高御産巣日神

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キーワード
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生年月日
( ~ 戊午年9月5日)
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称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 別天神ことあまつかみ【古事記 上巻】
出来事
  • 高天原に独神として生まれ、身を隠した。別天神という。

    【古事記 上巻】
    • 天地が初めて分かれたときに、高天原に二番目に誕生する。

      【日本書紀 巻第一 神代上第一段 一書第四】
    • 天地が分かれる初め、天の中に二番目に誕生する。

      【古語拾遺 一巻】
    • 神世七代の七代目として並んで誕生した伊奘諾尊伊奘冉尊とは別に、同じ七代目として、また独化天神第六世の神として誕生する。

      【先代旧事本紀 巻第一 神代系紀】
  • 天照大神天石窟(あまのいわや)にこもった際に、八十万神(やそよろずのかみ)天八湍河原(あまのやすのかわら)に集めて方策を立てさせた。

    【古語拾遺 一巻】
  • ・・・
    • はじめ大己貴神が国を平定する時に、出雲国の五十狭狭(いささ)小汀(おはま)に行って、飲食をしようとした時、海の上に突然人の声がしたので、驚いて探したが、何も見えなかった。
      しばらくして一人の小男が、白蘞(やまかがみ)の皮で舟を作り、鷦鷯(さざき)ミソサザイの古名。鷦鷯。此云娑娑岐。の羽で衣を作り、潮流に従って浮かび来た。大己貴神はそれを掌の中に置いて、玩んでいると、跳ねてその頬を嚙んだ。それでその姿を怪しんで、天神に遣いを送って報告した。
      この時、高皇産霊尊はこれを聞いて「私が生んだ子は、全てで千五百柱いる。その中の一子がとても悪く、教えに順わなかった。指の間から漏れ落ちたのが、きっと彼だろう。可愛がって育ててくれ」と言った。これが少彦名命である。

      【日本書紀 巻第一 神代上第八段 一書第六】
  • ・・・
    • 天照太神は「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいおあきなが)瑞穂国(みずほのくに)は、我が御子正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が治めるべき国である」と詔した。
      委任の詔を賜って天降る時、高皇産霊尊の子である思兼神の妹の万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命を妃とした。
      そして天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が誕生した時、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が言うには「私が天降る準備をする間に子が生まれました。この子を降そうと思います」と。詔してこれを許した。
      天神の御祖は詔して天璽瑞宝十種(あまつしるしみつのたからとくさ)を授けた。
      所謂嬴都鏡(おきつかがみ)一つ。
      辺都鏡(へつかがみ)一つ。
      八握剣(やつかのつるぎ)一つ。
      生玉(いくたま)一つ。
      死反玉(よみかえしのたま)一つ。
      足玉(たるたま)一つ。
      道反玉(ちかえしのたま)一つ。
      蛇比礼(へみのひれ)一つ。
      蜂比礼(はちのひれ)一つ。
      品物比礼(くさぐさのもののひれ)一つである。
      天神の御祖は詔して「もし痛むところがあれば、この十宝に『一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。ふるべ、ゆらゆらとふるべ布瑠部。由良由良止布瑠部。』と言いなさい。そうすれば、死人は生き返ります」と教えた。これが所謂布瑠之言(ふるのこと)のもとである。
      高皇産霊尊は「もし葦原中国の敵、神人を拒んで待ち戦う者があれば、よく謀り、欺き防いで平らげなさい」と勅して、三十二人に防衛を命じ、御共として天降らせた。
      五部人を副え、御共として天降らせた。
      五部造(いつとものみやつこ)伴領(とものみやつこ)と為し、天物部(あまのもののべ)を率いて、御共として天降らせた。
      天物部(あまつもののべ)ら、二十五部人(はたちあまりいつとものおのかみ)。同じく兵杖を帯びて、御共として天降らせた。
      船長、同じく梶取らを共に率いて、御共として天降らせた。

      饒速日尊は天神の御祖の詔を受け、天磐船(あめのいわふね)に乗って河内国の河上の哮峰(いかるかのみね)に天降った。そして大倭国(やまとのくに)鳥見(とみ)白庭山(しらにわのやま)に遷った。天磐船に乗って大空を翔けり行き、この鄉を巡り見て天降ったのである。所謂『虚空見日本国(そらみつやまとのくに)』はこれか。
      饒速日尊長髄彦の妹の御炊屋媛を娶って妃とした。そして妊娠したが、まだ産まれないうちに饒速日尊は亡くなった。
      まだ報せが天に上らないうちに、高皇産霊尊は速飄神に「我が神御子饒速日尊を葦原中国に遣わしたが、怪しく思うところある。お前が降って復命しなさい」と詔した。
      速飄神は命を受けて天降り、亡くなっているのを見て、帰り上って「神御子は既に亡くなっております」と復命した。高皇産霊尊は哀れに思い、速飄命を遣わして天に上らせ、その神の亡骸を置いて七日七夜遊楽・哀泣して天上に収めた。

      ニギハヤヒの死後、ニニギ降臨に続く。
      【先代旧事本紀 巻第三 天神本紀】
  • 天照大神の子の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊は、高皇産霊尊の女の栲幡千千姫を娶り、天津彦彦火瓊瓊杵尊を生んだ。それで皇祖高皇産霊尊は特に可愛がって大事に育てた。

    遂に皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国(あしはらのなかつくに)の主にしたいと思った。
    しかしその地には、蛍火のように輝く神や、騒がしくて従わない神が多くいた。また草木はよく物を言っておびやかした。
    それで高皇産霊尊は八十諸神を召し集めて、「私は葦原中国の邪鬼を払い平らげたいと思う。誰を遣わすのがよいだろうか。諸神は知っていることを隠してはならぬぞ」と尋ねた。皆は「天穂日命は神の中で傑出して御座います。お試しになるのがよいかと存じます」と言った。
    そこで皆の言葉に順って、天穂日命を送って平定させた。しかしこの神は、大己貴神におもねり媚びて、三年間復命しなかった。
    それでその子の大背飯三熊之大人、またの名は武三熊之大人を遣わしたが、これもまたその父に順って復命しなかった。
    それで高皇産霊尊はまた諸神を集めて誰を遣わすかを尋ねた。皆は「天国玉の子の天稚彦は壮士で御座います。お試しになるのがよいかと存じます」と言った。
    そこで高皇産霊尊は天稚彦天鹿児弓(あまのかごゆみ)天羽羽矢(あまのははや)を賜って遣わした。この神もまた忠誠ではなかった。
    到着すると、顕国玉の女の下照姫(またの名は高姫。またの名は稚国玉)を娶り、留り住んで「私もまた葦原中国を治めたいと思う」と言った。遂に復命しなかった。
    この時高皇産霊尊は久しく復命しないことを怪しんで、名も無い雉を遣わして探らせた。その雉は飛び降りて、天稚彦の門前に立つ湯津杜木(ゆつかつら)の梢に止まった。天探女はこれを見て、天稚彦に「不思議な鳥が杜の梢に降りました」と言った。天稚彦は高皇産霊尊から賜った天鹿児弓・天羽羽矢を取って、雉を射殺した。その矢は雉の胸を貫いて、高皇産霊尊の御前に届いた。高皇産霊尊はその矢を見て、「この矢は、昔私が天稚彦に賜った矢である。血が矢に付いている。おそらく国神と戦ったのだろう」と言った。そこで矢を取って投げ返して下した。その矢は落ち下って、天稚彦の胸に当たった。この時天稚彦は、新嘗をして休んで寝ていた時で、矢が当たって死んでしまった。これを世の人が、反矢可畏(かえしやいむべし)原文ママ。というもとである。
    天稚彦の妻の下照姫は泣き悲み、声は天にまで達した。この時天国玉はその泣き声を聞いて、天稚彦が死んだことを知った。それで疾風(はやち)を使い、屍を上げて天に戻した。そして喪屋を造って(もがり)をした。
    川鴈(かわかり)持傾頭者(きさりもち)日本書紀私記曰く、葬送時に死者の食を持つ者。及び持帚者(ははきもち)葬送後に喪屋を掃くための箒を持つ者。とした(あるいは(かけ)ニワトリの古名。を持傾頭者とし、川鴈を持帚者としたという)。また雀を舂女(つきめ)お備えの米をつくという意味か。(あるいは川鴈を持傾頭者とし、また持帚者とし、(そび)尸者(ものまさ)神霊の代わりに立って祭りを受ける者。とし、雀を舂者とし、鷦鷯(さざき)ミソサザイの古名。哭者(なきめ)葬送時に泣く役。とし、(とび)造綿(わたつくり)綿を水に浸して死者を沐浴させる者。とし、烏を宍人者(ししひと)死人に食を具える者。としたという。すべて諸々の鳥に事を任せた)とした。そして八日八夜、泣き悲しんで偲んだ。

    これより先、天稚彦が葦原中国にいる時、味耜高彦根神と仲がよかった。そこで味耜高彦根神は天に昇って喪を弔った。この神の容貌は、生前の天稚彦に実に似ていた。
    それで天稚彦の親族妻子は皆「我が君は死なずにおられたのだ」と言って、衣の帯によじかかって喜び、また泣き叫んだ。味耜高彦根神は怒りを露にして「朋友の道理として弔うのだから、穢れを憚らずに、遠くから参って哀しむのだ。なぜ私を死者と間違うのか」と言うと、その帯びている大葉刈(おおはがり)(またの名は神戸剣(かむどのつるぎ))を抜いて、喪屋を斬り伏せた。これが落ちて山となった。今、美濃国の藍見川(あいみがわ)のそばにある喪山がこれである。世の人が死人に間違われることを嫌うのは、これがそのもとである。

    この後、高皇産霊尊はまた諸神を集めて、葦原中国に遣わす者を選んだ。皆は「磐裂根裂神の子の磐筒男磐筒女が生んだ子の経津主神が良いでしょう、」と言った。
    時に天石窟(あまのいわや)に住む神で、稜威雄走神の子の甕速日神甕速日神の子の熯速日神熯速日神の子の武甕槌神。この神が進み出て「どうして経津主神だけが丈夫(ますらお)で、私は丈夫ではないのですか」と言った。その語気が大変激しかったので、経津主神に副えて、葦原中国を平定させた。

    二神は出雲国の五十田狭(いたさ)小汀(おはま)に降り、十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて、逆さまに地に突き立てて、その剣先にしゃがんで、大己貴神に問うには、「高皇産霊尊は皇孫をお降しになって、この地に君臨させるおつもりである。それで先に我々二神が遣わされて平らげるのである。お前の考えはどうだ。去るのか否か」と。大己貴神は「我が子に聞いて、その後に報告したいと思います」と答えた。
    この時その子の事代主神は出かけて、出雲国の三穂(みほ)の崎で釣りを楽しんでいた。あるいは、鳥射ちを楽しんでいたともいう。そこで熊野諸手船(くまののもろたふね)、またの名を天鴿船(あめのはとぶね)稲背脛を乗せて遣わした。そして高皇産霊尊の勅を事代主神に伝えて、返答の言葉を尋ねた。事代主神は使者に「天神が仰せになるのです。父はお去りになるのが宜しいでしょう。私もまた違えることはしません」と言った。そして海中に八重蒼柴籬(やえのあおふしかき)を造り、船の側板を渡って去った。使者は還って復命した。それで大己貴神は子の言葉を、二神に報告して「私が頼みとした子は、既に去りました。私もまた去りたいと思います。もし私が戦い防ぐことがあれば、国内の諸神は必ず一緒に戦うでしょう。今私が去れば、あえて従わないという者は誰もいないでしょう」と言った。
    そして国を平らげる時に用いた広矛(ひろほこ)を二神に渡して言うには、「私はこの矛を使って事を成し遂げました。天孫がもしこの矛をお使いになって国をお治めになれば、必ずや平安となるでしょう。私は今まさに幽界に去りたいと思います」と。言い終わると遂に去っていった。
    二神は従わない諸神を誅して復命した。
    あるいは、二神は遂に邪神及び草・木・岩の類を誅して、全て平らげた。従わない者は、星神の香香背男のみとなった。そこで倭文神建葉槌命を遣わして服従させた。そして二神は天に登ったという。

    高皇産霊尊は、真床追衾(まとこおうふすま)床を覆う衾。で皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆って降らせた。

    【日本書紀 巻第二 神代下第九段】
    • 天神は経津主神武甕槌神を遣わして、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定させた。
      時に二神が言うには、「天に悪い神がいて、名を天津甕星。またの名を天香香背男といいます。どうか先にこの神を誅した後に、葦原中国を平定させてください」と。この時に斎主神斎之大人といった。この神は今東国(あずま)楫取(かじとり)の地にいる。
      二神は出雲の五十田狭(いたさ)小汀(おはま)に着いた。そして大己貴神に「お間はこの国を、天神に奉るのか否か」と問うと、「疑います。あなた方二神が私の所へいらっしゃったのではありませんか。許せません」と答えた。そこで経津主神は還り昇って報告した。
      この時高皇産霊尊は、また二神を遣わし、大己貴神に勅して「今お前が言うことを聞くと、深く理に適っている。そこで詳しく条件を勅そう。お前が治める現世の事は、私の孫が治めるべきである。お前は神事を治めるのがよいだろう。またお前が住むべき天日隅宮(あまのひすみのみや)は、今まさに造るが、千尋の栲縄で、しっかり結ぼう。その宮を造るきまりは、柱は高く太く、板は広く厚くしよう。また田を作って与えよう。またお前が海に通って海ぶために、高橋・浮橋・天鳥船を造ろう。また天安河(あまのやすのかわ)に打橋を造ろう。また供しっかりと縫った白楯を造ろう。またお前の祭祀を司るのは天穂日命である」と。そこで大己貴神は「天神のお教えは慇懃で御座います。あえて御下命に従わないことがありましょうか。私が治める現世の事は、皇孫がお治めになるべきです。私は退いて幽事を治めましょう」と言って、岐神を二神に薦めて言うには、「この神が私の代わりとしてお仕え奉ります。私はここから去りましょう」と。そして体に八坂瓊(やさかに)の瑞をつけて、長く隠れた。
      それで経津主神岐神を先導とし、巡り歩いて平定した。逆らう者がいれば斬り殺した。帰順する者には褒美を与えた。
      この時帰順した首長は、大物主神事代主神である。そして八十万神(やそよろずのかみ)天高市(あまのたけち)に集め、率いて天に昇り、誠の心を述べた。
      高皇産霊尊は大物主神に「お前がもし国神を妻とするなら、私はお前が親しい心ではないと思う。そこで私の(むすめ)三穂津姫をお前の妻にしよう。八十万神を率いて、永く皇孫の為に護り奉れ」と勅して、還り降らせた。そして紀伊国(きいのくに)忌部(いんべ)の遠祖手置帆負神作笠(かさぬい)とした。彦狭知神作盾(たてぬい)とした。天目一箇神作金(かなだくみ)とした。天日鷲神作木綿(ゆうつくり)とした。櫛明玉神作玉(たますり)とした。
      太玉命を、弱い肩に太い手繦(たすき)をかけるように、天孫に代わってこの神を祭るのは、始めてここから起こった。
      また天児屋命は神事の源を司る神である。それで太占(ふとまに)の占いを以って仕えた。
      高皇産霊尊は勅して「私は天津神籬(あまつひもろき)天津磐境(あまついわさか)を立てて、我が孫の為に斎き祭ろう。お前たち天児屋命太玉命は、天津神籬を持って葦原中国に降り、我が孫の為に斎き祭れ」と。そして二神を天忍穂耳尊に副えて降らせた。
      この時天照大神は手に宝鏡を持って、天忍穂耳尊に授けて、祝って言うには、「我が子がこの宝鏡を見るときは、私を見ることのようにしなさい。共に床を同じくし、部屋を一つにして、(いわい)の鏡としなさい」と。また天児屋命太玉命に勅して「お前たち二神もまた、共に部屋の中に侍って、よく防護せよ」と。また勅して「我が高天原(たかまのはら)にある斎庭(ゆにわ)の穂を、我が子に与えなさい」と。そして高皇産霊尊の女の万幡姫天忍穂耳尊にあてて妃として降らせた。
      この時に空中で生まれた子を名付けて天津彦火瓊瓊杵尊という。そこでこの皇孫を親の代わりに降らせた。天児屋命太玉命及び諸々の(とものお)の神を、皆すべて授けた。また衣服は、前例のとおりに授けた。その後、天忍穂耳尊はまた天に還った。

      【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第二】
    • 高皇産霊尊は真床覆衾(まとこおうふすま)天津彦国光彦火瓊瓊杵尊に着せ、天磐戸(あまのいわと)を開け、天八重雲(あまのやえたなくも)を押し分けて降らせた。

      【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第四】
    • 天忍穂根尊は高皇産霊尊の女


      栲幡千千姫万幡姫命(または高皇産霊尊の子の火之戸幡姫の子の千千姫命という)を娶り、生まれた子は天火明命。次に生まれたのは天津彦根火瓊瓊杵根尊

      皇孫火瓊瓊杵尊葦原中国(あしはらのなかつくに)に降らせるに至り、高皇産霊尊は八十諸神に勅して「葦原中国は、岩根・木の株・草の葉もよく物を言う。夜は火の穂のように騒がしく響き、昼は蠅のように沸きあがる。云々。

      時に高皇産霊尊は勅して「昔天稚彦を葦原中国に遣わしたが、今に至るまで久しく参らぬわけは、国神に抵抗する者がいるからであろう」と。そして名無しの雄雉を遣わした。この雉が飛び降りて、粟田・豆田を見ると、留まって帰らなかった。これが世のいわゆる「雉頓使(きじのひたつかい)」のもとである。それでまた名無しの雌雉を遣わした。この鳥が飛び降りると、天稚彦が射た矢に当り、上って報告した。云々。

      この時高皇産霊尊は真床覆衾(まとこおうふすま)を皇孫天津彦根火瓊瓊杵根尊に着せて、天八重雲(あまのやえたなくも)を押し分けて降らせた。それでこの神を称えて天国饒石彦火瓊瓊杵尊という。この時降り着いた所を日向(ひむか)()高千穂(たかちほ)添山(そおりのやま)の峰という。

      【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第六】
    • 娘の天万栲幡千幡姫、あるいは子の万幡姫の女の玉依姫命。この神が天忍骨命の妃となり、天之杵火火置瀬尊を生む。

      【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第七】
    • 娘の天万栲幡千幡姫正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊の妃となり、生まれた子を名付けて天照国照彦火明命という。次に天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊

      【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第八】
    • 天照大御神は「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきのながいほあきのみずほのくに)は、我が御子である正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が治めるべき国である」と言って、天降らせた。
      天忍穂耳命天浮橋(あまのうきはし)に立って、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国は、ひどく騒がしいということである」と言うと、上り帰って天照大神に報告した。

      そこで高御産巣日神と天照大御神の命令で、天安河(あまのやすのかわ)の河原に八百万神を集めて、思金神に「この葦原中国(あしはらのなかつくに)は、我が御子が治める国として委任した国である。しかしこの国には道速振(ちはやぶ)荒振(あらぶ)る国神達が多くいる。どの神を遣わして、説伏させれば良いだろうか」と言った。思金神と八百万神が相談して言うには、「天菩比神を遣わすのが良いでしょう」と。それで天菩比神を遣わしたが、大国主神に媚び従ってしまい、三年経っても復命しなかった。

      高御産巣日神と天照大御神は、また諸神に「葦原中国に遣わした天菩比神は久しく復命しない。また何れの神を遣わせば良いだろうか」と尋ねた。そこで思金神は「天津国玉神の子の天若日子を遣わすのが良いでしょう」と答えた。それで天之麻迦古弓(あまのまかこゆみ)天之波波矢(あまのははや)天若日子に賜って遣わした。
      天若日子はその国に降り立つと、すぐに大国主神の女の下照比売を娶り、またその国を我が物とするために思慮して、八年復命しなかった。
      それで天照大御神と高御産巣日神は、また諸神に「天若日子は久しく復命しない。また何れの神を遣わして、天若日子が久しく留まっている理由を問えば良いか」と尋ねた。諸神と思金神は「(きぎし)の、名は鳴女(なきめ)を遣わすのが良いでしょう」と答えた。
      詔して、「お前が天若日子に『お前を葦原中国に遣わしたのは、その国の荒振る神たちを服従させるためである。なぜ八年も復命しないのか』と問い質せ」と。

      それで鳴女は天降って、天若日子の家の門の湯津楓(ゆつかつら)の上に止まり、詳しく天神の言葉を伝えた。天佐具売はこの鳥の言葉を聞いて、天若日子に「この鳥の鳴き声は、とても不吉です。だから射殺してしまいなさい」と言った。天若日子は、すぐに天神から賜った天之波士弓と天之加久矢を持って、その雉を射殺した。しかしその矢は雉の胸を貫いて、逆さまに射上げられて、天安河の河原にいる天照大御神と高木神の所に達した。高木神とは高御産巣日神の別名である。それで高木神はその矢を取って見ると、その矢羽に血がついていた。そこで高木神は「この矢は天若日子に賜った矢である」と言って、諸神に示すと、「もし天若日子が命を誤らずに、悪い神を射た矢であれば、天若日子には当たるな。もし邪心が天若日子にあれば、この矢で死ね」と言って、その矢を取り、その矢の開けた穴から下に突き返すと、寝ていた天若日子の胸に当たって死んだ。これが還矢(かえしや)のもとである。またその雉が帰ることはなかった。今の諺で、「(きぎし)頓使(ひたづかい)」というのはこれである。

      それで天若日子の妻の下照比売の泣き声は響いて、風と共に天に至った。天にいる天若日子の父の天津国玉神は、その妻子の声を聞き、天降って泣き悲しんだ。そしてそこに喪屋を建てた。河雁をきさり持食物を運ぶ係。とし、鷺を掃持(ははきもち)掃除係。とし、翠鳥(そにどり)カワセミの古名。御食人(みけびと)死者に供える食物を調理する係。とし、雀を碓女(うすめ)米つき女。とし、雉を哭女(なきめ)泣き女。とした。このように定めて、八日八夜の間、歌舞をした。
      このとき、阿遅志貴高日子根神がやって来て、天若日子を弔うとき、天降った天若日子の父、またその妻が皆泣いて、「我が子は死なずに生きていたのだ。我が夫は死なずに生きておられたのだ」と言って、手足を取って泣き悲しんだ。間違えたわけは、この二柱の神の容姿がとてもよく似ていたからである。それでこのように間違えたのである。
      阿遅志貴高日子根神は激怒して、「私は親しい友を弔うためにやって来たのだ。なぜ私を穢れた死人と比べるのだ」と言うと、佩いていた十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて、その喪屋を切り倒し、足で蹴飛ばした。これが美濃国(みののくに)藍見河(あいみがわ)の河上にある喪山(もやま)である。その持って切った大刀(たち)の名は大量(おおはかり)という。またの名を神度剣(かむどのつるぎ)という。
      それで阿治志貴高日子根神は怒って飛び去るとき、その同母妹の高比売命に、その名を明らかにしようと思って歌を詠んだ。

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      この歌は夷振(ひなぶり)である。

      そこで天照大御神は「また何れの神を遣わせば良いだろうか」と言った。思金神と諸神が言うには、「天安河(あまのやすのかわ)の河上の天石屋(あまのいわや)におられる、名は伊都之尾羽張神。これを遣わすのが良いでしょう。もしこの神でなければ、その神の子の建御雷之男神を遣わすのが良いでしょう。またその天尾羽張神は、天安河の水を逆に塞き上げ、道を塞いでおりますので、他の神は道を行かれないでしょう。そこで別に天迦久神を遣わして尋ねるのが良いでしょう」と。それで天迦久神を遣わして天尾羽張神に尋ねると、「畏まりました。お仕え致します。しかしこの道には我が子の建御雷神を遣わすのが良いでしょう」と答えた。そこで天鳥船神建御雷神に副えて遣わした。
      この二神は出雲国(いずものくに)伊那佐(いなさ)の小浜に降り着くと、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて、逆さまに波頭に刺し立てて、趺坐その剣の先にあぐらをかいて、その大国主神に「天照大御神と高木神の仰せによって、そなたを尋ねるためにお遣わしになった。『お前が治める葦原中国(あしはらのなかつくに)は、我が御子が治めるべき国である』との仰せである。そなたの心は如何であるか」と尋ねると、「私には分かりません。我が子の八重言代主神であればお答えが出来るでしょう。しかし鳥狩りや魚を取るために、御大(みほ)の岬に行って、まだ帰って来ておりません」と答えた。
      それで天鳥船神を遣わして、八重事代主神を呼び寄せて尋ねると、その父の大神に「畏まりました。この国は天神の御子に奉りましょう」と言って、その船を踏み傾け、天の逆手を打って青柴垣に変えて隠れた。

      それでその大国主神に「今、そなたの子の事代主神がこのように申した。他に意見する子はあるか」と尋ねると、「他に我が子の建御名方神がおります。これ以外にはおりません」と答えた。
      このように言う間に、その建御名方神千引石(ちびきのいわ)を手の先にささげてやって来て言うには、「誰だ。我が国に来て、こそこそと物を言うのは。それでは力競べをしようでははないか。まず私が先にそのお手を取ろう」と。それですぐさまその手を取ったが、氷柱に変化し、また剣の刃に変化してしまい、それで怖じて退いた。今度はその建御名方神の手を取ろうと反対に所望して、若い葦を掴むように握りつぶして投げ捨てると、すぐに逃げ去った。
      それで追いかけて、科野国(しなののくに)州羽海(すわのうみ)まで追い詰めて、まさに殺そうとしたとき、建御名方神は「恐れ入りました。私を殺さないでください。この地を離れては、他所には行きません。また我が父大国主神の命令を違えません。八重事代主神の言葉も違えません。この葦原中国(あしはらのなかつくに)は、天神の御子のお言葉に従って献上致します」と言った。
      それでまた帰って来て、その大国主神に「お前の子の事代主神建御名方神の二神は、天神の御子のお言葉に従って違えないと申した。それでお前の心はどうなのか」と尋ねると、「我が子ら二神の言葉の通りに、私も違えません。この葦原中国(あしはらのなかつくに)は、お言葉に従って献上致します。ただ私の住む所は、天神の御子が皇位をお継ぎになる立派な宮殿のように、地底の盤石に宮柱を太く立てて、高天原に届くほどに千木を高くしてお治め賜れば、私は遠い遠い片隅の国に隠遁致しましょう。また我が子ら百八十の神は、八重事代主神が率先してお仕え奉れば、違える神はいないでしょう」と答えた。
      こうして出雲国(いずものくに)多芸志(たぎし)の小浜に宮殿を造った。水戸神の孫の櫛八玉神膳夫(かしわで)となって御饗を献上するとき、櫛八玉神は祈って鵜になると海の底に入った。そして底の泥を咥えて出てきて天八十毘良迦(あまのやそびらか)を作り、海布()ワカメやアラメなどの類。の茎を刈り取って燧臼(ひきりうす)を作り、海蓴(こも)の茎で燧杵(ひきりぎね)を作り、火を()り出して言うには、「この私が鑚り出した火は、高天原では神産巣日御祖命の立派な宮殿に(すす)が長々と垂れるまで焚きあげ、地の下は地底の盤石まで焚き固まらせて、栲縄(たくなわ)を打ち延ばした千尋縄(ちひろなわ)を、海人が釣った口の大きい尾鰭の張った鱸を、さわさわと引き寄せ上げて、簀が撓むほどに魚料理を献ります」と。
      それで建御雷神は帰り上って、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定したことを報告した。

      天照大御神と高木神の命令で、太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に詔して「今、葦原中国(あしはらのなかつくに)が平定されたと報告があった。だから委任していたとおり、降って治めよ」と。その太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は「私は降る支度をしている間に子が生まれました。名を天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命といいます。この子を降すべきです」と答えた。
      この御子は、高木神の女の万幡豊秋津師比売命と結婚して生まれた子で、天火明命。次に日子番能邇邇芸命の二柱である。
      この言葉に従い、日子番能邇邇芸命に詔して「この豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)は、あなたが治める国として任せましょう。命令に従って天降りなさい」と。

      日子番能邇邇芸命が天降るとき、天之八衢(あまのやちまた)に居て、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす神がここにあった。それで天照大御神と高木神の命令で、天宇受売神に詔して「お前はか弱い女だけれども、相対する神と面と向かっても気後れしない神である。それでお前が行って『我が御子が天降る道に、そのようにして居るのは誰か』と尋ねよ」と。
      それで問い質してみると、「私は国神で、名を猿田毘古神と申します。ここに出ているのは、天神の御子は天降ると聞きまして、御先導を仕え奉るためにお迎えに参ったのです」と答えた。
      こうして天児屋命布刀玉命天宇受売命伊斯許理度売命玉祖命の、合わせて五伴緒五族の長。を分け加えて天降らせた。
      天照大御神を岩屋戸から招き出した八尺(やさか)勾璁(まがたま)と鏡、及び草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を賜り、また常世思金神手力男神天石門別神を副え、詔して「この鏡は、ひたすらに私の御魂として、私を拝むように斎き祭りなさい。次に思金神は先に述べたように取り扱って政治をしなさい」と。
      この二柱の神天照大御神と思金神か。伊須受能宮(いすずのみや)皇大神宮。伊勢神宮の内宮。五十鈴宮。に斎き祭っている。
      次に登由宇気神外宮(とつみや)豊受大神宮。伊勢神宮の外宮。度相(わたらい)に鎮座する神である。
      次に天石戸別神。またの名は櫛石窓神という。またの名は豊石窓神という。この神は御門(みかど)伊勢神宮のの神である。
      次に手力男神佐那那県(さなながた)に鎮座している。
      そしてその天児屋命中臣連(なかとみのむらじ)らの祖である。
      布刀玉命忌部首(いんべのおびと)らの祖である。
      天宇受売命猿女君(さるめのきみ)らの祖である。
      伊斯許理度売命作鏡連(かがみつくりのむらじ)らの祖である。
      玉祖命玉祖連(たまのおやのむらじ)らの祖である。

      そこで詔して、天津日子番能邇邇芸命天之石位(あまのいわくら)高天原の御座。を離れ、幾重にもたなびく天雲を押し分け、威をもって道をかき分け、天浮橋(あまのうきはし)の浮島に立って、竺紫(つくし)日向(ひむか)高千穂(たかちほ)くじふる岳槵触山のことか。原文は「久士布流多気」に天降った。

      【古事記 上巻】
    • 天祖吾勝尊は高皇産霊神の女の栲幡千千姫命を召し入れて天津彦尊を生んだ。名付けて皇孫命という。天照大神・高皇産霊神の二神の孫であるので、皇孫というのである。天照大神・高皇産霊尊は皇孫を大事に育てた。
      そこで豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)の主として降らせたいと思い、経津主神(これは磐筒女神の子で、今の下総国(しもつふさくのくに)香取神がこれである)・武甕槌神(これは甕速日神の子で、今の常陸国の鹿島神がこれである)を遣わして、平定させた。
      大己貴神及びその子である事代主神は、共に譲り渡し、国を平らげた矛を二神に授け、「私はこの矛で、遂に事を成すことができた。天孫がもしこの矛を用いて国を治めれば、必ずや平安となるでしょう。今、私は冥界にこもりましょう」と言った。言い終わると遂に去っていった。
      そこで二神は、順わない荒ぶる神達を服従させて復命した。

      時に、天祖天照大神・高皇産霊尊が互いに語り合って言うには、「葦原瑞穂国(あしはらのみずほのくに)は、我が子孫が王となるべき地である。皇孫が行ってよく治めなさい。宝祚(あまつひつぎ)の栄えること、天壌無窮であれ」と。
      そして八咫鏡と薙草剣の二種の神宝を皇孫に授け賜い、永く天璽(あまつしるし)とした。いわゆる神璽(みしるし)の剣・鏡がこれである。矛・玉は自ずと従った。
      そして勅して「我が子よ。この宝の鏡を見ることは、私を見ることと同じだと思いなさい。床を同じくし、殿を共にして、(いわい)の鏡としなさい」と。
      そして天児屋命太玉命天鈿女命を副えて侍らせた。
      それでまた勅して、「私は天津神籬神籬者。古語比茂侶伎。(あまつひもろき)天津磐境(あまついわさか)を起こし立てて、我が孫の為に祝いましょう。お前たち天児屋命太玉命の二神は、天津神籬を持って葦原中国に降り、また我が孫の為に祝いなさい。二神は共に殿の内に侍って、よく防ぎ護りなさい。我が高天原の斎庭(ゆにわ)の穂(これは稲種である)を、我が子に食べさせなさい。太玉命諸部(もろとものお)の神を率いて、その職に仕え奉ること、天上の儀のようにせよ」と。
      そして諸神を副えて従わせた。
      また大物主神に勅して、「八十万(やそよろず)の神を率いて、永く皇孫の為に護り奉りなさい」と。

      【古語拾遺 一巻】
  • 神倭伊波礼毘古命熊野村(くまののむら)に着いた時、大熊がちらりと見えては消えた。すると神倭伊波礼毘古命はにわかに正気を失い、また兵士も倒れた。
    この時、熊野之高倉下が一ふりの太刀を持ち、天つ神の御子の伏した所にやって来て献上した。すると天つ神の御子は起き上がって「長いこと寝ていたなぁ」と言った。太刀を受け取ると、熊野山の荒ぶる神は自ずと皆切り倒された。そして兵士もみな正気を取り戻して起き上がった。
    そこで天つ神の御子が太刀を手に入れたわけを聞くと、高倉下は「夢の中で天照大神と高木神の御命令で、建御雷神をお召しになり、『葦原中国はひどく騒然としているようだ。我が御子達は病んで伏している。葦原中国はお前が服従させた国である。お前建御雷神が降るべきである』と仰せになりました。すると『私が降らなくても、その国を平らげた太刀があります。この刀を降しましょう』とお答えになりました(この刀の名は佐士布都神(さじふつのかみ)。またの名を甕布都神(みかふつのかみ)。またの名を布都御魂(ふつのみたま)という。この刀は石上(いそのかみ)神宮にある)。そこで建御雷神は『この刀を降す方法は、高倉下の倉の棟を穿って、そこから落とそう。だから朝お目覚めになったら、お前が天つ神の御子に献上しなさい』と仰せになりました。そこで夢の教えに従って倉を見ると、たしかに太刀がありました。それでこの太刀を献上するのです」と言った。
    そこでまた高木大神の命令で、「天つ神の御子を、ここから奥の方に行かせてはならない。荒ぶる神が甚だ多い。今、天から八咫烏を遣わす。その八咫烏が先導するので、その後について進みなさい」と言った。

    【古事記 中巻 神武天皇段】
  • 戊午年9月5日

    神武天皇自ら高皇産霊尊を顕斎(うつしいわい)し、道臣命斎主(いわいのうし)とすることを勅す。

    【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年九月戊辰条】
  • 神武天皇は皇天二組の詔に従って神籬(ひもろき)を建てた。
    高皇産霊・神産霊魂留産霊生産霊足産霊大宮売神事代主神御膳神。以上の神は、今は御巫(みかんなぎ)が斎い奉っている。

    【古語拾遺 神武天皇段】
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