名前
  • 漢風諡号:垂仁天皇(すいにんてんのう, すいにんてんわう)
  • 和風諡号:活目入彥五十狹茅天皇【日本書紀】(いくいりいさち)活目入彦五十狭茅天皇
  • 活目入彥五十狹弟天皇校異【日本書紀】活目入彦五十狭弟天皇
  • 活目尊【日本書紀】(いく
  • 活目天皇【日本書紀】(いく
  • 伊久米天皇【古事記】(いく
  • 伊玖米天皇【古事記】(いく
  • 伊玖米入日子伊沙知命【古事記】(いくいりいさち
  • 伊久米伊理毘古伊佐知命【古事記】(いくいりいさち
  • 纒向玉城宮御宇天皇【日本書紀】(まむくたまやにあしたしししす)纒向玉城宮御宇天皇
  • 纒向天皇【先代旧事本紀】(まむく
  • 纒向珠城宮御宇天皇【先代旧事本紀】(まむくたまやにあしたしししす)纒向珠城宮御宇天皇
  • 活目入彥五十狹茅尊【先代旧事本紀】(いくいりいさち)活目入彦五十狭茅尊
  • 活目入彥天皇【先代旧事本紀】(いくいり)活目入彦天皇
  • 伊久牟尼利比古大王【釈日本紀】(いくむにりひこのおおきみ)
生年月日
崇神天皇29年1月1日
没年月日
垂仁天皇99年7月14日
  • 崇神天皇すじんてんのう【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年二月丙寅条】
  • 御間城姫みまきひめ【日本書紀 巻第五 崇神天皇元年二月丙寅条】
先祖
  1. 崇神天皇
    1. 開化天皇
      1. 孝元天皇
      2. 鬱色謎命
    2. 伊香色謎命
      1. 大綜麻杵
      2. 高屋阿波良姫
  2. 御間城姫
    1. 大彦命
      1. 孝元天皇
      2. 鬱色謎命
    2. unknown
配偶者
  • 皇后:狭穂姫さほひめ【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二年二月己卯条】
  • 皇后狭穂姫の後。:日葉酢媛命ひばすひめのみこと【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年二月甲子条】
  • 妃:渟葉田瓊入媛ぬばたにいりひめ【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年二月甲子条】
  • 妃:真砥野媛まとのひめ【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年二月甲子条】
  • 妃:薊瓊入媛あざみにいりひめ【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年二月甲子条】
  • 迦具夜比売命かぐやひめのみこと【古事記 中巻 垂仁天皇段】
  • 綺戸辺かにはたとべ【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十四年三月丙寅条】
  • 山背苅幡戸辺やましろのかりはたとべ【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十四年三月丙寅条】
  • 弟比売命おとひめのみこと【古事記 中巻 垂仁天皇段】
  • 第一皇子:誉津別命ほんつわけのみこと【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二年二月己卯条】【母:狭穂姫さほひめ
  • 第二皇子:五十瓊敷入彦命いにしきいりひこのみこと【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年八月壬午朔条】【母:日葉酢媛命ひばすひめのみこと
  • 第三皇子:大足彦尊おおたらしひこのみこと景行天皇けいこうてんのう【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年八月壬午朔条】【母:日葉酢媛命ひばすひめのみこと
  • 皇女:大中姫命おおなかつひめのみこと男女の違いがあるが、大中津日子命と同一人物と思われる。【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年八月壬午朔条】【母:日葉酢媛命ひばすひめのみこと
    • 皇子:大中津日子命おおなかつひこのみこと男女の違いがあるが、大中姫命と同一人物と思われる。【古事記 中巻 垂仁天皇段】【母:氷羽州比売命ひばすひめのみこと
  • 皇女:倭姫命やまとひめのみこと【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年八月壬午朔条】【母:日葉酢媛命ひばすひめのみこと
  • 皇子:稚城瓊入彦命わかきにいりひこのみこと【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年八月壬午朔条】【母:日葉酢媛命ひばすひめのみこと
  • 皇子:鐸石別命ぬてしわけのみこと【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年八月壬午朔条】【母:渟葉田瓊入媛ぬばたにいりひめ
  • 皇女:胆香足姫命いかたらしひめのみこと男女の違いがあるが、伊賀帯日子命と同一人物と思われる。【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年八月壬午朔条】【母:渟葉田瓊入媛ぬばたにいりひめ
    • 皇子:伊賀帯日子命いがたらしひこのみこと男女の違いがあるが、胆香足姫命と同一人物と思われる。【古事記 中巻 垂仁天皇段】【母:沼羽田之入毘売命ぬばたのいりびめのみこと
  • 皇子:池速別命いけはやわけのみこと【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年八月壬午朔条】【母:薊瓊入媛あざみにいりひめ
  • 皇女:稚浅津姫命わかあさつひめのみこと【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年八月壬午朔条】【母:薊瓊入媛あざみにいりひめ
  • 皇子:五十速石別命いはやしわけのみこと【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 垂仁天皇十五年八月壬午朔条】【母:薊瓊入媛あざみにいりひめ
  • 皇子:袁邪弁王おざべのみこ【古事記 中巻 垂仁天皇段】【母:迦具夜比売命かぐやひめのみこと
  • 皇子:磐衝別命いわつくわけのみこと【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十四年三月丙寅条】【母:綺戸辺かにはたとべ
  • 皇子:祖別命おおじわけのみこと【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十四年三月丙寅条】【母:山背苅幡戸辺やましろのかりはたとべ
  • 皇子:五十日足彦命いかたらしひこのみこと【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十四年三月丙寅条】【母:山背苅幡戸辺やましろのかりはたとべ
  • 皇子:胆武別命いたけるわけのみこと【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十四年三月丙寅条】【母:山背苅幡戸辺やましろのかりはたとべ
  • 皇女:両道入姫命ふたじいりひめのみこと【日本書紀 巻第八 仲哀天皇即位前紀】【母:不明】
  • ・・・
    • 皇子:大入来命おおいりきのみこと【先代旧事本紀 巻第十 国造本紀 能等国造条】【母:不明】
子孫
  1. 誉津別命
  2. 五十瓊敷入彦命
  3. 景行天皇
    1. 櫛角別王
    2. 大碓皇子
      1. 押黒之兄日子王
      2. 押黒弟日子王
    3. 日本武尊
      1. 稲依別王
      2. 仲哀天皇
      3. 布忍入姫命
      4. 稚武王
      5. 武卵王
      6. 十城別王
      7. 稚武彦王
      8. 蘆髪蒲見別王
      9. 息長田別王
      10. 稲入別命
      11. 武養蚕命
      12. 五十目彦王命
      13. 伊賀彦王
      14. 武田王
      15. 佐伯命
    4. 成務天皇
      1. 和訶奴気王
    5. 五百城入彦皇子
      1. 品陀真若王
    6. 忍之別皇子
    7. 稚倭根子皇子
    8. 大酢別皇子
    9. 渟熨斗皇女
    10. 渟名城皇女
    11. 五百城入姫皇女
    12. 麛依姫皇女
    13. 五十狭城入彦皇子
    14. 吉備兄彦皇子
    15. 高城入姫皇女
    16. 弟姫皇女
    17. 五百野皇女
    18. 神櫛皇子
    19. 稲背入彦皇子
      1. 御諸別命
    20. 武国凝別皇子
    21. 日向襲津彦皇子
    22. 国乳別皇子
    23. 国凝別皇子
    24. 国背別皇子
    25. 豊戸別皇子
    26. 豊国別皇子
    27. 若木之入日子王
    28. 真若王
    29. 日子人之大兄王
      1. 大名方王
      2. 大中姫
    30. 銀王
      1. 大名方王
      2. 大中姫
    31. 五十功彦命
    32. 豊門入彦命
    33. 稚屋彦命
    34. 武国皇別命
    35. 天帯根命
    36. 大曽色別命
    37. 五十河彦命
    38. 石社別命
    39. 大稲背別命
    40. 不知来入彦命
    41. 曽能目別命
    42. 十市入彦命
    43. 襲小橋別命
    44. 色己焦別命
    45. 熊津彦命
    46. 息長彦人大兄磯城命
    47. 熊忍津彦命
    48. 武弟別命
    49. 草木命
    50. 兄彦命
    51. 手事別命
    52. 大我門別命
    53. 豊日別命
    54. 三川宿禰命
    55. 豊手別命
    56. 倭宿禰命
    57. 豊津彦命
    58. 五百木根命
    59. 弟別命
    60. 大焦別命
  4. 大中姫命
  5. 倭姫命
  6. 稚城瓊入彦命
  7. 鐸石別命
  8. 胆香足姫命
  9. 池速別命
  10. 稚浅津姫命
  11. 五十速石別命
  12. 袁邪弁王
  13. 磐衝別命
    1. 磐城別
      1. 伊波己里和気
  14. 祖別命
  15. 五十日足彦命
  16. 胆武別命
  17. 両道入姫命
    1. 稲依別王
    2. 仲哀天皇
      1. 麛坂皇子
      2. 忍熊皇子
      3. 誉屋別皇子
      4. 応神天皇
      5. 忍稚命
    3. 布忍入姫命
    4. 稚武王
称号・栄典とても広〜い意味です。
出来事
  • 崇神天皇29年1月1日

    崇神天皇の第三子として瑞籬宮(みつかきのみや)にて誕生。母は御間城姫

    生まれながらに堂々たる姿で、壮年になっては度量が大きかった。
    人となりが正直で、偽ることが無く、天皇に愛されて常に側に置かれた。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇即位前紀】
  • 崇神天皇48年1月10日

    崇神天皇豊城命・活目尊に勅して「お前達二人の子は、共に等しく愛しい。後継ぎはどちらが良いか分からないので、それぞれ見た夢で占おう」と。
    二皇子は命を承り、浄沐して祈って寝て、各々夢を見た。
    夜明けに兄の豊城命は夢の内容を天皇に報告して「御諸山(みもろやま)に登って東に向い、八度槍を突き出し、八度刀を振りました」と。
    弟の活目尊も夢の内容を報告して「御諸山(みもろやま)の嶺に登って、縄を四方に引き渡し、粟を食む雀を追い払いました」と。
    天皇は夢占いをして二子に言言うには「兄はもっぱら東を向いたので、東国を治めよ。弟は四方を臨んだので、我が位を継ぐがいい」と。

    【日本書紀 巻第五 崇神天皇四十八年正月戊子条】
  • 崇神天皇48年4月19日

    立太子。

    垂仁天皇即位前紀では24歳とあるが、生誕の記事を参考にすると20歳になる。
    【日本書紀 巻第五 崇神天皇四十八年四月丙寅条】
  • (崇神天皇60年7月14日 ~ )

    丹波(たにわ)氷上(ひかみ)の人、名は氷香戸辺が皇太子活目尊に言うには「私の小さな子が『玉のような()の中に沈む石。出雲の人が祭る本物の立派な鏡。力を振るう立派な御神。底の宝。宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かる立派な御神。底の宝。宝の主』と歌っています。これは子供が口にするような言葉ではありません。あるいは神がついて言うのでしょうか」と。
    そこで皇太子は天皇に奏上した。

    【日本書紀 巻第五 崇神天皇六十年七月己酉条】
  • 崇神天皇68年12月5日崇神記では戊寅年十二月。

    崇神天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第五 崇神天皇六十八年十二月壬子条】
  • 垂仁天皇元年1月2日

    即位して天皇となる。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇元年正月戊寅条】
  • 垂仁天皇元年10月11日崇神紀では垂仁天皇元年8月11日となっている。

    御間城天皇崇神天皇山辺道上陵(やまのへのみちのえのみささぎ)に葬る。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇元年十月癸丑条】
  • 垂仁天皇元年11月2日

    皇后先の皇后御間城姫。を尊んで皇太后とする。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇元年十一月癸酉条】
    • 垂仁天皇元年1月2日即位日。

      皇后先の皇后御間城入姬。を尊んで皇太后とする。
      皇太后先の皇太后伊香色謎命。尊んで太皇太后とする同天孫本紀では追贈太皇太后。天孫本紀の方が自然。

      【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 垂仁天皇元年正月戊寅条】
  • 垂仁天皇2年2月9日

    狭穂姫を立てて皇后とする。
    后は誉津別命を生んだ。
    天皇はこの子を愛し、常に側においた。しかし大きくなっても言葉を発することが無かった。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二年二月己卯条】
  • 垂仁天皇2年10月

    さらに纒向(まきむく)に都を造る。これを珠城宮(たまきのみや)という。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二年十月条】
    • 師木玉垣宮(しきのたまがきのみや)にて天下を治めた。

      【古事記 中巻 垂仁天皇段】
  • 垂仁天皇2年

    任那(みまな)人の蘇那曷叱智が帰国を申し出た。
    それで蘇那曷叱智を厚くもてなし、赤絹百匹を持たせて任那王に贈った。しかし新羅(しらぎ)人が道中を遮って奪った。その二国の怨みは、初めてこの時に起った。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二年是歳条】
    • 御間城天皇の御世に、額に角を持つ人が、一つの船に乗って(こし)国の笥飯浦(けひのうら)に停泊した。それでそこを名付けて角鹿(つのが)という。
      「何処の国の人か」と尋ねると、答えて「意富加羅国(おおからのくに)王の子校異:王で、名は都怒我阿羅斯等。またの名を于斯岐阿利叱智于岐といいます。日本国(やまとのくに)に聖皇ありと伝え聞きやって参りました。穴門(あなと)に着いたときに、伊都都比古という人が私に『私はこの国の王である。私を除いて、また二王はいない。よって他の地には行くな』と言いました。しかし私はその人となりを見て、きっと王ではないと思い、出立しましたが、道を知らず、島浦を流浪しながら北海から廻って、出雲国を経てここに着きました」と。
      この時に天皇は崩御していた。そこで留まって活目天皇垂仁天皇に仕えて三年になった。
      天皇は都怒我阿羅斯等に「自分の国に帰りたいか」と尋ねた。答えて「それを望んでおります」と。
      天皇は阿羅斯等に詔して「お前が道に迷わず速やかに来ていれば、先皇にも会えたであろう。ここにお前の本国の名を改め、御間城天皇の御名をとって、お前の国の名にせよ」と。
      そして赤織の絹を阿羅斯等に賜り、本国に返した。その国を弥摩那国(みまなのくに)というのは、これがそのもとである。
      阿羅斯等は賜った赤絹を自国の郡府の蔵に納めたが、新羅(しらぎ)人がこれを聞いて兵を起し、その赤絹を全て奪った。
      これが二国の怨みの始まりである。

      【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二年是歳条 一云 第一】
    • 始め都怒我阿羅斯等が国にいた時、黄牛(あめうし)に農具を負わせて田舎に行った。
      ところが黄牛は突然いなくなった。それで足跡を追っていくと、ある群家の中に留まっていた。
      そこにいた老夫が言うには「あなたの求める牛は、この郡家の中に入りました。しかし郡公達は『牛の負った物から推測すれば、きっと殺して食うつもりだろう。もし牛の主がいたら物で償おう』と言うと、殺して食べました。もし『牛の代価は何がいいか』と問われましたら、財物は望まずに『郡内の祭神が欲しい』と言いなさい」と。
      しばらくして郡公達がやってきて、「牛の代価は何がいいか」と問われたので、老父の教えの通りにした。
      その祭神は白い石だった。それで白い石を牛の代わりとした。それを持ち帰って寝屋の中に置くと、その神石は美しい娘となった。
      阿羅斯等は大いに喜び、交わろうとした。しかし阿羅斯等が少しのあいだ離れた隙に、娘は突然消えた。
      阿羅斯等は大いに驚き、「娘よ、どこに消えたのだ」と言うと、「東の方に行きました」と答えた。
      それで追い求めて遠い海を越えて日本国に入った。
      追い求めた娘は難波(なにわ)比売語曽社(ひめごそのやしろ)の神となった。または豊国(とよくに)国前郡(くにさきのこおり)で比売語曽社の神となった。そして二ヶ所に祭られたという。

      【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二年是歳条 一云 第二】
  • 垂仁天皇3年3月

    新羅の王子天日槍がやって来た。
    持って来た物は羽太玉(はふとのたま)一つ・足高玉(あしたかのたま)一つ・鵜鹿鹿赤石玉(うかかのあかしのたま)一つ・出石小刀(いずしのかたな)一つ・出石桙(いずしのほこ)一つ・日鏡(ひのかがみ)一つ・熊神籬(くまのひもろき)一つ、合わせて七点だった。
    即ち但馬国に蔵めて、常に神物とした。

    この直後に一云があるが、八十八年七月戊午条の後に置いた。
    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三年三月条】
    • 新羅の王子海桧槍がやって来た。今は但馬国の出石郡(いずしのこおり)に在り、大きな社となっている。

      【古語拾遺 垂仁天皇段】
  • 垂仁天皇4年9月23日

    皇后の同母兄の狭穂彦王が謀反を企てて国を傾けようとした。
    それで皇后が寛いでいるときに語って言うには「お前は兄と夫と何れが愛おしいか」と。
    皇后は尋ねられた意味が分からずに「兄が愛おしいです」と答えた。
    即ち皇后に誂えて言うには「容色を以って人に仕えれば、容色が衰えると寵愛は終わる。今天下に佳人は多く、各々が進んで寵愛を求めている。どうして容色だけに恃むことが出来ようか。もし私が皇位につけば、必ずお前と天下を臨むことができる。枕を高くして永く寿命を全うすることは快いではないか。どうか私の為に天皇を殺してくれ」と。
    そして匕首を取り、皇后に授けて言うには「この匕首を衣の中に忍ばせて、天皇が眠っているときに頸を刺して殺せ」と。
    皇后は心の中で戦慄き、なすべき方法を知らなかった。しかし兄の志を思うと、たやすく諫めることができなかった。
    それでその匕首を受けて、独り隠すことも出来ずに衣の中につけた。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇四年九月戊申条】
    • 天皇が沙本毘売を后とする時、沙本毘売命の兄の沙本毘古王がその妹に「夫と兄のどちらが愛おしいか」と尋ねると、「兄が愛おしいです」と答えた。
      そこで沙本毘古王は謀って「お前が私を愛おしく思うのであれば、私とお前とで天下を治めよう」と言うと、繰り返し鍛えた八塩折之紐小刀(ひもがたな)を作り、その妹に授けて「この小刀で天皇が寝ている間に刺し殺しなさい」と言った。

      【古事記 中巻 垂仁天皇段】
  • 垂仁天皇5年10月1日

    天皇は来目(くめ)高宮(たかみや)にいた。
    時に天皇は皇后の膝を枕にして昼寝をした。
    皇后は事を成し遂げることはなく、「兄王の謀を実行するのは今なのに」と空しく思った。そして眼から涙が流れて帝の顔に落ちた。
    天皇が目を覚まして皇后に語って言うには「朕は今日夢を見た。錦色の小蛇が我が頸に巻きついた。また大雨が狭穂から降ってきて顔を濡らすのは、何の前兆だろうか」と。
    皇后は謀を隠すことが出来ないことを知り、恐れて地に伏すと詳らかに兄王の謀を述べて「私は兄王の志に違うことも出来ず、また天皇の御恩に背くことも出来ません。訴え出れば兄王は亡び、言わなければ国を傾けます。それで恐れと悲しみで仰ぎ咽び、窮して血涙を流しました。日夜胸につかえて訴えることが出来ません。ただ今日、天皇が私の膝を枕にしてお休みになりました。もし狂った女がいて、兄の志を成すのであれば、今この時に労せず功を成したでしょう。この心が定まらないまま眼から涙が流れ、袖を挙げて涙を拭いても、袖から溢れてしまって帝のお顔を濡らしてしまいました。今日の夢はこの事の答えでしょう。錦色の小蛇は私が授かった匕首。大雨が降ったのは私の涙です」と。
    天皇は皇后に「お前に罪は無い」と言った。
    そして身近にいる兵を遣わして上毛野君(かみつけののきみ)の遠祖の八綱田に命じ、狭穂彦を討たせた。
    時に狭穂彦は軍を起して防いだ。急いで稲を積んで城を造った。城は堅くて破れなかった。これを稲城(いなき)という。月が替わっても降伏しなかった。
    皇后が悲しんで言うには「皇后といえども、兄王を失えば何の面目で天下に臨めましょうか」と。そして王子誉津別命を抱いて兄王の稲城に入った。
    天皇は更に軍勢を増やして城を囲み、城の中に詔して「速やかに皇后と皇子を出せ」と言った。しかし出てはこなかった。
    将軍八綱田は火を放って城を焼くと、皇后は皇子を抱いて城の上を越えて出てきた。そして請うて言うには「私が兄の城に逃げたのは、私と子のために、兄の罪のお許しを頂けると思ったからで御座います。お許しは頂けないと知りました。罪は私に御座います。どうして自ら捕われましょうか。自ら命を断つのみで御座います。私が死んでも天皇の御恩を忘れることは御座いません。どうか私が司っていた後宮の事は、好い相手にお授け頂ければ幸いに存じます。丹波国に五人の女がおります。丹波道主王の娘で御座います(道主王稚日本根子太日日天皇開化天皇の孫。彦坐王の子である。あるいは彦湯産隅王の子であるという)。後宮の数に入れて頂きたく存じます」と。天皇はこれを許した。
    時に火は燃え上がり、城は崩れ、軍勢は悉く逃げた。
    狭穂彦と妹は、共に城の中で死んだ。

    天皇は将軍八綱田の功を誉め、その名を授けて倭日向武日向彦八綱田という。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇五年十月己卯朔条】
    • 天皇は謀を知らずに后の膝を枕にして寝ていた。
      そこでその后は紐小刀で天皇の頸を刺そうとして、三度も振り上げたが、哀情を忍ぶことが出来ず、頸を刺せずに涙が溢れて天皇の顔に落ちた。
      天皇は驚き起きて、后に言うには「私は変な夢を見た。沙本(さほ)の方から俄雨が降ってきて、急に私の顔を濡らした。また錦色の小蛇が私の頸に巻きついた。このような夢は何のしるしだろうか」と。
      后は諍わず、天皇に言うには「兄の沙本毘古王が私に『夫と兄のどちらが愛おしいか』と尋ねました。面と向かって尋ねるので、気後れしてしまった私は『兄が愛おしい』と答えたので御座います。すると私に『私とお前とで共に天下を治めよう。天皇を殺しなさい』と言って、繰り返し鍛えた紐小刀を作って私に授けました。それで御頸を刺すために三度も振り上げましたが、哀情が急に起きて刺すことが出来ず、涙が落ちてお顔を濡らしてしまったので御座います。しるしはきっとこれで御座いましょう」と。
      天皇は「私は危うく欺かれるところであった」と言った。

      軍を興して沙本毘古王を撃つ時、その王は稲城(いなき)を作り、待ち受けて戦った。
      沙本毘売命は兄を思うに堪えず、裏門から逃げ出て、その稲城の中に入った。このとき后は懐妊していた。
      天皇は后が懐妊していること、また寵愛すること三年になるので、堪えがたい思いをした。それでその軍勢で取り囲ませたが、急には攻めさせなかった。
      こうして戦いが停滞している間に御子が産まれた。
      それでその御子を出して稲城の外に置き、天皇に言うには「もしこの御子を天皇の御子と思し召すならば、お育て頂きたく存じます」と。
      天皇は「兄を恨んではいるが、后が愛おしくて忍びない」と言った。これは后を取り返す心があるためである。
      そこで軍の中から力が強く、敏捷な者を選び集めて言うには「御子を取り返す時に、その母王も奪い取りなさい。髪であろうと、手であろうと、取れるものはすべて掴んで引き出しなさい」と。
      后はその情を予知して、その髪を全て剃り、その髪で頭を覆い、玉緒を腐らせて三重に手に巻き、また酒で衣を腐らせて、それを完全な衣服のようにした。
      このように準備して、その御子を抱いて城外に出た。
      そこで力の強い者らがその御子を受け取ると、その母を捕えようとした。しかしその髪を握ると髪は落ち、その手を握ると玉緒が切れ、その衣を握ると衣は破けた。それでその御子は受け取ることが出来たが、その母は捕えることは出来なかった。
      兵士達は帰還して、「御髪は自然に落ち、御衣は容易く破れ、また御手に巻かれた玉緒も切れてしまい、それで御祖は捕えられずに、御子だけは取り返すことが出来ました」と報告した。
      天皇は悔い恨み、玉作りの人々を憎んで、その土地を全て奪った。それで諺に「地を得られない玉作り」というのである。
      また天皇は、その后に命じて言うには「およそ子の名は必ず母が名付ける。この子の御名は何と付けたら良いか」と。答えて「今、火が稲城を焼くときに火中で生まれました。だからその御名は本牟智和気御子と名付けます」と。また命じて言うには「どうのように養育したら良いか」と。答えて「乳母を取り、大湯坐(おおゆえ)若湯坐(わかゆえ)を定めて御養育して頂きたく存じます」と。それでその后の言葉に従って養育した。
      またその后に問うて「お前が結び固めたの美しい小紐は誰が解けば良いか」と。答えて「旦波比古多多須美智宇斯王の娘、名は兄比売弟比売。この二人の女王は清い民で御座います。これをお使い頂きたく存じます」と。
      遂にその沙本比古王を殺した。その妹もまた殉じた。

      【古事記 中巻 垂仁天皇段】
  • 垂仁天皇7年7月7日

    側の物が奏上して「当麻邑(たぎまのむら)に勇敢な人がいます。当麻蹶速といいます。その人は力が強く、角を折ったり、曲がった鉤を伸ばします。常に周囲に『四方に求めても、我が力に並ぶ物はあるだろうか。何とかして力の強い者に会い、生死を問わず力比べをしたい』と言っています」と。
    天皇はこれを聞くと、群卿に詔して「朕が聞く所によれば、当麻蹶速なる者は天下の力士という。これに並ぶ人はいないだろうか」と。
    一人の臣が進み出て言うには「私が聞く所によると、出雲国に勇士がいて、野見宿禰といいます。お召しになられて、この人を蹶速に当ててみましょう」と。
    その日の内に倭直(やまとのあたい)の祖の長尾市を遣わして野見宿禰を呼んだ。
    野見宿禰は出雲からやって来た。そして当麻蹶速野見宿禰捔力今の相撲。させた。
    二人は向い合って立つと、足を挙げて蹴り合った。野見宿禰当麻蹶速の脇骨を折り、また腰を折って殺した。
    それで当麻蹶速の地を奪って野見宿禰に賜った。これがその邑に腰折田(こしおれだ)がある由縁である。
    野見宿禰は留まって仕えた。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇七年七月乙亥条】
  • 垂仁天皇15年2月10日

    丹波(たにわ)の五人の娘を召して後宮に入れる。
    第一を日葉酢媛という。
    第二を渟葉田瓊入媛という。
    第三を真砥野媛という。
    第四を薊瓊入媛という。
    第五を竹野媛という。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年二月甲子条】
  • 垂仁天皇15年8月1日

    日葉酢媛命を立てて皇后とする。
    皇后の三人の妹渟葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛を妃とする。

    ただ竹野媛だけは姿形が醜いため国に返した。しかし返されることを恥じて、葛野(かずの)で輿から落ちて死んだ。それでその地を名付けて堕国(おちくに)という。今は訛って弟国(おとくに)という。

    皇后日葉酢媛命は三男二女を生んだ。
    第一を五十瓊敷入彦命という。
    第二を大足彦尊という。
    第三を大中姫命という。
    第四を倭姫命という。
    第五を稚城瓊入彦命という。

    渟葉田瓊入媛が生んだのは
    鐸石別命
    胆香足姫命

    次の妃薊瓊入媛が生んだのは
    池速別命
    稚浅津姫命

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇十五年八月壬午朔条】
  • 垂仁天皇23年8月4日

    大新河命大臣とする。
    十市根命五大夫の一人とする。
    共に宇摩志麻治命の裔孫である。

    【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 垂仁天皇二十三年八月己亥条】
  • 垂仁天皇23年8月22日

    大臣大新河命物部連公(もののべのむらじきみ)の姓を賜る。即ち大臣を改めて大連とする。

    【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 垂仁天皇二十三年八月丁巳条】
  • 垂仁天皇23年9月2日

    群卿に詔して「誉津別王は生まれて既に三十年。長いあご髭が伸びているのに赤子のように泣いている。言葉を発することもないのはなぜだ。皆で考えてくれ」と。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二十三年九月丁卯条】
  • 垂仁天皇23年10月8日

    天皇は大殿の前に立ち、誉津別皇子は側にいた。
    時に(くぐい)白鳥が大空を飛んだ。
    皇子は鵠を仰ぎ見て「あれは何者か」と言った。
    天皇は皇子が鵠を見て言葉を発したことを喜んだ。そして側の者に詔して「誰かあの鳥を捕えよ」と言った。
    鳥取造(ととりのみやつこ)の祖の天湯河板挙が「私が必ず捕えてご覧に入れましょう」と言った。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二十三年十月壬申条】
    • 尾張の相津(あいづ)にある二股の杉で二股の小舟を作って持ち運び、(やまと)市師池(いちしのいけ)軽池(かるのいけ)に浮かべて、その御子と一緒に遊んだ。
      この御子は(あごひげ)が胸元に届くようになっても物を言わなかったが、空高く飛ぶ(くぐい)の音を聞いて、はじめて物を言おうとした。
      そこで山辺之大鶙を遣わして、その鳥を捕まえさせた。
      この人はその鵠を追って木国(きのくに)から針間国(はりまのくに)に至り、また追って稲羽国(いなばのくに)を越え、旦波国(たにわのくに)多遅麻国(たじまのくに)に至り、東の方に追い廻って近淡海国(ちかつおうみのくに)に至り、三野国(みののくに)を越え、尾張国(おわりのくに)を伝って科野国(しなののくに)に追い、遂に高志国(こしのくに)に追い至り、和那美(わなみ)の水門に網を張り、その鳥を捕まえて献上した。それでその水門を名付けて和那美の水門という。
      またその鳥を見れば物を言うと思っていたが、物を言うことは無かった。

      それで天皇は落胆し、寝ていた時に夢を見て、「我が宮を天皇の御舎(みあらか)のように造れば、御子は必ず物を言うであろう」と教えられた。
      太占(ふとまに)で占って何れの神の御心かを求めると、出雲の大神の御心であることがわかった。
      それでその御子に大神の宮を参拝させるために遣わそうとする時に、誰を副えるかを占った。すると曙立王が占いに当たった。
      それで曙立王に命じて、誓約(うけい)を述べさせて「この大神を参拝することにより、誠に(しるし)があるのであれば、この鷺巣池(さぎすのいけ)の樹に住む鷺よ。誓約のままに落ちよ」と。誓約したその鷺は地に堕ちて死んだ。
      また「誓約によって生きよ」と述べると生き返った。
      また甜白檮之前(あまかしのさき)にある葉広熊白檮(はびろくまかし)を誓約によって枯らし、また誓約によって生き返らせた。
      そこでその曙立王に名を賜って倭者師木登美豊朝倉曙立王という。
      曙立王菟上王の二王を御子に副えて遣わす時に占って、「那良戸(ならど)を行くと、足や目の不自由な人に出会って不吉だろう。大坂戸(おおさかど)を行くと、これも足や目の不自由な人に出会って不吉だろう。ただ木戸(きど)は縁起が良い」と。到着する土地ごとに品遅部(ほんちべ)を定めた。
      出雲に至り、大神の参拝を終えて帰還する時、肥河(ひのかわ)の中に黒巣橋(くろぎのすばし)を作り、仮宮を造って御子を迎えた。
      出雲国造の祖、名は岐比佐都美が青葉が茂る山のように飾ってその河下に立てた。
      大御食を献上する時に御子が言うには「この河下の青葉の山のようなものは、山に見えるが山ではない。もしや出雲の石𥑎之曽宮(いわくまのそのみや)にいらっしゃる葦原色許男大神を斎く(はふり)の祭場ではないか」と。
      そこでお供に遣わされた王達は、聞いて喜び、見て喜んだ。
      御子は檳榔(あじまさ)長穂宮(ながほのみや)にて、駅使(はゆまづかい)を使って天皇に報告した。

      その御子は肥長比売と一夜を共にした。ところがその美人を密かに覗くと蛇だった。それで恐れて逃げた。
      肥長比売は悲しんで、海原を照らして船で追いかけた。
      それを見てますます恐れて、山の撓りから船を引き越して、逃げ上って行った。
      そして復命して「大神を参拝したので、大御子は物をおっしゃるようになりました。それで帰って参りました」と。
      天皇は歓喜して、すぐに菟上王を返して神の宮を造らせた。
      そして天皇は、その御子にちなんで鳥取部(ととりべ)鳥甘部(とりかいべ)品遅部(ほんちべ)大湯坐(おおゆえ)若湯坐(わかゆえ)を定めた。

      【古事記 中巻 垂仁天皇段】
  • 垂仁天皇23年11月2日

    湯河板挙が鵠を献上した。
    誉津別命は鵠を弄び、遂に喋れるようになった。
    そこで湯河板挙を厚く賞し、鳥取造(ととりのみやつこ)の姓を賜った。
    そしてまた鳥取部(ととりべ)鳥養部(とりかいべ)誉津部(ほんつべ)を定めた。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二十三年十一月乙未条】
  • 垂仁天皇25年2月8日

    阿倍臣(あべのおみ)の遠祖の武渟川別和珥臣(わにのおみ)の遠祖の彦国葺中臣連(なかとみのむらじ)の遠祖の大鹿島物部連(もののべのむらじ)の遠祖の十千根大伴連(おおとものむらじ)の遠祖の武日五大夫に言うには「先皇御間城入彦五十瓊殖天皇崇神天皇は賢く聖であり、欽み明かにして聡く、深く謙虚に執り、志半ばで退いた。万機を治めて神祇を礼祭し、己れに厳しく勤め、日々を慎んだ。それで人民は豊かになり、天下は太平である。今朕の世に当たり、神祇を祭祀することを怠ってはならない」と。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二十五年二月甲子条】
  • 垂仁天皇25年3月10日

    天照大神豊耜入姫命から離して倭姫命に託した。
    倭姫命は大神が鎮座する所を求めて、莵田(うだ)筱幡(ささはた)に行った。
    さらに引き返して近江国に入り、美濃を廻って伊勢国に至った。
    時に天照大神倭姫命に教えて言うには「この神風の伊勢国は、しきりに浪が打ち寄せる国である。中心ではないが美しい国である。この国に居りたいと思う」と。
    それで大神の教えに従い、その祠を伊勢国に立てた。斎宮(いわいのみや)五十鈴川(いすずのかわ)のほとりに立てた。これを磯宮(いそのみや)という。即ち天照大神が初めて天降った所である。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二十五年三月丙申条】
    • 天皇は倭姫命御杖(みつえ)として天照大神に奉った。
      倭姫命天照大神磯城(しき)の神木の本に祀った。
      然る後に、神の教えに従って丁巳年の冬十月の甲子の日垂仁天皇26年10月18日。甲子を甲午とする写本あり。に伊勢国の渡遇宮(わたらいのみや)に遷した。
      この時に以下、崇神天皇六年条と同七年十一月己卯条の異伝。倭大神穂積臣(ほづみのおみ)の遠祖の大水口宿禰に神憑り、教えて言うには「初めの時に約束して『天照大神は全ての天原を治めた。皇孫は葦原中国(あしはらなかつくに)八十魂神(やそたまのかみ)を治めた。私は大地官(おおちつかさ)を治めよう』と言った。先皇御間城天皇崇神天皇は神祇の祭祀を行ったが、詳しくその根源を探られずに、疎かに枝葉に留まっていた。それでその天皇は命が短かった。今あなた様は先皇の及ばなかったところを悔い、慎しんでお祭れすれば、あなた様の寿命は長く、また天下は太平であろう」と。
      天皇はこの言葉を聞いて、中臣連(なかとみのむらじ)の祖の探湯主に命じて占わせた。誰を以って大倭大神を祭らせるかと。
      すると渟名城稚姫命が占いに出た。
      よって渟名城稚姫命に命じて、神地(かんどころ)穴礒邑(あなしのむら)に定め、大市(おおち)長岡岬(ながおかのさき)に祀った。
      しかしこの渟名城稚姫命は既に身体が痩せ細り、祭ることができなかった。それで大倭直(おおやまとのあたい)の祖の長尾市宿禰に命じて祭らせた。

      【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二十五年三月丙申条 一云】
  • 垂仁天皇26年8月3日

    天皇は物部十千根大連に勅して「しばしば出雲国に使者を遣わして、その国の神宝を検めさせたが、はっきりと申す者もいない。お前が出雲に行って調べなさい」と。
    十千根大連は神宝を調べてはっきりと報告した。それで神宝を司らせた。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二十六年八月庚辰条】
  • 垂仁天皇27年8月7日

    神官に命じて、武器を神に供えることを占わせると吉と出た。
    それで弓矢と横刀(たち)を諸々の神の社に奉納し、更に神地(かんどころ)神戸(かんべ)を定め、時を決めて祭らせた。武器を以って神祇を祭ることは、この時に興った。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二十七年八月己卯条】
  • 垂仁天皇27年

    屯倉(みやけ)屯倉。此云彌夜氣。来目邑(くめのむら)に建てる。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二十七年是歳条】
  • 垂仁天皇28年10月5日

    天皇の同母弟の倭彦命が薨じる。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二十八年十月庚午条】
  • 垂仁天皇28年11月2日

    倭彦命身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)に葬った。
    近習を集めて、悉く生きたまま陵に周りに埋め立てた。日を経ても死なず、昼夜泣き呻いた。遂に死んで腐り、犬や烏が集まり食べた。
    天皇はこの泣き呻く声を聞くいて心を傷めた。
    群卿に詔して「生きているときに愛した者が、死ぬ者に殉じることは心がとても傷む。古くからの風習と雖も、良くないことには従がわなくて良い。今後は議って殉死を止めるように」と。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇二十八年十一月丁酉条】
  • 垂仁天皇30年1月6日

    天皇が五十瓊敷命大足彦尊に「お前達の欲しい物を言ってみよ」と言った。
    兄王は弓矢を、弟王は皇位を望んだ。
    そこで天皇は「それぞれの願うままにしよう」と言って、弓矢を五十瓊敷命に賜り、大足彦尊には「お前は必ず皇位を継ぐように」と言った。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十年正月甲子条】
  • 垂仁天皇32年7月6日

    皇后日葉酢媛命が薨じる。あるいは日葉酢根命という。
    葬るにはまだ日があり、天皇は群卿に詔して「死に従う道は、以前に良いことではないと知った。この度の殯はいかにするべきか」と。
    ここに野見宿禰が進み出て言うには「君王の陵墓に、生きる人を埋め立てるのは良いことでは御座いません。どう後世に伝えられましょうか。どうか適切な方法を議って奏上致したく存じます」と。
    即ち使者を遣わして出雲国の土部(はじべ)百人を召し上げて、自ら土部らをつかって埴土(はにつち)を取り、人や馬など様々な物の形を作った。それらを天皇に献上して「今後はこの土物(はに)を生きる人の代わりに陵墓に立てて、後世の法としましょう」と言った。
    天皇はこれを大いに喜び、野見宿禰に詔して「お前の便法は真に朕の心に適っている」と。
    そしてその土物を初めて日葉酢媛命の墓に立てた。この土物を名付けて埴輪(はにわ)という、または立物(たてもの)という。
    そして令を下して「今後は陵墓には必ず土物を立てて人を損なってはならない」と言った。
    天皇は厚く野見宿禰の功を誉めて、鍛地(かたしところ)を賜った。そして土部(はじ)の職に任じた。それで本姓を改めて土部臣(はじのおみ)という。これは土部連(はじのむらじ)らが天皇の喪葬を司る由縁である。野見宿禰は土部連らの始祖である。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十二年七月己卯条】
    • 大后比婆須比売命の時に、石祝作(いしきつくり)を定め、また土師部(はにしべ)を定めた。この后は狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)に葬られた。

      【古事記 中巻 垂仁天皇段】
  • 垂仁天皇34年3月2日

    天皇は山背(やましろ)に行幸した。
    時に側の者が言うには「この国に佳人がおります。綺戸辺と申します。姿形が非常に美しいので御座います。山背大国不遅の娘で御座います」と。
    天皇は矛を取り、(うけい)をして「その佳人に出会ったら、必ず道に瑞があるように」と言った。
    行宮(かりのみや)に着くころに、大亀が河の中から出てきた。天皇が矛を挙げて亀を刺すと、たちまち石となった。そこで側の者に「この物から推測すると、必ず(しるし)があるだろう」と言った。
    こうして綺戸辺を召して後宮に入れた。
    磐衝別命を生んだ。これは三尾君(みおのきみ)の始祖である。

    これより先、山背苅幡戸辺を娶り、三人の男子を生んだ。
    第一を祖別命という。
    第二を五十日足彦命という。
    第三を胆武別命という。
    五十日足彦命の子は石田君(いしだのきみ)の始祖である。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十四年三月丙寅条】
  • 垂仁天皇35年9月

    五十瓊敷命を河内国に遣わして、高石池(たかしのいけ)茅渟池(ちぬのいけ)を造らせる。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十五年九月条】
  • 垂仁天皇35年10月

    (やまと)狭城池(さきのいけ)迹見池(とみのいけ)を造る。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十五年十月条】
  • 垂仁天皇35年

    諸国に令して、池や溝を多く開かせた。その数八百。農を以って業とした。これによって百姓は豊かになり、天下大平であった。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十五年是歳条】
  • 垂仁天皇37年1月1日

    大足彦尊を立てて皇太子とする。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十七年正月戊寅朔条】
  • 垂仁天皇39年10月

    五十瓊敷命茅渟(ちぬ)菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)にて剣千振を作らせた。それでその剣を名付けて川上部(かわかみのとも)という。またの名を裸伴(あかはだがとも)裸伴。此云阿箇播娜我等母。という。これを石上神宮に蔵めた。
    この後、五十瓊敷命に命じて、石上神宮の神宝を司らせた。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十九年十月条】
    • 五十瓊敷皇子茅渟(ちぬ)菟砥(うと)の川上にて、鍛冶の名は河上を召して大刀千振を作らせた。
      この時に楯部(たてぬいべ)倭文部(しとりべ)神弓削部(かんゆげべ)神矢作部(かんやはぎべ)大穴磯部(おおあなしべ)泊橿部(はつかしべ)玉作部(たますりべ)神刑部(かんおさかべ)日置部(ひおきべ)大刀佩部(たちはきべ)、合わせて十の品部(とものみやつこ)五十瓊敷皇子に賜った。
      その千振の大刀は忍坂邑(おしさかのむら)に蔵めた。後に忍坂から移して石上神宮に蔵めた。
      この時に神が「春日臣(かすがのおみ)の一族、名は市河に治めさせよ」と言った。それで市河に命じて治めさせた。これが今の物部首(もののべのおびと)の始祖である。

      【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三十九年十月条 一云】
  • 垂仁天皇81年2月1日

    五大夫の一人十市根命物部連公(もののべのむらじきみ)の姓を賜る。即ち大連とする。

    【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 垂仁天皇八十一年二月壬辰朔条】
  • 垂仁天皇87年2月5日

    五十瓊敷命が妹の大中姫に言うには「私は老いたので神宝を掌ることができない。今後はお前が掌りなさい」と。
    大中姫命が言うには「私はか弱い女です。どうやって天神庫(あめのほくら)神庫。此云保玖羅。に登れましょうか」と。
    五十瓊敷命が言うには「神庫が高いといっても、私が神庫に梯子を造る。神庫に登れないことはない」と。
    それで諺に「天神庫も樹梯(はしだて)のままに」と言うのは、これがそのもとである。
    そして大中姫命物部十千根大連に授けて治めさせた。それで物部連らが今に至るまで石上の神宝を治めるのは、これがもとである。

    昔、丹波国(たにわのくに)桑田村(くわたのむら)甕襲という名の人がいた。
    甕襲の家には犬がいて、名を足徃(あゆき)といった。この犬は牟士那(むじな)という名の山獣を食い殺した。すると獣の腹に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)があり、これを献上した。この玉は今、石上神宮にある。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇八十七年二月辛卯条】
  • 垂仁天皇88年7月10日

    群卿に詔して「朕が聞くところによれば、新羅の王子天日槍が始めて参った時に、持って来た宝物は今但馬にある。国人に貴ばれて神宝となっている。朕はその宝物を見てみたい」と。
    その日に使者を遣わして、天日槍の曽孫の清彦に詔して献上させた。
    清彦は勅を受けて自ら神宝を献上した。
    羽太玉(はふとのたま)一つ・足高玉(あしたかのたま)一つ・鵜鹿鹿赤石玉(うかかのあかしたま)一つ・日鏡(ひのかがみ)一つ・熊神籬(くまのひもろき)一具。
    ただ刀子(かたな)が一つだけあり、名を出石(いずし)という。清彦は急に刀子を献上するのをやめて、衣の中に隠して身につけた。
    天皇は刀子を隠していることに気付かずに、清彦をねぎらうために御所に呼んで酒を賜った。
    時に刀子が衣の中から現れてしまった。天皇はこれを見て清彦に「お前の衣の中の刀子は何の刀子か」と問うた。
    清彦は刀子を隠せないことを知ると、「献上する神宝の一つです」と答えた。天皇は清彦に「その神宝は他と離しても良いのか」と言った。そこで出して献上した。すべて神府(みくら)に蔵めた。
    後に神府を開いて見てみると刀子が消えていた。そこで清彦に問うて「お前が献上した刀子が急に消えた。お前の所に行ってはいないか」と。清彦は「昨日の夕方、刀子が私の家にやって来て、今朝には消えておりました」と答えた。
    天皇は畏まって追求はしなかった。
    この後に出石刀子は自然と淡路島に行った。その島の人は神だと思い、刀子のために祠を立てた。これは今でも祀られている。

    昔、人が船に乗って但馬国に泊まった。それで「おまえは何処の国の人であるか」と尋ねると、「新羅の王子で名は天日槍と申します」と答えた。そして但馬に留まり、その国の前津耳(あるいは前津見という。あるいは太耳という)の娘の麻拕能烏を娶り、但馬諸助が生まれた。これが清彦の祖父である。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇八十八年七月戊午条】
    • 始め天日槍は船に乗って播磨国に泊まり、完粟邑(しさわのむら)にいた。
      時に天皇が、三輪君(みわのきみ)の祖の大友主倭直(やまとのあたい)の祖の長尾市を播磨に遣わして、天日槍に「お前は誰であるか。また何処の国の人か」と問うた。天日槍は答えて「私は新羅(しらぎ)国主の子です。日本国に聖皇ありと聞き、国を弟の知古に授けてやって参りました」と。
      そして献上した物は、葉細珠(はほそのたま)足高珠(あしたかのたま)鵜鹿鹿赤石珠(うかかのあかしのたま)出石刀子(いずしのかたな)出石槍(いずしのほこ)日鏡(ひのかがみ)熊神籬(くまのひもろき)胆狭浅大刀(いささのたち)、合わせて八点だった。
      天日槍に詔して「播磨国の完粟邑と、淡路島の出浅邑(いでさのむら)、この二邑をお前の好きなように住みなさい」と。
      天日槍が言うには「私の住むところは、もし天恩を垂れて願いを聞いて頂けるのであれば、私自ら諸国を巡り歩いて、心に適った地を選ばせて頂きたいと思います」と。それでこれを許された。
      天日槍菟道河(うじがわ)を遡り、北の近江国の吾名邑(あなのむら)に入って暫らく住んだ。
      また更に近江より若狭国を経て、西の但馬国に居所を定めた。
      近江国の鏡村(かがみのむら)(はさま)陶人(すえひと)は、即ち天日槍の従者である。

      天日槍は但馬国の出島(いずし)の人、太耳の娘の麻多烏を娶り、但馬諸助を生んだ。
      諸助但馬日楢杵を生んだ。
      日楢杵清彦を生んだ。
      清彦田道間守を生んだ。

      【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三年三月条 一云】
    • 昔、新羅の国主(こにきし)に子がいた。名は天之日矛という。この人が渡来してきた。
      渡来してきたのにはわけがあった。

      新羅国に一つの沼があった。名は阿具奴摩(あぐぬま)という。
      この沼のほとりに一人の賎女が昼寝をしていた。
      このとき日が虹のように輝いて、その陰部を射した。
      また一人の賤夫がいて、その様子を不思議に思い、その女の行動を伺っていた。
      するとこの女は、その昼寝の時に妊娠して、赤玉を生んだ。
      そこでその様子を伺っていた賤夫は、その玉をもらい受けて、常に包んで腰につけていた。この人は田を谷間に作っていた。
      それで耕人たちの食料を一頭の牛に負わせて谷の中に入る時、その国主の子天之日矛に出会った。
      そしてその人に尋ねて「なぜお前は食料を牛に負わせて谷に入るのか。お前はきっとこの牛を殺して食うつもりだろう」と。そしてその人を捕えて獄に入れようとすると、その人が答えて「私は牛を殺そうとするのではありません。ただ農夫の食料を運ぶだけです」と。しかし猶も許すことはなかった。
      そこでその腰の玉を解いて、その国主の子に贈った。そこでその賤夫を許した。

      その玉を持って来て、床のそばに置いておくと、美しい少女に姿を変えた。それで結婚して正妻とした。
      その少女は、常に様々な珍味を用意して、いつもその夫に食べさせた。
      しかしその国主の子は、心奢って妻を罵るので、その女は「そもそも私は、あなたの妻となるような女ではありません。私の祖先の国に行きます」と言った。
      そして密かに小船に乗って逃げ渡って、難波(なにわ)に留まった。
      これは難波の比売碁曽(ひめごそ)の社にいる阿加流比売神である。

      天之日矛はその妻が逃げたことを聞くと、後を追って渡来した。
      難波に着こうとしたところ、その(わたり)の神海峡の神。が行く手を塞いで入れなかった。
      それでまた戻って多遅摩国(たじまのくに)但馬に停泊した。
      そしてその国に留まって、多遅摩之俣尾の娘、名は前津見を娶り、生まれた子は
      多遅摩母呂須玖。これの子は
      多遅摩斐泥。これの子は
      多遅摩比那良岐。これの子は
      多遅麻毛理
      次に多遅摩比多訶
      次に清日子の三柱。

      この清日子当摩之咩斐を娶り、生まれた子は
      酢鹿之諸男
      次に妹の菅竈由良度美

      そして上に述べた多遅摩比多訶は、姪の由良度美を娶り、生まれた子は
      葛城之高額比売命
      これは息長帯比売命神功皇后の御母である。


      それでその天之日矛が持って渡って来た物は玉津宝(たまつたから)といって、珠二貫・浪を振り起こす領巾(ひれ)・浪を鎮める領巾・風を起こす領巾・風を鎮める領巾。また奥津鏡(おきつかがみ)辺津鏡(へつかがみ)、合わせて八種である。
      これらは伊豆志之八前大神である。


      この神の娘で、名は伊豆志袁登売神という神がいた。
      八十神(やそがみ)伊豆志袁登売を得たいと思ったが、だれも結婚することが出来なかった。

      ここに二神がいて、兄の名は秋山之下氷壮夫。弟の名は春山之霞壮夫という。
      それでその兄が弟に言うには「私は伊豆志袁登売を望んだが、結婚することは出来なかった。お前はこの少女を得ることが出来るか」と。
      答えて「たやすく得ることができます」と。
      そこでその兄が言うには「もしお前がこの少女を得ることが出来れば、私は上下の衣服を脱ぎ、身の丈を計って、同じ高さの甕に酒を醸そう。また山や河の産物を悉く準備して賭けの物としよう」と。
      そこでその弟は兄の言ったとおりに詳しく母に伝えた。
      その母は藤葛を取って、一夜の間に衣・(はかま)(したぐつ)(くつ)を織り縫い、また弓矢を作って、衣や褌を着させ、その弓矢を持たせて、その少女の家に行かせた。
      その衣服や弓矢はすべて藤の花に変化した。
      そこでその春山之霞壮夫は、その弓矢を少女の家の厠に掛けておいた。
      伊豆志袁登売はその花を怪しんで、それを持って来ると、その少女の後について、その母屋に入るや否やまぐわった。そして一子を生んだ。

      そこでその兄に、「私は伊豆志袁登売を得ました」と言った。
      その兄は、弟が結婚したことに腹を立てて、その賭け物を渡さなかった。
      それで弟が嘆いてその母に訴えると、母は「この現世の事は、よく神に見習うべきです。それなのに現世の人々に見習って賭け物を償わないのでしょうか」と答えて、その兄である子を恨んだ。
      すぐに伊豆志河(いずしがわ)の中洲の節竹(よだけ)を取って、目の多い荒い籠を作り、その河の石を取って塩に合わせて、その竹の葉に包んだ。
      そして「この竹の葉が青く茂るように、この竹の葉が萎むように、茂ったり萎んだりせよ。またこの塩が満ちたり干たりするように、満ちたり干たりせよ。またこの石が沈むように、沈み臥せ」と言って呪った。
      このように呪詛してから竈の上に置いた。
      これによって、その兄は八年の間、萎むように病み衰えた。
      それでその兄は苦しみ泣いてその母に許しを請うと、すぐに呪いの品を返した。するとその体は本のように健康になった。
      これが「神うれずく」という言葉のもとである。

      【古事記 中巻 応神天皇段】
  • 垂仁天皇90年2月1日

    田道間守常世国(とこよのくに)に遣わして、非時香菓(ときじくのかぐのみ)香菓。此云箇倶能未。を求めた。今に(たちばな)というのがこれである。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇九十年二月庚子朔条】
    • 三宅連(みやけのむらじ)らの祖、名は多遅麻毛理常世国(とこよのくに)に遣わして、時じくのかくの木の実原文『登岐士玖能迦玖能木實』を求めさせた。

      【古事記 中巻 垂仁天皇段】
  • 垂仁天皇99年7月14日日本書紀はこの日を戊午朔としているが、無理があると判断して、この日を朔日ではなく単に戊午の日と判断した。先代旧事紀の同記事では、日付を乙巳朔戊午としているものがある。当サイトでは、この月の朔日を乙巳としている。景行天皇即位前紀では、垂仁天皇99年2月(校異:二月→三月)に崩御としている。

    纒向宮(まきむくのみや)で崩じる。
    時に年百四十歳。

    年140歳とある。生誕の記事を参考にすると139歳になる。記事は戊午朔の条ではあるが、戊午は朔では無いであろう。
    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇九十九年七月戊午朔条】
    • 御年百五十三歳。

      【古事記 中巻 垂仁天皇段】
  • 垂仁天皇99年12月10日

    菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)に葬られる。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇九十九年十二月壬子条】
    • 御陵は菅原之御立野中(すがわらのみたちのなか)にある。

      【古事記 中巻 垂仁天皇段】
  • 景行天皇元年3月12日

    田道間守常世国(とこよのくに)から帰還して、非時香菓(ときじくのかぐのみ)八竿八縵(やほこやかげ)を持ち帰った。
    田道間守が泣き叫んで言うには「御命令を天朝より承り、遠く遥かな地に行き、万里の浪を越えました。この常世国は神秘の国で、俗人の行ける所では御座いません。そのため往来するのに十年かかったので御座います。独り険しい道を越えて、本土に帰れるとは思いも寄らないことで御座いました。しかし聖帝の神霊に頼って帰還出来ました。今、天皇はお隠れになられ、復命することが出来ません。私が生きていても何のためになりましょう」と。
    そして天皇の陵に向い、泣き叫んで自ら死んだ。群臣はこれを聞いて皆が涙した。田道間守三宅連(みやけのむらじ)の始祖である。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇九十九年明年三月壬午条】
    • 多遅摩毛理は遂にその国に着くと、その木の実を採り、(かげ)八本と矛八本を持ち帰ったが、天皇は既に崩じていた。
      そこで多遅摩毛理は縵四本と矛四本を分けて大后に献上し、縵四本と矛四本を天皇の陵の入り口に供えた。
      そしてその木の実を捧げ持つと泣き叫びんで言うには「常世国から時じくのかくの木の実を持って参りました」と。
      遂に泣き叫びながら死んだ。
      その時じくのかくの木の実は、今の(たちばな)のことである。

      【古事記 中巻 垂仁天皇段】