名前
  • 諡:神功皇后(じんぐうこうごう, じんぐうくゎんごう)神功皇后
  • 諡:氣長足姬尊【日本書紀】(おながたらし)気長足姫尊
  • 息長足姬尊校異【日本書紀】(おながたらし)息長足姫尊
  • 息長帶比賣命【古事記】(おながたらし)息長帯比売命
  • 息長帶日賣命【古事記】(おながたらし)息長帯日売命
  • 氣長足姬皇尊【新撰姓氏録】(おながたらし)気長足姫皇尊
  • 氣長足比賣【新撰姓氏録】(おながたらし)気長足比売
  • 氣長足姬命【先代旧事本紀】(おながたらし)気長足姫命
  • 磐余稚櫻宮御宇神功皇后【先代旧事本紀】(いわれのわかさくらのみやにあめのしたしろしめししじんぐうこうごう, いはれわかさくらやにあしたしししじんぐうくゎんごう)磐余稚桜宮御宇神功皇后
生年月日
成務天皇40年
没年月日
神功皇后摂政69年4月17日
  • 気長宿禰王おきながのすくねのみこ【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀】
  • 葛城高顙媛かずらきのたかぬかひめ【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀】
先祖
  1. 気長宿禰王
    1. 迦邇米雷王
      1. 山代之大筒木真若王
      2. 丹波能阿治佐波毘売
    2. 高材比売
      1. 丹波之遠津臣
  2. 葛城高顙媛
    1. 多遅摩比多訶
      1. 多遅摩比那良岐
    2. 菅竈由良度美
      1. 清日子
      2. 当摩之咩斐
配偶者
  • 仲哀天皇ちゅうあいてんのう【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年正月甲子条】
  • ・・・
    • 品夜和気命ほんやわけのみこと日本書紀での名は誉屋別皇子で、母を弟媛としている。【古事記 中巻 仲哀天皇段】【父:仲哀天皇ちゅうあいてんのう
  • 誉田別尊ほんたわけのみこと応神天皇おうじんてんのう【日本書紀 巻第十 応神天皇即位前紀】【父:仲哀天皇ちゅうあいてんのう
子孫
  1. 応神天皇
    1. 荒田皇女
    2. 仁徳天皇
      1. 履中天皇
      2. 住吉仲皇子
      3. 反正天皇
      4. 允恭天皇
      5. 大草香皇子
      6. 草香幡梭姫皇女
    3. 根鳥皇子
      1. 中日子王
      2. 伊和島王
    4. 額田大中彦皇子
    5. 大山守皇子
    6. 去来真稚皇子
    7. 大原皇女
    8. 澇来田皇女
    9. 阿倍皇女
    10. 淡路御原皇女
      1. 中日子王
      2. 伊和島王
    11. 紀之菟野皇女
    12. 三野郎女
    13. 滋原皇女
    14. 菟道稚郎子皇子
    15. 八田皇女
    16. 雌鳥皇女
    17. 菟道稚郎姫皇女
    18. 稚野毛二派皇子
      1. 意富富杼王
      2. 忍坂大中姫命
      3. 田井之中比売
      4. 田宮之中比売
      5. 藤原之琴節郎女
      6. 取売王
      7. 沙禰王
      8. 衣通郎姫
    19. 隼別皇子
    20. 大葉枝皇子
    21. 小葉枝皇子
    22. 幡日之若郎女
    23. 川原田郎女
    24. 玉郎女
    25. 忍坂大中比売
    26. 登富志郎女
    27. 迦多遅王
    28. 伊奢能麻和迦王
出来事
  • 成務天皇40年崩御時の年齢100歳から判断。

    気長宿禰王の娘として生まれる。母は葛城高顙媛

    幼くして聡明叡智で、壮麗な容貌に父王も訝しがる程だった。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀】
  • 仲哀天皇2年1月11日

    仲哀天皇の皇后となる。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年正月甲子条】
  • 仲哀天皇2年2月6日

    角鹿(つのが)に行幸啓する。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年二月戊子条】
  • 仲哀天皇2年3月15日

    天皇が南国を巡幸した。
    皇后と百寮は留めて、駕に従う二三人の卿大夫と、官人数百人とで紀伊国に行き、徳勒津宮(ところつのみや)に住んだ。
    この時に熊襲(くまそ)が叛いて朝貢しなかった。
    天皇は熊襲国を討つために徳勒津を発って、船で穴門(あなと)に向った。
    その日に使いを角鹿に遣わして、皇后に「すぐにその津を出発して、穴門で会おう」と詔した。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年三月丁卯条】
  • 仲哀天皇2年6月10日

    天皇が豊浦津(とゆらのつ)に泊る。

    皇后は角鹿(つのが)を出発して、渟田門(ぬたのみなと)に着き、船上で食事した。
    この時に多くの鯛が船の傍に多く集まり、皇后が酒を鯛にそそぐと、酔って浮いた。
    時に漁人はその魚を多く獲って「聖王の下さった魚だ」と喜んだ。
    そこの魚が六月になると、常に酔ったように口をパクパクさせるのは、これがもとである。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年六月庚寅条】
  • 仲哀天皇2年7月5日

    豊浦津(とゆらのつ)に泊った。
    この日、皇后は如意珠(にょいのたま)を海で拾った。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年七月乙卯条】
  • 仲哀天皇8年1月4日

    筑紫(つくし)に行幸啓する。

    皇后は別の船で洞海(くきのうみ)洞。此云久岐。から入ったが、潮が引いて進めなかった。
    時に熊鰐が洞海から皇后を迎えた。
    そして進まない御船を見て恐れ畏まり、すぐに魚沼(うおいけ)鳥池(とりいけ)を造って、魚や鳥を集めた。
    皇后は魚や鳥を見ると怒りの心もようやく解け、潮が満ちると岡津(おかのつ)に泊まった。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇八年正月壬午条】
  • 仲哀天皇8年9月5日

    仲哀天皇が群臣に詔して熊襲(くまそ)討伐を議った。

    時に神が皇后に神憑り、教えて言うには「天皇はなぜ熊襲が服従しないことを憂えておいでか。そこは荒れ痩せた国である。挙兵するに足らない。この国に勝って、宝のある国、譬えば処女の眉のように海上に見える国がある。眩い金・銀・彩色などが沢山その国にはある。これを栲衾新羅国(たくふすましらきのくに)栲衾は白い布で新羅の枕詞。という。もしよく私を祭れば、刃に血塗らずして、その国は必ず自ずから服従し、また熊襲も服従するであろう。その祭りをするには天皇の御船と穴門直践立が献上した大田(おおた)という名の水田。これらの物をお供えしなさい」と。
    天皇は神の言葉を聞いたが、疑いの心を持った。
    そこで高い岳に登って、遥に大海を望んだが国は見えなかった。
    天皇が神に答えて言うには「周囲を眺めても海のみで国はありません。大空にでも国があるのでしょうか。どの神が徒に朕を欺くのでしょうか。また我が皇祖の諸天皇たちは神祇を尽く祭っておられます。どうして残っている神がおられましょうか」と。
    時に神がまた皇后に神憑って言うには「水に映る影のように、鮮明に私が見ている国を、なぜ国が無いと言って、私の言をそしるのか。お前がそのように言って信じないのであれば、お前はその国を得ることは出来ない。ただし皇后は今はじめて身ごもっておられる。その御子が得られるであろう」と。
    しかし天皇は猶も信じずに熊襲を攻撃したが、勝ちを得ることなく帰還した。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇八年九月己卯条】
  • 仲哀天皇9年2月5日

    仲哀天皇が病気になる。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇九年二月丁未条】
  • 仲哀天皇9年2月6日仲哀記では壬戌年六月十一日。

    仲哀天皇が崩じる。

    皇后と大臣武内宿禰は天皇の喪を隠し、天下に知らせなかった。
    そして皇后は、武内宿禰及び中臣烏賊津連大三輪大友主君物部胆咋連大伴武以連に詔して「いま天下は天皇の崩御を知らない。もし百姓が知れば怠る者が現れるか」と。
    そして、四大夫に命じて百寮を率いて宮中を守らせた。
    密かに天皇の遺骸を収め、武内宿禰に任せて海路から穴門(あなと)に移した。
    そして豊浦宮(とゆらのみや)で灯火を焚かずに仮葬した。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇九年二月丁未明日条】
  • 仲哀天皇9年2月22日

    大臣武内宿禰穴門(あなと)から帰還して、皇后に復命する。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇九年二月甲子条】
  • 仲哀天皇9年2月(6日 ~ 29日)

    群臣と百寮に命じて、罪を払い、過ちを改めて、さらに斎宮(いわいのみや)小山田邑(おやまだのむら)に造らせた。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年二月条】
  • 仲哀天皇9年3月1日

    皇后は吉日を選んで斎宮(いわいのみや)に入り、自ら神主となった。
    そして武内宿禰に命じて琴をひかせ、中臣烏賊津使主を召して審神者(さにわ)とした。
    そして幣帛を沢山積んで、琴の頭部と尾部に置き、請うて「先の日に天皇に教えられたのは、どこの神でしょうか。その御名を知りたいのです」と言った。
    七日七夜に至り、答えて言うには「神風(かみかぜ)の伊勢国の百伝(ももづた)度逢県(わたらいのあがた)拆鈴(さくすず)五十鈴宮(いすずのみや)にいる神。名を撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という」と。
    また尋ねて「まだ他に神はいらっしゃいますか」と。答えて「幡荻(はたすすき)穂に出る私は、尾田(おだ)吾田節(あたふし)淡郡(あわのこおり)にいる神である」と。
    また尋ねて「まだいらっしゃいますか」と。答えて「天に事代、虚に事代、玉籤入彦厳之事代神がいる」と。
    また尋ねて「まだいらっしゃいますか」と。答えて「いるかいないか分からない」と。
    審神者が尋ねて「今お答えにならないで、後におっしゃることはありますか」と。答えて「日向国(ひむかのくに)橘小門(たちばなのおど)の水底にいて、海草のように若々しく生命に満ちる神がいる。名を表筒男中筒男底筒男という」と。
    また尋ねて「まだいらっしゃいますか」と。答えて「いるかいないか分からない」と。
    遂にまだ神がいるとは言わなかった。
    時に神の言葉を聞いて、教えのままに祭った。
    その後に吉備臣(きびのおみ)の祖の鴨別を遣わして熊襲国(くまそのくに)を討たせた。いくらもせずに自ら服従した。
    また荷持田村(のとりたのふれ)荷持。此云能登利。羽白熊鷲という者がいた。その人となりは強健で、また体に翼があり、よく飛んで高く翔けた。皇命には従わず、何度も人民から略奪した。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年三月壬申朔条】
    • 足仲彦天皇筑紫(つくし)橿日宮(かしひのみや)に居たときに、神が沙麼県主(さばのあがたぬし)の祖の内避高国避高松屋種に神懸かり、天皇に教えて言うには「御孫尊(みまのみこと)がもし宝の国を得たいと思われるなら、実際に授けましょう」と。
      また、「琴を持ってきて皇后に進上されますように」と言った。
      そこで神の言に従って皇后が琴をひいた。
      すると神が皇后に神憑り、教えて言うには「今、御孫尊が所望する国は、例えば鹿の角のように中身が無い国である。御孫尊がお乗りになる船と、穴戸直践立が奉った大田(おおた)という名の水田をお供えして、よく私を祭れば、美女の眉のように金銀が多く、眼の輝く国を御孫尊に授けましょう」と。
      天皇は神に答えて「神といえども何を欺かれるのでしょうか。何処に国がありましょうか。また朕の乗る船を神に奉り、朕はどの船に乗るのでしょうか。それにまだどの神ということも知りません。どうかその御名をお知らせ下さい」と。
      神がその名を名乗って言うには「表筒雄中筒雄底筒雄」と。
      このように三神の名を名乗り、また重ねて言うには「我が名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊である」と。
      時に天皇は皇后に「聞きにくい事を言われる婦人だ。どうして速狭騰というのだ」と言った。
      すると神が天皇に言うには「あなた様が信じないのであれば、その国を得ることは出来ません。ただし今、皇后が妊んでいる子が得ることになるでしょう」と。

      この夜に天皇は急病を発して崩じた。

      その後、皇后は神の教えのままに祭った。

      皇后は男装して新羅を征した。神は側で導いた。これにより船を乗せた浪は、遠く新羅国の中にまで及んだ。
      新羅王宇流助富利智干は参上して跪き、王船を見つけて、叩頭して言うには「私は今後、日本国にお出での神の御子に、内官家(うちつみやけ)として、絶えることなく朝貢いたします」と。

      【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年十二月辛亥条 一云 第一】
    • 天皇は筑紫(つくし)訶志比宮(かしひのみや)にて、熊曽国を討とうとする時、天皇は御琴を弾き、建内宿禰大臣沙庭(さにわ)神託を受けるために忌み清めた祭場で神託を請うた。
      すると大后に神懸かり、教えて言うには「西方に国がある。金銀をはじめ、目の眩むような様々な珍宝がその国には多くある。私が今その国を帰順させて賜ろう」と。
      天皇は答えて「高地に登って西方を見ても国は見えず、ただ大海があるのみです」と言い、詐りを言う神だと思って、御琴をどけて弾くのをやめて黙っていた。
      するとその神が大いに怒って言うには「凡そこの天下は、お前の治める国ではない。お前はただ一つの道に行きなさい」と。
      そこで建内宿禰大臣が「恐れ多いことで御座います。やはりその大御琴をお弾きなさいませ」と言ったので、そろそろと御琴を取り、しぶしぶ弾いた。
      それほど時が経たないうちに御琴の音が聞こえなくなった。すぐに火を点して見てみると、すでに崩じていた。

      それで驚き恐れて、殯宮に遺体を移すと、国中の大幣(おおぬさ)を集めて、生剥(いけはぎ)逆剥(さかはぎ)阿離(あはなち)溝埋(みぞうめ)屎戸(くそへ)上通下通婚(おやこたわけ)馬婚(うまたわけ)牛婚(うしたわけ)鶏婚(とりたわけ)犬婚(いぬたわけ)などの罪の類を様々求めて、国をあげて大祓(おおはらえ)を行った。

      また建内宿禰が沙庭で神託を請うた。ここでの教えは先日と同じで、「凡そこの国は、あなた様神功皇后の御腹にあらせられる御子がお治めになられる国で御座います」と。
      建内宿禰が「恐れ入りました。我が大神よ。その神の御腹にあらせられる御子は、何れの御子でしょうか」と尋ねると、「男子である」と答えた。
      さらに詳しく請うて「今教えて頂いた大神の御名を伺いたいと存じます」と。
      答えて「これは天照大神の御心である。また底筒男中筒男上筒男の三柱の大神である。今まことにその国を求めようと思うのであれば、天つ神と国つ神、また山の神、河・海の諸々の神に、悉く幣帛(みてぐら)を奉り、我が御魂を船上に祭って、真木の灰を(ひさご)に入れ、また箸と葉盤(ひらで)を多く作り、それら全てを大海に散らし浮かべて渡りなさい」と。

      それで教えに従って、軍を整え、船を並べて海を渡る時、海原の魚が大小問わず御船を背負って渡った。追い風が大いに起こり、船は浪に従って進んだ。
      それでその御船の波は新羅の国に押し上がって、すでに国の半ばに至った。
      するとその国の王が恐れ畏まって言うには「今後は天皇の御命令に従い、御馬甘(みまかい)となって、毎年船を並べて、船の腹を乾かすことなく、(さお)(かじ)を乾かすことなく、天地が存在する限り、止むことなくお仕え奉ります」と。
      それで新羅国は御馬甘と定めて、百済国は渡りの屯家(みやけ)と定めた。
      そこでその御杖を新羅の国主の門に突き立て、墨江大神の荒御魂を、国の守り神として鎮め祭り、海を渡って還った。

      【古事記 中巻 仲哀天皇段】
    • 磐余稚桜朝(いわれのわかざくらのみかど)に至り、住吉大神が顕れた。

      【古語拾遺 神功皇后段】
  • 仲哀天皇9年3月17日

    熊鷲を討つために、橿日宮(かしひのみや)から松峡宮(まつおのみや)に遷る。
    時に旋風が起り、御笠が吹き飛ばされた。それで時の人はそこを名付けて御笠(みかさ)という。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年三月戊子条】
  • 仲哀天皇9年3月20日

    層増岐野(そそきの)に至り、挙兵して羽白熊鷲を滅ぼした。
    そして側の者に「熊鷲を取って、我が心は安らかだ」と言った。それでそこを名付けて(やす)という。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年三月辛卯条】
  • 仲哀天皇9年3月25日

    山門県(やまとのあがた)至り、土蜘蛛田油津媛を殺した。
    田油津媛の兄の夏羽は軍を興して迎えにきたが、妹が殺されたことを聞いて逃げた。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年三月丙申条】
  • 仲哀天皇9年4月13日

    北方の火前国(ひのみちのくちのくに)松浦県(まつらのあがた)に至り、玉島里(たまのしまのさと)の小河のほとりで食事をした。
    皇后は針を曲げて釣り針を作り、飯粒を取って餌とし、裳の糸を取って釣り糸とし、河の中の石に登って釣り針を投げ、祈って言うには「朕は西の財の国を求めたいと思います。もし事を成すことが出来るのであれば、川の魚よ。釣り針を飲め」と。
    そして竿を挙げると鮎を獲た。
    皇后は「めずらしい物だ」と言った。それで時の人はそこを名付けて梅豆羅国(めずらのくに)という。今は訛って松浦という。
    その国の女人は四月上旬に当り、釣り針を河の中に投げて鮎を捕る。今も絶えることがない。ただし男が釣っても魚は獲ること出来ない。
    皇后は神の教えの験を知り、さらに神祗の祭祀をして、自ら西征しようと思った。
    神田を定めて、()の河の水を引き、神田に入れるために溝を掘った。
    迹驚岡(とどろきのおか)に及んで、大岩が塞がり溝を掘れなかった。
    皇后は武内宿禰を召して、剣と鏡を捧げて神祗に祈り、溝を通すことを求めた。
    そのとき雷電が急に激しく鳴り、その大岩を踏み裂いて水が通った。それで時の人はその溝を名付けて裂田溝(さくたのうなで)という。
    皇后は橿日浦(かしひのうら)に帰り、髪を解いて、海に臨んで言うには「私は神祗の教えを受け、皇祖の御霊に頼って青海原を渡り、自ら西征したいと思います。それで今、頭を海水にすすぎますが、もし験があるのであれば、髪は自ずから分かれて二つになりますように」と。
    そして海に入ってすすぐと、髪は自ずから分かれた。
    皇后は髪を結って髻にして、群臣に言うには「軍を起こして衆を動かすのは国の大事である。安危と成敗はここにかかっている。今、征伐する所があり、群臣たちに委ねる。もし失敗すれば罪は群臣にある。これは甚だ辛いことである。私は女であり、加えて不肖である。しかし暫く男の姿にやつして強く雄略を起こそう。上には神祗の御霊をかぶり、下には群臣の助けにより、兵を起こして高い浪を渡り、船を整えて財土を求める。もし成功すれば群臣は共に功があるが、失敗すれば自分一人の罪である。既にこの覚悟であるから共に計らえ」と。
    群臣皆が言うには「皇后は天下のために、宗廟社稷を安泰にすることを計っておられる。罪が臣下に及ぶことはありますまい。慎んで詔を承ります」と。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年四月甲申条】
  • 仲哀天皇9年9月10日

    諸国に令して、船を集めて兵を訓練した。
    時に軍卒が集まり難かった。皇后は「これはきっと神のお心なのだろう」と言うと、大三輪の社を建てて、刀と矛を奉った。すると軍衆は自ずから集まった。

    吾瓮海人烏摩呂を西の海に出して、国が有るかを観察させた。帰還して「国は見えません」と復命した。
    また磯鹿海人名草を遣わして観察させた。
    数日後に帰還して言うには「西北に山があり、雲が横に渡っています。国があるのではないでしょうか」と。
    そこで吉日を占い、出発するまで日があった。
    時に皇后は自ら斧鉞をとると三軍に令して「鐘鼓の音が乱れ、旌旗が乱れるときは士卒は整わない。財を貪り、未練があれば、必ず捕虜となる。敵少なくとも侮るな。敵強くとも屈するな。婦女を犯すことは許さない。服従するなら殺してはいけない。戦いに勝てば必ず賞がある。逃走すれば罪となる」と。
    既に神が教えて言うには「和魂(にきみたま)和魂。此云珥岐瀰多摩。は王の命を守り、荒魂(あらみたま)荒魂。此云阿邏瀰多摩。は先鋒として軍船を導く」と。その神の教えを得て、拝礼して、依網吾彦男垂見を祭りの神主とした。

    時に皇后は臨月に当っていた。皇后は石を取って腰に挿み、祈って言うには「事を終えて還る日に、ここで産まれたまえ」と。
    その石は今伊覩県(いとのあがた)の道のほとりにある。

    こうして荒魂を招いて先鋒とし、和魂を招いて王船の守りとした。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年九月己卯条】
  • 仲哀天皇9年10月3日

    和珥津(わにのつ)を出発した。
    時に風の神が風を起こし、波の神は波をあげて、海中の大魚は悉く浮かんで船を助けた。
    順風が吹いて、帆船は波に従い、苦労もなく新羅に着いた。
    時に船を乗せた浪は国の中にまで及び、天神地祇の助けがあることを知った。
    新羅王は戦々恐々として為す術がなく、諸人を集めて言うには「新羅の建国以来、海水が国に上ってくるなどとは聞いたことがない。天運尽きて国が海となるのか」と。
    言い終わる間に軍船は海に満ち、旗は日に輝き、鼓笛の音は山川を振るわせた。
    新羅王はこれを遥に望み、非常の兵が自分の国を滅ぼそうとしていることに恐れて、気を失った。
    なんとか目を醒まして言うには「聞くところによれば、東に神の国があり、日本(やまと)という。また聖王がいて天皇という。きっとその国の神兵だ。決して兵を挙げて防ぐことは出来ない」と。
    そして白旗を掲げて降伏し、白い綬を首にかけて自ら捕われた。
    地図や戸籍を封印し、王船の前で叩頭して言うには「今後は、末永く服従して飼部(かいべ)となります。船かじを絶やさず、春と秋に馬の毛を洗うはけや鞭を献上します。また遠い海を煩いとせず、毎年男女の調(みつき)を献上します」と。
    さらに重ねて誓って言うには「東から出る日が西から出ることや、また阿利那礼河(ありなれがわ)が逆流し、河の石に昇って星となることがない限り、春秋の朝貢を欠き、怠って、梳と鞭の朝貢をやめれば、天神地祇と共に討伐して頂きたく存じます」と。
    ある人は「新羅王を殺しましょう」と言った。しかし皇后が言うには「神の教えを承って、まさに金銀の国を授かろうとしている。また三軍に号令して『降服するものは殺すな』と言った。既に財の国を獲て、人も自ら降服してきた。殺すのは不祥である」と。
    そして縛を解いて飼部とした。
    遂に入国して、重宝の府庫を封じ、図籍文書を収めた。
    皇后が持つ矛を新羅王の門に立て、後世への印とした。それでその矛は今もなお新羅王の門に立っている。
    新羅王波沙寐錦微叱己知波珍干岐を人質とし、金・銀・彩色・綾・(うすはた)縑絹(かとりのきぬ)を沢山の船に載せて官軍に従わせた。
    新羅王が常に沢山の船に貢物を日本国に送るのは、これがそのもとである。
    高麗・百済の二国の王は、新羅が図籍を日本国に収めて降伏したと聞いて、密かにその軍勢を伺い、勝てないことを知ると、自ら陣営の外にやってきた。
    そして叩頭して「今後は永く西蕃と称し、朝貢を絶やしません」と言った。
    そこで内官家屯倉(うちつみやけ)を定めた。これが所謂三韓(みつのからくに)である。

    皇后は新羅から帰還した。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年十月辛丑条】
    • 新羅王を虜にして海辺に行き、王の膝の骨を抜いて石の上に腹這わせた。
      しばらくすると斬って砂の中に埋めた。
      一人を留め、新羅の(みこともち)として置き、帰還した。
      その後、新羅王の妻は、夫の屍を埋めた地を知らないので、宰を誘惑して「お前が王の屍を埋めた所を教えれば、必ず篤く報いる。また私はお前の妻となろう」と言った。
      宰は誘惑を信じて、密かに屍を埋めた所を教えた。しかし王の妻と国人は共に図って宰を殺した。
      そして王の屍を出して別の所に葬った。
      宰の屍は、王の墓の土の底に埋め、王の棺をその上に降ろして「尊卑の順はこのようなのだ」と言った。
      天皇はこれを聞いて怒りに震え、大軍を起こして新羅を滅ぼそうとした。
      軍船は海に満ちた。この時、新羅の国人は大いに怖れて成す術がなく、皆で謀って王の妻を殺し、罪を贖った。

      ここでは本文と違い、新羅降伏時に天皇が出てくる。仲哀天皇が生存していたという一説なのか。
      【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年十二月辛亥条 一云 第二】
    • 新羅を征伐して、三韓が始めて参上した。

      【古語拾遺 神功皇后段】
  • 仲哀天皇9年12月14日

    筑紫(つくし)誉田天皇応神天皇が生まれる。それで時の人はその産んだ所を名付けて宇瀰(うみ)という。

    軍に従った表筒男中筒男底筒男の三神は、皇后に教えて「我が荒魂(あらみたま)穴門(あなと)山田邑(やまだのむら)に祭りなさい」と言った。
    時に穴門直(あなとのあたい)の祖践立津守連(つもりのむらじ)の祖田裳見宿禰が、皇后に言うには「神がいらっしゃる地を定めて、必ず奉りましょう」と。
    そこで践立を荒魂の神主とし、社を穴門の山田邑に社を建てた。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年十二月辛亥条】
    • その政務が未だ終わらぬ間に、身ごもっている御子が生まれそうになった。
      それで御腹を鎮め、石を取って御裳の腰につけて、筑紫国(つくしのくに)に渡り、その御子が生まれた。
      それでその御子が生まれた地を宇美(うみ)という。
      またその御裳につけた石は、筑紫国の伊斗村(いとのむら)にある。

      また筑紫の末羅県(まつらのあがた)玉島里(たましまのさと)に至り、その河辺で食事をしている時は、四月の上旬だった。
      そこでその河の中の礒に立って、御裳の糸を抜き取り、飯粒を餌にして河の鮎を釣った。
      その河の名を小河(おがわ)といい、またその磯の名を勝門比売(かちどひめ)という。
      それで四月上旬に女人が裳の糸を抜いて、飯粒を餌にして鮎を釣ることが、今に至るまで絶えず行われている。

      【古事記 中巻 仲哀天皇段】
  • 神功皇后摂政元年2月新羅征伐明年二月。

    皇后は群卿と百寮を率いて穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)に移った。
    天皇の遺骸を収めて、海路より(みやこ)に向った。
    時に麛坂王忍熊王は、天皇の崩御、皇后の西征、皇子の誕生を聞き、密かに謀って言うには「いま皇后には子がいて、群臣は皆従っている。必ず共に議って幼主を立てるだろう。我らはなぜ兄であるのに弟に従うのか」と。
    そこで天皇の陵を造る為と詐って、播磨に詣でて山陵を赤石に立てた。
    そして船を連ねて淡路島に渡し、その島の石を運んで造った。
    そして人ごとに武器を取らせて皇后を待った。

    犬上君(いぬかみのきみ)の祖の倉見別吉師(きし)の祖の五十狭茅宿禰は、共に麛坂王に従った。
    それで将軍として東国の兵を起こさせた。

    時に麛坂王忍熊王は、共に菟餓野(とがの)に出て、狩りで占って「もし成功するならば、必ずよい獣を獲られる」と言った。
    二王がそれぞれ仮の桟敷に居ると、赤い猪が急に出てきて、桟敷に登って麛坂王を喰い殺した。兵士は大いに怖気づいた。
    忍熊王倉見別に「これは大変なことだ。ここで敵を待ってはいけない」と言った。
    そして軍を引き返して住吉(すみのえ)に駐屯した。

    時に皇后は、忍熊王が挙兵して待っていると聞いて、武内宿禰に命じて、皇子を抱いて、迂回して南海より出て、紀伊水門(きいのみなと)に泊まらせた。
    皇后の船は真っ直ぐに難波(なにわ)を目指した。

    時に皇后の船は海中で廻って進めなくなったので、帰って務古水門(むこのみなと)で占った。
    天照大神が教えて言うには「我が荒魂(あらみたま)を皇后に近づけてはならない。御心を広田国(ひろたのくに)に置くのがよい」と。
    そこで山背根子の娘の葉山媛に祭らせた。
    また稚日女尊が教えて言うには「私は活田長峡国(いくたのながさのくに)に居りたい」と。
    そこで海上五十狭茅に祭らせた。
    また事代主尊が教えて言うには「我が御心を長田国(ながたのくに)に祀りなさい」と。
    そこで葉山媛の妹の長媛に祭らせた。
    また表筒男中筒男底筒男の三神が教えて言うには「我が和魂(にきみたま)を大津の渟中倉(ぬなくら)長峡(ながお)に置けば、往来する船を見守ることが出来る」と。
    そこで神の教えのままに鎮座させた。
    こうして平穏に海を渡ることが出来た。

    忍熊王はまた軍を引いて菟道(うじ)に陣取った。
    皇后は南方の紀伊国に着き、太子応神天皇に日高で会った。
    そして群臣と謀って、遂に忍熊王を攻めるために、さらに小竹宮(しののみや)小竹。此云之努。に移った。
    この時、昼は夜のように暗く、多くの日が経った。時の人は「常夜(とこやみ)行く」と言った。
    皇后は紀直(きのあたい)の祖の豊耳に「この変事は何のせいだろう」と尋ねた。
    時に一人の老父が言うには「伝え聞くところによりますと、このような変事を阿豆那比(あずなひ)の罪というそうです」と。
    どういうことか尋ねると、「二つの社の(はふり)を共に合葬しているからでしょうか」と答えた。
    そこで村人に尋ねて、ある人が言うには「小竹の祝と天野の祝は仲が良かった。小竹の祝が病で死ぬと、天野の祝は激しく泣いて『生きているときには良い友人だった。なぜ死んで穴を同じくすることが避けられようか』と言った。そして屍の側に伏して自殺した。それで合葬した。このことでしょうか」と。
    墓を開けて見ると本当だった。
    それで更に棺を改めて、それぞれ違う所に埋めた。すると光が照って、日と夜が別れた。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政元年二月条】
    • (やまと)に帰還する時、人の心が疑わしかったので、喪船を一艘用意して、御子をその喪船に乗せて、先ず「御子は既に崩じた」と言い漏らさせた。
      こうして還幸した時、香坂王忍熊王はこれを聞いて、待ち受けて討ち取ろうと思い、斗賀野(とがの)に進出して、誓約狩(うけいがり)をした。
      そこで香坂王が櫟の木に登っていると、大きな怒り狂った猪が出てきて、その櫟の木を掘って倒し、香坂王を喰い殺した。

      【古事記 中巻 仲哀天皇段】
  • 神功皇后摂政元年3月5日

    武内宿禰和珥臣(わにのおみ)の祖武振熊に命じて、数万の軍勢を率いさせて忍熊王を討たせた。
    武内宿禰らは精兵を選んで山背(やましろ)から出た。
    菟道(うじ)に至り、河の北に駐屯した。
    忍熊王は出陣して戦おうとした。
    時に熊之凝者忍熊王の軍の先鋒となった。熊之凝者葛野城首(かずのきのおびと)の祖である。あるいは多呉吉師(たごのきし)の遠祖という。
    そして軍を激励するため、声高く歌った。

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()() ()()()()() ()()() ()()()()() ()()()()()() ()()()()() ()()()()()() ()()()()() ()()()


    時に武内宿禰は三軍に令して、ことごとく髪を結い上げさせた。
    そして号令して「それぞれ控えの弓弦を髪の中に隠し、また木刀を佩け」と言った。
    皇后の命を告げて、忍熊王を欺いて言うには「私は天下を貪りません。ただ幼王を抱いて、君王に従うだけです。どうして戦うことがありましょうか。どうか共に武器を捨てて和睦しましょう。そして君王が皇位に登り、安んじて(よろず)の政を行えばよいのです」と。
    そして軍中に令して、弓弦を断ち、刀を解いて河に投げ入れさせた。
    忍熊王は偽りの言葉を信じて、全軍に令して武器を河に投げ入れて弓弦を断たせた。
    ここで武内宿禰は三軍に令して、控えの弓弦を出して張り、真刀を佩かせて、河を渡って進んだ。
    忍熊王は欺かれたことを知り、倉見別五十狭茅宿禰に「私は欺かれた。控えの武器も無く、戦うことが出来ない」と言って、兵を率いて退いた。
    武内宿禰は精兵を出して追わせた。
    たまたま逢坂(おうさか)で遭遇して破った。それでその所を名付けて逢坂(おうさか)という。
    逃走した兵の多くは狭狭浪(ささなみ)栗林(くるす)で斬られた。血は流れて栗林に溢れた。それでこの事を憎み、今に至るまで、栗林の(このみ)は御所に奉らないのである。
    忍熊王は逃げ隠れする所も無く、五十狭茅宿禰を呼んで歌を詠んだ。

    ()()()() ()()()()()() ()()()()() ()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()

    そして共に瀬田の渡りに沈んで死んだ。

    時に武内宿禰が歌を詠んだ。

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()(𛀁)()() ()()()()()()()

    その屍は探しても見つからなかったが、数日後に菟道河(うじがわ)で見つかった。
    武内宿禰はまた歌を詠んだ。

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政元年三月庚子条】
    • 忍熊王は恐れることなく、軍を起こして待ち受けて、喪船に向い、空船(むなしふね)を攻めた。
      その喪船の下に軍を降ろして相戦った。
      この時、忍熊王は、難波(なにわ)吉師部(きしべ)の祖伊佐比宿禰を将軍とした。
      太子の方では丸邇臣(わにのおみ)の祖難波根子建振熊命を将軍とした。
      そして追い退けて山代(やましろ)に至った時に立ち直って、それぞれ退かずに相戦った。
      建振熊命は計略をめぐらし、「息長帯日売命は既にお隠れになられてしまわれた。更に戦うことはない」と言うと、ただちに弓弦を絶ち、欺いて帰服した。
      その将軍は詐りを信じ、弓を外して武器を収めた。
      そこで束ねた髪の中から用意していた弦(あるいは、うさゆづる宇佐由豆留ともいう)を出して、更に張って追撃した。
      それで逢坂(おうさか)まで逃げ退いて、また向い立って戦った。
      追い迫って沙沙那美(ささなみ)で破り、その軍の悉くを斬った。
      この時に忍熊王伊佐比宿禰は、共に追い迫られて船に乗り、海に浮かんで歌った。

      ()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()

      そして海に入って共に死んだ。

      【古事記 中巻 仲哀天皇段】
  • 神功皇后摂政元年10月2日

    群臣が皇后を尊んで皇太后と呼ぶ。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政元年十月甲子条】
  • 神功皇后摂政元年10月2日

    物部多遅麻連公大連とする。

    【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 神功皇后摂政元年十月甲子条】
  • 神功皇后摂政2年11月8日

    仲哀天皇河内国(かわちのくに)長野陵(ながののみささぎ)に葬る。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政二年十一月甲午条】
  • 神功皇后摂政3年1月3日

    誉田別皇子を立てて皇太子とする。
    そして磐余(いわれ)を都をとする。これを若桜宮(わかさくらのみや)という。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政三年正月戊子条】
  • 神功皇后摂政3年1月3日

    物部五十琴宿禰大連とする。

    【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 神功皇后摂政三年正月戊子条】
  • 神功皇后摂政5年3月7日

    新羅王が汙礼斯伐毛麻利叱智富羅母智らを遣わして朝貢した。
    先の人質微叱許智伐旱を取り返したいと思っていた。
    それで許智伐旱に指示して、欺かせて「使者の汙礼斯伐毛麻利叱智らが私に告げて、『我が王は私が久しく帰らないので、妻子を没収して官奴とした』と言います。願わくは暫く本土に帰還して、虚実を知りたいと思います」と言わせた。
    皇太后はこれを許した。そして葛城襲津彦を副えて遣わした。

    共に対馬に至り、鋤海(さひのうみ)水門(みなと)に泊った。
    時に新羅の使者毛麻利叱智らは、密かに船の水夫を手配して、微叱旱岐を乗せて新羅に逃した。
    そして人形を作って、微叱智の床に置いて偽り、病にかかったようにして、襲津彦に「微叱智が急に病にかかり、死んでしまいました」と言った。
    襲津彦は人を遣わして病人を調べさせた。
    欺かれたことを知ると、新羅の使者三人を捕らえて、檻の中に入れて火で焼き殺した。

    新羅に至り、蹈鞴津(たたらのつ)に陣して、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰還した。
    この時の捕虜たちが、今の桑原(くわはら)佐糜(さび)高宮(たかみや)忍海(おしぬみ)、凡て四邑の漢人(あやひと)らの始祖である。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五年三月己酉条】
  • 神功皇后摂政13年2月8日

    武内宿禰に命じて、太子に従わせて角鹿(つのが)笥飯大神を参拝させる。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政十三年二月甲子条】
    • 建内宿禰命は、その太子を率いて禊をするために、淡海近江及び若狭国を巡歴した時、高志前(こしのみちのくち)越前角鹿(つぬが)に仮宮を造って住んだ。
      するとその地にいる伊奢沙和気大神之命が夢に現れて「私の名を御子の御名に変えたいと思う」と言った。
      そこで「恐れ入りました。御命令に従って変えさせて頂きます」と言った。
      またその神が言うには「明日の朝、浜にお出かけなさいませ。名を変えたしるしの贈り物を献上します」と。
      それでその朝に浜に行くと、鼻が傷付いた入鹿魚(いるか)が浦に寄り集まっていた。
      そこで御子は神に「私に御食(みけ)の魚を賜られた」と言った。
      それでまたその御名を称えて、御食津大神と名付けた。それで今は気比大神というのである。
      またその入鹿魚の鼻の血が臭かった。それでその浦を名付けて血浦(ちうら)という。今は津奴賀(つぬが)という。

      【古事記 中巻 仲哀天皇段】
  • 神功皇后摂政13年2月17日

    太子が角鹿(つのが)から帰還する。

    この日、皇太后は太子の為に大殿で宴会をした。
    皇太后は盃を挙げて、太子に祝い事を奉った。そして歌を詠んだ。

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()輸() ()()()()() 周()()()()()()() ()()()() ()()()()()() ()()()() ()()()()()() ()()()()() ()()() ()()()()() ()()

    武内宿禰が太子の為に返歌した。

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()輸()()()()() ()()()()() ()()()()()() ()()()()() ()()() ()()()()() ()()

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政十三年二月癸酉条】
    • 還幸した時、その御祖(みおや)ここでは天皇の母の意。の息長帯日売命が待酒を醸して献上した。その御祖が御歌を歌った。

      ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()() ()()()()()() ()()()() ()()()()()() ()()()()()()()() ()()()()() ()()

      このように歌って、大御酒を献上した。
      そこで建内宿禰命が御子の為に歌で答えた。

      ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()() ()()()()() ()()()()()() ()()()() ()()()()()() ()()()()() ()()() ()()()()()()()() ()()

      これは酒楽(さかくら)の歌である。

      【古事記 中巻 仲哀天皇段】
  • 神功皇后摂政46年3月1日

    斯摩宿禰卓淳(とくじゅん)国に遣わした。
    斯摩宿禰は何れの姓の人かを知らず。

    卓淳王の末錦旱岐斯摩宿禰に言うには「甲子年記事が丙寅年なので、二年前を指すか。の七月中に、百済人である久氐弥州流莫古の三人が我が国にやってきて『百済王は、東方に日本という貴い国があると聞き、我々を遣わしてその国に行かせた。それで道を求めてここに着きました。もし我々に道を教えて頂けるなら、我が王はきっと徳の深い君王と称えるでしょう』と言った。そこで久氐らに『東方に貴い国があることは聞いている。しかし通ったことが無いので、その道は知らない。ただ海は遠く浪は険しい。大船に乗れば、なんとか通うことも出来るだろう。もし船着き場があっても、船舶がなければかなわない』と言った。久氐らは『それならば今は通えないので、一度帰って船舶を用意した後に通りましょう』と言った。また重ねて、『もし貴い国の使者が来ることがあれば、我が国にも伝えて欲しい』と言って帰っていった」と。
    斯摩宿禰は従者の爾波移と卓淳の人過古の二人を百済国に遣わして、その王を慰労させた。

    時に百済の肖古王は深く喜び厚遇した。
    そして五色の綵絹(しめのきぬ)彩った絹。を各一匹、角弓箭(つののゆみや)角を材料にした弓。鉄鋌(ねりかね)鉄材。四十枚を爾波移に与えた。
    また宝庫を開き、様々な珍しい品を見せて言うには「我が国には多くの珍宝がある。貴い国に奉ろうと思うが、道を知らない。志があってもかなわないが、今、使者に授けて献上しようと思う」と。
    爾波移は事を受けて帰還し、志摩宿禰に告げた。そして卓淳から帰還した。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政四十六年三月乙亥朔条】
  • 神功皇后摂政47年4月

    百済王が久氐弥州流莫古を遣わして朝貢した。
    新羅国の調(みつき)の使いも久氐と共にやって来た。

    皇太后と太子誉田別尊は大いに喜び、そして「先王が所望していらっしゃった国人が今やって来た。御在世中でないのが残念だ」と言った。
    群臣に涙を流さぬ者はなかった。
    二国の貢物を調べると、新羅の貢物には珍品が多かったが、百済の貢物は少なく、良くもなかった。
    そこで久氐らに「百済の貢物は新羅に及ばないのはなぜだ」と問うと、答えて「私共は道がわからずに新羅に入ってしまい、新羅人は私共を捕らえて牢屋に入れました。三カ月が経って殺そうとしました。この時に私共は天に向って呪いました。新羅人はその呪いを怖れて殺しませんでしたが、私共の貢物を奪って自国の物としました。新羅の賤しい物を、我が国の貢物と入れ替えたのです。そして私共に『もしこの事を漏らせば、帰った日にお前らを殺す』と言いました。それで私共は恐怖で従ったのです。それで何とか天朝に参ることが出来たのです」と。
    皇太后と誉田別尊は新羅の使者を責めた。
    そして天神に祈り、「誰を百済に遣わして虚実を調べ、誰を新羅に遣わして罪を問わせるべきでしょうか」と言った。
    天神が教えて「武内宿禰に議らせて、千熊長彦を使者とすれば願いは叶うだろう」と言った。
    そこで千熊長彦を新羅に遣わして、百済の献上物を乱したことを責めさせた。

    千熊長彦は素性が分からず、その姓も知らず。あるいは武蔵国の人で、今の額田部(ぬかたべ)槻本首(つきもとのおびと)らの始祖という。百済記に云う、職麻那那加比跪という者はこれであろうか。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政四十七年四月条】
  • 神功皇后摂政49年3月

    荒田別鹿我別を将軍とした。
    そして久氐らと共に兵を整えて卓淳(とくじゅん)国に至り、まさに新羅を襲おうとした時に、ある人が言うには「兵が少なくて新羅を破ることは出来ません。沙白蓋盧を送って増兵を請いましょう」と。
    そこで木羅斤資沙沙奴跪(この二人は、その姓を知らぬ人である。ただし木羅斤資は百済の将である)に命じて、精兵を率いて沙白蓋盧と共に遣わした。
    共に卓淳に集い、新羅を撃ち破った。
    そして比自㶱(ひしほ)南加羅(ありひしのから)喙国(とくのくに)安羅(あら)多羅(たら)・卓淳・加羅(から)の七国を平定した。

    兵を移して西を廻って古爰津(こけいのつ)に至り、南蛮の忱弥多礼(とむたれ)を亡ぼして、百済に賜った。
    その王肖古と王子貴須は、また軍を率いてやって来た。
    時に比利(ひり)辟中(へちゅう)布弥支(ほむき)半古(はんこ)の四つの邑が自然に降服した。
    百済王父子と荒田別木羅斤資らは、共に意流村(おるすき)(今は州流須祇(つるすき)という)で合流し、互いに喜んだ。礼を厚くして送り遣わした。

    ただし千熊長彦と百済王は、百済国の辟支山(へきのむれ)に登って(ちか)った。
    また古沙山(こさのむれ)に登って、共に岩の上に居た。
    時に百済王が盟って「もし草を敷いて坐れば、火に焼かれるかもしれない。木を取って坐れば、水に流されるかもしれない。岩の上で盟うことは、永遠に朽ちないということを示す。今後は千秋万歳に絶えることもなく、窮まることもないだろう。常に西蕃と称して春秋には朝貢しよう」と。
    そして千熊長彦を連れて都に帰り、厚く礼遇した。
    また久氐らを副えて送った。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政四十九年三月条】
  • 神功皇后摂政50年2月

    荒田別らが帰還する。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五十年二月条】
  • 神功皇后摂政50年5月

    千熊長彦久氐らが百済から帰還した。
    皇太后は喜び、久氐に「海の西の諸国をお前の国に賜った。何用でまたやって来たのだ」と尋ねた。
    久氐らが言うには「天朝のお恵みは、遠い国にまで及びます。我が王も喜んで、帰還の使者を送って誠意を表したのです。万世に至るまで朝貢を怠ることはございません」と。
    皇太后は勅して「良いことを言ってくれた。これは原文ママ。の願いそのままだ」と。
    そこで多沙城(たさのさし)を加えて賜り、往還の駅とした。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五十年五月条】
  • 神功皇后摂政51年3月

    百済王がまた久氐を遣わして朝貢した。
    皇太后は太子と武内宿禰に語って「原文ママ。が親しくする百済国は、天の賜える所である。人によるものではない。珍品を常に献上する。朕はこれを常に喜んでいる。朕と同じように、篤く恩恵を加えよ」と。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五十一年三月条】
  • 神功皇后摂政51年(3月 ~ 12月)

    千熊長彦久氐らに副えて百済国に遣わした。
    そして大恩を垂れて言うには「朕は神の験に従って道を開いた。海の西を平定して百済に賜った。今また厚く誼を結び、永く寵賞しよう」と。
    この時に百済王父子が地に額をつけて言うには「貴い国の大恩は天地よりも重く、何れの時にも忘れることは御座いません。聖王が上にお出でになり、明らかなること日月のようで御座います。今、私は下に侍り、固きこと山岳の如く、永く西蕃となり、終生二心など抱きません」と。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五十一年三月条】
    • 百済の国の王は、懇ろにその誠を致して、最後まで二心は無かった。

      【古語拾遺 神功皇后段】
  • 神功皇后摂政52年9月10日

    久氐らが千熊長彦に従ってやって来た。
    七枝刀(ななつさやのたち)一口・七子鏡(ななつこのかがみ)一面、及び様々な宝を献上した。
    そして「我が国の西に川があり、水源は谷那(こくな)の鉄山から出ていますが、七日行っても着きません。この水を飲み、この山の鉄を取り、ひたすらに聖朝に奉ります」と言った。
    そして孫の枕流王に言うには「我が通う所の海の東の貴い国は、天の啓かれた所である。天恩を垂れて、海の西を割って我に賜った。これで国の基は固くなった。お前もまた誼を修め、国の物を集めて献上を絶やさなければ、たとえ死んでも恨みはない」と。

    これより後、年ごとに相次いで朝貢した。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五十二年九月丙子条】
  • 神功皇后摂政55年

    百済の肖古王が薨じる。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五十五年条】
  • 神功皇后摂政56年

    百済の王子貴須が立って王となる。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五十六年条】
  • 神功皇后摂政62年

    新羅が朝貢がしなかった。

    その年に襲津彦を遣わして新羅を討たせた。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政六十二年条】
    • 壬午年に新羅が貴国に朝貢しなかった。
      貴国は沙至比跪を遣わして討たせた。
      新羅人は美女二人を飾って、港に迎え欺いた。
      沙至比跪はその美女を受け入れ、反対に加羅国を討った。
      加羅国王己本旱岐、及び児百久至阿首至国沙利伊羅麻酒爾汶至らは人民を率いて百済に逃げた。百済は厚遇した。
      加羅国王の妹の既殿至大倭(やまと)にやってきて、「天皇は沙至比跪を遣わして、新羅を討たせました。しかし新羅の美女を受け入れて、討つことはしませんでした。反対に我が国を滅ぼしました。兄弟・人民は皆流浪しました。それで憂う思いに堪えられず、参上して申し上げるのです」と言った。
      天皇は激怒して、木羅斤資を遣わした。
      軍勢を率いて加羅に集まり、その国を回復させた。

      【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政六十二年条 百済記云】
    • 沙至比跪は天皇の怒りを知ると、国には帰らずに自ら身を隠した。
      その妹は皇宮に仕えていた。
      比跪は密かに使者を遣わして、天皇の怒りが解けたかどうか探らせた。
      妹は夢に託して「今日の夢に沙至比跪を見ました」と言った。
      天皇は激怒して「比跪はなぜ来たのだ」と言った。
      妹は天皇の言葉を報告した。
      比跪は許されないことを知って、岩穴に入って死んだ。

      【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政六十二年条 百済記云 一云】
  • 神功皇后摂政64年

    百済国の貴須王が薨じる。
    王子の枕流王が立って王となる。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政六十四年条】
  • 神功皇后摂政65年

    百済の枕流王が薨じる。
    王子の阿花は年少であり、叔父の辰斯が位を奪って王となった。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政六十五年条】
  • 神功皇后摂政69年4月17日

    稚桜宮(わかさくらのみや)で崩じる。
    時に年百歳。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政六十九年四月丁丑条】
    • 皇后は御年百歳で崩じ、狭城楯列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬られた。

      【古事記 中巻 仲哀天皇段】
  • 神功皇后摂政69年10月15日

    狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬られる。

    この日、皇太后を追い尊んで気長足姫尊という。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政六十九年十月壬申条】