磐之媛命
- 名前
- 磐之媛命【日本書紀】(いわのひめのみこと, いはのひめのみこと)
- 石之日賣命【古事記】(いわのひめのみこと, いはのひめのみこと)石之日売命
- 磐媛命【先代旧事本紀】(いわのひめのみこと, いはのひめのみこと)
- 性別
- 女性
- 生年月日
- ( ~ 仁徳天皇2年3月8日)
- 没年月日
- 仁徳天皇35年6月
- 父
葛城襲津彦 【日本書紀 巻第十二 履中天皇即位前紀】
- 先祖
- 配偶者
仁徳天皇 【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇二年三月戊寅条】
- 子
- 出来事
-
仁徳天皇2年3月8日
仁徳天皇の皇后となる。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇二年三月戊寅条】 -
仁徳天皇7年4月1日
仁徳天皇が皇后に語って「朕は既に富んでいる。愁えることはない」と言うと、皇后は「何を富んでいるのでございましょうか」と答えた。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇七年四月辛未朔条】
天皇が「炊煙が国に満ちている。人民が富んでいるのであろう」と言うと、皇后は「宮垣が崩れても修理なさらず、大殿の屋根は破れて衣が濡れてしまいます。なぜ富んでいると言えるのでございましょうか」と言った。
天皇が言うには「天が君を立てるのは人民のためである。だから君は人民を以って本とする。それで古の聖王は、一人でも飢えや寒さに苦むことがあれば自分を責めた。人民が貧しければ自分が貧しいのと同じであり、人民が富んでいれば自分が富んでいるのと同じである。人民が富んでいるのに君が貧しいということはない」と。 -
仁徳天皇7年8月9日
仁徳天皇が皇后のために
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇七年八月丁丑条】葛城部 を定める。-
大后の
【古事記 下巻 仁徳天皇段】御名代 として葛城部 を定める。
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仁徳天皇22年1月
天皇は皇后磐之媛命に「八田皇女を召し入れて妃とする」と言った。皇后は承知しなかった。
天皇は歌で皇后に乞うた。「
于 磨 臂 苔 能 多 菟 屢 虛 等 太 氐 于 磋 由 豆 流 多 曳 磨 菟 餓 務 珥 奈 羅 陪 氐 毛 餓 望 」皇后は歌で答えた。
「
虛 呂 望 虛 曾 赴 多 幣 茂 豫 耆 瑳 用 廼 虛 烏 那 羅 陪 務 耆 瀰 破 箇 辭 古 耆 呂 箇 茂 」天皇はまた歌を詠んだ。
「
於 辭 氐 屢 那 珥 破 能 瑳 耆 能 那 羅 弭 破 莽 那 羅 陪 務 苔 虛 層 曾 能 古 破 阿 利 鷄 梅 」皇后は歌で答えた。
「
那 菟 務 始 能 譬 務 始 能 虛 呂 望 赴 多 幣 耆 氐 箇 區 瀰 夜 儾 利 破 阿 珥 豫 區 望 阿 羅 儒 」天皇はまた歌を詠んだ。
「
阿 佐 豆 磨 能 避 箇 能 烏 瑳 箇 烏 箇 多 那 耆 珥 瀰 𦤶 喩 區 茂 能 茂 多 遇 譬 氐 序 豫 枳 」皇后は遂に許さず、黙って返答しなかった。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇二十二年正月条】 -
仁徳天皇30年9月11日
皇后は
紀国 紀伊国の古称。の熊野岬 に行啓した。
そしてそこの御綱葉 葉。此云箇始婆。を採って帰った。天皇は皇后不在を伺い、八田皇女を娶って宮中に召し入れた。
時に皇后が
難波済 に至り、天皇が八田皇女を召し入れたことを聞いて大いに恨んだ。
そしてその採った御綱葉を海に投げ入れて、岸にとまらなかった。
それで時の人は、葉を散らした海を名付けて葉済 というのである。天皇は皇后が怒って着岸しなかったことを知らずに、難波の大津に行幸して皇后の船を待った。
そして歌を詠んだ。「
那 珥 波 譬 苔 須 儒 赴 泥 苔 羅 齊 許 辭 那 豆 瀰 曾 能 赴 尼 苔 羅 齊 於 朋 瀰 赴 泥 苔 禮 」皇后は大津に泊まらず、引きかえして川を遡り、山背から廻って倭に出た。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十年九月乙丑条】-
【古事記 下巻 仁徳天皇段】
大后が酒宴を催すために
御綱柏 を採りに木国 紀伊国に出かけた間に、天皇は八田若郎女と結婚した。
大后が御綱柏を船に満載して帰還した時、水取司 飲料水を司る役所。に遣わした吉備国の児島の仕丁 が自分の国に帰る途上、難波の大渡で大后に遅れてやってきた倉人女 の船に出会った。
仕丁が言うには「天皇は、このごろ八田若郎女と結婚されて、昼も夜も戯れ遊んでございます。大后がお聞きにならないためか、のんびりと遊びにお出かけになってございます」と。
倉人女はこれを聞くと、大后の御船に追い近づいて、仕丁の言葉をつぶさに伝えた。
大后は大いに恨み怒って、その御船に載せた御綱柏の全てを海に投げ捨てた。
それでその地を名付けて御津前 という。そして宮に入らずに御船を引き避けて堀江を遡り、河の流れに従って山代に上った。
この時に歌を詠んだ。「
都 藝 泥 布 夜 夜 麻 志 呂 賀 波 袁 迦 波 能 煩 理 和 賀 能 煩 禮 婆 迦 波 能 倍 邇 淤 斐 陀 弖 流 佐 斯 夫 袁 佐 斯 夫 能 紀 斯 賀 斯 多 邇 淤 斐 陀 弖 流 波 毘 呂 由 都 麻 都 婆 岐 斯 賀 波 那 能 弖 理 伊 麻 斯 芝 賀 波 能 比 呂 理 伊 麻 須 波 淤 富 岐 美 呂 迦 母 」そして山代をまわって、那良山の入口に至り、歌を詠んだ。
「
都 藝 泥 布 夜 夜 麻 志 呂 賀 波 袁 美 夜 能 煩 理 和 賀 能 煩 禮 婆 阿 袁 邇 余 志 那 良 袁 須 疑 袁 陀 弖 夜 麻 登 袁 須 疑 和 賀 美 賀 本 斯 久 邇 波 迦 豆 良 紀 多 迦 美 夜 和 藝 幣 能 阿 多 理 」このように歌って還り、
筒木 の韓人 奴理能美の家に暫く入った。天皇は大后が山代から上ってきたと聞いて、舎人の名を鳥山という人を遣わして御歌を送った。
「
夜 麻 斯 呂 邇 伊 斯 祁 登 理 夜 麻 伊 斯 祁 伊 斯 祁 阿 賀 波 斯 豆 摩 邇 伊 斯 岐 阿 波 牟 加 母 」また続けて丸邇臣口子を遣わして歌を詠んだ。
「
美 母 呂 能 曾 能 多 迦 紀 那 流 意 富 韋 古 賀 波 良 意 富 韋 古 賀 波 良 邇 阿 流 岐 毛 牟 加 布 許 許 呂 袁 陀 邇 迦 阿 比 淤 母 波 受 阿 良 牟 」また歌を詠んだ。
「
都 藝 泥 布 夜 麻 志 呂 賣 能 許 久 波 母 知 宇 知 斯 淤 富 泥 泥 士 漏 能 斯 漏 多 陀 牟 岐 麻 迦 受 祁 婆 許 曾 斯 良 受 登 母 伊 波 米 」
それで口子臣がこの御歌を述べる時に大雨が降っていたが、その雨を避けずに御殿の表戸で平伏していると、大后は裏戸から出てきた。
裏戸で平伏すると表戸から出てきた。
それで地を腹這いで進み、庭の中央で跪いて腰まで水に浸かった。
その臣は紅い紐のついた青摺の衣を着ていた。それで紅い紐が水たまりに浸かり、青い衣は紅に変色した。
口子臣の妹の口日売は大后に仕えていた。
それでこの口日売が歌を詠んだ。「
夜 麻 志 呂 能 都 都 紀 能 美 夜 邇 母 能 麻 袁 須 阿 賀 勢 能 岐 美 波 那 美 多 具 麻 志 母 」そこで太后がそのわけを尋ねると、「我が兄口子臣でございます」と答えた。
口子臣・その妹の口比売・奴理能美の三人が相談して天皇に奏上するには「大后が行幸なされましたのは、奴理能美が飼っている虫が、一度は這う虫になり、一度は繭になり、一度は鳥を飛び、三色に変わる不思議な虫であり、この虫を御覧になるためで、他意はございません」と。
天皇は「自分も奇妙だと思うので、見に行こうと思う」と言うと、大宮から上って奴理能美の家に入った。
その奴理能美は自分が育てている三種に変わる虫を大后に献上した。
天皇は大后がいる御殿の戸口に立って歌を詠んだ。「
都 藝 泥 布 夜 麻 斯 呂 賣 能 許 久 波 母 知 宇 知 斯 意 富 泥 佐 和 佐 和 爾 那 賀 伊 幣 勢 許 曾 宇 知 和 多 須 夜 賀 波 延 那 須 岐 伊 理 麻 韋 久 禮 」この天皇と大后が歌った六歌は、
志都歌之歌返 である。日本書紀では同年十一月まで話が続くが、まとめてここに置く。 -
【古事記 下巻 仁徳天皇段】
天皇はその弟の速総別王を仲人として、庶妹の女鳥王を求めた。
しかし女鳥王が速総別王に言うには「大后の嫉妬が強く、八田若郎女はお召しに預かれておりません。私もお仕えすることは出来ないと思います。私はあなた樣の妻になりましょう」と。
すぐに結婚した。速総別王は復命しなかった。そこで天皇は女鳥王のいる御殿に行って、その御殿の戸口の敷居の上にいた。
女鳥王は機に坐して服を織っていた。
そこで天皇は歌を詠んだ。「
賣 杼 理 能 和 賀 意 富 岐 美 能 淤 呂 須 波 多 他 賀 多 泥 呂 迦 母 」女鳥王は答えて歌を詠んだ。
「
多 迦 由 久 夜 波 夜 夫 佐 和 氣 能 美 淤 須 比 賀 泥 」天皇は事情を知って宮中に帰った。
その夫の速総別王がやって来た時に、その妻の女鳥王が歌を詠んだ。
「
比 婆 理 波 阿 米 邇 迦 氣 流 多 迦 由 玖 夜 波 夜 夫 佐 和 氣 佐 邪 岐 登 良 佐 泥 」天皇はこの歌を聞くと、すぐに軍を興して殺そうとした。
速総別王と女鳥王は共に逃げ退いて
倉椅山 に登った。
ここで速総別王が歌を詠んだ。「
波 斯 多 弖 能 久 良 波 斯 夜 麻 袁 佐 賀 志 美 登 伊 波 迦 伎 加 泥 弖 和 賀 弖 登 良 須 母 」また歌を詠んだ。
「
波 斯 多 弖 能 久 良 波 斯 夜 麻 波 佐 賀 斯 祁 杼 伊 毛 登 能 煩 禮 波 佐 賀 斯 玖 母 阿 良 受 」
そしてその地から逃亡して、宇陀 の蘇邇 に至るときに、御軍が追いつかれて殺された。将軍山部大楯連は、その女鳥王が御手に巻いていた
玉釧 玉で作った腕輪を取って、自分の妻に与えた。
この後、宮中で宴会を開いたときに、各氏族の女達が皆参内した。
大楯連の妻は王の玉釧を手に巻いて参内した。
大后石之日売命は自ら大御酒を乗せた柏の葉を、各氏族の女達に賜った。
大后はその玉釧を見知っていたので、御酒の柏を賜らずに退席した。
そしてその夫の大楯連を召し出して、「その王らは無礼を働いたので退けた。これを怪しむことなどはない。奴め。主君の御手に巻かれた玉釧を、肌が温かいうちに剥ぎ取って自分の妻に与えるとは」と言うと、死刑を賜った。日本書紀では、この時既に石之日売命は崩じていて、皇后は八田若郎女となっている。
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仁徳天皇30年9月12日
天皇は舎人の鳥山を遣わして皇后を還らせようと歌を詠んだ。
「
夜 莽 之 呂 珥 伊 辭 鷄 苔 利 夜 莽 伊 辭 鷄 之 鷄 阿 餓 茂 赴 菟 摩 珥 伊 辭 枳 阿 波 牟 伽 茂 」
皇后は還らずに猶も進み、山背河に至って歌を詠んだ。「
菟 藝 泥 赴 揶 莽 之 呂 餓 波 烏 箇 破 能 朋 利 涴 餓 能 朋 例 麼 箇 波 區 莽 珥 多 知 瑳 介 喩 屢 毛 毛 多 羅 儒 揶 素 麼 能 紀 破 於 朋 耆 瀰 呂 介 茂 」そして那羅山を越えて、
葛城 を望んで歌を詠んだ。「
菟 藝 泥 赴 揶 莽 之 呂 餓 波 烏 瀰 揶 能 朋 利 和 餓 能 朋 例 麼 阿 烏 珥 豫 辭 儺 羅 烏 輸 疑 烏 陀 氐 夜 莽 苔 烏 輸 疑 和 餓 瀰 餓 朋 辭 區 珥 波 箇 豆 羅 紀 多 伽 瀰 揶 和 藝 弊 能 阿 多 利 」また山背に還って宮室を
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十年九月乙丑明日条】筒城岡 の南に建てて住んだ。 -
仁徳天皇30年10月1日
天皇は口持臣を遣わして皇后を招喚した。
口持臣は筒城宮 に着き、皇后に謁見した。しかし黙って返事がなかった。
口持臣は雨に濡れて日を重ねても皇后の殿舎の前に伏して去ることはなかった。口持臣の妹の国依媛は皇后に仕えていた。
この時にあたり皇后の側で侍り、雨に濡れる兄を見て涙を流して歌を詠んだ。「
揶 莽 辭 呂 能 菟 菟 紀 能 瀰 揶 珥 茂 能 莽 烏 輸 和 餓 齊 烏 瀰 例 麼 那 瀰 多 愚 摩 辭 茂 」皇后は国依媛に「なぜお前は泣いているのか」と尋ねると、「今庭に伏して申し上げる者は私の兄でございます。雨に濡れても避けず、猶も伏して申し上げております。それで泣き悲しんでいるのでございます」と答えた。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十年十月甲申朔条】
皇后は「お前の兄に言って速やかに帰らせなさい。私は帰りません」と言った。
口持は帰って天皇に報告した。 -
仁徳天皇30年11月7日
天皇は船で山背に行幸した。
時に桑の枝が水に流れてきた。
天皇は桑の枝を見て歌を詠んだ。「
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十年十一月庚申条】菟 怒 瑳 破 赴 以 破 能 臂 謎 餓 飫 朋 呂 伽 珥 枳 許 瑳 怒 于 羅 愚 破 能 紀 豫 屢 麻 志 士 枳 箇 破 能 區 莽 愚 莽 豫 呂 朋 譬 喩 玖 伽 茂 于 羅 愚 破 能 紀 」 -
仁徳天皇30年11月8日
天皇は
筒城宮 に行って皇后を呼んだ。皇后は会おうとしなかった。
天皇は歌を詠んだ。「
菟 藝 泥 赴 揶 摩 之 呂 謎 能 許 久 波 茂 知 于 智 辭 於 朋 泥 佐 和 佐 和 珥 儺 餓 伊 弊 劑 虛 曾 于 知 和 多 須 椰 餓 波 曳 儺 須 企 以 利 摩 韋 區 例 」また歌を詠んだ。
「
菟 藝 泥 赴 夜 莽 之 呂 謎 能 許 玖 波 茂 知 于 智 辭 於 朋 泥 泥 士 漏 能 辭 漏 多 娜 武 枳 摩 箇 儒 鷄 麼 虛 曾 辭 羅 儒 等 茂 伊 波 梅 」皇后は人に申し上げさせて「陛下は八田皇女を召し入れて妃となさいました。皇女と一緒に后になりたくございません」と。
遂に会うことはなく、天皇は宮殿に戻った。天皇は皇后が大いに怒っているのを恨んだが、猶も偲び思うことがあった。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十年十一月庚申明日条】 -
仁徳天皇35年6月
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十五年六月条】筒城宮 で薨原文ママ。る。 -
仁徳天皇37年11月12日
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十七年十一月乙酉条】那羅山 に葬られる。 -
仁徳天皇38年1月6日
八田皇女が皇后となる。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十八年正月戊寅条】
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