- 名前
- 大彥命【日本書紀】(おおひこのみこと, おほひこのみこと)大彦命
- 大彦【日本書紀】(おおひこ, おほひこ)
- 大毘古命【古事記】(おおびこのみこと, おほびこのみこと)
- 大彥皇子命【先代旧事本紀】(おおひこ之みこのみこと, おほひこ之みこのみこと)大彦皇子命
- 大日子命【新撰姓氏録抄】(おおひこ之みこと, おほひこ之みこと)
- キーワード
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 孝元天皇7年12月29日)
- 没年月日
- (崇神天皇11年4月28日 ~ )
- 父
孝元天皇 【日本書紀 巻第四 孝元天皇七年二月丁卯条】
- 母
鬱色謎命 【日本書紀 巻第四 孝元天皇七年二月丁卯条】
- 先祖
- 子
- 称号・栄典
四道将軍 【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年九月甲午条】
- 出来事
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( ~ 孝元天皇7年12月29日)
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崇神天皇元年2月16日
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崇神天皇10年7月24日
崇神天皇が群卿に詔して「民を導く本は教化にある。神祇を祀ると災害は無くなった。しかし遠くの荒ぶる人々は、いまだに正朔を受けず、王化に習っていない。そこで郡卿を選んで四方に遣わし、朕の教化を知らしめよう」と。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年七月己酉条】 -
崇神天皇10年9月9日
崇神天皇は
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年九月甲午条】
大彦命を北陸 に遣わした。
武渟川別を東海 に遣わした。
吉備津彦を西道 に遣わした。
丹波道主命を丹波 に遣わした。
そして「もし教えを受けなければ討伐せよ」と詔して印綬を将軍に授けた。-
(崇神天皇元年1月13日 ~ 崇神天皇68年12月5日)
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崇神天皇10年9月27日
大彦命は
和珥坂 の上に着いた。
時に少女が居て歌っていた(あるいは山背 の平坂 に着いた時、道のほとりで童女が歌っていた)。「
瀰 磨 紀 異 利 寐 胡 播 揶 飫 廼 餓 烏 塢 志 齊 務 苔 農 殊 末 句 志 羅 珥 比 賣 那 素 寐 殊 望 」あるいは
「
於 朋 耆 妬 庸 利 于 介 伽 卑 氐 許 呂 佐 務 苔 須 羅 句 塢 志 羅 珥 比 賣 那 素 寐 須 望 」と歌ったという。
大彦命は不思議に思って童女に「お前の言葉はどんな意味があるのだ」と尋ねると、「言うことはなく、ただ歌うのみです」と答えた。そしてまた同じ歌を歌って急に姿が見えなくなった。
大彦は引き返して、これを報告した。天皇の
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年九月壬子条】姑 の倭迹迹日百襲姫命は聡明叡智で、よく物事を予知した。
それでその歌の不吉な前兆を知り、天皇に言うには「これは武埴安彦が謀反を起こす前兆であろう。私が聞くところによれば、武埴安彦の妻の吾田媛は密かにやって来て、倭の香山 の土を取って領巾のはしに包み、『これは倭国の物実 』と呪って帰ったという。これでわかった。速やかに備えなければ、必ず遅れをとるであろう」と。
そこで諸将軍を集めて準備した。
時も経たぬ内に、武埴安彦と妻の吾田媛が謀反を起こして、忽ちに軍を率いた。
各々道を分けて、夫は山背から、妻は大坂から共に入って帝京を襲った。
天皇は五十狭芹彦命を遣わして、吾田媛の軍を討たせた。即ち大坂で遮り、吾田媛を殺し、軍卒の悉くを斬った。
また大彦と彦国葺を遣わして山背に向わせ、埴安彦を討たせた。
ここに忌瓮 を和珥 の武鐰坂 の上に据え、精兵を率いて那羅山 に登って戦った。
時に軍勢が集まって草木を踏みならした。それでその山を名付けて那羅山という。
また那羅山を去って進んで輪韓河 に至り、埴安彦と河を挟んで相挑んた。それで時の人はこの河を改めて名付けて挑河 という。今泉河 というのは訛ったのである。
埴安彦は彦国葺に問うて「なぜお前は軍を起こしてやって来たのだ」と。答えて「お前は天に逆らい無道である。王室を傾けようとしている。よって兵を挙げてお前を討つのだ。これは天皇の命である」と。
そこで先に射ることを争った。
武埴安彦が先に射たが、彦国葺には当たらなかった。
後に彦国葺が射ると埴安彦の胸に当たって死んだ。
その軍勢は怯えて退いたが、これを追って河の北で破り、半分以上の首を斬った。屍が多く溢れた。それでその地を名付けて羽振苑 という。
また兵が怖じ逃げて屎が褌から漏れた。それで甲 を脱いで逃げた。しかし逃げられないことを知ると、叩頭して「我が君」と言った。それで時の人は甲を脱いだ地を伽和羅 という。褌から屎が落ちた地を屎褌 という。今樟葉 というのは訛ったのである、また叩頭した地を名付けて我君 という。-
大毘古命が高志国に向かう時、
腰裳 を着た少女が山代 の幣羅坂 に立って歌った。「
古 波 夜 美 麻 紀 伊 理 毘 古 波 夜 美 麻 紀 伊 理 毘 古 波 夜 意 能 賀 袁 袁 奴 須 美 斯 勢 牟 登 斯 理 都 斗 用 伊 由 岐 多 賀 比 麻 幣 都 斗 用 伊 由 岐 多 賀 比 宇 迦 迦 波 久 斯 良 爾 登 美 麻 紀 伊 理 毘 古 波 夜 」大毘古命は怪しく思って馬を返し、少女に「おまえが言っていることは何のことだ」と問うた。少女は「私は言わず、ただ歌うのみです」と答えた。そしてそこから急に消えて見えなくなった。
【古事記 中巻 崇神天皇段】
それで大毘古命は帰還して天皇に報告すると、天皇は「これは山代国にいる、あなたの庶兄建波邇安王が反逆心を起したしるしでしょう。伯父上、軍を興して行きなさい」と言った。そして日子国夫玖命を副えて遣わした。
この時、丸邇坂 に忌瓮 を据えて進軍した。
山代の和訶羅河 に着くと、建波邇安王が軍を興して遮って待っており、河を挟んで相挑んだ。それでその地を名付けて伊杼美 といい、今は伊豆美 という。
日子国夫玖命は「そちらの人が先に忌矢 を放て」と言った。
建波爾安王は矢を射たが命中しなかった。
国夫玖命が放った矢は建波爾安王に命中して死んだ。
それでその軍の悉くが逃げ散った。その逃げる軍勢を追って久須婆 に至り、みな攻め苦しめられて屎 が褌にかかった。それでその地を名付けて屎褌 といい、今は久須婆という。
またその逃げる軍勢を遮り斬ると、鵜のように河に浮いた。それでその河を名付けて鵜河 という。
またその兵士を斬り屠った。それでその地を名付けて波布理曽能 という。
このように平定して復命した。
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崇神天皇10年10月1日
天皇が群臣に詔して「叛く者は悉く屈服した。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年十月乙卯朔条】畿内 は無事である。しかしその外は荒ぶる者がいて騒動は止まない。四道将軍は今すぐ出発せよ」と。 -
崇神天皇10年10月22日
将軍たちが出発する。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年十月丙子条】 -
崇神天皇11年4月28日
四道将軍が
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十一年四月己卯条】戎夷 平定を報告する。
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