- 名前
- 漢風諡号:仁賢天皇(にんけんてんのう, にんけんてんわう)
- 和風諡号:億計天皇【日本書紀】(おけのすめらみこと)
- 億計王【日本書紀】(おけのみこ)
- 億計【日本書紀】(おけ)
- 嶋稚子【日本書紀】(しまのわくご)島稚子
- 大石尊【日本書紀】(おおしのみこと, おほしのみこと)
- 意富祁王【古事記】(おおけのみこ, おほけのみこ)
- 意祁王【古事記】(おけのみこ)
- 意富祁命【古事記】(おおけのみこと, おほけのみこと)
- 意祁命【古事記】(おけのみこと)
- 德計【先代旧事本紀】徳計
- 諱:大脚【日本書紀】(おおし, おほし)
- 大爲【日本書紀】(おおす, おほす)大為
- 字:嶋郞【日本書紀】(しまのいらつこ)島郎
- 石上廣高宮御宇天皇【先代旧事本紀】(いそのかみのひろたかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)石上広高宮御宇天皇
- 意富祁天皇【古事記】(おおけのすめらみこと, おほけのすめらみこと)
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 安康天皇3年10月29日)
- 没年月日
- 仁賢天皇11年8月8日
- 父
市辺押磐皇子 【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇即位前紀】
- 母
荑媛 【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇即位前紀】
- 先祖
- 配偶者
- 子
高橋大娘皇女 (高木郎女 )【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年二月壬子条, 古事記 下巻 仁賢天皇段】【母:春日大娘皇女 】朝嬬皇女 (財郎女 )【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年二月壬子条, 古事記 下巻 仁賢天皇段】【母:春日大娘皇女 】手白香皇女 (手白髪郎女 )【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年二月壬子条, 古事記 下巻 仁賢天皇段】【母:春日大娘皇女 】樟氷皇女 (久須毘郎女 )【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年二月壬子条, 古事記 下巻 仁賢天皇段】【母:春日大娘皇女 】橘皇女 (橘之中比売命 )【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年二月壬子条, 古事記 下巻 宣化天皇段】【母:春日大娘皇女 】武烈天皇 (武烈天皇 )【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年二月壬子条, 古事記 下巻 仁賢天皇段】【母:春日大娘皇女 】真稚皇女 (真若王 )【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年二月壬子条, 古事記 下巻 仁賢天皇段】【母:春日大娘皇女 】春日山田皇女 (春日山田郎女 )【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年二月壬子条, 古事記 下巻 仁賢天皇段】【母:糠君娘 】
- 称号・栄典
- 第24代
天皇
- 第24代
- 出来事
-
安康天皇3年10月
天皇の父の市辺押磐皇子と
帳内 の佐伯部仲子は蚊屋野 で大泊瀬天皇に殺されて共に穴に埋められた。
天皇と億計王は父が殺されたことを聞いて恐懼し、共に逃げて身を隠した。帳内の日下部連使主とその子の吾田彦は、天皇と億計王を密かに連れて
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇即位前紀 安康天皇三年十月条】丹波国 の余社郡 で難を避けた。
使主は遂に名を改めて田疾来とした。
尚も殺されることを恐れて、ここから播磨国の縮見山 の石室に逃れ入って自ら経死した。
天皇は使主の所在を知らずに兄の億計王に勧めて、播磨国の赤石郡 に向い、共に名を改めて丹波小子 といった。
そして縮見屯倉首に仕えた。縮見屯倉首とは忍海部造細目のことである。
吾田彦はここに至るまで離れずに従い仕えた。 -
清寧天皇2年11月
播磨国司で
山部連 の先祖伊与来目部小楯が赤石郡 で自ら新嘗の供物を準備した。たまたま縮見屯倉首の新室の宴に参加して昼夜会った。
この時に弘計王が兄の億計王に言うには「乱が避って年数が経ちました。貴い名を顕すのはまさに今宵です」と。
億計王が嘆いて言うには「自ら名乗り出て殺されるのと、身を保って災厄を免れるのとどちらが良いか」と。
弘計王が言うには「私は去来穂別天皇の孫です。しかし身を嗜み、人に仕えて牛馬の世話をしています。もし名を顕して殺されても構いません」と。
遂に億計王と抱き合って泣いた。抑えることは出来なかった。
億計王は「弟以外に誰が大事を言挙げして顕かに出来ようか」と言った。
弘計王は固辞して「私は不才です。どうして大事を言挙げして顕かに出来ましょうか」と言った。
億計王は「弟は才があり、賢くて徳がある。これ以上はない」と言った。
このように互いに譲り合うこと三度。果して弘計王は自ら言挙げすることを承諾した。
共に室の外に出て下座に着いた。屯倉首は竈の傍に坐らせて、あちらこちらに火を灯させた。
夜も深くなり宴もたけなわとなって、次々に舞いも終った。
屯倉首が小楯に言うには「私はこの火を灯す者を見ると、人を貴んで己を賤しくし、人を先として己を後とする。慎み敬って節に従い、譲り退いて礼を明らかとする。君子というべきでしょう」と。
そこで小楯は琴を弾いて火を灯す者に命じて「立って舞いなさい」と言った。
兄弟は互いに譲り合って立たなかった。
小楯は責めて「何をしている。遅いぞ。速く立って舞いなさい」と言った。
億計王が立って舞い終った。
次に弘計王が立って自ら衣の帯を整え、室寿 して言うには「築 き立つる稚室葛根 。築き立つる柱は、此の家長 の御心の鎮 なり。取り挙ぐる。棟梁 は、此の家長の御心の林なり。取り置ける橡橑 は、此の家長の御心の斉 なり。取り置ける蘆雚 は、此の家長の御心の平 なるなり。取り結える縄葛 は、此の家長の御寿 の堅 なり。取り葺ける草葉 は、此の家長の御富 の余 なり。出雲は新墾 。新墾の十握稲 の穂を、浅甕 に釀 める酒、美 にを飲喫 ふるかわ。吾 が子等 。脚日木 の此の傍山 に、牡鹿 の角 挙 げて吾が儛 すれば、旨酒 餌香 の市 に直 以 て買わぬ。手掌 も摎亮 に拍 ち上げ賜 いつ、吾が常世等 」と。
寿き終り、歌の節にあわせて歌を詠んだ。「
伊 儺 武 斯 廬 呵 簸 泝 比 野 儺 擬 寐 逗 喩 凱 麼 儺 弭 企 於 己 陀 智 曾 能 泥 播 宇 世 儒 」小楯は「面白い。また聞きたいものだ」と言った。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇即位前紀 安康天皇三年十月条】
弘計王は遂に殊儛 をして、叫んで言うには「倭 は彼彼茅原 、浅茅原 。弟日 、僕 らま」と。
小楯は深く怪しんで、更に言わせた。
弘計王が叫んで言うには「石上 の振 の神榲 。本伐 り、末截 い。市辺宮 に天下 治 しし、天万国万押磐尊の御裔 。僕 らま」と。
小楯は大いに驚いて席を離れ、心を痛めて再拝した。一族を率いて謹んで仕えた。
ここに郡 の民を集めて宮を造った。日も経たずに完成した宮を仮宮とした。
そして京都 に詣でて、二王を迎えることを求めた。白髪天皇はこれを聞いて喜び、歎いて言うには「朕には子が無い。嗣 とするによい」と。
そして大臣・大連と相談して、播磨国司の来目部小楯に節 を持たせ、側の舎人を副えて遣わし、赤石で迎え奉らせた。-
清寧天皇元年11月
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清寧天皇が崩じた後、天下を治めるべき王はいなかった。
そこで皇位を継ぐ王を尋ねて、市辺忍歯別王の妹の忍海郎女。またの名は飯豊王は、
葛城 の忍海 の高木角刺宮 にいた。山部連小楯が針間の国司に任ぜられた時、その国の人民で名は志自牟が新室完成の宴を開いた。
【古事記 下巻 清寧天皇段】
盛んに酒宴を楽しみ、宴もたけなわになったころ、皆が順に従って舞いを舞った。
火を焚く少年二人が竃の側にいて、その少年達にも舞わせた。
そのうちの一人の少年が「兄さん、先に舞いなさい」と言った。
その兄は「弟よ、先に舞いなさい」と言った。
こうして互いに譲り合っていると、集まった人達はその譲り合う様子を笑った。
そしてとうとう兄が舞い終わり、次に弟がまさに舞おうとしたときに詠め言をした。
「武人である我が良人が佩く大刀の柄には赤い色を塗りつけ、その緒は赤い布で飾り、赤旗を立て、見れば恐れて隠れる。山の尾根の竹を根元から刈り、竹の末を押しなびかせるように、八絃の琴の調子を調えるように、天下を治めた伊邪本和気天皇の御子、市辺之押歯王の賎しい子孫です」と。
小楯連はこれを聞いて驚き、床から転げ落ちた。
その室にいる人達を追い出して、その二柱の王子を左右の膝の上に据えて泣き悲しんだ。
人民を集めて仮宮を造り、その仮宮に住まわせた。
そして駅使 を遣わした。
その叔母の飯豊王は知らせを聞いて喜び、宮に上らせた。
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清寧天皇3年1月1日
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清寧天皇3年4月7日
億計王が皇太子となる。
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇三年四月辛卯条】
弘計王が皇子となる。 -
清寧天皇5年1月16日
清寧天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇五年正月己丑条】 -
清寧天皇5年1月
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清寧天皇5年11月
飯豊青尊が崩じる。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇即位前紀 清寧天皇五年十一月条】 - ・・・
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清寧天皇5年12月
百官が大いに集まった。
皇太子億計王は天皇の璽を取って天皇の坐に置いた。
再拝して諸臣の位置について言うには「この天皇の位は、功ある者がつくべき所である。貴きを表して迎えられたのは、全て弟が考えたことによるものである」と。
そして天下を弘計王に譲った。
弘計王は弟であることを顧みて、敢えて即位しなかった。
また白髪天皇が先に兄に伝えようとして皇太子を立てたことを受けて、何度も固辞して言うには「日月が出ても灯火を止まずにおけば、その火の光はかえって煩わしいでしょう。雨が降って猶も作物に水をやれば無意味に疲れます。人の弟として貴いことは、兄に仕え、難を逃れるように謀り、徳を照らし、紛争を解決し、表に出ないことです。即ち表に出れば、弟として恭敬の義に背きます。私はそんな立場に居るに忍びない。兄が慈しみ、弟が敬うことは。不易の典です。これを古老に聞きました。どうして軽々しく動けましょうか」と。
皇太子億計王が言うには「白髪天皇は私が兄だということで天下の事は先ず私が嘱されました。私はそれを恥ずかしく思います。思えば大王がはじめ巧みに身を隠すことを考えられました。聞く者は歎息しました。帝孫ということを顕わにする時に見る者は涙しました。憂える百官は天を頂く喜びを感じました。哀しむ人民は地を踏む恩を感じました。こりにより良く四方は固まって、永く万代まで栄えるでしょう。その功は万物創造に近く、清き計りごとは世を照らしています。超越していてうまく表現も出来ません。兄だからといって、どうして先に即位出来ましょうか。功無く即位すれば咎めや悔いが必ずやってきます。私が聞くところによると『天皇の位を永く空しくしてはならない。天命を拒んではならない』といいます。大王は社稷を以って計らいとし、人民を以って心として下さい」と。
言を発すうちに高揚して涙を流すに至った。弘計王は即位しまいと思っていたが、兄の意に逆らえずに聞き入れた。しかし御坐にはつかなかった。
世の人はその誠を以って譲ったことを嘉事として言うには「宜しいことだなあ。兄弟が喜びやわらいで。天下は徳に帰した。親族が睦まじいと、民にも仁の心が興るだろう」と。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇即位前紀 清寧天皇五年十二月条】 -
顕宗天皇元年1月1日
弘計王が即位する。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年正月己巳朔条】 -
顕宗天皇元年1月
顕宗天皇が詔して「先王は難事に多く遭い、荒野に落命された。朕は幼年で、逃げて身を隠したが、みだりに求め迎えられて大業を継いだ。御骨を広く探しても、よく知る者はいない」と。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年正月是月条】
詔が終わって皇太子億計と声を出して泣いた。堪えることは出来なかった。 -
顕宗天皇元年2月5日
耆宿を集めて顕宗天皇自ら尋ねた。
一人の老婆が進み出て言うには「置目は御骨が埋まっている場所を存じております。お示し致します」と。
置目とは老婆の名である。近江国 の狭狭城山君 の祖倭帒宿禰の妹で、名を置目という。そこで天皇と皇太子億計は老婆を連れて、近江国の
来田綿 の蚊屋野 の中に行幸して掘り出して見てみると、はたして老婆の言葉のとおりであった。
穴を覗いて号泣し、嘆き悲しんだ。
古よりこのかた、このような酷いことはなかった。
仲子の屍は御骨に交わって見分けがつかなかった。
磐坂皇子の乳母が奏上して「仲子は上の歯が抜けておりますので、これで判別できます」と。
乳母の言うとおりに髑髏 を分けてみたが、ついに手足や胴体は判別出来なかった。それで蚊屋野の中に二つの陵を造って全く同じように似せた。
葬儀も異なるところは無かった。老婆置目に詔して宮のそばに住まわせた。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年二月壬寅条】
崇め恵んで不自由のないようにした。 -
顕宗天皇2年8月1日
天皇が皇太子億計に言うには「我が父である先王には罪は無い。大泊瀬天皇に射殺され、骨を郊野に棄てられた。今に至るまで得ることが出来ていない。憤りと歎きが心を満たしてしまっている。臥しては泣き、行っては叫び、恥を雪ぎたいと思う。私が聞くところによると『父の仇とは共に天を戴かず、兄弟の仇とは常に戦う備えをして、友の仇とは国を同じくしない』という。匹夫の子でも父母の仇のために
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇二年八月己未朔条】苫 に寝て、干 を枕にして仕えず。国を共にせず、どんな場所でも遭遇すれば常に戦う備えをする。なおさら私が立って天子たること二年。その陵を壊し、摧骨を砕いて投げ散らしたいと思う。今これを報いとすれば、孝行にならないだろうか」と。
皇太子億計は歎いて答えることが出来なかった。
そして諌めて言うには「なりません。大泊瀬天皇は政を正しく統べて天下を照臨しました。国内外が喜び仰ぐのは天皇の力でございます。我が父である先王は天皇の御子といえども、難行に遭い、天位に登られませんでした。これを見れば尊卑は別なのでございます。それを陵墓を壊してしまえば、誰を人主として天の御霊にお仕え出来ましょうか。それが壊してはならない理由の一つ目でございます。また天皇と億計は白髪天皇の厚い寵愛、特別な御恩を蒙らなければ、どうして宝位に臨めましょうか。大泊瀬天皇は白髪天皇の父でございます。億計は諸々の耆宿に聞きました。耆宿が言うには『言葉は報いられないことはなく、徳は答えられないことはない。恵みがあっても答えなければ、人を深く損なうことになる』と。陛下は国を豊かになさり、徳行は天下に広く聞こえております。陵を壊して内外に示せば、国に臨んで民を子とすることは恐らく出来ないでしょう。それが壊してはならない理由の二つ目でございます」と。
天皇は「その言や良し」と言って役を止めさせた。-
天皇はその父王を殺した大長谷天皇を深く怨んで、その御霊に復讐しようと思った。
それでその大長谷天皇の御陵を壊そうとして人を遣わした時に、その同母兄の意富祁命が奏上して「この御陵を破壊するのに他人を遣わしてはなりません。私が行って天皇の御心の如く破壊して参りましょう」と。
天皇は「それならば命に従って行きなさい」と言った。意富祁命は自ら行って、その御陵のそばを少し掘って帰還し、復命して「既に掘り壊しました」と言った。
【古事記 下巻 顕宗天皇段】
天皇は帰還が早かったことを怪しんで「どのように破壊したか」と言うと、「その陵のそばの土を少し掘りました」と答えた。
天皇が「父王の仇を報いようと思えば、必ずその陵の全てを破壊しようと思うのに、なぜ少し掘ろうと思うか」と言うと、答えて「父王の怨みであり、その霊に報いようと思いますのは道理でございます。しかしその大長谷天皇は父の怨みといえども、我が従父であり、また天下を治めた天皇でもあります。いま父の仇という志を取り、天下を治めた天皇の陵を全て破壊すれば、後人が必ず誹謗するでしょう。それで父王の仇は報いずに、少しその陵のそばを掘って恥をかかせば、後の世に示せます」と。
このように奏上し、天皇は「これもまた道理に適っている。それでよい」と答えた。
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顕宗天皇3年4月25日
顕宗天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇三年四月庚辰条】 -
仁賢天皇元年1月5日
【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年正月乙酉条】石上広高宮 にて天皇に即位する。-
億計天皇の宮は二ヶ所ある。
【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年正月乙酉条 或本云】
一の宮は川村、二の宮は縮見 の高野 にある。
その殿の柱は今に至るまで未だ朽ちていない。 -
【古事記 下巻 仁賢天皇段】石上広高宮 にて天下を治めた。
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仁賢天皇元年2月2日
妃の春日大娘皇女を立てて皇后とする。
春日大娘皇女は大泊瀬天皇が和珥臣深目の女の童女君を娶って生まれた。
一男六女を産んだ。
その一を高橋大娘皇女という。
その二を朝嬬皇女という。
その三を手白香皇女という。
その四を樟氷皇女。
その五を橘皇女という。
その六を小泊瀬稚鷦鷯天皇という。天下を治めるにあたり泊瀬 の列城 を都とした。
その七を真稚皇女という。
ある書では樟氷皇女を第三に列し、手白香皇女を第四に列し、異なっている。次に和珥臣日爪の女の糠君娘は一女を生んだ。
【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年二月壬子条】
これを春日山田皇女という。
ある書では和珥臣日触の女の大糠娘は一女を生んだ。これを山田大娘皇女という。またの名は赤見皇女という。文はやや異なるが、其の実は同じである。 -
仁賢天皇元年10月3日
弘計天皇を
【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年十月丁己酉条】傍岳磐杯丘陵 に葬る。 -
仁賢天皇2年9月
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仁賢天皇3年2月1日
【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇三年二月己巳朔条】石上部舎人 を置く。 -
仁賢天皇3年2月1日
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仁賢天皇5年2月5日
普く
【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇五年二月辛卯条】国 ・郡 に散り逃れた佐伯部 を探した。
佐伯部仲子の後を以って佐伯造 とする。 -
仁賢天皇6年9月4日
日鷹吉士を
【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇六年九月壬子条】高麗 に遣わして巧手者 を召す。 -
仁賢天皇6年9月(4日 ~ 29日)
日鷹吉士が使者として遣わされた時、
【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇六年是秋条】難波 の御津 に女人があり、哭いて言うには「母 にも兄 。吾 にも兄 。弱草 の吾 が夫 はや」と。
哭声は甚だ哀しく、人は腸を断つようだった。
菱城邑 の人鹿父はこれを聞いて前に向って「何をそんなに哀しく哭いているのだ」と言うと、女人は答えて「秋葱 の二重のように思ってほしい」と。鹿父は「諾 」と言った。即ち言葉の意味を知ったのである。
同伴者がいたが、その意味を知らずに「何を以って知ったのだ」と尋ねた。
答えて「難波玉作部鯽魚女は韓白水郎𤳉に嫁いで哭女を生んだ。哭女は住道人山杵に嫁いで飽田女を生んだ。韓白水郎𤳉とその女 の哭女は共に既に死んでいる。住道人山杵は先に玉作部鯽魚女を犯して麁寸が生まれている。麁寸は飽田女を娶った。麁寸は日鷹吉士に従って高麗に向った。これによりその妻の飽田女は徘徊して思いを巡らしては心を失い、心を傷めた。哭声はひどく切なかった。人は腸を断つような思いだったのだ」と。 -
仁賢天皇6年(9月4日 ~ 12月)
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仁賢天皇7年1月3日
小泊瀬稚鷦鷯尊を立てて皇太子とする。
【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇七年正月己酉条】 -
仁賢天皇8年10月
人民が言うには「この時に国中は無事で、官吏は役に適っている。天下は仁に帰した。民はその業を安んじている」と。
【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇八年十月条】 -
仁賢天皇8年
五穀豊穣、蚕・麦はよく収まり、国内外は平安で戸口は繁栄した。
【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇八年是歳条】 -
仁賢天皇11年8月8日
正寝で崩じる。
【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇十一年八月丁巳条】 -
仁賢天皇11年10月5日
【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇十一年十月癸丑条】埴生坂本陵 に葬られる。-
仁賢天皇11年10月5日
【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 仁賢天皇十一年十月癸丑条】埴口之坂本陵 に葬られる。
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