崇神天皇
- 名前
- 漢風諡号:崇神天皇(すじんてんのう, すじんてんわう)崇神天皇
- 和風諡号:御間城入彥五十瓊殖天皇【日本書紀】(みまきいりひこいにえのすめらみこと, みまきいりひこいにゑのすめらみこと)御間城入彦五十瓊殖天皇
- 御間城入彥尊【日本書紀】(みまきいりひこのみこと)御間城入彦尊
- 御肇國天皇【日本書紀】(はつくにしらすすめらみこと)御肇国天皇
- 御間城天皇【日本書紀】(みまきのすめらみこと)御間城天皇
- 所知初國之御眞木天皇【古事記】(はつくにしらししみまきのすめらみこと)所知初国之御真木天皇
- 御眞木入日子印惠命【古事記】(みまきいりひこいにえのみこと, みまきいりひこいにゑのみこと)御真木入日子印恵命
- 磯城瑞籬宮御宇御間城入彥天皇【新撰姓氏録抄】(しきのみずかきのみやにあめのしたしろしめししみまきいりひこのすめらみこと, しきのみづかきのみやにあめのしたしろしめししみまきいりひこのすめらみこと)磯城瑞籬宮御宇御間城入彦天皇
- 御間城入彥天皇【新撰姓氏録抄】(みまきいりひこのすめらみこと)御間城入彦天皇
- 御間城入彥五十瓊殖命【先代旧事本紀】(みまきいりひこいにえのみこと, みまきいりひこいにゑのみこと)御間城入彦五十瓊殖命
- 御間城入彥命【先代旧事本紀】(みまきいりひこのみこと)御間城入彦命
- 御間城入彥五十瓊殖尊【先代旧事本紀】(みまきいりひこいにえのみこと, みまきいりひこいにゑのみこと)御間城入彦五十瓊殖尊
- 御間城入彥五十狹茅尊校異。垂仁天皇の和風諡号と混同したと思われる。【先代旧事本紀】(みまきいりひこいさちのみこと)御間城入彦五十狭茅尊
- 磯城瑞籬宮御宇天皇【先代旧事本紀】(しきのみずかきのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, しきのみづかきのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)磯城瑞籬宮御宇天皇
- キーワード
- 後裔は河内国
壬生部公 ・河内国鴨部 【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
- 後裔は河内国
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 開化天皇10年
- 没年月日
- 崇神天皇68年12月5日
- 父
開化天皇 【日本書紀 巻第四 開化天皇六年正月甲寅条】
- 母
伊香色謎命 【日本書紀 巻第四 開化天皇六年正月甲寅条】
- 先祖
- 配偶者
- 子
- 皇子第三子:
活目尊 (垂仁天皇 )【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年二月丙寅条】【母:御間城姫 】 - 皇子:
彦五十狭茅命 古事記には見えず。古事記に見える伊邪能真若命と同一人物か?【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年二月丙寅条】【母:御間城姫 】 - 皇子:
伊邪能真若命 日本書紀には見えず。日本書紀に見える彦五十狭茅命と同一人物か?【古事記 中巻 崇神天皇段】【母:御真津比売命 】 - 皇女:
国方姫命 【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年二月丙寅条】【母:御間城姫 】 - 皇女:
千千衝倭姫命 【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年二月丙寅条】【母:御間城姫 】 - 皇女:
伊賀比売命 日本書紀には見えず。男女の違いはあるが、日本書紀に見える五十日鶴彦命と同一人物の可能性がある。【古事記 中巻 崇神天皇段】【母:御真津比売命 】 - 皇子:
倭彦命 【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年二月丙寅条】【母:御間城姫 】 - 皇子:
五十日鶴彦命 古事記には見えず。男女の違いはあるが、古事記に見える伊賀比売命と同一人物の可能性がある。【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年二月丙寅条】【母:御間城姫 】 - 皇子:
豊城入彦命 【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年二月丙寅条】【母:遠津年魚眼眼妙媛 】 - 皇女:
豊鍬入姫命 【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年二月丙寅条】【母:遠津年魚眼眼妙媛 】 - 皇子:
大入杵命 【古事記 中巻 崇神天皇段】【母:意富阿麻比売 】 - 皇子:
八坂入彦命 【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年二月丙寅条】【母:尾張大海媛 】 - 皇女:
渟名城入姫命 【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年二月丙寅条】【母:尾張大海媛 】 - 皇女:
十市瓊入姫命 【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年二月丙寅条】【母:尾張大海媛 】
- 皇子第三子:
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
- 第10代
天皇
- 第10代
- 出来事
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開化天皇10年日本書紀の立太子の記事の年齢から判断。崩御の記事から推測すると開化天皇9年になるが採用せず。
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開化天皇28年1月5日
【日本書紀 巻第四 開化天皇二十八年正月丁酉条】立太子。
年十九。崇神天皇即位前紀にも年十九歳とある。崩御の記事の年齢を基準にすると20歳。 -
開化天皇60年4月9日
開化天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第四 開化天皇六十年四月甲子条】 -
崇神天皇元年1月13日
即位して天皇となる。
皇后先の皇后伊香色謎命。を尊んで皇太后とする。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年正月甲午条】-
崇神天皇元年1月13日
即位して天皇となる。
皇后先の皇后伊香色謎命。を尊んで皇太后とする。
【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 崇神天皇元年正月甲午条】
皇太后先の皇太后鬱色謎命。を尊んで太皇太后を追贈する。
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崇神天皇元年2月16日
御間城姫を立てて皇后とする。
これより先、后が生んだのは
活目入彦五十狭茅天皇。
彦五十狭茅命。
国方姫命。
千千衝倭姫命。
倭彦命。
五十日鶴彦命。また妃、紀伊国の荒河戸畔の女の遠津年魚眼眼妙媛(あるいは大海宿禰の女の八坂振天某辺)が生んだのは
【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年二月丙寅条】
豊城入彦命。
豊鍬入姫命。-
木国造荒河刀弁の女の遠津年魚目目微比売を娶り、生まれた御子は
豊木入日子命。
次に豊鉏入日売命の二柱。また
尾張連 の祖意富阿麻比売を娶り、生まれた御子は
大入杵命。
次に八坂之入日子命。
次に沼名木之入日売命。
次に十市之入日売命の四柱。また大毘古命の女の御真津比売命を娶り、生まれた御子は
伊玖米入日子伊沙知命。
次に伊邪能真若命。
次に国片比売命。
次に千千都久和比売命。
次に伊賀比売命。
次に倭日子命の六柱。天皇の御子らは合わせて十二柱。男王七・女王五。
伊久米伊理毘古伊佐知命は天下を治めた。
【古事記 中巻 崇神天皇段】
次に豊木入日子命は上毛野君 ・下毛野君 らの祖である。
妹の豊鉏比売命は伊勢の大神宮を斎き祭った。
次に大入杵命は能登臣 の祖である。
次に倭日子命。この王の時に始めて陵に人垣を立てた。
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崇神天皇3年9月
【日本書紀 巻第五 崇神天皇三年九月条】磯城 に遷都する。これを瑞籬宮 という。-
【古事記 中巻 崇神天皇段】師木水垣宮 にて天下を治めた。
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崇神天皇4年2月4日
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崇神天皇4年10月23日
詔して「我が皇祖の諸天皇達が、その位に臨まれたのは、ただ一身のためではない。神や人を繁栄させ、天下を治めるためである。だから奥深い功業を広めて徳を布かれた。いま朕は大業を承り、国民を愛し養うこととなった。いかにして皇祖の跡に従い、永く無窮に保とうか。群卿百僚よ。忠貞を尽くし、共に天下を安んずることは、またよいことではないか」と。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇四年十月壬午条】 -
崇神天皇5年
国内に疫病多く、民の半分以上が死亡する。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇五年条】-
疫病が多く起り、人民は死に尽きようとしていた。
【古事記 中巻 崇神天皇段】
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崇神天皇6年
百姓の流離、あるいは背叛があり、その勢いは徳を以って治めようとしても難しく、これを恐れて神祇に罪を請うた。
これより先、天照大神・倭大国魂の二神を、天皇の大殿の内に共に祀った。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇六年条】
しかしその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鍬入姫命に託して、笠縫邑 に祭った。よって堅固な石で城を立てて神籬 神籬。此云比莽呂岐。とした。
また日本大国魂神は渟名城入姫命に託して祭った。しかし渟名城入姫は髪が落ち、体が痩せて祭ることが出来なかった。-
ようやく神威を畏れて、
殿 を同じくすることが不安になった。
それで斎部に命じて石凝姥神の子孫と、天目一筒神の子孫の二氏を率いさせ、更に鏡と剣を造らせて、護御璽 とした。これが今、践祚の日に献上する神璽の鏡と剣である。
倭 の笠縫邑 に磯城 の神籬 を立て、天照大神と草薙剣 を遷して、皇女豊鍬入姫命に命じて斎い祀らせた。
その遷して祀った日の夕方、宮人は皆集まって、終夜宴を楽しんで歌った。「
美 夜 比 登 能 於 保 與 須 我 良 爾 伊 佐 登 保 志 由 伎 能 與 呂 志 茂 於 保 與 須 我 良 爾 」今の世に
「
美 夜 比 止 乃 於 保 與 曾 許 志 侶 茂 比 佐 止 保 志 由 伎 乃 與 侶 志 茂 於 保 與 曾 許 侶 茂 」と歌うのは、詞が変化したのである。
【古語拾遺 崇神天皇段】
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崇神天皇7年2月15日
詔して「昔、我が皇祖が大業を開いた。その後、聖業はいよいよ高く、王風は盛んであった。しかし今朕の世に当たり、しばしば災害がある。恐らく朝廷に善政が無く、神祇が咎を与えておられるのだろう。占いで災いのもとを探ろう」と。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇七年二月辛卯条】
そこで天皇は神浅茅原 にて八十万神に占って尋ねた。
このとき倭迹迹日百襲姫命に神憑り、「天皇はなぜ国の治まらないことを憂えているのか。もし私を敬い祭れば、必ず自ずと平らぐだろう」と言った。
天皇は教える神を誰かと尋ねた。すると「私はこの倭国の域の内に居る神。名は大物主神である」と答えた。
この時、神の言葉を得て、神の教えのままに祭祀した。しかし猶も験は無かった。
天皇は斎戒沐浴して、殿内を清め、祈って言うには「神への礼が足らないのでしょうか。なぜ受け入れて頂けないのでしょうか。どうかまた夢で教えて頂きたく存じます」と。
その夜、夢に一人の貴人が現れて殿戸に立つと、自ら大物主神と名乗り、「憂えなくてもよい。国が治まらないことは我が意である。もし我が子の大田田根子に吾を祭らせれば、たちどころに平らぐであろう。また海外の国も自ら帰伏するであろう」と言った。 -
崇神天皇7年8月7日
倭迹速神浅茅原目妙姫・
【日本書紀 巻第五 崇神天皇七年八月己酉条】穂積臣 の遠祖の大水口宿禰・伊勢麻績君の三人が、同じ夢を見て言うには「昨夜、夢で一人の貴人があり、『大田田根子命を大物主大神の祭主とし、また市磯長尾市を倭大国魂神の祭主とすれば、必ず天下太平となるであろう』と教えて頂きました」と。
天皇は夢の言葉を得てますます喜び、天下に大田田根子を求めると、茅渟県 の陶邑 で見つけて連れてきた。
天皇は神浅茅原 にやって来て、諸王卿及び八十諸部を集めて、大田田根子に「お前は誰の子であるか」と尋ねると、「父は大物主大神と申します。母は活玉依媛と申します。陶津耳の女 です」と答えた。または母を「奇日方天日方武茅渟祇の女」と答えたという。
天皇は「朕はまさに栄えるであろう」と言った。
そして物部連の祖の伊香色雄を神班物者 にしようとして占うと吉と出た。また他の神を祭ろうとして占うと不吉と出た。 -
崇神天皇7年11月8日
伊香色雄に命じて、
【日本書紀 巻第五 崇神天皇七年十一月己卯条】物部八十手 の所原文『物部八十手所』を『物部八十平瓮』の誤りとする説あり。を作って祭神の供物とした。
大田田根子を大物主大神の祭主とした。
また長尾市を倭大国魂神の祭主とした。
その後に、他神を祭るのを占うと吉と出た。そこで別に八十万の群神を祭った。
そして天社 ・国社 、及び神地 ・神戸 を定めた。
すると疫病は終息し、国内は鎮まり、五穀が実り、百姓は賑わった。-
伊迦賀色許男命に命じて、
【古事記 中巻 崇神天皇段】天之八十毘羅訶 を作らせて、天神地祇の社を定めて祭った。 -
今神祇の祭りに、熊の皮・鹿の皮・角・布等を用いるのは、これがもとである。
【古語拾遺 崇神天皇段】
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崇神天皇8年4月16日
【日本書紀 巻第五 崇神天皇八年四月乙卯条】高橋邑 の活日を大神 大物主神の掌酒 掌酒。此云佐介弭苔。とする。 -
崇神天皇8年12月20日
天皇は大田田根子に命じて
大神 大物主神を祭らせた。この日、活日が神酒を天皇に献上して、歌を詠んだ。
「
許 能 瀰 枳 破 和 餓 瀰 枳 那 羅 孺 椰 磨 等 那 殊 於 朋 望 能 農 之 能 介 瀰 之 瀰 枳 伊 句 臂 佐 伊 句 臂 佐 」このように歌を詠んで、神宮で宴を催した。
宴が終わると諸大夫らが歌を詠んだ。「
宇 磨 佐 開 瀰 和 能 等 能 能 阿 佐 妬 珥 毛 伊 弟 氐 由 介 那 瀰 和 能 等 能 渡 塢 」天皇も歌を詠んだ。
「
宇 磨 佐 階 瀰 和 能 等 能 能 阿 佐 妬 珥 毛 於 辭 寐 羅 箇 禰 瀰 和 能 等 能 渡 烏 」そして神宮の門を開いて出た。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇八年十二月乙卯条】
大田田根子は今の三輪君 らの始祖である。-
意富多多泥古命を神主として、
御諸山 に意富美和之大神を斎い祭らせた。この意富多多泥古という人を神の子と知ったわけは、活玉依毘売は容姿が端正だった。ここに姿形は威厳があって比類無い壮夫がいて、夜中に突然やって来た。そして相愛して共に住んだ。
【古事記 中巻 崇神天皇段】
まだ時日も経たないのにその美人は身ごもった。父母はその妊娠を怪しんで女 に言うには「おまえは身ごもっているようだが、夫がいないのにどのようにして身ごもったのだ」と。答えて「麗美な壮夫がいました。その姓名は知りませんが、毎晩やって来て、共に住む間に自然と身ごもりました」と。
父母はその人を知りたいと思い、女に「赤土を床の前に散らし、糸巻に巻いた麻糸を針に通して、その衣の裾に刺しなさい」と言った。教えの通りにして翌朝見ると、針をつけた麻糸は戸の鍵穴を通って出ていた。残る麻糸は三勾 三巻きのみだった。それで鍵穴から出たことを知り、糸をたどって尋ねて行った。
美和山に至り、神の社で留まっていた。それでその神の子と知った。その麻が三勾残っていたため、その地を名付けて美和 という。
この意富多多泥古命は神君 ・鴨君 の祖である。
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崇神天皇9年3月15日
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崇神天皇9年4月16日
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崇神天皇10年7月24日
群卿に詔して「民を導く本は教化にある。神祇を祀ると災害は無くなった。しかし遠くの荒ぶる人々は、いまだに正朔を受けず、王化に習っていない。そこで郡卿を選んで四方に遣わし、朕の教化を知らしめよう」と。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年七月己酉条】 -
崇神天皇10年9月9日
大彦命を
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年九月甲午条】北陸 に遣わした。
武渟川別を東海 に遣わした。
吉備津彦を西道 に遣わした。
丹波道主命を丹波 に遣わした。
そして「もし教えを受けなければ討伐せよ」と詔して印綬を将軍に授けた。 -
崇神天皇10年9月27日
大彦命は
和珥坂 の上に着いた。
時に少女が居て歌っていた(あるいは山背 の平坂 に着いた時、道のほとりで童女が歌っていた)。「
瀰 磨 紀 異 利 寐 胡 播 揶 飫 廼 餓 烏 塢 志 齊 務 苔 農 殊 末 句 志 羅 珥 比 賣 那 素 寐 殊 望 」あるいは
「
於 朋 耆 妬 庸 利 于 介 伽 卑 氐 許 呂 佐 務 苔 須 羅 句 塢 志 羅 珥 比 賣 那 素 寐 須 望 」と歌ったという。
大彦命は不思議に思って童女に「お前の言葉はどんな意味があるのだ」と尋ねると、「言うことはなく、ただ歌うのみです」と答えた。そしてまた同じ歌を歌って急に姿が見えなくなった。
大彦は引き返して、これを報告した。天皇の
姑 の倭迹迹日百襲姫命は聡明叡智で、よく物事を予知した。
それでその歌の不吉な前兆を知り、天皇に言うには「これは武埴安彦が謀反を起こす前兆であろう。私が聞くところによれば、武埴安彦の妻の吾田媛は密かにやって来て、倭の香山 の土を取って領巾のはしに包み、『これは倭国の物実 物實。此云望能志呂。』と呪って帰ったという。これでわかった。速やかに備えなければ、必ず遅れをとるであろう」と。
そこで諸将軍を集めて準備した。
時も経たぬ内に、武埴安彦と妻の吾田媛が謀反を起こして、忽ちに軍を率いた。
各々道を分けて、夫は山背から、妻は大坂から共に入って帝京を襲った。
天皇は五十狭芹彦命を遣わして、吾田媛の軍を討たせた。即ち大坂で遮り、吾田媛を殺し、軍卒の悉くを斬った。
また大彦と和珥臣 の遠祖の彦国葺を遣わして山背に向わせ、埴安彦を討たせた。
ここに忌瓮 を和珥 の武鐰坂 の上に据え、精兵を率いて那羅山 に登って戦った。
時に軍勢が集まって草木を踏みならした。それでその山を名付けて那羅山という。
また那羅山を去って進んで輪韓河 に至り、埴安彦と河を挟んで相挑んた。それで時の人はこの河を改めて名付けて挑河 という。今泉河 というのは訛ったのである。
埴安彦は彦国葺に問うて「なぜお前は軍を起こしてやって来たのだ」と。答えて「お前は天に逆らい無道である。王室を傾けようとしている。よって兵を挙げてお前を討つのだ。これは天皇の命である」と。
そこで先に射ることを争った。
武埴安彦が先に射たが、彦国葺には当たらなかった。
後に彦国葺が射ると埴安彦の胸に当たって死んだ。
その軍勢は怯えて退いたが、これを追って河の北で破り、半分以上の首を斬った。屍が多く溢れた。それでその地を名付けて羽振苑 という。
また兵が怖じ逃げて屎が褌から漏れた。それで甲 を脱いで逃げた。しかし逃げられないことを知ると、叩頭して「我が君」と言った。それで時の人は甲を脱いだ地を伽和羅 という。褌から屎が落ちた地を屎褌 という。今樟葉 というのは訛ったのである、また叩頭した地を名付けて我君 という。この後、倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となった。しかしその神は昼には姿を見せず、夜だけやって来た。
倭迹迹姫命は夫に語って「あなた様はいつも昼はおいでにならず、その御尊顔を拝見できません。どうかしばらく留まって下さい。日が明けて麗しいお姿を拝見したいです」と。大神は答えて「もっともなことだ。翌朝にはお前の櫛箱に入っているが、私の形に驚かないでくれ」と。
倭迹迹姫命は密かに怪しみ、日が明けるのを待って櫛箱を見た。すると美しく麗わしい小蛇がいた。その長さ太さは衣紐 のようであった。それで驚いて叫んだ。
大神は恥じて人の形になった。そして妻に「お前は我慢できずに私に恥をかかせた。お前にも恥をかかせてやろう」と言うと、大空を踏んで御諸山 に登った。
倭迹迹姫命は仰ぎ見て悔いると、どすんと坐った。そのとき箸が陰部を撞いて死んでしまった。それで大市 に葬った。時の人はその墓を名付けて箸墓 という。この墓は、日中は人が働き、夜は神が働き、大坂山 から石を運んで造った。山から墓まで民が連なって手渡しで運んだ。
時の人は歌を詠んだ。「
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年九月壬子条】飫 朋 佐 介 珥 菟 藝 廼 煩 例 屢 伊 辭 務 邏 塢 多 誤 辭 珥 固 佐 縻 固 辭 介 氐 務 介 茂 」-
大毘古命が高志国に向かう時、
腰裳 を着た少女が山代 山城の幣羅坂 に立って歌った。「
古 波 夜 美 麻 紀 伊 理 毘 古 波 夜 美 麻 紀 伊 理 毘 古 波 夜 意 能 賀 袁 袁 奴 須 美 斯 勢 牟 登 斯 理 都 斗 用 伊 由 岐 多 賀 比 麻 幣 都 斗 用 伊 由 岐 多 賀 比 宇 迦 迦 波 久 斯 良 爾 登 美 麻 紀 伊 理 毘 古 波 夜 」大毘古命は怪しく思って馬を返し、少女に「おまえが言っていることは何のことだ」と問うた。少女は「私は言わず、ただ歌うのみです」と答えた。そしてそこから急に消えて見えなくなった。
それで大毘古命は帰還して天皇に報告すると、天皇は「これは山代国にいる、あなたの庶兄建波邇安王が反逆心を起したしるしでしょう。伯父上、軍を興して行きなさい」と言った。そして丸邇臣 の祖日子国夫玖命を副えて遣わした。
この時、丸邇坂 に忌瓮 を据えて進軍した。
山代の和訶羅河 に着くと、建波邇安王が軍を興して遮って待っており、河を挟んで相挑んだ。それでその地を名付けて伊杼美 といい、今は伊豆美 という。
日子国夫玖命は「そちらの人が先に忌矢 を放て」と言った。
建波爾安王は矢を射たが命中しなかった。
国夫玖命が放った矢は建波爾安王に命中して死んだ。
それでその軍の悉くが逃げ散った。その逃げる軍勢を追って久須婆 に至り、みな攻め苦しめられて屎 が褌にかかった。それでその地を名付けて屎褌 といい、今は久須婆という。
またその逃げる軍勢を遮り斬ると、鵜のように河に浮いた。それでその河を名付けて鵜河 という。
またその兵士を斬り屠った。それでその地を名付けて波布理曽能 という。
このように平定して復命した。大毘古命は先の命令に従って高志国に向った。
【古事記 中巻 崇神天皇段】
東方に遣わされた建沼河別は、その父大毘古命と相津で行き会った。それでその地を名付けて相津 会津という。
こうしてそれぞれ遣わされた国を平定して復命した。そして天下は太平になり、人民は富み栄えた。
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崇神天皇10年10月1日
群臣に詔して「叛く者は悉く屈服した。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年十月乙卯朔条】畿内 は無事である。しかしその外は荒ぶる者がいて騒動は止まない。四道将軍は今すぐ出発せよ」と。 -
崇神天皇10年10月22日
将軍たちが出発する。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年十月丙子条】 -
崇神天皇11年4月28日
四道将軍が
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十一年四月己卯条】戎夷 平定を報告する。 -
崇神天皇11年
この年は異俗が多くやって来て、国内は安寧だった。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十一年是歳条】 -
崇神天皇12年3月11日
詔して「朕が初めて天位を承けて、宗廟を保つことが出来たが、光が届かず徳も及ばない所がある。それで陰陽が狂い、寒暑が乱れ、疫病も多く、百姓は災いを被っている。しかし今罪を祓い、過ちを改め、神祇を敬い、また教えを垂れて人民を和らげ、兵を挙げて服従しない者を討った。だから廃れる事も無く、下に隠遁者もいない。教化は行き渡り、衆庶は生活を楽しんでいる。異俗の人もやって来て、国外の人までも帰化している。この時に当たり、戸口を調べ、長幼の序・課役の先後を知らせるべきである」と。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十二年三月丁亥条】 -
崇神天皇12年9月16日
初めて戸口を調べ、課役を科した。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十二年九月己丑条】
これを男の弭調 、女の手末調 という。
これによって天神地祇は共に和み、風雨も時に順い、百穀も実り、家々には物が満ち足りて、天下は大平になった。それで誉め称えて御肇国天皇という。-
初めて男の
【古事記 中巻 崇神天皇段】弓端之調 、女の手末之調 を貢納させた。
それでその御世を称えて所知初国之御真木天皇という。
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崇神天皇17年7月1日
詔して「船は天下の要である。今海辺の民は船が無く、物を歩いて運んでいる。それで諸国に令して船を造らせよ」と。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十七年七月丙午朔条】 -
崇神天皇17年10月
初めて船を造る。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十七年十月条】 -
崇神天皇48年1月10日
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崇神天皇48年4月19日
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崇神天皇60年7月14日
群臣に詔して「武日照命が天から持って来た神宝を出雲大神宮に収めてあるが、これを見たいと思う」と。
そして矢田部造 の遠祖の武諸隅を遣わして献上させた。
この時、出雲臣の遠祖の出雲振根は神宝を司っていた。しかし筑紫国にいて会えなかった。その弟の飯入根が皇命を承り、神宝を弟の甘美韓日狭と子の鸕濡渟に授けて献上させた。
出雲振根が筑紫から帰って来て、神宝を朝廷に献上したことを聞くと、その弟の飯入根を責めて「数日待つべきであった。何を恐れて容易く神宝を許したのか」と言った。
年月が経ってもその恨みと怒りは消えず、弟を殺そうと思った。それで弟を欺いて「このごろ止屋 の淵に水草が生い茂っている。共に行って見たいと思うのだが」と言った。弟は兄に従った。
これより先、兄は密かに木刀を真刀に似せて作り、この時に佩いていた。弟は真刀を佩いていた。
共に淵のほとりに着くと、兄は弟に「淵の水はとても綺麗だ。共に水浴しようではないか」と言った。
弟は兄の言葉に従い、それぞれ刀を外して水の中に入った。
兄は先に陸に上がって弟の真刀を佩いた。後に弟は驚いて兄の木刀を取った。互いに斬り合ったが、弟は木刀のために抜けず、兄は弟の飯入根を殺した。
それで時の人は歌を詠んだ。「
椰 句 毛 多 菟 伊 頭 毛 多 鷄 流 餓 波 鷄 流 多 知 菟 頭 邏 佐 波 磨 枳 佐 微 那 辭 珥 阿 波 禮 」甘美韓日狭と鸕濡渟は朝廷に参って詳しく報告した。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇六十年七月己酉条】
それで吉備津彦と武渟河別を遣わして出雲振根を殺した。出雲臣らはこのことに恐れて、大神を祭らずにいた。
時に丹波 の氷上 の人、名は氷香戸辺が皇太子活目尊に言うには「私の小さな子が『玉のような菨 の中に沈む石。出雲の人が祭る本物の立派な鏡。力を振るう立派な御神。底の宝。宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かる立派な御神。底の宝。宝の主』と歌っています。これは子供が口にするような言葉ではありません。あるいは神がついて言うのでしょうか」と。
そこで皇太子は天皇に奏上した。即ち勅して祝い祭らせた。 -
崇神天皇62年7月2日
詔して「農は天下の大本である。民の頼みとして生きるところである。今、河内の狭山の埴田の水が少なく、その国の百姓は農事を怠っている。そこで池や溝を掘って民の生業を広めよ」と。
【日本書紀 巻第五 崇神天皇六十二年七月丙辰条】 -
崇神天皇62年10月
【日本書紀 巻第五 崇神天皇六十二年十月条】依網池 を造る。古事記も同様。 -
崇神天皇62年11月
【日本書紀 巻第五 崇神天皇六十二年十一月条】苅坂池 ・反折池 を造る。
あるいは天皇は桑間宮 に居て、この三つの池依網池を含む。を造ったという。-
【古事記 中巻 崇神天皇段】軽 の酒折池 を作った。
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崇神天皇65年1月
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崇神天皇65年7月
【日本書紀 巻第五 崇神天皇六十五年七月条】任那 国が蘇那曷叱知を遣わして朝貢する。
任那は筑紫国を去ること二千余里。北海を隔てて鶏林 新羅の西南にある。 -
崇神天皇68年12月5日
【日本書紀 巻第五 崇神天皇六十八年十二月壬子条】崩じる。
時に年百二十歳。立太子の記事の年齢を基準にすると119歳。-
御年百六十八歳。
【古事記 中巻 崇神天皇段】
戊寅年十二月に崩じた。
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垂仁天皇元年10月11日
【日本書紀 巻第六 垂仁天皇元年十月癸丑条】山辺道上陵 に葬られる。-
垂仁天皇元年8月11日
【日本書紀 巻第五 崇神天皇六十八年明年八月甲寅条】山辺道上陵 に葬られる。 -
御陵は
【古事記 中巻 崇神天皇段】山辺道勾之岡上 にある。
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- 関連
- 五世孫:
賀我別王 【先代旧事本紀 巻第十 国造本紀 浮田国造条】
- 五世孫: