顕宗天皇
- 名前
- 漢風諡号:顯宗天皇(けんぞうてんのう, けんぞうてんわう)顕宗天皇
- 和風諡号:弘計天皇【日本書紀】(おけのすめらみこと, をけのすめらみこと)
- 和風諡号:雄計天皇【日本書紀】(おけのすめらみこと, をけのすめらみこと)
- 弘計王【日本書紀】(おけのみこ, をけのみこ)
- 雄計王【日本書紀】(おけのみこ, をけのみこ)
- 弘計【日本書紀】(おけ, をけ)
- 雄計【日本書紀】(おけ, をけ)
- 來目稚子【日本書紀】(くめのわくご)来目稚子
- 袁祁王【古事記】(おけのみこ, をけのみこ)
- 袁祁命【古事記】(おけのみこと, をけのみこと)
- 袁祁之石巢別命【古事記】(おけのいわすわけのみこと, をけのいはすわけのみこと)袁祁之石巣別命
- 雄計皇子尊【先代旧事本紀】(おけのみこのみこと, をけのみこのみこと)
- 近飛鳥八釣宮御宇天皇【先代旧事本紀】(ちかつあすかのやつりのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 安康天皇3年10月29日)
- 没年月日
- 顕宗天皇3年4月25日
- 父
市辺押磐皇子 【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇即位前紀】
- 母
荑媛 【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇即位前紀】
- 先祖
- 配偶者
難波小野王 【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年正月是月条】
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
- 第23代
天皇
- 第23代
- 出来事
-
安康天皇3年10月
天皇顕宗天皇の父の市辺押磐皇子と
帳内 の佐伯部仲子は蚊屋野 で大泊瀬天皇に殺されて共に穴に埋められた。
天皇と億計王は父が殺されたことを聞いて恐懼し、共に逃げて身を隠した。帳内の日下部連使主とその子の吾田彦は、天皇と億計王を密かに連れて
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇即位前紀 安康天皇三年十月条】丹波国 の余社郡 で難を避けた。
使主は遂に名を改めて田疾来とした。
尚も殺されることを恐れて、ここから播磨国の縮見山 の石室に逃れ入って自ら経死した。
天皇は使主の所在を知らずに兄の億計王に勧めて、播磨国の赤石郡 に向い、共に名を改めて丹波小子 といった。
そして縮見屯倉首に仕えた。縮見屯倉首とは忍海部造細目のことである。
吾田彦はここに至るまで離れずに従い仕えた。 -
清寧天皇2年11月
播磨国司で
山部連 の先祖伊与来目部小楯が赤石郡 で自ら新嘗の供物を準備した。
あるいは郡県を巡って租税を納めたという。たまたま縮見屯倉首の新室の宴に参加して昼夜会った。
この時に天皇顕宗天皇が兄の億計王に言うには「乱が避って年数が経ちました。貴い名を顕すのはまさに今宵です」と。
億計王が嘆いて言うには「自ら名乗り出て殺されるのと、身を保って災厄を免れるのとどちらが良いか」と。
天皇が言うには「私は去来穂別天皇の孫です。しかし身を嗜み、人に仕えて牛馬の世話をしています。もし名を顕して殺されても構いません」と。
遂に億計王と抱き合って泣いた。抑えることは出来なかった。
億計王は「弟以外に誰が大事を言挙げして顕かに出来ようか」と言った。
天皇は固辞して「私は不才です。どうして大事を言挙げして顕かに出来ましょうか」と言った。
億計王は「弟は才があり、賢くて徳がある。これ以上はない」と言った。
このように互いに譲り合うこと三度。果して天皇は自ら言挙げすることを承諾した。
共に室の外に出て下座に着いた。屯倉首は竈の傍に坐らせて、あちらこちらに火を灯させた。
夜も深くなり宴もたけなわとなって、次々に舞いも終った。
屯倉首が小楯に言うには「私はこの火を灯す者を見ると、人を貴んで己を賤しくし、人を先として己を後とする。慎み敬って節に従い、譲り退いて礼を明らかとする。君子というべきでしょう」と。
そこで小楯は琴を弾いて火を灯す者に命じて「立って舞いなさい」と言った。
兄弟は互いに譲り合って立たなかった。
小楯は責めて「何をしている。遅いぞ。速く立って舞いなさい」と言った。
億計王が立って舞い終った。
次に天皇が立って自ら衣の帯を整え、室寿 して言うには「築 き立つる稚室葛根 。築き立つる柱は、此の家長 の御心の鎮 なり。取り挙ぐる。棟梁 は、此の家長の御心の林なり。取り置ける橡橑 は、此の家長の御心の斉 なり。取り置ける蘆雚 蘆雚。此云哀都利。は、此の家長の御心の平 なるなり。取り結える縄葛 は、此の家長の御寿 の堅 なり。取り葺ける草葉 は、此の家長の御富 の余 なり。出雲は新墾 。新墾の十握稲 の穂を、浅甕 に釀 める酒、美 にを飲喫 ふるかわ美飮喫哉。此云于魔羅爾烏野羅甫屢柯倭也。。吾 が子等 。脚日木 の此の傍山 に、牡鹿 牡鹿。此云左鳴子加。の角 挙 げて吾が儛 すれば、旨酒 餌香 の市 に直 以 て買わぬ。手掌 も摎亮 に手掌摎亮。此云陀那則擧謀耶羅羅儞。拍 ち上げ賜 いつ、吾が常世等 」と。
寿き終り、歌の節にあわせて歌を詠んだ。「
伊 儺 武 斯 廬 呵 簸 泝 比 野 儺 擬 寐 逗 喩 凱 麼 儺 弭 企 於 己 陀 智 曾 能 泥 播 宇 世 儒 」小楯は「面白い。また聞きたいものだ」と言った。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇即位前紀 清寧天皇二年十一月条】
天皇は遂に殊儛 殊儛。古謂之立出儛。立出。此云陀豆豆(校異:此云陀陀豆豆)。儛状者乍起乍居而儛之。をして、叫んで言うには「倭 は彼彼茅原 、浅茅原 。弟日 、僕 らま」と。
小楯は深く怪しんで、更に言わせた。
天皇が叫んで言うには「石上 の振 の神榲 榲。此云須擬。。本伐 り、末截 い伐本截末。此云謨登岐利須衞於茲波羅比。。市辺宮 に天下 治 しし、天万国万押磐尊の御裔 。僕 らま」と。
小楯は大いに驚いて席を離れ、心を痛めて再拝した。一族を率いて謹んで仕えた。
ここに郡 の民を集めて宮を造った。日も経たずに完成した宮を仮宮とした。
そして京都 に詣でて、二王を迎えることを求めた。白髪天皇はこれを聞いて喜び、歎いて言うには「朕には子が無い。嗣 とするによい」と。
そして大臣・大連と相談して、播磨国司の来目部小楯に節 を持たせ、側の舎人を副えて遣わし、赤石で迎え奉らせた。-
清寧天皇元年11月
-
清寧天皇が崩じた後、天下を治めるべき王はいなかった。
そこで皇位を継ぐ王を尋ねて、市辺忍歯別王の妹の忍海郎女。またの名は飯豊王は、
葛城 の忍海 の高木角刺宮 にいた。山部連小楯が針間播磨の国司に任ぜられた時、その国の人民で名は志自牟が新室完成の宴を開いた。
【古事記 下巻 清寧天皇段】
盛んに酒宴を楽しみ、宴もたけなわになったころ、皆が順に従って舞いを舞った。
火を焚く少年二人が竃の側にいて、その少年達にも舞わせた。
そのうちの一人の少年が「兄さん、先に舞いなさい」と言った。
その兄は「弟よ、先に舞いなさい」と言った。
こうして互いに譲り合っていると、集まった人達はその譲り合う様子を笑った。
そしてとうとう兄が舞い終わり、次に弟がまさに舞おうとしたときに詠め言声を長く引いて歌うこと。をした。
「武人である我が良人が佩く大刀の柄には赤い色を塗りつけ、その緒は赤い布で飾り、赤旗を立て、見れば恐れて隠れる。山の尾根の竹を根元から刈り、竹の末を押しなびかせるように、八絃の琴の調子を調えるように、天下を治めた伊邪本和気天皇履中天皇の御子、市辺之押歯王の賎しい子孫です」と。
小楯連はこれを聞いて驚き、床から転げ落ちた。
その室にいる人達を追い出して、その二柱の王子を左右の膝の上に据えて泣き悲しんだ。
人民を集めて仮宮を造り、その仮宮に住まわせた。
そして駅使 早馬による使者。を遣わした。
その叔母の飯豊王は知らせを聞いて喜び、宮に上らせた。
-
-
清寧天皇3年1月1日
-
清寧天皇3年4月7日仁賢紀では立太子を清寧天皇2年4月とする。
億計王が皇太子となる。
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇三年四月辛卯条, 日本書紀 巻第十五 顕宗天皇即位前紀 清寧天皇三年四月条】
弘計王が皇子となる。 -
清寧天皇5年1月16日
清寧天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇五年正月己丑条, 日本書紀 巻第十五 顕宗天皇即位前紀 清寧天皇五年正月条】 - ・・・
-
まさに天下を治めようとする頃に、
平群臣 の祖で名は志毘臣が歌垣に立ち、その袁祁命が求婚しようとした美人の手を取った。
その少女は菟田首の女で名は大魚という。
袁祁命もまた歌垣に立った。
ここで志毘臣が歌を詠んだ。「
意 富 美 夜 能 袁 登 都 波 多 傳 須 美 加 多 夫 祁 理 」このように歌い、その歌の末の句を求めた時に袁祁命が歌を詠んだ。
「
意 富 多 久 美 袁 遲 那 美 許 曾 須 美 加 多 夫 祁 禮 」志毘臣がまた歌を詠んだ。
「
意 富 岐 美 能 許 許 呂 袁 由 良 美 淤 美 能 古 能 夜 幣 能 斯 婆 加 岐 伊 理 多 多 受 阿 理 」王子がまた歌を詠んだ。
「
斯 本 勢 能 那 袁 理 袁 美 禮 婆 阿 蘇 毘 久 流 志 毘 賀 波 多 傳 爾 都 麻 多 弖 理 美 由 」志毘臣はいよいよ怒って歌を詠んだ。
「
意 富 岐 美 能 美 古 能 志 婆 加 岐 夜 布 士 麻 理 斯 麻 理 母 登 本 斯 岐 禮 牟 志 婆 加 岐 夜 氣 牟 志 婆 加 岐 」王子がまた歌を詠んだ。
「
意 布 袁 余 志 斯 毘 都 久 阿 麻 余 斯 賀 阿 禮 婆 宇 良 胡 本 斯 祁 牟 志 毘 都 久 志 毘 」このように歌って闘い、夜が明けてそれぞれ退いた。
翌朝、意富祁命・袁祁命の二柱が相談して「およそ朝廷に仕える人々は、朝は朝廷に参内し、昼は志毘臣の家の門に集まる。また今は志毘臣はきっと寝ていてる。またその門には人もいない。だから今でなければ、
【古事記 下巻 清寧天皇段】謀 を実行するのは難しいだろう」と。
そこで軍を興して志毘臣の家を囲んで殺した。
-
-
清寧天皇5年1月
-
清寧天皇5年11月
飯豊青尊が崩原文ママ。じる。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇即位前紀 清寧天皇五年十一月条】
葛城埴口丘陵 校異:埴日・垣口に葬った。 -
清寧天皇5年12月
百官が大いに集まった。
皇太子億計は天皇の璽を取って天皇の坐に置いた。
再拝して諸臣の位置について言うには「この天皇の位は、功ある者がつくべき所である。貴きを表して迎えられたのは、全て弟が考えたことによるものである」と。
そして天下を天皇に譲った。
天皇後の顕宗天皇。は弟であることを顧みて、敢えて即位しなかった。
また白髪天皇が先に兄に伝えようとして皇太子を立てたことを受けて、何度も固辞して言うには「日月が出ても灯火を止まずにおけば、その火の光はかえって煩わしいでしょう。雨が降って猶も作物に水をやれば無意味に疲れます。人の弟として貴いことは、兄に仕え、難を逃れるように謀り、徳を照らし、紛争を解決し、表に出ないことです。即ち表に出れば、弟として恭敬の義に背きます。私はそんな立場に居るに忍びない。兄が慈しみ、弟が敬うことは。不易の典です。これを古老に聞きました。どうして軽々しく動けましょうか」と。
皇太子億計が言うには「白髪天皇は私が兄だということで天下の事は先ず私が嘱されました。私はそれを恥ずかしく思います。思えば大王がはじめ巧みに身を隠すことを考えられました。聞く者は歎息しました。帝孫ということを顕わにする時に見る者は涙しました。憂える百官は天を頂く喜びを感じました。哀しむ人民は地を踏む恩を感じました。こりにより良く四方は固まって、永く万代まで栄えるでしょう。その功は万物創造に近く、清き計りごとは世を照らしています。超越していてうまく表現も出来ません。兄だからといって、どうして先に即位出来ましょうか。功無く即位すれば咎めや悔いが必ずやってきます。私が聞くところによると『天皇の位を永く空しくしてはならない。天命を拒んではならない』といいます。大王は社稷を以って計らいとし、人民を以って心として下さい」と。
言を発すうちに高揚して涙を流すに至った。天皇は即位しまいと思っていたが、兄の意に逆らえずに聞き入れた。しかし御坐にはつかなかった。
世の人はその誠を以って譲ったことを嘉事として言うには「宜しいことだなあ。兄弟が喜びやわらいで。天下は徳に帰した。親族が睦まじいと、民にも仁の心が興るだろう」と。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇即位前紀 清寧天皇五年十二月条】 -
顕宗天皇元年1月1日
大臣・大連らが奏上して「皇太子億計は聖徳明らかに茂り、天下をお譲り奉りました。陛下は正統でいらっしゃいます。
鴻緒 をお受けになり、天下の主として皇祖の無窮の勢いを受け継いで、上は天の心に当り、下は民の望みを満足させて下さい。践祚をご承知頂けませんと、金銀を出す隣国の群僚など、遠近全てが失望致します。天命に属くことは大事なことでございます。皇太子は推し譲られました。聖徳はいよいよ盛んになり、幸いは甚だ明らかでございます。幼いころから謹しみ敬い、慈しみに順っていらっしゃいました。兄の命をお受けになり、大業を受け継いで頂きたく存じます」と。
詔して「ゆるす」と。
そして公卿・百僚を召して近飛鳥八釣宮 で天皇に即位した。
百官はみな喜んだ。ある書では弘計天皇の宮は二ヶ所あり、一宮は
少郊 、二宮は池野 にあったという。またある書では
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年正月己巳朔条】甕栗 に宮を造ったという。-
【古事記 下巻 顕宗天皇段】近飛鳥宮 にて天下を治めた。 -
顕宗天皇元年1月1日
-
-
顕宗天皇元年1月
難波小野王を立てて皇后とする。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年正月是月条】
天下に恩赦する。
難波小野王は雄朝津間稚子宿禰天皇の曽孫。磐城王の孫。丘稚子王の女である。 -
顕宗天皇元年2月5日
詔して「先王父の市辺押磐皇子を指す。は難事に多く遭い、荒野に落命された。朕は幼年で、逃げて身を隠したが、みだりに求め迎えられて大業を継いだ。御骨を広く探しても、よく知る者はいない」と。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年二月壬寅条】
詔が終わって皇太子億計と声を出して泣いた。堪えることは出来なかった。 -
顕宗天皇元年2月
耆宿を集めて天皇自ら尋ねた。
一人の老婆が進み出て言うには「置目は御骨が埋まっている場所を存じております。お示し致します」と。
置目とは老婆の名である。近江国 の狭狭城山君 の祖倭帒宿禰の妹で、名を置目という。そこで天皇と皇太子億計は老婆を連れて、近江国の
来田綿 の蚊屋野 の中に行幸して掘り出して見てみると、はたして老婆の言葉のとおりであった。
穴を覗いて号泣し、嘆き悲しんだ。
古よりこのかた、このような酷いことはなかった。
仲子の屍は御骨に交わって見分けがつかなかった。
磐坂皇子の乳母が奏上して「仲子は上の歯が抜けておりますので、これで判別できます」と。
乳母の言うとおりに髑髏 を分けてみたが、ついに手足や胴体は判別出来なかった。それで蚊屋野の中に二つの陵を造って全く同じように似せた。
葬儀も異なるところは無かった。老婆置目に詔して宮のそばに住まわせた。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年二月是月条】
崇め恵んで不自由のないようにした。-
天皇が父王の市辺王の御骨を探していた時、
淡海国 にいる賤しい老婆が参内して言うには「王子の御骨を埋めた場所を私はよく存じております。またその御歯で確認出来ましょう」と。
御歯は三技のような押歯 三つに割れた八重歯。だった。そこで民を集めて土を掘ると、その御骨を見つけることが出来た。
その御骨を得ると、蚊屋野 の東の山に御陵を造って葬った。
そして韓帒の子達にその陵を守らせた。
然る後に、その御骨を持って帰国した。還幸すると、その老婆を召し、忘れずにその地を覚えていたことを誉め、名を賜って置目老媼とした。
【古事記 下巻 顕宗天皇段】
そして宮の内に入れて、敦く広く慈しんだ。
それでその老媼の住む家を宮の側に造って毎日必ず召した。
-
-
顕宗天皇元年2月
詔して「老婆は孤独でやつれて歩くのも不自由している。縄を張って引き渡し、それに掴まって出入りしなさい。縄の端に
鐸 を掛けて、取り次ぎの者に手間をかけさせぬように、入ったら鳴らしなさい。お前が来たことを朕が分るように」と。老婆は詔を受けて鐸を鳴らして入った。
天皇は遠くに鐸の音を聞いて歌を詠んだ。「
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年二月是月条】阿 佐 膩 簸 囉 嗚 贈 禰 嗚 須 擬 謨 謀 逗 拕 甫 奴 底 喩 羅 倶 慕 與 於 岐 每 倶 羅 之 慕 」-
鐸 大きな鈴。を大殿の戸に掛けて、その老媼を召す時に必ずその鐸を引き鳴らした。
そこで御歌を作った。その歌にいう。「
【古事記 下巻 顕宗天皇段】阿 佐 遲 波 良 袁 陀 爾 袁 須 疑 弖 毛 毛 豆 多 布 奴 弖 由 良 久 母 於 岐 米 久 良 斯 母 」
-
-
顕宗天皇元年3月
御苑に行幸して曲水の宴を催す。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年三月上巳条】 -
顕宗天皇元年4月11日
-
顕宗天皇元年5月
-
顕宗天皇元年6月
避暑殿に行幸して奏楽を聞いた。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年六月条】
群臣を集めて酒食を設けた。 -
顕宗天皇2年3月3日
御苑に行幸して曲水の宴を催した。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇二年三月上巳条】
この時に公卿大夫・臣・連・国造・伴造を集めて宴を楽しんだ。
群臣は頻りに万歳を称えた。 -
顕宗天皇2年8月1日
天皇が皇太子億計に言うには「我が父である先王には罪は無い。大泊瀬天皇に射殺され、骨を郊野に棄てられた。今に至るまで得ることが出来ていない。憤りと歎きが心を満たしてしまっている。臥しては泣き、行っては叫び、恥を雪ぎたいと思う。私が聞くところによると『父の仇とは共に天を戴かず、兄弟の仇とは常に戦う備えをして、友の仇とは国を同じくしない』という。匹夫の子でも父母の仇のために
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇二年八月己未朔条】苫 に寝て、干 を枕にして仕えず。国を共にせず、どんな場所でも遭遇すれば常に戦う備えをする。なおさら私が立って天子たること二年。その陵を壊し、摧骨を砕いて投げ散らしたいと思う。今これを報いとすれば、孝行にならないだろうか」と。
皇太子億計は歎いて答えることが出来なかった。
そして諌めて言うには「なりません。大泊瀬天皇は政を正しく統べて天下を照臨しました。国内外が喜び仰ぐのは天皇の力でございます。我が父である先王は天皇の御子といえども、難行に遭い、天位に登られませんでした。これを見れば尊卑は別なのでございます。それを陵墓を壊してしまえば、誰を人主として天の御霊にお仕え出来ましょうか。それが壊してはならない理由の一つ目でございます。また天皇と億計は白髪天皇の厚い寵愛、特別な御恩を蒙らなければ、どうして宝位に臨めましょうか。大泊瀬天皇は白髪天皇の父でございます。億計は諸々の耆宿に聞きました。耆宿が言うには『言葉は報いられないことはなく、徳は答えられないことはない。恵みがあっても答えなければ、人を深く損なうことになる』と。陛下は国を豊かになさり、徳行は天下に広く聞こえております。陵を壊して内外に示せば、国に臨んで民を子とすることは恐らく出来ないでしょう。それが壊してはならない理由の二つ目でございます」と。
天皇は「その言や良し」と言って役を止めさせた。-
天皇はその父王を殺した大長谷天皇を深く怨んで、その御霊に復讐しようと思った。
それでその大長谷天皇の御陵を壊そうとして人を遣わした時に、その同母兄の意富祁命が奏上して「この御陵を破壊するのに他人を遣わしてはなりません。私が行って天皇の御心の如く破壊して参りましょう」と。
天皇は「それならば命に従って行きなさい」と言った。意富祁命は自ら行って、その御陵のそばを少し掘って帰還し、復命して「既に掘り壊しました」と言った。
【古事記 下巻 顕宗天皇段】
天皇は帰還が早かったことを怪しんで「どのように破壊したか」と言うと、「その陵のそばの土を少し掘りました」と答えた。
天皇が「父王の仇を報いようと思えば、必ずその陵の全てを破壊しようと思うのに、なぜ少し掘ろうと思うか」と言うと、答えて「父王の怨みであり、その霊に報いようと思いますのは道理でございます。しかしその大長谷天皇は父の怨みといえども、我が従父正確には叔従父。であり、また天下を治めた天皇でもあります。いま父の仇という志を取り、天下を治めた天皇の陵を全て破壊すれば、後人が必ず誹謗するでしょう。それで父王の仇は報いずに、少しその陵のそばを掘って恥をかかせば、後の世に示せます」と。
このように奏上し、天皇は「これもまた道理に適っている。それでよい」と答えた。
-
-
顕宗天皇2年9月
置目が老いに苦しんで、帰還を望んで言うには「気力は衰え耄碌しました。縄の助けを借りても進み歩くことが出来ません。願わくは故郷に帰って、その終りを送ろうと思います」と。
天皇はこれを聞いて心を痛め、沢山の物を賜った。
別れることを悲しみ、再び会うのが難しいことを嘆いた。
そして歌を賜った。「
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇二年九月条】於 岐 每 慕 與 阿 甫 瀰 能 於 岐 每 阿 須 用 利 簸 瀰 野 磨 我 倶 利 底 彌 曳 孺 哿 謨 阿 羅 牟 」-
置目老媼は「私はひどく老いました。本国に帰ろうと思います」と言った。
それで帰国する時に天皇は見送って歌を詠んだ。「
【古事記 下巻 顕宗天皇段】意 岐 米 母 夜 阿 布 美 能 於 岐 米 阿 須 用 理 波 美 夜 麻 賀 久 理 弖 美 延 受 加 母 阿 良 牟 」
-
-
天皇が難を逃れた時に食料を奪った
【古事記 下巻 顕宗天皇段】猪甘 の老人を探した。
これを見つけて呼び出し、飛鳥河 の河原で斬った。
その族の膝の筋を断った。
これにより今に至るまで、その子孫が倭 に参上する時には、必ず脚を引きずるのである。
それで老人の居た所をよく見させた。それでその地を志米須 というのである。 -
顕宗天皇2年10月6日
群臣と宴を催した。
この時天下は平安で、民は徭役も無かった。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇二年十月癸亥条】
穀物は稔り、人民は富み栄えた。
稲一斛 は銀銭一文で取引され、牛馬は野に蔓延った。 -
顕宗天皇3年2月1日
-
顕宗天皇3年3月3日
御苑に行幸して曲水の宴を催す。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇三年三月上巳条】 -
顕宗天皇3年4月5日
-
顕宗天皇3年4月13日
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇三年四月戊辰条】福草部 を置く。 -
顕宗天皇3年4月25日
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇三年四月庚辰条】八釣宮 で崩じる。-
天皇の御年三十八歳。
【古事記 下巻 顕宗天皇段】
天下を治めること八年。
-
-
顕宗天皇3年
-
仁賢天皇元年10月3日
【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年十月己酉条】傍岳磐杯丘陵 に葬られる。-
御陵は
【古事記 下巻 顕宗天皇段】片岡之石坏岡上 にある。 -
仁賢天皇元年10月3日
【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 仁賢天皇元年十月己酉条】傍丘磐坏丘陵 に葬られる。
-