用明天皇

名前
  • 漢風諡号:用明天皇(ようめいてんのう, ようめいてんわう)
  • 和風諡号:橘豐日天皇【日本書紀】(たちばな)橘豊日天皇
  • 橘豐日尊【日本書紀】(たちばな)橘豊日尊
  • 大兄皇子【日本書紀】(おおえのみこ, おほ𛀁
  • 橘豐日皇子【日本書紀】(たちばな)橘豊日皇子
  • 橘之豐日命【古事記】(たちばな)橘之豊日命
  • 池邊大宮治天下天皇【法隆寺金堂薬師如来像光背銘】(いけべのおおみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, いおほやにあしたしししす)池辺大宮治天下天皇
  • 池邊大宮御宇天皇【上宮聖徳法王帝説】(いけべのおおみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, いおほやにあしたしししす)池辺大宮御宇天皇
  • 伊波禮池邊雙槻宮治天下橘豐日天皇【上宮聖徳法王帝説】(いわれのいけべのなみつきのみやにあめのしたしろしめししたちばなのとよひのすめらみこと, いはれやにあしたしししたちばな)伊波礼池辺双槻宮治天下橘豊日天皇
  • 池邊天皇【上宮聖徳法王帝説】(い)池辺天皇
  • 伊波禮池邊宮治天下橘豐日天皇【上宮聖徳法王帝説】(いわれのいけべのみやにあめのしたしろしめししたちばなのとよひのすめらみこと, いはれやにあしたしししたちばな)伊波礼池辺宮治天下橘豊日天皇
  • 多至波奈等已比乃彌己等【上宮聖徳法王帝説,天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】(たちばな)多至波奈等已比乃弥己等
  • 石寸池邊宮治天下等與比橘太子王【天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】(いわれのいけべのみやにあめのしたしろしめししとよひのたちばなのひつぎのみこ, いはれやにあしたしししたちばな)石寸池辺宮治天下等与比橘太子王
  • 池邊雙𣠤宮御宇天皇【先代旧事本紀】(いやにあしたしししす)池辺双𣠤宮御宇天皇
性別
男性
生年月日
( ~ 欽明天皇32年4月29日)
没年月日
用明天皇2年4月9日
  • 欽明天皇きんめいてんのう【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
  • 堅塩媛きたしひめ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
先祖
  1. 欽明天皇
    1. 継体天皇
      1. 彦主人王
      2. 振媛
    2. 手白香皇女
      1. 仁賢天皇
      2. 春日大娘皇女
  2. 堅塩媛
    1. 蘇我稲目
      1. 蘇我馬背
    2. unknown
配偶者
  • 皇后:穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】
  • 嬪:石寸名いしきな【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】
  • 葛城広子かずらきのひろこ【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】
  • 皇子:厩戸皇子うまやとのみこ聖徳太子しょうとくたいし【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】【母:穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ
  • 皇子:来目皇子くめのみこ【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】【母:穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ
  • 皇子:殖栗皇子えくりのみこ【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】【母:穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ
  • 皇子:茨田皇子まんだのみこ【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】【母:穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ
  • 皇子:田目皇子ためのみこ【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】【母:石寸名いしきな
  • 皇子:麻呂子皇子まろこのみこ当麻王たぎまのみこ【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】【母:葛城広子かずらきのひろこ
  • 皇女:酢香手姫皇女すかてひめのひめみこ【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】【母:葛城広子かずらきのひろこ
称号・栄典とても広〜い意味です。
出来事
  • 欽明天皇の第四皇子として生まれる。母は堅塩媛

    天皇は仏法を信じ神道を尊んだ。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇即位前紀】
  • 欽明天皇32年4月(15日 ~ 29日)

    欽明天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十二年四月是月条】
  • 敏達天皇元年4月3日

    敏達天皇が即位する。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年四月甲戌条】
  • 敏達天皇14年3月30日

    敏達天皇から「先の天皇の勅に背いてはならない。任那の政を勤め修めなさい」と詔を受ける。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年三月丙戌条】
  • 敏達天皇14年8月15日敏達記では甲辰年四月六日。

    敏達天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年八月己亥条】
  • 敏達天皇14年9月5日

    即位して天皇となる。

    磐余(いわれ)に宮を造る。名を池辺双槻宮(いけべのなみつきのみや)という。

    蘇我馬子宿禰大臣物部弓削守屋連大連とすることは元の通りであった。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇即位前紀 敏達天皇十四年九月戊午条】
    • 池辺宮(いけべのみや)にて天下を治めること三年であった。

      【古事記 下巻 用明天皇段】
    • 瀆辺宮(いけべのみや)にて天下を治めた。

      【上宮聖徳法王帝説 法隆寺蔵繍帳二張縫著亀背上文字, 天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】
    • 敏達天皇14年9月5日

      物部弓削守屋連公大連とし、また大臣とする大連と大臣を兼任する形になっているが、単に蘇我馬子の名が抜けただけであろうか。

      【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 用明天皇即位前紀 敏達天皇十四年九月戊午条】
  • 敏達天皇14年9月19日

    詔して云々。

    酢香手姫皇女を伊勢神宮に拝して日神の祀りに奉らせた「この皇女は、この天皇の時から炊屋姫天皇の御世に至るまで、日神の祀りに奉られた。自ら退いて葛城で薨じたことは炊屋姫天皇紀に見える。或本に云うには、三十七年間、日神の祀りに奉り、自ら退いて薨じたという」とある。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇即位前紀 敏達天皇十四年九月壬申条】
  • 用明天皇元年1月1日

    穴穂部間人皇女を立てて皇后とする。これは四男を生んだ。
    其の一を厩戸皇子という。またの名は豊耳聡聖徳。或いは名を豊聡耳法大王という。或いは法主王という。この皇子は初め上宮(かみつみや)に住み、後に斑鳩(いかるが)に移った。豊御食炊屋姫天皇の御世に東宮(みこのみや)の位についた。万機を総摂して、天皇の行事を行った摂政。。話は豊御食炊屋姫天皇紀に見える。
    其の二を来目皇子という。
    其の三を殖栗皇子という。
    其の四を茨田皇子という。

    蘇我大臣稲目宿禰の女の石寸名を嬪とした。これが生んだのは
    田目皇子。またの名は豊浦皇子

    葛城直磐村の女の広子は一男一女を生んだ。
    男を麻呂子皇子という。これは当麻公(たぎまのきみ)の先祖である。
    女を酢香手姫皇女という。三代の天皇にわたって日神に仕えた。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】
  • 用明天皇元年5月

    穴穂部皇子炊屋姫皇后を犯そうとして自ら強行に殯宮に入ろうとした。
    寵臣三輪君逆は衛兵を呼んで宮の門を閉ざして入れさせなかった。

    穴穂部皇子は「誰がここにいるのか」と問うた。
    衛兵は「三輪君逆がいます」と答えた。

    七度「門を開けよ」と叫んだが、遂に聞き入れられなかった。

    穴穂部皇子大臣大連に言うには「は甚だ無礼である。殯宮の庭で(しのびごと)を読んで『朝庭を荒らさぬよう鏡の面のようにお浄めし、臣がお仕え奉ります』と申した。これは無礼である。天皇の子弟は多くいて両大臣もいる。誰が勝手にお仕え奉るなど言うことが出来ようか。また余が殯の内を見ようと思っても、拒んで入れようとしない。私が『門を開けよ』と七度叫んだが応じることもなかった。是非とも斬り捨てたい」と。
    両大臣は「仰せのままに」と答えた。
    穴穂部皇子は密かに天下の王となる事を謀り、偽って逆君を殺そうとした。

    遂に物部守屋大連と兵を率いて磐余の池辺を包囲した。
    逆君は気付いて三諸の岳に隠れた。

    この日の夜半に密かに山を出て後宮「炊屋姫皇后の別の宮をいう。これの名を海石榴市宮(つばきいちのみや)という」とある。に隠れた。

    と同姓である白堤横山逆君の居場所を密告した。
    穴穂部皇子守屋大連を遣わして「或る本に云うには、穴穂部皇子と泊瀬部皇子が計画して守屋大連を遣わしたという」とある。言うには「お前が行って逆君とその二子を討て」と。
    大連は遂に兵を率いて出発した。

    蘇我馬子宿禰はその計画を伝え聞き、皇子の所に行って「皇子の家の門をいう」とある。で会った。
    大連の所へ行こうとしていたので「王者は刑人を近づけません。自ら行かれてはなりません」と諫めた。
    皇子は聞かずに行ってしまった。馬子宿禰はやむなく随行した。

    磐余(いわれ)に至り切に諌めた。
    皇子は諫言に従い停止した。そしてそこで胡床にあぐらをかいて大連を待った。

    大連はしばらくしてやってきた。兵を率いて「らを斬り終えました「或る本に云うには、穴穂部皇子が自ら行って射殺したという」とある。」と復命した。
    馬子宿禰は歎いて「天下の乱れは久しくない」と言った。
    これを聞いた大連は「お前のような小臣が知るところではない」と答えた。

    この三輪君逆訳語田天皇の寵愛を受け、内外の事ことごとくを委ねられていた。
    これにより炊屋姫皇后後の推古天皇。馬子宿禰は共に穴穂部皇子を恨むようになった。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年五月条】
  • 用明天皇2年4月2日記事に二年夏四月乙巳朔丙子とあるが、乙巳を朔日とすると丙子(32日)は誤り。次の崩御記事が癸丑(9日)であるから丙午(2日)か壬子(8日)が候補か。当サイトでは丙午とする。

    磐余(いわれ)の河上で新嘗を行う。

    この日、天皇は病にかかり宮に還った。群臣が侍った。
    天皇は群臣に詔して「朕は三宝仏・法・僧。に帰依しようと思う。卿らも議るように」と。群臣は入朝して議った。
    物部守屋大連中臣勝海連が詔を違えて言うには「どうして国つ神に背いて他の神を敬うことがあろうか。元来このようなことは聞いたことが無い」と。
    蘇我馬子宿禰大臣が言うには「詔に従って助け奉るべきである。誰が異なる考えを生じようか」と。
    皇弟皇子(すめいろどのみこ)「皇弟皇子とは穴穂部皇子、即ち天皇の庶弟である」とある。豊国法師「闕名」とある。を連れて内裏に入った。
    物部守屋大連は横目で睨んで激怒した。

    この時に押坂部史毛屎が慌ててやってきて、密かに大連に「いま群臣が謀って、あなたの退路を断とうとしています」と語った。
    大連はこれを聞き、阿都(あと)「阿都とは大連の別業がある所の地名である」とある。に退いて人を集めた。

    中臣勝海連は家に兵を集めて大連を助けた。
    遂に太子彦人皇子の像と竹田皇子の像を作って呪った。
    しばらくすると事の成り難いことを知り、彦人皇子水派宮(みまたのみや)水派。此云美麻多。に帰伏した。

    舎人の迹見赤檮「迹見は姓であり、赤檮は名である。赤檮、此れを伊知毘と云う」とある。勝海連彦人皇子の所へ退くのを伺い、刀を抜いて殺した。

    大連は阿都の家から物部八坂大市造小坂漆部造兄を遣わして馬子大臣に言うには「群臣が私を謀ろうとしていることを聞いた。それで私は退いたのである」と。

    馬子大臣土師八島連大伴毘羅夫連の所に遣わして、詳しく大連のことを話した。
    これにより毘羅夫連は手に弓箭・皮楯を執り、槻曲(つきくま)の家「槻曲の家とは大臣の家である」とある。に行き、昼夜離れずに大臣を守護した。

    天皇の病はいよいよ重くなり、まさに臨終という時に鞍部多須奈「司馬達等の子である」とある。が奏上して「臣は天皇の御為に出家して脩道致します。また丈六の仏像及び寺を造って奉じます」と。
    天皇は悲しんで大声で泣いた。
    南淵(みなぶち)坂田寺(さかたでら)の木の丈六の仏像・挟侍(きょうじ)の菩薩がこれである。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月丙子条】
    • 用明天皇元年

      池辺大宮御宇天皇用明天皇。が大御身を労き賜った時、丙午年、大王天皇推古天皇。太子聖徳太子。を召して誓願し賜い、「我が大御病が太平になって欲しいと思う。だから寺と薬師像を作って仕え奉ろう」と詔した。

      【法隆寺金堂薬師如来像光背銘】
  • 用明天皇2年4月9日

    大殿で崩じる。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月癸丑条】
    • 用明天皇2年4月15日

      丁未年四月十五日に崩じた。

      【古事記 下巻 用明天皇段】
    • 用明天皇2年4月

      池辺天皇が天下を治めること三年。
      丁未年四月に崩じた。

      【上宮聖徳法王帝説】
    • 用明天皇2年

      時に崩じ賜ってしまい、造るまで堪えられなかったので用明天皇が自身の病の治癒を祈願して造らせた寺と薬師像。小治田大宮治天下大王天皇と東宮聖王は大命を受け賜って丁卯年に仕え奉った。

      【法隆寺金堂薬師如来像光背銘】
  • 用明天皇2年7月21日

    磐余池上陵(いわれのいけのえのみささぎ)に葬られる。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年七月甲午条】
    • 御陵は石寸掖上(いわれのわきのえ)にある。

      【古事記 下巻 用明天皇段】
  • 推古天皇元年9月

    河内磯長陵(かわちのしながのみささぎ)に改葬される。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇元年九月条】
    • 科長(しなが)の中の御陵に遷される。

      【古事記 下巻 用明天皇段】
    • 用明天皇2年7月異筆補記で「秋七月奉葬」

      或いはこの前に「河内磯長中尾陵」と異筆補記。内川志奈我中尾判読不能。という。

      【上宮聖徳法王帝説】
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