- 名前
- 漢風諡号:仲哀天皇(ちゅうあいてんのう, ちうあいてんわう)
- 和風諡号:足仲彥天皇【日本書紀】(たらしなかつひこのすめらみこと)足仲彦天皇
- 足仲彥尊【日本書紀】(たらしなかつひこのみこと)足仲彦尊
- 帶中津日子命【古事記】(たらしなかつひこのみこと)帯中津日子命
- 帶中日子天皇【古事記】(たらしなかつひこのすめらみこと)帯中日子天皇
- 帶仲彥天皇【新撰姓氏録抄】(たらしなかつひこのすめらみこと)帯仲彦天皇
- 足仲彥王尊【先代旧事本紀】(たらしなかつひこのみこのみこと)足仲彦王尊
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 成務天皇18年
- 没年月日
- 仲哀天皇9年2月6日
- 父
日本武尊 【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条】
- 母
両道入姫命 【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条】
- 先祖
- 配偶者
- 子
- 称号・栄典
- 第14代
天皇
- 第14代
- 出来事
-
成務天皇18年【日本書紀 巻第八 仲哀天皇即位前紀 成務天皇四十八年条】
-
成務天皇48年3月1日【日本書紀 巻第七 成務天皇四十八年三月庚辰朔条】
立太子。
時に年三十一。稚足彦天皇には男子がいなかった。それで立てて日嗣とした。
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇即位前紀 成務天皇四十八年条】 -
成務天皇60年6月11日
成務天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第七 成務天皇六十年六月己卯条】 -
辛未年9月6日
成務天皇を
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇即位前紀 成務天皇六十年明年九月丁酉条】倭国 の狭城盾列陵 に葬る。 -
仲哀天皇元年1月11日
即位して天皇となる。
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇元年正月庚子条】-
仲哀天皇元年1月11日
即位して天皇となる。
【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 仲哀天皇元年正月庚子条】
母皇后を尊んで皇太后とする。
皇太后を尊んで太皇太后を追贈する。
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-
仲哀天皇元年9月1日
母皇后を尊んで皇太后とする。
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇元年九月丙戌朔条】 -
仲哀天皇元年11月1日
群臣に詔して「朕が弱冠に届く前に、父王は既にお隠れあそばされた。そして神霊は白鳥となられ、天にお上りあそばされた。お偲び奉る心は一日も休むことはない。そこで白鳥を獲て、陵の周囲の池に飼い、その鳥を見ながら気持ちを慰めたいと思う」と。
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇元年十一月乙酉朔条】
そして諸国に令して白鳥を献上させた。 -
仲哀天皇元年閏11月4日
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇元年閏十一月戊午条】越国 から白鳥四羽を献上する為に、鳥を送る使者は菟道河 のほとりに宿った。
時に蘆髪蒲見別王はその白鳥を見て「どこに持っていく白鳥か」と尋ねた。
越の人は「天皇が父王を恋しく思われて、飼いならそうとしていますので献上するのです」と答えた。
蒲見別王は越の人に「白鳥といえども、焼けば黒鳥になる」と言った。そして強引に白鳥を奪って持ち去った。
越の人は参上して報告した。
天皇は蒲見別王の先王への無礼を憎み、兵を遣わして殺した。
蒲見別王は天皇の異母弟である。
時の人は「父はこれ天である。兄はまた君である。その天を侮り君に背いて、どうして罪を免れようか」と言った。 -
仲哀天皇2年1月11日
-
【古事記 中巻 仲哀天皇段】淡道 の屯家 を定める。 -
仲哀天皇2年2月6日
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年二月戊子条】角鹿 に行幸して、行宮 を建てて住んだ。これを笥飯宮 という。 -
仲哀天皇2年3月15日
天皇は南国を巡幸した。
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年三月丁卯条】
皇后と百寮は留めて、駕に従う二三人の卿大夫と、官人数百人とで紀伊国に行き、徳勒津宮 に住んだ。
この時に熊襲 が叛いて朝貢しなかった。
天皇は熊襲国を討つために徳勒津を発って、船で穴門 に向った。
その日に使いを角鹿に遣わして、皇后に「すぐにその津を出発して、穴門で会おう」と詔した。 -
仲哀天皇2年6月10日
豊浦津 に泊る。また皇后は
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年六月庚寅条】角鹿 を出発して、渟田門 に着き、船上で食事した。
この時に多くの鯛が船の傍に多く集まり、皇后が酒を鯛にそそぐと、酔って浮いた。
時に漁人はその魚を多く獲って「聖王の下さった魚だ」と喜んだ。
そこの魚が六月になると、常に酔ったように口をパクパクさせるのは、これがもとである。 -
仲哀天皇2年7月5日
皇后は
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年七月乙卯条】豊浦津 に泊った。
この日、皇后は如意珠 を海で拾った。 -
仲哀天皇2年9月
宮を
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年九月条】穴門 に建てて住んだ。これを穴門豊浦宮 という。-
【古事記 中巻 仲哀天皇段】穴門之豊浦宮 及び筑紫訶志比宮 にて天下を治めた。
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仲哀天皇8年1月4日
筑紫 に行幸する。時に
岡県主 の祖の熊鰐は、天皇が来ると聞いて、予め五百枝 の賢木 を根こぎにして、九尋船 の舳に立て、上枝には白銅鏡 をかけ、中枝には十握剣 をかけ、下枝には八尺瓊 をかけた。
そして周芳 の沙麼 の浦に迎えて、魚塩 の地を献上して言うには「穴門 から向津野大済 に至るまでを東門とし、名籠屋大済 までを西門とし、限没利島 ・阿閉島 を限って御筥 とし、柴島 を割いて御甂 とし、逆見 の海を塩地とします」と。そして海路を導いた。山鹿岬 から廻って岡浦 に入った。
水門 に着くと御船は進まなくなった。
そこで熊鰐に「聞くところによると、お前は清い心で参ったのに、なぜ船は進まないのか」と問うた。
熊鰐が言うには「御船が進まないのは私の罪では御座いません。この浦のほとりに男女の二神がおります。男神を大倉主といいます。女神を菟夫羅媛といいます。きっとこの神の御心でしょう」と。
天皇は祈祷して、舵取りの倭国 の菟田 の人、伊賀彦を祝 として祭らせた。すると船は進んだ。皇后は別の船で
洞海 から入ったが、潮が引いて進めなかった。
時に熊鰐はまた返って洞海から皇后を迎えた。
そして進まない御船を見て恐れ畏まり、すぐに魚沼 と鳥池 を造って、魚や鳥を集めた。
皇后は魚や鳥を見ると怒りの心もようやく解け、潮が満ちると岡津 に泊まった。また筑紫の
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇八年正月壬午条】伊覩県主 の祖である五十迹手は、天皇がやってくると聞いて、五百枝 の賢木 を根こぎにして、船の舳艫に立て、上枝には八尺瓊 をかけ、中枝には白銅鏡 をかけ、下枝には十握剣 をかけて、穴門 の引島 に迎えて言うには「私が敢えて献上致します物は、天皇が、八尺瓊が勾 るように、霊妙に天下をお治め頂き、また白銅鏡のように、明かに山川や海原をご覧頂き、十握剣を引きさげて天下を御平定して頂きたいということです」と。
天皇は五十迹手を褒めて「伊蘇志 」と言った。
それで時の人は五十迹手の本国を名付けて伊蘇国 という。今に伊覩 というのは訛ったものである。 -
仲哀天皇8年1月21日
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇八年正月己亥条】儺県 に至り、橿日宮 に住む。 -
仲哀天皇8年9月5日
群臣に詔して
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇八年九月己卯条】熊襲 討伐を議った。
時に神が皇后に神憑り、教えて言うには「天皇はなぜ熊襲が服従しないことを憂えておいでか。そこは荒れ痩せた国である。挙兵するに足らない。この国に勝って、宝のある国、譬えば美女の眉のように海上に見える国がある。眩い金・銀・彩色などが沢山その国にはある。これを栲衾新羅国 という。もしよく私を祭れば、刃に血塗らずして、その国は必ず自ずから服従し、また熊襲も服従するであろう。その祭りをするには天皇の御船と穴門直践立が献上した大田 という名の水田。これらの物をお供えしなさい」と。
天皇は神の言葉を聞いたが、疑いの心を持った。
そこで高い岳に登って、遥に大海を望んだが国は見えなかった。
天皇が神に答えて言うには「周囲を眺めても海のみで国はありません。大空にでも国があるのでしょうか。どの神が徒に朕を欺くのでしょうか。また我が皇祖の諸天皇たちは神祇を尽く祭っておられます。どうして残っている神がおられましょうか」と。
時に神がまた皇后に神憑って言うには「水に映る影のように、鮮明に私が見ている国を、なぜ国が無いと言って、私の言をそしるのか。お前がそのように言って信じないのであれば、お前はその国を得ることは出来ない。ただし皇后は今はじめて身ごもっておられる。その御子が得られるであろう」と。
しかし天皇は猶も信じずに熊襲を攻撃したが、勝ちを得ることなく帰還した。-
足仲彦天皇が
筑紫 の橿日宮 に居たときに、神が沙麼県主 の祖の内避高国避高松屋種に神懸かり、天皇に教えて言うには「御孫尊 がもし宝の国を得たいと思われるなら、実際に授けましょう」と。
また、「琴を持ってきて皇后に進上されますように」と言った。
そこで神の言に従って皇后が琴をひいた。
すると神が皇后に神憑り、教えて言うには「今、御孫尊が所望する国は、例えば鹿の角のように中身が無い国である。御孫尊がお乗りになる船と、穴戸直践立が奉った大田 という名の水田をお供えして、よく私を祭れば、美女の眉のように金銀が多く、眼の輝く国を御孫尊に授けましょう」と。
天皇は神に答えて「神といえども何を欺かれるのでしょうか。何処に国がありましょうか。また朕の乗る船を神に奉り、朕はどの船に乗るのでしょうか。それにまだどの神ということも知りません。どうかその御名をお知らせ下さい」と。
神がその名を名乗って言うには「表筒雄・中筒雄・底筒雄」と。
このように三神の名を名乗り、また重ねて言うには「我が名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊である」と。
時に天皇は皇后に「聞きにくい事を言われる婦人だ。どうして速狭騰というのだ」と言った。
すると神が天皇に言うには「あなた様が信じないのであれば、その国を得ることは出来ません。ただし今、皇后が妊んでいる子が得ることになるでしょう」と。この夜に天皇は急病を発して崩じた。
その後、皇后は神の教えのままに祭った。
皇后は男装して新羅を征した。神は側で導いた。これにより船を乗せた浪は、遠く新羅国の中にまで及んだ。
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年十二月辛亥条 一云 第一】
新羅王宇流助富利智干は参上して跪き、王船を見つけて、叩頭して言うには「私は今後、日本国にお出での神の御子に、内官家 として、絶えることなく朝貢いたします」と。 -
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年十二月辛亥条 一云 第二】
新羅王を虜にして海辺に行き、王の膝の骨を抜いて石の上に腹這わせた。
しばらくすると斬って砂の中に埋めた。
一人を留め、新羅の宰 として置き、帰還した。
その後、新羅王の妻は、夫の屍を埋めた地を知らないので、宰を誘惑して「お前が王の屍を埋めた所を教えれば、必ず篤く報いる。また私はお前の妻となろう」と言った。
宰は誘惑を信じて、密かに屍を埋めた所を教えた。しかし王の妻と国人は共に図って宰を殺した。
そして王の屍を出して別の所に葬った。
宰の屍は、王の墓の土の底に埋め、王の棺をその上に降ろして「尊卑の順はこのようなのだ」と言った。
天皇はこれを聞いて怒りに震え、大軍を起こして新羅を滅ぼそうとした。
軍船は海に満ちた。この時、新羅の国人は大いに怖れて成す術がなく、皆で謀って王の妻を殺し、罪を贖った。 -
天皇は
筑紫 の訶志比宮 にて、熊曽国を討とうとする時、天皇は御琴を弾き、建内宿禰大臣が沙庭 で神託を請うた。
すると大后に神懸かり、教えて言うには「西方に国がある。金銀をはじめ、目の眩むような様々な珍宝がその国には多くある。私が今その国を帰順させて賜ろう」と。
天皇は答えて「高地に登って西方を見ても国は見えず、ただ大海があるのみです」と言い、詐りを言う神だと思って、御琴をどけて弾くのをやめて黙っていた。
するとその神が大いに怒って言うには「凡そこの天下は、お前の治める国ではない。お前はただ一つの道に行きなさい」と。
そこで建内宿禰大臣が「恐れ多いことで御座います。やはりその大御琴をお弾きなさいませ」と言ったので、そろそろと御琴を取り、しぶしぶ弾いた。
それほど時が経たないうちに御琴の音が聞こえなくなった。すぐに火を点して見てみると、すでに崩じていた。それで驚き恐れて、殯宮に遺体を移すと、国中の
【古事記 中巻 仲哀天皇段】大幣 を集めて、生剥 ・逆剥 ・阿離 ・溝埋 ・屎戸 ・上通下通婚 ・馬婚 ・牛婚 ・鶏婚 ・犬婚 などの罪の類を様々求めて、国をあげて大祓 を行った。
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仲哀天皇9年2月5日
急に病気になる。
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇九年二月丁未条】 -
仲哀天皇9年2月6日
崩じる。
時に年五十二。即ち知った。神の言を用いなかったため、早く崩じたことを。
あるいは天皇自ら熊襲 を征伐中に、賊の矢が当たって崩じたという。皇后と大臣武内宿禰は天皇の喪を隠し、天下に知らせなかった。
【日本書紀 巻第八 仲哀天皇九年二月丁未明日条】
そして皇后は、武内宿禰及び中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連に詔して「いま天下は天皇の崩御を知らない。もし百姓が知れば怠る者が現れるか」と。
そして、四大夫に命じて百寮を率いて宮中を守らせた。
密かに天皇の遺骸を収め、武内宿禰に任せて海路から穴門 に移した。
そして豊浦宮 で灯火を焚かずに仮葬した。-
御年五十二歳。
【古事記 中巻 仲哀天皇段】
壬戌年六月十一日に崩じた。
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仲哀天皇9年2月22日
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仲哀天皇9年12月14日
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神功皇后摂政2年11月8日
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政二年十一月甲午条】河内国 の長野陵 に葬られる。-
御陵は
【古事記 中巻 仲哀天皇段】河内恵賀之長江 にある。
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