- 名前
- 武內宿禰【日本書紀】(たけしうちのすくね, たけのうちのすくね, たけうちのすくね)武内宿禰
- 建內宿禰【古事記】(たけしうちのすくね, たけのうちのすくね)建内宿禰
- 建內宿禰命【古事記】(たけしうちのすくねのみこと, たけのうちのすくねのみこと)建内宿禰命
- 建內宿禰大臣【古事記】(たけしうちのすくねのおおおみ, たけしうちのすくねのおほおみ, たけのうちのすくねのおおおみ, たけのうちのすくねのおほおみ)建内宿禰大臣
- 武內宿禰命【新撰姓氏録抄】(たけしうちのすくねのみこと, たけのうちのすくねのみこと)武内宿禰命
- 建內足尼【先代旧事本紀】(たけしうちのすくね, たけのうちのすくね)建内足尼
- 紀武內宿禰【紀氏家牒逸文】(きのたけしうちのすくね, きのたけのうちのすくね)紀武内宿禰
- キーワード
- 後裔は左京
田口朝臣 ・左京林朝臣 ・左京雀部朝臣 ・左京生江臣 ・左京布師首 ・右京八多朝臣 ・山城国曰佐 ・大和国星川朝臣 ・大和国阿祇奈君 ・大和国曰佐・大和国池後臣 ・大和国巨勢楲田臣 ・摂津国雀部朝臣・摂津国坂本臣 ・河内国山口朝臣 ・河内国林朝臣・河内国布忍首 【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
- 後裔は左京
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 景行天皇14年
- 没年月日
- (仁徳天皇50年3月5日 ~ 允恭天皇5年7月14日)
- 父
- 母
影媛 (山下影日売 )【日本書紀 巻第七 景行天皇三年二月庚寅朔条, 古事記 中巻 孝元天皇段】
- 先祖
- 配偶者
- 子
- 称号・栄典
大臣 【日本書紀 巻第七 成務天皇三年正月己卯条】
- 出来事
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景行天皇14年【日本書紀 巻第七 成務天皇三年正月己卯条】
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景行天皇25年7月3日
景行天皇の命令で、
【日本書紀 巻第七 景行天皇二十五年七月壬午条】北陸 及び東方の諸国の地形、また百姓の有様を調査する。 -
景行天皇27年2月12日
東国から帰還し、奏上して「東夷にの中に
【日本書紀 巻第七 景行天皇二十七年二月壬子条】日高見国 が御座います。その国の人は、男女共に髪を椎のように結い、体に入れ墨をしております。人々は勇敢で、これを全て蝦夷 と申します。また土地は肥沃で広大で御座います。攻略するのが良いと存じます」と。 -
景行天皇51年1月7日
-
景行天皇51年8月4日
【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条】棟梁之臣 となる。 -
成務天皇3年1月7日
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仲哀天皇9年2月6日
仲哀天皇が崩じる。
神功皇后と武内宿禰は天皇の喪を隠し、天下に知らせなかった。
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇九年二月丁未条】
そして皇后は、武内宿禰及び中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連に詔して「いま天下は天皇の崩御を知らない。もし百姓が知れば怠る者が現れるか」と。
そして、四大夫に命じて百寮を率いて宮中を守らせた。
密かに天皇の遺骸を収め、武内宿禰に任せて海路から穴門 に移した。
そして豊浦宮 で灯火を焚かずに仮葬した。-
仲哀天皇は
筑紫 の訶志比宮 にて、熊曽国を討とうとする時、天皇は御琴を弾き、建内宿禰大臣が沙庭 で神託を請うた。
すると大后に神懸かり、教えて言うには「西方に国がある。金銀をはじめ、目の眩むような様々な珍宝がその国には多くある。私が今その国を帰順させて賜ろう」と。
天皇は答えて「高地に登って西方を見ても国は見えず、ただ大海があるのみです」と言い、詐りを言う神だと思って、御琴をどけて弾くのをやめて黙っていた。
するとその神が大いに怒って言うには「凡そこの天下は、お前の治める国ではない。お前はただ一つの道に行きなさい」と。
そこで建内宿禰大臣が「恐れ多いことで御座います。やはりその大御琴をお弾きなさいませ」と言ったので、そろそろと御琴を取り、しぶしぶ弾いた。
それほど時が経たないうちに御琴の音が聞こえなくなった。すぐに火を点して見てみると、すでに崩じていた。それで驚き恐れて、殯宮に遺体を移すと、国中の
【古事記 中巻 仲哀天皇段】大幣 を集めて、生剥 ・逆剥 ・阿離 ・溝埋 ・屎戸 ・上通下通婚 ・馬婚 ・牛婚 ・鶏婚 ・犬婚 などの罪の類を様々求めて、国をあげて大祓 を行った。
また建内宿禰が沙庭で神託を請うた。ここでの教えは先日と同じで、「凡そこの国は、あなた様の御腹にあらせられる御子がお治めになられる国で御座います」と。
建内宿禰が「恐れ入りました。我が大神よ。その神の御腹にあらせられる御子は、何れの御子でしょうか」と尋ねると、「男子である」と答えた。
さらに詳しく請うて「今教えて頂いた大神の御名を伺いたいと存じます」と。
答えて「これは天照大神の御心である。また底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神である。今まことにその国を求めようと思うのであれば、天つ神と国つ神、また山の神、河・海の諸々の神に、悉く幣帛 を奉り、我が御魂を船上に祭って、真木の灰を瓠 に入れ、また箸と葉盤 を多く作り、それら全てを大海に散らし浮かべて渡りなさい」と。
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仲哀天皇9年2月22日
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇九年二月甲子条】穴門 から帰還して、皇后に復命する。 -
仲哀天皇9年3月1日
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仲哀天皇9年12月14日
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神功皇后摂政元年2月
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神功皇后摂政元年3月5日
神功皇后は武内宿禰と武振熊に命じて、数万の軍勢を率いさせて忍熊王を討たせた。
武内宿禰らは精兵を選んで山背 から出た。
菟道 に至り、河の北に駐屯した。
忍熊王は出陣して戦おうとした。時に武内宿禰は三軍に令して、ことごとく髪を結い上げさせた。
そして号令して「それぞれ控えの弓弦を髪の中に隠し、また木刀を佩け」と言った。
皇后の命を告げて、忍熊王を欺いて言うには「私は天下を貪りません。ただ幼王を抱いて、君王に従うだけです。どうして戦うことがありましょうか。どうか共に武器を捨てて和睦しましょう。そして君王が皇位に登り、安んじて万 の政を行えばよいのです」と。
そして軍中に令して、弓弦を断ち、刀を解いて河に投げ入れさせた。
忍熊王は偽りの言葉を信じて、全軍に令して武器を河に投げ入れて弓弦を断たせた。
ここで武内宿禰は三軍に令して、控えの弓弦を出して張り、真刀を佩かせて、河を渡って進んだ。
忍熊王は欺かれたことを知り、倉見別と五十狭茅宿禰に「私は欺かれた。控えの武器も無く、戦うことが出来ない」と言って、兵を率いて退いた。
武内宿禰は精兵を出して追わせた。
たまたま逢坂 で遭遇して破った。それでその所を名付けて逢坂 という。
逃走した兵の多くは狭狭浪 の栗林 で斬られた。血は流れて栗林に溢れた。それでこの事を憎み、今に至るまで、栗林の菓 は御所に奉らないのである。
忍熊王は逃げ隠れする所も無く、五十狭茅宿禰を呼んで歌を詠んだ。「
伊 裝 阿 藝 伊 佐 智 須 區 禰 多 摩 枳 波 屢 于 知 能 阿 曾 餓 勾 夫 菟 智 能 伊 多 氐 於 破 孺 破 珥 倍 廼 利 能 介 豆 岐 齊 奈 」そして共に瀬田の渡りに沈んで死んだ。
時に武内宿禰が歌を詠んだ。
「
阿 布 彌 能 彌 齊 多 能 和 多 利 珥 伽 豆 區 苔 利 梅 珥 志 彌 曳 泥 麼 異 枳 廼 倍 呂 之 茂 」その屍は探しても見つからなかったが、数日後に
菟道河 で見つかった。
武内宿禰はまた歌を詠んだ。「
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政元年三月庚子条】阿 布 瀰 能 瀰 齊 多 能 和 多 利 珥 介 豆 區 苔 利 多 那 伽 瀰 須 疑 氐 于 泥 珥 等 邏 倍 菟 」 -
神功皇后摂政13年2月8日
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建内宿禰命は、その太子を率いて禊をするために、淡海及び若狭国を巡歴した時、
【古事記 中巻 仲哀天皇段】高志前 の角鹿 に仮宮を造って住んだ。
するとその地にいる伊奢沙和気大神之命が夢に現れて「私の名を御子の御名に変えたいと思う」と言った。
そこで「恐れ入りました。御命令に従って変えさせて頂きます」と言った。
またその神が言うには「明日の朝、浜にお出かけなさいませ。名を変えたしるしの贈り物を献上します」と。
それでその朝に浜に行くと、鼻が傷付いた入鹿魚 が浦に寄り集まっていた。
そこで御子は神に「私に御食 の魚を賜られた」と言った。
それでまたその御名を称えて、御食津大神と名付けた。それで今は気比大神というのである。
またその入鹿魚の鼻の血が臭かった。それでその浦を名付けて血浦 という。今は津奴賀 という。
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神功皇后摂政13年2月17日
角鹿 から帰還する。この日、皇太后は太子の為に大殿で宴会をした。
皇太后は盃を挙げて、太子に祝い事を奉った。そして歌を詠んだ。「
虛 能 彌 企 破 和 餓 彌 企 那 羅 儒 區 之 能 伽 彌 等 虛 豫 珥 伊 麻 輸 伊 破 多 多 須 周 玖 那 彌 伽 未 能 等 豫 保 枳 保 枳 茂 苔 陪 之 訶 武 保 枳 保 枳 玖 流 保 之 摩 菟 利 虛 辭 彌 企 層 阿 佐 孺 塢 齊 佐 佐 」武内宿禰が太子の為に返歌した。
「
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政十三年二月癸酉条】許 能 彌 企 塢 伽 彌 鷄 武 比 等 破 曾 能 菟 豆 彌 于 輸 珥 多 氐 氐 于 多 比 菟 菟 伽 彌 鷄 梅 伽 墓 許 能 彌 企 能 阿 椰 珥 于 多 娜 濃 芝 作 沙 」-
還幸した時、その
御祖 の息長帯日売命が待酒を醸して献上した。その御祖が御歌を歌った。「
許 能 美 岐 波 和 賀 美 岐 那 良 受 久 志 能 加 美 登 許 余 邇 伊 麻 須 伊 波 多 多 須 須 久 那 美 迦 微 能 加 牟 菩 岐 本 岐 玖 琉 本 斯 登 余 本 岐 本 岐 母 登 本 斯 麻 都 理 許 斯 美 岐 叙 阿 佐 受 袁 勢 佐 佐 」このように歌って、大御酒を献上した。
そこで建内宿禰命が御子の為に歌で答えた。「
許 能 美 岐 袁 迦 美 祁 牟 比 登 波 曾 能 都 豆 美 宇 須 邇 多 弖 弖 宇 多 比 都 都 迦 美 祁 禮 迦 母 麻 比 都 都 迦 美 祁 禮 加 母 許 能 美 岐 能 美 岐 能 阿 夜 邇 宇 多 陀 怒 斯 佐 佐 」これは
【古事記 中巻 仲哀天皇段】酒楽 の歌である。
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神功皇后摂政51年3月
百済王が久氐を遣わして朝貢した。
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五十一年三月条】
皇太后は太子と武内宿禰に語って「朕が親しくする百済国は、天の賜える所である。人によるものではない。珍品を常に献上する。朕はこれを常に喜んでいる。朕と同じように、篤く恩恵を加えよ」と。 -
神功皇后摂政69年4月17日
神功皇后が崩じる。
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政六十九年四月丁丑条】 -
応神天皇元年1月1日
誉田別尊が即位する。
【日本書紀 巻第十 応神天皇元年正月丁亥朔条】 -
応神天皇7年9月
【日本書紀 巻第十 応神天皇七年九月条】高麗 人・百済 人・任那 人・新羅 人が来朝した。
時に武内宿禰に命じて諸々の韓人 らを率いて池を造らせた。それでこの池を名付けて韓人池 という。-
新羅人が渡来した。建内宿禰命はこれを率いて、堤の池として
【古事記 中巻 応神天皇段】百済池 を造った。
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応神天皇9年4月
応神天皇は武内宿禰を
筑紫 に遣わして、百姓を監察させた。時に武内宿禰の弟の甘美内宿禰が兄を除こうとした。
そして天皇に讒言して「武内宿禰は常に天下を望む心があります。今聞いた話では筑紫で密かに謀り、『筑紫を裂き、三韓を招いて自分に従わせれば天下を取れる』と言っているようです」と。
すると天皇はすぐに使いを遣わして、武内宿禰を殺すよう命じた。
武内宿禰は歎いて「私に二心は無く、忠をもって君にお仕えしている。これは何の禍なのか。罪も無く死ぬのだろうか」と言った。ここに真根子という者がいて、その姿が武内宿禰によく似ていた。
武内宿禰が無罪で空しく死ぬのを惜しみ、武内宿禰に語って言うには「大臣が忠をもって君に仕え、汚い心など無いことは天下が知っています。どうか密かに朝廷に参り、自ら罪の無いことを弁明してください。その後に死んでも遅くはありません。人は常々、『お前の姿は大臣に似ている』と言います。私が大臣の代わりに死んで、大臣の丹心を明かにします」と。
そして剣をあてて自ら死んだ。武内宿禰は大いに悲しみ、密かに筑紫を出て、船で南の海を回り、
【日本書紀 巻第十 応神天皇九年四月条】紀水門 に泊まった。
どうにか朝廷にたどり着くと、罪の無いこと弁明した。
天皇は武内宿禰と甘美内宿禰を対決させて問うた。
二人は互いに譲らず、是非は決め難かった。
天皇は勅して神祇に請うて探湯 をさせた。
武内宿禰と甘美内宿禰は共に磯城川 のほとりに出て探湯をした。
そして武内宿禰が勝った。
そこで大刀 をとって甘美内宿禰を殴り倒して殺そうとしたが、天皇は勅して許し、紀直 らの祖に賜った。 -
仁徳天皇50年3月5日
河内の人が上奏して「
茨田堤 に雁が子を産みました」と。
その日に使いを遣わして観察させると真実だった。
天皇は歌を詠んで武内宿禰に問うた。「
多 莽 耆 破 屢 宇 知 能 阿 曾 儺 虛 曾 破 豫 能 等 保 臂 等 儺 虛 曾 波 區 珥 能 那 餓 臂 等 阿 耆 豆 辭 莽 揶 莽 等 能 區 珥 珥 箇 利 古 武 等 儺 波 企 箇 輸 揶 」武内宿禰は歌で答えた。
「
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇五十年三月丙申条】夜 輸 瀰 始 之 和 我 於 朋 枳 瀰 波 于 陪 儺 于 陪 儺 和 例 烏 斗 波 輸 儺 阿 企 菟 辭 摩 揶 莽 等 能 倶 珥 珥 箇 利 古 武 等 和 例 破 枳 箇 儒 」-
天皇が宴会を開くために
日女島 に行幸した時、その島で雁が卵を生んだ。
そこで建内宿禰命を呼んで、雁が卵を生んだ様子を歌で尋ねた。「
多 麻 岐 波 流 宇 知 能 阿 曾 那 許 曾 波 余 能 那 賀 比 登 蘇 良 美 都 夜 麻 登 能 久 邇 爾 加 理 古 牟 登 岐 久 夜 」建内宿禰は歌で答えた。
「
多 迦 比 迦 流 比 能 美 古 宇 倍 志 許 曾 斗 比 多 麻 閇 麻 許 曾 邇 斗 比 多 麻 閇 阿 禮 許 曾 波 余 能 那 賀 比 登 蘇 良 美 都 夜 麻 登 能 久 邇 爾 加 理 古 牟 登 伊 麻 陀 岐 加 受 」このように歌い、御琴を賜って歌を詠んだ。
「
那 賀 美 古 夜 都 毘 邇 斯 良 牟 登 加 理 波 古 牟 良 斯 」これは
【古事記 下巻 仁徳天皇段】本岐歌之片歌 である。
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允恭天皇5年7月14日
地震があった。
これより先、允恭天皇は葛城襲津彦の孫の玉田宿禰に命じて反正天皇の殯を任じた。
その地震の夜に尾張連吾襲を遣わして、殯宮の消息を観察させた。このとき諸人は欠けることなく皆が集まっていたが、ただ玉田宿禰だけがいなかった。
吾襲は「殯宮大夫玉田宿禰が殯宮にいません」と上奏した。
また吾襲を葛城 に遣わして、玉田宿禰を探させた。この日、玉田宿禰は男女を集めて酒宴をしていた。
吾襲は状況を玉田宿禰に告げた。
宿禰は問題になる事を恐れて、馬一匹を吾襲に授けて賂とし、密かに吾襲を待ち受けて殺した。
そして武内宿禰の墓地に逃げ隠れた。天皇はこれを聞いて玉田宿禰を呼び寄せた。
【日本書紀 巻第十三 允恭天皇五年七月己丑条】
玉田宿禰は疑って、鎧を衣の内に着て参上した。鎧の端が衣の内から出ていた。
天皇はその状況を明らかにするために、小墾田采女に命じて玉田宿禰に酒を賜った。
采女は衣の内に鎧があることをはっきり見て天皇に報告した。
天皇は武器を用意して殺そうとしたが、玉田宿禰は密かに逃げ出て家に隠れた。
天皇は兵を使って玉田の家を囲み、捕えて殺した。
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