味耜高彦根神
- 名前
- 味耜高彥根神【日本書紀,先代旧事本紀】(あじすきたかひこねのかみ, あぢすきたかひこねのかみ)味耜高彦根神
- 阿遲鉏高日子根神【古事記】(あじすきたかひこねのかみ, あぢすきたかひこねのかみ)阿遅鉏高日子根神
- 迦毛大御神【古事記】(かものおおみかみ, かものおほみかみ)迦毛大御神
- 阿遲志貴高日子根神【古事記】(あじしきたかひこねのかみ, あぢしきたかひこねのかみ)阿遅志貴高日子根神
- 阿治志貴高日子根神【古事記】(あじしきたかひこねのかみ, あぢしきたかひこねのかみ)阿治志貴高日子根神
- 高彥根【先代旧事本紀】(たかひこね)高彦根
- 味鉏高彥根神【先代旧事本紀】(あじすきたかひこねのかみ, あぢすきたかひこねのかみ)味鉏高彦根神
- 性別
- 男神
- 父
大国主神 【古事記 上巻】
- 母
多紀理毘売命 【古事記 上巻】
- 先祖
- 出来事
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天稚彦が
【日本書紀 巻第二 神代下第九段】葦原中国 にいる時、味耜高彦根神と仲がよかった。それで天稚彦が高皇産霊尊に殺された際に、天に昇って喪を弔った。
味耜高彦根神の容貌は、生前の天稚彦に実に似ていた。
それで天稚彦の親族妻子は皆「我が君は死なずにおられたのだ」と言って、衣の帯によじかかって喜び、また泣き叫んだ。味耜高彦根神は怒りを露にして「朋友の道理として弔うのだから、穢れを憚らずに、遠くから参って哀しむのだ。なぜ私を死者と間違うのか」と言うと、その帯びている大葉刈 (またの名は神戸剣 )を抜いて、喪屋を斬り伏せた。これが落ちて山となった。今、美濃国の藍見川 のそばにある喪山がこれである。世の人が死人に間違われることを嫌うのは、これがそのもとである。-
天稚彦と味耜高彦根神は仲が良かった。それで味耜高彦根神は天に登り、喪を弔って大いに泣いた。時にこの神の姿形は、天稚彦にとてもよく似ていた。それで天稚彦の妻子らはこれを見て喜び、「我が君は死なずにおられたのだ」と言うと、衣の帯によじかかったので、押し離すことも出来なかった。味耜高彦根神は怒って、「朋友が亡くなったというので、私は弔いにきたのだ。なぜ私を死人に間違うのだ」と言うと、
十握剣 を抜いて、喪屋を斬り倒した。その喪屋は落ちて山となった。美濃国の喪山がこれである。世の人が死者に間違われることを嫌うのは、これがそのもとである。
時に味耜高彦根神は装いが美しくて、二つの丘・二つの谷の間を照らすほどだった。それで喪に集まる者が歌を詠んだ(あるいは味耜高彦根神の妹の下照媛が、集まる人に丘・谷を照らすのは味耜高彦根神ということを知らせるために歌を詠んだともいう)。「
阿 妹 奈 屢 夜 乙 登 多 奈 婆 多 廼 汙 奈 餓 勢 屢 多 磨 廼 彌 素 磨 屢 廼 阿 奈 陀 磨 波 夜 彌 多 爾 輔 柁 和 柁 邏 須 阿 泥 素 企 多 伽 避 顧 禰 」また歌を詠んだ。
「
阿 磨 佐 箇 屢 避 奈 菟 謎 廼 以 和 多 邏 素 西 渡 以 嗣 箇 播 箇 柁 輔 智 箇 多 輔 智 爾 阿 彌 播 利 和 柁 嗣 妹 慮 豫 嗣 爾 豫 嗣 豫 利 據 禰 以 嗣 箇 播 箇 柁 輔 智 」この両首は今、
【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第一】夷曲 と名付けている。 -
阿遅志貴高日子根神がやって来て、天若日子を弔うとき、天降った天若日子の父、またその妻が皆泣いて、「我が子は死なずに生きていたのだ。我が夫は死なずに生きておられたのだ」と言って、手足を取って泣き悲しんだ。間違えたわけは、この二柱の神の容姿がとてもよく似ていたからである。それでこのように間違えたのである。
阿遅志貴高日子根神は激怒して、「私は親しい友を弔うためにやって来たのだ。なぜ私を穢れた死人と比べるのだ」と言うと、佩いていた十掬剣 を抜いて、その喪屋を切り倒し、足で蹴飛ばした。これが美濃国 の藍見河 の河上にある喪山 である。その持って切った大刀 の名は大量 という。またの名を神度剣 という。
それで阿治志貴高日子根神は怒って飛び去るとき、その同母妹の高比売命に、その名を明らかにしようと思って歌を詠んだ。「
阿 米 那 流 夜 淤 登 多 那 婆 多 能 宇 那 賀 世 流 多 麻 能 美 須 麻 流 美 須 麻 流 邇 阿 那 陀 麻 波 夜 美 多 邇 布 多 和 多 良 須 阿 治 志 貴 多 迦 比 古 泥 能 迦 㣲 曾 也 」この歌は
【古事記 上巻】夷振 である。
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倭国の
【先代旧事本紀 巻第四 地祇本紀】葛上郡 の高鴨 の社に鎮座する神である。捨篠社 という。
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