大臣だった。
    一人で皇嗣を定めたいと思ったが、群臣が従わないのではないかと恐れた。
    阿倍麻呂臣と議り、群臣を集めて大臣の家で饗応した。

    食事が終って散会しようとする時、大臣は阿倍臣に命じ、群臣に語らせて「いま天皇が崩じて皇嗣が定まっていない。もし速やかに計らなければ、乱れがあるのではないかと恐れている。何れの王を後継者とするべきだろうか。天皇が病に臥した日、田村皇子に『天下は大任である。もとより容易く言うものではない。田村皇子よ。慎んで観察するように。怠ってはならない』と詔された。次に山背大兄王に『お前は一人であれこれ言ってしまう。必ず群臣の言葉に従うように。慎しんで背くことのないように』と詔された。これが天皇の遺言であるが、誰が天皇となるべきであろうか」と。
    群臣は黙って答えなかった。
    また問うても答えなかった。
    さらに強いて問うと、大伴鯨連が進み出て「天皇の遺命に従うのみです。群臣の言葉を待つ必要はありません」と言った。
    阿倍臣は「どういうことか。はっきりと述べよ」と問うた。
    答えて「天皇はどのような御心で田村皇子に『天下は大任である。怠ってはならない』と詔なされたかです。この言葉で皇位は既に定まっています。誰が異論を唱えましょうか」と。

    時に采女臣摩礼志高向臣宇摩中臣連弥気難波吉士身刺の四臣が言うには「大伴連の言葉に従います。異議はありません」と。
    許勢臣大麻呂佐伯連東人紀臣塩手の三人が進み出て言うには「山背大兄王天皇になるのが宜しいでしょう」と。
    ただ蘇我倉麻呂臣だけは「今は簡単に申し上げることは出来ません。再考した後に申し上げましょう」と言った。

    こうして大臣と群臣は意見がまとまらないことを知って退席した。

    これより先、大臣が一人で境部摩理勢臣に「いま天皇が崩じて後継者がいない。誰が天皇になるべきだろうか」と尋ねると、「山背大兄天皇に推挙致します」と答えた。

    この時、山背大兄斑鳩宮(いかるがのみや)に居て、この議論を漏れ聞いた。
    そして三国王桜井臣和慈古の二人を遣わして、密かに大臣に言うには「伝え聞くところによると、叔父上は田村皇子天皇にしたいと思われているようですが、私はこの話を聞き、立っては思い、居ては思っても、未だその理を得ません。願わくは、はっきりと叔父上の心意を知りたいと思うのです」と。
    大臣は山背大兄の訴えに返答は出来ず、阿倍臣中臣連紀臣・河辺臣・高向臣采女臣大伴連許勢臣らを召喚して、詳しく山背大兄の言葉を説明した。

    やがてまた大夫らに言うには「お前たち大夫は共に斑鳩宮に詣でて、山背大兄王に『賤しい私がどうして一人で皇嗣を定められましょうか。ただ天皇の遺詔を群臣に告げただけでございます。群臣は揃って、遺言の通り田村皇子が皇位をお継ぎになることに異議は無いと言います。これは群卿の言葉でございます。特に私の心意というわけではございません。私の考えがあったとしても、恐れ多くてお伝え致しかねます。お目にかかった日に申し上げます』と申し上げよ」と。

    大夫らは大臣の言葉を受けて、共に斑鳩宮に詣でた。
    三国王桜井臣を使って大臣の言葉を山背大兄に伝えた。

    時に大兄王は群大夫らに伝え問わせて「天皇の遺詔は如何に」と言った。
    答えて「臣等はその深いお考えを理解致しかねます。ただし大臣の話によりますと、天皇が病臥あそばされた日に、田村皇子に『軽々しく国政に口を出してはいけない。お前田村皇子は言葉を慎むように。怠ってはならない』と詔あそばされ、次に大兄王に『お前は未熟である。あれこれやかましく言ってはならない。必ず群臣の言葉に従うように』と詔あそばされました。これは近侍や諸女王及び采女らの全てが知るとこであり、また大王もご存知であります」と。
    大兄王はまた「この遺詔は誰が聞いたか」と問わせると、「臣等はその機密を存じ上げませんでした」と答えた。
    さらにまた群大夫らに告げて「親愛なる叔父は労を思い、一人の使者ではなく、重臣らを遣わして教えさとされた。これは大恩である。しかし今、群卿の言う所の天皇の御遺命は、私の聞いたものと少々違っている。私は天皇が病臥あそばされたと聞き、参上して門下で侍っていると、中臣連弥気が中から出てきて『天皇がお召しです』と言うので、進み出て閤門に向った。栗隈采女黒女が庭中に出迎えて大殿に案内した。中では近習の栗下女王を頭として、女孺鮪女ら八人、合わせて数十人が天皇の側に侍っていた。また田村皇子もおられた。時に天皇の御病気が重くなり、私をご覧あそばされることも能わず、栗下女王が奏上して『お召しの山背大兄王が参りました』と申し上げた。天皇はお起きになられて『朕は寡薄だが久しく大業をつとめた。いま寿命が尽きようとしている。病を忌むことは出来ない。お前はもとより朕と心が通じている。寵愛の情は比べるものが無い。国家の大事は朕の世だけではない。お前は未熟であるから言葉を慎むように』と詔あそばされた。その時に侍っていた近習は全て知っている。それで私はこの大恩を蒙り、一度は恐れ、一度は悲しんだが、心は躍り上がり、歓喜して為す術を知らなかった。思えば社稷宗廟は重大事である。私は若くて賢くもない。どうして大任に当ることが出来ようか。この時に叔父や群卿たちに語ろうと思ったが、言うべき時が無く、今まで言えずにいた。私はかつて叔父の病を見舞おうとして、(みやこ)に行って豊浦寺(とゆらでら)に居た。この日に天皇が八口采女鮪女をお遣わしあそばされ、『お前の叔父の大臣は常にお前のこと憂えて、やがては嗣位(ひつぎのくらい)がお前に当るのではないかと言っている。だから慎んで自愛するように』との詔を賜った。既にはっきりこのような事があったのだ。何を疑おうか。しかし私は天下を貪る気はない。ただ聞いたことを明らかにするだけである。これは天神地祇が証明している。願わくは天皇の真の遺勅を知ることである。また大臣の遣わす群卿は、従来厳矛(いかしほこ)「嚴矛。此云伊箇之倍虛」とある。厳めしい矛。の中を取り持つように、正大に事を伝える人たちである。故によく叔父に申し伝えるように」と。

    別に泊瀬仲王中臣連・河辺臣を呼んで言うには「我ら父子は蘇我から出ていることは天下の知る所である。だから高山のように頼みにしている。願わくは嗣位のことは容易く言わないでほしい」と。
    そして三国王桜井臣に命じ、群卿に副えて遣わして「返事を聞きたいと思います」と言った。
    大臣は紀臣大伴連を遣わして、三国王桜井臣に言うには「先日に申し上げております。変わりはございません。しかし臣が敢えて何れの王を軽んじ、何れの王を重んじることはございません」と。

    数日の後、山背大兄はまた桜井臣を遣わして、大臣に「先日の事は、聞いたことを述べただけです。むしろ叔父上に間違いあるのでしょうか原文「寧違叔父哉」とある。これは「叔父上に背くことはありません」と解すこともできるようだと岩波文庫日本書紀の注釈では述べている。」と告げた。

    この日、大臣は病が起こり、桜井臣の面前で話すことが出来なかった。

    翌日、大臣は桜井臣を呼び、阿倍臣中臣連・河辺臣・小墾田臣・大伴連を遣わして、山背大兄に申し開きして「磯城島宮御宇天皇の御世から近世に至るまで、群卿はみな賢哲でありました。ただ私は不賢であり、たまたま人が乏しい時に当り、誤って群臣の上に立つことになったのです。それで物事の決定に手間取りますが、今回の事は重大です。人伝に申し上げられません。老臣ではありますが申し上げます。遺勅は誤ってはならないということで、私意ではございません」と。

    大臣が阿倍臣中臣連に伝え、さらに境部臣に「どの王が天皇によいか」と問うと、「以前に大臣自ら問われて私は申し上げております。何を今更伝えることがありましょうか」と答え、大いに怒って行ってしまった。
    この時に蘇我氏の諸族が皆集って島大臣の為に墓を造って墓所に宿っていた。
    摩理勢臣は墓所の廬を壊して、蘇我の田家(なりどころ)田荘・別業。に退いて仕えなかった。
    大臣は怒って身狭君勝牛錦織首赤猪を遣わし、教えて言うには「私はお前の言葉の非を知っているが、親族の義から害することは出来ない。ただし他人に非がありお前が正しければ、私は必ず他人よりもお前に従う。もし他人が正しくお前に非があれば、私はお前と離れて他人に従う。これを以ってお前が遂に従わないのであれば、私はお前から離れる。国も乱れてしまう。そうなれば後世の人は我ら二人が国を損なったと言うであろう。これは後世の不名誉である。お前は慎しんで逆心を起こすことの無いように」と。
    しかし猶も従わず、遂に斑鳩に赴いて泊瀬王の宮に住んだ。

    大臣は益々怒り、群卿を遣わして山背大兄に言うには「この頃摩理勢が私に背いて泊瀬王の宮に隠れています。願わくは摩理勢を頂いて、そのわけを調べたいと思います」と。
    大兄王は答えて「摩理勢はもとより聖皇直後に先王とあることから見て聖徳太子を指すか。に可愛がられていたので、暫く身を寄せていたのです。叔父の情に背くことではありません。どうかお咎めにならないで下さい」と。
    そして摩理勢に語って「お前が先王の恩を忘れず、こちらへ来たことは甚だ愛しいことである。しかしお前一人が原因で天下が乱れてしまうことになる。先王が御臨終の際、諸子たちに『諸々の悪を行わず、諸々の善を行うように』と仰られた。私はこの言葉を承り、永く戒めとしている。だから私情が有るといえども、忍んで怨むことは無い。また私も叔父に背くことを良しとはしない。どうか今後は憚ること無く心を改めよ。群臣に従って退出することも無いように」と。
    大夫らは摩理勢臣に教えて「大兄王の命に背いてはならない」と言った。

    摩理勢臣は拠り所が無く、泣きながら帰って家に閉じこもること十日余り、泊瀬王が急に病を発して薨じてしまった。
    摩理勢臣は「私は誰を頼りに生きればよいのか」と言った。

    大臣は境部臣を殺そうとして派兵した。
    境部臣は兵が来たことを聞き、仲子(なかち)兄弟で中間の子。阿椰を率いると門を出て胡床に坐って待った。
    時に兵がやってきて、命令を受けた来目物部伊区比が絞め殺した。
    父子共に死に、同じ所に埋められた。
    ただ兄子(このかみ)長子。毛津は尼寺の瓦舎(かわらや)に逃げ隠れた。
    そこで一人二人の尼を犯した。これを一人の尼が表沙汰にした。
    寺を囲んで捕えようとすると、脱出して畝傍山に入ったので山を探らせた。
    毛津は逃げ入る所も無く、頸を刺して山中で死んだ。

    時の人は歌った。

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    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇即位前紀 推古天皇三十六年九月条】
  • 舒明天皇元年1月4日

    舒明天皇が即位する。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇元年正月丙午条】
  • 舒明天皇8年7月1日

    大派王が豊浦大臣に言うには「群卿及び百寮が参朝することを怠っている。今後は卯の刻の始め卯の刻は午前6時の前後1時間。その始まりは午前5時ころ。に参朝し、巳の刻の後巳の刻は午前10時の前後1時間。その終わりは午前12時ころ。に退朝させよう。これらを鍾で知らせるように」と。
    しかし大臣は従わなかった。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇八年七月己丑朔条】
  • 舒明天皇13年10月9日

    舒明天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇十三年十月丁酉条】
  • 皇極天皇元年1月15日

    皇后は即位して天皇となった。
    蘇我臣蝦夷を大臣とすることは元のとおりであった。
    大臣の子の入鹿。またの名は鞍作が自ら国政を執ることは父の威にも勝った。
    これにより盗賊は恐れて道に落ちてる物も拾わなくなった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年正月辛未条】
  • 皇極天皇元年2月22日

    大臣に詔して「津守連大海を高麗に遣わし、国勝吉士水鶏を百済に遣わし、草壁吉士真跡を新羅に遣わし、坂本吉士長兄を任那に遣わすように」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年二月戊申条】
  • 皇極天皇元年4月10日

    畝傍(うねび)の家に百済の翹岐らを招いて親しく話をした。
    そして良馬一匹・鉄二十鋌を賜った。
    ただし塞上は招かなかった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年四月乙未条】
  • 皇極天皇元年7月23日

    蘇我臣入鹿豎者(しとべ)少年の従者。が白い雀の子を獲った。
    この日の同じ時にある人が白雀を籠に入れて蘇我大臣蘇我蝦夷。に送った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月丙子条】
  • 皇極天皇元年7月25日

    群臣が相談して言うには「村々の祝部(はふりべ)の教えに従い、或いは牛馬を殺して諸々の社の神を祭り、或いは頻繁に市を移し、或いは河伯(かわのかみ)を祈祷することは全く効果が無い」と。
    蘇我大臣は「寺々は大乗経典(だいじょうきょうてん)を転読して、悔過(けか)すること仏説のように敬って雨乞いしよう」と答えた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月戊寅条】
  • 皇極天皇元年7月27日

    大寺の南の庭に仏菩薩の像と四天王の像を厳飾して、諸僧を召して大雲経(だいうんきょう)などを読ませた。
    時に蘇我大臣は手に香鑪を取り、香を焚いて発願した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年七月庚辰条】
  • 皇極天皇4年6月11日

    ■■天皇「■■」は欠失。「天」は違筆補記。右傍にも「■■天皇」、「■極天皇(皇極天皇)」か。の御世の乙巳年六月十一日、近江天皇が生まれて廿一年、林太郎■■「■■」は欠失。を殺した。
    明くる日に、その父豊浦大臣の子孫らを全て滅した。

    【上宮聖徳法王帝説】
  • 皇極天皇元年9月3日

    天皇が大臣に詔して「朕は大寺百済大寺。を造り起そうと思う。近江と越の丁を呼ぶように」と。
    また諸国に課して船舶を造らせた。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年九月乙卯条】
  • 皇極天皇元年9月19日

    天皇が大臣に詔して「この月に起して十二月以来を限りに宮室を造営しようと思う。国々に殿屋材(とのき)宮殿造営の木材。を取らせよう。また東は遠江に限りに、西は安芸を限りに宮を造る丁を集めよ」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年九月辛未条】
  • 皇極天皇元年10月21日

    越のほとりの蝦夷数千人が朝廷に帰服する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月癸酉条】
  • 皇極天皇元年10月15日

    蝦夷を家に迎えて自ら慰問する。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十月丁酉条】
  • 皇極天皇元年11月16日

    天皇は新嘗を行った。
    この日、皇子校異:皇太子・大臣もそれぞれ自ら新嘗を行った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十一月丁卯条】
  • 皇極天皇元年12月13日

    初めて息長足日広額天皇の喪を発せられた。

    この日に小徳巨勢臣徳太大派皇子の代りに(しのびごと)した。
    次に小徳粟田臣細目軽皇子後の孝徳天皇。の代りに誄した。
    次に小徳大伴連馬飼が大臣の代りに誄した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年十二月甲午条】
  • 皇極天皇元年

    蘇我大臣蝦夷が己の祖廟を葛城高宮(かずらきのたかみや)に立てて八佾(やつら)の舞をした。
    歌を作って言うには、

    ()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    と。

    また国中の民と沢山の部曲(かきのたみ)を集めて、予め双墓(ならびのはか)を今来に造った。
    一つを大陵(おおみささぎ)という。大臣の墓とした。
    一つを小陵(こみささぎ)という。入鹿臣の墓とした。
    死後に人に世話させることを望まず、さらに上宮(かみつみや)乳部(みぶ)「乳部。此云美父」とある。皇子の養育料を出す部とされている。の民を全て集めて、塋兆所(はかどころ)に役使した。

    上宮大娘姫王聖徳太子の長女と思われる。舂米女王か。が発憤して歎いて言うには「蘇我臣は国政を専らにして無礼な行いが多い。天に二つの日は無く、国に二人の王は無い。どうして意のままに封民を役使できるのか」と。
    このように恨みを買い、遂には共に亡ぼされることとなる。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇元年是歳条】
  • 皇極天皇2年2月

    国内の巫覡(かんなき)らが枝葉を折り取って木綿(ゆう)を掛け、大臣が橋を渡る時を伺い、先を争って神語(かむごと)を細かく陳べた。
    その巫らはとても多く、聞き取るのは不可能だった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年二月是月条】
  • 皇極天皇2年10月6日

    蘇我大臣蝦夷が病を理由として参朝せず、密かに紫冠を子の入鹿に授けて大臣の位に擬えた。
    またその弟入鹿の弟。または蝦夷の弟か。蝦夷の弟であれば倉麻呂が候補か。物部大臣と呼んだ。
    大臣物部大臣を指すと思われる。の祖母は物部弓削大連の妹である。それで母方。の財に因って威を世に振るった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十月壬子条】
  • 皇極天皇2年(11月5日 ~ 12月)

    山背大兄王たちが入鹿に亡ぼされたことを聞き、怒り罵って「ああ、入鹿は甚だ愚かだ。暴悪を専らにするとは。お前の身命は危ういだろう」と言った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条】
    • 皇極天皇2年10月14日

      飛鳥天皇の御世の癸卯年十月十四日に蘇我豊浦毛人大臣の児入鹿臣■■林太郎「■■」は欠失。伊加留加宮(いかるかのみや)にいた山代大兄及びその兄弟合せて十五王子の悉くを滅ぼした。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 皇極天皇3年3月

    休留(いいどよ)「休留。茅鴟也」とある。正字は鵂鶹。フクロウの古名。が大津の家の倉で子を産む。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年三月条】
  • 皇極天皇3年6月6日

    剣池(つるぎのいけ)の蓮の中に、一つの茎に二つの萼が付いているものがあった。
    豊浦大臣は妄りに推察して「これは蘇我臣が栄えるしるしである」と言った。
    そして金の墨で書いて大法興寺(だいほうこうじ)の丈六の仏に献上した。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月戊申条】
  • 皇極天皇3年6月

    国内の巫覡(かんなき)らが枝葉を折り取って木綿(ゆう)を掛け、大臣が橋を渡る時を伺い、先を争って神語(かむごと)を細かく陳べた。
    その巫らはとても多く、聞き取るのは不可能だった。
    同二年二月是月条に同文あり。

    老人らは「風が移ろう兆しである」と言った。

    時に謡歌(わざうた)が三首あった。
    その一に曰く

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    と。
    その二に曰く

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    と。
    その三に曰く

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    と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月是月条】
  • 皇極天皇3年11月

    蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は家を甘檮岡(うまかしのおか)に並べて建てた。
    大臣の家を上宮門(うえのみかど)と呼んだ。入鹿の家を谷宮門(はさまのみかど)谷。此云波佐麻。と呼んだ。
    男女の子らを王子と呼んだ。
    家の外には城柵を作り、門の傍には武器庫を作った。
    門ごとに用水桶を一つ、木鉤数十を置いて火災に備えた。
    常に武器を持った力人(ちからびと)に家を守らせた。

    大臣は長直(ながのあたい)を使って大丹穂山(おおにほのやま)桙削寺(ほこぬきのてら)を造らせた。

    また畝傍山(うねびのやま)の東に家を建てた。
    池を掘って城とし、武器庫を建てて矢を蓄えた。

    常に五十人の兵士を率いて出入りした。
    力人を名付けて東方儐従者(あずまのしとべ)という。
    諸氏の人らがその門に侍った。名付けて祖子孺者(おやのこわらわ)という。
    漢直(あやのあたい)らは専ら二門蘇我蝦夷の上宮門・蘇我入鹿の谷宮門。に侍った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年十一月条】
  • 皇極天皇4年6月12日

    天皇は大極殿に御座した。古人大兄が侍った。

    中臣鎌子連蘇我入鹿臣の人となりが疑い深く、昼夜剣を持っていることを知っていたので、俳優(わざひと)に教えて騙し解かせた。
    入鹿臣は笑って剣を解き、中に入って座についた。

    倉山田麻呂臣は進み出て三韓の表文を読み上げた。
    中大兄衛門府(ゆけいのつかさ)に戒めて、一斉に十二の通門を固めて往来を止めた。
    衛門府を一ヶ所に集めて禄を授けようとした。

    時に中大兄は長槍を持って殿の側に隠れた。
    中臣鎌子連らは弓矢を持って助け守った。

    海犬養連勝麻呂を使い、箱の中に入った二つの剣を佐伯連子麻呂葛城稚犬養連網田に授けて「ぬかりなく忽ちに斬れ」と言った。
    子麻呂らは水で飯を流し込んだが、恐れて吐き出してしまった。中臣鎌子連は責めつつも励ました。
    倉山田麻呂臣は表文を読み終わろうとしても子麻呂らが来ないのを恐れて汗が体から溢れ、声が乱れ、手が震えた。
    鞍作臣が怪しんで「何故震えているのか」と問うと、山田麻呂は「天皇が近くにお出でなので汗が流れてしまいます」と答えた。
    中大兄子麻呂らが入鹿の威に恐れ、怯んで進み出ないのを見て「やあ」と言った。
    そして子麻呂らと共に、不意に剣で入鹿の頭と肩を割った。
    入鹿は驚いて立とうとした。
    子麻呂は剣を振るってその片足を斬った。
    入鹿は御座のほうに転び、叩頭して「嗣位にお出でになるのは天の子です。自分の罪がわかりません。どうか明らかにして下さい」と言った。
    天皇は大いに驚いて中大兄に詔して「いったい何事であるか」と言った。
    中大兄は地に伏して言うには「鞍作「蘇我臣入鹿のまたの名が鞍作である」とある。は天宗を全て滅ぼして日位(ひつぎのくらい)を傾けようとしました。どうして天孫を鞍作に代えることが出来ましょうか」と。
    天皇は立ち上がって殿の中に入った。

    佐伯連子麻呂稚犬養連網田入鹿臣を斬った。


    この日、雨が降って水が庭に溢れた。
    席障子(むしろしとみ)鞍作の屍を覆った。

    古人大兄は私宅に走り入って、人に「韓人が鞍作臣を殺した「韓(からひと)の政に因り誅したことを言う」とある。。私の心は痛い」と言った。
    そして寝所に入り、門を閉ざして出なかった。
    中大兄は法興寺に入って城として備えた。
    諸皇子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造、全て皆が従い侍った。
    人を使って鞍作臣の屍を大臣蝦夷に賜った。
    漢直(あやのあたい)らは族党を総べ集め、(よろい)を着て武器を持ち、大臣を助けようと軍陣を設けた。
    中大兄は将軍巨勢徳陀臣を使い、天地開闢より君臣の別が始めからあることを賊党に説いて、進むべき道を知らしめた。

    高向臣国押が漢直らに言うには「我らは君大郎により殺されようとしている。大臣もまた今日明日には殺されることが決まったようなものだ。ならば誰の為に空しい戦いをして処刑されようか」と。
    言い終わると剣を解き、弓を投げ捨てて去っていった。
    賊徒もまた随って散り散りに去った。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月戊申条】
    • 皇極天皇4年6月11日

      ■■天皇「■■」は欠失。「天」は違筆補記。右傍にも「■■天皇」、「■極天皇(皇極天皇)」か。の御世の乙巳年六月十一日、近江天皇が生まれて廿一年、林太郎■■「■■」は欠失。を殺した。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 皇極天皇4年6月13日

    蘇我臣蝦夷らは誅殺される前に天皇記・国記・珍宝を全て焼いた。
    船史恵尺はすぐに取りに走って焼けた国記を中大兄に献上した。

    この日、蘇我臣蝦夷及び鞍作の屍を墓に葬ることを許した。また喪中に泣くことを許した。


    或る人が第一の謡歌(わざうた)を説いて言うには「その歌に『はろはろに ことそきこゆる しまのやぶはら同三年六月是月条にある謡歌の第一。』と言うが、これは宮殿を島大臣の家に接して建てた。中大兄中臣鎌子連が密かに大義を図って、入鹿を謀殺しようとした兆しである」と。
    第二の謡歌を説いて言うには「その歌に『をちかたの あさののきぎし とよもさず われはねしかど ひとそとよもす同三年六月是月条にある謡歌の第二。』と言うが、これは上宮の王たちの人となりが素直で、かつて罪も無く入鹿に殺された。自ら報復しなくても。天が人を使って誅殺される兆しである」と。
    第三の謡歌を説いて言うには「その歌に『をばやしに われをひきいれて せしひとの おもてもしらず いへもしらずも同三年六月是月条にある謡歌の第三。「われをひきいれて」は同三年六月是月条では「われをひきれて」』と言うが、これは入鹿臣が忽ちに宮中で佐伯連子麻呂稚犬養連網田に斬られる兆しである」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月己酉条】
    • 皇極天皇4年6月12日

      明くる日蘇我入鹿殺害の翌日。に、その父豊浦大臣の子孫らを全て滅した。

      【上宮聖徳法王帝説】