五十狭茅宿禰
- 名前
- 五十狹茅宿禰【日本書紀】(いさちのすくね)五十狭茅宿禰
- 伊佐比宿禰【古事記】(いさひのすくね)
- キーワード
吉師 祖【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政元年二月条】- 難波吉師部之祖【古事記 中巻 仲哀天皇段】
- 生年月日
- ( ~ 神功皇后摂政元年2月29日)
- 没年月日
- 神功皇后摂政元年3月5日
- 出来事
-
神功皇后摂政元年2月
麛坂王と忍熊王は、天皇の崩御、皇后の西征、皇子の誕生を聞き、密かに謀って言うには「いま皇后には子がいて、群臣は皆従っている。必ず共に議って幼主を立てるだろう。我らはなぜ兄であるのに弟に従うのか」と。
そこで天皇の陵を造る為と詐って、播磨に詣でて山陵を赤石に立てた。
そして船を連ねて淡路島に渡し、その島の石を運んで造った。
そして人ごとに武器を取らせて皇后を待った。倉見別と五十狭茅宿禰は、共に麛坂王に従った。
それで将軍として東国の兵を起こさせた。時に麛坂王と忍熊王は、共に
菟餓野 に出て、狩りで占って「もし成功するならば、必ずよい獣を獲られる」と言った。
二王がそれぞれ仮の桟敷に居ると、赤い猪が急に出てきて、桟敷に登って麛坂王を喰い殺した。兵士は大いに怖気づいた。
忍熊王は倉見別に「これは大変なことだ。ここで敵を待ってはいけない」と言った。
そして軍を引き返して住吉 に駐屯した。皇后の船が迫ると、忍熊王はまた軍を引いて
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政元年二月条】菟道 に陣取った。 -
神功皇后摂政元年3月5日
武内宿禰の軍が
菟道 に着き、河の北に駐屯した。武内宿禰が言うには「私は天下を貪りません。ただ幼王を抱いて、君王に従うだけです。どうして戦うことがありましょうか。どうか共に武器を捨てて和睦しましょう。そして君王が皇位に登り、安んじて
万 の政を行えばよいのです」と。
そして軍中に令して、弓弦を断ち、刀を解いて河に投げ入れさせた。
忍熊王は信じて、全軍に令して武器を河に投げ入れて弓弦を断たせた。
ここで武内宿禰は三軍に令して、控えの弓弦を出して張り、真刀を佩かせて、河を渡って進んだ。忍熊王は欺かれたことを知り、倉見別と五十狭茅宿禰に「私は欺かれた。控えの武器も無く、戦うことが出来ない」と言って、兵を率いて退いた。
武内宿禰は精兵を出して追わせた。
たまたま逢坂 で遭遇して破れた。
逃走した兵の多くは狭狭浪 の栗林 で斬られた。忍熊王は逃げ隠れする所も無く、五十狭茅宿禰を呼んで歌を詠んだ。
「
伊 裝 阿 藝 伊 佐 智 須 區 禰 多 摩 枳 波 屢 于 知 能 阿 曾 餓 勾 夫 菟 智 能 伊 多 氐 於 破 孺 破 珥 倍 廼 利 能 介 豆 岐 齊 奈 」そして共に瀬田の渡りに沈んで死んだ。
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政元年三月庚子条】-
忍熊王は伊佐比宿禰を将軍とした。
太子の方では難波根子建振熊命を将軍とした。
そして追い退けて山代 に至った時に立ち直って、それぞれ退かずに相戦った。
建振熊命は計略をめぐらし、「息長帯日売命は既にお隠れになられてしまわれた。更に戦うことはない」と言うと、ただちに弓弦を絶ち、欺いて帰服した。
その将軍は詐りを信じ、弓を外して武器を収めた。
そこで束ねた髪の中から用意していた弦(あるいは、うさゆづる宇佐由豆留ともいう)を出して、更に張って追撃した。
それで逢坂 まで逃げ退いて、また向い立って戦った。
追い迫って沙沙那美 で破り、その軍の悉くを斬った。
この時に忍熊王と伊佐比宿禰は、共に追い迫られて船に乗り、海に浮かんで歌った。「
伊 奢 阿 藝 布 流 玖 麻 賀 伊 多 弖 淤 波 受 波 邇 本 杼 理 能 阿 布 美 能 宇 美 邇 迦 豆 岐 勢 那 和 」そして海に入って共に死んだ。
【古事記 中巻 仲哀天皇段】
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