景行天皇
- 名前
- 漢風諡号:景行天皇(けいこうてんのう, けいかうてんわう)
- 和風諡号:大足彥忍代別天皇【日本書紀】(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと, おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)大足彦忍代別天皇
- 大足彥尊【日本書紀】(おおたらしひこのみこと, おほたらしひこのみこと)大足彦尊
- 大帶日子淤斯呂和氣命【古事記】(おおたらしひこおしろわけのみこと, おほたらしひこおしろわけのみこと)大帯日子淤斯呂和気命
- 大帶日子淤斯呂和氣天皇【古事記】(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと, おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)大帯日子淤斯呂和気天皇
- 大帶日子天皇【古事記】(おおたらしひこのすめらみこと, おほたらしひこのすめらみこと)大帯日子天皇
- 大足彥命【先代旧事本紀】(おおたらしひこのみこと, おほたらしひこのみこと)大足彦命
- 大足彥忍代別尊【先代旧事本紀】(おおたらしひこおしろわけのみこと, おほたらしひこおしろわけのみこと)大足彦忍代別尊
- 日本大足彥忍代別尊【先代旧事本紀】(やまとおおたらしひこおしろわけのみこと, やまとおほたらしひこおしろわけのみこと)日本大足彦忍代別尊
- 大足彥忍別天皇校異【日本書紀】(おおたらしひこおしわけのすめらみこと, おほたらしひこおしわけのすめらみこと)大足彦忍別天皇
- 大足彥天皇【日本書紀】(おおたらしひこのすめらみこと, おほたらしひこのすめらみこと)大足彦天皇
- 纒向日代宮御宇天皇【先代旧事本紀】(まきむくのひしろのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 垂仁天皇17年
- 没年月日
- 景行天皇60年11月7日
- 父
垂仁天皇 【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年八月壬午朔条】
- 母
日葉酢媛命 【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年八月壬午朔条】
- 先祖
- 配偶者
- 皇后:
播磨稲日大郎姫 (針間之伊那毘能大郎女 )【日本書紀 巻第七 景行天皇二年三月戊辰条, 古事記 中巻 景行天皇段】 - 妃→皇后:
八坂入媛命 (八坂之入日売命 )【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条, 古事記 中巻 景行天皇段】 - 妃:
水歯郎媛 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】 - 妃:
五十河媛 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】 - 妃:
高田媛 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】 - 妃:
日向髪長大田根 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】 - 妃:
襲武媛 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】 - 妃:
御刀媛 (日向之美波迦斯毘売 )【日本書紀 巻第七 景行天皇十三年五月条, 古事記 中巻 景行天皇段】 伊那毘能若郎女 (稲日稚郎姫 )【古事記 中巻 景行天皇段, 日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条 一云】- ・・・
迦具漏比売命 当サイトでは誤記と判断。【古事記 中巻 景行天皇段】
- 妃:
五十琴姫命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇三十六年八月条】
- 皇后:
- 子
櫛角別王 日本書紀には見えず。【古事記 中巻 景行天皇段】【母:針間之伊那毘能大郎女 】- 皇子:
大碓皇子 【日本書紀 巻第七 景行天皇二年三月戊辰条】【母:播磨稲日大郎姫 】 - 皇子:
小碓尊 (ヤマトタケル)【日本書紀 巻第七 景行天皇二年三月戊辰条】【母:播磨稲日大郎姫 】 - 皇子第四子:
稚足彦尊 (成務天皇 )【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命 】 - 皇子:
五百城入彦皇子 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命 】 - 皇子:
忍之別皇子 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命 】 - 皇子:
稚倭根子皇子 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命 】 - 皇子:
大酢別皇子 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命 】 - 皇女:
渟熨斗皇女 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命 】 - 皇女:
渟名城皇女 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命 】 - 皇女:
五百城入姫皇女 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命 】 - 皇女:
麛依姫皇女 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命 】 - 皇子:
五十狭城入彦皇子 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命 】 - 皇子:
吉備兄彦皇子 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命 】 - 皇女:
高城入姫皇女 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命 】 - 皇女:
弟姫皇女 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:八坂入媛命 】 - 皇女:
五百野皇女 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:水歯郎媛 】 - 皇子:
神櫛皇子 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:五十河媛 】 - 皇子:
稲背入彦皇子 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:五十河媛 】 - 皇子:
武国凝別皇子 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:高田媛 】 - 皇子:
日向襲津彦皇子 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:日向髪長大田根 】 - 皇子:
国乳別皇子 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:襲武媛 】 - 皇子:
国凝別皇子 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇四年条】【母:襲武媛 】 - 皇子:
国背別皇子 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:襲武媛 】 - 皇子:
豊戸別皇子 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】【母:襲武媛 】 - 皇子:
豊国別皇子 【日本書紀 巻第七 景行天皇十三年五月条】【母:御刀媛 】 - 皇子:
若木之入日子王 【古事記 中巻 景行天皇段】【母:不明】 - 皇子:
真若王 【古事記 中巻 景行天皇段】【母:伊那毘能若郎女 】 - 皇子:
日子人之大兄王 当サイトでは、カグロヒメの子のオオエノミコの記述は誤記と判断する。【古事記 中巻 景行天皇段】【母:伊那毘能若郎女 】 - 皇女:
銀王 【古事記 中巻 景行天皇段】【母:不明】 - 皇子:
五十功彦命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇三十六年八月条】【母:五十琴姫命 】 - 皇子:
豊門入彦命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
稚屋彦命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
武国皇別命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
天帯根命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
大曽色別命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
五十河彦命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
石社別命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
大稲背別命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
不知来入彦命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
曽能目別命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
十市入彦命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
襲小橋別命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
色己焦別命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
熊津彦命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
息前彦人大兄水城命 (息長彦人大兄磯城命 )【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段, 新撰姓氏録抄 第一帙 第六巻 山城国皇別 茨田勝条】【母:不明】 - 皇子:
熊忍津彦命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
武弟別命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
草木命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
兄彦命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
手事別命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
大我門別命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
豊日別命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
三川宿禰命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
豊手別命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
倭宿禰命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
豊津彦命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
五百木根命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
弟別命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】 - 皇子:
大焦別命 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】【母:不明】
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
- 第12代
天皇
- 第12代
- 出来事
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垂仁天皇17年立太子の年齢から逆算。【日本書紀 巻第七 景行天皇即位前紀 垂仁天皇三十七年条】
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身長が一丈二寸、脛の長さは四尺一寸あった。
【古事記 中巻 垂仁天皇段】 -
垂仁天皇30年1月6日
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垂仁天皇37年1月1日【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十七年正月戊寅朔条】
立太子。
【日本書紀 巻第七 景行天皇即位前紀 垂仁天皇三十七年条】
時に年二十一。 -
垂仁天皇99年7月14日日本書紀はこの日を戊午朔としているが、無理があると判断して、この日を朔日ではなく単に戊午の日と判断した。先代旧事紀の同記事では、日付を乙巳朔戊午としているものがある。当サイトでは、この月の朔日を乙巳としている。景行天皇即位前紀では、垂仁天皇99年2月(校異:二月→三月)に崩御としている。
【日本書紀 巻第六 垂仁天皇九十九年七月戊午朔条】垂仁天皇が崩じる。
記事は戊午朔の条ではあるが、戊午は朔では無いであろう。 -
景行天皇元年7月11日
即位して天皇となる。
【日本書紀 巻第七 景行天皇元年七月己卯条】-
景行天皇元年7月
皇后先の皇后日葉酢媛命。既に崩じているので、追贈が正しい。を尊んで皇太后とする。
【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇元年年七月条】
皇太后先の皇太后御間城入姫。を尊んで太皇太后を追贈する。
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景行天皇2年3月3日先代旧事本紀では、同年二月としている。
播磨稲日大郎姫を立てて皇后とする。あるいは稲日稚郎姫という。
后は二人の男子を生んだ。
第一を大碓皇子という。
第二を小碓尊という。
ある書では、皇后は三人の男子を生み、その第三は稚倭根子皇子という。その大碓皇子と小碓尊は同じ日に双子として生まれた。
【日本書紀 巻第七 景行天皇二年三月戊辰条】
天皇は怪しんで碓 臼に叫んだ。それで二王を名付けて大碓 ・小碓 というのである。
この小碓尊は、またの名は日本童男。または日本武尊という。
幼い頃から雄々しい性格で、壮年になると容貌魁偉となり、身長は一丈、力は鼎を上げるほどであった。-
吉備臣 らの祖若建吉備津日子の女、名は針間之伊那毘能大郎女を娶り、生まれた御子は
櫛角別王。
次に大碓命。
次に小碓命、またの名は倭男具那命。
次に倭根子命。
次に神櫛王の五柱。また八尺入日子命の女の八坂之入日売命を娶り、生まれた御子は
若帯日子命後の成務天皇。。
次に五百木之入日子命。
次に押別命。
次に五百木之入日売命。また妾の子は
沼名木郎女。
次に香余理比売命。
次に若木之入日子王。
次に吉備之兄日子王。
次に高木比売命。
次に弟比売命。また伊那毘能大郎女の妹の伊那毘能若郎女を娶り、生まれた御子は
真若王。
次に日子人之大兄王。また倭建命の曽孫、名は須売伊呂大中日子王の女の訶具漏比売を娶り、生まれた御子は
大枝王。この一文、倭建命から訶具漏比売までの系譜を否定する理由は無い。しかし景行天皇が訶具漏比売を娶って大枝王が生まれたという箇所は誤りであろう。年代的に厳しい。有り得なくもないが、現実的ではない。推測の域を出ないが、訶具漏比売は応神天皇妃迦具漏比売と同一人物と考えられ、景行天皇の妃というのは誤りであろう。また大枝王は日子人之大兄王と同一人物であり、母は伊那毘能若郎女であろう。このオオエノミコは、仲哀記紀に見える仲哀皇后のオオナカツヒメの父、日本書紀では彦人大兄、古事記では大江王と同一人物と思われる。およそこの大帯日子天皇景行天皇の御子達は、記録してあるのは二十一王で、記録していないのは五十九王である。
合わせて八十王の中で、若帯日子命・倭建命・五百木之入日子命の三王は、
太子 の名を負った。
その他の七十七王の悉くは、諸国の国造 、また和気 ・稲置 ・県主 に分封した。それで若帯日子命は天下を治めた。
【古事記 中巻 景行天皇段】
小碓命は東西の荒ぶる神や、服従しない人々を平らげた。
次に櫛角別王は茨田下連 らの祖である。
次に大碓命は守君 ・大田君 ・島田君 の祖である。
次に神櫛王は木国 の酒部阿比古 ・宇陀酒部 の祖である。
次に豊国別王は日向国造の祖である。
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景行天皇3年2月1日
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景行天皇4年2月11日
天皇は美濃に行幸した。
側の者が奏上して「この国に佳人が居ります。弟媛と申します。容姿端麗で、八坂入彦皇子の女 で御座います」と。
天皇は自分の妃にしたいと思い、弟媛の家に行った。
弟媛はこれを聞くと竹林に隠れた。
天皇は弟媛が出てくるように計った。
泳宮 泳宮。此云區玖利能彌揶。で鯉を池に放ち、朝夕見て遊んだ。
弟媛はその鯉を見たいと思い、密かに池にやって来た。そこで天皇は引き留めた。
弟媛は考え、夫婦の道は今も昔も同じである。しかし言いたいことも言えず不便である。そこで天皇に「私の性質は交わることを望みません。皇命の威厳に勝てず、大殿の中に入りましたが、快いものでは御座いません。また私の姿は美しくなく、長く後宮にお仕えすることは出来ません。ただ私には姉が居ります。名を八坂入媛と申します。容姿端麗で、志は貞潔で御座いますので、後宮に入れて頂きたく存じます」と言った。
天皇は聞き入れて八坂入媛を召して妃とした。七男六女を生んだ。
第一を稚足彦天皇成務天皇という。
第二を五百城入彦皇子という。
第三を忍之別皇子という。
第四を稚倭根子皇子という。
第五を大酢別皇子という。
第六を渟熨斗皇女という。
第七を渟名城皇女という。
第八を五百城入姫皇女という。
第九を麛依姫皇女という。
第十を五十狭城入彦皇子という。
第十一を吉備兄彦皇子という。
第十二を高城入姫皇女という。
第十三を弟姫皇女という。また妃、三尾氏の磐城別の妹の水歯郎媛が生んだのは
五百野皇女。次の妃、五十河媛が生んだのは
神櫛皇子。
稲背入彦皇子。
その兄の神櫛皇子は讃岐国造の始祖である。
弟の稲背入彦皇子は播磨別 の始祖である。次の妃、阿倍氏の木事の女の高田媛が生んだのは
武国凝別皇子。これは伊予国の御村別 の始祖である。次の妃、日向髪長大田根が生んだのは
日向襲津彦皇子。これは阿牟君 の始祖である。次の妃、襲武媛が生んだのは
国乳別皇子と国背別皇子。あるいは宮道別皇子という。
豊戸別皇子。
その兄の国乳別皇子は水沼別 の始祖である。
弟の豊戸別皇子は火国別 の始祖である。天皇は男女合わせて八十の子がいる。
日本武尊・稚足彦天皇・五百城入彦皇子を除いた七十余の子は、皆それぞれ国や郡に封じた。
【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】
それで今にあたり、諸国の別 というのは、その別王 の子孫である。 -
景行天皇4年2月この時期だと大碓命の年齢に無理が生じる。
天皇は美濃国造、名は神骨の女、姉の名は兄遠子、妹の名は弟遠子。この二人が美人と聞き、大碓命を遣わして容姿を確認させた。
【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月是月条】
しかし大碓命は密通して復命しなかった。それで大碓命を恨んだ。 -
景行天皇4年11月1日
美濃から帰還した。
【日本書紀 巻第七 景行天皇四年十一月庚辰朔条】
そして更に纒向 に都を造った。これを日代宮 という。-
【古事記 中巻 景行天皇段】纒向之日代宮 にて天下を治めた。
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景行天皇12年7月
【日本書紀 巻第七 景行天皇十二年七月条】熊襲 が背いて朝貢しなかった。 -
景行天皇12年8月15日
筑紫に行幸する。
【日本書紀 巻第七 景行天皇十二年八月己酉条】 -
景行天皇12年9月5日
【日本書紀 巻第七 景行天皇十二年九月戊辰条】周芳 の娑麼 に着いた。
時に天皇は南を望み、群卿に詔して「南方に煙が多く立っている。必ず賊がいるだろう」と。
即ち留まって、先ず多臣 の祖の武諸木・国前臣 の祖の菟名手・物部君 の祖の夏花を遣わして様子を探らせた。
すると女人がいた。神夏磯媛という。その手下はとても多く、一国の魁帥 であった。
天皇の使者が遣ってくると聞いて、磯津山 の賢木を抜くと、上枝には八握剣 を懸け、中枝には八咫鏡 を懸け、下枝には八尺瓊 を懸け、また白旗を船首に立て、やって来て言うには「どうか兵を送らないで下さい。私の仲間に背くような者はいません。今すぐに帰順致します。ただ悪い賊たちがいます。一に鼻垂という賊は、みだりに君主の名を僭称して山谷に人を集め、菟狭 の川上にいます。二に耳垂という賊は、損なっては貪り、人民を掠めています。これは御木 の川上にいます。三に麻剥という賊は、徒党を集めて高羽 の川上にいます。四に土折猪折という賊は、緑野 の川上に隠れ住み、山川の険しさを恃みに多くの民を掠めています。この四人のいる所はそれぞれ要害の地です。各々が仲間を集めて一所の長となっています。皆が皇命には従わないと言っています。どうか急ぎ討伐して下さい」と。
そこで武諸木らは先ず麻剥を誘った。
赤衣・褌や様々な珍品を送り、従わない三人もおびき出した。
それぞれ仲間を連れてやって来たところを捕えて殺した。
天皇は遂に筑紫に着いた。
豊前国 の長峡県 に行って行宮 を立てて住んだ。それでそこを名付けて京 という。 -
景行天皇12年10月
碩田国 に着いた。その地形は広大で美しかった。それで名を碩田 碩田。此云於保岐陀。という。
速見邑 に着いた。女がいた。名を速津媛という。一所の長である。
天皇が来ると聞いて、自ら出迎えて言うには「この山に大きな石窟があります。鼠の石窟といい、二人の土蜘蛛が住んでいます。一に青、二に白といいます。また直入県 の禰疑野 に、土蜘蛛が三人います。一に打猿、二に八田、三に国摩侶といいます。この五人は力が強くて仲間も多く、皆が皇命には従わないと言っています。また強いて呼ばれれば兵を起こして防ぐと言っています」と。
天皇は好ましくないと思って進んで行かなかった。
【日本書紀 巻第七 景行天皇十二年十月条】来田見邑 に留まって、仮宮を立てて住んだ。
そして群臣と議って言うには「多くの兵を動員して土蜘蛛を討とう。もし我が軍の勢いに恐れて山野に隠れれば、必ず後の憂いとなるだろう」と。
海石榴 椿の木で造った椎を勇猛な兵に授け、山を穿ち、草を払い、石室の土蜘蛛を稲葉の川上で破って、その仲間をことごとく殺した。
血は流れて踝にまで至った。それで時の人は海石榴の椎を作った所を海石榴市 という。また血が流れた所を血田 という。
また打猿を討つために禰疑山 を越えた。すると賊の矢が横の山から雨のように官軍の前に飛んできた。
天皇は城原 に帰ると、占って川のほとりに陣をおき、兵を整えて、先ず八田を禰疑野で撃ち破った。
打猿は勝てないと思いって降伏を申し出た。しかし許されず、みな自ら谷に身を投げて死んだ。
天皇は始め賊を討つ時、柏峡 の大野で、長さ六尺、幅三尺、厚さ一尺五寸の石があった。
天皇は祈って「朕が土蜘蛛を滅ぼすことが出来るのであれば、この石を蹴って柏の葉のように舞い上がれ」と。
そして石を蹴ると柏の葉のように大空に舞い上がった。それでその石を名付けて蹈石 という。
この時に祈った神は志我神・直入物部神・直入中臣神の三神である。 -
景行天皇12年11月
【日本書紀 巻第七 景行天皇十二年十一月条】日向国 に至り、行宮 を建てて住んだ。これを高屋宮 という。 -
景行天皇12年12月5日
【日本書紀 巻第七 景行天皇十二年十二月丁酉条】熊襲 を討つことを議った。
天皇は群卿に詔して「朕が聞くところによれば、襲国 に厚鹿文・迮鹿文という者がいる。この二人は熊襲の猛者で手下がとても多い。これを熊襲八十梟帥 という。勢いが盛んで敵う者がいない。軍勢が少なければ賊は滅ぼせないが、軍勢が多ければ百姓にとって害となる。軍勢の力を借りずに、その国を平定出来ないものか」と。
時に一人の臣が進み出て言うには「熊襲梟帥には二人の女 がおります。姉を市乾鹿文、妹を市鹿文と申します。容姿端麗で、心は雄々しい者で御座います。沢山の贈物で引き入れましょう。そして消息を伺わせて不意を突けば、刃を血で濡らすことなく賊を破れましょう」と。
天皇はこれに同意すると、贈物を使い、二人の女を欺いて召し入れた。
天皇は市乾鹿文を偽って寵愛した。
時に市乾鹿文が天皇に言うには「熊襲が服従しないことを憂えてはなりません。私に良い謀りごとがあるので、一人二人の兵を私にお付け下さい」と。
そして家に帰ると、沢山の酒を準備して父に飲ませた。すると酔って寝た。
市乾鹿文は密かに父の弓弦を断った。そして従ってきた一人の兵が熊襲梟帥を殺した。
天皇は甚だしい不孝を憎み、市乾鹿文を殺した。
妹の市鹿文には火国造を賜った。 -
景行天皇13年5月
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景行天皇17年3月12日
子湯県 に行幸して、丹裳小野 に遊んだ。
時に東を望んで、側の者に言うには「この国は真直に日の出る方に向いている」と。
それでその国を名付けて日向 という。
この日に野中の大石にのぼり、都を思い出して歌った。「
波 辭 枳 豫 辭 和 藝 幣 能 伽 多 由 區 毛 位 多 知 區 暮 夜 摩 苔 波 區 珥 能 摩 倍 邏 摩 多 多 儺 豆 久 阿 烏 伽 枳 夜 摩 許 莽 例 屢 夜 摩 苔 之 于 屢 破 試 異 能 知 能 摩 曾 祁 務 比 苔 破 多 多 瀰 許 莽 弊 愚 利 能 夜 摩 能 志 邏 伽 之 餓 延 塢 于 受 珥 左 勢 許 能 固 」これを
【日本書紀 巻第七 景行天皇十七年三月己酉条】思邦歌 という。 -
景行天皇18年3月
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景行天皇18年4月3日
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景行天皇18年4月11日
海路から
【日本書紀 巻第七 景行天皇十八年四月壬申条】葦北 の小島に泊まり食事をした。
時に山部阿弭古 の祖の小左に命じて冷水を献上させた。
しかしこの時島には水が無く、為す術を知らずに天を仰いで天神地祇に祈った。
すると忽ちに崖の傍から冷泉が涌き出てきた。それを汲んで献上した。それでその島を水島 という。その泉は今も水島の崖にある。 -
景行天皇18年5月1日
【日本書紀 巻第七 景行天皇十八年五月壬辰朔条】葦北 から船出して火国 に着いた。
日没になり、暗くて着岸出来ずにいると、遥かに火の光が見えた。天皇は船頭に「真直ぐに火のもとへ向かえ」と詔した。
火のもとへ向うと着岸することが出来た。
天皇がその火の光に向って「何という邑か」と尋ねると、国人が「ここは八代県 の豊村 です」と答えた。
またその火の光に「これは誰の火か」と尋ねた。
しかしその主は分からず、人の火ではないことを知った。それでこの国を名付けて火国というのである。 -
景行天皇18年6月3日
【日本書紀 巻第七 景行天皇十八年六月癸亥条】高来県 から玉杵名邑 に渡った。その地の土蜘蛛津頬を殺した。 -
景行天皇18年6月16日
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景行天皇18年7月4日
筑紫後国 の御木 に至り、高田行宮 に入った。
樹が倒れていた。長さは九百七十丈約2939m。多くの役人がその樹を踏んで往来した。
時の人は歌を詠んだ。「
阿 佐 志 毛 能 瀰 槪 能 佐 烏 麼 志 魔 弊 菟 耆 瀰 伊 和 哆 羅 秀 暮 瀰 開 能 佐 烏 麼 志 」天皇は「これは何の樹か」と問うた。
【日本書紀 巻第七 景行天皇十八年七月甲午条】
一人の老人が言うには「この樹は歴木 といいます。むかし倒れる前は、朝日の光に当たって杵島山 を隠し、また夕日の光に当たって阿蘇山 を覆いました」と。
天皇が言うには「この樹は神木である。それでこの国を名付けて御木国 とする」と。 -
景行天皇18年7月7日
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景行天皇18年8月
【日本書紀 巻第七 景行天皇十八年八月条】的邑 に着いて食事をした。
この日、膳夫 らが盞 を忘れた。それで時の人はその盞を忘れたところを名付けて浮羽 といった。今は訛って的 という。昔、筑紫では盞を俗に浮羽といった。 -
景行天皇19年9月20日
【日本書紀 巻第七 景行天皇十九年九月癸卯条】日向 から還幸する。 -
景行天皇20年2月4日
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景行天皇25年7月3日
武内宿禰を遣わして、
【日本書紀 巻第七 景行天皇二十五年七月壬午条】北陸 及び東方の諸国の地形、また百姓の有様を調査させる。 -
景行天皇27年2月12日
武内宿禰が東国から帰還し、奏上して「東夷にの中に
【日本書紀 巻第七 景行天皇二十七年二月壬子条】日高見国 が御座います。その国の人は、男女共に髪を椎のように結い、体に入れ墨をしております。人々は勇敢で、これを全て蝦夷 と申します。また土地は肥沃で広大で御座います。攻略するのが良いと存じます」と。 -
景行天皇27年8月
【日本書紀 巻第七 景行天皇二十七年八月条】熊襲 がまた反乱して辺境を侵した。 -
景行天皇27年10月13日
【日本書紀 巻第七 景行天皇二十七年十月己酉条】日本武尊を派遣して、
熊襲 を討たせた。
時に年十六。ヤマトタケルの記述は独立させています。詳しくはヤマトタケルのページをご覧あれ。-
【古事記 中巻 景行天皇段】
天皇は小碓命に詔して「なぜお前の兄は朝夕の大御食に出て参らないのか。お前から優しく教え諭しなさい」と。
この詔の後、五日たっても出てこなかった。
そこで天皇は小碓命に尋ねて「なぜお前の兄は久しく出て参らないのか。もしやまだ教えてないのではないか」と。
答えて「すでに教え諭しました」と。
また尋ねて「どのように教え諭したか」と。
答えて「明け方、厠に入ったところを捕らえて掴み潰し、手足を引きもいで、薦 に包んで投げ棄てました」と。
天皇はその御子の荒々しい性格を恐れ、「西方に熊曽建 が二人いる。この服従しない無礼な者どもである。その者どもを討ち取りなさい」と詔して遣わした。古事記では日本書紀と違い、ここでオオウスは殺されたもよう。
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景行天皇28年2月1日
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景行天皇36年8月
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景行天皇40年6月
東夷が多く叛いて辺境が動揺する。
【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年六月条】 -
景行天皇40年7月16日
天皇は群卿に詔して「東国が不安定で暴れる神が多くいる。また蝦夷が反乱して、しばしば人民が略奪にあっている。誰を遣わして平定させるべきか」と。
【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年七月戊戌条】
群臣は誰を派遣すべきか判断出来なかったが、日本武尊が奏上して「私が先に西征させて頂きました。この役は大碓皇子が良いでしょう」と。
時に大碓皇子は愕然として草の中に逃げ隠れた。使者を遣わして連行した。
天皇が責めて言うには「お前が望まないものを、なぜ無理強いしようか。賊に向い合いもせずに、こんなにも恐れるとは」と。
そして美濃に封じて、その封地に行かせた。これが身毛津君 ・守君 、凡そ二族の始祖である。 -
景行天皇40年10月2日
日本武尊が出発する。
【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年十月癸丑条】 -
(景行天皇40年10月2日 ~ 景行天皇43年)
日本武尊が吉備武彦を遣わし、天皇に奏上して「私は天朝の命を承り、遠く東夷を討伐致しました。神恩を被り、皇威に頼りまして、叛く者は罪に伏し、荒ぶる神も自ら従いました。そこで
甲 を巻き、戈 を納めて、心安らいで帰還致しまして、何れの日、何れの時に復命しようかと思っておりました。しかし天命は忽ちに至り、余命幾ばくも無く、独り荒野に臥しております。誰に語ることも御座いません。身の亡ぶことなど惜しみません。ただ残念なのは、お仕え奉ることが適わなくなることで御座います」と。
そして能褒野で崩原文ママ。じた。時に年三十。天皇はこれを聞くと安らかに眠れず、食事を取っても味を感じず、昼夜むせび泣き、胸を打って悲しんだ。
そして大いに歎いて言うには「我が子小碓王よ。かつて熊襲 が叛いた日、まだ総角 もせぬのに、戦いに長くを費やし、また傍らで朕を補佐してくれた。しかし東夷の騒動では討伐する者が現れず、愛みを忍んで賊の地に入らせたのだ。一日も忘れたことは無い。朝夕落ち着かず、ただひたすらに帰る日を待っていた。何の禍か。何の罪か。不意に愛する我が子を失ってしまった。今後は誰と鴻業を治めれば良いのか」と。
そして群卿に詔し、百寮に命じて、伊勢国の能褒野陵 に葬った。時に日本武尊は白鳥になって陵を出ると、
倭 国を指して飛んでいった。
群臣らがその棺を開いてみると、衣だけが空しく残り、屍は無かった。
そこで使者を遣わして白鳥を追わせた。
すると倭の琴弾原 に留まった。そこでその地に陵を造った。
白鳥は更に飛んで河内の旧市邑 に留まった。またその地に陵を造った。
それで時の人はこの三つの陵を名付けて白鳥陵 という。
遂に高く翔んで天に上った。
ただ衣冠だけを葬り、功名を伝えるために武部 を定めた。この年、天皇践祚四十三年である。景行天皇四十三年までの話ということになる。
【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年是歳条】-
【古事記 中巻 景行天皇段】
その国から飛んで翔けて行き、
河内国 の志幾 に留まった。
それでその地に陵を造って鎮座させた。それでその御陵を名付けて白鳥御陵 という。
しかし、またその地からさらに天を翔けて飛んで行った。ヤマトタケル死後の話からの抜粋。詳しくはヤマトタケルのページをご覧あれ。
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景行天皇51年1月7日
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景行天皇51年8月4日
【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条】稚足彦尊を立てて皇太子とする。
この日、武内宿禰に命じて
棟梁之臣 とする。日本武尊が佩いていた
草薙横刀 は、今は尾張国の年魚市郡 の熱田社 にある。
この神宮に献上された蝦夷らは、昼夜うるさぐ騒ぎ、出入りも無礼だった。
時に倭姫命が言うには「この蝦夷らは神宮に近づけてはならない」と。そして朝廷に進上した。
そして御諸山 の傍に置いた。時も経ず内に神山の樹を伐ったり、里で叫んで人民を脅かした。
天皇はこれを聞き、群卿に詔して「その神山の傍に置いた蝦夷は、獣の心があって中国 には住むのは難しい。よってその願い通りに畿外に住まわせよ」と。
これが今の播磨・讃岐・伊勢校異:伊予・安芸・阿波、凡そ五国の佐伯部 の祖である。この記事にはヤマトタケルの系譜が見えるが、ここでは省略する。古事記の系譜を含めて、ヤマトタケルのページをご覧あれ。。 -
景行天皇52年5月4日
皇后播磨太郎姫が薨原文ママ。じる。
【日本書紀 巻第七 景行天皇五十二年五月丁未条】 -
景行天皇52年7月7日
八坂入媛命を立てて皇后とする。
【日本書紀 巻第七 景行天皇五十二年七月己酉条】 -
景行天皇53年8月1日
天皇が群卿に詔して「朕の愛した子を思い偲ぶことは、いつの日に止むのか。小碓王が平定した国々を巡幸したいと思う」と。
【日本書紀 巻第七 景行天皇五十三年八月丁卯朔条】 -
景行天皇53年8月
伊勢に行幸して、そこから
【日本書紀 巻第七 景行天皇五十三年八月是月条】東海 に入る。 -
景行天皇53年10月
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景行天皇53年12月
東国から帰って伊勢に居す。これを
【日本書紀 巻第七 景行天皇五十三年十二月条】綺宮 という。 -
景行天皇54年9月19日
伊勢から
【日本書紀 巻第七 景行天皇五十四年九月己酉条】倭 に帰り纒向宮 に居す。 -
景行天皇55年2月5日
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景行天皇56年8月
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景行天皇57年9月
【日本書紀 巻第七 景行天皇五十七年九月条】坂手池 を造り、竹をその堤の上に植える。 -
景行天皇57年10月
諸国に令して
【日本書紀 巻第七 景行天皇五十七年十月条】田部 ・屯倉 を設ける。-
【古事記 中巻 景行天皇段】田部 ・東の淡水門 ・膳 の大伴部 ・倭 の屯家 を定めた。
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景行天皇58年2月11日
近江国に行幸して、志賀に住むこと三年。これを
【日本書紀 巻第七 景行天皇五十八年二月辛亥条】高穴穂宮 という。 -
景行天皇60年11月7日
【日本書紀 巻第七 景行天皇六十年十一月辛卯条】天皇は
高穴穂宮 で崩じる。
時に年百六歳。年106歳とあるが、そうなると立太子の記事などが誕生以前となってしまう。-
御年百三十七歳。
【古事記 中巻 景行天皇段】
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成務天皇2年11月10日
【日本書紀 巻第七 成務天皇二年十一月壬午条】倭国 の山辺道上陵 に葬られる。十一月を十二月とする写本あり。-
御陵は
【古事記 中巻 景行天皇段】山辺之道上 にある。
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