五瀬命
- 名前
- 五瀨命【日本書紀,古事記】(いつせのみこと)五瀬命
- 彥五瀨命【日本書紀】(ひこいつせのみこと)彦五瀬命
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 庚午年12月30日)
- 没年月日
- 戊午年5月8日
- 父
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊 【日本書紀 巻第二 神代下第十一段】
- 母
玉依姫 【日本書紀 巻第二 神代下第十一段】
- 先祖
- 出来事
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( ~ 庚午年12月30日)弟の神武天皇誕生以前。
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と玉依姫の長男として生まれる。
【日本書紀 巻第二 神代下第十一段】 -
神日本磐余彦尊が、兄や子達に言うには「昔我が天神である高皇産霊尊と大日孁尊が、ここ
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 甲寅年条】豊葦原 の瑞穂国 を我が天祖彦火瓊瓊杵尊に授けられた。火瓊瓊杵尊は天関 を開き、雲路を押し分けて行幸なされた。この時まだ世は甚だ暗かったが、それでも正しい道を養い、この西のほとりをお治めになられた。皇祖皇考は善政をお敷きになられ、恩沢が行きわたった。天祖が降臨なされてから百七十九万二千四百七十余年。しかし遠くの地では未だ恩沢が行きわたらず、村の長がそれぞれに境を設けて相争っている。塩土老翁が言うには、『東に美しい地があり、青山が四方を囲んでいる。その中に天磐船 に乗って飛び降った者がいる』という。私が思うに、その地は必ず大業を広めることができ、天下を治めるのに良いであろう。六合の中心であろうか。飛び降った者は饒速日という者か。そこに行って都を造ろう」と。
諸皇子たちは「その通りです。私たちも思いは同じです。速やかに実行しましょう」と答えた。-
神倭伊波礼毘古命とその同母兄の五瀬命の二人は
【古事記 中巻 神武天皇段】高千穂宮 で議論して「どこであれば平らかに天下の政を行えるだろうか。やはり東方に行こうと思う」と。
それで日向を出発して筑紫に向った。
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戊午年4月9日
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年四月甲辰条】孔舎衛坂 で長髄彦の軍と交戦中に流れ矢が肘脛に当たる。-
手に登美毘古の矢を受ける。
【古事記 中巻 神武天皇段】
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戊午年5月8日
軍は
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年五月癸酉条】茅渟 茅淳。此云智怒。の山城水門 に着いた。
時に五瀬命の矢傷がひどく痛んだ。そして剣の柄を握りしめて「残念だ。大丈夫が賊の手により傷を負い、報いずに死ぬとは」と雄叫びを上げた。それで時の人はそこを名付けて雄水門 という。
軍を進めて、紀国 の竈山 に着いた時に五瀬命は薨じた。よって竈山に葬った。-
南方から回って進軍して、
【古事記 中巻 神武天皇段】血沼海 に至り、ここで手の血を洗った。それで血沼海という。
そこからさらに進んで紀国 の男之水門 に着くと、五瀬命は「賤しい奴に負わされた傷で死ぬのか」と雄叫んで薨じた。それでその水門を名付けて男水門 という。陵は紀国の竈山 にある。
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戊午年12月4日
皇軍は遂に長髄彦を討つこととなった。しきりに戦ったが勝つことが出来なかった。
時に忽ちにして曇ると氷雨が降った。また金色の不思議な鵄が飛んできて皇弓の先に止まった。その鵄は光り輝き、そのさまは雷光のようであった。
これにより長髄彦の軍は戸惑い、力を出して戦うことが出来なかった。昔、
孔舎衛 の戦いで五瀬命が矢に当たって薨じたことを天皇は忘れず、常に恨みを抱いていた。それでこの戦いで仇を討ちたいと思った。そして歌を詠んだ。「
瀰 都 瀰 都 志 倶 梅 能 故 邏 餓 介 耆 茂 等 珥 先代旧事本紀では、同様の歌が載っているが、「かきもとに」はなく、「くめのこらが あはふには」となる。阿 波 赴 珥 破 介 瀰 羅 毗 苔 茂 苔 曾 廼 餓 毛 苔 曾 禰 梅 屠 那 藝 弖 于 笞 弖 之 夜 莽 務 」また歌を詠んだ。
「
瀰 都 瀰 都 志 倶 梅 能 故 邏 餓 介 耆 茂 等 珥 宇 惠 志 破 餌 介 瀰 句 𦤶 弭 比 倶 和 例 破 涴 輸 例 儒 于 智 弖 之 夜 莽 務 」それでまた兵を放って急追させた。すべて諸々の歌を
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年十二月丙申条】来目歌 という。これは歌った者を指して名付けている。
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