大彦命

名前
  • 大彥命【日本書紀】(おおひこのみこと, おほ)大彦命
  • 大彦【日本書紀】(おおひこ, おほ
  • 大毘古命【古事記】(おおびこのみこと, おほ
  • 大彥皇子命【先代旧事本紀】(おおひこ之みこのみこと, おほ)大彦皇子命
  • 大日子命【新撰姓氏録抄】(おおひこ之みこと, おほ
キーワード
  • 阿倍臣(あべのおみ)膳臣(かしわでのおみ)校異:胆臣阿閉臣(あへのおみ)狭狭城山君(ささきのやまのきみ)筑紫国造越国造伊賀臣(いがのおみ)。凡七族之始祖也。【日本書紀 巻第四 孝元天皇七年二月丁卯条】
  • 阿倍臣・高橋臣(たかはしのおみ)等祖【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 孝元天皇紀末段】
  • 阿倍臣同祖【先代旧事本紀 巻第十 国造本紀 筑志国造条】
  • 後裔は左京阿倍朝臣(あべのあそみ)・左京許曽倍朝臣(こそべのあそみ)・左京名張臣(なはりのおみ)・右京会加臣(えかのおみ)・右京杖部造(はせつかべのみやつこ)・山城国阿閉臣(あへのおみ)・大和国音太部(おとふとべ)・大和国坂合部首(さかいべのおびと)・摂津国高橋臣(たかはしのおみ)校異:高橋朝臣・摂津国佐佐貴山君(ささきのやまのきみ)・摂津国久久智(くくち)・摂津国坂合部「允恭天皇の御世に、国境の標を造って立てたことにより坂合部連(さかいべのむらじ)の姓を賜る」とある。・摂津国伊我水取(いがのもいとり)・摂津国吉志(きし)・河内国阿閉朝臣(あへのあそみ)・河内国難波忌寸(なにわのいみき)・和泉国膳臣(かしわでのおみ)・和泉国大鳥膳臣(おおとりのかしわでのおみ)・和泉国宇太臣(うだのおみ)・和泉国松原臣(まつはらのおみ)・和泉国他田(おさた)【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
生年月日
( ~ 孝元天皇7年12月29日)
没年月日
(崇神天皇11年4月28日 ~ )
  • 孝元天皇こうげんてんのう【日本書紀 巻第四 孝元天皇七年二月丁卯条】
  • 鬱色謎命うつしこめのみこと【日本書紀 巻第四 孝元天皇七年二月丁卯条】
先祖
  1. 孝元天皇
    1. 孝霊天皇
      1. 孝安天皇
      2. 押媛
    2. 細媛命
      1. 磯城県主大目
  2. 鬱色謎命
    1. 大矢口命
      1. 出石心命
      2. 新河小楯姫
    2. 坂戸由良都姫
  • 御間城姫みまきひめ【日本書紀 巻第六 垂仁天皇即位前紀】【母:不明】
  • 建沼河別命たけぬなかわわけのみこと【古事記 中巻 孝元天皇段】【母:不明】
  • 比古伊那許志別命ひこいなこしわけのみこと【古事記 中巻 孝元天皇段】【母:不明】
  • 波多武日子命はたたけひこのみこと同九巻の河内国皇別の難波条では孫。【新撰姓氏録抄 第一帙 第八巻 摂津国皇別 三宅人条】【母:不明】
  • 紐結命ひもゆいのみこと【新撰姓氏録抄 第一帙 第九巻 河内国皇別 日下連条】【母:不明】
  • 養子:得彦宿禰えひこのすくね【新撰姓氏録抄 第一帙 第九巻 河内国皇別 難波忌寸条】【母:不明】
子孫
  1. 御間城姫
    1. 垂仁天皇
      1. 誉津別命
      2. 五十瓊敷入彦命
      3. 景行天皇
      4. 大中姫命
      5. 倭姫命
      6. 稚城瓊入彦命
      7. 鐸石別命
      8. 胆香足姫命
      9. 池速別命
      10. 稚浅津姫命
      11. 五十速石別命
      12. 袁邪弁王
      13. 磐衝別命
      14. 祖別命
      15. 五十日足彦命
      16. 胆武別命
      17. 両道入姫命
    2. 彦五十狭茅命
    3. 伊邪能真若命
    4. 国方姫命
    5. 千千衝倭姫命
    6. 伊賀比売命
    7. 倭彦命
    8. 五十日鶴彦命
  2. 武渟川別
  3. 比古伊那許志別命
    1. 屋主田心命
  4. 波多武日子命
  5. 紐結命
  6. 得彦宿禰
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 四道将軍しどうしょうぐん【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年九月甲午条】
出来事
  • ( ~ 孝元天皇7年12月29日)弟の開化天皇誕生以前。

    孝元天皇の第一皇子として生まれる。母は欝色謎命

    【日本書紀 巻第四 孝元天皇七年二月丁卯条】
  • 崇神天皇元年2月16日

    娘の御間城姫崇神天皇の皇后となる。

    【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年二月丙寅条】
  • 崇神天皇10年7月24日

    崇神天皇が群卿に詔して「民を導く本は教化にある。神祇を祀ると災害は無くなった。しかし遠くの荒ぶる人々は、いまだに正朔を受けず、王化に習っていない。そこで郡卿を選んで四方に遣わし、朕の教化を知らしめよう」と。

    【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年七月己酉条】
  • 崇神天皇10年9月9日

    崇神天皇
    大彦命を北陸(くぬがのみち)に遣わした。
    武渟川別東海(うみつみち)に遣わした。
    吉備津彦西道(にしのみち)に遣わした。
    丹波道主命丹波(たにわ)に遣わした。
    そして「もし教えを受けなければ討伐せよ」と詔して印綬を将軍に授けた。

    【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年九月甲午条】
    • 大毘古命を高志道(こしのみち)北陸道に遣わし、その子の建沼河別命東方十二道(ひがしのかたとおまりふたみち)伊勢から陸奥までの十二国か。に遣わして、従わない人々を服従させた。
      また日子坐王旦波(たにわ)丹波国に遣わして、玖賀耳之御笠を殺させた。

      【古事記 中巻 崇神天皇段】
    • (崇神天皇元年1月13日 ~ 崇神天皇68年12月5日)

      磯城瑞籬宮御宇天皇の御世に蝦夷を治めるために遣わされた。
      兎田(うだ)黒坂(くろさか)墨坂(すみさか)の誤りか。に至り、嬰児の泣き声が聞こえた。
      確認して棄てられた嬰児を拾った。
      大彦命はこれを見て大いに喜び、乳母を探させて兎田弟原媛を得た。
      そして嬰児に付けて「一人前に育てれば功に報いよう」と言った。
      成人して送られると大彦命は子として愛育した。
      名付けて得彦宿禰という。
      異説並存する。

      【新撰姓氏録抄 第一帙 第九巻 河内国皇別 難波忌寸条】
  • 崇神天皇10年9月27日

    大彦命は和珥坂(わにのさか)の上に着いた。
    時に少女が居て歌っていた(あるいは山背(やましろ)平坂(ひらさか)に着いた時、道のほとりで童女が歌っていた)。

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    あるいは

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    と歌ったという。
    大彦命は不思議に思って童女に「お前の言葉はどんな意味があるのだ」と尋ねると、「言うことはなく、ただ歌うのみです」と答えた。そしてまた同じ歌を歌って急に姿が見えなくなった。
    大彦は引き返して、これを報告した。

    天皇の(おおおば)倭迹迹日百襲姫命は聡明叡智で、よく物事を予知した。
    それでその歌の不吉な前兆を知り、天皇に言うには「これは武埴安彦が謀反を起こす前兆であろう。私が聞くところによれば、武埴安彦の妻の吾田媛は密かにやって来て、倭の香山(かぐやま)の土を取って領巾のはしに包み、『これは倭国の物実(ものしろ)物實。此云望能志呂。』と呪って帰ったという。これでわかった。速やかに備えなければ、必ず遅れをとるであろう」と。
    そこで諸将軍を集めて準備した。
    時も経たぬ内に、武埴安彦と妻の吾田媛が謀反を起こして、忽ちに軍を率いた。
    各々道を分けて、夫は山背から、妻は大坂から共に入って帝京を襲った。
    天皇は五十狭芹彦命を遣わして、吾田媛の軍を討たせた。即ち大坂で遮り、吾田媛を殺し、軍卒の悉くを斬った。
    また大彦と彦国葺を遣わして山背に向わせ、埴安彦を討たせた。
    ここに忌瓮(いわいべ)和珥(わに)武鐰坂(たけすきのさか)の上に据え、精兵を率いて那羅山(ならやま)に登って戦った。
    時に軍勢が集まって草木を踏みならした。それでその山を名付けて那羅山という。
    また那羅山を去って進んで輪韓河(わからがわ)に至り、埴安彦と河を挟んで相挑んた。それで時の人はこの河を改めて名付けて挑河(いどみがわ)という。今泉河(いずみがわ)というのは訛ったのである。
    埴安彦彦国葺に問うて「なぜお前は軍を起こしてやって来たのだ」と。答えて「お前は天に逆らい無道である。王室を傾けようとしている。よって兵を挙げてお前を討つのだ。これは天皇の命である」と。
    そこで先に射ることを争った。
    武埴安彦が先に射たが、彦国葺には当たらなかった。
    後に彦国葺が射ると埴安彦の胸に当たって死んだ。
    その軍勢は怯えて退いたが、これを追って河の北で破り、半分以上の首を斬った。屍が多く溢れた。それでその地を名付けて羽振苑(はふりその)という。
    また兵が怖じ逃げて屎が褌から漏れた。それで(よろい)を脱いで逃げた。しかし逃げられないことを知ると、叩頭して「我が君」と言った。それで時の人は甲を脱いだ地を伽和羅(かわら)という。褌から屎が落ちた地を屎褌(くそばかま)という。今樟葉(くすは)というのは訛ったのである、また叩頭した地を名付けて我君(あぎ)という。

    【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年九月壬子条】
    • 大毘古命が高志国に向かう時、腰裳(こしも)を着た少女が山代(やましろ)山城幣羅坂(へらざか)に立って歌った。

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      大毘古命は怪しく思って馬を返し、少女に「おまえが言っていることは何のことだ」と問うた。少女は「私は言わず、ただ歌うのみです」と答えた。そしてそこから急に消えて見えなくなった。
      それで大毘古命は帰還して天皇に報告すると、天皇は「これは山代国にいる、あなたの庶兄建波邇安王が反逆心を起したしるしでしょう。伯父上、軍を興して行きなさい」と言った。そして日子国夫玖命を副えて遣わした。
      この時、丸邇坂(わにのさか)忌瓮(いわいべ)を据えて進軍した。
      山代の和訶羅河(わからがわ)に着くと、建波邇安王が軍を興して遮って待っており、河を挟んで相挑んだ。それでその地を名付けて伊杼美(いどみ)といい、今は伊豆美(いずみ)という。
      日子国夫玖命は「そちらの人が先に忌矢(いわいや)を放て」と言った。
      建波爾安王は矢を射たが命中しなかった。
      国夫玖命が放った矢は建波爾安王に命中して死んだ。
      それでその軍の悉くが逃げ散った。その逃げる軍勢を追って久須婆(くすば)に至り、みな攻め苦しめられて(くそ)が褌にかかった。それでその地を名付けて屎褌(くそばかま)といい、今は久須婆という。
      またその逃げる軍勢を遮り斬ると、鵜のように河に浮いた。それでその河を名付けて鵜河(うかわ)という。
      またその兵士を斬り屠った。それでその地を名付けて波布理曽能(はふりその)という。
      このように平定して復命した。

      【古事記 中巻 崇神天皇段】
  • 崇神天皇10年10月1日

    天皇が群臣に詔して「叛く者は悉く屈服した。畿内(うちつくに)は無事である。しかしその外は荒ぶる者がいて騒動は止まない。四道将軍は今すぐ出発せよ」と。

    【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年十月乙卯朔条】
  • 崇神天皇10年10月22日

    将軍たちが出発する。

    【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年十月丙子条】
  • 崇神天皇11年4月28日

    四道将軍戎夷(ひな)平定を報告する。

    【日本書紀 巻第五 崇神天皇十一年四月己卯条】
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