伊予来目部小楯
- 名前
- 伊豫來目部小楯【日本書紀】(いよのくめべのおたて, いよのくめべのをたて)伊予来目部小楯
- 伊與來目部小楯校異【日本書紀】(いよのくめべのおたて, いよのくめべのをたて)伊与来目部小楯
- 氏(ウジ):山部【日本書紀,古事記】(やまべ)
- 姓(カバネ):連【日本書紀,古事記】(むらじ)連
- 名:小楯【日本書紀,古事記】(おだて, をだて)
- 名:磐楯【日本書紀】(いわたて, いはたて)
- 小楯連【古事記】(おだてのむらじ, をだてのむらじ)小楯連
- 來目部小楯【日本書紀】(くめべのおたて, くめべのをたて)来目部小楯
- キーワード
山部連 先祖【日本書紀 巻第十五 清寧天皇二年十一月条】
- 生年月日
- ( ~ 清寧天皇2年11月30日)
- 没年月日
- (顕宗天皇元年4月11日 ~ )
- 出来事
-
清寧天皇2年11月
播磨国司の伊与来目部小楯が
赤石郡 で自ら新嘗の供物を準備した。たまたま縮見屯倉首の新室の宴に参加して昼夜会った。
この時に弘計王が兄の億計王に言うには「乱が避って年数が経ちました。貴い名を顕すのはまさに今宵です」と。
億計王が嘆いて言うには「自ら名乗り出て殺されるのと、身を保って災厄を免れるのとどちらが良いか」と。
弘計王が言うには「私は去来穂別天皇の孫です。しかし身を嗜み、人に仕えて牛馬の世話をしています。もし名を顕して殺されても構いません」と。
遂に億計王と抱き合って泣いた。抑えることは出来なかった。
億計王は「弟以外に誰が大事を言挙げして顕かに出来ようか」と言った。
弘計王は固辞して「私は不才です。どうして大事を言挙げして顕かに出来ましょうか」と言った。
億計王は「弟は才があり、賢くて徳がある。これ以上はない」と言った。
このように互いに譲り合うこと三度。果して弘計王は自ら言挙げすることを承諾した。
共に室の外に出て下座に着いた。屯倉首は竈の傍に坐らせて、あちらこちらに火を灯させた。
夜も深くなり宴もたけなわとなって、次々に舞いも終った。
屯倉首が小楯に言うには「私はこの火を灯す者を見ると、人を貴んで己を賤しくし、人を先として己を後とする。慎み敬って節に従い、譲り退いて礼を明らかとする。君子というべきでしょう」と。
そこで小楯は琴を弾いて火を灯す者に命じて「立って舞いなさい」と言った。
兄弟は互いに譲り合って立たなかった。
小楯は責めて「何をしている。遅いぞ。速く立って舞いなさい」と言った。
億計王が立って舞い終った。
次に弘計王が立って自ら衣の帯を整え、室寿 して言うには「築 き立つる稚室葛根 。築き立つる柱は、此の家長 の御心の鎮 なり。取り挙ぐる。棟梁 は、此の家長の御心の林なり。取り置ける橡橑 は、此の家長の御心の斉 なり。取り置ける蘆雚 蘆雚。此云哀都利。は、此の家長の御心の平 なるなり。取り結える縄葛 は、此の家長の御寿 の堅 なり。取り葺ける草葉 は、此の家長の御富 の余 なり。出雲は新墾 。新墾の十握稲 の穂を、浅甕 に釀 める酒、美 にを飲喫 ふるかわ美飮喫哉。此云于魔羅爾烏野羅甫屢柯倭也。。吾 が子等 。脚日木 の此の傍山 に、牡鹿 牡鹿。此云左鳴子加。の角 挙 げて吾が儛 すれば、旨酒 餌香 の市 に直 以 て買わぬ。手掌 も摎亮 に手掌摎亮。此云陀那則擧謀耶羅羅儞。拍 ち上げ賜 いつ、吾が常世等 」と。
寿き終り、歌の節にあわせて歌を詠んだ。「
伊 儺 武 斯 廬 呵 簸 泝 比 野 儺 擬 寐 逗 喩 凱 麼 儺 弭 企 於 己 陀 智 曾 能 泥 播 宇 世 儒 」小楯は「面白い。また聞きたいものだ」と言った。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇即位前紀 清寧天皇二年十一月条】
弘計王は遂に殊儛 殊儛。古謂之立出儛。立出。此云陀豆豆(校異:此云陀陀豆豆)。儛状者乍起乍居而儛之。をして、叫んで言うには「倭 は彼彼茅原 、浅茅原 。弟日 、僕 らま」と。
小楯は深く怪しんで、更に言わせた。
弘計王が叫んで言うには「石上 の振 の神榲 榲。此云須擬。。本伐 り、末截 い伐本截末。此云謨登岐利須衞於茲波羅比。。市辺宮 に天下 治 しし、天万国万押磐尊の御裔 。僕 らま」と。
小楯は大いに驚いて席を離れ、心を痛めて再拝した。一族を率いて謹んで仕えた。
ここに郡 の民を集めて宮を造った。日も経たずに完成した宮を仮宮とした。
そして京都 に詣でて、二王を迎えることを求めた。白髪天皇はこれを聞いて喜び、歎いて言うには「朕には子が無い。嗣 とするによい」と。
そして大臣・大連と相談して、播磨国司の来目部小楯に節 を持たせ、側の舎人を副えて遣わし、赤石で迎え奉らせた。-
清寧天皇が崩じた後、天下を治めるべき王はいなかった。
そこで皇位を継ぐ王を尋ねて、市辺忍歯別王の妹の忍海郎女。またの名は飯豊王は、
葛城 の忍海 の高木角刺宮 にいた。山部連小楯が針間播磨の国司に任ぜられた時、その国の人民で名は志自牟が新室完成の宴を開いた。
【古事記 下巻 清寧天皇段】
盛んに酒宴を楽しみ、宴もたけなわになったころ、皆が順に従って舞いを舞った。
火を焚く少年二人が竃の側にいて、その少年達にも舞わせた。
そのうちの一人の少年が「兄さん、先に舞いなさい」と言った。
その兄は「弟よ、先に舞いなさい」と言った。
こうして互いに譲り合っていると、集まった人達はその譲り合う様子を笑った。
そしてとうとう兄が舞い終わり、次に弟がまさに舞おうとしたときに詠め言声を長く引いて歌うこと。をした。
「武人である我が良人が佩く大刀の柄には赤い色を塗りつけ、その緒は赤い布で飾り、赤旗を立て、見れば恐れて隠れる。山の尾根の竹を根元から刈り、竹の末を押しなびかせるように、八絃の琴の調子を調えるように、天下を治めた伊邪本和気天皇履中天皇の御子、市辺之押歯王の賎しい子孫です」と。
小楯連はこれを聞いて驚き、床から転げ落ちた。
その室にいる人達を追い出して、その二柱の王子を左右の膝の上に据えて泣き悲しんだ。
人民を集めて仮宮を造り、その仮宮に住まわせた。
そして駅使 早馬による使者。を遣わした。
その叔母の飯豊王は知らせを聞いて喜び、宮に上らせた。
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清寧天皇3年1月1日
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清寧天皇5年1月16日
清寧天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇五年正月己丑条】 -
顕宗天皇元年4月11日
顕宗天皇は詔して「およそ人主が民を勧める所以は官を授けることである。国の興る所以は功を賞することである。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年四月丁未条】前播磨国 の司の来目部小楯は求め迎えて朕を挙した。その功は甚だしい。願いがあれば、はばかること無く言いなさい」と。
小楯が畏まって言うには「山官 の役を願わしゅうございます」と。
それで山官に任じ、姓を賜って山部連 の氏と改めた。
吉備臣 を副官とし、山守部 を民とした。
誉れを褒めて功を顕し、恩に酬いて厚く答え、寵愛を受けて、富は並ぶ者がいなかった。
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