額田大中彦皇子
- 名前
- 額田大中彥皇子【日本書紀】(ぬかたのおおなかつひこのみこ, ぬかたのおほなかつひこのみこ)額田大中彦皇子
- 額田大中日子命【古事記】(ぬかたのおおなかつひこのみこと, ぬかたのおほなかつひこのみこと)
- 大中彥皇子【日本書紀】(おおなかつひこのみこ, おほなかつひこのみこ)大中彦皇子
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 応神天皇41年2月30日)
- 没年月日
- (仁徳天皇62年1月1日 ~ )
- 父
応神天皇 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】
- 母
高城入姫 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】
- 先祖
- 出来事
-
応神天皇41年2月(15日 ~ 30日)
応神天皇が崩じると、額田大中彦皇子は
倭 の屯田 と屯倉 を支配しようとして、その屯田の司の淤宇宿禰に「この屯田はもとより山守の地である。これからは私が治める。お前が司ることはない」と言った。
淤宇宿禰は太子菟道稚郎子に報告した。
太子は「大鷦鷯尊に申し上げよ」と言った。
それで淤宇宿禰は大鷦鷯尊に「私がお預かりしていた屯田は、大中彦皇子が妨げられて治めることが出来ません」と言った。
大鷦鷯尊は倭直 の祖麻呂祖麻呂という名の可能性もある。に「倭の屯田はもとより山守の地というが、これはどうか」と尋ねると、「私は存じ上げませんが、弟の吾子籠が存じ上げております」と答えた。この時、吾子籠は
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇即位前紀 応神天皇四十一年二月条】韓国 に遣わされていて、まだ帰還していなかった。
そこで大鷦鷯尊が淤宇に言うには「お前は自ら韓国に行って、吾子籠を連れてきなさい。昼夜兼行で急ぐように」と。
そして淡路の海人八十人を水手とした。
淤宇は韓国に行って吾子籠を連れて帰った。
そして倭の屯田について尋ねると、答えて「伝え聞きますには、纒向玉城宮御宇天皇垂仁天皇の御世に、太子大足彦尊後の景行天皇に仰せられて、倭の屯田をお定めになられました。この時の勅旨は『およそ倭の屯田は、時の帝皇の屯田である。その帝皇の子といえども、天下を治める者でなければ司ることは出来ない』といいます。これを山守の地というのは間違いでございます」と。
大鷦鷯尊は吾子籠を額田大中彦皇子のもとに遣わして、このことを知らせた。
大中彦皇子は返答しなかった。
その悪さを知ったが、許して罪に問わなかった。 -
仁徳天皇62年
額田大中彦皇子が
闘鶏 で狩りをした。時に皇子が山の上から野の中を見ると物があり、その形は
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇六十二年是歳条】廬 のようだった。
使者を遣わして確認させると、還ってきて「窟 でございます」と言った。
そこで闘鶏稲置大山主を呼んで「あの野の中にあるのは何の窟だ」と問うと、「氷室でございます」と答えた。
皇子が「その納めた様子はどうなっているのか。またどのように用いるのか」と言うと、「土を掘ること一丈余。萱をその上に葺き、厚く茅すすきを敷いて、氷を取ってその上に置きます。夏を越しても消えません。その用途は熱い時期に水酒に浸して用います」と言った。
皇子がその氷を持っきて御所に献上すると天皇は喜んだ。
これ以後、師走になるたびに必ず氷を納め、春分になると始めて氷を配った。