倭迹迹日百襲姫命
- 名前
- 倭迹迹日百襲姬命【日本書紀】(やまとととひももそひめのみこと)倭迹迹日百襲姫命
- 夜麻登登母母曾毘賣命古事記では、名前に見える『母母』は『も』の乙類。『百』の意味の『もも』は『毛毛』として表記しており、甲類です。つまり古事記準拠だと、『母母(もも)』と『百(もも)』は通じません。現代表記では同じ音ですが、上代だと別の言葉であり、別の音であるというのが定説です。【古事記】(やまととももそびめのみこと)夜麻登登母母曽毘売命
- 倭迹迹百襲姬命校異【日本書紀】(やまとととももそひめのみこと)倭迹迹百襲姫命
- 倭迹速神淺茅原目妙姬【日本書紀】(やまととはやかんあさちはらまくわしひめ, やまととはやかむあさちはらまくはしひめ)倭迹速神浅茅原目妙姫
- 倭迹迹姬命【日本書紀】(やまとととひめのみこと)倭迹迹姫命
- 性別
- 女性
- 生年月日
- ( ~ 崇神天皇7年2月15日)
- 没年月日
- (崇神天皇10年9月27日 ~ )
- 父
孝霊天皇 【日本書紀 巻第四 孝霊天皇二年二月丙寅条】
- 母
倭国香媛 【日本書紀 巻第四 孝霊天皇二年二月丙寅条】
- 先祖
- 配偶者
大物主神 【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年九月壬子条】
- 出来事
-
崇神天皇7年2月15日
-
崇神天皇7年8月7日
-
崇神天皇10年9月27日
大彦命は
和珥坂 の上に着いた。
時に少女が居て歌っていた(あるいは山背 の平坂 に着いた時、道のほとりで童女が歌っていた)。「
瀰 磨 紀 異 利 寐 胡 播 揶 飫 廼 餓 烏 塢 志 齊 務 苔 農 殊 末 句 志 羅 珥 比 賣 那 素 寐 殊 望 」あるいは
「
於 朋 耆 妬 庸 利 于 介 伽 卑 氐 許 呂 佐 務 苔 須 羅 句 塢 志 羅 珥 比 賣 那 素 寐 須 望 」と歌ったという。
大彦命は不思議に思って童女に「お前の言葉はどんな意味があるのだ」と尋ねると、「言うことはなく、ただ歌うのみです」と答えた。そしてまた同じ歌を歌って急に姿が見えなくなった。
大彦は引き返して、これを崇神天皇に報告した。天皇の
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年九月壬子条】姑 の倭迹迹日百襲姫命は聡明叡智で、よく物事を予知した。
それでその歌の不吉な前兆を知り、天皇に言うには「これは武埴安彦が謀反を起こす前兆であろう。私が聞くところによれば、武埴安彦の妻の吾田媛は密かにやって来て、倭の香山 の土を取って領巾のはしに包み、『これは倭国の物実 物實。此云望能志呂。』と呪って帰ったという。これでわかった。速やかに備えなければ、必ず遅れをとるであろう」と。 -
(崇神天皇10年9月27日 ~ )
倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となった。しかしその神は昼には姿を見せず、夜だけやって来た。
倭迹迹姫命は夫に語って「あなた様はいつも昼はおいでにならず、その御尊顔を拝見できません。どうかしばらく留まって下さい。日が明けて麗しいお姿を拝見したいです」と。大神は答えて「もっともなことだ。翌朝にはお前の櫛箱に入っているが、私の形に驚かないでくれ」と。
倭迹迹姫命は密かに怪しみ、日が明けるのを待って櫛箱を見た。すると美しく麗わしい小蛇がいた。その長さ太さは衣紐 のようであった。それで驚いて叫んだ。
大神は恥じて人の形になった。そして妻に「お前は我慢できずに私に恥をかかせた。お前にも恥をかかせてやろう」と言うと、大空を踏んで御諸山 に登った。
倭迹迹姫命は仰ぎ見て悔いると、どすんと坐った。そのとき箸が陰部を撞いて死んでしまった。それで大市 に葬った。時の人はその墓を名付けて箸墓 という。この墓は、日中は人が働き、夜は神が働き、大坂山 から石を運んで造った。山から墓まで民が連なって手渡しで運んだ。
時の人は歌を詠んだ。「
【日本書紀 巻第五 崇神天皇十年九月壬子条】飫 朋 佐 介 珥 菟 藝 廼 煩 例 屢 伊 辭 務 邏 塢 多 誤 辭 珥 固 佐 縻 固 辭 介 氐 務 介 茂 」
- 関連