日本武尊

名前
  • 日本武尊【日本書紀】(やま
  • 小碓尊【日本書紀】(おうすのみこと, をうす
  • 日本童男【日本書紀】(やまとおぐな, やまをぐな)
  • 日本武皇子【日本書紀】(やま
  • 小碓王【日本書紀】(おうすのみこ, をうす
  • 日本武【日本書紀】(やまる)
  • 小碓命【古事記】(おうすのみこと, をうす
  • 倭男具那命【古事記】(やまとおぐなのみこと, やまをぐな
  • 倭建御子【古事記】(やま
  • 倭建命【古事記】(やま
  • 倭武尊【古語拾遺】(やま
  • 日本武命【古語拾遺】(やま
  • 倭建尊【新撰姓氏録抄】(やま
キーワード
  • 後裔は左京犬上朝臣(いぬかみのあそみ)校異:犬上宿禰・右京建部公(たけるべのきみ)・右京別公(わけのきみ)・和泉国和気公(わけのきみ)・和泉国県主(あがたぬし)【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
性別
男性
生年月日
景行天皇12年
没年月日
景行天皇41年
  • 景行天皇けいこうてんのう【日本書紀 巻第七 景行天皇二年三月戊辰条】
  • 播磨稲日大郎姫はりまのいなひのおおいらつめ【日本書紀 巻第七 景行天皇二年三月戊辰条】
先祖
  1. 景行天皇
    1. 垂仁天皇
      1. 崇神天皇
      2. 御間城姫
    2. 日葉酢媛命
      1. 丹波道主王
      2. 丹波之河上之摩須郎女
  2. 播磨稲日大郎姫
    1. 若建吉備津日子
      1. 孝霊天皇
      2. 絙某弟
    2. unknown
配偶者
  • 妃:両道入姫命ふたじいりひめのみこと布多遅能伊理毘売命ふたじのいりびめのみこと【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条, 古事記 中巻 景行天皇段】
  • 妃:吉備穴戸武媛きびのあなとのたけひめ大吉備建比売おおきびたけひめ【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条, 古事記 中巻 景行天皇段】
  • 妃:弟橘媛おとたちばなひめ弟橘比売命おとたちばなひめのみこと【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年是歳条, 古事記 中巻 景行天皇段】
  • 宮簀媛みやすひめ美夜受比売みやずひめ【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年是歳条, 古事記 中巻 景行天皇段】
  • 布多遅比売ふたじひめ【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 山代之玖玖麻毛理比売やましろのくくまもりひめ【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 第一子:稲依別王いなよりわけのみこ古事記での母は布多遅比売。【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条, 古事記 中巻 景行天皇段】【母:両道入姫命ふたじいりひめのみこと
  • 第二子:足仲彦尊たらしなかつひこのみこと仲哀天皇ちゅうあいてんのう【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条, 古事記 中巻 景行天皇段】【母:両道入姫命ふたじいりひめのみこと
  • 布忍入姫命ぬのしいりひめのみこと古事記には見えず。【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条】【母:両道入姫命ふたじいりひめのみこと
  • 稚武王わかたけのみこ古事記には見えず。【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条】【母:両道入姫命ふたじいりひめのみこと
  • 武卵王たけかいごのみこ建貝児王たけかいごのみこ【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条, 古事記 中巻 景行天皇段】【母:吉備穴戸武媛きびのあなとのたけひめ大吉備建比売おおきびたけひめ)】
  • 十城別王とおきわけのみこ古事記には見えず。【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条】【母:吉備穴戸武媛きびのあなとのたけひめ
  • 稚武彦王わかたけひこのみこ若建王わかたけるのみこ古事記での名は若建王。【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条, 古事記 中巻 景行天皇段】【母:弟橘媛おとたちばなひめ弟橘比売命おとたちばなひめのみこと)】
  • 蘆髪蒲見別王あしかみのかまみわけのみこ足鏡別王あしかがみわけのみこ【日本書紀 巻第八 仲哀天皇元年閏十一月戊午条, 古事記 中巻 景行天皇段】【母:山代之玖玖麻毛理比売やましろのくくまもりひめ
  • 息長田別王おきながたわけのみこ日本書紀には見えず。【古事記 中巻 景行天皇段】【母:不明】
  • 稲入別命いないりわけのみこと【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 成務天皇四十八年三月庚辰朔条】【母:弟橘媛おとたちばなひめ
  • 武養蚕命たけこかいのみこと【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 成務天皇四十八年三月庚辰朔条】【母:弟橘媛おとたちばなひめ
  • 五十目彦王命いめひこのみこのみこと【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 成務天皇四十八年三月庚辰朔条】【母:弟橘媛おとたちばなひめ
  • 伊賀彦王いがひこのみこ【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 成務天皇四十八年三月庚辰朔条】【母:弟橘媛おとたちばなひめ
  • 武田王たけたのみこ【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 成務天皇四十八年三月庚辰朔条】【母:弟橘媛おとたちばなひめ
  • 佐伯命さえきのみこと【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 成務天皇四十八年三月庚辰朔条】【母:弟橘媛おとたちばなひめ
出来事
  • 景行天皇12年熊襲征伐の記事にある年齢から判断。

    景行天皇の皇子として生まれる。母は播磨稲日大郎姫

    大碓皇子と小碓尊は同じ日に双子として生まれた。
    天皇は怪しんで(うす)に叫んだ。それで二王を名付けて大碓(おおうす)小碓(おうす)というのである。
    この小碓尊は、またの名は日本童男。または日本武尊という。
    幼い頃から雄々しい性格で、壮年になると容貌魁偉となり、身長は一丈、力は鼎を上げるほどであった。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇二年三月戊辰条】
  • 景行天皇の御子八十王の中で、若帯日子命・倭建命・五百木之入日子命の三王は、太子(ひつぎのみこ)の名を負った。

    【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 日本武尊は両道入姫皇女を娶って妃とし、生まれたのは
    稲依別王
    次に足仲彦天皇仲哀天皇
    次に布忍入姫命
    次に稚武王
    その兄の稲依別王犬上君(いぬかみのきみ)武部君(たけべのきみ)の始祖である。

    また妃、吉備武彦の女の吉備穴戸武媛が生んだのは
    武卵王十城別王
    その兄の武卵王讃岐(さぬき)綾君(あやのきみ)の始祖である。
    弟の十城別王伊予別君(いよのわけのきみ)の始祖である。

    次の妃、穂積氏の忍山宿禰の女の弟橘媛が生んだのは
    稚武彦王

    【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条】
  • 景行天皇27年8月

    熊襲(くまそ)が反乱して辺境を侵す。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇二十七年八月条】
  • 景行天皇27年10月13日

    景行天皇は日本武尊を派遣して、熊襲(くまそ)を討たせた。
    時に年十六。

    日本武尊が言うには「私は弓の名手を連れて行きたい。名手はどこにいるだろうか」と。
    ある者が言うには「美濃国に弓の名手がいて、名を弟彦公と申します」と。
    日本武尊は葛城の人宮戸彦を遣わして、弟彦公を招喚した。
    弟彦公石占横立、及び尾張の田子の稲置(いなき)乳近(ちぢか)の稲置を率いてやってきた。そして日本武尊に随行した。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇二十七年十月己酉条】
    • 天皇は小碓命に詔して「なぜお前の兄は朝夕の大御食に出て参らないのか。お前から優しく教え諭しなさい」と。
      この詔の後、五日たっても出てこなかった。
      そこで天皇は小碓命に尋ねて「なぜお前の兄は久しく出て参らないのか。もしやまだ教えてないのではないか」と。
      答えて「すでに教え諭しました」と。
      また尋ねて「どのように教え諭したか」と。
      答えて「明け方、厠に入ったところを捕らえて掴み潰し、手足を引きもいで、(こも)に包んで投げ棄てました」と。
      天皇はその御子の荒々しい性格を恐れ、「西方に熊曽建(くまそたける)が二人いる。この服従しない無礼な者どもである。その者どもを討ち取りなさい」と詔して遣わした。

      このころ髪を結額に結っていた小碓命は、叔母の倭比売命の御衣と御裳を給わり、小剣を懐に入れて出かけた。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 景行天皇27年12月

    熊襲国に至り、その人々の動静や地形を調べた。
    時に熊襲に魁帥(たける)という者がいた。名は取石鹿文。または川上梟帥という。親族を集めて宴を挙げようとしていた。
    日本武尊は髪を解いて童女の姿となり、密かに川上梟帥の宴の時を伺った。
    そして剣を衣服の中に隠して、川上梟帥の宴の室に入って女人の中に混じった。
    川上梟帥はその童女の容姿を愛でて、手を携えて同席させた。そして盃を挙げて飲ませ、戯れ弄んだ。
    時に夜が更けて人もまばらになった。川上梟帥は酒に酔っていた。
    日本武尊は剣を取り出して川上梟帥の胸を刺した。
    死の直前に川上梟帥が叩頭して「待ってくれ。言いたいことがある」と言った。日本武尊は剣を留めて待った。
    川上梟帥は「お前は誰なんだ」と言った。答えて「私は大足彦天皇景行天皇の子で、名は日本童男という」と。
    川上梟帥は「私はこの国で力を持っています。人々は私の威力に勝てず、従わない者はおりません。私は多くの武人に会いましたが、皇子ほどの者はおりませんでした。卑しき者の口からですが尊号を奉りたいと思います。お許し頂けますか」と。これを許した。
    また言うには「今後は日本武皇子と称して頂きたい」と。言い終わると胸を刺して殺した。
    それで今に至るまで日本武尊と称えるのは、これがそのもとである。
    然る後、弟彦らを遣わして、その仲間を悉く斬らせた。残る者はいなかった。

    そして海路から(やまと)に帰還する為、吉備に行き穴海(あなのうみ)を渡った。そこに悪神がいたので殺した。
    また難波(なにわ)に至る頃に、柏済(かしわのわたり)の悪神を殺した。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇二十七年十二月条】
    • 熊曽建(くまそたける)の家に着くと、その家の周辺には軍勢が三重に囲み、室を造っていた。
      そして室の落成の宴を開こうと言い騒いで、食物の準備をしていた。
      そこで、その辺りを歩き回ってその日を待った。
      その宴の日、結っていた髪を童女の髪のように垂らし、叔母の御衣と御裳を着た。
      すっかり童女の姿となると、女人の中に混じってその室の中に入った。
      すると熊曽建の兄弟二人はその少女を見てかわいく思い、間に座らせて盛んに宴を楽しんだ。
      (たけなわ)になると、懐から剣を出して熊曽の衣の(えり)を掴んで剣を胸に刺し通した。
      その時、その弟の建は恐れて逃げ出したが、ただちに追って、室の階段の下でその背中をとらえると剣を尻から刺し通した。
      するとその熊曽建が「その刀を動かさないで下さい。お話があります」と言った。
      そこで暫く許して押し伏せると、「あなた様はどなたでいらっしゃいますか」と言った。答えて「私は纒向(まきむく)日代宮(ひしろのみや)においでになり、大八島(おおやしま)国をお治めになる大帯日子淤斯呂和気天皇景行天皇の御子。名は倭男具那王である。お前たち熊曽建の二人が服従せずに無礼とお聞きになり、討ち取るようにとの詔を受けて遣わされたのだ」と。
      熊曽建が言うには「その通りで御座いましょう。西方には私たち二人を除いて、猛く強い人はおりません。しかしながら大倭国(おおやまとのくに)には私たち二人よりも猛る男子がおいでになったのです。そこで私が御名を献ります。これより後は倭建御子と称えましょう」と。
      言い終わると、熟した瓜を裂くように殺した。それでのその御名を称えて倭建命という。
      そうして帰還する途中、山の神・河の神・穴戸の神を皆服従させて都に上った。

      出雲国に入ると、出雲建(いずもたける)を殺そうと思った。到着すると友情を結んだ。
      そして密かに赤檮(いちい)の木で偽の刀を作ってそれを佩き、共に肥河(ひのかわ)で沐浴した。
      倭建命は先に河から上がり、出雲建が解いて置いた横刀(たち)を佩いて、「刀を取り替えよう」と言った。
      それでその後、出雲建が河から上がると倭建命の偽の刀を佩いた。
      そこで倭建命は「さあ刀を合わせよう」と言って挑発した。
      それぞれ抜刀したが、出雲建は偽の刀のために抜けなかった。
      倭建命は抜いた刀で出雲建を打ち殺した。そこで歌を詠んだ。

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      このように平定しながら帰国して復命した。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 景行天皇28年2月1日

    熊襲(くまそ)平定の様子を奏上して「天皇の御霊力に頼り、兵を挙げて、ひたすらに熊襲の首領を殺してその国を平らげました。これによって西国は鎮まり、百姓も事無きを得ました。ただ吉備の穴済(あなのわたり)の神と、難波の柏済(かしわのわたり)の神には害する心があり、毒気を放って通行人を苦しめて悪人の巣窟となっておりました。それでその悪神を殺して水陸の路を開きました」と。
    天皇は日本武の功を褒めて愛した。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇二十八年二月乙丑朔条】
  • 景行天皇40年6月

    東夷が多く叛いて辺境が動揺する。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年六月条】
  • 景行天皇40年7月16日

    天皇は群卿に詔して「東国が不安定で暴れる神が多くいる。また蝦夷が反乱して、しばしば人民が略奪にあっている。誰を遣わして平定させるべきか」と。
    群臣は誰を派遣すべきか判断出来なかったが、日本武尊が奏上して「私が先に西征させて頂きました。この役は大碓皇子が良いでしょう」と。
    時に大碓皇子は愕然として草の中に逃げ隠れた。使者を遣わして連行した。
    天皇が責めて言うには「お前が望まないものを、なぜ無理強いしようか。賊に向い合いもせずに、こんなにも恐れるとは」と。
    そして美濃に封じて、その封地に行かせた。これが身毛津君(むけつのきみ)守君(もりのきみ)、凡そ二族の始祖である。

    日本武尊が雄叫んで言うには「熊襲を平らげて幾年も経ずに、今また東夷が叛く。いつになれば太平が訪れるのか。私にとっては苦労といえども、急ぎその乱を平らげましょう」と。
    天皇は斧と(まさかり)を持ち、日本武尊に授けて言うには「朕が聞くところによれば、その東夷の性格は狂暴で、犯すことを宗とし、村に長は無く、邑に首は無し。各々が境を貪り、互いに略奪をする。また山には邪神あり。野には姦鬼あり。道を遮り、多くの人を苦しめている。その東夷の中でも蝦夷はとても強く、男女親子の別も無く、冬は穴に寝て、夏は樔に住む。毛皮を着て血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登ることは飛ぶ鳥のようで、草原を走ることは獣のようである。恩を受けては忘れ、怨みを見ては必ず報いる。矢を髪の束に隠し、刀を衣の中に佩いている。或いは仲間を集めて辺境を犯す。或いは収穫の時を伺って掠奪する。撃てば草に隠れ、追えば山に入る。古来より未だに王化に従うことがない。お前を見ると、その姿は丈が高く、体が大きい。容姿は端正である。力強く鼎を上げる。猛きことは雷電のようである。立ち塞がる者も無く、攻めれば必ず勝つ。わかるぞ。形は我が子だが、実は神人であると。これは天が、朕が至らぬこと、また国の乱れを哀れんで、天業を整えて宗廟を絶やさぬようにとの思し召しであろう。この天下はお前の天下である。この位はお前の位である。深謀遠慮を巡らせ、不正を探り、勢いを以って示し、徳を以って懐かせ、兵を煩わせずに自ずから従うようにさせよ。言を巧みに暴ぶる神を鎮め、武を振るって姦鬼を払え」と。
    日本武尊は斧と鉞を受け取り、再拝して言うには「西征の時は皇霊の威に頼り、三尺の剣を引き下げて熊襲国を討ちました。幾ばくも無く賊将は罪に服しました。今また神祗の御霊に頼り、天皇の威を借りて、その境を臨み、徳教を示しても服従しなければ、兵を挙げて討伐します」と。重ねて再拝した。
    天皇は吉備武彦大伴武日連に命じて日本武尊に従わせた。また七掬脛膳夫(かしわで)とした。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年七月戊戌条】
    • 天皇はまた倭建命に詔して「東方十二国の荒ぶる神や、服従しない人々を平定せよ」と。
      吉備臣(きびのおみ)らの祖、名は御鉏友耳建日子を副えて遣わすときに、柊の八尋矛を授けた。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 景行天皇40年10月2日

    出発。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年十月癸丑条】
  • 景行天皇40年10月7日

    寄り道をして伊勢神宮を参拝した。
    そして倭姫命に言うには「天皇から命を承り、東に行って叛く者を討伐することとなりました。それでご挨拶に参りました」と。
    倭姫命草薙剣(くさなぎのつるぎ)を日本武尊に授けて「慎み、怠らぬように」と言った。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年十月戊午条】
    • 伊勢の大御神の宮を参拝した。
      そしてその姨の倭比売命に言うには「天皇は私に死んで欲しいと思っているのでしょうか。なぜ西方の悪人共を討伐させ、復命から幾らも時が経たぬのに、兵士も賜らずに、今また東方十二国の悪人共を平らげるために遣わされるのでしょうか。やはり私に死んで欲しいと思っておられるのです」と。
      泣き悲しんでいる時に、倭比売命草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を賜った。また御嚢を賜り、「もし急事があれば、この嚢の口を解きなさい」と言った。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 尾張国に到着すると、尾張国造の祖の美夜受比売の家に入った。
    そこで結婚しようと思ったが、帰還した時に結婚しようと思い、約束して東国に向って、山や河の荒ぶる神や、服従しない人々を平定した。

    【古事記 中巻 景行天皇段】
  • (景行天皇40年10月7日 ~ )

    日本武尊は初めて駿河に至った。
    その地の賊が偽って従い、欺いて言うには「この野は大鹿がとても多く、その息は朝霧のようで、足は茂った林のようです。お狩りなさいませ」と。
    日本武尊はその言葉を信じて、野の中に入って獣を探した。
    賊は日本武尊。以降、王という呼称が多く見える。を殺すために火を放って野を焼いた。
    王は欺かれたことに気付き、火打をして火を出して、向い火を起して難を逃れた。
    あるいは王が佩いていた叢雲剣(むらくものつるぎ)叢雲。此云茂羅玖毛。が自ら抜け出し、王の傍の草を薙ぎ払った。これによって難を逃れた。それでその剣を名付けて草薙(くさなぎ)というという。
    日本武尊は「危うく欺かれるところであった」と言った。そしてその賊を悉く焼き滅ぼした。それでそこを名付けて焼津(やきつ)という。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年是歳条】
    • 相武国(さがむのくに)相模に到着すると、その国造が偽って「この野の中に大きな沼があります。この沼の中に住む神は、ひどく凶暴な神でございます」と言った。
      それでその神を見るために野の中に入った。するとその国造が野に火をつけた。
      欺かれたことを知ると、姨の倭比売命から給わった嚢の口を解いて見た。すると火打ちの石と金があった。
      そこでまずその刀で草を刈り払い、その火打ちで火を打ち出し、向い火を点けて焼き退けた。
      帰還してその国造らを皆斬り殺した。そして火を点けて焼いた。それで今でも焼津・焼遺という。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
    • 相模国に着いて野火の難に遇った。そこで天叢雲(あまのむらくも)で草を薙いで免れることができた。改めて草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けた。

      【古語拾遺 神代段】
  • 相摸(さがむ)に進軍して、上総(かみつふさ)に入ろうとした。
    海を望み、高らかに言うには「このような小さな海など跳んで渡れるだろう」と。
    しかし海中で暴風が忽ちに起り、王船は漂って渡ることが出来なかった。
    時に王に従う妾がいた。弟橘媛という。穂積氏の忍山宿禰の女である。
    弟橘媛が王に言うには「風が起り、浪は速く、王船は沈もうとしています。これはきっと海神(わたつみ)の仕業で御座います。賤しい私の身を王の命に代えて海に入ります」と。
    言い終わると波を押し分けて入っていった。すると暴風は止み、船は着岸できた。
    それで時の人はその海を名付けて馳水(はしるみず)という。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年是歳条】
    • 走水海(はしりみずのうみ)を渡る時、その渡しの神が浪を起こして船を回したため、進むことが出来なかった。
      そるとその后、名は弟橘比売命が言うには「私が御子の為に海の中に入ります。御子は遣わされた任務を成し遂げてご報告なさいませ」と。
      まさに海に入るときに菅畳八重・皮畳八重・絁畳八重を波の上に敷き、その上に下りた。すると荒波は静まり、船は進むことが出来た。
      そこでその后が歌った。

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      それから七日後。その后の御櫛が海辺に流れ着いた。その櫛を取り、陵を造って納めた。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 日本武尊は上総から転じて、陸奥国(みちのくのくに)に入った。
    時に大鏡を王船にかけて、海路から葦浦(あしのうら)に廻った。
    玉浦(たまのうら)を横切って蝦夷(えみし)の支配地に着いた。
    蝦夷の賊首・島津神(しまつかみ)国津神(くにつかみ)らが竹水門(たかのみなと)に屯して防ごうとした。
    しかし遥に王船を見ると、その威勢に怖気づき、勝てないことを知ると弓矢を捨てて望み拝んで「君の御尊顔を拝見致しますと、人倫に優れていらっしゃいます。もしや神ではないでしょうか。お名前を承りたく存じます」と言った。
    日本武尊は答えて「我は現人神の子である」と言った。
    ここに蝦夷らは大いに畏まり、着物をかかげて波を分け、王船を助けて着岸させた。
    そして降伏の意志を示した。それで罪を許し、その首領を俘囚にして従わせた。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年是歳条】
    • 荒ぶる蝦夷(えみし)らを悉く平定した。また山や河の荒ぶる神々を平定した。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 蝦夷を平らげて日高見国(ひたかみのくに)から帰還して、西南の常陸を経て甲斐国に至り、酒折宮(さかおりのみや)で休んだ。
    時に灯をともして食事をした。この夜、歌で侍者に問うた。

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    諸々の侍者は答えられなかった。
    時に灯をともす者が王の歌に続けて歌った。

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    灯し人の聡さを褒めて、敦く賞した。
    そしてこの宮に住んで、靭部(ゆけいのとものお)を大伴連の遠祖の武日に賜った。

    日本武尊が言うには「蝦夷の悪い者共は、悉くが罪に服した。ただ信濃国と越国が僅かながらも未だに王化には従っていない」と。
    そして甲斐から北の武蔵・上野(かみつけの)に転じて、西の碓日坂(うすひのさか)に着いた。
    日本武尊は常に弟橘媛を偲んだ。それで碓日嶺(うすひのみね)に登って東南を望み、三度嘆いて「吾嬬(あずま)はや『我が妻よ、ああ』の意。嬬。此云菟摩。」と言った。
    それで山の東の諸国を名付けて吾嬬国(あずまのくに)というのである。

    ここで道を分かち、吉備武彦を越国に遣わして、その地形と人民の順逆を探らせた。

    日本武尊は信濃に入った。この国は山が高く谷は深い。青い嶺が幾重にも重なり、人は杖を使っても登るのは難しい。岩は険しく坂道は長い。高峰は数千。馬が歩みを止めて進めなかった。
    しかし日本武尊は霞を分け、霧を凌いで遥かな大山を渡った。
    嶺に着くと山中で食事をした。
    山の神が王を苦しめようと白鹿になって王の前に立った。
    王は怪しんで、一箇蒜(ひとつひる)で白鹿を弾き、鹿の眼に当てて殺した。
    王は急に道を失って出る所が分からなくなってしまった。
    時に白狗がやって来て王を導いてくれた。狗に従って行くと、美濃に出ることが出来た。
    吉備武彦は越から出てきて合流した。
    これより先、信濃坂を越える者の多くが、神気を受けて病み臥した。
    しかし白鹿を殺した後に山を越える者は、蒜を噛んで人と牛馬に塗ると、神気には当たらなくなった。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年是歳条】
    • 帰還する時、足柄(あしがら)坂本(さかもと)に着いて、乾飯(かれいい)を食べていると、その坂の神が白鹿に化けて来て立っていた。
      そこで食べ残した(ひる)の片端を待ちうけて打った。すると目に当たって打ち殺した。
      それでその坂に登り立って、三度嘆息して「あずまはやああ、妻よ。」と言った。それでその国を名付けてあずま原文『阿豆麻』という。

      その国を越えて甲斐に出て酒折宮(さかおりのみや)で休んだときに歌を歌った。

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      すると御火焼(みひたき)の老人が御歌に続けて歌を歌った。

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      それでその老人を誉めて東国造とした。

      その国から科野国(しなののくに)信濃に越えて、科野の坂の神を帰順させた。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 日本武尊は尾張に帰還すると、尾張氏の女の宮簀媛を娶り、長く留まって月を経た。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年是歳条】
    • 尾張国に帰還すると、先日に約束した美夜受比売の家に入った。
      大御食(おおみけ)献上の時、その美夜受比売大御酒盞(おおみさかずき)を捧げて献上した。
      美夜受比売(おすい)の裾に月経が付いていた。それでその月経を見た倭建命が歌を詠んだ。

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      美夜受比売が御歌に答えた。

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      そして結婚した。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 近江の胆吹山(いぶきやま)校異:五十葺山に荒ぶる神がいると聞くと、剣を宮簀媛の家に置いて向った。
    胆吹山に着くと、神が大蛇(おろち)になって道を塞いだ。
    日本武尊は神が蛇となったのを知らずに言うには「この大蛇はきっと荒神の使いであろう。主である神を殺してしまえば、その使いなど問題ではない」と。そして蛇を跨いで進んだ。
    時に山神は雲を興して雹を降らせた。
    峯には霧がかかり、谷は暗く、行くべき道も無く、彷徨って歩く所が分からなくなった。
    しかし霧を凌いで強行すると、どうにか出ることが出来たが、正気を失い酔ったようになっていた。
    山の下の泉の側でその水を飲むと醒めた。それでその泉を名付けて居醒泉(いさめがい)という。
    日本武尊はここで始めて病気になり、ようやく起きて尾張に帰った。
    宮簀媛の家に入らずに伊勢に移り、尾津(おつ)に着いた。

    これより先、日本武尊は東に向う途中、尾津浜(おつのはま)で食事をした。
    この時に一振りの剣を松の下に置いたのを忘れて行ってしまった。
    今ここに帰ってくると剣はそのまま残っていた。それで歌を詠んだ。

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    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年是歳条】
    • その御刀草那芸剣(くさなぎのつるぎ)美夜受比売のもとに置いて、伊服岐(いぶき)の山の神を討ち取るために出かけた。
      この時に「この山の神は素手で討ち取ろう」と言った。
      その山に登る時、山のほとりで白猪に出会った。その大きさは牛のようであった。
      しかし「この白猪に化けているのは、その神の使者である。今殺さずとも、帰る時には殺す」と言挙げして登っていった。
      すると大きな雹を降らせて倭建命を打ち惑わせた。この白猪に化けていのは、その神の使者ではなく、その神自身だったが、言挙げしたので惑わせたのである。
      それで帰り下って、玉倉部(たまくらべ)清泉(しみず)に着いて休息した時、徐々に意識を回復した。それでその清泉を名付けて居寤(いさめ)の清泉という。

      そこを発って当芸野(たぎの)のあたりに着いた時に、「私の心は常に空を翔り行く思いだった。しかし今私は足が進まず、たぎたぎしく捗らなくなっている」と言った。それでその地を名付けて当芸(たぎ)という。

      その地から少し進むと、ひどく疲れて、杖をついてそろそろと歩いた。それでその地を名付けて杖衝坂(つえつきざか)という。

      尾津前(おつのさき)の一本松のもとに着いた。
      先に食事をした時に、その地に忘れた御刀が失わずにあった。そこで歌を歌った。

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      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 能褒野(のぼの)に着くと病気がひどくなった。
    降伏した蝦夷らを神宮伊勢神宮に献上した。
    そして吉備武彦を遣わし、天皇に奏上して「私は天朝の命を承り、遠く東夷を討伐致しました。神恩を被り、皇威に頼りまして、叛く者は罪に伏し、荒ぶる神も自ら従いました。そこで(よろい)を巻き、(ほこ)を納めて、心安らいで帰還致しまして、何れの日、何れの時に復命しようかと思っておりました。しかし天命は忽ちに至り、余命幾ばくも無く、独り荒野に臥しております。誰に語ることも御座いません。身の亡ぶことなど惜しみません。ただ残念なのは、お仕え奉ることが適わなくなることで御座います」と。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年是歳条】
    • 三重村(みえのむら)に着いた時に「私の足は三重の(まがり)のようになって、ひどく疲れてしまった」と言った。それでその地を名付けて三重(みえ)という。

      そこから進んで能煩野(のぼの)に着いた時に、国を(しの)んで歌を歌った。

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      また歌った。

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      この歌は思国歌(くにしのびうた)である。
      また歌った。

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      これは片歌(かたうた)である。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 景行天皇41年熊襲討伐時の年齢基準。【日本書紀 巻第七 景行天皇二十七年十月己酉条】

    能褒野で原文ママ。じる。
    時に年三十。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年是歳条】
    • 危篤になり、歌を歌った。

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      歌い終わると崩じた原文で『崩』を使用している。ここでは原文に従う。
      そこで駅使(はゆまづかい)を送った。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • 天皇はこれを聞くと安らかに眠れず、食事を取っても味を感じず、昼夜むせび泣き、胸を打って悲しんだ。
    そして大いに歎いて言うには「我が子小碓王よ。かつて熊襲(くまそ)が叛いた日、まだ総角(あげまき)もせぬのに、戦いに長くを費やし、また傍らで朕を補佐してくれた。しかし東夷の騒動では討伐する者が現れず、愛みを忍んで賊の地に入らせたのだ。一日も忘れたことは無い。朝夕落ち着かず、ただひたすらに帰る日を待っていた。何の禍か。何の罪か。不意に愛する我が子を失ってしまった。今後は誰と鴻業を治めれば良いのか」と。
    そして群卿に詔し、百寮に命じて、伊勢国の能褒野陵(のぼののみささぎ)に葬った。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年是歳条】
    • (やまと)の后や御子達は皆下ってきて陵を造った。
      そしてその地の周囲の田の中を匍匐(ほふく)して回り、泣き悲しんで歌った。

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      すると八尋の白千鳥となって天を翔け、浜に向って飛んで行った。
      その后と御子達は、小竹の切株で足を切り破られても、その痛みを忘れ、泣きながら追った。このときに歌った。

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      またその海に入って(なず)み行くときに歌った。

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      また飛んで磯に止まっている時に歌った。

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      この四つの歌は、みな御葬で歌った。
      それで今に至るまで、その歌を天皇の大御葬(おおみはふり)で歌うのである。

      【古事記 中巻 景行天皇段】
  • ( ~ 景行天皇43年12月30日)

    時に日本武尊は白鳥になって陵を出ると、(やまと)国を指して飛んでいった。
    群臣らがその棺を開いてみると、衣だけが空しく残り、屍は無かった。
    そこで使者を遣わして白鳥を追わせた。
    すると倭の琴弾原(ことひきのはら)に留まった。そこでその地に陵を造った。
    白鳥は更に飛んで河内の旧市邑(ふるいちのむら)に留まった。またその地に陵を造った。
    それで時の人はこの三つの陵を名付けて白鳥陵(しらとりのみささぎ)という。
    遂に高く翔んで天に上った。
    ただ衣冠だけを葬り、功名を伝えるために武部(たけるべ)を定めた。


    この年、天皇践祚四十三年である。景行天皇四十三年までの話ということになる。

    【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年是歳条】
    • それでその国から飛んで翔けて行き、河内国(こうちのくに)志幾(しき)に留まった。
      それでその地に陵を造って鎮座させた。それでその御陵を名付けて白鳥御陵(しらとりのみはか)という。
      しかし、またその地からさらに天を翔けて飛んで行った。

      およそこの倭建命が諸国を平定して廻った時に、久米直(くめのあたい)の祖の七拳脛膳夫(かしわで)として常に従えていた。

      【古事記 中巻 景行天皇段】