天富命

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名前
  • 天富命【古語拾遺】(あ, あま
  • 天富貴命【新撰姓氏録抄】(あ, あま
出来事
  • 妖気は既に晴れ、また風塵も無いので、神武天皇は都を橿原(かしはら)に建てて、帝宅を造った。

    太玉命の孫の天富命に命じて、手置帆負彦狭知の二神の孫を率いて、斎斧(いみおの)斎鉏(いみすき)を使って山材を採り、正殿を造り立てた。地底に宮柱をしっかり立てて、高天原に届くほど高く、皇孫命の御殿を造り、仕え奉った。
    それでその子孫は今、紀伊国の名草郡(なぐさのこおり)御木(みき)麁香(あらか)の二郷に在る。古語で正殿を麁香(あらか)という。
    木材を採る斎部が居る所を御木(みき)という。殿を造る斎部が居る所を麁香(あらか)という。これがその証である。

    また天富命に命じて斎部の諸氏を率いて、様々な神宝である鏡・玉・矛・盾・木綿・麻などを作らせた。
    櫛明玉命の孫は御祈玉(みほきたま)を造った。古語に美保伎玉(みほきたま)という。祈禱のことである。その子孫は今、出雲国に在る。毎年貢物と共にその玉を献上する。
    天日鷲命の孫は木綿(ゆう)()織布(あらたえ)古語阿良多倍を造った。そして天富命に命じて日鷲命の孫を率いて、良い肥えた地を求めて阿波国に遣わして、穀・麻の種を植えた。その子孫は今その国に在る。
    大嘗の年に木綿・麻布など様々な物を献上する。それで郡の名を麻殖(おえ)とするのはこれがもとである。
    天富命は更に肥沃な地を求めて、阿波の斎部を分けて東の地に行って、麻・穀を植えた。良い麻が育ったので総国(ふさのくに)といい、穀の木が育ったので結城郡(ゆうきのこおり)という。古語に麻を(ふさ)という。今、上総(かみつふさ)下総(しもつふさ)の二国とするのはこれである。阿波の忌部が居る所は安房郡(あわのこおり)という。今の安房国がこれである。
    天富命はその地に太玉命の社を立てた。今は安房社(あわのやしろ)という。それでその神戸に斎部氏が在る。
    また手置帆負命の孫は矛竿を造った。その子孫は、今は分かれて讚岐国に在る。毎年貢物の外に八百竿(やおさお)沢山の矛。を献上する。これがその事の証である。

    ここに皇天二組の詔に従って神籬(ひもろき)を建てた。
    高皇産霊神産霊魂留産霊生産霊足産霊大宮売神事代主神御膳神。以上の神は、今は御巫(みかんなぎ)が斎い奉っている。
    櫛磐間戸神豊磐間戸神。以上の神は、今は御門の巫が斎い奉っている。
    生島(いくしま)。これは大八洲(おおやしま)(みたま)である。今は生島の巫が斎い奉っている。
    坐摩(いかすり)。これは大宮地(おおみやどころ)の霊である。今は坐摩の巫が斎い奉っている。

    日臣命来目部(くめべ)を率いて宮門を護り、その開闔を掌った。
    饒速日命内物部(うちのもののべ)を率いて矛・盾を造り備えた。その物は既に備わり、天富命は諸々の斎部(いんべ)を率いて、天璽の鏡・剣を捧げち、正殿に安置し、また瓊玉(たま)を懸け、その幣物(みてぐら)を連ねて、殿祭の祝詞をあげた。その祝詞文は別巻にある。
    次に宮門を祭った。その祝詞もまた別巻にある。
    然る後、物部は矛・盾を立て、大伴・来目は(つわもの)を建て、門を開いて四方の国々の長を集めて、天位の貴さを知らしめた。

    この時には、帝と神との間は遠くは無かった。殿(おおとの)を同じく床を共にし、これを常とした。神物・官物の分別は無かった。
    宮内に蔵を立てて斎蔵(いみくら)と名付け、斎部氏に永くその職を任せた。

    また天富命に諸氏を率いさせて大幣(おおみてぐら)を作らせた。
    天児屋命の孫天種子命に命じて天罪・国罪の事を祓わせた。所謂天罪とは、上で既に述べているスサノオがアマテラスの田を荒らす話で出てくる。。国罪は国中の人民が犯す罪である。その事は詳しく中臣(なかとみ)祓詞(はらえのことば)にある。そして霊畤(まつりのにわ)鳥見山(とみやま)の中に立てた。
    天富命は幣を連ねて祝詞をして皇天を祭り、遍く秩序立てて諸々を祭り、神祇の恩に答えた。
    こうして中臣・斎部の二氏は共に祠祀の職を掌る。猿女君氏は神楽の事によって仕えた。その他の諸氏それぞれも職があった。

    【古語拾遺 神武天皇段】
関連
  • 二世祖:太玉命ふとたまのみこと【古語拾遺 神武天皇段】
  • 五世孫:古佐麻豆知命こさまつちのみこと【新撰姓氏録抄 第二帙 第二十巻 和泉国神別 天孫 穴師神主条】