- 名前
- 漢風諡号:應神天皇(おうじんてんのう, おうじんてんわう)応神天皇
- 和風諡号:譽田天皇【日本書紀】(ほんたのすめらみこと, ほむたのすめらみこと)誉田天皇
- 品陀天皇【古事記】(ほんだのすめらみこと, ほむだのすめらみこと)
- 譽田別皇子【日本書紀】(ほんたわけのみこ, ほむたわけのみこ)誉田別皇子
- 譽田別尊【日本書紀】(ほんたわけのみこと, ほむたわけのみこと)誉田別尊
- 去來紗別尊【日本書紀】(いざさわけのみこと)去来紗別尊
- 大鞆和氣命【古事記】(おおともわけのみこと, おほともわけのみこと)大鞆和気命
- 品陀和氣命【古事記】(ほんだわけのみこと, ほむだわけのみこと)品陀和気命
- 譽田尊【先代旧事本紀】(ほんたのみこと, ほむたのみこと)誉田尊
- 品太天皇【先代旧事本紀】(ほんたのすめらみこと, ほむたのすめらみこと)
- 輕嶋豐明宮御宇天皇【先代旧事本紀】(かるしまのとよあきらのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)軽島豊明宮御宇天皇
- 譽田皇太子尊【先代旧事本紀】(ほんたのひつぎのみこのみこと, ほむたのひつぎのみこのみこと)誉田皇太子尊
- 凡牟都和希王【釈日本紀】(ほんつわけのみこ, ほむつわけのみこ)凡牟都和希王
- 胎中天皇【日本書紀】
- キーワード
- 後裔は左京
坂田酒人真人 ・右京息長丹生真人 【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
- 後裔は左京
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 仲哀天皇9年12月14日
- 没年月日
- 応神天皇41年2月15日
- 父
仲哀天皇 【日本書紀 巻第十 応神天皇即位前紀】
- 母
神功皇后 【日本書紀 巻第十 応神天皇即位前紀】
- 先祖
- 配偶者
- 皇后:
仲姫命 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】 - 妃:
高城入姫 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】 - 妃:
弟姫 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】 - 妃:
宮主宅媛 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】- 妃:
香室媛 (物部山無媛 )【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 応神天皇二年四月壬子条】
- 妃:
- 妃:
小甂媛 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】 - 妃:
弟媛 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】息長真若中比売 【古事記 中巻 応神天皇段】
- 妃:
糸媛 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】 - 妃:
日向泉長媛 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】 迦具漏比売 【古事記 中巻 応神天皇段】葛城之野伊呂売 【古事記 中巻 応神天皇段】- 妃:
兄媛 【日本書紀 巻第十 応神天皇二十二年三月丁酉条】
- 皇后:
- 子
- 皇女:
荒田皇女 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:仲姫 】 - 皇子:
大鷦鷯尊 (仁徳天皇 )【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:仲姫命 】 - 皇子:
根鳥皇子 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:仲姫 】 - 皇子:
額田大中彦皇子 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:高城入姫 】 - 皇子:
大山守皇子 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:高城入姫 】 - 皇子:
去来真稚皇子 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:高城入姫 】 - 皇女:
大原皇女 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:高城入姫 】 - 皇女:
澇来田皇女 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:高城入姫 】 - 皇女:
阿倍皇女 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:弟姫 】 - 皇女:
淡路御原皇女 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:弟姫 】 - 皇女:
紀之菟野皇女 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:弟姫 】 - 皇女:
三野郎女 【古事記 中巻 応神天皇段】【母:弟日売命 】 - 皇女:
滋原皇女 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母:弟姫命 】 - 皇子:
菟道稚郎子皇子 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:宮主宅媛 】 - 皇女:
矢田皇女 (八田皇女 )【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:宮主宅媛 】 - 皇女:
雌鳥皇女 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:宮主宅媛 】 - 皇女:
菟道稚郎姫皇女 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:小甂媛 】 - 皇子:
稚野毛二派皇子 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:弟媛 】 - 皇子:
隼総別皇子 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:糸媛 】 - 皇子:
大葉枝皇子 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:日向泉長媛 】 - 皇子:
小葉枝皇子 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】【母:日向泉長媛 】 - 皇女:
幡日之若郎女 【古事記 中巻 応神天皇段】【母:日向之泉長比売 】 - 皇女:
川原田郎女 【古事記 中巻 応神天皇段】【母:迦具漏比売 】 - 皇女:
玉郎女 【古事記 中巻 応神天皇段】【母:迦具漏比売 】 - 皇女:
忍坂大中比売 【古事記 中巻 応神天皇段】【母:迦具漏比売 】 - 皇女:
登富志郎女 【古事記 中巻 応神天皇段】【母:迦具漏比売 】 迦多遅王 【古事記 中巻 応神天皇段】【母:迦具漏比売 】伊奢能麻和迦王 【古事記 中巻 応神天皇段】【母:葛城之野伊呂売 】
- 皇女:
- 称号・栄典
- 第15代
天皇
- 第15代
- 出来事
-
仲哀天皇9年12月14日【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年十二月辛亥条】
仲哀天皇の第四皇子として
筑紫 の蚊田 で生まれる。母は神功皇后。幼少から聡達で、物事を深く遠くまで見とおし、立居振舞いに不思議にも聖帝のきざしがあった。
天皇が産まれる前に、天神地祇から三韓を授かった。
【日本書紀 巻第十 応神天皇即位前紀】
産まれた時には腕の上には贅肉があった。その形は鞆 のようだった。それでその名を称えて誉田 天皇という。-
太子の御名を大鞆和気命としたのは、生まれた時に、
【古事記 中巻 仲哀天皇段】鞆 のような肉が腕にできていた。それでその御名を付けた。
このように腹中にありながら、国を治めることを知ったのである。
-
-
神功皇后摂政元年2月
-
神功皇后摂政3年1月3日
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政三年正月戊子条】立太子。
-
神功皇后摂政13年2月8日
-
はじめ天皇が太子となった時、
【日本書紀 巻第十 応神天皇即位前紀 一云】越国 に行啓して、角鹿 の笥飯大神を参拝した。
この時に大神と太子が名を入れ替えた。
それで大神を名付けて去来紗別神 という。太子を名付けて誉田別尊 という。
そうであれば大神のもとの名は誉田別神 。太子のもとの名は去来紗別尊 となる。しかし記録が無く、未詳である。 -
建内宿禰命は、その太子を率いて禊をするために、淡海及び若狭国を巡歴した時、
【古事記 中巻 仲哀天皇段】高志前 の角鹿 に仮宮を造って住んだ。
するとその地にいる伊奢沙和気大神之命が夢に現れて「私の名を御子の御名に変えたいと思う」と言った。
そこで「恐れ入りました。御命令に従って変えさせて頂きます」と言った。
またその神が言うには「明日の朝、浜にお出かけなさいませ。名を変えたしるしの贈り物を献上します」と。
それでその朝に浜に行くと、鼻が傷付いた入鹿魚 が浦に寄り集まっていた。
そこで御子は神に「私に御食 の魚を賜られた」と言った。
それでまたその御名を称えて、御食津大神と名付けた。それで今は気比大神というのである。
またその入鹿魚の鼻の血が臭かった。それでその浦を名付けて血浦 という。今は津奴賀 という。
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神功皇后摂政13年2月17日
角鹿 から帰還する。この日、皇太后は太子の為に大殿で宴会をした。
皇太后は盃を挙げて、太子に祝い事を奉った。そして歌を詠んだ。「
虛 能 彌 企 破 和 餓 彌 企 那 羅 儒 區 之 能 伽 彌 等 虛 豫 珥 伊 麻 輸 伊 破 多 多 須 周 玖 那 彌 伽 未 能 等 豫 保 枳 保 枳 茂 苔 陪 之 訶 武 保 枳 保 枳 玖 流 保 之 摩 菟 利 虛 辭 彌 企 層 阿 佐 孺 塢 齊 佐 佐 」武内宿禰が太子の為に返歌した。
「
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政十三年二月癸酉条】許 能 彌 企 塢 伽 彌 鷄 武 比 等 破 曾 能 菟 豆 彌 于 輸 珥 多 氐 氐 于 多 比 菟 菟 伽 彌 鷄 梅 伽 墓 許 能 彌 企 能 阿 椰 珥 于 多 娜 濃 芝 作 沙 」 -
神功皇后摂政47年4月
百済王が久氐・弥州流・莫古を遣わして朝貢した。
新羅国の調 の使いも久氐と共にやって来た。皇太后と太子誉田別尊は大いに喜び、そして「先王が所望していらっしゃった国人が今やって来た。御在世中でないのが残念だ」と言った。
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政四十七年四月条】
群臣に涙を流さぬ者はなかった。
二国の貢物を調べると、新羅の貢物には珍品が多かったが、百済の貢物は少なく、良くもなかった。
そこで久氐らに「百済の貢物は新羅に及ばないのはなぜだ」と問うと、答えて「私共は道がわからずに新羅に入ってしまい、新羅人は私共を捕らえて牢屋に入れました。三カ月が経って殺そうとしました。この時に私共は天に向って呪いました。新羅人はその呪いを怖れて殺しませんでしたが、私共の貢物を奪って自国の物としました。新羅の賤しい物を、我が国の貢物と入れ替えたのです。そして私共に『もしこの事を漏らせば、帰った日にお前らを殺す』と言いました。それで私共は恐怖で従ったのです。それで何とか天朝に参ることが出来たのです」と。
皇太后と誉田別尊は新羅の使者を責めた。
そして天神に祈り、「誰を百済に遣わして虚実を調べ、誰を新羅に遣わして罪を問わせるべきでしょうか」と言った。
天神が教えて「武内宿禰に議らせて、千熊長彦を使者とすれば願いは叶うだろう」と言った。
そこで千熊長彦を新羅に遣わして、百済の献上物を乱したことを責めさせた。 -
神功皇后摂政51年3月
-
神功皇后摂政69年4月17日
神功皇后が崩じる。
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政六十九年四月丁丑条】 -
応神天皇元年1月1日
即位して天皇となる。
【日本書紀 巻第十 応神天皇元年正月丁亥朔条】-
【古事記 中巻 応神天皇段】軽島之明宮 にて天下を治めた。
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応神天皇2年4月3日【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 応神天皇二年四月壬子条】
仲姫を立てて皇后とした。后が生んだのは
荒田皇女。
大鷦鷯天皇。
根鳥皇子。
これより先、天皇は皇后の姉の高城入姫を妃とし、生まれたのは
額田大中彦皇子。
大山守皇子。
去来真稚皇子。
大原皇女。
澇来田皇女。またの妃、皇后の妹の弟姫が生んだのは
阿倍皇女。
淡路御原皇女。
紀之菟野皇女。次の妃、
和珥臣 の祖日触使主の女の宮主宅媛が生んだのは
菟道稚郎子皇子。
矢田皇女。
雌鳥皇女。凡そこの天皇の男女はあわせて二十王である。
【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】-
品陀真若王の女である三柱の女王を娶った。
高木之入日売命。次に中日売命。次に弟日売命である。
この女王達の父の品陀真若王は、五百木之入日子命が尾張連 の祖建伊那陀宿禰の女の志理都紀斗売を娶って生まれた子である。高木之入日売の御子は
額田大中日子命。
次に大山守命。
次に伊奢之真若命。
次に妹の大原郎女。
次に高目郎女の五柱。中日売命の御子は
木之荒田郎女。
次に大雀命。
次に根鳥命の三柱。弟日売命の御子は
阿倍郎女。
次に阿具知能三腹郎女。
次に木之菟野郎女。
次に三野郎女の五柱。また丸邇之比布礼能意富美の女の宮主矢河枝比売を娶り、生まれた御子は
宇遅能和紀郎子。
次に妹の八田若郎女。
次に女鳥王の三柱。またその矢河枝比売の妹の袁那弁郎女を娶り、生まれた御子は
宇遅之若郎女の一柱。また咋俣長日子王の女の息長真若中比売を娶り、生まれた御子は
若沼毛二俣王の一柱。また
桜井田部連 の祖島垂根の女の糸井比売を娶り、生まれた御子は
速総別命の一柱。また日向之泉長比売を娶り、生まれた御子は
大羽江王。
次に小羽江王。
次に幡日之若郎女の三柱。また迦具漏比売を娶り、生まれた御子は
川原田郎女。
次に玉郎女。
次に忍坂大中比売。
次に登富志郎女。
次に迦多遅王の五柱。また葛城之野伊呂売を娶り、生まれた御子は
伊奢能麻和迦王の一柱。この天皇の御子達は合わせて二十六王。男王十一・女王十五である。
この中で大雀命は天下を治めた。
【古事記 中巻 応神天皇段】
またこの品陀天皇の御子の若野毛二俣王は、その母の妹の百師木伊呂弁、またの名は弟日売真若比売命を娶り、生まれた子は
大郎子、またの名は意富富杼王。
次に忍坂之大中津比売命。
次に田井之中比売。
次に田宮之中比売。
次に藤原之琴節郎女。
次に取売王。
次に沙禰王の七王。
意富富杼王は三国君 ・波多君 ・息長君 ・坂田 の酒人君 ・山道君 ・筑紫 の米多君 ・布勢君 らの祖である。
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応神天皇3年10月3日
東の蝦夷の悉くが朝貢する。その蝦夷を使って
【日本書紀 巻第十 応神天皇三年十月癸酉条】厩坂道 を造らせる。 -
応神天皇3年11月
各地の
【日本書紀 巻第十 応神天皇三年十一月条】海人 が騒いで命に従わなかった。
そこで阿曇連 の祖大浜宿禰を遣わして、その騒ぎを平らげた。そして海人の宰 とした。
それで時の人の諺に「佐麼阿摩 」というのは、これがもとである。 -
応神天皇3年
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応神天皇5年8月13日
諸国に令して、
【日本書紀 巻第十 応神天皇五年八月壬寅条】海人 ・山守 の部 を定める。-
この御世に
【古事記 中巻 応神天皇段】海部 ・山部 ・山守部 ・伊勢部 を定めた。
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応神天皇5年10月
【日本書紀 巻第十 応神天皇五年十月条】伊豆国に命じて船を造らせた。長さ十丈の船が完成した。
試しに海に浮かべると、軽く浮かんで疾走するように進んだ。それでその船を名付けて枯野 という。
しかし軽く疾走する船を枯野と名付けるのは道理に合わない。軽野 というのを、後人が訛らせたものであろうか。 -
応神天皇6年2月
天皇は近江国に行幸した。
菟道野 のほとりに着くと歌を詠んだ。「
【日本書紀 巻第十 応神天皇六年二月条】知 麼 能 伽 豆 怒 塢 彌 例 麼 茂 茂 智 儾 蘆 夜 珥 波 母 彌 喩 區 珥 能 朋 母 彌 喩 」 -
応神天皇7年9月
【日本書紀 巻第十 応神天皇七年九月条】高麗 人・百済 人・任那 人・新羅 人が来朝した。
時に武内宿禰に命じて諸々の韓人 らを率いて池を造らせた。それでこの池を名付けて韓人池 という。-
新羅人が渡来した。建内宿禰命はこれを率いて、堤の池として
【古事記 中巻 応神天皇段】百済池 を造った。
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応神天皇8年3月
【日本書紀 巻第十 応神天皇八年三月条】百済 人が来朝する。 -
応神天皇9年4月
武内宿禰を
筑紫 に遣わして、百姓を監察させた。時に武内宿禰の弟の甘美内宿禰が兄を除こうとした。
そして天皇に讒言して「武内宿禰は常に天下を望む心があります。今聞いた話では筑紫で密かに謀り、『筑紫を裂き、三韓を招いて自分に従わせれば天下を取れる』と言っているようです」と。
すると天皇はすぐに使いを遣わして、武内宿禰を殺すよう命じた。
武内宿禰は歎いて「私に二心は無く、忠をもって君にお仕えしている。これは何の禍なのか。罪も無く死ぬのだろうか」と言った。ここに
壱伎直 の祖真根子という者がいて、その姿が武内宿禰によく似ていた。
武内宿禰が無罪で空しく死ぬのを惜しみ、武内宿禰に語って言うには「大臣が忠をもって君に仕え、汚い心など無いことは天下が知っています。どうか密かに朝廷に参り、自ら罪の無いことを弁明してください。その後に死んでも遅くはありません。人は常々、『お前の姿は大臣に似ている』と言います。私が大臣の代わりに死んで、大臣の丹心を明かにします」と。
そして剣をあてて自ら死んだ。武内宿禰は大いに悲しみ、密かに筑紫を出て、船で南の海を回り、
【日本書紀 巻第十 応神天皇九年四月条】紀水門 に泊まった。
どうにか朝廷にたどり着くと、罪の無いこと弁明した。
天皇は武内宿禰と甘美内宿禰を対決させて問うた。
二人は互いに譲らず、是非は決め難かった。
天皇は勅して神祇に請うて探湯 をさせた。
武内宿禰と甘美内宿禰は共に磯城川 のほとりに出て探湯をした。
そして武内宿禰が勝った。
そこで大刀 をとって甘美内宿禰を殴り倒して殺そうとしたが、天皇は勅して許し、紀直 らの祖に賜った。 -
応神天皇11年10月
【日本書紀 巻第十 応神天皇十一年十月条】剣池 ・軽池 ・鹿垣池 ・厩坂池 を造る。 -
応神天皇11年
-
応神天皇13年3月
使者を遣わして、髪長媛を召した。
【日本書紀 巻第十 応神天皇十三年三月条】 -
応神天皇13年9月
【日本書紀 巻第十 応神天皇十三年九月中条】髪長媛が
日向 からやってきた。
とりあえず桑津邑 に置いた。皇子大鷦鷯尊は髪長媛を見て、その姿の美しさに感心して、常に恋心を持っていた。
天皇は大鷦鷯尊が髪長媛を気に入っていることを知ると、一緒にさせたいと思った。天皇は後宮での宴の日に、始めて髪長媛を呼んで、宴の席に侍らせた。
この時に大鷦鷯尊を指し招き、髪長媛を指して歌を詠んだ。「
伊 奘 阿 藝 怒 珥 比 蘆 菟 彌 珥 比 蘆 菟 瀰 珥 和 餓 喩 區 瀰 智 珥 伽 愚 破 志 波 那 多 智 麼 那 辭 豆 曳 羅 波 比 等 未 那 等 利 保 菟 曳 波 等 利 委 餓 羅 辭 瀰 菟 愚 利 能 那 伽 菟 曳 能 府 保 語 茂 利 阿 伽 例 蘆 塢 等 咩 伊 奘 佐 伽 麼 曳 那 」大鷦鷯尊は御歌を賜り、髪長媛を賜ったことを知ると、大いに喜んで返歌した。
「
瀰 豆 多 摩 蘆 豫 佐 瀰 能 伊 戒 珥 奴 那 波 區 利 破 陪 鷄 區 辭 羅 珥 委 愚 比 菟 區 伽 破 摩 多 曳 能 比 辭 餓 羅 能 佐 辭 鷄 區 辭 羅 珥 阿 餓 許 居 呂 辭 伊 夜 于 古 珥 辭 氐 」
大鷦鷯尊と髪長媛は既に慇懃を重ねていた。
髪長媛に対して歌を詠んだ。「
彌 知 能 之 利 古 破 儾 塢 等 綿 塢 伽 未 能 語 等 枳 虛 曳 之 介 迺 阿 比 摩 區 羅 摩 區 」また歌を詠んだ。
「
瀰 知 能 之 利 古 波 儾 塢 等 綿 阿 羅 素 破 儒 泥 辭 區 塢 之 叙 于 蘆 波 辭 瀰 茂 布 」-
日向 の諸県君牛は朝廷に仕えていたが、年既に老いて仕えることが出来なくなった。
それで申し出て本国に帰ることになった。そこで女 の髪長媛を奉った。始めて播磨に至った。時に天皇が淡路島に行幸して狩りをした。
【日本書紀 巻第十 応神天皇十三年九月中条 一云】
天皇がふと西を望むと、数十の大鹿が海に浮かんでやって来た。そして播磨の鹿子水門 に入った。
天皇は側の者に「あれはなんの大鹿だ。大海に浮かんで沢山やって来るが」と言った。
側の者も怪しみ、使いを遣わして確認させると、すべて人だった。ただ角のついた鹿の皮を衣服としていただけだった。
そこで「誰であるか」と尋ねた。答えて「諸県君牛です。年老いてお仕えすることは出来なくなりましたが、朝廷を忘れられません。それで私の女の髪長媛を奉ります」と。
天皇は喜んで、召して御船に乗せた。
時の人はその岸についたところを名付けて鹿子水門といった。
およそ水手 を鹿子 というのは、このとき初めて起ったという。 -
天皇は
日向国 の諸県君 の女の髪長比売の容姿が美しいと聞いて、使いを出して召し上げた。
この時に、その太子大雀命が、その少女が難波津 に泊っているのを見て、その端正な容姿に感心した。
そしてすぐに建内宿禰大臣に「この日向から召し上げた髪長比売を、天皇の御許 にお願い申し上げて、私に賜るようにしてくれ」と言った。
そこで建内宿禰大臣が天皇に許しを請うと、天皇はただちに髪長比売をその御子に賜った。賜ったときの状況は、天皇が宴会を催した日に、髪長比売に大御酒を盛る柏の葉を握らせて、その太子に賜らせて、御歌を詠んだ。
「
伊 邪 古 杼 母 怒 毘 流 都 美 邇 比 流 都 美 邇 和 賀 由 久 美 知 能 迦 具 波 斯 波 那 多 知 婆 那 波 本 都 延 波 登 理 韋 賀 良 斯 志 豆 延 波 比 登 登 理 賀 良 斯 美 都 具 理 能 那 迦 都 延 能 本 都 毛 理 阿 加 良 袁 登 賣 袁 伊 邪 佐 佐 婆 余 良 斯 那 」また御歌を詠んだ。
「
美 豆 多 麻 流 余 佐 美 能 伊 氣 能 韋 具 比 宇 知 賀 佐 斯 祁 流 斯 良 邇 奴 那 波 久 理 波 閇 祁 久 斯 良 邇 和 賀 許 許 呂 志 叙 伊 夜 袁 許 邇 斯 弖 伊 麻 叙 久 夜 斯 岐 」このように歌詠みして賜わった。
それでその少女を賜った後に、太子が歌を詠んだ。
「
美 知 能 斯 理 古 波 陀 袁 登 賣 袁 迦 微 能 碁 登 岐 許 延 斯 迦 杼 母 阿 比 麻 久 良 麻 久 」また歌を詠んだ。
「
【古事記 中巻 応神天皇段】美 知 能 斯 理 古 波 陀 袁 登 賣 波 阿 良 蘇 波 受 泥 斯 久 袁 斯 叙 母 宇 流 波 志 美 意 母 布 」
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応神天皇14年2月
【日本書紀 巻第十 応神天皇十四年二月条】百済 王が縫衣工女 を献上した。真毛津という。これが今の来目衣縫 の始祖である。 -
応神天皇14年
弓月君が
【日本書紀 巻第十 応神天皇十四年是歳条】百済 から渡来した。
そして奏上して「我が国の百二十県の民を率いて参りました。しかし新羅 人が邪魔をするので、みな加羅 国に留まっております」と。
そこで葛城襲津彦を遣わして、弓月 の民を加羅から呼んだ。
しかし三年経っても襲津彦は帰国しなかった。-
【古語拾遺 応神天皇段】秦公 の祖弓月が百二十の県の民を率いて帰化した。
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応神天皇15年8月6日
百済 王が阿直岐を遣わして、良馬二頭を献上した。
そこで軽 の坂上 の厩で飼い、阿直岐に養わせた。
それでその馬飼いしたところを名付けて厩坂 という。阿直岐はまたよく経典を読んだ。それで太子菟道稚郎子の師とした。
【日本書紀 巻第十 応神天皇十五年八月丁卯条】
天皇が阿直岐に「お前より優れた学者がいるだろうか」と尋ねると、「王仁という者が優れております」と答えた。
そこで上毛野君 の祖荒田別・巫別を百済に遣わして、王仁を召した。
その阿直岐は阿直岐史 の始祖である。-
百済 の国主 照古王が、牡馬一頭・牝馬一頭を阿知吉師に託して献上した。
この阿知吉師は阿直史 らの祖である。
また大刀 ・大鏡を献上した。また百済国に「もし賢人がいれば献上するように」と言った。
それでこの命を受けて献上する人の名は和邇吉師。即ち論語十巻・千字文一巻、合わせて十一巻をこの人に託して献上した。
この和邇吉師は文首 らの祖である。また
秦造 の祖・漢直 の祖で、酒を醸す技術を知る人、名は仁番。またの名は須須許理らが渡来した。
この須須許理は大御酒 を醸して献上した。
天皇は献上した酒で、良い気分に酔って歌を詠んだ。「
須 須 許 理 賀 迦 美 斯 美 岐 邇 和 禮 惠 比 邇 祁 理 許 登 那 具 志 惠 具 志 爾 和 禮 惠 比 邇 祁 理 」このように歌って行幸する時、御杖で大坂の道の中にあった大石を打つと、その石は避けた。それで諺に「堅い石でも酔った人を避ける」という。
【古事記 中巻 応神天皇段】
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応神天皇16年2月
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百済王が博士王仁を献上した。これは
【古語拾遺 応神天皇段】河内文首 の始祖である。
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応神天皇16年
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応神天皇16年8月
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応神天皇19年10月1日
吉野宮 に行幸する。時に
国樔人 が来朝して、醴酒 を天皇に献上して歌を詠んだ。「
伽 辭 能 輔 珥 豫 區 周 塢 菟 區 利 豫 區 周 珥 伽 綿 蘆 淤 朋 瀰 枳 宇 摩 羅 珥 枳 虛 之 茂 知 塢 勢 磨 呂 俄 智 」歌が終わると、口を打ち、仰ぎ笑った。
今、国樔が土地の産物を献上する日に、歌が終わって口を打って仰ぎ笑うのは、上古の遺風である。国樔の者は人となりがとても純朴である。
【日本書紀 巻第十 応神天皇十九年十月戊戌朔条】
山の木の実を取って食べている。
また蛙を煮たものを上等の食物としており、名を毛瀰 という。
その地は京 より東南にあり、山を隔てて吉野河 のほとりにいる。
峰険しく、谷深く、道は狭く険しい。このため京に遠くはないが、本より来朝は稀だった。
しかしこの後、しばしばやって来て土地の産物を献上した。その産物は栗・茸・鮎の類である。-
吉野の
国主 らが、大雀命が佩く御刀を見て歌を詠んだ。「
本 牟 多 能 比 能 美 古 意 富 佐 邪 岐 意 富 佐 邪 岐 波 加 勢 流 多 知 母 登 都 流 藝 須 惠 布 由 布 由 紀 能 須 加 良 賀 志 多 紀 能 佐 夜 佐 夜 」
また吉野の樫の木の側で横臼を作り、その横臼で大御酒 を醸した。
その大御酒を献上するときに、口鼓を打って伎 を演じながら歌を詠んだ。「
加 志 能 布 邇 余 久 須 袁 都 久 理 余 久 須 邇 迦 美 斯 意 富 美 岐 宇 麻 良 爾 岐 許 志 母 知 袁 勢 麻 呂 賀 知 」この歌は国主らが
【古事記 中巻 応神天皇段】大贄 を献上するたび、今に至るまで詠まれてきた歌である。
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応神天皇20年9月
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【古語拾遺 応神天皇段】漢直 の祖阿知使主が十七の県の民を率いて来朝した。
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秦・漢・百済の来朝した民は多く、褒めるに足るものだった。
【古語拾遺 応神天皇段】
皆その社はあるが、未だ奉幣の例に預かっていない。 -
応神天皇22年3月5日
【日本書紀 巻第十 応神天皇二十二年三月戊子条】難波 に行幸して、大隅宮 に居す。 -
応神天皇22年3月14日
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応神天皇22年4月
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応神天皇22年9月6日
天皇は
【日本書紀 巻第十 応神天皇二十二年九月丙戌条】淡路島 で狩りをした。
この島は海に横たわり、難波 の西にある。峰や巌が入りまじり、陵 や谷が続いている。芳草が盛んに繁り、水は激しく流れている。また大鹿・鳧 ・鴈が多くいる。それで天皇は度々遊びにきた。
天皇は淡路から回り、吉備に巡幸して、小豆島 に遊んだ。 -
応神天皇22年9月10日
葉田 の葦守宮 に居を移した。時に御友別がやって来て、その兄弟子孫を
膳夫 として奉仕させた。
天皇は御友別が畏まって仕える様を見て、喜びの気持ちを抱いた。
それで吉備国 を割いてその子らを封じた。即ち
川島県 を分けて長子稲速別を封じた。これが下道臣 の始祖である。
次に上道県 に中子仲彦を封じた。これが上道臣 ・香屋臣 の始祖である。
次に三野県 に弟彦を封じた。これが三野臣 の始祖である。
また波区芸県 に御友別の弟の鴨別を封じた。これが笠臣 の始祖である。
苑県 に兄の浦凝別を封じた。これが苑臣 の始祖である。
織部 を兄媛に賜った。このようにその子孫が今も吉備国にいるのは、これがそのもとである。
【日本書紀 巻第十 応神天皇二十二年九月庚寅条】 -
応神天皇25年
【日本書紀 巻第十 応神天皇二十五年条】百済 の直支王が薨じ、その子の久爾辛が立って王となった。
王は年が若かったので、木満致が国政を執ったが、王の母と通じて無礼が多かった。
天皇はこれを聞いて召した。 -
応神天皇28年9月
【日本書紀 巻第十 応神天皇二十八年九月条】高麗 王が使者を遣わして朝貢した。
その上表文に、「高麗の王、日本国に教える」とあった。
太子菟道稚郎子はその表を読んで怒り、高麗の使者を責めた。
表が無礼であるため、その表を破り捨てた。 -
応神天皇31年8月
群卿に詔して「官船の
枯野 は伊豆国 が奉った船である。これが朽ちて用に堪えない。しかし久しく官用を勤め、功を忘れることは出来ない。その船の名を絶やさずに、後の世まで伝える方法はあるだろうか」と。
群卿は詔を受けると有司に令して、その船の材を取って薪として塩を焼かせると、五百籠の塩が得られた。それをあまねく諸国に施した。
そして船を造らせると、諸国から五百の船が献上された。その悉くが武庫水門 に集まった。
この時に、新羅 の調の使いが武庫に宿っており、そこから失火した。
集まっていた船の多くが焼かれた。これにより新羅人を責めた。
新羅王はこれを聞き、大いに驚き恐れた。そこで木工職人を奉った。これが猪名部 らの始祖である。枯野の船を塩の薪で焼いた日に焼け残りがあった。その燃えないことを不思議に思って献上した。
天皇は怪しんで琴を作らせた。その音は鏗鏘 としていて遠くまで聞こえた。
この時に天皇は歌を詠んだ。「
【日本書紀 巻第十 応神天皇三十一年八月条】訶 羅 怒 烏 之 褒 珥 椰 枳 之 餓 阿 摩 離 虛 等 珥 菟 句 離 訶 枳 譬 句 椰 由 羅 能 斗 能 斗 那 訶 能 異 句 離 珥 敷 例 多 菟 那 豆 能 紀 能 佐 椰 佐 椰 」-
【古事記 中巻 仁徳天皇段】
免寸河の西に一本の高い木があった。
その木の影は、朝日が当たれば淡道島 に達し、夕日が当たれば高安 山を越えた。
この木を切って船を造ってみると、とても速く進む船だった。時にその船を名付けて枯野 という。
そこでこの船で、朝夕淡道島の清水を汲んで大御水 を献上した。
この船が壊れると、焼いて塩を取り、焼け残った木で琴を作った。その音は七つの里まで響いた。
歌にいう。「
加 良 怒 袁 志 本 爾 夜 岐 斯 賀 阿 麻 理 許 登 爾 都 久 理 加 岐 比 久 夜 由 良 能 斗 能 斗 那 加 能 伊 久 理 爾 布 禮 多 都 那 豆 能 紀 能 佐 夜 佐 夜 」これは
志都歌之歌返 という。
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応神天皇37年2月1日
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応神天皇39年2月
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応神天皇40年1月8日
天皇は大山守命と大鷦鷯尊を呼んで「お前達は自分の子は可愛いか」と問うと、「とても可愛いです」と答えた。
また、「年が大きい子と小さい子ではどちらが可愛いか」と問うと、大山守命は、「大きい子の方が可愛いです」と答えた。天皇は悦んでいない様子だった。
大鷦鷯尊は天皇の様子を察して、「大きい子は年を重ねて一人前になっておりますので、不安はありません。ただ小さい子は、一人前になれるか分かりませんので、とても可愛そうです」と答えた。天皇は大いに悦んで、「お前の言葉は、我が心と同じである」と言った。このとき天皇は常に菟道稚郎子を立てて太子にしたいと思っていた。
【日本書紀 巻第十 応神天皇四十年正月戊申条】
それで二皇子の心を知りたいと思ったて、この問いを発したのであり、大山守命の答えを悦ばなかったのである。-
天皇は大山守命と大雀命に「お前たちは年上の子と年下の子のどちらが愛しいか」と尋ねた。
この問いは、天皇が宇遅能和紀郎子に天下を治めさせようとする心があったためである。
そこで大山守命は「年上がかわいいです」と言った。
次に大雀命は天皇の心中を察して、「年上の子はすでに成人しており、心配はありませんが、年下の子はまだ成人しておりませんので、こちらが愛しいです」と言った。
すると天皇は「雀 よ。お前の言葉は、我が思いと同じである」と言った。そして「大山守命は、山と海を管理しなさい。大雀命は、この国の政治を執行して奏上しなさい。宇遅能和紀郎子は皇位を継承しなさい」と詔して皇子たちの任を分けた。
大雀命は天皇の命を違えることはなかった。
ある時、天皇が近淡海国 に越えて行幸する時に、宇遅野 のあたりに立ち、葛野 を望んで歌を詠んだ。「
知 婆 能 加 豆 怒 袁 美 禮 婆 毛 毛 知 陀 流 夜 邇 波 母 美 由 久 爾 能 富 母 美 由 」
それで木幡村 に着いたとき、美しい少女にその辻で出会った。
そして天皇がその少女に「お前は誰の子か」と問うと、「丸邇之比布礼能意富美の女 で、名を宮主矢河枝比売と申します」と答えた。天皇はその少女に「私は明日帰るときに、お前の家に立ち寄ろうと思う」と言った。それで矢河枝比売は、このことを詳しく父に話した。
この父は「その方は天皇でいらっしゃる。恐れ多いことだ。我が子よ。お仕え申し上げなさい」と言って、その家を厳かに飾って待った。
翌日行幸した。
それで食事を差し出すときに、女の矢河枝比売に酒盞 を持たせて酒を献上させた。
天皇はその大酒盞を持たせたままで歌を詠んだ。「
許 能 迦 邇 夜 伊 豆 久 能 迦 邇 毛 毛 豆 多 布 都 奴 賀 能 迦 邇 余 許 佐 良 布 伊 豆 久 邇 伊 多 流 伊 知 遲 志 麻 美 志 麻 邇 斗 岐 美 本 杼 理 能 迦 豆 伎 伊 岐 豆 岐 志 那 陀 由 布 佐 佐 那 美 遲 袁 須 久 須 久 登 和 賀 伊 麻 勢 婆 夜 許 波 多 能 美 知 邇 阿 波 志 斯 袁 登 賣 宇 斯 呂 傳 波 袁 陀 弖 呂 迦 母 波 那 美 波 志 比 比 斯 那 須 伊 知 韋 能 和 邇 佐 能 邇 袁 波 都 邇 波 波 陀 阿 可 良 氣 美 志 波 邇 波 邇 具 漏 岐 由 惠 美 都 具 理 能 曾 能 那 迦 都 爾 袁 加 夫 都 久 麻 肥 邇 波 阿 弖 受 麻 用 賀 岐 許 邇 加 岐 多 禮 阿 波 志 斯 袁 美 那 迦 母 賀 登 和 賀 美 斯 古 良 迦 久 母 賀 登 阿 賀 美 斯 古 邇 宇 多 氣 陀 邇 牟 迦 比 袁 流 迦 母 伊 蘇 比 袁 流 迦 母 」こうして結婚して生まれた御子が宇遅能和紀郎子である。
【古事記 中巻 応神天皇段】
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応神天皇40年1月24日
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応神天皇40年1月8日
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応神天皇41年2月15日
【日本書紀 巻第十 応神天皇四十一年二月戊申条】明宮 で崩じる。
時に年百十歳。-
【日本書紀 巻第十 応神天皇四十一年二月戊申条 一云】大隅宮 で崩じる。 -
御年百三十歳。
【古事記 中巻 応神天皇段】
甲午年九月九日に崩じた。 -
応神天皇41年2月15日
【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 応神天皇四十一年二月戊申条】豊明宮 で崩じる。
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御陵は
【古事記 中巻 応神天皇段】川内恵賀之裳伏岡 にある。 -
応神天皇41年2月
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- 三世祖:
阿居乃王 【新撰姓氏録抄 第一帙 第六巻 山城国皇別 息長竹原公条】
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