波沙寐錦
- 名前
- 波沙寐錦【日本書紀】(はさむきむ, はさむきん)
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 200年10月27日)
- 没年月日
- (205年4月12日 ~ )
- 出来事
-
200年10月27日
神功皇后が新羅征伐のために
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年十月辛丑条】和珥津 を出発した。
時に風の神が風を起こし、波の神は波をあげて、海中の大魚は悉く浮かんで船を助けた。
順風が吹いて、帆船は波に従い、苦労もなく新羅に着いた。
時に船を乗せた浪は国の中にまで及び、天神地祇の助けがあることを知った。
新羅王は戦々恐々として為す術がなく、諸人を集めて言うには「新羅の建国以来、海水が国に上ってくるなどとは聞いたことがない。天運尽きて国が海となるのか」と。
言い終わる間に軍船は海に満ち、旗は日に輝き、鼓笛の音は山川を振るわせた。
新羅王はこれを遥に望み、非常の兵が自分の国を滅ぼそうとしていることに恐れて、気を失った。
なんとか目を醒まして言うには「聞くところによれば、東に神の国があり、日本 という。また聖王がいて天皇という。きっとその国の神兵だ。決して兵を挙げて防ぐことは出来ない」と。
そして白旗を掲げて降伏し、白い綬を首にかけて自ら捕われた。
地図や戸籍を封印し、王船の前で叩頭して言うには「今後は、末永く服従して飼部 となります。船かじを絶やさず、春と秋に馬の毛を洗うはけや鞭を献上します。また遠い海を煩いとせず、毎年男女の調 を献上します」と。
さらに重ねて誓って言うには「東から出る日が西から出ることや、また阿利那礼河 が逆流し、河の石に昇って星となることがない限り、春秋の朝貢を欠き、怠って、梳と鞭の朝貢をやめれば、天神地祇と共に討伐して頂きたく存じます」と。
ある人は「新羅王を殺しましょう」と言った。しかし皇后が言うには「神の教えを承って、まさに金銀の国を授かろうとしている。また三軍に号令して『降服するものは殺すな』と言った。既に財の国を獲て、人も自ら降服してきた。殺すのは不祥である」と。
そして縛を解いて飼部とした。
遂に入国して、重宝の府庫を封じ、図籍文書を収めた。
皇后が持つ矛を新羅王の門に立て、後世への印とした。それでその矛は今もなお新羅王の門に立っている。
新羅王波沙寐錦は微叱己知波珍干岐を人質とし、金・銀・彩色・綾・羅 ・縑絹 を沢山の船に載せて官軍に従わせた。
新羅王が常に沢山の船に貢物を日本国に送るのは、これがそのもとである。
高麗・百済の二国の王は、新羅が図籍を日本国に収めて降伏したと聞いて、密かにその軍勢を伺い、勝てないことを知ると、自ら陣営の外にやってきた。
そして叩頭して「今後は永く西蕃と称し、朝貢を絶やしません」と言った。
そこで内官家屯倉 を定めた。これが所謂三韓 である。 -
205年4月12日
新羅王波沙寐錦か。が汙礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智らを遣わして朝貢した。
先の人質微叱許智伐旱を取り返したいと思っていた。
それで許智伐旱に指示して、欺かせて「使者の汙礼斯伐・毛麻利叱智らが私に告げて、『我が王は私が久しく帰らないので、妻子を没収して官奴とした』と言います。願わくは暫く本土に帰還して、虚実を知りたいと思います」と言わせた。
皇太后はこれを許した。そして葛城襲津彦を副えて遣わした。共に対馬に至り、
鋤海 の水門 に泊った。
時に新羅の使者毛麻利叱智らは、密かに船の水夫を手配して、微叱旱岐を乗せて新羅に逃した。
そして人形を作って、微叱智の床に置いて偽り、病にかかったようにして、襲津彦に「微叱智が急に病にかかり、死んでしまいました」と言った。
襲津彦は人を遣わして病人を調べさせた。
欺かれたことを知ると、新羅の使者三人を捕らえて、檻の中に入れて火で焼き殺した。新羅に至り、
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五年三月己酉条】蹈鞴津 に陣して、草羅城 を攻め落として帰還した。
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- 関連
宇流助富利智干 日本書紀における神功皇后の新羅征伐時の新羅王(一説)。