敏達天皇
- 名前
- 漢風諡号:敏逹天皇(びだつてんのう, びだつてんわう)敏達天皇
- 和風諡号:渟中倉太珠敷天皇【日本書紀】(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)
- 和風諡号:渟中倉太玉敷天皇【日本書紀】(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)
- 譯語田渟中倉太珠敷尊【日本書紀】(おさたのぬなくらのふとたましきのみこと, をさたのぬなくらのふとたましきのみこと)訳語田渟中倉太珠敷尊
- 渟中倉太珠敷尊【日本書紀】(ぬなくらのふとたましきのみこと)
- 沼名倉太玉敷命【古事記】(ぬなくらのふとたましきのみこと)
- 譯語田天皇【日本書紀】(おさたのすめらみこと, をさたのすめらみこと)訳語田天皇
- 他田宮治天下天皇【上宮聖徳法王帝説】(おさたのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, をさたのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)
- 怒那久良布刀多麻斯支天皇【上宮聖徳法王帝説】(ぬなくらふとたましきのすめらみこと)
- 蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃彌己等【上宮聖徳法王帝説,天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】(ぬなくらのふとたましきのみこと)蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等
- 他田天皇【上宮聖徳法王帝説】(おさだのすめらみこと, をさだのすめらみこと)
- 他田宮治天下大王【聖徳太子平氏伝雑勘文】(おさだのみやにあめのしたしろしめししおおきみ, をさだのみやにあめのしたしろしめししおほきみ)
- 乎佐太宮治天下名奴那久良布等多麻志支命【天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】(おさたのみやにあめのしたしろしめししぬなくらのふとたましきのみこと, をさたのみやにあめのしたしろしめししぬなくらのふとたましきのみこと)
- 譯語田宮御宇天皇【先代旧事本紀】(おさたのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, をさたのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)訳語田宮御宇天皇
- 停中倉太珠敷天皇【新撰姓氏録抄】
- キーワード
- 後裔は左京
甘南備真人 ・左京飛多真人 ・左京英多真人 校異:英田真人・左京豊国真人 ・左京山於真人 ・左京吉野真人 ・左京桑田真人 ・左京池上真人 ・左京海上真人 【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
- 後裔は左京
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 欽明天皇15年1月7日)
- 没年月日
- 敏達天皇14年8月15日
- 父
欽明天皇 【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年正月甲子条】
- 母
石姫皇女 【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年正月甲子条】
- 先祖
- 配偶者
- 子
- 皇子:
押坂彦人大兄皇子 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月甲子条】【母:広姫 】 - 皇女:
逆登皇女 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月甲子条】【母:広姫 】 - 皇女:
菟道磯津貝皇女 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月甲子条】【母:広姫 】 - 皇子:
難波皇子 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月是月条】【母:老女子夫人 】 - 皇子:
春日皇子 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月是月条】【母:老女子夫人 】 - 皇女:
桑田皇女 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月是月条】【母:老女子夫人 】 - 皇子:
大派皇子 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月是月条】【母:老女子夫人 】 - 皇女:
太姫皇女 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月是月条】【母:菟名子夫人 】 - 皇女:
糠手姫皇女 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年正月是月条】【母:菟名子夫人 】 - 皇女:
菟道貝鮹皇女 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【母:推古天皇 】 - 皇子:
竹田皇子 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【母:推古天皇 】 - 皇女:
小墾田皇女 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【母:推古天皇 】 - 皇女:
桜井弓張皇女 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【母:推古天皇 】 葛城王 日本書紀には見えず。【古事記 下巻 敏達天皇段】【母:推古天皇 】- 皇女:
鸕鷀守皇女 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【母:推古天皇 】 - 皇子:
尾張皇子 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【母:推古天皇 】 - 皇女:
田眼皇女 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】【母:推古天皇 】
- 皇子:
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
- 第30代
天皇
- 第30代
- 出来事
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欽明天皇15年1月7日
立太子。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年正月甲午条】-
欽明天皇29年
立太子。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇即位前紀 欽明天皇二十九年条】
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欽明天皇32年4月15日
天皇は病に臥した。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十二年四月壬辰条】
皇太子は外に出て不在だったので、駅馬を走らせて呼び寄せた。
大殿に引き入れ、その手を取って「朕の病は重い。後の事はお前に任せる。お前は新羅を討って任那を封じ建てよ。また夫婦のように相和するようになれば死んでも後悔はない」と詔した。 -
欽明天皇32年4月(15日 ~ 29日)
欽明天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十二年四月是月条】 -
敏達天皇元年4月3日
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敏達天皇元年4月3日
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敏達天皇元年4月(3日 ~ 30日)
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敏達天皇元年5月1日
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敏達天皇元年5月15日
天皇は高麗の国書を執って大臣に授け、諸々の
史 を召し集めて読み解かせた。
この時、諸々の史は三日の内に読み解くことは出来ず、船史 の祖王辰爾が読み解いて奉った。
これにより天皇と大臣は褒め讃えて「よく勤めてくれた。辰爾よ。お前がもし学ぶことに親しんでいなければ、誰が読み解くことが出来たであろうか。今から始めて殿中に近侍するように」と。
東西の諸々の史に詔して「お前たちの習業は何故か足りない。お前たちは数が多くとも辰爾には及ばない」と。また高麗が上表した国書は烏の羽に書いてあった。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年五月丙辰条】
文字は黒い羽に紛れて読める者はいなかった。
そこで辰爾は羽を飯の気で蒸して、帛 柔らかくした上等の絹布。を羽に押してその文字を全て写した。
朝廷の人は皆が驚いた。 -
敏達天皇元年6月
高麗の大使が副使らに言うには「磯城島天皇欽明天皇。の時に、お前らは私の思うところと違い、人に欺かれ、みだりに国の調を分け、たやすく卑しい者に与えてしまった欽明天皇三十一年四月乙酉条・同五月条。。お前らの過ちではないか。これがもし我が国王に聞こえてしまえば、必ずお前らは咎めを受ける」と。
副使らは仲間内で語って「もし我々が帰国して大使が我々の過ちを申し上げれば不祥事となる。密かに殺してその口を封じてしまおう」と。
この夕べに隠謀が漏れた。
これを知った大使は装束を改めて一人で密かに抜け出したが、館の中庭に立って為す術を失っていた。時に一人の賊が杖を持って出て来て、大使の頭を打って去った。
次に一人の賊が真っ直ぐ大使に向って、頭と手を打って去った。
大使は尚も黙然として立って顔の血を拭っていた。
更に一人の賊が刀を取って急に来て、大使の腹を刺して去った。この時に大使は恐れて地に伏して拝んだ。
後に一人の賊が殺して去った。翌朝、
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年六月条】領客 外国使人の接待役。東漢坂上直子麻呂らがその事件を推問した。
副使らが偽って言うには「天皇が妻を大使に賜りました。大使は勅に背いて受けとらず、無礼なこと甚だしいので臣らが天皇の為に殺しました」と。
有司 は礼を以って収め葬った。 -
敏達天皇元年7月
高麗の使人が帰途に就く。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年七月条】 -
敏達天皇2年5月3日
高麗の使人が
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇二年五月戊辰条】越 の海岸に泊った。船が壊れて溺死する者が多かった。
朝廷は頻りに路に迷うことを疑って、饗応せずに帰国させることにした。
それで吉備海部直難波に勅して高麗の使いを送らせた。 -
敏達天皇2年7月1日
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敏達天皇2年8月14日
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敏達天皇3年5月5日
高麗の使人が越の海岸に泊る。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇三年五月甲子条】 -
敏達天皇3年7月20日
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敏達天皇3年10月9日
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敏達天皇3年10月11日
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敏達天皇3年11月
新羅が使いを遣わして
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇三年十一月条】調 を奉る。 -
敏達天皇4年1月9日
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敏達天皇4年1月
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敏達天皇4年2月朔日が壬辰は無理筋。前後の記事、正月・四月の朔日は理に適っている。朔が無い写本あり。
馬子宿禰大臣が
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年二月壬辰朔条】京師 に帰還して屯倉の事同三年十月丙申条。を復命する。 -
敏達天皇4年2月同年正月の朔日が丙辰で合ってるすると、二月乙丑を実現させるには閏正月が必要。さらに四月の乙酉が朔日で合ってるすると、二月か三月に閏月を入れなければならない。さすがに無理筋。
百済が使いを遣わして調を進上した。例年よりも多かった。
天皇は新羅が未だに任那を復建しないので、皇子と大臣に詔して「任那の事は怠ることのないように」と。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年二月乙丑条】 -
敏達天皇4年4月6日
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敏達天皇4年6月
新羅が使いを遣わして調を進上した。例年より多かった。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年六月条】
併せて多多羅 ・須奈羅 ・和陀 ・発鬼 の四邑の調も進上した。 -
敏達天皇4年
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【古事記 下巻 敏達天皇段】他田宮 にて天下を治めること十四年であった。 -
【上宮聖徳法王帝説 法隆寺蔵繍帳二張縫著亀背上文字, 天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】乎沙多宮 にて天下を治めた。
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敏達天皇4年11月
皇后広姫が薨原文ママ。る。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇四年十一月条】 -
敏達天皇5年3月10日
有司 が皇后を立てることを請願した。詔して豊御食炊屋姫尊を立てて皇后とした。これは二男・五女を生んだ。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】
其の一を菟道貝鮹皇女という。またの名は菟道磯津貝皇女である。これは東宮聖徳に嫁いだ。
其の二を竹田皇子という。
其の三を小墾田皇女という。これは彦人大兄皇子に嫁いだ。
其の四を鸕鷀守皇女という。またの名は軽守皇女。
其の五を尾張皇子という。
其の六を田眼皇女という。これは息長足日広額天皇に嫁いだ。
其の七を桜井弓張皇女という。-
この天皇は庶妹の豊御食炊屋比売命を娶り、生まれた御子は
静貝王。またの名は貝鮹王。
次に竹田王。またの名は小貝王。
次に小治田王。
次に葛城王。
次に宇毛理王。
次に小張王。
次に多米王。
次に桜井玄王の八柱。また伊勢大鹿首の女の小熊子郎女を娶り、生まれた御子は
布斗比売命。
次に宝王。またの名は糠代比売王の二柱。また息長真手王の女の比呂比売命を娶り、生まれた御子は
忍坂日子人太子。またの名は麻呂古王。
次に坂騰王。
次に宇遅王の三柱。また春日中若子の女の老女子郎女を娶り、生まれた御子は
難波王。
次に桑田王。
次に春日王。
次に大俣王の四柱。
この天皇の御子たち合わせて十七王の中で、日子人太子は庶妹の田村王。またの名は糠代比売命を娶り、生まれた御子は
岡本宮にて天下を治めた天皇。
次に中津王。
次に多良王の三柱。また漢王の妹の大俣王を娶り、生まれた御子は
智奴王。
次に妹の桑田王の二柱。また庶妹の玄王を娶り、生まれた御子は
山代王。
次に笠縫王の二柱。合わせて七王。
【古事記 下巻 敏達天皇段】
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敏達天皇6年2月1日
詔して
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇六年二月甲辰朔条】日祀部 ・私部 を置く。 -
敏達天皇6年5月5日
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敏達天皇6年11月1日
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敏達天皇7年3月5日
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敏達天皇8年10月
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敏達天皇9年6月
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敏達天皇10年閏2月
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敏達天皇11年10月
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敏達天皇12年7月1日
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敏達天皇12年10月
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敏達天皇12年(10月 ~ 12月)
羽島は百済に行って、先に密かに日羅に会おうと一人で家の門に向った。
しばらくして家の中から韓 婦人が現れ、韓語を用いて「あなたの根を私の根の内に入れなさい」と言うと家に入った。
羽島はその意味を覚り、後に従い入っていった。
すると日羅が迎えに来て、手を取って座席に坐らせると、密かに告げて「私が密かに聞くところでは、百済国主は天朝を疑っているようです。私を遣わしてしまえば留めて帰還さないと思い、惜しんで了承しないのです。勅を宣り言する時には、厳しい顔色を見せて性急に召して下さい」と言った。
羽島はその計画のままに日羅を召した。
百済国主は天朝を畏怖して、敢えて勅を違えることはせず、日羅・恩率・徳爾・余怒・哥奴知どこで区切るかは疑義あり。文脈から恩率・参官・徳爾は別人。<哥奴知の校異に奇奴知>・参官 ・柁師 ・徳率次干徳・水手 ら若干の人を奉った。
日羅らは吉備児島屯倉 に行き着いた。朝廷は大伴糠手子連を遣わして慰労させた。また大夫らを難波の館に遣わして日羅を訪ねさせた。
この時に日羅は甲 を着て乗馬して門前にいた。そして政庁の前に進み出た。
立居し跪拝して、歎き恨んで言うには「桧隈宮御寓天皇宣化天皇。の御世に、我が君大伴金村大連が国家の為に遣わした火葦北国造刑部靭部阿利斯登の子、臣達率日羅は天皇がお召しなられていることを伺い、恐れかしこみ来朝致しました」と。
そしてその甲を脱いで天皇に奉った。
それで館を阿斗桑市 に造って日羅を住まわせて、願いのままに支給した。
また阿倍目臣・物部贄子連・大伴糠手子連を遣わして、国政を日羅に問わせた。
日羅が答えて言うには「天皇が天下を治めたまう政とは、必ず人民を護り養うことにあります。なぜ兵を起こし、かえって民を失うことをなさりましょうか。それで議る者は、朝廷に仕える臣・連・二造「二造とは、国造・伴造である」とある。から下は百姓に至るまで、皆富み栄えて、足らない所のないようにするべきです。このようにすること三年。食が足り、兵が足り、喜んで民が使われ、水火も憚らずに国難を憂えるようにします。然る後に多くの船を造って津ごとに連ね置き、客人に観せて恐れを生じさせ、それから百済に良き使者を遣わして国王を召すのです。もし来なければ、その太佐平・王子らを召して来させます。そうすれば自然と服従の心が生じましょう。その後に罪を問うのです」と。
また奏上して「百済人が謀って『船三百隻の人間が筑紫に居住を願っている』と言っておるようです。もし本当に願ってこれば許すまねをするのです。そこで百済が新に国を造ろうとすれば、必ず先に女人・小子を船に乗せてくるでしょう。これに対して壱岐と対馬に伏兵を多く置き、やって来るのを待って殺すのです。逆に欺かれないように、要害の地ごとに堅い城塞を築くのです」と。恩率・参官「旧い本では、恩率を以って一人とし、参官を以って一人とする」とある。は帰国する時に密かに徳爾らに語って言うには「我々が筑紫を離れる頃を見計らって、お前らが日羅を殺せば、我々が詳しく王に申し上げて高い位を賜るようにしてやろう。本人及び妻子は後々まで栄えるであろう」と。
徳爾・余奴は承知した。参官らは遂に
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十二年是歳条】血鹿 に向けて出発した。
日羅は桑市村 から難波館 に移った。
徳爾らは殺そうと昼夜見計らっていた。
時に日羅の身体から火焔のような光が出ていた。
これにより徳爾らは恐れて殺せなかった。 -
敏達天皇12年12月
遂に十二月の晦素直に十二月の末日と判断してよいか。に光を失ったのを伺って殺した。
日羅は蘇生した。そして「これは我が召使いの奴等の所業である。新羅によるものではない」と言って死んだ「この時に新羅の使いがいた。それでこのように言ったのである」とある。。
天皇は贄子大連・糠手子連に詔して、小郡 の西の畔の丘の先に収め葬らせ、その妻子・水手らは石川 に住まわせた。
しかし大伴糠手子連が議って「一ヶ所に集めて住まわせれば返事が生じる恐れがございます」と言った。
そこで妻子は石川の百済村 に住まわせ、水手らは石川の大伴村 に住まわせた。徳爾らを捕縛して
下百済 の阿田村 校異:河田村に置いた。
数人の大夫を遣わして、その事を問いただした。
徳爾らが罪に伏して言うには「本当でございます。これは恩率・参官の教えによるものです。我らは部下として命令に背けませんでした」と。
これにより獄に下して朝廷に復命した。
そして葦北 に使いを遣わして日羅の同族を召し、徳爾らを賜って心のままに罪を償わせた。
この時に葦北君 らは受け取ると皆殺しにして弥売島 「弥売島とは姫島であろう」とある。に投げ捨てた。日羅を葦北に移して葬った。
後に海辺の者が言うには「恩率の船は風害により海に没した。参官の船は津島に漂泊した後にようやく帰ることが出来た」という。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十二年是歳条】 -
敏達天皇13年2月8日
難波吉士木蓮子を遣わして新羅に使いさせた。任那にまで行った。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十三年二月庚子条】 -
敏達天皇13年9月
百済から来た
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十三年九月条】鹿深臣 「闕名字」とある。が弥勒 の石像一躯をもたらし、佐伯連 「闕名字」とある。が仏像一躯をもたらした。 -
敏達天皇13年(9月 ~ 12月)
蘇我馬子宿禰はその仏像二躯同九月条。を請い、そして鞍部村主司馬達等・池辺直氷田を四方に遣わして修行者を探させた。
播磨国にて僧で還俗した者を得た。名は高麗恵便。大臣は師とした。司馬達等の女の島を出家させて善信尼という。年十一歳。
また善信尼の弟子二人も出家させた。
その一は漢人夜菩の女の豊女。名を禅蔵尼という。
その二は錦織壼の女の石女。名を恵善尼という。
馬子は一人仏法に帰依して三人の尼を崇め敬った。
そして三人の尼を氷田直と達等に付けて衣食を供させた。
仏殿を邸宅の東方に造って弥勒の石像を安置した。
三人の尼を招いて大会 の設斎 仏教用語。食事の場を設けること。をした。
この時に達等が仏舎利を斎食 の上で見つけ、その舎利を馬子宿禰に献上した。
馬子宿禰は試しに舎利を鉄床 の上に置いて鉄鎚で打ってみた。
その鉄床と鉄鎚は砕けたが、舎利が砕けることはなかった。
また舎利を水に投げ入れてみると、舎利は心に願うままに浮き沈みした。
これにより馬子宿禰・池辺氷田・司馬達等は仏法を深く信じて修行を怠らなかった。
馬子宿禰はまた石川の邸宅に仏殿を造った。仏法の初めはこれより興った。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十三年是歳条】 -
敏達天皇14年2月15日
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敏達天皇14年2月24日
蘇我大臣が病を患った。
卜者 に問わせると「父の時に祭った仏神の御心に祟られています」と答えた。
大臣はすぐに子弟を遣わして、その占いの結果を奏上した。
詔して「卜者の言葉に従って父の崇めた神を祀るように」と。
大臣は詔を承り、石像を敬い拝んで寿命を延ばすように乞うた。この時に国に疫病が起り、民に死者が多かった。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年二月辛亥条】 -
敏達天皇14年3月1日
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敏達天皇14年3月30日
物部弓削守屋大連は自ら寺に赴き、胡床にあぐらをかき、その塔同年二月壬寅に蘇我馬子が大野丘(おおののおか)の北に建てた塔。を斬り倒させて火を点けて焼いた。あわせて仏像と仏殿を焼いた。
焼け残った仏像は拾って難波の堀江に棄てさせた。この日、雲が無いのに風が吹き雨が降った。大連は雨衣を着た。
馬子宿禰とそれに従う僧侶を責めて非難の心を生じさせた。
そして佐伯造御室、またの名は於閭礙を遣わして、馬子宿禰の供養する善信らの尼を呼んだ。
馬子宿禰は敢えて命に違えることはせず、慟哭しながら尼を御室に渡した。
有司は忽ちに尼らの法衣を奪い、からめ捕えて海石榴市 の馬屋で鞭打った。
天皇は任那再建を思い、坂田耳子王を使いとした。
この時に天皇と大連が急に疱瘡を患った。それで派遣は果たされなかった。
橘豊日皇子に詔して「先の天皇の勅に背いてはならない。任那の政を勤め修めなさい」と。また疱瘡を発して死ぬ者が国に満ちた。その疱瘡の患者は「身は焼かれ被打たれ砕かれるようだ」と言って泣きながら死んだ。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年三月丙戌条】
老いも若いも「これは仏像を焼いた罪であろうか」と密かに語り合った。 -
敏達天皇14年6月
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敏達天皇14年8月15日
天皇は病が重くなり大殿で崩じた。
この時に殯宮を広瀬 に建てた。馬子宿禰大臣は刀を佩いて
誄 を奉った。
物部弓削守屋大連が嘲笑って「大きい矢で射られた雀のようだ」と言った。
次に弓削守屋大連が手足を震わせて誄を奉った。
馬子宿禰大臣が笑って「鈴を掛けるべきだな」と言った。
これにより二臣に怨恨が生じ始めた。三輪君逆は隼人を使って殯の庭に置いて守らせた。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年八月己亥条】
穴穂部皇子は皇位を欲していて、憤って「なぜ死んだ王に仕え、生きている王には仕えないのだ」と大声を発した。-
敏達天皇13年4月6日
甲辰年四月六日に崩じた。
【古事記 下巻 敏達天皇段】 -
敏達天皇14年8月
他田天皇が天下を治めること十四年。
【上宮聖徳法王帝説】
乙巳年八月に崩じた。
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崇峻天皇4年4月13日
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇四年四月甲子条】磯長陵 に葬られる。
これはその妣 亡母。の皇后が葬られた陵である。 -
御陵は
【古事記 下巻 敏達天皇段】川内科長 にある。-
陵は■■志奈■■■「かわちのしなが云々」と思われる。「志奈」以降の文字数は不明。にある。
【上宮聖徳法王帝説】
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