采女摩礼志
- 名前
- 氏(ウジ):采女【日本書紀】(うねめ)
- 姓(カバネ):臣【日本書紀】(おみ)
- 名:摩禮志【日本書紀】(まれし)摩礼志
- 生年月日
- ( ~ 推古天皇36年9月29日)
- 没年月日
- (推古天皇36年9月1日 ~ )
- 出来事
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推古天皇36年3月7日
推古天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年三月癸丑条】 -
推古天皇36年9月
葬礼が終った。
皇嗣は未だ定まっていなかった。この時、蘇我蝦夷臣は大臣だった。
一人で皇嗣を定めたいと思ったが、群臣が従わないのではないかと恐れた。
阿倍麻呂臣と議り、群臣を集めて大臣の家で饗応した。食事が終って散会しようとする時、大臣は阿倍臣に命じ、群臣に語らせて「いま天皇が崩じて皇嗣が定まっていない。もし速やかに計らなければ、乱れがあるのではないかと恐れている。何れの王を後継者とするべきだろうか。天皇が病に臥した日、田村皇子に『天下は大任である。もとより容易く言うものではない。田村皇子よ。慎んで観察するように。怠ってはならない』と詔された。次に山背大兄王に『お前は一人であれこれ言ってしまう。必ず群臣の言葉に従うように。慎しんで背くことのないように』と詔された。これが天皇の遺言であるが、誰が天皇となるべきであろうか」と。
群臣は黙って答えなかった。
また問うても答えなかった。
さらに強いて問うと、大伴鯨連が進み出て「天皇の遺命に従うのみです。群臣の言葉を待つ必要はありません」と言った。
阿倍臣は「どういうことか。はっきりと述べよ」と問うた。
答えて「天皇はどのような御心で田村皇子に『天下は大任である。怠ってはならない』と詔なされたかです。この言葉で皇位は既に定まっています。誰が異論を唱えましょうか」と。時に采女臣摩礼志・高向臣宇摩・中臣連弥気・難波吉士身刺の四臣が言うには「大伴連の言葉に従います。異議はありません」と。
許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣塩手の三人が進み出て言うには「山背大兄王が天皇になるのが宜しいでしょう」と。
ただ蘇我倉麻呂臣だけは「今は簡単に申し上げることは出来ません。再考した後に申し上げましょう」と言った。こうして大臣と群臣は意見がまとまらないことを知って退席した。
これより先、大臣が一人で境部摩理勢臣に「いま天皇が崩じて後継者がいない。誰が天皇になるべきだろうか」と尋ねると、「山背大兄を天皇に推挙致します」と答えた。
この時、山背大兄は
斑鳩宮 に居て、この議論を漏れ聞いた。
そして三国王・桜井臣和慈古の二人を遣わして、密かに大臣に言うには「伝え聞くところによると、叔父上は田村皇子を天皇にしたいと思われているようですが、私はこの話を聞き、立っては思い、居ては思っても、未だその理を得ません。願わくは、はっきりと叔父上の心意を知りたいと思うのです」と。
大臣は山背大兄の訴えに返答は出来ず、阿倍臣・中臣連・紀臣・河辺臣・高向臣・采女臣・大伴連・許勢臣らを召喚して、詳しく山背大兄の言葉を説明した。やがてまた大夫らに言うには「お前たち大夫は共に斑鳩宮に詣でて、山背大兄王に『賤しい私がどうして一人で皇嗣を定められましょうか。ただ天皇の遺詔を群臣に告げただけでございます。群臣は揃って、遺言の通り田村皇子が皇位をお継ぎになることに異議は無いと言います。これは群卿の言葉でございます。特に私の心意というわけではございません。私の考えがあったとしても、恐れ多くてお伝え致しかねます。お目にかかった日に申し上げます』と申し上げよ」と。
大夫らは大臣の言葉を受けて、共に斑鳩宮に詣でた。
三国王・桜井臣を使って大臣の言葉を山背大兄に伝えた。時に大兄王は群大夫らに伝え問わせて「天皇の遺詔は如何に」と言った。
【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇即位前紀 推古天皇三十六年九月条】
答えて「臣等はその深いお考えを理解致しかねます。ただし大臣の話によりますと、天皇が病臥あそばされた日に、田村皇子に『軽々しく国政に口を出してはいけない。お前田村皇子は言葉を慎むように。怠ってはならない』と詔あそばされ、次に大兄王に『お前は未熟である。あれこれやかましく言ってはならない。必ず群臣の言葉に従うように』と詔あそばされました。これは近侍や諸女王及び采女らの全てが知るとこであり、また大王もご存知であります」と。
大兄王はまた「この遺詔は誰が聞いたか」と問わせると、「臣等はその機密を存じ上げませんでした」と答えた。
さらにまた群大夫らに告げて「親愛なる叔父は労を思い、一人の使者ではなく、重臣らを遣わして教えさとされた。これは大恩である。しかし今、群卿の言う所の天皇の御遺命は、私の聞いたものと少々違っている。私は天皇が病臥あそばされたと聞き、参上して門下で侍っていると、中臣連弥気が中から出てきて『天皇がお召しです』と言うので、進み出て閤門に向った。栗隈采女黒女が庭中に出迎えて大殿に案内した。中では近習の栗下女王を頭として、女孺鮪女ら八人、合わせて数十人が天皇の側に侍っていた。また田村皇子もおられた。時に天皇の御病気が重くなり、私をご覧あそばされることも能わず、栗下女王が奏上して『お召しの山背大兄王が参りました』と申し上げた。天皇はお起きになられて『朕は寡薄だが久しく大業をつとめた。いま寿命が尽きようとしている。病を忌むことは出来ない。お前はもとより朕と心が通じている。寵愛の情は比べるものが無い。国家の大事は朕の世だけではない。お前は未熟であるから言葉を慎むように』と詔あそばされた。その時に侍っていた近習は全て知っている。それで私はこの大恩を蒙り、一度は恐れ、一度は悲しんだが、心は躍り上がり、歓喜して為す術を知らなかった。思えば社稷宗廟は重大事である。私は若くて賢くもない。どうして大任に当ることが出来ようか。この時に叔父や群卿たちに語ろうと思ったが、言うべき時が無く、今まで言えずにいた。私はかつて叔父の病を見舞おうとして、京 に行って豊浦寺 に居た。この日に天皇が八口采女鮪女をお遣わしあそばされ、『お前の叔父の大臣は常にお前のこと憂えて、やがては嗣位 がお前に当るのではないかと言っている。だから慎んで自愛するように』との詔を賜った。既にはっきりこのような事があったのだ。何を疑おうか。しかし私は天下を貪る気はない。ただ聞いたことを明らかにするだけである。これは天神地祇が証明している。願わくは天皇の真の遺勅を知ることである。また大臣の遣わす群卿は、従来厳矛 「嚴矛。此云伊箇之倍虛」とある。厳めしい矛。の中を取り持つように、正大に事を伝える人たちである。故によく叔父に申し伝えるように」と。
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