仲哀天皇

名前
  • 漢風諡号:仲哀天皇(ちゅうあいてんのう, ちうあいてんわう)
  • 和風諡号:足仲彥天皇【日本書紀】(たらしなかつ)足仲彦天皇
  • 足仲彥尊【日本書紀】(たらしなかつ)足仲彦尊
  • 帶中津日子命【古事記】(たらしなかつ)帯中津日子命
  • 帶中日子天皇【古事記】(たらしなかつ)帯中日子天皇
  • 帶仲彥天皇【新撰姓氏録抄】(たらしなかつ)帯仲彦天皇
  • 足仲彥王尊【先代旧事本紀】(たらしなかつ)足仲彦王尊
生年月日
成務天皇18年
没年月日
仲哀天皇9年2月6日
先祖
  1. 日本武尊
    1. 景行天皇
      1. 垂仁天皇
      2. 日葉酢媛命
    2. 播磨稲日大郎姫
      1. 若建吉備津日子
      2. unknown
  2. 両道入姫命
    1. 垂仁天皇
      1. 崇神天皇
      2. 御間城姫
    2. 弟苅羽田刀弁
      1. 山背大国不遅
配偶者
  • 皇后:神功皇后じんぐうこうごう【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年正月甲子条】
  • 妃:大中姫おおなかつひめ【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年正月甲子条】
  • 弟媛おとひめ【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年正月甲子条】
  • 皇子:麛坂皇子かごさかのみこ【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年正月甲子条】【母:大中姫おおなかつひめ
  • 皇子:忍熊皇子おしくまのみこ【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年正月甲子条】【母:大中姫おおなかつひめ
  • 皇子:誉屋別皇子ほんやわけのみこ【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年正月甲子条】【母:弟媛おとひめ
  • 皇子第四子:誉田別尊ほんたわけのみこと応神天皇おうじんてんのう【日本書紀 巻第十 応神天皇即位前紀】【母:神功皇后じんぐうこうごう
  • 忍稚命おしわかのみこと【新撰姓氏録抄 第一帙 第六巻 山城国皇別 布施公条】【母:不明】
出来事
  • 成務天皇18年立太子記事の年齢から逆算。崩御記事の年齢から逆算すると成務天皇17年になる。これは成務天皇崩御後に一年空位があったことが関係するか。どちらにせよ、景行御世に薨じた父の日本武尊とは年代が合わない。【日本書紀 巻第八 仲哀天皇即位前紀 成務天皇四十八年条】

    日本武尊の第二子として生まれる。母は両道入姫命

    容姿端正で、身長は十尺あった。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇即位前紀】
  • 成務天皇48年3月1日【日本書紀 巻第七 成務天皇四十八年三月庚辰朔条】

    立太子。
    時に年三十一。

    稚足彦天皇成務天皇には男子がいなかった。それで立てて日嗣とした。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇即位前紀 成務天皇四十八年条】
  • 成務天皇60年6月11日成務記では乙卯年三月十五日。

    成務天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第七 成務天皇六十年六月己卯条】
  • 辛未年9月6日

    成務天皇倭国(やまとのくに)狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇即位前紀 成務天皇六十年明年九月丁酉条】
  • 仲哀天皇元年1月11日

    即位して天皇となる。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇元年正月庚子条】
    • 仲哀天皇元年1月11日

      即位して天皇となる。
      母皇后原文ママ。日本武尊の妃の両道入姫命。を尊んで皇太后とする。
      皇太后先の皇太后は八坂入媛命(成務天皇の母)だが、ここでは播磨稲日大郎姫(日本武尊の母)を指すと判断した。を尊んで太皇太后を追贈する。

      【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 仲哀天皇元年正月庚子条】
  • 仲哀天皇元年9月1日

    母皇后原文ママ。日本武尊の妃の両道入姫命。を尊んで皇太后とする。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇元年九月丙戌朔条】
  • 仲哀天皇元年11月1日

    群臣に詔して「朕が弱冠二十歳。に届く前に、父王は既にお隠れあそばされた原文『崩』。そして神霊は白鳥となられ、天にお上りあそばされた。お偲び奉る心は一日も休むことはない。そこで白鳥を獲て、陵の周囲の池に飼い、その鳥を見ながら気持ちを慰めたいと思う」と。
    そして諸国に令して白鳥を献上させた。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇元年十一月乙酉朔条】
  • 仲哀天皇元年閏11月4日

    越国(こしのくに)から白鳥四羽を献上する為に、鳥を送る使者は菟道河(うじがわ)のほとりに宿った。
    時に蘆髪蒲見別王はその白鳥を見て「どこに持っていく白鳥か」と尋ねた。
    越の人は「天皇が父王を恋しく思われて、飼いならそうとしていますので献上するのです」と答えた。
    蒲見別王は越の人に「白鳥といえども、焼けば黒鳥になる」と言った。そして強引に白鳥を奪って持ち去った。
    越の人は参上して報告した。
    天皇は蒲見別王の先王への無礼を憎み、兵を遣わして殺した。
    蒲見別王は天皇の異母弟である。
    時の人は「父はこれ天である。兄はまた君である。その天を侮り君に違えば、どうして罪を免れようか」と言った。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇元年閏十一月戊午条】
  • 仲哀天皇2年1月11日

    気長足姫尊神功皇后を立てて皇后とする。

    これより先、叔父の彦人大兄の女の大中姫を妃とし、生まれたのは
    麛坂皇子
    忍熊皇子

    次に来熊田造(くくまたのみやつこ)の祖大酒主の女の弟媛を娶り、生まれたのは
    誉屋別皇子

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年正月甲子条】
  • 淡道(あわじ)屯家(みやけ)を定める。

    【古事記 中巻 仲哀天皇段】
  • 仲哀天皇2年2月6日

    角鹿(つのが)に行幸して、行宮(かりのみや)を建てて住んだ。これを笥飯宮(けひのみや)という。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年二月戊子条】
  • 仲哀天皇2年3月15日

    天皇は南国を巡幸した。
    皇后と百寮は留めて、駕に従う二三人の卿大夫と、官人数百人とで紀伊国に行き、徳勒津宮(ところつのみや)に住んだ。
    この時に熊襲(くまそ)が叛いて朝貢しなかった。
    天皇は熊襲国を討つために徳勒津を発って、船で穴門(あなと)に向った。
    その日に使いを角鹿に遣わして、皇后に「すぐにその津を出発して、穴門で会おう」と詔した。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年三月丁卯条】
  • 仲哀天皇2年6月10日

    豊浦津(とゆらのつ)に泊る。

    また皇后は角鹿(つのが)を出発して、渟田門(ぬたのみなと)に着き、船上で食事した。
    この時に多くの鯛が船の傍に多く集まり、皇后が酒を鯛にそそぐと、酔って浮いた。
    時に漁人はその魚を多く獲って「聖王の下さった魚だ」と喜んだ。
    そこの魚が六月になると、常に酔ったように口をパクパクさせるのは、これがもとである。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年六月庚寅条】
  • 仲哀天皇2年7月5日

    皇后は豊浦津(とゆらのつ)に泊った。
    この日、皇后は如意珠(にょいのたま)を海で拾った。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年七月乙卯条】
  • 仲哀天皇2年9月

    宮を穴門(あなと)に建てて住んだ。これを穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)という。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年九月条】
    • 穴門之豊浦宮(あなとのとゆらのみや)及び筑紫訶志比宮(つくしのかしひのみや)にて天下を治めた。

      日本書紀の仲哀天皇八年正月己亥条に、橿日宮(かしひのみや)に住むとある。
      【古事記 中巻 仲哀天皇段】
  • 仲哀天皇8年1月4日

    筑紫(つくし)に行幸する。

    時に岡県主(おかのあがたぬし)の祖の熊鰐は、天皇が来ると聞いて、予め五百枝(いおえ)賢木(さかき)を根こぎにして、九尋船(ここのひろのふね)の舳に立て、上枝には白銅鏡(ますみのかがみ)をかけ、中枝には十握剣(とつかのつるぎ)をかけ、下枝には八尺瓊(やさかに)をかけた。
    そして周芳(すわ)沙麼(さば)の浦に迎えて、魚塩(なしお)の地御料の魚や塩をとる区域。を献上して言うには「穴門(あなと)から向津野大済(むかつののおおわたり)に至るまでを東門とし、名籠屋大済(なごやのおおわたり)までを西門とし、限没利島(もとりしま)阿閉島(あへのしま)を限って御筥(みはこ)とし、柴島(しばしま)を割いて御甂(みなべ)鍋のこと。御甂。此云彌那陪。とし、逆見(さかみ)の海を塩地とします」と。そして海路を導いた。

    山鹿岬(やまかのさき)から廻って岡浦(おかのうら)に入った。
    水門(みなと)に着くと御船は進まなくなった。
    そこで熊鰐に「聞くところによると、お前は清い心で参ったのに、なぜ船は進まないのか」と問うた。
    熊鰐が言うには「御船が進まないのは私の罪では御座いません。この浦のほとりに男女の二神がおります。男神を大倉主といいます。女神を菟夫羅媛といいます。きっとこの神の御心でしょう」と。
    天皇は祈祷して、舵取りの倭国(やまとのくに)菟田(うだ)の人、伊賀彦(はふり)として祭らせた。すると船は進んだ。

    皇后は別の船で洞海(くきのうみ)洞。此云久岐。から入ったが、潮が引いて進めなかった。
    時に熊鰐はまた返って洞海から皇后を迎えた。
    そして進まない御船を見て恐れ畏まり、すぐに魚沼(うおいけ)鳥池(とりいけ)を造って、魚や鳥を集めた。
    皇后は魚や鳥を見ると怒りの心もようやく解け、潮が満ちると岡津(おかのつ)に泊まった。

    また筑紫の伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖である五十迹手は、天皇がやってくると聞いて、五百枝(いおえ)賢木(さかき)を根こぎにして、船の舳艫に立て、上枝には八尺瓊(やさかに)をかけ、中枝には白銅鏡(ますみのかがみ)をかけ、下枝には十握剣(とつかのつるぎ)をかけて、穴門(あなと)引島(ひこしま)に迎えて言うには「私が敢えて献上致します物は、天皇が、八尺瓊が(まが)るように、霊妙に天下をお治め頂き、また白銅鏡のように、明かに山川や海原をご覧頂き、十握剣を引きさげて天下を御平定して頂きたいということです」と。
    天皇は五十迹手を褒めて「伊蘇志(いそし)勤。ご苦労の意。」と言った。
    それで時の人は五十迹手の本国を名付けて伊蘇国(いそのくに)という。今に伊覩(いと)というのは訛ったものである。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇八年正月壬午条】
  • 仲哀天皇8年1月21日

    儺県(なのあがた)に至り、橿日宮(かしひのみや)に住む。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇八年正月己亥条】
  • 仲哀天皇8年9月5日

    群臣に詔して熊襲(くまそ)討伐を議った。
    時に神が皇后に神憑り、教えて言うには「天皇はなぜ熊襲が服従しないことを憂えておいでか。そこは荒れ痩せた国である。挙兵するに足らない。この国に勝って、宝のある国、譬えば美女の眉のように海上に見える国がある。眩い金・銀・彩色などが沢山その国にはある。これを栲衾新羅国(たくふすましらきのくに)栲衾は白い布で新羅の枕詞。という。もしよく私を祭れば、刃に血塗らずして、その国は必ず自ずから服従し、また熊襲も服従するであろう。その祭りをするには天皇の御船と穴門直践立が献上した大田(おおた)という名の水田。これらの物をお供えしなさい」と。
    天皇は神の言葉を聞いたが、疑いの心を持った。
    そこで高い岳に登って、遥に大海を望んだが国は見えなかった。
    天皇が神に答えて言うには「周囲を眺めても海のみで国はありません。大空にでも国があるのでしょうか。どの神が徒に朕を欺くのでしょうか。また我が皇祖の諸天皇たちは神祇を尽く祭っておられます。どうして残っている神がおられましょうか」と。
    時に神がまた皇后に神憑って言うには「水に映る影のように、鮮明に私が見ている国を、なぜ国が無いと言って、私の言をそしるのか。お前がそのように言って信じないのであれば、お前はその国を得ることは出来ない。ただし皇后は今はじめて身ごもっておられる。その御子が得られるであろう」と。
    しかし天皇は猶も信じずに熊襲を攻撃したが、勝ちを得ることなく帰還した。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇八年九月己卯条】
    • 足仲彦天皇が筑紫(つくし)橿日宮(かしひのみや)に居たときに、神が沙麼県主(さばのあがたぬし)の祖の内避高国避高松屋種に神懸かり、天皇に教えて言うには「御孫尊(みまのみこと)がもし宝の国を得たいと思われるなら、実際に授けましょう」と。
      また、「琴を持ってきて皇后に進上されますように」と言った。
      そこで神の言に従って皇后が琴をひいた。
      すると神が皇后に神憑り、教えて言うには「今、御孫尊が所望する国は、例えば鹿の角のように中身が無い国である。御孫尊がお乗りになる船と、穴戸直践立が奉った大田(おおた)という名の水田をお供えして、よく私を祭れば、美女の眉のように金銀が多く、眼の輝く国を御孫尊に授けましょう」と。
      天皇は神に答えて「神といえども何を欺かれるのでしょうか。何処に国がありましょうか。また朕の乗る船を神に奉り、朕はどの船に乗るのでしょうか。それにまだどの神ということも知りません。どうかその御名をお知らせ下さい」と。
      神がその名を名乗って言うには「表筒雄中筒雄底筒雄」と。
      このように三神の名を名乗り、また重ねて言うには「我が名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊である」と。
      時に天皇は皇后に「聞きにくい事を言われる婦人だ。どうして速狭騰というのだ」と言った。
      すると神が天皇に言うには「あなた様が信じないのであれば、その国を得ることは出来ません。ただし今、皇后が妊んでいる子が得ることになるでしょう」と。

      この夜に天皇は急病を発して崩じた。

      その後、皇后は神の教えのままに祭った。

      皇后は男装して新羅を征した。神は側で導いた。これにより船を乗せた浪は、遠く新羅国の中にまで及んだ。
      新羅王宇流助富利智干は参上して跪き、王船を見つけて、叩頭して言うには「私は今後、日本国にお出での神の御子に、内官家(うちつみやけ)として、絶えることなく朝貢いたします」と。

      【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年十二月辛亥条 一云 第一】
    • 新羅王を虜にして海辺に行き、王の膝の骨を抜いて石の上に腹這わせた。
      しばらくすると斬って砂の中に埋めた。
      一人を留め、新羅の(みこともち)として置き、帰還した。
      その後、新羅王の妻は、夫の屍を埋めた地を知らないので、宰を誘惑して「お前が王の屍を埋めた所を教えれば、必ず篤く報いる。また私はお前の妻となろう」と言った。
      宰は誘惑を信じて、密かに屍を埋めた所を教えた。しかし王の妻と国人は共に図って宰を殺した。
      そして王の屍を出して別の所に葬った。
      宰の屍は、王の墓の土の底に埋め、王の棺をその上に降ろして「尊卑の順はこのようなのだ」と言った。
      天皇はこれを聞いて怒りに震え、大軍を起こして新羅を滅ぼそうとした。
      軍船は海に満ちた。この時、新羅の国人は大いに怖れて成す術がなく、皆で謀って王の妻を殺し、罪を贖った。

      ここでは新羅降伏時に天皇が出てくる。仲哀天皇を指すか。
      【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年十二月辛亥条 一云 第二】
    • 天皇は筑紫(つくし)訶志比宮(かしひのみや)にて、熊曽国を討とうとする時、天皇は御琴を弾き、建内宿禰大臣沙庭(さにわ)神託を受けるために忌み清めた祭場で神託を請うた。
      すると大后に神懸かり、教えて言うには「西方に国がある。金銀をはじめ、目の眩むような様々な珍宝がその国には多くある。私が今その国を帰順させて賜ろう」と。
      天皇は答えて「高地に登って西方を見ても国は見えず、ただ大海があるのみです」と言い、詐りを言う神だと思って、御琴をどけて弾くのをやめて黙っていた。
      するとその神が大いに怒って言うには「凡そこの天下は、お前の治める国ではない。お前はただ一つの道に行きなさい」と。
      そこで建内宿禰大臣が「恐れ多いことで御座います。やはりその大御琴をお弾きなさいませ」と言ったので、そろそろと御琴を取り、しぶしぶ弾いた。
      それほど時が経たないうちに御琴の音が聞こえなくなった。すぐに火を点して見てみると、すでに崩じていた。

      それで驚き恐れて、殯宮に遺体を移すと、国中の大幣(おおぬさ)を集めて、生剥(いけはぎ)逆剥(さかはぎ)阿離(あはなち)溝埋(みぞうめ)屎戸(くそへ)上通下通婚(おやこたわけ)馬婚(うまたわけ)牛婚(うしたわけ)鶏婚(とりたわけ)犬婚(いぬたわけ)などの罪の類を様々求めて、国をあげて大祓(おおはらえ)を行った。

      【古事記 中巻 仲哀天皇段】
  • 仲哀天皇9年2月5日

    急に病気になる。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇九年二月丁未条】
  • 仲哀天皇9年2月6日

    崩じる。
    時に年五十二。

    即ち知った。神の言を用いなかったため、早く崩じたことを。
    あるいは天皇自ら熊襲(くまそ)を征伐中に、賊の矢が当たって崩じたという。

    皇后と大臣武内宿禰は天皇の喪を隠し、天下に知らせなかった。
    そして皇后は、武内宿禰及び中臣烏賊津連大三輪大友主君物部胆咋連大伴武以連に詔して「いま天下は天皇の崩御を知らない。もし百姓が知れば怠る者が現れるか」と。
    そして、四大夫に命じて百寮を率いて宮中を守らせた。
    密かに天皇の遺骸を収め、武内宿禰に任せて海路から穴門(あなと)に移した。
    そして豊浦宮(とゆらのみや)で灯火を焚かずに仮葬した。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇九年二月丁未明日条】
    • 御年五十二歳。
      壬戌年六月十一日に崩じた。

      【古事記 中巻 仲哀天皇段】
  • 仲哀天皇9年2月22日

    大臣武内宿禰穴門(あなと)から帰還して、皇后に復命する。

    【日本書紀 巻第八 仲哀天皇九年二月甲子条】
  • 仲哀天皇9年12月14日

    新羅征伐から帰還した神功皇后筑紫(つくし)応神天皇を産む。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年十二月辛亥条】
  • 神功皇后摂政2年11月8日

    河内国(かわちのくに)長野陵(ながののみささぎ)に葬られる。

    【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政二年十一月甲午条】
    • 御陵は河内恵賀之長江(かわちのえがのながえ)にある。

      【古事記 中巻 仲哀天皇段】
関連
  • 五世孫:倭彦王やまとひこのおおきみ【日本書紀 巻第十七 継体天皇即位前紀 武烈天皇八年十二月壬子条】