忍熊皇子

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名前
  • 忍熊皇子【日本書紀】(おしくま
  • 忍熊王【日本書紀,古事記】(おしくま
  • 忍熊別皇子【新撰姓氏録抄】(おしくまわ
性別
男性
生年月日
( ~ 神功皇后摂政元年2月29日)
没年月日
神功皇后摂政元年3月5日
  • 仲哀天皇ちゅうあいてんのう【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年正月甲子条】
  • 大中姫おおなかつひめ【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年正月甲子条】
先祖
  1. 仲哀天皇
    1. 日本武尊
      1. 景行天皇
      2. 播磨稲日大郎姫
    2. 両道入姫命
      1. 垂仁天皇
      2. 弟苅羽田刀弁
  2. 大中姫
    1. 彦人大兄
      1. 景行天皇
      2. 伊那毘能若郎女
    2. 銀王
      1. 景行天皇
      2. unknown
出来事
  • 仲哀天皇の皇子として生まれる。母は大中姫

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年正月甲子条】
  • 神功皇后摂政元年2月

    麛坂王と忍熊王は、天皇の崩御、皇后の西征、皇子の誕生を聞き、密かに謀って言うには「いま皇后には子がいて、群臣は皆従っている。必ず共に議って幼主を立てるだろう。我らはなぜ兄であるのに弟に従うのか」と。
    そこで天皇の陵を造る為と詐って、播磨に詣でて山陵を赤石に立てた。
    そして船を連ねて淡路島に渡し、その島の石を運んで造った。
    そして人ごとに武器を取らせて皇后を待った。

    倉見別五十狭茅宿禰は、共に麛坂王に従った。
    それで将軍として東国の兵を起こさせた。

    時に麛坂王と忍熊王は、共に菟餓野(とがの)に出て、狩りで占って「もし成功するならば、必ずよい獣を獲られる」と言った。
    二王がそれぞれ仮の桟敷に居ると、赤い猪が急に出てきて、桟敷に登って麛坂王を喰い殺した。兵士は大いに怖気づいた。
    忍熊王は倉見別に「これは大変なことだ。ここで敵を待ってはいけない」と言った。
    そして軍を引き返して住吉(すみのえ)に駐屯した。

    皇后の船が迫ると、忍熊王はまた軍を引いて菟道(うじ)に陣取った。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政元年二月条】
    • 息長帯日売命(やまと)に帰還する時、人の心が疑わしかったので、喪船を一艘用意して、御子をその喪船に乗せて、先ず「御子は既に崩じた」と言い漏らさせた。
      こうして還幸した時、香坂王・忍熊王はこれを聞いて、待ち受けて討ち取ろうと思い、斗賀野(とがの)に進出して、誓約狩(うけいがり)をした。
      そこで香坂王が櫟の木に登っていると、大きな怒り狂った猪が出てきて、その櫟の木を掘って倒し、香坂王を喰い殺した。

      【古事記 中巻 仲哀天皇段】
    • 神功皇后が新羅を征伐して帰国した。

      翌年、車駕が都に還ろうとする時、忍熊別皇子らが密かに謀反を企んで明石の堺に兵を備えて待っていた。
      皇后は見分けて弟彦王針間(はりま)吉備(きび)の堺に遣わし、関を造って防がせた。
      いわゆる和気関(わけのせき)がこれである。

      【新撰姓氏録抄 第一帙 第五巻 右京皇別下 和気朝臣条】
  • 神功皇后摂政元年3月5日

    武内宿禰の軍が菟道(うじ)に着き、河の北に駐屯した。

    忍熊王は出陣して戦おうとした。
    時に熊之凝者が忍熊王の軍の先鋒となった。
    そして軍を激励するため、声高く歌った。

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    時に武内宿禰が言うには「私は天下を貪りません。ただ幼王を抱いて、君王に従うだけです。どうして戦うことがありましょうか。どうか共に武器を捨てて和睦しましょう。そして君王が皇位に登り、安んじて(よろず)の政を行えばよいのです」と。
    そして軍中に令して、弓弦を断ち、刀を解いて河に投げ入れさせた。
    忍熊王は信じて、全軍に令して武器を河に投げ入れて弓弦を断たせた。
    ここで武内宿禰は三軍に令して、控えの弓弦を出して張り、真刀を佩かせて、河を渡って進んだ。

    忍熊王は欺かれたことを知り、倉見別五十狭茅宿禰に「私は欺かれた。控えの武器も無く、戦うことが出来ない」と言って、兵を率いて退いた。
    武内宿禰は精兵を出して追わせた。
    たまたま逢坂(おうさか)で遭遇して破った。それでその所を名付けて逢坂(おうさか)という。
    逃走した兵の多くは狭狭浪(ささなみ)栗林(くるす)で斬られた。血は流れて栗林に溢れた。それでこの事を憎み、今に至るまで、栗林の(このみ)は御所に奉らないのである。

    忍熊王は逃げ隠れする所も無く、五十狭茅宿禰を呼んで歌を詠んだ。

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    そして共に瀬田の渡りに沈んで死んだ。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政元年三月庚子条】
    • 忍熊王は恐れることなく、軍を起こして待ち受けて、喪船に向い、空船(むなしふね)を攻めた。
      その喪船の下に軍を降ろして相戦った。
      この時、忍熊王は伊佐比宿禰を将軍とした。
      太子の方では難波根子建振熊命を将軍とした。
      そして追い退けて山代(やましろ)に至った時に立ち直って、それぞれ退かずに相戦った。
      建振熊命は計略をめぐらし、「息長帯日売命は既にお隠れになられてしまわれた。更に戦うことはない」と言うと、ただちに弓弦を絶ち、欺いて帰服した。
      その将軍は詐りを信じ、弓を外して武器を収めた。
      そこで束ねた髪の中から用意していた弦(あるいは、うさゆづる宇佐由豆留ともいう)を出して、更に張って追撃した。
      それで逢坂(おうさか)まで逃げ退いて、また向い立って戦った。
      追い迫って沙沙那美(ささなみ)で破り、その軍の悉くを斬った。
      この時に忍熊王と伊佐比宿禰は、共に追い迫られて船に乗り、海に浮かんで歌った。

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      そして海に入って共に死んだ。

      【古事記 中巻 仲哀天皇段】