微叱己知波珍干岐

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名前
  • 微叱己知波珍干岐【日本書紀】(みしこちはとりかんき)
  • 微叱許智伐旱【日本書紀】(みしこちほっかん, みしこちほつかん)
  • 許智伐旱【日本書紀】(こちほっかん, こちほつかん)
  • 微叱旱岐【日本書紀】(みしかんき)
  • 微叱智【日本書紀】(みしち)
生年月日
( ~ 200年10月27日)
没年月日
(205年4月12日 ~ )
出来事
  • 200年10月27日この日は神功皇后が日本を発った日と思われるが、人質となる部分もこの日かは判断できない。

    新羅王波沙寐錦が、神功皇后に降伏した際に人質となる。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年十月辛丑条】
  • 205年4月12日

    新羅王が汙礼斯伐毛麻利叱智富羅母智らを遣わして朝貢した。
    先の人質微叱許智伐旱を取り返したいと思っていた。
    それで許智伐旱に指示して、欺かせて「使者の汙礼斯伐毛麻利叱智らが私に告げて、『我が王は私が久しく帰らないので、妻子を没収して官奴とした』と言います。願わくは暫く本土に帰還して、虚実を知りたいと思います」と言わせた。
    神功皇后はこれを許した。そして葛城襲津彦を副えて遣わした。

    対馬に至り、鋤海(さひのうみ)水門(みなと)に泊った。
    時に新羅の使者毛麻利叱智らは、密かに船の水夫を手配して、微叱旱岐を乗せて新羅に逃した。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五年三月己酉条】