名前
  • 漢風諡号:推古天皇(すいこてんのう, すいこてんわう, すゐこてんわう)
  • 和風諡号:豐御食炊屋姬天皇【日本書紀】かし)豊御食炊屋姫天皇
  • 額田部皇女【日本書紀】(ぬかた
  • 豐御食炊屋姬尊【日本書紀】かし)豊御食炊屋姫尊
  • 豐御氣炊屋比賣命【古事記】かし)豊御気炊屋比売命
  • 豐御食炊屋比賣命【古事記】かし)豊御食炊屋比売命
  • 炊屋姬天皇【日本書紀】(かし)炊屋姫天皇
  • 炊屋姬皇后【日本書紀】(かしきさき)炊屋姫皇后
  • 炊屋姬尊【日本書紀】(かし)炊屋姫尊
  • 小治田大宮治天下大王天皇【法隆寺金堂薬師如来像光背銘】(おはりだのおおみやにあめのしたしろしめししおおきみすめらみこと, をはりだおほやにあしたしししおほ
  • 少治田大宮御宇大王天皇【上宮聖徳法王帝説】(おはりだのおおみやにあめのしたしろしめししおおきみすめらみこと, をはりだおほやにあしたしししおほ
  • 少治田宮治天下止余美氣加志支夜比賣天皇【上宮聖徳法王帝説】(おはりだのみやにあめのしたしろしめししとよみけかしきやひめすめらみこと, をはりだやにあしたしししかし)少治田宮治天下止余美気加志支夜比売天皇
  • 少治田宮御宇天皇【上宮聖徳法王帝説】(おはりだのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, をはりだやにあしたしししす
  • 少治田天皇【上宮聖徳法王帝説】(おはりだのすめらみこと, をはりだ
  • 等已彌居加斯支移比彌乃彌己等【上宮聖徳法王帝説,天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】けかし)等已弥居加斯支移比弥乃弥己等
  • 等與彌氣加斯支夜比賣命【天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】かし)等与弥気加斯支夜比売命
  • 小治田豐浦宮御宇天皇【先代旧事本紀】(おはりたのとゆらのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, をはりたゆらやにあしたしししす)小治田豊浦宮御宇天皇
生年月日
欽明天皇15年
没年月日
推古天皇36年3月7日
  • 欽明天皇きんめいてんのう【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
  • 堅塩媛きたしひめ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
先祖
  1. 欽明天皇
    1. 継体天皇
      1. 彦主人王
      2. 振媛
    2. 手白香皇女
      1. 仁賢天皇
      2. 春日大娘皇女
  2. 堅塩媛
    1. 蘇我稲目
    2. unknown
配偶者
  • 敏達天皇びだつてんのう【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】
  • 菟道貝鮹皇女うじのかいたこのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【父:敏達天皇びだつてんのう
  • 竹田皇子たけだのみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【父:敏達天皇びだつてんのう
  • 小墾田皇女おはりだのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【父:敏達天皇びだつてんのう
  • 桜井弓張皇女さくらいのゆみはりのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【父:敏達天皇びだつてんのう
  • 葛城王かずらきのみこ日本書紀には見えず。【古事記 下巻 敏達天皇段】【父:敏達天皇びだつてんのう
  • 鸕鷀守皇女うもりのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【父:敏達天皇びだつてんのう
  • 尾張皇子おわりのみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【父:敏達天皇びだつてんのう
  • 田眼皇女ためのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【父:敏達天皇びだつてんのう
子孫
  1. 菟道貝鮹皇女
  2. 竹田皇子
  3. 小墾田皇女
  4. 桜井弓張皇女
    1. 山代王
    2. 笠縫王
    3. 男王
    4. 星河女王
    5. 佐富王
  5. 葛城王
  6. 鸕鷀守皇女
  7. 尾張皇子
    1. 位奈部橘王
      1. 白髪部王
      2. 手島女王
  8. 田眼皇女
称号・栄典とても広〜い意味です。
出来事
  • 欽明天皇15年崩御時の年齢から逆算。【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年三月癸丑条】

    豊御食炊屋姫天皇は天国排開広庭天皇欽明天皇中女(なかつみこ)である。橘豊日天皇用明天皇。同母妹である共に母は堅塩媛(日本書紀欽明天皇三十二年四月是月条)。

    若いときには額田部皇女といった。
    姿色端麗・進止軌制であった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇即位前紀】
  • 欽明天皇32年4月(15日 ~ 29日)

    欽明天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十二年四月是月条】
  • 敏達天皇元年4月3日

    敏達天皇が即位する。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年四月甲戌条】
  • 敏達天皇4年11月

    敏達天皇の皇后広姫が薨じる。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年十一月条】
  • 敏達天皇5年3月10日

    敏達天皇の皇后となる。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】
    • 欽明天皇32年

      十八歳にして渟中倉太玉敷天皇敏達天皇。の皇后に立てられる。

      崩御時の年齢から逆算すると、十八歳の時は欽明天皇三十二年。敏達天皇は即位前であり、誤りと思われる。妃に立てられた年齢か。
      【日本書紀 巻第二十二 推古天皇即位前紀】
  • 敏達天皇14年8月15日敏達記では甲辰年四月六日。

    敏達天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年八月己亥条】
    • 用明天皇2年敏達紀とは2年の誤差が生じる。

      三十四歳にして渟中倉太珠敷天皇敏達天皇。が崩じる。

      【日本書紀 巻第二十二 推古天皇即位前紀】
  • 敏達天皇14年9月5日

    用明天皇が即位する。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇即位前紀 敏達天皇十四年九月戊午条】
  • 用明天皇元年5月

    穴穂部皇子炊屋姫皇后後の推古天皇。を犯そうとして自ら強行に殯宮に入ろうとした。
    寵臣三輪君逆は衛兵を呼んで宮の門を閉ざして入れさせなかった。

    穴穂部皇子は「誰がここにいるのか」と問うた。
    衛兵は「三輪君逆がいます」と答えた。

    七度「門を開けよ」と叫んだが、遂に聞き入れられなかった。

    穴穂部皇子大臣大連に言うには「は甚だ無礼である。殯宮の庭で(しのびごと)を読んで『朝庭を荒らさぬよう鏡の面のようにお浄めし、臣がお仕え奉ります』と申した。これは無礼である。天皇の子弟は多くいて両大臣もいる。誰が勝手にお仕え奉るなど言うことが出来ようか。また余が殯の内を見ようと思っても、拒んで入れようとしない。私が『門を開けよ』と七度叫んだが応じることもなかった。是非とも斬り捨てたい」と。
    両大臣は「仰せのままに」と答えた。
    穴穂部皇子は密かに天下の王となる事を謀り、偽って逆君を殺そうとした。

    遂に物部守屋大連と兵を率いて磐余の池辺を包囲した。
    逆君は気付いて三諸の岳に隠れた。

    この日の夜半に密かに山を出て後宮「炊屋姫皇后の別の宮をいう。これの名を海石榴市宮(つばきいちのみや)という」とある。に隠れた。

    と同姓である白堤横山逆君の居場所を密告した。
    穴穂部皇子守屋大連を遣わして「或る本に云うには、穴穂部皇子と泊瀬部皇子が計画して守屋大連を遣わしたという」とある。言うには「お前が行って逆君とその二子を討て」と。
    大連は遂に兵を率いて出発した。

    蘇我馬子宿禰はその計画を伝え聞き、皇子の所に行って「皇子の家の門をいう」とある。で会った。
    大連の所へ行こうとしていたので「王者は刑人を近づけません。自ら行かれてはなりません」と諫めた。
    皇子は聞かずに行ってしまった。馬子宿禰はやむなく随行した。

    磐余(いわれ)に至り切に諌めた。
    皇子は諫言に従い停止した。そしてそこで胡床にあぐらをかいて大連を待った。

    大連はしばらくしてやってきた。兵を率いて「らを斬り終えました「或る本に云うには、穴穂部皇子が自ら行って射殺したという」とある。」と復命した。
    馬子宿禰は歎いて「天下の乱れは久しくない」と言った。
    これを聞いた大連は「お前のような小臣が知るところではない」と答えた。

    この三輪君逆訳語田天皇の寵愛を受け、内外の事ことごとくを委ねられていた。
    これにより炊屋姫皇后と馬子宿禰は共に穴穂部皇子を恨むようになった。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年五月条】
  • 用明天皇2年4月2日記事に二年夏四月乙巳朔丙子とあるが、乙巳を朔日とすると丙子(32日)は誤り。次の崩御記事が癸丑(9日)であるから丙午(2日)か壬子(8日)が候補か。当サイトでは丙午とする。

    天皇は病にかかり宮に還った。群臣が侍った。
    天皇は群臣に詔して「朕は三宝仏・法・僧。に帰依しようと思う。卿らも議るように」と。群臣は入朝して議った。
    物部守屋大連中臣勝海連が詔を違えて言うには「どうして国つ神に背いて他の神を敬うことがあろうか。元来このようなことは聞いたことが無い」と。
    蘇我馬子宿禰大臣が言うには「詔に従って助け奉るべきである。誰が異なる考えを生じようか」と。
    皇弟皇子(すめいろどのみこ)「皇弟皇子とは穴穂部皇子、即ち天皇の庶弟である」とある。豊国法師「闕名」とある。を連れて内裏に入った。
    物部守屋大連は横目で睨んで激怒した。

    この時に押坂部史毛屎が慌ててやってきて、密かに大連に「いま群臣が謀って、あなたの退路を断とうとしています」と語った。
    大連はこれを聞き、阿都(あと)「阿都とは大連の別業がある所の地名である」とある。に退いて人を集めた。

    中臣勝海連は家に兵を集めて大連を助けた。
    遂に太子彦人皇子の像と竹田皇子の像を作って呪った。
    しばらくすると事の成り難いことを知り、彦人皇子水派宮(みまたのみや)水派。此云美麻多。に帰伏した。

    舎人の迹見赤檮「迹見は姓であり、赤檮は名である。赤檮、此れを伊知毘と云う」とある。勝海連彦人皇子の所へ退くのを伺い、刀を抜いて殺した。

    大連は阿都の家から物部八坂大市造小坂漆部造兄を遣わして馬子大臣に言うには「群臣が私を謀ろうとしていることを聞いた。それで私は退いたのである」と。

    馬子大臣土師八島連大伴毘羅夫連の所に遣わして、詳しく大連のことを話した。
    これにより毘羅夫連は手に弓箭・皮楯を執り、槻曲(つきくま)の家「槻曲の家とは大臣の家である」とある。に行き、昼夜離れずに大臣を守護した。

    天皇の病はいよいよ重くなり、まさに臨終という時に鞍部多須奈「司馬達等の子である」とある。が奏上して「臣は天皇の御為に出家して脩道致します。また丈六の仏像及び寺を造って奉じます」と。
    天皇は悲しんで大声で泣いた。
    南淵(みなぶち)坂田寺(さかたでら)の木の丈六の仏像・挟侍(きょうじ)の菩薩がこれである。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月丙子条】
    • 用明天皇元年

      池辺大宮治天下天皇用明天皇。が大御身を労き賜った時、丙午年に大王天皇推古天皇。太子聖徳太子。を召して誓願して賜わく、「我が大御病が太平になって欲しいと思う。だから寺と薬師像を作って仕え奉ろう」と詔した。

      【法隆寺金堂薬師如来像光背銘】
  • 用明天皇2年4月9日

    用明天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月癸丑条】
    • 用明天皇2年

      時に崩じ賜ってしまい、造るまで堪えられなかったので用明天皇が自身の病の治癒を祈願して造らせた寺と薬師像。、小治田大宮治天下大王天皇と東宮聖王は大命を受け賜って丁卯年に仕え奉った。

      【法隆寺金堂薬師如来像光背銘】
  • 用明天皇2年5月

    物部大連の軍兵が三度も人々を驚愕させた。

    大連は他の皇子たちを顧みず、穴穂部皇子を立てて天皇にしようとしていた。
    今に至り、狩猟に託けて立て替えようとした。
    密かに人を穴穂部皇子のもとに遣わして「願わくは皇子と淡路で狩猟がしたい」と言った。
    計画は漏れた。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年五月条】
  • 用明天皇2年6月7日

    蘇我馬子宿禰らが炊屋姫尊を奉じて、佐伯連丹経手土師連磐村的臣真噛に詔して「汝らは兵を整え、速やかに穴穂部皇子宅部皇子を誅殺せよ」と。

    この日の夜半、佐伯連丹経手らは穴穂部皇子の宮を囲んだ。

    兵士はまず(たかどの)の上に登って穴穂部皇子の肩を撃った。
    皇子は楼の下に落ちて、そばの部屋に走り入った。
    兵士らは灯火を挙げ誅殺した。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年六月庚戌条】
  • 用明天皇2年6月8日

    宅部皇子が誅殺される。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年六月辛亥条】
  • 用明天皇2年7月

    諸皇子や蘇我馬子ら群臣が物部守屋を討伐する。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年七月条】
  • 用明天皇2年8月2日

    炊屋姫尊と群臣が勧めて泊瀨部皇子が即位して天皇となる。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年八月甲辰条】
  • 崇峻天皇5年11月3日崇峻天皇の暗殺された日。璽印を奉じるまでの期間はこの限りではない。【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十一月乙巳条】

    三十九歳にして泊瀬部天皇五年十一月に、天皇大臣馬子宿禰に殺され空位となる。

    群臣は渟中倉太珠敷天皇の皇后額田部皇女に請うて即位させようとしたが、皇后は辞退した。
    百寮は上表して勧請した。
    三度目に従い、天皇の璽印を奉じた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇即位前紀】
  • 崇峻天皇5年12月8日

    豊浦宮(とゆらのみや)で即位して天皇となる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇即位前紀 崇峻天皇五年十二月己卯条】
    • 小治田宮(おはりだのみや)にて天下を治めること三十七年であった。

      日本書紀では、推古天皇十一年十月壬申条に小墾田宮(おはりだのみや)に遷る記事がある。
      【古事記 下巻 推古天皇段】
  • 推古天皇元年1月15日

    仏舎利を法興寺(ほうこうじ)刹柱仏塔の中心の柱。の礎の中に置く。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇元年正月丙辰条】
  • 推古天皇元年1月16日

    刹柱を立てる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇元年正月丁巳条】
  • 推古天皇元年4月10日

    厩戸豊聡耳皇子を皇太子に立て、政を摂らせて万機の悉くを委ねた摂政。
    橘豊日天皇用明天皇。の第二子であり、母は皇后穴穂部間人皇女という。
    皇后が出産しようとする日に、禁中に行って諸司を監察した。
    馬官(うまのつかさ)に至り、厩の戸に当たり労せずに出産した。
    生まれながらにものを言った。聖智があった。
    壮年に及び、一度に十人の訴えを聞いては失することなく答えた。加えて未然を予知した。
    また内教(ほとけのみのり)仏教。を高麗僧恵慈に習い、外典(とつふみ)儒教の経典。を博士覚哿に学び、その悉くを悟った。
    父の天皇は可愛がって、宮の南の上殿(かみつみや)に住まわせた。
    それでその御名を称えて上宮厩戸豊聡耳太子という。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇元年四月己卯条】
  • 推古天皇元年9月

    橘豊日天皇用明天皇。河内磯長陵(かわちのしながのみささぎ)に改葬する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇元年九月条】
  • 推古天皇元年

    はじめて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造る。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇元年是歳条】
  • 推古天皇2年2月1日

    太子及び大臣に詔して三宝仏・法・僧の三つ。を興隆させるように命じる。
    この時に諸臣連らは各々君親の恩の為に競って仏舎を造った。即ちこれを寺という。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二年二月丙寅朔条】
    • 少治田宮御宇天皇の世に上宮厩戸豊聡耳命島大臣と共に天下の政を助けて三宝を興隆させた。
      元興(がんごう)四天皇(してんのう)知恩院本は「天四皇」だが改めた。などの寺を起した。

      【上宮聖徳法王帝説】
    • 推古天皇13年5月

      少治田天皇の御世の乙丑年五月に聖徳王島大臣が共に議って仏法を建立し、更に三宝を興した。
      即ち五行に准じて爵位を定めた。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 推古天皇3年4月

    沈水(じむ)香木の一種。沈香。が淡路島に漂着する。その大きさ一囲(ひといだき)周囲三尺で一囲。
    島人は沈水と知らずに薪と共に竈で焼いた。
    その煙は遠くまで薫った。
    それで不思議に思って献上した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三年四月条】
  • 推古天皇3年5月10日

    高麗(こま)恵慈が帰化して皇太子の師となる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三年五月丁卯条】
  • 推古天皇3年

    百済僧慧聡が来朝する。

    この両僧高麗僧恵慈・百済僧慧聡。が仏教を広め、並びに三宝の棟梁となった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三年是歳条】
  • 推古天皇3年7月

    将軍ら崇峻天皇4年11月に出陣した紀男麻呂宿禰らの軍。が筑紫から引き上げる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三年七月条】
  • 推古天皇4年11月

    法興寺が落成する。
    大臣蘇我馬子。の男善徳臣寺司(てらのつかさ)に拝す。
    この日、恵慈恵聡の二僧が初めて法興寺に住む。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇四年十一月条】
  • 推古天皇5年4月1日

    百済王が王子阿佐を遣わして朝貢する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇五年四月丁丑朔条】
  • 推古天皇5年11月十一月癸酉朔甲子条とするが、癸酉朔の甲子は52日にあたる。【日本書紀 巻第二十二 推古天皇四年十一月甲子条】

    吉士磐金を新羅に遣わす。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇五年十一月甲子条】
  • 推古天皇6年4月

    難波吉士磐金が新羅から帰国して(かささぎ)二羽を献上する。
    それで難波杜(なにわのもり)で育て、枝に巣を作って産卵した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇六年四月条】
  • 推古天皇6年8月1日

    新羅が孔雀一羽を献上する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇六年八月己亥朔条】
  • 推古天皇6年10月10日

    越国が白鹿一頭を献上する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇六年十月丁未条】
  • 推古天皇7年4月27日

    地が動き、家屋の悉くが壊れた。
    それで四方に命じて地震の神を祭らせた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇七年四月辛酉条】
  • 推古天皇7年9月1日

    百済が駱駝(らくだ)一匹・(うささぎうま)ロバ。一匹・羊二頭・白雉(しろきぎす)白キジ。一羽を献上する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇七年九月癸亥朔条】
  • 推古天皇8年2月

    新羅と任那が戦った。天皇は任那を救いたいと思った。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇八年二月条】
  • 推古天皇8年

    境部臣「闕名」とある。を大将軍、穂積臣「闕名」とある。を副将軍として、万余の兵を率いて任那の為に新羅を討つよう命じた。
    新羅を目指して船で向かった。

    新羅に到着すると五つの城を攻め抜いた。
    新羅王は恐れて白旗を挙げて将軍の旗印の下にやってきて、多多羅(たたら)素奈羅(すなら)弗知鬼(ほちき)委陀(わだ)南加羅(ありひしのから)阿羅羅(あらら)の六城を割譲して降伏を願い出た。

    時に将軍は共に議って「新羅が罪を知って降伏した。強いて攻撃するのは良くない」といい、これを奏上した。

    天皇は難波吉師神を新羅に遣わし、また難波吉士木蓮子を任那に遣わして事情を調べさせた。

    新羅・任那の二国は使いを遣わして朝貢し、奏上して「天上に神があらせられます。地には天皇があらせられます。この二神を除いて(かしこ)いものがありましょうか。今後は互いに攻めず、また船柁(ふなかじ)が乾かぬよう毎年必ず朝貢いたします」と。
    そこで使いを遣わして将軍を召還させた。将軍らは新羅から帰った。

    新羅はまた任那を侵した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇八年是歳条】
  • 推古天皇9年2月

    皇太子が初めて宮を斑鳩(いかるが)に興す。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇九年二月条】
  • 推古天皇9年3月5日

    大伴連囓高麗(こま)に遣わし、坂本臣糠手を百済に遣わし、詔して「急ぎ任那を救え」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇九年三月戊子条】
  • 推古天皇9年5月

    耳梨(みみなし)行宮(かりみや)に在居する。
    この時に大雨が降った。河水が溢れて宮の庭に満ちた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇九年五月条】
  • 推古天皇9年9月8日

    新羅の間諜迦摩多が対馬に至る。則ち捕えて奉った。上野(かみつけの)に流した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇九年九月戊子条】
  • 推古天皇9年11月5日

    新羅攻めを議る。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇九年十一月甲申条】
  • 推古天皇10年2月1日

    来目皇子を新羅を撃つ将軍とする。
    諸々の神部及び国造・伴造ら、併せて兵二万五千人を授ける。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十年二月己酉朔条】
  • 推古天皇10年4月1日

    将軍来目皇子が筑紫に到着して島郡(しまのこおり)に駐屯する。船舶を集めて軍糧を運ぶ。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十年四月戊申朔条】
  • 推古天皇10年6月3日

    大伴連囓坂本臣糠手が共に百済より至る。
    この時に来目皇子は病に臥して征討は果せなかった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十年六月己酉条】
  • 推古天皇10年10月

    百済僧観勒が来朝して、暦の本及び天文・地理書、併せて遁甲・方術の書を献上する。
    この時に書生三、四人を選び、観勒に従い学習させた。
    陽胡史(やこのふひと)の祖玉陳は暦法を習った。
    大友村主高聡は天文・遁甲を学んだ。
    山背臣日並立は方術を学んだ。
    皆学んで業を成した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十年十月条】
    • 推古天皇10年

      観勒僧正は推古天皇即位十年壬知恩院本は「成」としているが「戌」に改めた。に来た。

      【上宮聖徳法王帝説 知恩院所蔵本 裏書】
  • 推古天皇10年閏10月15日

    高麗僧僧隆雲聡が共に帰化する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十年閏十月己丑条】
  • 推古天皇11年2月4日

    来目皇子が筑紫で薨じた。
    早馬を使って奏上した。

    天皇はこれを聞いて大いに驚き、皇太子蘇我大臣を召して言うには「征新羅大将軍来目皇子が薨じた。大事に臨んだが遂げることは出来なかった。甚だ悲しいことである」と。
    そして周芳(すおう)国の娑婆(さば)に殯した。土師連猪手を遣わして殯の事を司らせた。
    それで猪手連の孫を娑婆連(さばのむらじ)というのは是の縁からである。

    後に河内の埴生山岡上(はにゅうのやまのおかのえ)に葬った。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十一年二月丙子条】
  • 推古天皇11年4月1日

    来目皇子の兄当麻皇子を征新羅将軍とする。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十一年四月壬申朔条】
  • 推古天皇11年7月3日

    当麻皇子が難波から船で出発する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十一年七月癸卯条】
  • 推古天皇11年7月6日

    当麻皇子が播磨に到着する。

    時に従っていた妻の舎人姫王が赤石で薨じた。
    それで赤石桧笠岡上(あかしのひかさのおかのえ)に葬った。
    これにより当麻皇子は引き返して遂に征討することはなかった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十一年七月丙午条】
  • 推古天皇11年10月4日

    小墾田宮(おはりだのみや)に遷る。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十一年十月壬申条】
  • 推古天皇11年11月1日

    皇太子が諸大夫に言うには「私は尊い仏像を持っている。誰かこの像を崇拝するか」と。
    時に秦造河勝が進み出ると「臣が拝みましょう」と言って仏像を受けた。
    それで蜂岡寺(はちおかでら)を造った。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十一年十一月己亥朔条】
  • 推古天皇11年11月

    皇太子が天皇に請うて大楯・靱。此云由岐。を作り、また旗幟(はた)を描いた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十一年十一月是月条】
  • 推古天皇11年12月5日

    はじめて冠位を定める。
    大徳小徳大仁小仁大礼小礼大信小信大義小義大智小智
    合わせて十二階。
    並びに当色の(きぬ)を以って縫った。
    頂は(ふくろ)のようにまとめて縁飾りを付けた。
    ただし元日には髻華(うず)髻華。此云于孺。を挿した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十一年十二月壬申条】
  • 推古天皇12年1月1日

    はじめて冠位を諸臣に賜う。各々に品あり。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十二年正月戊戌朔条】
  • 推古天皇12年4月3日

    皇太子自ら憲法十七条を作る。

    一に曰く、和を以って(とうと)しと為し、(さから)うこと無きを宗とせよ。人は皆(たむろ)する。また(さと)る者は少ない。是を以って或いは君や父に従わず、また隣里と(たが)う。然れども上は和ぎ下は睦びて事を論じれば、自ずから事理は通う。何事も成し遂げられないことはない。

    二に曰く、篤く三宝を敬うように。三宝とは仏・法・僧である。則ち四生胎生・卵生・湿生・化生。生きとし生けるもの。終帰(おわりのよりどころ)、万国の極宗(きわめのむね)である。何れの世、何れの人も、この法を貴ばずにいられようか。甚だ悪い人は(すくな)い。よく教えれば従う。三宝によらなければ、何を以って(まが)ったものを(ただ)せようか。

    三に曰く、詔を承れば必ず謹むように。君を天とする。臣を地とする。天は覆い、地は載せる。四つの時春夏秋冬。が順行すれば万気は通うことができる。地が天を覆おうとすれば秩序は壊れてしまう。是を以って君の言葉を臣は承るのである。上が行えば下は靡く。よって詔を承れば必ず慎しむように。謹しまなければ自ずから失敗する。

    四に曰く、群卿・百寮は礼を以って本とせよ。民を治める要は礼にある。上に礼が無ければ下は(ととの)わず、下に礼が無ければ必ず罪を犯す。是を以って群臣に礼が有れば位次は乱れず、百姓(おおみたから)に礼が有れば国家は自ずと治まる。

    五に曰く、飲食の貪りを絶ち、物欲を棄てよ。訴訟は明かに裁くように。百姓の訴えは一日に千件もある。一日でもこうであるのに年を重ねれば尚更である。この頃は訴えを治める者は利を得るを常とし、(まいない)を見てから申し立てを聞く。財のある者の訴えは水に投げた石のように通り、乏しい者の訴えは石に投げた水に似る。是を以って貧民は知る由もない。臣としての道理もまた欠けてしまう。

    六に曰く、悪を懲らし善を勧めることは古の良い(のり)である。是を以って人の善を匿すことなく、悪を見れば必ず(ただ)すように。(へつら)(あざむ)く者は、国家を覆す(するど)い器であり、人民を絶つ剣の(きっさき)である。また(へつら)()びる者は、上に対しては下の過ちを好んで説き、下に逢っては上の過ちを誹謗(そし)る。これらの人は皆、君には忠が無く、民には仁が無い。これは大乱の本である。

    七に曰く、人には各々任がある。掌ることに濫れは宜しくない。賢哲者が官を任されれば、褒め称える声はすぐに起る。奸者が官にあれば、禍乱が多くなる。世に生まれながらに知る者は少ない。よく考えて聖となるのである。事に大少無く、人を得て必ず治まる。時に緩急は無い。賢者に遇えば自ずと治まる。これにより国家は永久にして社稷に危機は無くなる。それで古の聖王(ひじりのきみ)は官の為に人を求め、人の為に官を求めなかったのである。

    八に曰く、群卿・百寮は早く参朝して遅く退朝せよ。公事は絶え間がない。終日にかけても尽くし難い。是を以って遅く参朝すれば急事に間に合わない。早く退朝すれば必ず事を尽くすことはできない。

    九に曰く、信は義の本である。毎事に信あるべきである。善悪・成否の要は信にある。群臣が共に信あれば何事も成らぬことはない。群臣に信が無ければ万事ことごとく失敗する。

    十に曰く、怒りを絶ち、恨みを棄てよ。人と違っても怒ってはならない。人には心がある。それぞれ思うこともある。相手が是でも自分は非であったり、自分が是でも相手が非であったりする。自分は必ず聖ではない。相手は必ず愚かではない。共に凡人なのである。是非の理を誰が定められようか。互いの賢愚は、端が無い輪のようなものである。是を以って相手が怒っていても自分の過ちを省みよ。自分一人が正しいと思っても衆人に従い行動せよ。

    十一に曰く、功罪は明かに()て、賞罰は必ず正当にせよ。日頃、賞は功に合っておらず、罰は罪に合っていない。事を執る群卿は賞罰を明かにせよ。

    十二に曰く、国司(くにのみこともち)国造は百姓から搾取してはならない。国に二君は無い。民に両主は無い。国土の兆民(おおみたから)は王を主とせよ。仕える官司は皆これ王の臣である。どうして公だからと百姓から搾取できようか。

    十三に曰く、諸官を任される者は職掌を知るように。或いは病で、或いは使いとして、事を()くこともある。しかし知り得る日には、以前から知っているように(あまな)うように。それを聞いていないとして公務を妨げてはならない。

    十四に曰く、群臣・百寮は嫉妬があってならない。自分が人を嫉妬すれば人が自分を嫉妬する。嫉妬の患いは極みを知らない。ゆえに己を勝る知識を喜ばず、己に優る才能を嫉妬する。是を以って五百年にして逢う賢人や千年に一度の聖人を待つことも難しくなる。賢人・聖人を得ずにどうして国を治められようか。

    十五に曰く、(わたくし)を背いて(おおやけ)に向うは臣の道である。凡人とは、人がいれば必ず恨みがある。恨みがあれば同調することは無い。同調することが無ければ私を以って公を妨げる。恨みが起るときは(ことわり)(たが)(のり)(やぶ)る。それで初めの章第一条の和を以って云々を指す。に云う、上下の和をとなえるのは、この心情からである。

    十六に曰く、民を使うに時を以ってするというのは古の良典である。それで冬の月に間があれば民を使うのは良い。春から秋にかけては農桑の季節なので民を使ってはならない。農業を怠れば何を食べられようか。養蚕を怠れば着られようか。

    十七に曰く、事の独断をしてはならない。必ず衆人と論じるように。少事は軽く、必ずしも衆人に合わせなくても良いが、大事を論じる場合は誤りがあることを疑うように。衆人と意見を交えれば道理を得られる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十二年四月戊辰条】
    • 推古天皇13年7月

      十七余法を立てる。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 推古天皇12年9月北野本など七月とするものもある。国立国会図書館デジタルコレクション日本書紀国宝北野本巻第22(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142394 コマ15/42)【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十二年九月条】

    朝礼を改める。
    詔して「宮門を出入りするときは、両手に地を押しつけて両脚で跪き、(とじきみ)門の仕切り。を越えてから立って行くように」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十二年九月条】
  • 推古天皇12年9月直前の記事が七月であれば、この記事も七月となる。【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十二年九月是月条】

    はじめて黄書画師(きふみのえきかき)山背画師(やましろのえかき)を定める。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十二年九月是月条】
  • 推古天皇13年4月1日

    天皇が皇太子大臣及び諸王・諸臣に詔して、共に同じく誓願を発てて、はじめて(あかがね)(ぬいぎぬ)の丈六の仏像を各一躯造った。
    そして鞍作鳥に命じて造仏の(たくみ)とした。
    この時に高麗(こま)国の大興王が日本国の天皇が仏像を造ったと聞いて、黄金三百両を貢上した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十三年四月辛酉朔条】
  • 推古天皇13年閏7月1日

    皇太子が諸王・諸臣に命じて(ひらおび)を着用させる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十三年閏七月己未朔条】
  • 推古天皇13年10月

    皇太子斑鳩宮(いかるがのみや)に居住する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十三年十月条】
  • 推古天皇14年4月8日

    銅・繍の丈六の仏像が完成する。

    この日に丈六の銅像を元興寺(がんこうじ)の金堂に置こうとしたが、仏像が金堂の戸より高くて堂に入らなかった。
    そこで諸工人等らが相談して「堂の戸を壊して入れよう」と言った。
    しかし鞍作鳥が秀れた(たくみ)なのは、戸を壊さずに堂に入れたことである。

    即日設斎した。
    参集した人々は数えきれないほどだった。
    この年より初めて、寺ごとに四月八日灌仏会。七月十五日盂蘭盆会。に設斎する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十四年四月壬辰条】
  • 推古天皇14年5月5日

    鞍作鳥に勅して「朕は内典(うちつのり)を興隆させたいと思い、まさに仏刹(ぶっせつ)を建てようとして舎利(しゃり)を求めた。時にお前の祖父司馬達等はすぐに舎利を献上した。また国に僧尼が無かった。そこでお前の父多須那橘豊日天皇用明天皇。の為に出家して仏法を恭敬した。またお前の(おば)島女が出家して、諸々の尼の導者として釈教(ほとけのみのり)を修行させた。朕は丈六の仏を造るために良い仏像を求めた。お前の献上した仏の原図は朕の心に適っていた。また仏像が完成したが堂に入らなかった。諸工人は諦めて堂の戸を壊そうとしたが、お前は戸を壊さずに入れることが出来た。これらは全てお前の功である」と。
    そして大仁の位を賜った。
    近江国の坂田郡(さからのこおり)の水田二十町を賜った。
    はこの田を以って天皇の為に金剛寺(こんごうじ)を建てた。これは今南淵(みなぶち)坂田尼寺(さかたのあまでら)という。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十四年五月戊午条】
  • 推古天皇14年7月

    天皇は皇太子を招いて勝鬘経(しょうまんきょう)を講じさせた。三日で説き終えた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十四年七月条】
    • 推古天皇6年4月15日

      戊午年四月十五日に少治田天皇が上宮王に請うて勝鬘経を講じさせた。
      その儀は僧のようであった。
      諸王・公主、及び臣・連・公民は信受して喜ばないことは無かった。
      三日の内に講説は終った。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 推古天皇14年

    皇太子は法華経を岡本宮(おかもとのみや)で講じた。天皇は大いに喜んで播磨国の水田百町を皇太子に与えた。
    それでこれを斑鳩寺(いかるがでら)に納めた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十四年是歳条】
    • 天皇は聖王播磨国(はりまのくに)揖保郡(いいほのこおり)佐勢(させ)の地の五十万代を布施した。
      聖王はこの地を法隆寺(ほうりゅうじ)の地としたのである。いま播磨にある田は三百余町知恩院本の裏書に「或る本に云うには、播磨の水田は二百七十三丁五反廿四卜云々。またの本に云うには、三百六十丁云々」とある。である。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 推古天皇15年2月1日

    壬生部(みぶべ)を定める。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十五年二月庚辰朔条】
  • 推古天皇15年2月9日

    詔して「朕が聞くところによると、昔、我が皇祖の天皇たちが世を治めたまうことは、天地に恐縮して神祗を厚く敬い、遍く山川を祀り、遥か乾坤に心を通わせたという。これにより陰陽は調和して、造化は共に整った。朕の世になっても神祗の祭祀を怠ってはならない。群臣は共に心を尽くして神祗を拝するように」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十五年二月戊子条】
  • 推古天皇15年2月15日

    皇太子及び大臣が百寮を率いて神祗を祀り拝した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十五年二月甲午条】
  • 推古天皇15年7月3日

    大礼小野臣妹子大唐(もろこし)唐とあるが、実際には隋。以下も原文ママとするが、推古天皇二十三年九月条にある大唐・唐の記述までは隋の時代。に遣わす。
    鞍作福利通事(おさ)通訳。とする。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十五年七月庚戌条】
  • 推古天皇15年(10月 ~ 12月)

    倭国の高市池(たけちのいけ)藤原池(ふじわらのいけ)肩岡池(かたおかのいけ)菅原池(すがわらのいけ)を作る。
    山背国(やましろのくに)栗隈(くるくま)大溝(おおうなで)を掘る。
    また河内国に戸苅池(とかりのいけ)依網池(よさみのいけ)を作る。
    また国ごとに屯倉を置く。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十五年七月是歳冬条】
  • 推古天皇16年4月

    小野臣妹子が大唐から帰途に就く。

    唐国は妹子臣を名付けて蘇因高といった。
    妹子臣は大唐の使人裴世清下客(しもべ)十二人を従えて筑紫に着いた。

    難波吉士雄成を遣わして大唐の客人裴世清らを召し、唐客の為に新しい(むろつみ)を難波の高麗館(こまのむろつみ)の上に造った。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年四月条】
  • 推古天皇16年6月15日

    客は難波津に泊った。
    この日、飾船(かざりふね)三十艘で江口に迎えて新館に入らせた。
    中臣宮地連磨呂大河内直糠手船史王平掌客(まらうとのつかさ)接待係。とした。

    妹子臣が奏上して「私が帰還する時に、唐帝隋の煬帝。は書を私に授けました。しかし百済国を過ぎるときに百済人に探られ掠め取られましたので、これを奉ることが出来ません」と。
    群臣は議って「使人たるもの死んでも任は失わないが、この使人は何を怠って大国の書を失うのか」と言って流刑にしようとした。
    天皇は勅して「妹子には書を失った罪はあるが、たやすく罰してはならない。大国の客にも聞こえが良くない」と。
    それで赦して罰しなかった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年六月丙辰条】
  • 推古天皇16年8月3日

    唐客が入京する。
    この日、飾騎(かざりうま)七十五匹を遣わして、唐客を海石榴市(つばきち)の路上に迎えた。
    額田部連比羅夫が礼辞を述べた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年八月癸卯条】
  • 推古天皇16年8月12日

    唐客を朝庭に召して、使いの旨を奏上させた。

    阿倍鳥臣物部依網連抱の二人に客の案内をさせた。
    大唐の国の信物を庭中に置いた。
    使主裴世清は自ら書を持って両度再拝して、使いの旨を言上して立った。
    その書に曰く「皇帝から倭皇(やまとのすめらみこと)に送る。使人の長吏大礼蘇因高らは詳しく思いを伝えてくれた。朕は天命を歓び承って天下に臨んでいる。徳化を広めて万物に及ぼそうと思っている。愛育の情に遠近の隔たりは無い。皇は海外にあって民を安撫して国内を安楽にし、風俗を融和し、深い至誠があり、遠く朝貢することを知った。その誠意を朕は喜びとする。ようやく暖かくなってきたので、鴻臚寺(こうろじ)の掌客裴世清らを遣わした経緯を述べ、あわせて送り物をすることは別のとおりである」と。

    阿倍臣が庭に出てその書を受けて進み出ると、大伴囓連が迎え出て書を承り、大門の前の机の上に置いて奏上した。
    事が終ると退いた。

    この時、皇子・諸王・諸臣の悉くが金の髻華(うず)を頭に挿し、また衣服には(にしき)(むらさき)(ぬいもの)(おりもの)、及び五色綾羅(あやうすはた)用いた「一云、皆、服の色は冠の色を用いたという」とある。本文では同十九年五月五日是日条に冠色を用い始める記事がある。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年八月壬子条】
  • 推古天皇16年8月16日

    唐客らに朝廷で饗応する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年八月丙辰条】
  • 推古天皇16年9月5日

    客らに難波の大郡(おおごおり)で饗応する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年九月乙亥条】
  • 推古天皇16年9月11日

    唐客裴世清が帰国することとなり、また小野妹子臣大使(おおつかい)とし、吉士雄成小使(そいつかい)とし、福利通事(おさ)通訳。とし、唐客に副えて遣わす。

    天皇は唐帝に謝辞を述べた。その辞にいうには「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。使人、鴻臚寺(こうろじ)の掌客裴世清らが訪れ、久しく求めていた思いが解けました。このごろはようやく涼しくなりました。(かしこどころ)唐帝(隋の煬帝)を指す。はいかがお過ごしでしょうか。穏やかにお過ごしでしょうか。こちらは無事です。いま大礼蘇因高大礼乎那利らを遣わし、不具ではありますが謹しんで申し上げます」と。

    この時に唐国へ遣わしたのは、学生の倭漢直福因奈羅訳語恵明高向漢人玄理新漢人大国、学問僧の新漢人日文南淵漢人請安志賀漢人恵隠新漢人広斉ら、合わせて八人である。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年九月辛巳条】
    • 推古天皇16年9月11日

      唐客裴世清が帰国することになり、大仁小野妹子臣大使(おおつかい)とし、小仁吉士雄成小使(そいつかい)とし、小礼福利通事(おさ)通訳。とし、唐客に副えて遣わす。

      【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 推古天皇十六年九月辛巳条】
  • 推古天皇16年9月11日

    物部鎌足姫大刀自連公が参政する。

    【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 推古天皇十六年九月辛巳条】
  • 推古天皇16年

    新羅の人が多く帰化する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年是歳条】
  • 推古天皇17年4月4日

    筑紫の大宰(おおみこともち)が奏上して「百済僧道欣恵弥を首として十人原文は「一十人」、俗人七十五人が肥後国の葦北津(あしきたのつ)に停泊しています」と。
    この時に難波吉士徳摩呂船史竜を遣わして「どうして来たのか」と問うと、答えて「百済王の命で呉国(くれのくに)に遣わされましたが、その国に乱があって入ることが出来ず、本国に帰ろうとすると、急な暴風に逢って海上を漂うことになってしまいました。しかし大きな幸があり、聖帝の国の辺境に停泊できました。喜んでおります」と言った。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十七年四月庚子条】
  • 推古天皇17年5月16日

    徳摩呂らが復命した。
    そして徳摩呂の二人を百済人らに副えて本国に送り届けた。
    対馬に至り、道人ら十一人原文は「十一」だが、同年四月庚子条では「一十人」とする。皆が留まることを願い、上表して留まることになった。
    それで元興寺(がんこうじ)に住まわせた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十七年五月壬午条】
  • 推古天皇17年9月

    小野臣妹子らが大唐から帰国する。ただ通事(おさ)通訳。福利は帰らなかった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十七年九月条】
  • 推古天皇18年3月

    高麗王が僧の曇徴法定を貢上する。
    曇徴は五経に通じており、また絵具・紙・墨を作り、あわせて碾磑(みずうす)水力を利用した臼。も造った。
    碾磑を造ったのはこの時に始まるか。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十八年三月条】
  • 推古天皇18年7月

    新羅の使人沙喙部奈末竹世士と任那の使人喙部大舎首智買が筑紫にやってくる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十八年七月条】
  • 推古天皇18年9月

    使いを遣わして新羅・任那の使人を召す。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十八年九月条】
  • 推古天皇18年10月8日

    新羅・任那の使人が(みやこ)に至る。
    この日、額田部連比羅夫に命じて新羅の客を迎える荘馬(かざりうま)の長とし、膳臣大伴を任那の客を迎える荘馬の長とする。
    そして阿斗(あと)の河辺の(むろつみ)に入らせた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十八年十月丙申条】
  • 推古天皇18年10月9日

    客人が朝庭で拝礼した。

    秦造河勝土部連菟を新羅の導者とし、間人連塩蓋阿閉臣大籠を任那の導者とする。
    共に先導しながら南門から入って中庭に立った。
    この時に大伴咋連蘇我豊浦蝦夷臣坂本糠手臣阿倍鳥子臣は共に坐位から立って庭に伏した。
    両国の客は各々再拝して使いの旨を述べた。
    四大夫は進み出て大臣に伝えた。
    大臣は坐位から立って政庁の前で聞いた。

    諸客は禄を賜った。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十八年十月丁酉条】
  • 推古天皇18年10月17日

    使人らに朝廷で饗応する。
    河内漢直贄を新羅の為の共食者とし、錦織首久僧を任那の為の共食者とする。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十八年十月乙巳条】
  • 推古天皇18年10月23日

    客人儀礼が終り帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十八年十月辛亥条】
  • 推古天皇19年5月5日

    兎田野(うだの)薬猟(くすりがり)をする。
    夜明け前に藤原池(ふじわらのいけ)のほとりに集まって明け方に出発した。
    粟田細目臣を前の部領(ことり)とし、額田部比羅夫連を後の部領とした。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十九年五月五日条】
  • 推古天皇19年5月5日

    諸臣の服の色を全て冠の色に随えることとする。
    各々髻華(うず)を挿した。
    即ち大徳小徳は金を用い、大仁小仁は豹の尾を用い、大礼以下は鳥の尾を用いた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十九年五月五日是日条】
  • 推古天皇19年8月

    新羅が沙喙部奈末北叱智を遣わし、任那が習部大舎親智周智を遣わして共に朝貢する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十九年八月条】
  • 推古天皇20年1月7日

    群卿のために酒宴を催す。

    この日、大臣の寿ぎの歌に曰く

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    と。
    天皇が答えて曰く

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    と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十年正月丁亥条】
  • 推古天皇20年2月20日

    皇太夫人堅塩媛桧隈大陵(ひのくまのおおみささぎ)に改葬する。

    この日に(かる)の街中で(しのびごと)を奏上した。
    第一に阿倍内臣鳥が天皇の言葉を誄して霊に供え物をした。明器(みけもの)明衣(みけし)の類一万五千種である。
    第二に諸皇子らが順に誄した。
    第三に中臣宮地連烏摩侶大臣の言葉を誄した。
    第四に大臣が多数の支族を率いて、境部臣摩理勢氏姓のもと堅塩媛は蘇我氏。を誄させた。
    時の人が云うには「摩理勢烏摩侶の二人の誄はよかった。ただ鳥臣の誄はよくなかった」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十年二月庚午条】
  • 推古天皇20年5月5日

    薬猟(くすりがり)をした後、羽田(はた)に集まってから連なって参朝した。
    その装束は菟田の猟同十九年夏五月五日条。のときと同じだった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十年五月五日条】
  • 推古天皇20年

    教化に惹かれて百済国から来日する者があった。
    その顔・体は斑白(まだら)白癩(しらはた)があった。
    その異様な人を憎み、海中の島に棄て置いた。
    しかしその人が言うには「もし私の斑の皮を憎むのであれば、白斑の牛馬を国中で飼えなくなります。私にはいささかな才があります。よく山岳の形を築けます。もし私を留めて用いれば国に有利となります。どうして無駄だと海の島に棄てるのでしょうか」と。
    その言葉を聞いて棄てるのをやめた。
    そして須弥山(すみのやま)の形及び呉橋(くれはし)を御所の庭に築くことを命じた。
    時の人はその人を名付けて路子工と呼んだ。またの名は芝耆摩呂

    また百済人味摩之が帰化して言うには「呉で学んで伎楽の舞を会得しました」と。
    それで桜井(さくらい)に住まわせ、少年を集めて伎楽の舞を習わせた。
    真野首弟子新漢斉文の二人が習ってその舞を伝えた。
    これは今の大市首(おおちのおびと)辟田首(さきたのおびと)らの祖である。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十年是歳条】
  • 推古天皇21年11月

    掖上池(わきのかみのいけ)畝傍池(うねびのいけ)和珥池(わにのいけ)を作る。
    また難波から(みやこ)までの大道を設ける。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十一年十一月条】
  • 推古天皇21年12月1日

    皇太子が片岡に行啓する。

    時に飢えた者が道のほとりに臥せていた。それで姓名を問うと返事は無かった。

    皇太子はそれを見て食料を与え、衣裳を脱いで飢えた者を覆って「安らかに臥せよ」と言った。
    そして歌って言うには

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    と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十一年十二月庚午朔条】
  • 推古天皇21年12月2日

    皇太子が使いを遣わして飢えていた者を確認させた。
    使者が帰還して「飢えていた者は既に死んでおりました」と言った。
    皇太子は大いに悲しみ、その場所に埋葬して墓を築いた。

    数日の後、皇太子は近習の者を召して「先日、飢えて道に臥せていた者は凡人ではない。きっと真人(ひじり)であろう」と言うと、使いを遣わして確認させた。
    使者が帰還して言うには「墓に到着して確認をすると、墓は動いておりませんでした。しかし開けて見てみると屍は無くなっておりました。ただ衣服が畳まれて棺の上に置いてありました」と。
    皇太子はまた使者を返してその衣を取らせると、またいつものように着た。

    時の人は大いに怪しんで「聖は聖を知るというのは本当なんだな」言い、ますます畏まった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十一年十二月辛未条】
  • 推古天皇22年5月5日

    薬猟をする。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十二年五月五日条】
  • 推古天皇22年6月13日

    犬上君御田鍬矢田部造「闕名」とある。を大唐に遣わす。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十二年六月己卯条】
  • 推古天皇22年8月

    大臣が病に臥す。
    大臣の為に男女合わせて千人が出家する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十二年八月条】
  • 推古天皇23年9月

    犬上君御田鍬・矢田部造が大唐から帰還する。
    百済の使いが犬上君に随い来朝する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十三年九月条】
  • 推古天皇23年11月2日

    百済の客に饗応する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十三年十一月庚寅条】
  • 推古天皇23年11月15日

    高麗僧慧慈が帰国する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十三年十一月癸卯条】
  • 推古天皇24年1月

    桃・(すもも)の実がなる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十四年正月条】
  • 推古天皇24年3月

    掖玖(やく)の人が三人帰化する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十四年三月条】
  • 推古天皇24年5月

    夜勾(やく)の人が七人来る。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十四年五月条】
  • 推古天皇24年7月

    また掖玖の人が二十人来る。
    前後合わせて三十人は皆朴井(えのい)に住まわせたが、皆帰還をまたずに死んでしまった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十四年七月条 第一】
  • 新羅が奈末竹世士を遣わして仏像を貢上する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十四年七月条 第二】
  • 推古天皇25年6月

    出雲国が言うには「神戸郡(かんとのこおり)に瓜があり、大きさは(ほとき)ほどです」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十五年六月条】
  • 推古天皇25年

    五穀がよく実った。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十五年是歳条】
  • 推古天皇26年8月1日

    高麗(こま)が使いを遣わして国の産物を貢上して言うには「隋の煬帝が三十万の兵を起こして我が国を攻めましたが、反撃した我らに破れました。それで捕虜にした貞公普通の二人及び鼓吹(つつみふえ)(おおゆみ)抛石(いしはじき)の類十品、合わせて国の産物・駱駝一匹を献上します」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十六年八月癸酉朔条】
  • 推古天皇26年

    河辺臣「闕名」とある。を安芸国に遣わして船を造らせた。

    山で船材を探すと良い木を見つけたので切ろうとした。
    時にある人が「霹靂の木である。切ってはならない」と言った。
    河辺臣は「雷神といえども、どうして皇命に逆らえようか」と言って、多くの幣帛(みてくら)を祭って人夫に切らせた。
    すると大雨が降って落雷した。
    河辺臣は剣の柄を握って「雷神よ。人夫を犯してはならない。我が身を損なうぞ」と言って仰ぎ待った。
    十余り雷が鳴ったが河辺臣は犯されなかった。
    雷神は小さな魚になって木の枝に挟まっていた。そこでその魚を取って焼いた。

    遂に船は完成した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十六年是年条】
  • 推古天皇27年4月4日

    近江国が言うには「蒲生河(がもうがわ)に物があり、その形は人のようです」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十七年四月壬寅条】
  • 推古天皇27年7月

    摂津国に漁父があり、堀江に網を沈めると物が網に入った。その形は赤子のようで、魚でもなく人でもなく、名付けることも出来なかった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十七年七月条】
  • 推古天皇27年(10月 ~ 12月)原文では「廿七年冬壬戌朔甲子」とあり、冬なので十月から十二月。しかし二十七年冬壬戌朔に該当する朔日は無い。二十八年であれば暦法換算で2日ほどのずれ(進んでる)なので無くはない。参考までに、旧事本紀で同二十八年三月を甲子朔、日本書紀で同十二月を庚寅朔とする(十二月は暦法換算で1日ほど進んでいる)。冬壬戌朔を信じれば、最有力は二十八年十月になるが(十一月は十二月との兼ね合いで暦法的に無理)、三月から十二月までに閏月を2回挟む必要があるのでやはり非現実的。

    (のりごと)して「君に忠義を尽くす臣を探せば、実に両親を慈しむ子のようである。なぜならば父は天である。それで天に順うことを孝という。また君は日である。それで君に順うことを忠という。その后は月であり、また母でもある。それでこれに順うことを臣という。また赤というのである。それで孝経に『忠臣を求めれば必ず孝子の門にあり』という。これは孝の道より至る。(さいわい)は泉から零れるようで、(おきて)は春雨が万物を成長させるようなものである。もしこの道に逆らえば大きな禍となる。福を減らす機は塩を水に入れるようなものである。これら全てを道という。別にこれを名付けて八義(やつぎ)という。いわゆる八義とは、孝・悌・忠・仁・礼・義・智・信をいう。また天・地・日・月・星・辰・聖・賢・神・祇は、人倫の重んじる所である。それが寿称・官爵・福徳・栄楽なのである。貧生の貴きは孝道をいうべきである。栄祥を格し、礼義に勤めれば、身を立て得るのである。
    そこで八義になぞらえて爵位を定める。
    孝は天である。紫冠を第一とする。
    忠は日である。錦冠を第二とする。
    仁は月である。繡冠を第三とする。
    悌は星である。纏冠を第四とする。
    義は辰である。緋冠を第五とする。
    礼は勝である。深緑を第六とする。
    智は賢である。浅緑を第七とする。
    信は神である。深縹を第八とする。
    祇は祇である原文は「祇者祇也」だが、「祇」と「祗」を混同したか。。浅縹を第九とする。
    地は母である。よって立身と名付け、黄冠を第十とする。
    今後、永く恒式とせよ」と。

    【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 推古天皇二十七年冬壬戌朔甲子条】
  • 推古天皇28年3月1日

    (のりごと)して「君・后の為にと不忠をする者、また父母の為にと不孝をする者、もし声を上げずに隱れる者は同罪に処し、重い刑を科す」と。

    【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 推古天皇二十八年三月甲子朔条】
  • 推古天皇28年8月

    掖玖(やく)の人二人が伊豆島に流れ着く。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十八年八月条】
  • 推古天皇28年10月

    砂礫(さざれいし)桧隈陵(ひのくまのみささぎ)の上に敷き、域外に土を積んで山を造った。
    そして氏ごとに命じて大柱を土の山の上に立てた。

    時に倭漢坂上直(やまとのあやのさかのうえのあたい)が立てた柱は勝れていて甚だ高かった。
    それで時の人は名付けて大柱直(おおはしらのあたい)と呼んだ。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十八年十月条】
  • 推古天皇28年12月1日

    天に赤い(しるし)があった。長さは一丈余りで、形は(きぎす)の尾に似ていた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十八年十二月庚寅朔条】
  • 推古天皇28年

    皇太子島大臣が共に議って、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、臣・連・伴造・国造、その他の部民・公民らの本記(もとつふみ)を記録する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十八年是歳条】
    • 推古天皇28年2月11日

      上宮厩戸豊聡耳皇太子命大臣蘇我馬子宿禰が勅を受け、先代旧事・天皇紀及び国記、臣・連・伴造・国造、その他の部民・公民らの本紀を撰録する。

      【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 推古天皇二十八年二月甲辰条】
  • 推古天皇29年2月5日

    夜半に厩戸豊聡耳皇子命斑鳩宮(いかるがのみや)で薨じた。
    この時、諸王・諸臣及び天下の百姓は、老人が愛児を失うようで、塩や酢の味がわからなくなる程であった。
    幼い者は亡き父母を慈しむようで、泣き声が道を満たした。
    耕夫は鋤を止め、舂女(つきめ)は杵を止めた。
    皆が言うには「日も月も輝きを失い、天地が崩れたようなものだ。今後は誰を恃みにすればよいのか」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十九年二月癸巳条】
    • 推古天皇29年

      皇太子豊聡耳尊が薨じる。
      皇太子は立てなかった。

      【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇即位前紀 推古天皇二十九年条】
    • 推古天皇30年2月22日

      夜半に太子が崩じる。

      【上宮聖徳法王帝説 法隆寺蔵繍帳二張縫著亀背上文字, 天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】
  • ・・・
    • (推古天皇30年2月22日 ~ )

      時に多至波奈大女郎は悲しみ嘆息して言うには「畏き天皇の前で申し上げるのは勘点文はここに「皇前曰啓」を置く。ここでは勘点文に従う。恐れ多いことですが、懐く心を止めるのは難しいのです。我が大王母王が期を同じくして従遊されました。痛酷は比べようがありません。我が大王のお告げでは、世間は虚仮であり、ただ仏のみが真であると仰いました。その法を玩味すると、我が大王はまさに天寿国の中に生まれるべきだと思うのです。しかしその国の形は目には見えません。願わくは図像に因り、大王帝説知恩院本は「往」、勘点文は「住」とする。帝説に従う。生のお姿を拝見したいと思います」と。
      天皇はこれを聞いて悽然帝説知恩院本は「悽状一」とするが誤りであろう。勘点文に従い「悽然」に改めた。として言うには「我が孫が申すことは誠である。その通りにせよ」と。
      諸々の采女らに勅して繍帷二張いわゆる天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)。または天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)。を造らせた。

      画者は東漢末賢高麗加西溢、また漢奴加己利
      令者は椋部秦久麻

      【上宮聖徳法王帝説 法隆寺蔵繍帳二張縫著亀背上文字, 天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】
  • 推古天皇29年2月(5日 ~ 29日)

    上宮太子磯長陵(しながのみささぎ)に葬る。

    この時、高麗僧慧慈上宮皇太子が薨じたことを聞いて大いに悲しみ、皇太子の為に僧を集めて設斉した。
    自ら経を説く日に誓願して「日本国に聖人あり。上宮豊聡耳皇子という。天に許され、はるかな聖の徳を持って日本の国に誕生した。三統(きみのみち)夏の禹王・殷の湯王・周の文王を指す。を越えるほどに、先の聖の仕事を受け継ぎ、三宝を慎んで敬い、人民を苦しみから救った。これは真の大聖である。太子は既に薨じ、私は国が異なるが、絆の強さは金を断つほどである。独りで生きていても何の意味もない。私は来年二月五日に必ず死ぬ。そして上宮太子に浄土で再会して、共に衆生に教えを広めよう」と。

    慧慈は約束の日に死んだ。
    時の人は誰もが「上宮太子だけが聖ではなく、慧慈もまた聖である」と言った。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十九年二月是月条】
  • 推古天皇29年

    新羅が奈末伊弥買を遣わして朝貢した。
    そして書を奉って使いの旨を述べた。
    新羅の上表の始まりはこの時であるか。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十九年是歳条】
  • 推古天皇30年7月当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。32年、33年の記事にある朔日の干支の不合理修正を優先させました。これにより日干支はしっくりします。31年の記事は、文脈上32年の記事に合わせた修正です。

    新羅が大使奈末智洗爾を遣わし、任那は達率奈末智を遣わし、共に来朝した。
    そして仏像一具・金塔・舎利・大灌頂幡一具・小幡十二条を貢上した。
    即ち仏像を葛野(かどの)秦寺(はたでら)に置き、残りの舎利・金塔・灌頂幡などは全て四天王寺に納めた。

    この時に大唐の学問僧恵斉恵光、及び医者の恵日福因らは、智洗爾らに従ってやってきた。
    恵日らは共に奏上して「唐国の留学生は皆学んで業を成しました。召喚するべきでしょう。またその大唐国は法式が完備された立派な国です。常に交流するべきです」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十一年七月条】
  • 推古天皇30年当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。

    新羅が任那を討った。任那は新羅に附属した。

    天皇は新羅を討とうとした。
    大臣に謀り、群卿に問うた。
    田中臣が答えて言うには「討伐を急ぐのは良くないと存じます。先ずは状況を察し、逆らったことがはっきりした後に討伐しても遅くはないでしょう。試しに使いを遣わして消息を調べさせて頂きたいと存じます」と。
    中臣連国が言うには「任那は元々我が国の官家(みやけ)であり、新羅が攻めて奪ったのです。戦備を整えて新羅を征伐し、任那を取り返して百済に附属させましょう。新羅から奪い返すことに勝ることがありましょうか」と。
    田中臣が言うには「そうではない。百済は反覆の多い国である。道の間すらも欺くのだ。凡そ彼らの言葉は信じられない。よって百済に附属させてはならない」と。
    このようにして征討は果たせなかった。

    そこで吉士磐金を新羅に遣わし、吉士倉下を任那に遣わして任那の事を問わせた。

    新羅国主は八大夫を遣わして、新羅国の事を磐金に説明した。
    また任那国は倉下に説明した。
    そして約束して言うには「任那は小国ですが天皇に附属しています。どうして新羅がたやすく得ることが出来ましょうか。いつも通り内官家(うちつみやけ)と定め、どうか煩いとはなさりませんように」と。

    そこで奈末智洗遅を遣わして吉士磐金を副えた。
    また任那人達率奈末遅吉士倉下に副えて両国の調を奉った。

    しかし磐金らが帰還しないうちに、その年に大徳境部臣雄摩侶小徳中臣連国を大将軍とし、小徳河辺臣禰受小徳物部依網連乙等小徳波多臣広庭小徳近江脚身臣飯蓋小徳平群臣宇志小徳大伴連「闕名」とある。小徳大宅臣軍を副将軍とし、数万の兵を率いて新羅を征討させた。

    時に磐金らは共に港に集まり、出航するために風波の様子をうかがった。
    船軍は海に満ちた。
    両国の使人はこれを遠くから眺めて愕然とした。そして引き返して堪遅大舎を代わりに任那の調の使いとして奉った。

    磐金らが相談して「軍を起こすことは前の約束に違えてしまう。こうなっては任那の事を成すことは出来ない」と言うと、出航して帰国した。

    ただ将軍らは任那に至り、相談して新羅を襲撃しようとした。
    新羅国主は軍勢が多いと聞いて降伏を願い出た。
    将軍らは共に議って上表した。天皇はこれを許した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十一年是歳条】
  • 推古天皇30年11月当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。

    磐金倉下らが新羅から帰国した。
    大臣がその状況を尋ねた。
    答えて「新羅は命を承り恐懼しておりました。そして専使に命じて両国の調を奉りました。しかし船軍が来るのを見て朝貢の使者はまた帰還してしまいました。ただ調は献上します」と。
    大臣は「惜しいことをした。早く軍勢を遣わしたことは」と言った。
    時の人が言うには「この軍事は境部臣と阿曇連が先に新羅の賄賂を多く受け取った為、大臣に勧めたのだ。それで使いの旨を待たずに征伐を急いだのだ」と。

    はじめ磐金らが新羅に渡る日、港に至るころに荘船(かざりぶね)一艘が海の浦で出迎えた。
    磐金が「この船はどこの国の迎船か」と問うと、「新羅の船です」と答えた。
    磐金はまた「どうして任那の迎船が無いのか」と言った。
    この時に任那の為に一艘加えた。
    新羅が二艘の迎船を用いるのは、この時に始まるか。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十一年十一月条】
  • 推古天皇30年当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。

    春から秋に至るまで長雨・洪水があり、五穀は不作だった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十一年十一月条】
  • 推古天皇31年4月3日当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。

    一人の僧があり、斧で祖父を打った。
    これを聞いた天皇は大臣を召すと、詔して「出家する者はひたすらに三宝に帰して戒法を保つというのに、なぜ容易に悪逆を犯すのか。聞くところによると、僧が祖父を打ったという。全ての寺の僧尼を集めて推問せよ。もし事実ならば重罪とする」と。
    それで僧尼を集めて推問した。
    そして悪逆な僧尼を集めて罰した。

    百済の観勒僧が上表して言うには「仏法は西国から漢にやってきて三百年が経った後に百済国に伝わりました。僅か百年でございます。我が王は日本の天皇の賢哲を聞いて、仏像と内典を献上しました。まだ百年に満たないのでございます。それで今は僧尼が法律に慣れておらず、容易に悪逆を犯してしまうのでしょう。ですので多くの僧尼は惶懼して、なすべきことを如らないのでございます。どうかその悪逆な者を除き、それ以外の僧尼は全て罪になさらぬようお願い致します。これは大きな功徳になります」と。
    天皇は聞き入れた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十二年四月戊申条】
  • 推古天皇31年4月13日当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。

    詔して「道人でも法は犯してしまう。どのようにして俗人を諭せばよいか。今後は僧正(そうじょう)僧都(そうず)を任命して、僧尼を統べることとする」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十二年四月戊午条】
  • 推古天皇31年4月17日当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。

    観勒僧を僧正とする。
    鞍部徳積を僧都とする。

    同じ日に阿曇連「闕名」とある。を法頭とする。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十二年四月壬戌条】
  • 推古天皇31年9月3日当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。

    寺・僧尼を調べて、その寺の造れる由縁、また僧尼の入道の由縁、及び出家の年月日を詳しく記録した。
    この時、寺は四十六ヶ所、僧八百十六人、尼五百六十九人、合わせて千三百八十五人だった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十二年九月丙子条】
  • 推古天皇31年10月1日当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。

    大臣阿曇連「闕名」とある。阿倍臣摩侶の二臣を遣わし、天皇に奏上させて「葛城県(かずらきのあがた)は元々私の本貫です。それでその県に因んで姓名としました。願わくは永久にその県を賜り、私が封じられた県としたいと思います」と。

    そこで天皇は詔して「朕は蘇我から出ている。大臣はまた朕の舅である。それで大臣の言葉は、夜に申せば夜も明かさず、日中に申せば日が暮れないように、どんな言葉でも用いてきた。しかし今朕の世に当り、この県を失えば、後の主君が『愚かな女が天下に臨んでその県を失った』と言うであろう。朕が独り不賢と言われるばかりか、大臣もまた不忠であると言われるであろう。これは後世の悪名となる」と聞き入れることはなかった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十二年十月癸卯朔条】
  • 推古天皇32年1月7日当サイトでは日本書紀の推古天皇31年、32年、33年の記事を、それぞれ1年ずつ繰り下げた年の出来事としてます。

    高麗王が僧恵灌を奉った。僧正に任命した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十三年正月戊寅条】
  • 推古天皇34年1月

    桃・(すもも)の花が咲く。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十四年正月条】
  • 推古天皇34年3月

    寒さで霜が降る。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十四年三月条】
  • 推古天皇34年5月20日

    大臣が薨じ、桃原墓(ももはらのはか)に葬る。

    大臣稲目宿禰の子である。
    性質は武略があり、また弁才があった。
    三宝を敬い、飛鳥河の傍に家居した。
    庭には小さな池を掘り、池の中には小島を造った。
    それで時の人は島大臣といった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十四年五月丁未条】
  • 推古天皇35年2月

    陸奥国で(むじな)が人に化けて歌った。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十五年二月条】
  • 推古天皇35年5月

    蝿が多く集まり、その重なる姿は十丈ほどになった。空に浮かんで信濃の坂を越えた。羽音は雷のようだった。
    そして東の上野国に至り、自然と散っていった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十五年五月条】
  • 推古天皇36年2月27日

    病に臥す。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年二月甲辰条】
  • 推古天皇36年3月2日

    日蝕があった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年三月戊申条】
  • 推古天皇36年3月6日

    天皇はひどい痛みに襲われ、なす術が無かった。
    田村皇子後の舒明天皇。を召して言うには「天位に昇って鴻基(あまつひつぎ)を治め、万機を統べて人民を養うことは容易いことではない。常に重く見てきた。お前も慎んで観察しなさい。軽々しく言ってはならない」と。

    同じ日に山背大兄を召して教えて言うには「お前は未熟だから、もし心に望んでも言葉にしてはならない。必ず群臣の言葉を待って従いなさい」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年三月壬子条】
  • 推古天皇36年3月7日

    崩じる。時に年七十五校異:七十三
    南庭で殯する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年三月癸丑条】
    • 推古天皇36年3月15日

      戊子年三月十五日癸丑に崩じた。

      【古事記 下巻 推古天皇段】
    • 推古天皇36年3月

      少治田天皇が天下を治めること卅六年。
      戊子年三月に崩じた。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 推古天皇36年4月15日日本書紀では四月の朔日を壬午としている。そうすると辛卯は十日になる。しかし同年三月の朔日を丁未としているため(暦的に矛盾なし)、三月が大の月なら四月朔は丁丑(辛卯は十五日)、小の月であれば四月朔は丙子(辛卯は十六日)となる。または推古天皇三十五年四月壬午朔とすると暦的に矛盾は生じない。

    (あられ)が降った。大きさは桃の実のようだった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年四月辛卯条】
  • 推古天皇36年4月16日日本書紀では四月の朔日を壬午としている。そうすると壬辰は十一日になる。しかし同年三月の朔日を丁未としているため(暦的に矛盾なし)、三月が大の月なら四月朔は丁丑(壬辰は十六日)、小の月であれば四月朔は丙子(壬辰は十七日)となる。または推古天皇三十五年四月壬午朔とすると暦的に矛盾は生じない。

    (あられ)が降った。大きさは(すもも)の実のようだった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年四月壬辰条】
  • 推古天皇36年(1月 ~ 6月)

    春から夏に至るまで日照りが続いた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年四月壬辰条】
  • 推古天皇36年9月14日日本書紀では九月の朔日を己巳としている。そうすると戊子は二十日になる。しかし暦的には甲戌あたりが適当なはずで、己巳朔は矛盾が生じる。仮に推古天皇三十七年(舒明天皇元年)九月己巳朔とすると暦的に矛盾は生じない。

    始めて天皇の喪礼を行う。
    この時に群臣はそれぞれ殯宮(もがりのみや)(しのびごと)を述べた。

    これより先、天皇から群臣に遺詔があり、「近年は五穀が実らず人民はひどく飢えている。朕の為に陵を興して厚く葬ってはならない。竹田皇子の陵に葬ればよい」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年九月戊子条】
  • 推古天皇36年9月18日日本書紀では九月の朔日を己巳としている。そうすると壬辰は二十四日になる。しかし暦的には甲戌あたりが適当なはずで、己巳朔は矛盾が生じる。仮に推古天皇三十七年(舒明天皇元年)九月己巳朔とすると暦的に矛盾は生じない。

    竹田皇子の陵に葬られる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年九月壬辰条】
    • 御陵は大野岡上(おおののおかのえ)にある。
      後に科長大陵(しながのおおみささぎ)に遷した。

      【古事記 下巻 推古天皇段】
    • 陵は大野岡(おおののおか)にある。或いは川内志奈我山田寸(かわちのしながのやまだむら)という。

      【上宮聖徳法王帝説】