五十瓊敷皇子は茅渟(ちぬ)の菟砥(うと)の川上にて、鍛冶の名は河上を召して大刀千振を作らせた。 この時に楯部(たてぬいべ)・倭文部(しとりべ)・神弓削部(かんゆげべ)・神矢作部(かんやはぎべ)・大穴磯部(おおあなしべ)・泊橿部(はつかしべ)・玉作部(たますりべ)・神刑部(かんおさかべ)・日置部(ひおきべ)・大刀佩部(たちはきべ)、合わせて十の品部(とものみやつこ)を五十瓊敷皇子に賜った。 その千振の大刀は忍坂邑(おしさかのむら)に蔵めた。後に忍坂から移して石上神宮に蔵めた。 この時に神が「春日臣(かすがのおみ)の一族、名は市河に治めさせよ」と言った。それで市河に命じて治めさせた。
(仁徳天皇元年1月3日 ~ 仁徳天皇87年1月16日)
大鷦鷯天皇の御世、倭(やまと)に行幸して布都努斯神社(ふつぬしのかみのやしろ)を石上(いそのかみ)の御布瑠村(みふるのむら)校異:石上郷の布瑠村の高庭の地に祀って市川臣を神主とした。