鹿我別
- 名前
- 鹿我別【日本書紀】(かがわけ)
- 賀我別王【先代旧事本紀】(かがわけのきみ, かがわけのおおきみ, かがわけのおほきみ, かがわけのみこ)
- 賀茂別王校異【先代旧事本紀】
- 生年月日
- ( ~ 成務天皇60年6月11日)
- 没年月日
- (神功皇后摂政50年2月1日 ~ )
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
浮田国造 【先代旧事本紀 巻第十 国造本紀 浮田国造条】
- 出来事
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(成務天皇元年1月5日 ~ 成務天皇60年6月11日)
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神功皇后摂政49年3月
神功皇后は荒田別・鹿我別を新羅征伐の将軍とした。
そして久氐らと共に兵を整えて卓淳 国に至り、まさに新羅を襲おうとした時に、ある人が言うには「兵が少なくて新羅を破ることは出来ません。沙白・蓋盧を送って増兵を請いましょう」と。
そこで木羅斤資・沙沙奴跪に命じて、精兵を率いて沙白・蓋盧と共に遣わした。
共に卓淳に集い、新羅を撃ち破った。
そして比自㶱 ・南加羅 ・喙国 ・安羅 ・多羅 ・卓淳・加羅 の七国を平定した。兵を移して西を廻って
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政四十九年三月条】古爰津 に至り、南蛮の忱弥多礼 を亡ぼして、百済に賜った。
その王肖古と王子貴須は、また軍を率いてやって来た。
時に比利 ・辟中 ・布弥支 ・半古 の四つの邑が自然に降服した。
百済王父子と荒田別・木羅斤資らは、共に意流村 で合流し、互いに喜んだ。礼を厚くして送り遣わした。 -
神功皇后摂政50年2月
日本に帰還する。
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五十年二月条】
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- 関連
- 五世祖:
崇神天皇 【先代旧事本紀 巻第十 国造本紀 浮田国造条】
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