- 名前
- 漢風諡号:神武天皇【釈日本紀】(じんむてんのう, じんむてんわう)神武天皇
- 和風諡号:神日本磐余彥天皇【日本書紀】(かんやまといわれひこのすめらみこと, かむやまといはれひこのすめらみこと)神日本磐余彦天皇
- 神日本磐余彥火火出見天皇【日本書紀】(かんやまといわれひこほほでみのすめらみこと, かむやまといはれひこほほでみのすめらみこと)神日本磐余彦火火出見天皇
- 神日本磐余彥尊【日本書紀】(かんやまといわれひこのみこと, かむやまといはれひこのみこと)神日本磐余彦尊
- 狹野尊【日本書紀】(さののみこと)狭野尊
- 磐余彥尊【日本書紀】(いわれひこのみこと, いはれひこのみこと)磐余彦尊
- 神日本磐余彥火火出見尊【日本書紀】(かんやまといわれひこほほでみのみこと, かむやまといはれひこほほでみのみこと)神日本磐余彦火火出見尊
- 磐余彥火火出見尊【日本書紀】(いわれひこほほでみのみこと, いはれひこほほでみのみこと)磐余彦火火出見尊
- 諱:彥火火出見【日本書紀】(ひこほほでみ)彦火火出見
- 神倭伊波禮毘古命【古事記】(かんやまといわれびこのみこと, かむやまといはれびこのみこと)神倭伊波礼毘古命
- 神倭伊波禮毘古天皇【古事記】(かんやまといわれびこのすめらみこと, かむやまといはれびこのすめらみこと)神倭伊波礼毘古天皇
- 若御毛沼命【古事記】(わかみけぬのみこと)
- 豐御毛沼命【古事記】(とよみけぬのみこと)豊御毛沼命
- 磐余尊【先代旧事本紀】(いわれのみこと, いはれのみこと)
- 始馭天下之天皇【日本書紀】(はつくにしらすすめらみこと)
- 橿原宮御宇天皇【先代旧事本紀】(かしはらのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 庚午年
- 没年月日
- 神武天皇76年3月11日
- 父
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊 【日本書紀 巻第二 神代下第十一段】
- 母
玉依姫 【日本書紀 巻第二 神代下第十一段】
- 先祖
- 配偶者
- 子
- 称号・栄典
- 第1代
天皇
- 第1代
- 出来事
-
庚午年
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四子である。母は玉依姫。海童の小女である。
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀】
生まれながらに明達で心が強かった。-
三男として生まれる。
【日本書紀 巻第二 神代下第十一段 一書第三】 -
二男として生まれる。
【日本書紀 巻第二 神代下第十一段 一書第四】
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甲申年(1月 ~ 12月29日)
年十五に立って太子となる。
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀】 -
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甲寅年
年四十五歳に及び、兄や子達に言うには「昔我が天神である高皇産霊尊と大日孁尊が、ここ
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 甲寅年条】豊葦原 の瑞穂国 を我が天祖彦火瓊瓊杵尊に授けられた。火瓊瓊杵尊は天関 を開き、雲路を押し分けて行幸なされた。この時まだ世は甚だ暗かったが、それでも正しい道を養い、この西のほとりをお治めになられた。皇祖皇考は善政をお敷きになられ、恩沢が行きわたった。天祖が降臨なされてから百七十九万二千四百七十余年。しかし遠くの地では未だ恩沢が行きわたらず、村の長がそれぞれに境を設けて相争っている。塩土老翁が言うには、『東に美しい地があり、青山が四方を囲んでいる。その中に天磐船 に乗って飛び降った者がいる』という。私が思うに、その地は必ず大業を広めることができ、天下を治めるのに良いであろう。六合の中心であろうか。飛び降った者は饒速日という者か。そこに行って都を造ろう」と。
諸皇子たちは「その通りです。私たちも思いは同じです。速やかに実行しましょう」と答えた。-
神倭伊波礼毘古命とその同母兄の五瀬命の二人は
【古事記 中巻 神武天皇段】高千穂宮 で議論して「どこであれば平らかに天下の政を行えるだろうか。やはり東方に行こうと思う」と。
それで日向を出発して筑紫に向った。
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甲寅年10月5日
天皇は自ら諸皇子と舟を率いて東征した。
速吸之門 に着いた時、一人の漁人 が船に乗って来た。
天皇は呼んで「お前は誰か」と尋ねた。答えて「私は国神で珍彦といいます。曲浦 で釣りをしていましたが、天神の御子がお出でになられるとお聞き致しました。それでお迎え奉りました」と。
また「お前は私の為の導きとなってくれるか」と尋ねた。答えて「お導き致します」と。
天皇は勅して漁人に椎竿の先を渡した。そして皇船に引き入れて海導者 とした。それで名を賜って椎根津彦とした。これは即ち倭直 らの始祖である。
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 甲寅年十月辛酉条】筑紫国 の菟狭 に着いた。
時に菟狭国造の祖がいた。名付けて菟狭津彦・菟狭津媛という。菟狭の川上に一柱騰宮 を造り、もてなしてくれた。
この時に勅して、菟狭津媛を侍臣の天種子命に妻せた。天種子命は中臣氏 の遠祖である。-
【古事記 中巻 神武天皇段】
豊国 の菟狭 に着いた時、その土人で、宇沙都比古・宇沙都比売の二人が足一騰宮 を作って大御饗 を献上した。
その地から移って竺紫の岡田宮 に一年滞在した。
またその国から上って阿岐国 の多祁理宮 に七年滞在した。
またその国から移り上って吉備の高島宮 に八年滞在した。
そしてその国から上る途中で、亀の甲に乗って釣りをしつつ、袖を振ってやって来る人に速吸門 で出会った。
呼び寄せて「お前は誰か」と問うと、「私は国つ神です」と答えた。また、「海路を知っているか」と問うと、「よく存じています」と答えた。また、「私に従い仕えるか」と問うと、「お仕え致します」と答えた。それで棹を指し渡して船に引き入れた。そして槁根津日子という名を賜った。これは倭国造らの祖である。
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甲寅年11月9日
筑紫国の
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 甲寅年十一月甲午条】岡水門 に至る。 -
甲寅年12月27日
安芸国に至り、
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 甲寅年十二月壬午条】埃宮 に滞在する。 -
乙卯年3月6日
吉備国に入り、
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 乙卯年三月己未条】高島宮 を造って住んだ。
ここで三年間、舟・糧食を蓄えて、改めて天下平定の気持ちを強くした。 -
戊午年2月11日
皇軍は遂に東に向った。
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年二月丁未条】
舳艫相接ぎ、難波の碕に着くとき、速い潮流があり、大変速く着いた。それで浪速国 と名付けた。または浪花 という。今は訛って難波 という。 -
戊午年3月10日
川を遡り、河内国の
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年三月丙子条】草香邑 の青雲 の白肩之津 に至る。 -
戊午年4月9日
軍を整えて、徒歩で
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年四月甲辰条】竜田 に向った。しかしその道が狭く険しいのでまともに進めなかった。そこで引き返して、さらに東の胆駒山 を越えて国に入ろうとした。
時に長髄彦はこれを聞いて、「天神の子達が来るわけは、きっと我が国を奪うためである」と言った。そして兵を起して遮り、孔舎衛坂 で遭遇して戦った。
流れ矢が五瀬命の肘脛に当たった。軍は進軍出来なかった。天皇はこれを憂えて、神策を心に巡らせて言うには「私は日神の子孫であり、日に向って戦うのは天道に逆らう。一度退いて弱きを示し、神祇をお祀りし、背に日神の威を負って襲いかかれば、刃が血に塗れること無く、敵は自ずから敗れるであろう」と。皆は「その通りです」と言った。
そこで軍令を発して「一旦停止し、再度進軍する」と。そして軍を引き返した。敵もまたあえて追ってはこなかった。
返って草香津 に着くと、盾を立てて雄々しい姿を示した。それで改めてその津を名付けて盾津 という。
はじめ孔舎衛の戦いで、ある人が大樹に隠れて難を逃れた。それでその樹を指して「恩、母の如し」と言った。それで時の人はその地を名付けて母木邑 という。今おものきというは訛ったのである。 -
戊午年5月8日
軍は
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年五月癸酉条】茅渟 の山城水門 に着いた。
時に五瀬命の矢傷がひどく痛んだ。そして剣の柄を握りしめて「残念だ。大丈夫が賊の手により傷を負い、報いずに死ぬとは」と雄叫びを上げた。それで時の人はそこを名付けて雄水門 という。
軍を進めて、紀国 の竈山 に着いた時に五瀬命は薨じた。よって竈山に葬った。-
南方から回って進軍して、
【古事記 中巻 神武天皇段】血沼海 に至り、ここで手の血を洗った。それで血沼海という。
そこからさらに進んで紀国 の男之水門 に着くと、五瀬命は「賤しい奴に負わされた傷で死ぬのか」と雄叫んで薨じた。それでその水門を名付けて男水門 という。陵は紀国の竈山 にある。
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戊午年6月23日
軍は
名草邑 に着いた。そして名草戸畔という者を誅した。遂に
狭野 を越えて、熊野の神邑 に着いた。そして天磐盾 に登った。さらに軍を進め、海を渡るときに突然の暴風に遇った。皇舟は揺れ漂った。
時に稲飯命は「ああ、我が祖は天神。母は海神。なぜ私を陸に苦しめ、海に苦しめるのか」と嘆いた。言い終わると、剣を抜いて海に入り、鋤持神となった。
三毛入野命はまた恨んで言うには「我が母と姨は海神。なぜ波を起こして溺れさせようとするのか」と。そして波頭を踏んで常世郷 に往った。天皇はひとり、皇子手研耳命と軍を率いて進み、熊野の
荒坂津 に着いた。またの名は丹敷浦 という。ここで丹敷戸畔 という者を誅した。
時に神が毒気を吐き、人は皆気力を失った。これよって皇軍は振わなかった。
そこにある人がいた。名を熊野高倉下という。その夜に夢を見て、天照大神が武甕雷神に「葦原中国は騒がしいと聞くので、お前が往って征しなさい」と言った。武甕雷神は「私が行かずとも、私が国を平らげた剣を下せば、自ずから平らぎましょう」と答えた。天照大神は「もっともである」と言った。
そこで武甕雷神は高倉に「我が剣、名は韴霊 という。これをお前の倉の中に置くので、それを取って天孫に献上しなさい」と言った。
高倉は「承知しました」と言って目が覚めた。
翌朝、夢の教えのままに倉を開けて見ると、果たして剣があり、逆さまに倉の床に立っていた。これを取って天皇に奉った。
時に天皇は寝ていたが、忽ち目を覚まして「何故こんなにも長く眠っていたのだろう」と言った。また毒に当たっていた兵卒も目覚めた。皇軍は内つ国に赴こうとした。しかし山が険しく、道も無く、進退窮まった。
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年六月丁巳条】
この時、夜に夢の中で天照大神が天皇に教えて言うには「私が今頭八咫烏を遣わします。これを郷の導きとしなさい」と。果たして頭八咫烏が空から翔び降りてきた。
天皇は「この烏の来ることは、夢のとおりである。なんと偉大なことであろう。我が皇祖天照大神は天業を助けようとして下さる」と言った。
この時、大伴氏 の遠祖日臣命は大来目を率いて、大軍の将として、山を踏み道を分けて、烏が向うのを仰ぎ見ながら追った。そして菟田 の下県 に着いた。それでその地を菟田の穿邑 という。
時に勅して、日臣命を誉めて「お前は忠があり勇がある。また導きの功もある。ここにお前の名を改めて道臣とする」と言った。-
【古事記 中巻 神武天皇段】熊野村 に着いた。
時に大熊がちらりと見えては消えた。すると神倭伊波礼毘古命はにわかに正気を失い、また兵士も倒れた。
この時、熊野之高倉下が一ふりの太刀を持ち、天つ神の御子の伏した所にやって来て献上した。すると天つ神の御子は起き上がって「長いこと寝ていたなぁ」と言った。太刀を受け取ると、熊野山の荒ぶる神は自ずと皆切り倒された。そして兵士もみな正気を取り戻して起き上がった。
そこで天つ神の御子が太刀を手に入れたわけを聞くと、高倉下は「夢の中で天照大神と高木神の御命令で、建御雷神をお召しになり、『葦原中国はひどく騒然としているようだ。我が御子達は病んで伏している。葦原中国はお前が服従させた国である。お前建御雷神が降るべきである』と仰せになりました。すると『私が降らなくても、その国を平らげた太刀があります。この刀を降しましょう』とお答えになりました(この刀の名は佐士布都神 。またの名を甕布都神 。またの名を布都御魂 という。この刀は石上 神宮にある)。そこで建御雷神は『この刀を降す方法は、高倉下の倉の棟を穿って、そこから落とそう。だから朝お目覚めになったら、お前が天つ神の御子に献上しなさい』と仰せになりました。そこで夢の教えに従って倉を見ると、たしかに太刀がありました。それでこの太刀を献上するのです」と言った。
そこでまた高木大神の命令で、「天つ神の御子を、ここから奥の方に行かせてはならない。荒ぶる神が甚だ多い。今、天から八咫烏を遣わす。その八咫烏が先導するので、その後について進みなさい」と言った。
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戊午年8月2日
天皇は兄猾と弟猾を呼んだ。この両人は
菟田県 の魁帥 である。
しかし兄猾は来ず、弟猾のみがやって来た。軍門 を拝んで言うには「私の兄の兄猾は反抗の気持ちを持っています。天孫がおいでになると聞いて、兵を起こして襲おうとしています。皇軍の威を見て敵わないことを恐れて、兵を潜伏させています。仮の新宮を造り、御殿の中に仕掛けを設けて、おもてなしをすると見せかけて事を起こすつもりです。どうかこれを知って備えて下さい」と。
天皇は道臣命を密かに遣わして、その反抗の意思があることを調べさせた。
道臣命は殺害する意思があることを知り、激怒して大声で責めて言うには「卑しい奴め。お前が造った部屋にお前自身が入れ」と。そして剣を構え、弓を引き絞り、中へ追い詰めた。兄猾は天に背いたことで言い逃れできず、自ら仕掛けた罠を踏んで圧死した。その屍を引き出して斬った。流れる血は踝を濡らした。それでその地を名付けて菟田の血原 という。弟猾は沢山の牛肉と酒を用意して皇軍を労い饗した。
天皇はその酒肉を兵に分け与えた。そして歌を詠んだ。「
于 儾 能 多 伽 機 珥 辭 藝 和 奈 破 蘆 和 餓 末 菟 夜 辭 藝 破 佐 夜 羅 孺 伊 殊 區 波 辭 區 旎 羅 佐 夜 離 固 奈 瀰 餓 那 居 波 佐 麼 多 智 曾 麼 能 未 廼 那 鷄 句 塢 居 氣 辭 被 惠 禰 宇 破 奈 利 餓 那 居 波 佐 麼 伊 智 佐 介 幾 未 廼 於 朋 鷄 句 塢 居 氣 儾 被 惠 禰 」これを
来目歌 という。今、楽府 でこの歌を歌うときに、手の拡げ方の大小、声の太さ細さがあるのは、古の遺式である。この後、天皇は吉野の地を見たいと思い、菟田の
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年八月乙未条】穿邑 から、自ら軽装兵を率いて巡幸した。
吉野に着いたとき、井戸の中から人が出てきた。光る尾があった。天皇が「お前は何者だ」と問うと、「私は国神で、名は井光と申します」と答えた。これは吉野首 らの始祖である。
更に少し進むと、また尾がある者が磐石を押し分けて出てきた。天皇が「お前は何者だ」と問うと、「私は磐排別之子です」と答えた。これは吉野国樔 らの始祖である。
川にそって西に行くと、また梁を設けて魚を取る者がいた。天皇が「お前は何者だ」と問うと、「私は苞苴担之子です」と答えた。これは阿太養鸕 らの始祖である。-
八咫烏の後について進み、吉野河の河尻に着いた時、
筌 を作って魚を取る人がいた。天つ神の御子が「お前は誰か」と問うと、「私は国神で、名は贄持之子といいます」と答えた。これは阿陀之鵜飼 の祖である。
その地から進むと、尾の生えた人が井戸から出てきた。その井戸は光っていた。そこで「お前は誰か」と問うと、「私は国神で、名は井氷鹿といいます」と答えた。これは吉野首 らの祖である。
その山に入ると、また尾の生えた人に出会った。この人は岩を押し分けてやって来た。そこで「お前は誰か」と問うと、「私は国神で、名は石押分之子といいます。天つ神の御子がやって来ると聞いて、お迎えに参ったのです」と答えた。これは吉野国巣 の祖である。
その地を踏み穿ち越えて、宇陀 に進んだ。それでそこを宇陀の穿 という。宇陀には兄宇迦斯・弟宇迦斯の二人がいた。そこでまず八咫烏を遣わして、「今、天つ神の御子がお出でになられる。お前たちはお仕え奉るか」と二人に尋ねた。
兄宇迦斯は鳴鏑 で使いを射て追い返した。それでその鳴鏑が落ちた地を訶夫羅前 という。
そして待ち受けて撃つために、軍を集めようとしたが集まらなかった。そこで仕えると偽って、大殿 を作り、その中に押機 を作って待った。
弟宇迦斯は先に迎えに参り、拝んで言うには「我が兄兄宇迦斯は、天つ神の御子の使いを射て追い返し、待ち受けて攻めるために軍勢を集めようとしましたが集まらず、殿を作って押機を仕掛けて待っています。それでお迎えに参ってこの全てを申し上げるのです」と。
この時、大伴連 らの祖道臣命・久米直 らの祖大久米命の二人が、兄宇迦斯を呼んで「お前が作った大殿の中にはお前が先に入り、仕え奉る様を明白にしろ」と罵った。そして太刀の柄を握り、矛をしごき、矢をつがえて追い込むと、自分の作った罠に打たれて死んだので、引き出して斬り散らした。それでその地を宇陀の血原 という。
弟宇迦斯の献上した大饗 は御軍に賜った。この時に歌を詠んだ。「
宇 陀 能 多 加 紀 爾 志 藝 和 那 波 留 和 賀 麻 都 夜 志 藝 波 佐 夜 良 受 伊 須 久 波 斯 久 治 良 佐 夜 流 古 那 美 賀 那 許 波 佐 婆 多 知 曾 婆 能 微 能 那 祁 久 袁 許 紀 志 斐 惠 泥 宇 波 那 理 賀 那 許 波 佐 婆 伊 知 佐 加 紀 微 能 意 富 祁 久 袁 許 紀 陀 斐 惠 泥 疊 疊 志 夜 胡 志 夜 此 者 伊 能 碁 布 曾 阿 阿 志 夜 胡 志 夜 此者嘲咲者也 」それでその弟宇迦斯は
【古事記 中巻 神武天皇段】宇陀 の水取 らの祖である。
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戊午年9月5日
菟田 の高倉山 の頂に登って国内を眺めた。
時に国見丘 に八十梟帥 がいた。女坂 には女軍 を置き、男坂 には男軍 を置き、墨坂 にはおこし炭を置いていた。その女坂・男坂・墨坂の名はこれから起きた。
また兄磯城の軍がいて、磐余邑 に満ちていた。
賊の拠点はみな要害の地であり、道は塞がれていて通ることが出来なかった。
天皇は憎んだ。この夜、自ら祈って寝ると、夢に天神が現れて教えて言うには「
天香山 の社の中の埴土を取って、天平瓮 八十枚を作り、併せて厳瓮 を造って、天神地祇を敬い祭りなさい。また潔斎して呪詛をせよ。このようにすれば、賊は自ずから平伏するだろう」と。
天皇は夢の教えに従って行動した。
時に弟猾は奏上して「倭国の磯城邑 に磯城の八十梟帥 がおり、また高尾張邑 (ある書では葛城邑 という)に赤銅 の八十梟帥がおります。これらは皆、天皇と戦おうとしています。私はこれを憂えております。今まさに天香山の埴土を取って天平瓮を作り、天社国社の神をお祭りした後、賊を撃てば打ち払いやすいでしょう」と言った。
天皇は既に夢を吉兆と思っており、弟猾の言葉を聞いてますます喜んだ。
そこで椎根津彦に着古した衣服と蓑笠を着せて老父に似せた。また弟猾に箕を着せて老婆に似せた。そして勅して「お前たち二人は天香山に行き、密かに頂きの土を取ってきなさい。天業の成否はお前たちで占おう。慎重に行いなさい」と言った。
このとき賊兵は道にあふれて通ることができなかった。椎根津彦は神意をうかがって「我が君がよくこの国を平定できるならば、行く道よ、自ずから開け。そうでなければ、必ず賊は防ぐだろう」と言った。言い終ると直ちに出かけた。
賊は群がり、二人を見ると大いに笑い、「醜い老人どもだ」と言って道を開けて去った。二人は山に着くと土を取って帰った。
天皇は大いに喜び、この埴土で八十平瓮 ・天手抉八十枚 ・厳瓮を造り、丹生 の川上で天神地祇を祭った。その菟田川の朝原に水沫のように凝り固まる所があった。
天皇はまた神意をうかがって「私は今まさに八十平瓮で、水無しの飴を作ろう。成功すれば、私は必ず武器を使わずに天下を平定できる」と言った。そして飴を作ると、飴は自ずと出来た。
また神意をうかがって言うには「私は今まさに厳瓮を丹生の川に沈めよう。もし魚が大小なく酔って流れることが、柀 の葉が浮き流れるようであれば、私は必ずこの国を平定出来るであろう。もしそうでなければ、成し遂げることは出来ないであろう」と。そして瓮を川に沈めた。その口は下を向いた。しばらくすると魚がすべて浮き出て口をパクパク開いた。椎根津彦がこれを報告した。
天皇は大いに喜び、丹生の川上の五百箇真坂樹 を根こぎにして、諸神を祭った。これより始めて厳瓮の置物を置くようになった。時に道臣命に勅して「今、高皇産霊尊を私自ら
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年九月戊辰条】顕斎 しよう。お前を斎主 とし、厳媛の名を授ける。そこに置いてある埴瓮 を厳瓮とする。また火の名を厳香来雷 とする。水の名を厳罔象女 とする。食料の名を厳稲魂女 とする。薪の名を厳山雷 とする。草の名を厳野椎 とする」と。 -
戊午年10月1日
天皇は
厳瓮 の供え物を召し上がり、兵を整えて出陣した。
まず八十梟帥 を国見丘 で撃って斬った。
この戦いの時、天皇は必ず勝つと思って歌を詠んだ。「
伽 牟 伽 筮 能 伊 齊 能 于 瀰 能 於 費 異 之 珥 夜 異 波 臂 茂 等 倍 屢 之 多 儾 瀰 能 之 多 儾 瀰 能 阿 誤 豫 阿 誤 豫 之 多 太 瀰 能 異 波 比 茂 等 倍 離 于 智 弖 之 夜 莽 務 于 智 弖 之 夜 莽 務 」歌の心は、大いなる石を、その国見丘に喩えているのである。
残党はなお多く、情勢は測り難かった。そこで密かに道臣命に勅して「お前は
大来目部 を率いて、大室を忍坂邑 に造り、盛んに酒宴を設けて賊を誘って討ち取りなさい」と。
道臣命は密かに勅を受けて、室を忍坂に掘り、強者を選んで賊と住まわせた。
密かに「酒宴たけなわの後、私は立って歌う。お前たちは私の歌の声を聞いたら賊をまとめて刺せ」と命じた。
その時になり、坐って酒を飲んだ。賊は陰謀があるのを知らずに、心のままに酒に酔った。道臣命は立って歌った。「
於 佐 箇 廼 於 朋 務 露 夜 珥 比 苔 瑳 破 而 異 離 烏 利 苔 毛 比 苔 瑳 破 而 枳 伊 離 烏 利 苔 毛 瀰 都 瀰 都 志 倶 梅 能 固 邏 餓 勾 鶩 都 都 伊 異 志 都 都 伊 毛 智 于 智 弖 之 夜 莽 務 」味方の兵は歌を聞いて、ともにその
頭椎剣 を抜いて全ての賊を殺した。
皇軍は大いに喜び、天を仰いで笑い歌った。「
伊 莽 波 豫 伊 莽 波 豫 阿 阿 時 夜 塢 伊 莽 儾 而 毛 阿 誤 豫 伊 莽 儾 而 毛 阿 誤 豫 」今、来目部が歌った後に大笑いするのは、これがそのもとである。
また歌った。「
愛 瀰 詩 烏 毗 儾 利 毛 毛 那 比 苔 比 苔 破 易 陪 廼 毛 多 牟 伽 毗 毛 勢 儒 」これは皆、密旨をうけて歌ったのであり、自分勝手にしたことではない。
時に天皇は「戦いに勝って驕らないのは良将である。今、賊を滅ぼしたが、同じく悪い者が恐れ騒いでいる所もある。その実状はわからない。長く同じ所にいても、変事を制すことは無いだろう」と言った。そしてそこを捨てて別の所に移った。
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年十月癸巳条】-
忍坂 の大室 に着いた時に、尾の生えた土雲 八十建 が、その室の中で待ち受けていた。そこで天つ神の御子の命令で、御馳走を八十建に賜った。この時に八十建に当てて八十膳夫 を設け、一人一人に太刀をはかせ、膳夫らに「歌を聞いたら、一斉に斬れ」と教えた。そして土雲を撃つことを明らかにするために歌った。「
意 佐 加 能 意 富 牟 盧 夜 爾 比 登 佐 波 爾 岐 伊 理 袁 理 比 登 佐 波 爾 伊 理 袁 理 登 母 美 都 美 都 斯 久 米 能 古 賀 久 夫 都 都 伊 伊 斯 都 都 伊 母 知 宇 知 弖 斯 夜 麻 牟 美 都 美 都 斯 久 米 能 古 良 賀 久 夫 都 都 伊 伊 斯 都 都 伊 母 知 伊 麻 宇 多 婆 余 良 斯 」このように歌うと、抜刀して一斉に打ち殺した。
【古事記 中巻 神武天皇段】
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戊午年11月7日
皇軍は大挙して
磯城彦 を攻めようとした。
まず使者を遣わして兄磯城を呼んだ。兄磯城命は応じなかった。
さらに頭八咫烏を遣わした。烏はその軍営に着くと「天神の子がお前をお呼びだ。さあ、さあ」と鳴いた。
兄磯城は怒り、「天圧神 が来たと聞いて憤っているときに、なぜこんなに悪く鳴くのか」と言った。そして弓を引いて射たが、烏は去っていった。
次に弟磯城の家に着くと「天神の御子がお前をお呼びだ。さあ、さあ」と鳴いた。
弟磯城は恐懼して「私は天圧神がお出でになったと聞いて、朝夕恐懼しております。烏よ。お前が鳴くのは善いことだ」と言うと、葉盤八枚 を作り、食物を盛って饗した。そして烏に従って到着すると「私の兄の兄磯城は天神の御子がお出でになると聞いて、八十梟帥 を集めて武具を整え、まさに戦おうとしています。速やかに準備するべきです」と言った。
諸将を集めて「兄磯城はやはり逆賊の心があり、呼んでも来ない。どうすればよいか」と問うた。
諸将は「兄磯城は悪知恵が働く賊です。まず弟磯城を遣わして諭させ、あわせて兄倉下と弟倉下に説かせてください。それでも帰順しないのであれば、それから挙兵しても遅くはありません」と答えた。
そこで弟磯城を遣わして利害を示したが、兄磯城らは愚かにも謀を守り、承伏しなかった。
時に椎根津彦が謀って言うには「今はまず私が女軍 を遣わして忍坂 の道に出ます。賊はこれを見て、必ず精鋭を出すでしょう。私は強兵を馳せて直ちに墨坂 を目指し、菟田 川の水を取って、その炭火にそそぎ、驚いている間に不意をついて出れば、破ることが出来るでしょう」と。
天皇はその策を誉め、女軍を出してみた。賊は大軍が来たと思い、力を尽くして迎え撃った。
これより先、皇軍は攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝った。しかし甲冑の兵士が疲弊しないわけではない。
そこで歌を作って将兵の心を休めた。「
哆 哆 奈 梅 弖 伊 那 瑳 能 椰 摩 能 虛 能 莽 由 毛 易 喩 耆 摩 毛 羅 毗 多 多 介 陪 麼 和 例 破 椰 隈 怒 之 摩 途 等 利 宇 介 譬 餓 等 茂 伊 莽 輸 開 珥 虛 禰 」はたして
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年十一月己巳条】男軍 は墨坂を越えて、後ろから挟み撃ちにして破り、その梟帥兄磯城らを斬った。 -
戊午年12月4日
皇軍は遂に長髄彦を討つこととなった。しきりに戦ったが勝つことが出来なかった。
時に忽ちにして曇ると氷雨が降った。また金色の不思議な鵄が飛んできて皇弓の先に止まった。その鵄は光り輝き、そのさまは雷光のようであった。
これにより長髄彦の軍は戸惑い、力を出して戦うことが出来なかった。
長髄というのは、もとは邑の名である。それでまた人名とした。
皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄邑 と名付けた。今、鳥見 というのは訛ったものである。昔、
孔舎衛 の戦いで五瀬命が矢に当たって薨じたことを天皇は忘れず、常に恨みを抱いていた。それでこの戦いで仇を討ちたいと思った。そして歌を詠んだ。「
瀰 都 瀰 都 志 倶 梅 能 故 邏 餓 介 耆 茂 等 珥 阿 波 赴 珥 破 介 瀰 羅 毗 苔 茂 苔 曾 廼 餓 毛 苔 曾 禰 梅 屠 那 藝 弖 于 笞 弖 之 夜 莽 務 」また歌を詠んだ。
「
瀰 都 瀰 都 志 倶 梅 能 故 邏 餓 介 耆 茂 等 珥 宇 惠 志 破 餌 介 瀰 句 𦤶 弭 比 倶 和 例 破 涴 輸 例 儒 于 智 弖 之 夜 莽 務 」それでまた兵を放って急追させた。すべて諸々の歌を
来目歌 という。これは歌った者を指して名付けている。時に長髄彦が人を遣わして天皇に尋ねるには「昔、天神の御子が
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年十二月丙申条】天磐船 に乗って天降りました。名付けて櫛玉饒速日命といいます。我が妹の三炊屋媛。またの名は長髄媛。またの名は鳥見屋媛を娶って御子が生まれました。名を可美真手命といいます。それで私は饒速日命を君としてお仕えしています。天神の御子は二柱もいるのでしょうか。なぜ天神の御子と名乗って人の地を奪うのですか。私が推測しますが、それは偽りでしょう」と。
天皇は「天神の御子は多くいる。お前が君とする者が本当に天神の御子であれば、必ずそれを示す物がある。それを示してみなさい」と言った。
長髄彦は饒速日命の天羽羽矢 と歩靭 を取って天皇に示した。
天皇はそれを見て「偽りではない」と言うと、自分の天羽羽矢と歩靭を示した。
長髄彦はそれを見て益々恐れ畏まった。しかし武器を構え、その勢いを途中で止めることは出来ず、誤った謀をを守り、また改心の気持ちも無かった。
饒速日命は、もとより天神が心配しているのは天孫のみということを知っていた。また長髄彦の性質がねじけているところがあり、天人の違いを教えても理解しないのをみて殺した。そして部下を率いて帰順した。
天皇は饒速日命が天降ったことを聞き、忠誠を尽くしたことを褒めて寵愛した。これが物部氏の遠祖である。-
登美毘古を撃つときに歌った。
「
美 都 美 都 斯 久 米 能 古 良 賀 阿 波 布 爾 波 賀 美 良 比 登 母 登 曾 泥 賀 母 登 曾 泥 米 都 那 藝 弖 宇 知 弖 志 夜 麻 牟 」また歌った。
「
美 都 美 都 斯 久 米 能 古 良 賀 加 岐 母 登 爾 宇 惠 志 波 士 加 美 久 知 比 比 久 和 禮 波 和 須 禮 士 宇 知 弖 斯 夜 麻 牟 」また歌った。
「
加 牟 加 是 能 伊 勢 能 宇 美 能 意 斐 志 爾 波 比 母 登 富 呂 布 志 多 陀 美 能 伊 波 比 母 登 富 理 宇 知 弖 志 夜 麻 牟 」
それで邇芸速日命がやって来て、天つ神の御子に「天つ神の御子が天降られたと聞きました。それで後を追い、降って参りました」と言った。そして天津瑞 を献上して仕えた。
邇芸速日命は登美毘古の妹の登美夜毘売を娶り、生まれた子は宇摩志麻遅命。これは物部連 ・穂積臣 ・婇臣 の祖である。このようにして荒ぶる神たちを平定し、服従しない人たちは追い払い、
【古事記 中巻 神武天皇段】畝火 の白檮原宮 にて天下を治めた。 -
戊午年12月4日
時に長髄彦が人を遣わして天皇に尋ねるには「昔、天神の御子が
【先代旧事本紀 巻第六 皇孫本紀 磐余彦尊段 戊午年十二月丙申条】天磐船 に乗って天降りました。名付けて櫛玉饒速日尊といいます。我が妹の御炊屋媛を娶って御子が生まれました。名を宇摩志麻治命といいます。それで私は饒速日尊を、次に宇摩志麻治命を君としてお仕えしています。天神の御子と仰る方が二柱もいるのでしょうか。なぜ天神の御子と名乗って人の地を奪うのですか。私は他を知りません。また私が推測しますが、それは偽りでしょう」と。
天皇は「天神の御子は多くいる。お前が君とする者が本当に天神の御子であれば、必ずそれを示す物がある。それを示してみなさい」と言った。
長髄彦は饒速日尊の天羽羽矢 と歩靭 を取って天皇に示した。
天皇はそれを見て「偽りではない」と言うと、自分の天羽羽矢と歩靭を示した。
長髄彦はそれを見て益々恐れ畏まった。しかし武器を構え、その勢いを途中で止めることは出来ず、誤った謀をを守り、また改心の気持ちも無かった。
宇摩志麻治命は、もとより天神が心配しているのは天孫のみということを知っていた。また長髄彦の性質がねじけているところがあり、天人の違いを教えても理解しないのをみて舅 を殺した。そして部下を率いて帰順した。
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己未年1月3日
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己未年2月20日
諸将に命じて士卒を訓練した。
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 己未年二月辛亥条】
この時、層富県 の波哆丘岬 に新城戸畔という者がいた。
また和珥 の坂下 に居勢祝という者がいた。
臍見 の長柄丘岬 に猪祝という者がいた。
この三ヶ所の土蜘蛛はその力を恃んで帰順しなかった。
天皇は一部の軍を派遣してこれらを誅した。
また高尾張邑 に土蜘蛛がいた。その姿は胴体が短く、手足が長く、侏儒 に似ていた。皇軍は葛の網を使って襲い殺した。それでこの邑を名付けて葛城 という。
磐余 の地の元の名は片居 、または片立 という。皇軍が賊を破り、大軍が集ってその地に満ちた。それで改めて磐余と名付けた。またある人が言うには、「天皇が昔、厳瓮 の供物を召し上がって、軍を出して西征した時、磯城 の八十梟帥 がそこに兵を集めて天皇と戦ったが、遂に皇軍に滅ぼされた。それで名付けて磐余邑という」という。
また皇軍の雄叫びをあげた所を猛田 という。城を造った所を名付けて城田 という。賊が戦死して屍が臂を枕にしていた所を頬枕田 という。
天皇が前年の九月に天香山 の埴土で八十平瓮 を造り、自ら斎戒して諸神を祭って天下を安定させた。それで土を取った所を名付けて埴安 という。 -
己未年3月7日
令を下して言うには「東征してから六年になる。皇天の威のおかげで凶徒は殺された。周辺の国は静まらず、禍が残っているといえども、国内には禍がない。皇都を開き広めて御殿を造ろう。世の中は開けていないが、民の心は素直である。巣に棲み穴に住むなど習俗がある。そもそも聖人が制を立て、義は必ず時に従う。苟も民に利があれば、どんなことでも聖のわざとして妨げはない。まさに山林を開いて宮室を造り、謹んで宝位に臨んで民を安心させよう。上は天神の国を授けて下さった御徳に答え、下は皇孫の正義を養育して下さった心を広めよう。その後に六合を兼ねて都を開き、八紘を掩いて家にすることは、また良いことではないか。
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 己未年三月丁卯条】畝傍山 の東南の橿原 の地を見ると、国の中心ではなかろうか。ここに都を造ろう」と。 -
己未年3月
司に命じて帝宅を造り始める。
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 己未年三月是月条】-
妖気は既に晴れ、また風塵も無いので、都を
橿原 に建てて、帝宅を造った。太玉命の孫の天富命に命じて、手置帆負・彦狭知の二神の孫を率いて、
斎斧 ・斎鉏 を使って山材を採り、正殿を造り立てた。地底に宮柱をしっかり立てて、高天原に届くほど高く、皇孫命の御殿を造り、仕え奉った。
それでその子孫は今、紀伊国の名草郡 の御木 ・麁香 の二郷に在る。古語で正殿を麁香 という。
木材を採る斎部が居る所を御木 という。殿を造る斎部が居る所を麁香 という。これがその証である。また天富命に命じて斎部の諸氏を率いて、様々な神宝である鏡・玉・矛・盾・木綿・麻などを作らせた。
櫛明玉命の孫は御祈玉 を造った。古語に美保伎玉 という。祈禱のことである。その子孫は今、出雲国に在る。毎年貢物と共にその玉を献上する。
天日鷲命の孫は木綿 ・麻 ・織布 を造った。そして天富命に命じて日鷲命の孫を率いて、良い肥えた地を求めて阿波国に遣わして、穀・麻の種を植えた。その子孫は今その国に在る。
大嘗の年に木綿・麻布など様々な物を献上する。それで郡の名を麻殖 とするのはこれがもとである。
天富命は更に肥沃な地を求めて、阿波の斎部を分けて東の地に行って、麻・穀を植えた。良い麻が育ったので総国 といい、穀の木が育ったので結城郡 という。古語に麻を総 という。今、上総 ・下総 の二国とするのはこれである。阿波の忌部が居る所は安房郡 という。今の安房国がこれである。
天富命はその地に太玉命の社を立てた。今は安房社 という。それでその神戸に斎部氏が在る。また手置帆負命の孫は矛竿を造った。その子孫は、今は分かれて讚岐国に在る。毎年貢物の外に八百竿 を献上する。これがその事の証である。ここに皇天二組の詔に従って
神籬 を建てた。
高皇産霊・神産霊・魂留産霊・生産霊・足産霊・大宮売神・事代主神・御膳神。以上の神は、今は御巫 が斎い奉っている。
櫛磐間戸神・豊磐間戸神。以上の神は、今は御門の巫が斎い奉っている。
生島 。これは大八洲 の霊 である。今は生島の巫が斎い奉っている。
坐摩 。これは大宮地 の霊である。今は坐摩の巫が斎い奉っている。日臣命は
来目部 を率いて宮門を護り、その開闔を掌った。
饒速日命は内物部 を率いて矛・盾を造り備えた。
その物は既に備わり、天富命は諸々の斎部 を率いて、天璽の鏡・剣を捧げち、正殿に安置し、また瓊玉 を懸け、その幣物 を連ねて、殿祭の祝詞をあげた。その祝詞文は別巻にある。
次に宮門を祭った。その祝詞もまた別巻にある。
然る後、物部は矛・盾を立て、大伴・来目は仗 を建て、門を開いて四方の国々の長を集めて、天位の貴さを知らしめた。この時には、帝と神との間は遠くは無かった。
殿 を同じく床を共にし、これを常とした。神物・官物の分別は無かった。
宮内に蔵を立てて斎蔵 と名付け、斎部氏に永くその職を任せた。また天富命に諸氏を率いさせて
【古語拾遺 神武天皇段】大幣 を作らせた。
天児屋命の孫天種子命に命じて天罪・国罪の事を祓わせた。所謂天罪とは、上で既に述べている。国罪は国中の人民が犯す罪である。その事は詳しく中臣 の祓詞 にある。そして霊畤 を鳥見山 の中に立てた。
天富命は幣を連ねて祝詞をして皇天を祭り、遍く秩序立てて諸々を祭り、神祇の恩に答えた。
こうして中臣・斎部の二氏は共に祠祀の職を掌る。猿女君氏は神楽の事によって仕えた。その他の諸氏それぞれも職があった。 -
己未年3月20日
司に詔して帝宅を造り始める。
【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 神武天皇即位前紀 己未年三月庚辰条】
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庚申年8月16日
天皇は正妃を立てるために、改めて貴族の子孫を探した。
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 庚申年八月戊辰条】
時に人がいて、「事代主神と三島溝橛耳神の女の玉櫛媛が生んだ子を名付けて媛蹈鞴五十鈴媛命といいます。これは容色優れた者です」と奏上した。天皇はこれを喜んだ。-
大后とする美人を探し求める時、大久米命が「ここに
【古事記 中巻 神武天皇段】少女 がおります。これは神の御子といいます。その神の御子というわけは、三島湟咋の女の勢夜陀多良比売は容姿が美しく、美和の大物主神がそれを気に入り、その美人が大便をする時に丹塗 矢と化し、大便をする溝を流れ下って、その美人の陰部を突きました。美人は驚いて走り回り、慌てふためきました。そしてその矢を持って来て、床のそばに置くと、矢は麗しい壮夫となり、その美人を娶りました。そして生まれた子を富登多多良伊須須岐比売命、またの名を比売多多良伊須気余理比売といいます(これは『ほと』という名を嫌って後に名を改めたのである)。それでこれを神の御子というのです」と言った。
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庚申年9月24日
媛蹈鞴五十鈴媛命を召して正妃とする。
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 庚申年九月乙巳条】-
七人の少女が
高佐士野 で遊んでいた。伊須気余理比売もその中にいた。
大久米命はその伊須気余理比売を見ると、歌で天皇に尋ねた。「
夜 麻 登 能 多 加 佐 士 怒 袁 那 那 由 久 袁 登 賣 杼 母 多 禮 袁 志 摩 加 牟 」伊須気余理比売は少女達の先頭に立っていた。
天皇はその少女達を見て、伊須気余理比売が先頭に立っていることを知り、歌で答えた。「
加 都 賀 都 母 伊 夜 佐 岐 陀 弖 流 延 袁 斯 麻 加 牟 」大久米命は天皇の言葉を使って伊須気余理比売に詔した。
すると大久米命の入れ墨をした鋭い目を見て不思議に思い、歌った。「
阿 米 都 都 知 杼 理 麻 斯 登 登 那 杼 佐 祁 流 斗 米 」大久米命は歌で答えた。
「
袁 登 賣 爾 多 陀 爾 阿 波 牟 登 和 加 佐 祁 流 斗 米 」こうしてその少女は「お仕え致しましょう」と言った。
その伊須気余理比売命の家は狭井 河のほとりにあり、天皇は伊須気余理比売のもとに出かけて一晩休んだ。佐韋河 というわけは、その河辺に山百合が多くあり、その山百合の名から佐韋河と名付けた。山百合のもとの名は佐韋である。
後にその伊須気余理比売が宮中に参内した時に、天皇は御歌を歌った。「
【古事記 中巻 神武天皇段】阿 斯 波 良 能 志 祁 志 岐 袁 夜 邇 須 賀 多 多 美 伊 夜 佐 夜 斯 岐 弖 和 賀 布 多 理 泥 斯 」
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神武天皇元年1月1日
天皇は
【日本書紀 巻第三 神武天皇元年正月庚辰朔条】橿原宮 にて即位した。この年を天皇元年とした。
正妃を尊んで皇后とした。皇子神八井命・神渟名川耳尊が生まれた。
それで古語でも称して「畝傍 の橿原に、御殿の柱を大地の底の岩にしっかりと立てて、高天原に千木高くそびえ、初めて天下を治めた天皇を名付けて神日本磐余彦火火出見天皇という」と。
初めて天皇が国政を始める日に、大伴氏の遠祖道臣命が大来目部 を率いて密命を受け、よく諷歌 ・倒語 をもって、災いを払った。倒語を用いるのはこれより始まった。-
神武天皇元年1月1日
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神武天皇元年11月15日
宇摩志麻治命は殿内に
【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 神武天皇元年十一月庚寅条】天璽瑞宝 を奉斎した。帝・后の為に御魂を崇め鎮めて、寿祚を祈った。所謂御鎮魂祭 はこれより始まった。
凡てその天瑞 とは、宇摩志麻治命の親の饒速日尊が天より授かって持って来た天璽瑞宝十種 がこれである。
所謂瀛都鏡 一つ。
辺都鏡 一つ。
八握剣 一つ。
生玉 一つ。
死反玉 一つ。
足玉 一つ。
道反玉 一つ。
蛇比礼 一つ。
蜂比礼 一つ。
品物比礼 一つである。
天神が教え導びくには、「もし痛むところがあれば、この十宝謂『一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。ふるべ、ゆらゆらとふるべ』と言いなさい。このようにすれば、死人は生き返ります」と。
即ちこれが布瑠之言 のもとである。
所謂御鎮魂祭とは、これがそのもとである。
その鎮魂祭の日には、猿女君 らが百歌女 を率いて、その言の本を挙げて神楽を歌い舞うのは、尤もこれがそのもとである。 -
神武天皇2年2月2日
天皇は論功行賞を行った。
道臣命に宅地を賜り、
築坂邑 に住まわせて、特に寵愛した。
また大来目は畝傍山 の西の川辺の地に住まわせた。今、来目邑 というのはこれが元である。また弟猾に
猛田邑 を賜った。よって猛田県主 とした。これは菟田主水部 の遠祖である。また頭八咫烏も賞の内に入った。その子孫は
【日本書紀 巻第三 神武天皇二年二月乙巳条】葛野主殿県主部 である。-
神武天皇2年2月2日
宇摩志麻治命に詔して「お前の勲功は、思えば大功である。公は思えば忠節である。よって先ず神霊の剣を授けて、不世の勲に酬いよう。今、股肱の職に配えて、永く二心の無い美を伝えて、今後、子々孫々連綿と必ずこの職を継ぎ、永く大いなる鑑としよう」と。
宇摩志麻治命・天日方奇日方命は共に拝命して、申食国政大夫となった。その申食国政大夫とは、今の大連である。または大臣という。
天日方奇日方命は皇后の兄で、大神君 の祖である。道臣命に詔して「お前は忠節で勇ましく、良く導いた功がある。よって先ず日臣を改めて道臣とする。加えて大来目を率い、軍の将として密命を受け、
諷歌 ・倒語 を用いて妖気を払った。このように功を成すことに忠実であった。将軍と為して後世に伝えよう」と。
その倒語を用いるのは、この時より始まった。即ち大伴連 らの祖である。
また道臣に宅地を賜り、築坂邑 に住まわせ、これを以って報いとした。
また大来目を畝傍山 の西の川辺の地に住まわせた。今来目邑 というのは、これがそのもとである。久米連 の祖である。椎根津彦に詔して「お前は皇舟を迎えて導いた。功績を
香山 の頂きに表した。よって誉めて倭国造とする」と。その国造は、これより始まった。これが大倭連 らの祖である。弟磯城黒速に詔して「お前は兄磯城が逆賊の首領であると申した勇気があった。よって子孫を
磯城県主 とすると。頭八咫烏に詔して「お前は皇軍を導いた功がある。よって賞の例に入る」と。その子孫は
【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 神武天皇二年二月乙巳条】葛野県主 らである。
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神武天皇4年2月23日
詔して「我が皇祖の霊が天より降り見て、我が身を照らして助けて下さった。今多くの賊を平らげ、天下は何事もない。よって天神を祀り、大孝を申し上げるべきである」と。
【日本書紀 巻第三 神武天皇四年二月甲申条】
祀りの場を鳥見山 の中に立てて、その地を名付けて上小野 の榛原 ・下小野 の榛原という。そして皇祖天神 を祀った。 -
神武天皇31年4月1日
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神武天皇42年1月3日
皇子神渟名川耳尊を立てて皇太子とする。
【日本書紀 巻第三 神武天皇四十二年正月甲寅条】 -
神武天皇76年3月11日
【日本書紀 巻第三 神武天皇七十六年三月甲辰条】橿原宮 で崩じる。
時に御年百二十七歳。-
御年百三十七歳。
【古事記 中巻 神武天皇段】
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丁丑年9月12日
【日本書紀 巻第三 神武天皇七十六年明年九月丙寅条】畝傍山東北陵 に葬られる。-
御陵は
【古事記 中巻 神武天皇段】畝火山之北方白檮尾上 にある。
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