名前
  • 漢風諡号:敏逹天皇(びだつてんのう, びだつてんわう)敏達天皇
  • 和風諡号:渟中倉太珠敷天皇【日本書紀】(ぬなくらたまし
  • 和風諡号:渟中倉太玉敷天皇【日本書紀】(ぬなくらたまし
  • 譯語田渟中倉太珠敷尊【日本書紀】(おさたのぬなくらのふとたましきのみこと, をさたぬなくらたまし)訳語田渟中倉太珠敷尊
  • 渟中倉太珠敷尊【日本書紀】(ぬなくらたまし
  • 沼名倉太玉敷命【古事記】(ぬなくらたまし
  • 譯語田天皇【日本書紀】(おさたのすめらみこと, をさた)訳語田天皇
  • 他田宮治天下天皇【上宮聖徳法王帝説】(おさたのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, をさたやにあしたしししす
  • 怒那久良布刀多麻斯支天皇【上宮聖徳法王帝説】(ぬなくらふたまし
  • 蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃彌己等【上宮聖徳法王帝説,天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】(ぬなくらたまし)蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等
  • 他田天皇【上宮聖徳法王帝説】(おさだのすめらみこと, をさだ
  • 他田宮治天下大王【聖徳太子平氏伝雑勘文】(おさだのみやにあめのしたしろしめししおおきみ, をさだやにあしたしししおほ
  • 乎佐太宮治天下名奴那久良布等多麻志支命【天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】(おさたのみやにあめのしたしろしめししぬなくらのふとたましきのみこと, をさたやにあしたしししぬなくらたまし
  • 譯語田宮御宇天皇【先代旧事本紀】(おさたのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, をさたやにあしたしししす)訳語田宮御宇天皇
生年月日
( ~ 欽明天皇15年1月7日)
没年月日
敏達天皇14年8月15日
  • 欽明天皇きんめいてんのう【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年正月甲子条】
  • 石姫皇女いしひめのひめみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年正月甲子条】
先祖
  1. 欽明天皇
    1. 継体天皇
      1. 彦主人王
      2. 振媛
    2. 手白香皇女
      1. 仁賢天皇
      2. 春日大娘皇女
  2. 石姫皇女
    1. 宣化天皇
      1. 継体天皇
      2. 目子媛
    2. 橘仲皇女
      1. 仁賢天皇
      2. 春日大娘皇女
配偶者
  • 皇后:広姫ひろひめ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月甲子条】
  • 夫人:老女子夫人おみなごのおおとじ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月是月条】
  • 采女:菟名子夫人うなこのおおとじ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月是月条】
  • 皇后:豊御食炊屋姫尊とよみけかしきやひめのみこと(後の推古天皇)【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】
  • 皇子:押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月甲子条】【母:広姫ひろひめ
  • 皇女:逆登皇女さかのぼりのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月甲子条】【母:広姫ひろひめ
  • 皇女:菟道磯津貝皇女うじのしつかいのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月甲子条】【母:広姫ひろひめ
  • 皇子:難波皇子なにわのみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月是月条】【母:老女子夫人おみなごのおおとじ
  • 皇子:春日皇子かすがのみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月是月条】【母:老女子夫人おみなごのおおとじ
  • 皇女:桑田皇女くわたのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月是月条】【母:老女子夫人おみなごのおおとじ
  • 皇子:大派皇子おおまたのみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月是月条】【母:老女子夫人おみなごのおおとじ
  • 皇女:太姫皇女ふとひめのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月是月条】【母:菟名子夫人うなこのおおとじ
  • 皇女:糠手姫皇女ぬかてひめのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月是月条】【母:菟名子夫人うなこのおおとじ
  • 皇女:菟道貝鮹皇女うじのかいたこのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【母:推古天皇すいこてんのう
  • 皇子:竹田皇子たけだのみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【母:推古天皇すいこてんのう
  • 皇女:小墾田皇女おはりだのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【母:推古天皇すいこてんのう
  • 皇女:桜井弓張皇女さくらいのゆみはりのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【母:推古天皇すいこてんのう
  • 葛城王かずらきのみこ日本書紀には見えず。【古事記 下巻 敏達天皇段】【母:推古天皇すいこてんのう
  • 皇女:鸕鷀守皇女うもりのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【母:推古天皇すいこてんのう
  • 皇子:尾張皇子おわりのみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【母:推古天皇すいこてんのう
  • 皇女:田眼皇女ためのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【母:推古天皇すいこてんのう
子孫
  1. 押坂彦人大兄皇子
    1. 茅渟王
      1. 皇極天皇
      2. 孝徳天皇
    2. 舒明天皇
      1. 古人大兄皇子
      2. 天智天皇
      3. 間人皇女
      4. 天武天皇
      5. 蚊屋皇子
    3. 中津王
    4. 多良王
    5. 桑田王
    6. 山代王
    7. 笠縫王
  2. 逆登皇女
  3. 菟道磯津貝皇女
  4. 難波皇子
  5. 春日皇子
  6. 桑田皇女
  7. 大派皇子
  8. 太姫皇女
  9. 糠手姫皇女
    1. 舒明天皇
      1. 古人大兄皇子
      2. 天智天皇
      3. 間人皇女
      4. 天武天皇
      5. 蚊屋皇子
    2. 中津王
    3. 多良王
  10. 菟道貝鮹皇女
  11. 竹田皇子
  12. 小墾田皇女
  13. 桜井弓張皇女
    1. 山代王
    2. 笠縫王
    3. 男王
    4. 星河女王
    5. 佐富王
  14. 葛城王
  15. 鸕鷀守皇女
  16. 尾張皇子
    1. 位奈部橘王
      1. 白髪部王
      2. 手島女王
  17. 田眼皇女
称号・栄典とても広〜い意味です。
出来事
  • 欽明天皇の第二皇子として生まれる。母は石姫皇女

    天皇は仏法(ほとけのみのり)を信じず、文史(しるしふみ)を愛した。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年正月甲子条, 日本書紀 巻第二十 敏達天皇即位前紀】
  • 欽明天皇15年1月7日

    立太子。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年正月甲午条】
    • 欽明天皇29年

      立太子。

      【日本書紀 巻第二十 敏達天皇即位前紀 欽明天皇二十九年条】
  • 欽明天皇32年4月15日

    天皇は病に臥した。
    皇太子は外に出て不在だったので、駅馬を走らせて呼び寄せた。
    大殿に引き入れ、その手を取って「朕の病は重い。後の事はお前に任せる。お前は新羅を討って任那を封じ建てよ。また夫婦のように相和するようになれば死んでも後悔はない」と詔した。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十二年四月壬辰条】
  • 欽明天皇32年4月(15日 ~ 29日)

    欽明天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十二年四月是月条】
  • 敏達天皇元年4月3日

    即位して天皇となる。

    皇后欽明天皇の皇后石姫皇女。を尊んで皇太后とする。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年四月甲戌条】
    • 敏達天皇元年4月3日

      皇太后先の皇太后手白香皇女。に追贈して太皇太后とする。
      物部大市御狩連公大連とする。

      【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 敏達天皇元年四月甲戌条】
  • 敏達天皇元年4月(3日 ~ 30日)

    百済大井宮(くだらのおおいのみや)を造る。

    物部弓削守屋大連大連とするのは元のとおりであった日本書紀ではこの記事が守屋の初出。
    蘇我馬子宿禰大臣とする。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年四月是月条】
  • 敏達天皇元年5月1日

    天皇は皇子と大臣に「高麗の使人は今何処に居るか」と問うた。
    大臣は「相楽館(さがらかのむろつみ)に居ります」と答えた。
    天皇はこれを聞いて傷むこと甚だしかった。
    悲しみ嘆いて言うには「悲しいことだ。この使人らは既に名を先の天皇に申し上げているというのに」と。
    そして郡臣を相楽館に遣わして、献上する調物を記録して京師(みやこ)に送らせた。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年五月壬寅朔条】
  • 敏達天皇元年5月15日

    天皇は高麗の国書を執って大臣に授け、諸々の(ふびと)を召し集めて読み解かせた。
    この時、諸々の史は三日の内に読み解くことは出来ず、船史(ふねのふびと)の祖王辰爾が読み解いて奉った。
    これにより天皇と大臣は褒め讃えて「よく勤めてくれた。辰爾よ。お前がもし学ぶことに親しんでいなければ、誰が読み解くことが出来たであろうか。今から始めて殿中に近侍するように」と。
    東西の諸々の史に詔して「お前たちの習業は何故か足りない。お前たちは数が多くとも辰爾には及ばない」と。

    また高麗が上表した国書は烏の羽に書いてあった。
    文字は黒い羽に紛れて読める者はいなかった。
    そこで辰爾は羽を飯の気で蒸して、(ねりきぬ)柔らかくした上等の絹布。を羽に押してその文字を全て写した。
    朝廷の人は皆が驚いた。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年五月丙辰条】
  • 敏達天皇元年6月

    高麗の大使が副使らに言うには「磯城島天皇欽明天皇。の時に、お前らは私の思うところと違い、人に欺かれ、みだりに国の調を分け、たやすく卑しい者に与えてしまった欽明天皇三十一年四月乙酉条・同五月条。。お前らの過ちではないか。これがもし我が国王に聞こえてしまえば、必ずお前らは咎めを受ける」と。
    副使らは仲間内で語って「もし我々が帰国して大使が我々の過ちを申し上げれば不祥事となる。密かに殺してその口を封じてしまおう」と。
    この夕べに隠謀が漏れた。
    これを知った大使は装束を改めて一人で密かに抜け出したが、館の中庭に立って為す術を失っていた。

    時に一人の賊が杖を持って出て来て、大使の頭を打って去った。
    次に一人の賊が真っ直ぐ大使に向って、頭と手を打って去った。
    大使は尚も黙然として立って顔の血を拭っていた。
    更に一人の賊が刀を取って急に来て、大使の腹を刺して去った。

    この時に大使は恐れて地に伏して拝んだ。
    後に一人の賊が殺して去った。

    翌朝、領客(まらうとのつかさ)外国使人の接待役。東漢坂上直子麻呂らがその事件を推問した。
    副使らが偽って言うには「天皇が妻を大使に賜りました。大使は勅に違えて受けとらず、無礼なこと甚だしいので臣らが天皇の為に殺しました」と。
    有司(つかさ)は礼を以って収め葬った。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年六月条】
  • 敏達天皇元年7月

    高麗の使人が帰途に就く。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年七月条】
  • 敏達天皇2年5月3日

    高麗の使人が(こし)の海岸に泊った。船が壊れて溺死する者が多かった。
    朝廷は頻りに路に迷うことを疑って、饗応せずに帰国させることにした。
    それで吉備海部直難波に勅して高麗の使いを送らせた。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇二年五月戊辰条】
  • 敏達天皇2年7月1日

    越の海岸にて難波と高麗の使いらが相談して、送使(おくるつかい)難波の船人大島首磐日狭丘首間狭を高麗の使いの船に乗せて、高麗の二人を送使の船に乗せた。
    このように互い違いに船に乗らせて奸計に備えた。
    共に船を出発させて数里が過ぎたところで、逆使難波は波を恐れ、高麗の二人を捕えて海に投げ入れた。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇二年七月乙丑朔条】
  • 敏達天皇2年8月14日

    送使難波が帰還して「海の中に大きい鯨がいて、船と櫂を待ち受けて嚙みました。難波らは鯨が船を呑みこむことを恐れて、海に入ることも出来ませんでした」と報告した。
    天皇はその偽りを知り、雑用に使役させて帰さなかった。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇二年八月丁未条】
  • 敏達天皇3年5月5日

    高麗の使人が越の海岸に泊る。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇三年五月甲子条】
  • 敏達天皇3年7月20日

    高麗の使人が入京して奏上するには「臣らは去年、送使に同行して帰国しました。先に臣らが国に着きました。臣は使人の礼に准えて大島首磐日らを礼遇しました。高麗国王も別に厚く礼を尽くしました。しかし送使の船は今になっても到着しません。それでまた謹しんで使人を磐日と共に遣わして、送使が来ないわけをお尋ねしたいと思います」と。
    天皇はすぐに難波の罪を責めて「朝廷を欺いたことが一つ。隣国の使者を溺れ殺したことが二つ。この大罪を以って帰還することを許さない」と言って断罪した。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇三年七月戊寅条】
  • 敏達天皇3年10月9日

    蘇我馬子大臣を吉備国に遣わして、白猪屯倉(しらいのみやけ)田部(たべ)屯倉の農民。の数を増やした。
    田部の名籍(なのふみた)白猪史胆津に授けた。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇三年十月丙申条】
  • 敏達天皇3年10月11日

    船史王辰爾の弟に詔して津史(つのふひと)の姓を賜る。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇三年十月戊戌条】
  • 敏達天皇3年11月

    新羅が使いを遣わして調(みつき)を奉る。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇三年十一月条】
  • 敏達天皇4年1月9日

    息長真手王の娘の広姫を立てて皇后とする。これが生んだのは一男二女。
    其の一を押坂彦人大兄皇子という。またの名は麻呂古皇子
    其の二を逆登皇女という。
    其の三を菟道磯津貝皇女古事記に宇遅王。菟道磯津貝皇女は異母姉妹の菟道貝鮹皇女の別名でもあるので混同したか。という。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月甲子条】
  • 敏達天皇4年1月

    一人の夫人を立てた。
    春日臣仲君の娘の老女子夫人という。またの名は薬君娘。三男一女を生んだ。
    其の一を難波皇子という。
    其の二を春日皇子という。
    其の三を桑田皇女という。
    其の四を大派皇子という。

    次に采女、伊勢大鹿首小熊の娘の菟名子夫人が生んだのは
    太姫皇女。またの名は桜井皇女
    糠手姫皇女。またの名は田村皇女

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月是月条】
  • 敏達天皇4年2月朔日が壬辰は無理筋。前後の記事、正月・四月の朔日は理に適っている。朔が無い写本あり。

    馬子宿禰大臣京師(みやこ)に帰還して屯倉の事同三年十月丙申条。を復命する。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年二月壬辰朔条】
  • 敏達天皇4年2月同年正月の朔日が丙辰で合ってるすると、二月乙丑を実現させるには閏正月が必要。さらに四月の乙酉が朔日で合ってるすると、二月か三月に閏月を入れなければならない。さすがに無理筋。

    百済が使いを遣わして調を進上した。例年よりも多かった。

    天皇は新羅が未だに任那を復建しないので、皇子と大臣に詔して「任那の事は怠ることのないように」と。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年二月乙丑条】
  • 敏達天皇4年4月6日

    吉士金子を新羅に遣わした。
    吉士木蓮子を任那に遣わした。
    吉士訳語彦を百済に遣わした。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年四月庚寅条】
  • 敏達天皇4年6月

    新羅が使いを遣わして調を進上した。例年より多かった。
    併せて多多羅(たたら)須奈羅(すなら)和陀(わだ)発鬼(ほちき)の四邑の調も進上した。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年六月条】
  • 敏達天皇4年

    卜者(うらべ)に命じて、海部王家地(いえどころ)糸井王の家地を占った。占いは重ねて吉と出た。
    遂に訳語田(おさだ)に宮を造った。これを幸玉宮(さきたまのみや)という。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年是歳条】
    • 他田宮(おさだのみや)にて天下を治めること十四年であった。

      【古事記 下巻 敏達天皇段】
    • 乎沙多宮(おさだのみや)にて天下を治めた。

      【上宮聖徳法王帝説 法隆寺蔵繍帳二張縫著亀背上文字, 天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】
  • 敏達天皇4年11月

    皇后広姫が薨じる。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年十一月条】
  • 敏達天皇5年3月10日

    有司(つかさ)が皇后を立てることを請願した。

    詔して豊御食炊屋姫尊を立てて皇后とした。これは二男・五女を生んだ。
    其の一を菟道貝鮹皇女という。またの名は菟道磯津貝皇女である。これは東宮聖徳に嫁いだ。
    其の二を竹田皇子という。
    其の三を小墾田皇女という。これは彦人大兄皇子に嫁いだ。
    其の四を鸕鷀守皇女という。またの名は軽守皇女
    其の五を尾張皇子という。
    其の六を田眼皇女という。これは息長足日広額天皇に嫁いだ。
    其の七を桜井弓張皇女という。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】
  • 敏達天皇6年2月1日

    詔して日祀部(ひのまつりべ)私部(きさいちべ)を置く。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇六年二月甲辰朔条】
  • 敏達天皇6年5月5日

    大別王「大別王の所出は未詳である」とある。小黒吉士を遣わして百済国の(みこともち)とした「王の使人は命を奉り、三韓に遣わされて宰を自称した。韓(からくに)で宰になるというのは、古の決まりなのであろう。今は使(みつかい)という。他も皆これに傚う」とある。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇六年五月丁丑条】
  • 敏達天皇6年11月1日

    百済国王は還使(かえるつかい)大別王らに付けて経論若干巻、併せて律師(りつし)禅師(ぜんじ)比丘尼(びくに)呪禁師(じゅこんのはかせ)造仏工(ほとけつくるたくみ)造寺工(てらつくつたくみ)の六人を献上した。
    これらは難波の大別王の寺に置いた。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇六年十一月庚午朔条】
  • 敏達天皇7年3月5日

    菟道皇女を伊勢の祠に侍らせたが、池辺皇子に犯されたことが露見して任を解いた。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇七年三月壬申条】
  • 敏達天皇8年10月

    新羅が枳叱政奈末を遣わして調を進上した。併せて仏像を奉った。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇八年十月条】
  • 敏達天皇9年6月

    新羅が安刀奈末失消奈末を遣わして調を進上したが納めずに還した。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇九年六月条】
  • 敏達天皇10年閏2月

    蝦夷数千が辺境を荒らした。
    それでその魁帥(ひとごとのかみ)「魁帥は大毛人(おおえみし)である」とある。綾糟らを召して詔して。「お前たち蝦夷を大足彦天皇の御世に殺すべき者は斬り、許すべきも者は許した。朕も前例に従って首謀者を殺そうと思う」と。
    綾糟らは恐懼した。
    それで泊瀬(はつせ)の中流に下って三諸岳(みもろのおか)に向い、水をすすって誓って言うには「我ら蝦夷は、今後子々孫々に至るまで清く明らかな心を持って朝廷にお仕え申し上げよう。我らがもし誓いを違えれば、天地・諸神、及び天皇の御霊が我らの子孫を滅ぼすであろう」と。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十年潤二月条】
  • 敏達天皇11年10月

    新羅が安刀奈末失消奈末を遣わして調を進上したが納めずに還した。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十一年十月条】
  • 敏達天皇12年7月1日

    詔して「我が先の天皇の御世に、新羅は内官家(うちつみやけ)の国を滅ぼした「天国排開広庭天皇二十三年、任那は新羅の為に滅ぼされた。それで新羅が我が内官家を滅ぼしたというのである」とある。。先の天皇が任那を復興させようとお図りになられたが、果たされることなくお隠れあそばされた。朕はこの偉大な図りごとをお助け奉り、任那を復興させようと思う。いま百済にいる火葦北国造阿利斯登の子達率日羅は賢くて勇ましい。それで朕はその人と計画を立てようと思う」と。
    そして紀国造押勝吉備海部直羽島を遣わして百済に召した。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十二年七月丁酉朔条】
  • 敏達天皇12年10月

    紀国造押勝らが百済から帰還して「百済国主は日羅を惜しんで来させませんでした」と復命する。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十二年十月条】
  • 敏達天皇12年(10月 ~ 12月)

    また吉備海部直羽島を遣わして日羅を百済に召した。

    羽島は百済に行って、先に密かに日羅に会おうと一人で家の門に向った。
    しばらくして家の中から(から)婦人が現れ、韓語を用いて「あなたの根を私の根の内に入れなさい」と言うと家に入った。
    羽島はその意味を覚り、後に従い入っていった。
    すると日羅が迎えに来て、手を取って座席に坐らせると、密かに告げて「私が密かに聞くところでは、百済国主は天朝を疑っているようです。私を遣わしてしまえば留めて帰還さないと思い、惜しんで了承しないのです。勅を宣り言する時には、厳しい顔色を見せて性急に召して下さい」と言った。
    羽島はその計画のままに日羅を召した。
    百済国主は天朝を畏怖して、敢えて勅を違えることはせず、日羅恩率(おんそつ)おんそち。百済の官位第三位。徳爾・余怒・哥奴知どこで区切るかは疑義あり。文脈からは恩率と参官と徳爾・余奴は別人。参官(さんかん)柁師(かじとり)徳率次干徳水手(かこ)ら若干の人を奉った。
    日羅らは吉備児島屯倉(きびのこじまのみやけ)に行き着いた。

    朝廷は大伴糠手子連を遣わして慰労させた。また大夫らを難波の館に遣わして日羅を訪ねさせた。
    この時に日羅(よろい)を着て乗馬して門前にいた。そして政庁の前に進み出た。
    立居し跪拝して、歎き恨んで言うには「桧隈宮御寓天皇宣化天皇。の御世に、我が君大伴金村大連が国家の為に遣わした火葦北国造刑部靭部阿利斯登の子、臣達率日羅は天皇がお召しなられていることを伺い、恐れかしこみ来朝致しました」と。
    そしてその甲を脱いで天皇に奉った。
    それで館を阿斗桑市(あとのくわのいち)に造って日羅を住まわせて、願いのままに支給した。
    また阿倍目臣物部贄子連大伴糠手子連を遣わして、国政を日羅に問わせた。
    日羅が答えて言うには「天皇が天下を治めたまう政とは、必ず人民を護り養うことにあります。なぜ兵を起こし、かえって民を失うことをなさりましょうか。それで議る者は、朝廷に仕える臣・連・二造「二造とは、国造・伴造である」とある。から下は百姓に至るまで、皆富み栄えて、足らない所のないようにするべきです。このようにすること三年。食が足り、兵が足り、喜んで民が使われ、水火も憚らずに国難を憂えるようにします。然る後に多くの船を造って津ごとに連ね置き、客人に観せて恐れを生じさせ、それから百済に良き使者を遣わして国王を召すのです。もし来なければ、その太佐平(だいさへい)・王子らを召して来させます。そうすれば自然と服従の心が生じましょう。その後に罪を問うのです」と。
    また奏上して「百済人が謀って『船三百隻の人間が筑紫に居住を願っている』と言っておるようです。もし本当に願ってこれば許すまねをするのです。そこで百済が新に国を造ろうとすれば、必ず先に女人・小子を船に乗せてくるでしょう。これに対して壱岐と対馬に伏兵を多く置き、やって来るのを待って殺すのです。逆に欺かれないように、要害の地ごとに堅い城塞を築くのです」と。

    恩率・参官「旧い本では、恩率を以って一人とし、参官を以って一人とする」とある。は帰国する時に密かに徳爾らに語って言うには「我々が筑紫を離れる頃を見計らって、お前らが日羅を殺せば、我々が詳しく王に申し上げて高い位を賜るようにしてやろう。本人及び妻子は後々まで栄えるであろう」と。
    徳爾・余奴は承知した。

    参官らは遂に血鹿(ちか)に向けて出発した。
    日羅桑市村(くわのいちのむら)から難波館(なにわのむろつみ)に移った。
    徳爾らは殺そうと昼夜見計らっていた。
    時に日羅の身体から火焔のような光が出ていた。
    これにより徳爾らは恐れて殺せなかった。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十二年是歳条】
  • 敏達天皇12年12月

    遂に十二月の晦素直に十二月の末日と判断してよいか。に光を失ったのを伺って殺した。
    日羅は蘇生した。そして「これは我が召使いの奴等の所業である。新羅によるものではない」と言って死んだ「この時に新羅の使いがいた。それでこのように言ったのである」とある。
    天皇は贄子大連糠手子連に詔して、小郡(おごおり)の西の畔の丘の先に収め葬らせ、その妻子・水手らは石川(いしかわ)に住まわせた。
    しかし大伴糠手子連が議って「一ヶ所に集めて住まわせれば返事が生じる恐れがございます」と言った。
    そこで妻子は石川の百済村(くだらのむら)に住まわせ、水手らは石川の大伴村(おおとものむら)に住まわせた。

    徳爾らを捕縛して下百済(しもつくだら)阿田村(あたのむら)校異:河田村に置いた。
    数人の大夫を遣わして、その事を問いただした。
    徳爾らが罪に伏して言うには「本当でございます。これは恩率・参官の教えによるものです。我らは部下として命令に背けませんでした」と。
    これにより獄に下して朝廷に復命した。
    そして葦北(あしきた)に使いを遣わして日羅の同族を召し、徳爾らを賜って心のままに罪を償わせた。
    この時に葦北君(あしきたのきみ)らは受け取ると皆殺しにして弥売島(みめしま)「弥売島とは姫島であろう」とある。に投げ捨てた。

    日羅を葦北に移して葬った。

    後に海辺の者が言うには「恩率の船は風害により海に没した。参官の船は津島に漂泊した後にようやく帰ることが出来た」という。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十二年是歳条】
  • 敏達天皇13年2月8日

    難波吉士木蓮子を遣わして新羅に使いさせた。任那にまで行った。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十三年二月庚子条】
  • 敏達天皇13年9月

    百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)「闕名字」とある。弥勒(みろく)の石像一躯をもたらし、佐伯連(さえきのむらじ)「闕名字」とある。が仏像一躯をもたらした。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十三年九月条】
  • 敏達天皇13年(9月 ~ 12月)

    蘇我馬子宿禰その仏像二躯同九月条。を請い、そして鞍部村主司馬達等池辺直氷田を四方に遣わして修行者を探させた。
    播磨国にて僧で還俗した者を得た。名は高麗恵便大臣は師とした。

    司馬達等の娘のを出家させて善信尼という。年十一歳。
    また善信尼の弟子二人も出家させた。
    その一は漢人夜菩の娘の豊女。名を禅蔵尼という。
    その二は錦織壼の娘の石女。名を恵善尼という。
    馬子は一人仏法に帰依して三人の尼を崇め敬った。
    そして三人の尼を氷田直達等に付けて衣食を供させた。
    仏殿を邸宅の東方に造って弥勒の石像を安置した。
    三人の尼を招いて大会(だいえ)設斎(おがみ)仏教用語。食事の場を設けること。をした。
    この時に達等が仏舎利を斎食(いもい)の上で見つけ、その舎利を馬子宿禰に献上した。
    馬子宿禰は試しに舎利を鉄床(かなとこ)の上に置いて鉄鎚で打ってみた。
    その鉄床と鉄鎚は砕けたが、舎利が砕けることはなかった。
    また舎利を水に投げ入れてみると、舎利は心に願うままに浮き沈みした。
    これにより馬子宿禰池辺氷田司馬達等は仏法を深く信じて修行を怠らなかった。
    馬子宿禰はまた石川の邸宅に仏殿を造った。

    仏法の初めはこれより興った。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十三年是歳条】
  • 敏達天皇14年2月15日

    蘇我大臣馬子宿禰は塔を大野丘(おおののおか)の北に建てて大会(だいえ)設斎(おがみ)仏教用語。食事の場を設けること。をした。
    以前に達等が見つけた舎利を塔の心柱に納めた。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年二月壬寅条】
  • 敏達天皇14年2月24日

    蘇我大臣が病を患った。
    卜者(うらべ)に問わせると「父の時に祭った仏神の御心に祟られています」と答えた。
    大臣はすぐに子弟を遣わして、その占いの結果を奏上した。
    詔して「卜者の言葉に従って父の崇めた神を祀るように」と。
    大臣は詔を承り、石像を敬い拝んで寿命を延ばすように乞うた。

    この時に国に疫病が起り、民に死者が多かった。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年二月辛亥条】
  • 敏達天皇14年3月1日

    物部弓削守屋大連中臣勝海大夫が奏上して「どうして臣の言葉をお用いになられないのでございますか。先の天皇欽明天皇。から陛下に及ぶまで、疫病が流行して国民が絶えようとしておりますのは、蘇我臣が仏法を広めたことによるものではないでしょうか」と。
    詔して「明白である。仏法を断つように」と。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年三月丁巳朔条】
  • 敏達天皇14年3月30日

    物部弓削守屋大連は自ら寺に赴き、胡床にあぐらをかき、その塔同年二月壬寅に蘇我馬子が大野丘(おおののおか)の北に建てた塔。を斬り倒させて火を点けて焼いた。あわせて仏像と仏殿を焼いた。
    焼け残った仏像は拾って難波の堀江に棄てさせた。

    この日、雲が無いのに風が吹き雨が降った。大連は雨衣を着た。
    馬子宿禰とそれに従う僧侶を責めて非難の心を生じさせた。
    そして佐伯造御室、またの名は於閭礙を遣わして、馬子宿禰の供養する善信らの尼を呼んだ。
    馬子宿禰は敢えて命に違えることはせず、慟哭しながら尼を御室に渡した。
    有司は忽ちに尼らの法衣を奪い、からめ捕えて海石榴市(つばきち)の馬屋で鞭打った。


    天皇は任那再建を思い、坂田耳子王を使いとした。
    この時に天皇と大連が急に疱瘡を患った。それで派遣は果たされなかった。
    橘豊日皇子に詔して「先の天皇の勅に背いてはならない。任那の政を勤め修めなさい」と。

    また疱瘡を発して死ぬ者が国に満ちた。その疱瘡の患者は「身は焼かれ被打たれ砕かれるようだ」と言って泣きながら死んだ。
    老いも若いも「これは仏像を焼いた罪であろうか」と密かに語り合った。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年三月丙戌条】
  • 敏達天皇14年6月

    馬子宿禰が奏上して「私の病が今も治りません。三宝の力を蒙らずに治すことは困難でございます」と。
    馬子宿禰に詔して「お前一人で仏法を行いなさい。他の者は行ってはならない」と。
    そして三人の尼を馬子宿禰に返した。
    馬子宿禰はこれを受けて喜んだ。
    珍しいことだと感嘆して三人の尼を地に頭をつけて拝んだ。
    新に精舎を造り、迎え入れて供物を捧げた。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年六月条】
  • 敏達天皇14年8月15日

    天皇は病が重くなり大殿で崩じた。
    この時に殯宮を広瀬(ひろせ)に建てた。

    馬子宿禰大臣は刀を佩いて(しのびごと)を奉った。
    物部弓削守屋大連が嘲笑って「大きい矢で射られた雀のようだ」と言った。
    次に弓削守屋大連が手足を震わせて誄を奉った。
    馬子宿禰大臣が笑って「鈴を掛けるべきだな」と言った。
    これにより二臣に怨恨が生じ始めた。

    三輪君逆は隼人を使って殯の庭に置いて守らせた。
    穴穂部皇子は皇位を欲していて、憤って「なぜ死んだ王に仕え、生きている王には仕えないのだ」と大声を発した。

    【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年八月己亥条】
    • 敏達天皇13年4月6日

      甲辰年四月六日に崩じた。

      【古事記 下巻 敏達天皇段】
    • 敏達天皇14年8月

      他田天皇が天下を治めること十四年。
      乙巳年八月に崩じた。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 崇峻天皇4年4月13日

    磯長陵(しながのみささぎ)に葬られる。
    これはその(いろは)亡母。皇后が葬られた陵である。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇四年四月甲子条】
  • 御陵は川内科長(かわちのしなが)にある。

    【古事記 下巻 敏達天皇段】
    • 陵は■■志奈■■■「かわちのしなが云々」と思われる。「志奈」以降の文字数は不明。にある。

      【上宮聖徳法王帝説】