波沙寐錦

  • twitterでツイートする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
名前
  • 波沙寐錦【日本書紀】(はさむきむ, はさむきん)
性別
男性
生年月日
( ~ 200年10月27日)
没年月日
(205年4月12日 ~ )
出来事
  • 200年10月27日

    神功皇后が新羅征伐のために和珥津(わにのつ)を出発した。
    時に風の神が風を起こし、波の神は波をあげて、海中の大魚は悉く浮かんで船を助けた。
    順風が吹いて、帆船は波に従い、苦労もなく新羅に着いた。
    時に船を乗せた浪は国の中にまで及び、天神地祇の助けがあることを知った。
    新羅王は戦々恐々として為す術がなく、諸人を集めて言うには「新羅の建国以来、海水が国に上ってくるなどとは聞いたことがない。天運尽きて国が海となるのか」と。
    言い終わる間に軍船は海に満ち、旗は日に輝き、鼓笛の音は山川を振るわせた。
    新羅王はこれを遥に望み、非常の兵が自分の国を滅ぼそうとしていることに恐れて、気を失った。
    なんとか目を醒まして言うには「聞くところによれば、東に神の国があり、日本(やまと)という。また聖王がいて天皇という。きっとその国の神兵だ。決して兵を挙げて防ぐことは出来ない」と。
    そして白旗を掲げて降伏し、白い綬を首にかけて自ら捕われた。
    地図や戸籍を封印し、王船の前で叩頭して言うには「今後は、末永く服従して飼部(かいべ)となります。船かじを絶やさず、春と秋に馬の毛を洗うはけや鞭を献上します。また遠い海を煩いとせず、毎年男女の調(みつき)を献上します」と。
    さらに重ねて誓って言うには「東から出る日が西から出ることや、また阿利那礼河(ありなれがわ)が逆流し、河の石に昇って星となることがない限り、春秋の朝貢を欠き、怠って、梳と鞭の朝貢をやめれば、天神地祇と共に討伐して頂きたく存じます」と。
    ある人は「新羅王を殺しましょう」と言った。しかし皇后が言うには「神の教えを承って、まさに金銀の国を授かろうとしている。また三軍に号令して『降服するものは殺すな』と言った。既に財の国を獲て、人も自ら降服してきた。殺すのは不祥である」と。
    そして縛を解いて飼部とした。
    遂に入国して、重宝の府庫を封じ、図籍文書を収めた。
    皇后が持つ矛を新羅王の門に立て、後世への印とした。それでその矛は今もなお新羅王の門に立っている。
    新羅王波沙寐錦は微叱己知波珍干岐を人質とし、金・銀・彩色・綾・(うすはた)縑絹(かとりのきぬ)を沢山の船に載せて官軍に従わせた。
    新羅王が常に沢山の船に貢物を日本国に送るのは、これがそのもとである。
    高麗・百済の二国の王は、新羅が図籍を日本国に収めて降伏したと聞いて、密かにその軍勢を伺い、勝てないことを知ると、自ら陣営の外にやってきた。
    そして叩頭して「今後は永く西蕃と称し、朝貢を絶やしません」と言った。
    そこで内官家屯倉(うちつみやけ)を定めた。これが所謂三韓(みつのからくに)である。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年十月辛丑条】
  • 205年4月12日

    新羅王波沙寐錦か。汙礼斯伐毛麻利叱智富羅母智らを遣わして朝貢した。
    先の人質微叱許智伐旱を取り返したいと思っていた。
    それで許智伐旱に指示して、欺かせて「使者の汙礼斯伐毛麻利叱智らが私に告げて、『我が王は私が久しく帰らないので、妻子を没収して官奴とした』と言います。願わくは暫く本土に帰還して、虚実を知りたいと思います」と言わせた。
    皇太后はこれを許した。そして葛城襲津彦を副えて遣わした。

    共に対馬に至り、鋤海(さひのうみ)水門(みなと)に泊った。
    時に新羅の使者毛麻利叱智らは、密かに船の水夫を手配して、微叱旱岐を乗せて新羅に逃した。
    そして人形を作って、微叱智の床に置いて偽り、病にかかったようにして、襲津彦に「微叱智が急に病にかかり、死んでしまいました」と言った。
    襲津彦は人を遣わして病人を調べさせた。
    欺かれたことを知ると、新羅の使者三人を捕らえて、檻の中に入れて火で焼き殺した。

    新羅に至り、蹈鞴津(たたらのつ)に陣して、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰還した。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五年三月己酉条】
関連
  • 宇流助富利智干うるそほりちか日本書紀における神功皇后の新羅征伐時の新羅王(一説)。