久氐

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名前
  • 久氐【日本書紀】(くてい)
  • 久蹄校異【日本書紀】(くてい)
生年月日
( ~ 246年4月3日)
没年月日
(252年10月29日 ~ )
出来事
  • 246年4月3日

    神功皇后斯摩宿禰卓淳(とくじゅん)国に遣わした。

    卓淳王の末錦旱岐斯摩宿禰に言うには「甲子年記事が丙寅年なので、二年前を指すか。の七月中に、百済人である久氐・弥州流莫古の三人が我が国にやってきて『百済王は、東方に日本という貴い国があると聞き、我々を遣わしてその国に行かせた。それで道を求めてここに着きました。もし我々に道を教えて頂けるなら、我が王はきっと徳の深い君王と称えるでしょう』と言った。そこで久氐らに『東方に貴い国があることは聞いている。しかし通ったことが無いので、その道は知らない。ただ海は遠く浪は険しい。大船に乗れば、なんとか通うことも出来るだろう。もし船着き場があっても、船舶がなければかなわない』と言った。久氐らは『それならば今は通えないので、一度帰って船舶を用意した後に通りましょう』と言った。また重ねて、『もし貴い国の使者が来ることがあれば、我が国にも伝えて欲しい』と言って帰っていった」と。
    斯摩宿禰は従者の爾波移と卓淳の人過古の二人を百済国に遣わして、その王を慰労させた。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政四十六年三月乙亥朔条】
  • 247年(5月22日 ~ 6月19日)

    百済王が久氐・弥州流莫古を遣わして朝貢した。
    新羅国の調(みつき)の使いも久氐と共にやって来た。

    皇太后と太子誉田別尊は大いに喜び、そして「先王が所望していらっしゃった国人が今やって来た。御在世中でないのが残念だ」と言った。
    群臣に涙を流さぬ者はなかった。
    二国の貢物を調べると、新羅の貢物には珍品が多かったが、百済の貢物は少なく、良くもなかった。
    そこで久氐らに「百済の貢物は新羅に及ばないのはなぜだ」と問うと、答えて「私共は道がわからずに新羅に入ってしまい、新羅人は私共を捕らえて牢屋に入れました。三カ月が経って殺そうとしました。この時に私共は天に向って呪いました。新羅人はその呪いを怖れて殺しませんでしたが、私共の貢物を奪って自国の物としました。新羅の賤しい物を、我が国の貢物と入れ替えたのです。そして私共に『もしこの事を漏らせば、帰った日にお前らを殺す』と言いました。それで私共は恐怖で従ったのです。それで何とか天朝に参ることが出来たのです」と。
    皇太后と誉田別尊は新羅の使者を責めた。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政四十七年四月条】
  • 249年(3月31日 ~ 4月29日)

    神功皇后荒田別鹿我別を新羅征伐の将軍とした。
    そして久氐らと共に兵を整えて卓淳(とくじゅん)国に至り、まさに新羅を襲おうとした時に、ある人が言うには「兵が少なくて新羅を破ることは出来ません。沙白蓋盧を送って増兵を請いましょう」と。
    そこで木羅斤資沙沙奴跪(この二人は、その姓を知らぬ人である。ただし木羅斤資は百済の将である)に命じて、精兵を率いて沙白蓋盧と共に遣わした。
    共に卓淳に集い、新羅を撃ち破った。
    そして比自㶱(ひしほ)南加羅(ありひしのから)喙国(とくのくに)安羅(あら)多羅(たら)・卓淳・加羅(から)の七国を平定した。

    兵を移して西を廻って古爰津(こけいのつ)に至り、南蛮の忱弥多礼(とむたれ)を亡ぼして、百済に賜った。
    その王肖古と王子貴須は、また軍を率いてやって来た。
    時に比利(ひり)辟中(へちゅう)布弥支(ほむき)半古(はんこ)の四つの邑が自然に降服した。
    百済王父子と荒田別木羅斤資らは、共に意流村(おるすき)で合流し、互いに喜んだ。礼を厚くして送り遣わした。

    百済王は千熊長彦を連れて都に帰り、厚く礼遇した。
    また久氐らを副えて送った。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政四十九年三月条】
  • 250年(6月17日 ~ 7月15日)

    千熊長彦ら共に百済から来日する。

    皇太后は喜び、久氐に「海の西の諸国をお前の国に賜った。何用でまたやって来たのだ」と尋ねた。
    久氐らが言うには「天朝のお恵みは、遠い国にまで及びます。我が王も喜んで、帰還の使者を送って誠意を表したのです。万世に至るまで朝貢を怠ることはございません」と。
    皇太后は勅して「良いことを言ってくれた。これは原文ママ。の願いそのままだ」と。
    そこで多沙城(たさのさし)を加えて賜り、往還の駅とした。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五十年五月条】
  • 251年(4月8日 ~ 5月7日)

    百済王の命令で日本に朝貢する。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五十一年三月条】
  • 251年(4月8日 ~ 5月7日)

    帰国するために日本を発つ。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五十一年三月条】
  • 252年10月29日

    使者として日本に朝貢する。

    七枝刀(ななつさやのたち)一口・七子鏡(ななつこのかがみ)一面、及び様々な宝を献上した。
    そして「我が国の西に川があり、水源は谷那(こくな)の鉄山から出ていますが、七日行っても着きません。この水を飲み、この山の鉄を取り、ひたすらに聖朝に奉ります」と言った。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五十二年九月丙子条】