- 名前
- 漢風諡号:仁德天皇(にんとくてんのう, にんとくてんわう)仁徳天皇
- 和風諡号:大鷦鷯天皇【日本書紀】(おおさざきのすめらみこと, おほさざきのすめらみこと)
- 大鷦鷯尊【日本書紀】(おおさざきのみこと, おほさざきのみこと)
- 大鷦鷯皇子【日本書紀】(おおさざきのみこ, おほさざきのみこ)
- 大雀命【古事記】(おおさざきのみこと, おほさざきのみこと)
- 大雀天皇【先代旧事本紀】(おおさざきのすめらみこと, おほさざきのすめらみこと)
- 難波高津宮御宇天皇【先代旧事本紀】(なにわのたかつのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, なにはのたかつのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)難波高津宮御宇天皇
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 応神天皇13年9月30日)
- 没年月日
- 仁徳天皇87年1月16日
- 父
応神天皇 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】
- 母
仲姫命 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】
- 先祖
- 配偶者
- 子
- 称号・栄典
- 第16代
天皇
- 第16代
- 出来事
-
応神天皇13年9月
【日本書紀 巻第十 応神天皇十三年九月中条】応神天皇に召されて髪長媛が
日向 からやってきた。
とりあえず桑津邑 に置いた。皇子大鷦鷯尊は髪長媛を見て、その姿の美しさに感心して、常に恋心を持っていた。
天皇は大鷦鷯尊が髪長媛を気に入っていることを知ると、一緒にさせたいと思った。天皇は後宮での宴の日に、始めて髪長媛を呼んで、宴の席に侍らせた。
この時に大鷦鷯尊を指し招き、髪長媛を指して歌を詠んだ。「
伊 奘 阿 藝 怒 珥 比 蘆 菟 彌 珥 比 蘆 菟 瀰 珥 和 餓 喩 區 瀰 智 珥 伽 愚 破 志 波 那 多 智 麼 那 辭 豆 曳 羅 波 比 等 未 那 等 利 保 菟 曳 波 等 利 委 餓 羅 辭 瀰 菟 愚 利 能 那 伽 菟 曳 能 府 保 語 茂 利 阿 伽 例 蘆 塢 等 咩 伊 奘 佐 伽 麼 曳 那 」大鷦鷯尊は御歌を賜り、髪長媛を賜ったことを知ると、大いに喜んで返歌した。
「
瀰 豆 多 摩 蘆 豫 佐 瀰 能 伊 戒 珥 奴 那 波 區 利 破 陪 鷄 區 辭 羅 珥 委 愚 比 菟 區 伽 破 摩 多 曳 能 比 辭 餓 羅 能 佐 辭 鷄 區 辭 羅 珥 阿 餓 許 居 呂 辭 伊 夜 于 古 珥 辭 氐 」
大鷦鷯尊と髪長媛は既に慇懃を重ねていた。
髪長媛に対して歌を詠んだ。「
彌 知 能 之 利 古 破 儾 塢 等 綿 塢 伽 未 能 語 等 枳 虛 曳 之 介 迺 阿 比 摩 區 羅 摩 區 」また歌を詠んだ。
「
瀰 知 能 之 利 古 波 儾 塢 等 綿 阿 羅 素 破 儒 泥 辭 區 塢 之 叙 于 蘆 波 辭 瀰 茂 布 」-
天皇は
日向国 の諸県君 の女の髪長比売の容姿が美しいと聞いて、使いを出して召し上げた。
この時に、その太子大雀命が、その少女が難波津 に泊っているのを見て、その端正な容姿に感心した。
そしてすぐに建内宿禰大臣に「この日向から召し上げた髪長比売を、天皇の御許 にお願い申し上げて、私に賜るようにしてくれ」と言った。
そこで建内宿禰大臣が天皇に許しを請うと、天皇はただちに髪長比売をその御子に賜った。賜ったときの状況は、天皇が宴会を催した日に、髪長比売に大御酒を盛る柏の葉を握らせて、その太子に賜らせて、御歌を詠んだ。
「
伊 邪 古 杼 母 怒 毘 流 都 美 邇 比 流 都 美 邇 和 賀 由 久 美 知 能 迦 具 波 斯 波 那 多 知 婆 那 波 本 都 延 波 登 理 韋 賀 良 斯 志 豆 延 波 比 登 登 理 賀 良 斯 美 都 具 理 能 那 迦 都 延 能 本 都 毛 理 阿 加 良 袁 登 賣 袁 伊 邪 佐 佐 婆 余 良 斯 那 」また御歌を詠んだ。
「
美 豆 多 麻 流 余 佐 美 能 伊 氣 能 韋 具 比 宇 知 賀 佐 斯 祁 流 斯 良 邇 奴 那 波 久 理 波 閇 祁 久 斯 良 邇 和 賀 許 許 呂 志 叙 伊 夜 袁 許 邇 斯 弖 伊 麻 叙 久 夜 斯 岐 」このように歌詠みして賜わった。
それでその少女を賜った後に、太子が歌を詠んだ。
「
美 知 能 斯 理 古 波 陀 袁 登 賣 袁 迦 微 能 碁 登 岐 許 延 斯 迦 杼 母 阿 比 麻 久 良 麻 久 」また歌を詠んだ。
「
【古事記 中巻 応神天皇段】美 知 能 斯 理 古 波 陀 袁 登 賣 波 阿 良 蘇 波 受 泥 斯 久 袁 斯 叙 母 宇 流 波 志 美 意 母 布 」
-
-
吉野の
国主 らが、大雀命が佩く御刀を見て歌を詠んだ。「
【古事記 中巻 応神天皇段】本 牟 多 能 比 能 美 古 意 富 佐 邪 岐 意 富 佐 邪 岐 波 加 勢 流 多 知 母 登 都 流 藝 須 惠 布 由 布 由 紀 能 須 加 良 賀 志 多 紀 能 佐 夜 佐 夜 」 -
応神天皇40年1月8日
応神天皇は大山守命と大鷦鷯尊を呼んで「お前達は自分の子は可愛いか」と問うと、「とても可愛いです」と答えた。
また、「年が大きい子と小さい子ではどちらが可愛いか」と問うと、大山守命は、「大きい子の方が可愛いです」と答えた。天皇は悦んでいない様子だった。
大鷦鷯尊は天皇の様子を察して、「大きい子は年を重ねて一人前になっておりますので、不安はありません。ただ小さい子は、一人前になれるか分かりませんので、とても可愛そうです」と答えた。天皇は大いに悦んで、「お前の言葉は、我が心と同じである」と言った。このとき天皇は常に菟道稚郎子を立てて太子にしたいと思っていた。
【日本書紀 巻第十 応神天皇四十年正月戊申条】
それで二皇子の心を知りたいと思ったて、この問いを発したのであり、大山守命の答えを悦ばなかったのである。 -
応神天皇40年1月24日
-
応神天皇41年2月15日
応神天皇が
【日本書紀 巻第十 応神天皇四十一年二月戊申条】明宮 で崩じる。 -
応神天皇41年2月
-
応神天皇41年2月
時に太子菟道稚郎子は位を大鷦鷯尊に譲って未だ即位していなかった。
そして大鷦鷯尊に言うには「天下に君として万民を治める者は、覆うことは天の如く、受け入れることは地の如し。上に喜ぶ心があって人民を使えば、人民は欣然として、天下は安らかになります。私は弟です。文献にも見当たらず、なぜ敢えて位を継いで、天業を統べることが出来ましょうか。大王 のお姿は岐嶷 です。仁孝も遠くにまで聞こえ、年齢もまた上です。天下の君となるのに充分です。先帝が私を太子に立てたのは、才ありということではなく、ただ愛されたからです。また宗廟社稷を奉ることは重い事です。私は不肖で及びません。兄は上に、弟は下に、聖者は君となり、愚者は臣となるのは、古今の常典です。どうか王は疑わずに、即位してください。私は臣としてお助けするのみです」と。
大鷦鷯尊が答えて「先皇は『皇位は一日でも空しくしてはならない』とおっしゃった。それであらかじめ明徳の人をお選びになり、王を太子にお立てになられた。幸いの嗣 をもって民をこれにお授けになられた。その寵愛のしるしを尊んで、国中に聞こえるようになされた。私は不賢であるが、先帝の命を棄てて、たやすく弟王の願いに従うことは出来ない」と言って、固く辞して受け入れず、互いに譲り合った。この時に額田大中彦皇子は
倭 の屯田 と屯倉 を支配しようとして、その屯田の司で出雲臣 の祖淤宇宿禰に「この屯田はもとより山守の地である。これからは私が治める。お前が司ることはない」と言った。
淤宇宿禰は太子に報告した。
太子は「大鷦鷯尊に申し上げよ」と言った。
それで淤宇宿禰は大鷦鷯尊に「私がお預かりしていた屯田は、大中彦皇子が妨げられて治めることが出来ません」と言った。
大鷦鷯尊は倭直 の祖麻呂に「倭の屯田はもとより山守の地というが、これはどうか」と尋ねると、「私は存じ上げませんが、弟の吾子籠が存じ上げております」と答えた。この時、吾子籠は
韓国 に遣わされていて、まだ帰還していなかった。
そこで大鷦鷯尊が淤宇に言うには「お前は自ら韓国に行って、吾子籠を連れてきなさい。昼夜兼行で急ぐように」と。
そして淡路の海人八十人を水手とした。
淤宇は韓国に行って吾子籠を連れて帰った。
そして倭の屯田について尋ねると、答えて「伝え聞きますには、纒向玉城宮御宇天皇の御世に、太子大足彦尊に仰せられて、倭の屯田をお定めになられました。この時の勅旨は『およそ倭の屯田は、時の帝皇の屯田である。その帝皇の子といえども、天下を治める者でなければ司ることは出来ない』といいます。これを山守の地というのは間違いでございます」と。
大鷦鷯尊は吾子籠を額田大中彦皇子のもとに遣わして、このことを知らせた。
大中彦皇子は返答しなかった。
その悪さを知ったが、許して罪に問わなかった。
その後、大山守皇子は先帝が太子に立てなかったことを常に恨んでいたが、このことで重ねて怨みを持った。
そして謀を企てて「私は太子を殺して帝位に登る」と言った。大鷦鷯尊はあらかじめその謀を聞き、太子に密かに告げると兵を備えて守らせた。
時に太子は兵を備えて待っていた。
大山守皇子はその兵の備えを知らずに、数百の兵士を率いて夜半に出発した。
明け方に菟道 について河を渡った。
時に太子は粗末な服を着て、楫を取って密かに渡し守にまじって、大山守皇子を船に乗せて渡した。
河の中ほどで、渡し守に命じて船を傾けさせると、大山守皇子は河に落ちた。
さらに浮き流れつつ歌った。「
知 破 揶 臂 苔 于 泥 能 和 多 利 珥 佐 烏 刀 利 珥 破 揶 鷄 務 臂 苔 辭 和 餓 毛 胡 珥 虛 務 」しかし伏兵が多くいて岸につくことが出来ず、遂に沈んで死んだ。
その屍を探させると、
考羅済 に浮かんだ。
時に太子はその屍を見て歌を詠んだ。「
智 破 揶 臂 等 于 旎 能 和 多 利 珥 和 多 利 涅 珥 多 氐 屢 阿 豆 瑳 由 瀰 摩 由 瀰 伊 枳 羅 牟 苔 虛 虛 呂 破 望 閉 耐 伊 斗 羅 牟 苔 虛 虛 呂 破 望 閉 耐 望 苔 弊 破 枳 瀰 烏 於 望 臂 泥 須 惠 弊 破 伊 暮 烏 於 望 比 泥 伊 羅 那 鷄 區 曾 虛 珥 於 望 比 伽 那 志 鷄 區 虛 虛 珥 於 望 臂 伊 枳 羅 儒 層 區 屢 阿 豆 瑳 由 瀰 摩 由 瀰 」そして
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇即位前紀 応神天皇四十一年二月条】那羅山 に葬った。-
天皇が崩じた後、大雀命は天皇の命に従って、天下を宇遅能和紀郎子に譲った。
しかし大山守命は天皇の命を違え、なお天下を得たいと思って、その弟皇子を殺そうと思った。そして密かに武器を用意して攻めようとした。大雀命は、その兄が武器を用意していることを聞くと、すぐに使者を遣わして宇遅能和紀郎子に知らせた。
それで驚いて、兵を河辺に伏せた。またその山の上に荒絹で作った幕を張り、偽って舎人 を王に仕立て上げて、目につくように呉床 に坐らせた。
百官が恭しく往来する様子は、王子のいる所のようだった。さらにその兄王が河を渡る時の為に、船の櫓や櫂を備えて飾り、さな葛の根を
舂 いて、その汁の粘液をその船の中の簀の子に塗って、踏めば倒れるように仕掛けた。その王子は布の衣と
褌 を身につけると、賤しい人の姿になって、楫を執って船に立った。
その兄王は、兵士を隠し伏せて、衣の下に鎧を着た。
河辺に着いて、まさに船に乗ろうとした時、その飾り立てた所を見て弟王がその呉床にいると思い、楫を執って船に立っていることと知らずに、その楫とりに、「この山に凶暴な大猪がいると聞いている。私はその猪を討ち取りたいと思う。その猪を討ち取ることができるだろうか」と尋ねた。楫とりは「不可能でしょう」と答えた。
また「それはなぜか」と尋ねると、答えて「機会があるたびに行ってみましたが、討ち取れませんでした。それで不可能と申すのです」と。河の中ほどに渡った時、その船を傾けて水中に落とし入れた。
すると浮かび出て、水の流れに従って流れ下った。そして流れながら歌った。「
知 波 夜 夫 流 宇 遲 能 和 多 理 邇 佐 袁 斗 理 邇 波 夜 祁 牟 比 登 斯 和 賀 毛 古 邇 許 牟 」ここで河辺に伏せ隠れていた兵が、あちこちから一斉に姿を現して、弓に矢をつがえて追い流した。
そして訶和羅 の崎に流れ着いたところで沈んだ。そこで鉤でその沈んだ所を探すと、その衣の中の鎧に引っかかって「かわら」と鳴った。それでその地を名付けて
訶和羅前 という。屍を鉤で引き上げるとき、弟王が歌を詠んだ。
「
知 波 夜 比 登 宇 遲 能 和 多 理 邇 和 多 理 是 邇 多 弖 流 阿 豆 佐 由 美 麻 由 美 伊 岐 良 牟 登 許 許 呂 波 母 閇 杼 伊 斗 良 牟 登 許 許 呂 波 母 閇 杼 母 登 幣 波 岐 美 袁 淤 母 比 傳 須 惠 幣 波 伊 毛 袁 淤 母 比 傳 伊 良 那 祁 久 曾 許 爾 淤 母 比 傳 加 那 志 祁 久 許 許 爾 淤 母 比 傳 伊 岐 良 受 曾 久 流 阿 豆 佐 由 美 麻 由 美 」それでその大山守命の屍は
那良山 に葬った。この大山守命は
【古事記 中巻 応神天皇段】土形君 ・幣岐君 ・榛原君 らの祖である。
-
-
仁徳天皇元年
太子菟道稚郎子は
宮室 を菟道に建てて住んだが、猶も大鷦鷯尊に位を譲って久しく即位しなかった。
皇位が空いて既に三年が経った。時に
海人 が鮮魚を菟道宮に献上した。
太子は海人に「私は天皇ではない」と言って返して難波 に献上。
大鷦鷯尊はまた返して菟道に献上させた。
こうして海人の献上品は往来の間に腐ってしまったので、あらためて鮮魚を取って献上したが、以前のように譲り合った。
鮮魚はまた腐り、海人は往来に苦しんで魚を棄てて泣いた。
それで諺に「海人であろうか。己の物で泣くとは」というのは、これがもとである。太子は「私は兄王の志を変えられないことを知った。どうして長生きして、天下を煩わすことがあろうか」と言って自ら死んだ。
大鷦鷯尊は太子が薨じたことを聞くと、驚いて難波から急いで菟道宮にやって来た。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇即位前紀 応神天皇四十一年二月条】
太子が薨じて三日が経っていた。
大鷦鷯尊は胸を打って泣き叫び、なす術を知らなかった。
髪を解いて屍に跨って「我が弟の皇子よ」と三度呼んだ。
すると瞬く間に生き返り、自ら起き上がった。
大鷦鷯尊は太子に語って「悲しい。惜しい。どうして自ら逝こうとするのですか。もし死を知られたら、先帝は私に何とおっしゃるでしょう」と。
太子が兄王に言うには「天命なのです。誰も止めることは出来ません。もし天皇の御所に参ることがございましたら、兄王が聖で、しばしば譲られましたことを申し上げます。しかし聖王は我が死をお聞きになり、遠路を急ぎお出で下さいました。御礼を申し上げないことなど有り得ません」と。
そして同母妹の八田皇女を奉り、「お召しなるには不足と存じますが、どうか後宮の数に入れて頂きたく存じます」と言うと、棺に伏して薨じた。
大鷦鷯尊は白服を着て、悲しみ慟哭すること甚だしかった。
そして菟道山上 に葬った。 -
仁徳天皇元年1月3日
即位して天皇となる。
皇后を尊んで皇太后とする。
難波 を都とする。これを高津宮 という。
宮殿は上塗りせず、桷 ・梁 ・柱・楹 も装飾せず、茅葺きを切り揃えることもなかった。
これは自分のことで耕作や機織りの時間を奪ってはならないという思いからである。天皇が生まれる日、
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇元年正月己卯条】木菟 が産殿に飛び込んできた。
翌朝誉田天皇が大臣武内宿禰を呼んで「これは何のしるしだろうか」と言った。
大臣は「吉祥でございます。昨日私の妻が出産するときに鷦鷯 が産屋に飛び込んできました。これもまた不思議なことでございます」と答えた。
天皇は「朕の子と大臣の子は同日に産まれた。共にしるしがあったが、これは天からのしるしである。そこで共にその鳥の名を取って、それぞれの子に名付けて後の世のしるしとする」と言った。
そして鷦鷯の名を取って太子に名付けた。大鷦鷯皇子という。
木菟の名を取って大臣の子に名付けた。木菟宿禰という。これは平群臣 の始祖である。-
【古事記 下巻 仁徳天皇段】難波之高津宮 にて天下を治めた。
-
-
仁徳天皇2年3月8日
磐之媛命を立てて皇后とする。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇二年三月戊寅条】
皇后が生んだのは
大兄去来穂別天皇。
住吉仲皇子。
瑞歯別天皇。
雄朝津間稚子宿禰天皇。 -
仁徳天皇4年2月6日
群臣に詔して「高殿に登って遠くを眺めてみるが、炊煙があたりに立っていない。人民は貧しく、炊ぐ者もいないのであろう。聞けば古く聖王の御世には、人々は徳を讃え、家々からは安らぎの歌が聞こえたという。今朕が治めて三年が経つが、誉め称える声は聞こえず、炊煙もまばらである。これは五穀が実らず人民が窮乏しているのである。都の内がこの様子であるのに、都の外はどのような状況であろうか」と。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇四年二月甲子条】 -
仁徳天皇4年3月21日
詔して「今後三年はすべての課役をやめて、人民の苦しみを和らげよう」と。
この日から始まり、御衣・履物は破れるまで使用され、食物は腐らなければ捨てず、心を削ぎ、志をつづまやかにして無為に従事した。
宮垣は崩れても造らず、屋根の茅は崩れても葺かず、風雨が漏れて衣を濡らし、星の光が漏れて床を照らした。この後、風雨は時に順うようになって五穀豊穣が続き、三年の間に人民は豊かになり、徳を誉める声が満ちて炊煙もまた沢山立った。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇四年三月己酉条】 -
仁徳天皇7年4月1日
天皇が高殿に上り遠くを眺めると煙が多く立っていた。
この日、皇后に語って「朕は既に富んでいる。愁えることはない」と言うと、皇后は「何を富んでいるのでございましょうか」と答えた。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇七年四月辛未朔条】
天皇が「炊煙が国に満ちている。人民が富んでいるのであろう」と言うと、皇后は「宮垣が崩れても修理なさらず、大殿の屋根は破れて衣が濡れてしまいます。なぜ富んでいると言えるのでございましょうか」と言った。
天皇が言うには「天が君を立てるのは人民のためである。だから君は人民を以って本とする。それで古の聖王は、一人でも飢えや寒さに苦むことがあれば自分を責めた。人民が貧しければ自分が貧しいのと同じであり、人民が富んでいれば自分が富んでいるのと同じである。人民が富んでいるのに君が貧しいということはない」と。 -
仁徳天皇7年8月9日
大兄去来穂別皇子のために
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇七年八月丁丑条】壬生部 を定めた。
また皇后のために葛城部 を定めた。 -
仁徳天皇7年9月
諸国から上奏があり、「課役が免除されて既に三年が経ちます。そのため宮殿は朽ち崩れて、御蔵も空になりました。いま人民は豊かになり、落ちている物も拾わず、里には
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇七年九月条】鰥 ・寡 もなく、家には蓄えが余っています。このようなときに税・調を奉り、宮殿を修理しなかったら、おそらく天からの罪を得てしまうでしょう」と。
しかし猶も忍んで許可しなかった。 -
仁徳天皇10年10月
はじめて課役を命じて宮室を造った。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇十年十月条】
人民は促されなくても、老人を助け、幼い者を連れて、材を運んで籠を背負った。
昼夜を問わず力を尽くして競い造ったために、幾ばくも経たずに宮室は完成した。
それで今に至るまで聖帝 と称えられているのである。-
天皇が高山に登って四方の国を見て言うには「国中に炊煙が立っていない。人民は皆貧しい。そこで今後三年は人民の課役のすべてを免除せよ」と。
これにより大殿が壊れて雨が漏れても修理をせずに、器物でその漏れる雨を受け、漏れていない所に移って避けた。その後、国中に炊煙が満ちて人民が富んでいることを確認すると、課役を再開させた。
【古事記 下巻 仁徳天皇段】
これにより人民は栄えて、役使 に苦しむことは無くなった。
それでその御世を称えて聖帝 の世というのである。
-
-
仁徳天皇11年4月17日
群臣に詔して「今朕がこの国を見てみると、野や沢は広いが田畑は少ない。また河の水は氾濫して流れも速い。長雨にあえば潮が逆流するので、村人は船に乗って道路は泥に埋まる。そこで群臣はこれをよく見て、氾濫する河水を海に通じさせて、逆流を防いで家や田畑を侵さないようにせよ」と。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇十一年四月甲午条】 -
仁徳天皇11年10月
宮の北の野を掘り、南の水を引いて西の海に入れた。
それでその水を名付けて堀江 という。また北の河からの浸水を防ぐために
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇十一年十月条】茨田堤 を築いた。
この時、築いても崩れて防ぎがたい所が二ヶ所あった。
時に天皇は夢を見て、現れた神が教えるには「武蔵の人強頸・河内の人茨田連衫子の二人を河の神に祭れば、必ずや防ぐことが出来るであろう」と。
そこで二人を探して、河の神に祭った。
強頸は泣き悲しんで、水に入って死んだ。その堤は完成した。
ただ衫子は丸い匏 を二個取って防ぎがたい河に臨み、二個の匏を水の中に投げ入れて言うには「河の神が崇るので、神への供え物として私はやってきた。私を得たければ、この匏を沈めて浮かばないようにしてみせよ。そうすれば私は真の神と知って水の中に入ろう。もし匏を沈められなければ、偽りの神と知って我が身を亡ぼすことはない」と。
すると忽ちにつむじ風が起こり、匏を水に引き沈めようとしたが、匏は浪の上を転がるだけで沈むことはなく、速い流れの中を浮き躍りながら遠くへ流れていった。
これによって衫子は死ぬことはなかったが、その堤は完成した。
これは衫子の才智がその身を亡ぼさなかったのである。
それで時の人がその二ヶ所を名付けて強頸断間 ・衫子断間 というのである。-
【古事記 下巻 仁徳天皇段】
秦人 を使役して茨田堤 ・茨田三宅 を造った。
また丸邇池 ・依網池 を造った。
また難波 の堀江を掘って海に通した。
また小椅江 を堀った。
また墨江之津 を定めた。
-
-
仁徳天皇11年
新羅人の朝貢があった。そこでこの
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇十一年是歳条】役 に使った。 -
仁徳天皇12年7月3日
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇十二年七月癸酉条】高麗 国が鉄の盾・鉄の的を貢献した。 -
仁徳天皇12年8月10日
-
仁徳天皇12年10月
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇十二年十月条】山背 の栗隈県 に大溝を掘って田に水をひいた。
これによってその地の人民は毎年豊かになった。 -
仁徳天皇13年9月
はじめて
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇十三年九月条】茨田屯倉 を立てた。そして舂米部 を定めた。 -
仁徳天皇13年10月
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇十三年十月条】和珥池 を造る。 -
仁徳天皇13年10月
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇十三年十月是月条】横野堤 を築く。 -
仁徳天皇14年11月
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇十四年十一月条】猪甘津 に橋を渡す。そこを名付けて小橋 という。 -
仁徳天皇14年
大道を都の中に造った。南門から出て真っ直ぐに
丹比邑 に通じた。また大溝を
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇十四年是歳条】感玖 に掘った。そして石河の水を引いて、上鈴鹿 ・下鈴鹿 ・上豊浦 ・下豊浦 の四ヶ所の原を潤して、四万頃 あまりの田を得た。
それでそこの人民は豊かな実りのために凶作の憂いは無くなった。 -
仁徳天皇16年7月1日
天皇が宮人の桑田玖賀媛を近習の舎人らに見せて言うには「朕はこの女を可愛がりたいと思うが、皇后の嫉妬が強く、召すことが出来ずに多くの年月が過ぎた。このまま盛年を過ぎてしまうのか」と。
そして歌で問うた。「
瀰 儺 曾 虛 赴 於 瀰 能 烏 苔 咩 烏 多 例 揶 始 儺 播 務 」「
瀰 箇 始 報 破 利 摩 波 揶 摩 智 以 播 區 娜 輸 伽 之 古 倶 等 望 阿 例 揶 始 儺 破 務 」翌日の夕方、速待は玖賀媛の家に行った。しかし玖賀媛が好意を持つことはなかった。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇十六年七月戊寅朔条】
強引に寝床に近づくと、玖賀媛は「私は寡婦のまま終えたいと思います。どうして君の妻となりましょうか」と言った。
天皇は速待の志を遂げさせたいと思い、玖賀媛を速待に副えて桑田 に送り遣わした。
しかし玖賀媛は道中で発病して死んでしまった。
それで今でも玖賀媛の墓がある。 -
仁徳天皇17年
新羅が朝貢せず。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇十七年条】 -
仁徳天皇17年9月
-
大后石之日売命は嫉妬することがとても多かった。
それで天皇が使わせる妃は宮中も見られず、目立つことをすれば地団駄を踏んで嫉妬した。
天皇は吉備海部直 の女、名は黒日売が端正な容姿と聞くと、召し上げて使った。
しかしその大后の嫉妬に恐れて故郷に逃げ帰った。天皇は高殿でその黒日売が乗る船が海に浮かぶのを見て歌を詠んだ。
「
淤 岐 幣 邇 波 袁 夫 泥 都 羅 羅 玖 久 漏 邪 夜 能 摩 佐 豆 古 和 藝 毛 玖 邇 幣 玖 陀 良 須 」
それで大后はこの御歌を聞いて大いに怒り、人を大浦に遣わして追い下ろさせると、歩かせて追放した。天皇は黒日売を恋しく思い、大后を欺いて「
淡道島 を見たいと思う」と言って行幸した。
淡道島で遥か遠くを眺めて歌を詠んだ。「
淤 志 弖 流 夜 那 爾 波 能 佐 岐 用 伊 傳 多 知 弖 和 賀 久 邇 美 禮 婆 阿 波 志 摩 淤 能 碁 呂 志 摩 阿 遲 摩 佐 能 志 麻 母 美 由 佐 氣 都 志 摩 美 由 」
そしてその島から伝って吉備国に行幸した。
黒日売はその国の山畑の所に案内して大御飯 を献上した。
そして熱い汁物を煮ようとして、その山畑の菘菜 を摘む時に、天皇がその少女が菜を摘んでいる所にやってきて歌を詠んだ。「
夜 麻 賀 多 邇 麻 祁 流 阿 袁 那 母 岐 備 比 登 登 等 母 邇 斯 都 米 婆 多 怒 斯 久 母 阿 流 迦 」
天皇が還幸する時に黒日売が御歌を献上した。「
夜 麻 登 幣 邇 爾 斯 布 岐 阿 宜 弖 玖 毛 婆 那 禮 曾 岐 袁 理 登 母 和 禮 和 須 禮 米 夜 」また歌を読んだ。
「
【古事記 下巻 仁徳天皇段】夜 麻 登 幣 邇 由 玖 波 多 賀 都 麻 許 母 理 豆 能 志 多 用 波 閇 都 都 由 久 波 多 賀 都 麻 」 -
仁徳天皇22年1月
天皇は皇后に「八田皇女を召し入れて妃とする」と言った。皇后は承知しなかった。
天皇は歌で皇后に乞うた。「
于 磨 臂 苔 能 多 菟 屢 虛 等 太 氐 于 磋 由 豆 流 多 曳 磨 菟 餓 務 珥 奈 羅 陪 氐 毛 餓 望 」皇后は歌で答えた。
「
虛 呂 望 虛 曾 赴 多 幣 茂 豫 耆 瑳 用 廼 虛 烏 那 羅 陪 務 耆 瀰 破 箇 辭 古 耆 呂 箇 茂 」天皇はまた歌を詠んだ。
「
於 辭 氐 屢 那 珥 破 能 瑳 耆 能 那 羅 弭 破 莽 那 羅 陪 務 苔 虛 層 曾 能 古 破 阿 利 鷄 梅 」皇后は歌で答えた。
「
那 菟 務 始 能 譬 務 始 能 虛 呂 望 赴 多 幣 耆 氐 箇 區 瀰 夜 儾 利 破 阿 珥 豫 區 望 阿 羅 儒 」天皇はまた歌を詠んだ。
「
阿 佐 豆 磨 能 避 箇 能 烏 瑳 箇 烏 箇 多 那 耆 珥 瀰 𦤶 喩 區 茂 能 茂 多 遇 譬 氐 序 豫 枳 」皇后は遂に許さず、黙って返答しなかった。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇二十二年正月条】 -
仁徳天皇30年9月11日
皇后は
紀国 の熊野岬 に行啓した。
そしてそこの御綱葉 を採って帰った。天皇は皇后不在を伺い、八田皇女を娶って宮中に召し入れた。
時に皇后が
難波済 に至り、天皇が八田皇女を召し入れたことを聞いて大いに恨んだ。
そしてその採った御綱葉を海に投げ入れて、岸にとまらなかった。
それで時の人は、葉を散らした海を名付けて葉済 というのである。天皇は皇后が怒って着岸しなかったことを知らずに、難波の大津に行幸して皇后の船を待った。
そして歌を詠んだ。「
那 珥 波 譬 苔 須 儒 赴 泥 苔 羅 齊 許 辭 那 豆 瀰 曾 能 赴 尼 苔 羅 齊 於 朋 瀰 赴 泥 苔 禮 」皇后は大津に泊まらず、引きかえして川を遡り、山背から廻って倭に出た。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十年九月乙丑条】-
【古事記 下巻 仁徳天皇段】
大后が酒宴を催すために
御綱柏 を採りに木国 に出かけた間に、天皇は八田若郎女と結婚した。
大后が御綱柏を船に満載して帰還した時、水取司 に遣わした吉備国の児島の仕丁 が自分の国に帰る途上、難波の大渡で大后に遅れてやってきた倉人女 の船に出会った。
仕丁が言うには「天皇は、このごろ八田若郎女と結婚されて、昼も夜も戯れ遊んでございます。大后がお聞きにならないためか、のんびりと遊びにお出かけになってございます」と。
倉人女はこれを聞くと、大后の御船に追い近づいて、仕丁の言葉をつぶさに伝えた。
大后は大いに恨み怒って、その御船に載せた御綱柏の全てを海に投げ捨てた。
それでその地を名付けて御津前 という。そして宮に入らずに御船を引き避けて堀江を遡り、河の流れに従って山代に上った。
この時に歌を詠んだ。「
都 藝 泥 布 夜 夜 麻 志 呂 賀 波 袁 迦 波 能 煩 理 和 賀 能 煩 禮 婆 迦 波 能 倍 邇 淤 斐 陀 弖 流 佐 斯 夫 袁 佐 斯 夫 能 紀 斯 賀 斯 多 邇 淤 斐 陀 弖 流 波 毘 呂 由 都 麻 都 婆 岐 斯 賀 波 那 能 弖 理 伊 麻 斯 芝 賀 波 能 比 呂 理 伊 麻 須 波 淤 富 岐 美 呂 迦 母 」そして山代をまわって、那良山の入口に至り、歌を詠んだ。
「
都 藝 泥 布 夜 夜 麻 志 呂 賀 波 袁 美 夜 能 煩 理 和 賀 能 煩 禮 婆 阿 袁 邇 余 志 那 良 袁 須 疑 袁 陀 弖 夜 麻 登 袁 須 疑 和 賀 美 賀 本 斯 久 邇 波 迦 豆 良 紀 多 迦 美 夜 和 藝 幣 能 阿 多 理 」このように歌って還り、
筒木 の韓人 奴理能美の家に暫く入った。天皇は大后が山代から上ってきたと聞いて、舎人の名を鳥山という人を遣わして御歌を送った。
「
夜 麻 斯 呂 邇 伊 斯 祁 登 理 夜 麻 伊 斯 祁 伊 斯 祁 阿 賀 波 斯 豆 摩 邇 伊 斯 岐 阿 波 牟 加 母 」また続けて丸邇臣口子を遣わして歌を詠んだ。
「
美 母 呂 能 曾 能 多 迦 紀 那 流 意 富 韋 古 賀 波 良 意 富 韋 古 賀 波 良 邇 阿 流 岐 毛 牟 加 布 許 許 呂 袁 陀 邇 迦 阿 比 淤 母 波 受 阿 良 牟 」また歌を詠んだ。
「
都 藝 泥 布 夜 麻 志 呂 賣 能 許 久 波 母 知 宇 知 斯 淤 富 泥 泥 士 漏 能 斯 漏 多 陀 牟 岐 麻 迦 受 祁 婆 許 曾 斯 良 受 登 母 伊 波 米 」
それで口子臣がこの御歌を述べる時に大雨が降っていたが、その雨を避けずに御殿の表戸で平伏していると、大后は裏戸から出てきた。
裏戸で平伏すると表戸から出てきた。
それで地を腹這いで進み、庭の中央で跪いて腰まで水に浸かった。
その臣は紅い紐のついた青摺の衣を着ていた。それで紅い紐が水たまりに浸かり、青い衣は紅に変色した。
口子臣の妹の口日売は大后に仕えていた。
それでこの口日売が歌を詠んだ。「
夜 麻 志 呂 能 都 都 紀 能 美 夜 邇 母 能 麻 袁 須 阿 賀 勢 能 岐 美 波 那 美 多 具 麻 志 母 」そこで太后がそのわけを尋ねると、「我が兄口子臣でございます」と答えた。
口子臣・その妹の口比売・奴理能美の三人が相談して天皇に奏上するには「大后が行幸なされましたのは、奴理能美が飼っている虫が、一度は這う虫になり、一度は繭になり、一度は鳥を飛び、三色に変わる不思議な虫であり、この虫を御覧になるためで、他意はございません」と。
天皇は「自分も奇妙だと思うので、見に行こうと思う」と言うと、大宮から上って奴理能美の家に入った。
その奴理能美は自分が育てている三種に変わる虫を大后に献上した。
天皇は大后がいる御殿の戸口に立って歌を詠んだ。「
都 藝 泥 布 夜 麻 斯 呂 賣 能 許 久 波 母 知 宇 知 斯 意 富 泥 佐 和 佐 和 爾 那 賀 伊 幣 勢 許 曾 宇 知 和 多 須 夜 賀 波 延 那 須 岐 伊 理 麻 韋 久 禮 」この天皇と大后が歌った六歌は、
志都歌之歌返 である。天皇は八田若郎女が恋しくて、御歌を賜って遣わした。
「
夜 多 能 比 登 母 登 須 宜 波 古 母 多 受 多 知 迦 阿 禮 那 牟 阿 多 良 須 賀 波 良 許 登 袁 許 曾 須 宜 波 良 登 伊 波 米 阿 多 良 須 賀 志 賣 」八田若郎女は答えて歌を詠んだ。
「
夜 多 能 比 登 母 登 須 宜 波 比 登 理 袁 理 登 母 意 富 岐 彌 斯 與 斯 登 岐 許 佐 婆 比 登 理 袁 理 登 母 」そこで八田若郎女の御名代として
八田部 を定めた。
-
-
仁徳天皇30年9月12日
天皇は舎人の鳥山を遣わして皇后を還らせようと歌を詠んだ。
「
夜 莽 之 呂 珥 伊 辭 鷄 苔 利 夜 莽 伊 辭 鷄 之 鷄 阿 餓 茂 赴 菟 摩 珥 伊 辭 枳 阿 波 牟 伽 茂 」
皇后は還らずに猶も進み、山背河に至って歌を詠んだ。「
菟 藝 泥 赴 揶 莽 之 呂 餓 波 烏 箇 破 能 朋 利 涴 餓 能 朋 例 麼 箇 波 區 莽 珥 多 知 瑳 介 喩 屢 毛 毛 多 羅 儒 揶 素 麼 能 紀 破 於 朋 耆 瀰 呂 介 茂 」そして那羅山を越えて、
葛城 を望んで歌を詠んだ。「
菟 藝 泥 赴 揶 莽 之 呂 餓 波 烏 瀰 揶 能 朋 利 和 餓 能 朋 例 麼 阿 烏 珥 豫 辭 儺 羅 烏 輸 疑 烏 陀 氐 夜 莽 苔 烏 輸 疑 和 餓 瀰 餓 朋 辭 區 珥 波 箇 豆 羅 紀 多 伽 瀰 揶 和 藝 弊 能 阿 多 利 」また山背に還って宮室を
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十年九月乙丑明日条】筒城岡 の南に建てて住んだ。 -
仁徳天皇30年10月1日
的臣 の祖口持臣を遣わして皇后を招喚した。あるいは和珥臣 の祖口子臣という。
口持臣は筒城宮 に着き、皇后に謁見した。しかし黙って返事がなかった。
口持臣は雨に濡れて日を重ねても皇后の殿舎の前に伏して去ることはなかった。口持臣の妹の国依媛は皇后に仕えていた。
この時にあたり皇后の側で侍り、雨に濡れる兄を見て涙を流して歌を詠んだ。「
揶 莽 辭 呂 能 菟 菟 紀 能 瀰 揶 珥 茂 能 莽 烏 輸 和 餓 齊 烏 瀰 例 麼 那 瀰 多 愚 摩 辭 茂 」皇后は国依媛に「なぜお前は泣いているのか」と尋ねると、「今庭に伏して申し上げる者は私の兄でございます。雨に濡れても避けず、猶も伏して申し上げております。それで泣き悲しんでいるのでございます」と答えた。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十年十月甲申朔条】
皇后は「お前の兄に言って速やかに帰らせなさい。私は帰りません」と言った。
口持は帰って天皇に報告した。 -
仁徳天皇30年11月7日
天皇は船で山背に行幸した。
時に桑の枝が水に流れてきた。
天皇は桑の枝を見て歌を詠んだ。「
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十年十一月庚申条】菟 怒 瑳 破 赴 以 破 能 臂 謎 餓 飫 朋 呂 伽 珥 枳 許 瑳 怒 于 羅 愚 破 能 紀 豫 屢 麻 志 士 枳 箇 破 能 區 莽 愚 莽 豫 呂 朋 譬 喩 玖 伽 茂 于 羅 愚 破 能 紀 」 -
仁徳天皇30年11月8日
天皇は
筒城宮 に行って皇后を呼んだ。皇后は会おうとしなかった。
天皇は歌を詠んだ。「
菟 藝 泥 赴 揶 摩 之 呂 謎 能 許 久 波 茂 知 于 智 辭 於 朋 泥 佐 和 佐 和 珥 儺 餓 伊 弊 劑 虛 曾 于 知 和 多 須 椰 餓 波 曳 儺 須 企 以 利 摩 韋 區 例 」また歌を詠んだ。
「
菟 藝 泥 赴 夜 莽 之 呂 謎 能 許 玖 波 茂 知 于 智 辭 於 朋 泥 泥 士 漏 能 辭 漏 多 娜 武 枳 摩 箇 儒 鷄 麼 虛 曾 辭 羅 儒 等 茂 伊 波 梅 」皇后は人に申し上げさせて「陛下は八田皇女を召し入れて妃となさいました。皇女と一緒に后になりたくございません」と。
遂に会うことはなく、天皇は宮殿に戻った。天皇は皇后が大いに怒っているのを恨んだが、猶も偲び思うことがあった。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十年十一月庚申明日条】 -
仁徳天皇31年1月15日
大兄去来穂別尊を立てて皇太子とする。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十一年正月丁卯条】 -
仁徳天皇35年6月
皇后磐之媛命が
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十五年六月条】筒城宮 で薨る。 -
仁徳天皇37年11月12日
皇后を
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十七年十一月乙酉条】那羅山 に葬る。 -
仁徳天皇38年1月6日
八田皇女を立てて皇后とする。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十八年正月戊寅条】 -
仁徳天皇38年7月
天皇と皇后は高殿で暑さを避けた。
時に毎夜
菟餓野 の方から鹿の鳴き声が聞こえた。その声はとても悲しげで、二人は憐れみを感じた。
月末になると鹿の鳴き声は聞こえなくなっていた。
天皇は皇后に「今宵は鹿の鳴き声が聞こえない。なぜだろうか」と語った。翌日、
猪名県 の佐伯部 が贈り物を献上した。
天皇が膳夫 に「その贈り物は何であるか」と問うと、「牡鹿でございます」と答えた。「どこの鹿であるか」と問うと、「菟餓野でございます」と答えた。
天皇はこの贈り物を、きっとあの鳴いていた鹿であると思った。
それで皇后に語って「朕はこのごろ物思いにふけっていたが、鹿の声を聞いて心が慰められた。佐伯部が獲った鹿は、時間と場所を考えると、あの鳴いていた鹿であろう。その人は我が愛を知らずに獲ってしまったといえども、猶も恨めしいことだ。それで佐伯部を皇居に近づけたくない」と。
そして役人に命じて、安芸 の渟田 に移した。これが今の渟田の佐伯部の祖である。俗に言う。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十八年七月条】
昔ある人が菟餓 に行って、野中に宿った。
時に二頭の鹿が傍に伏していた。
夜が明けようとする頃、牡鹿は牝鹿に語って「私は昨夜夢を見た。白霜が多く降って我が身を覆ったのだが、これは何のしるしであろうか」と。
牝鹿は答えて「あなたが出て行けば、必ず人に射られて死んでしまいます。塩をその身に塗れば、その霜と同じしるしとなるでしょう」と。
時に宿っていた人は不思議に思った。
明け方、猟師が牡鹿を射殺した。
時の人の諺に「鳴く牡鹿でもないのに、夢のままになった」というのである。 -
仁徳天皇40年2月
雌鳥皇女を妃に入れたいと思い、隼別皇子を仲立ちとした。
隼別皇子は密かに自ら娶り、久しく復命しなかった。
天皇は夫があることを知らずに、自ら雌鳥皇女の寝室にやってきた。
時に皇女の為に機織りの女たちが歌った。「
比 佐 箇 多 能 阿 梅 箇 儺 麼 多 謎 廼 利 餓 於 瑠 箇 儺 麼 多 波 揶 步 佐 和 氣 能 瀰 於 須 譬 鵝 泥 」天皇は隼別皇子が密かに結婚していたことを知って恨んだ。
しかし皇后の言葉にはばかり、また兄弟の義を重んじ、耐えて罪とはしなかった。しばらくして隼別皇子は皇女の膝を枕にして寝た。
そして「鷦鷯 と隼ではどちらが速いだろうか」と語った。すると「隼が速いです」と答えた。
皇子は「私が先んじているということだ」と言った。天皇はこの言葉を聞いて、更に恨みを起こした。
時に隼別皇子の舎人たちが歌った。
「
破 夜 步 佐 波 阿 梅 珥 能 朋 利 等 弭 箇 慨 梨 伊 菟 岐 餓 宇 倍 能 娑 奘 岐 等 羅 佐 泥 」天皇はこの歌を聞くと大いに怒って言うには「朕は私事の恨みで親族を失いたくはないので耐えてきたのだ。なぜ隙があるからと私事を世の中に及ぼそうとするのか」と。
そして隼別皇子を殺そうと思った。時に皇子は雌鳥皇女を連れて、伊勢神宮を参拝しようと急いだ。
天皇は隼別皇子が逃走したと聞いて、吉備品遅部雄鯽・播磨佐伯直阿俄能胡を遣わして「後を追って捕えたら、ただちに殺せ」と言った。
皇后は「雌鳥皇女は重罪に当たります。しかし殺すときに皇女の身を露わにすることは望みません」と言った。
そこで雄鯽らに勅して「皇女が身につけている足玉・手玉を取ってはいけない」と言った。
雄鯽らは追って菟田 に至り、素珥山 に迫った。
この時に皇子たちは草の中に隠れて僅かに免れることができた。そして急いで逃げて山を越えた。
ここで皇子が歌を詠んだ。「
破 始 多 氐 能 佐 餓 始 枳 揶 摩 茂 和 藝 毛 古 等 赴 駄 利 古 喩 例 麼 揶 須 武 志 呂 箇 茂 」雄鯽らは逃げられたことを知り、急ぎ追って伊勢の
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇四十年二月条】蒋代野 で殺した。
時に雄鯽らは皇女の玉を探して、裳の中から見つけて取った。
そして二王の屍は廬杵河 のほとりに埋めて復命した。
皇后が雄鯽らに「もしや皇女の玉を見ていませんか」と問うと、「見ませんでした」と答えた。-
天皇はその弟の速総別王を仲人として、庶妹の女鳥王を求めた。
しかし女鳥王が速総別王に言うには「大后の嫉妬が強く、八田若郎女はお召しに預かれておりません。私もお仕えすることは出来ないと思います。私はあなた樣の妻になりましょう」と。
すぐに結婚した。速総別王は復命しなかった。そこで天皇は女鳥王のいる御殿に行って、その御殿の戸口の敷居の上にいた。
女鳥王は機に坐して服を織っていた。
そこで天皇は歌を詠んだ。「
賣 杼 理 能 和 賀 意 富 岐 美 能 淤 呂 須 波 多 他 賀 多 泥 呂 迦 母 」女鳥王は答えて歌を詠んだ。
「
多 迦 由 久 夜 波 夜 夫 佐 和 氣 能 美 淤 須 比 賀 泥 」天皇は事情を知って宮中に帰った。
その夫の速総別王がやって来た時に、その妻の女鳥王が歌を詠んだ。
「
比 婆 理 波 阿 米 邇 迦 氣 流 多 迦 由 玖 夜 波 夜 夫 佐 和 氣 佐 邪 岐 登 良 佐 泥 」天皇はこの歌を聞くと、すぐに軍を興して殺そうとした。
速総別王と女鳥王は共に逃げ退いて
倉椅山 に登った。
ここで速総別王が歌を詠んだ。「
波 斯 多 弖 能 久 良 波 斯 夜 麻 袁 佐 賀 志 美 登 伊 波 迦 伎 加 泥 弖 和 賀 弖 登 良 須 母 」また歌を詠んだ。
「
波 斯 多 弖 能 久 良 波 斯 夜 麻 波 佐 賀 斯 祁 杼 伊 毛 登 能 煩 禮 波 佐 賀 斯 玖 母 阿 良 受 」
【古事記 下巻 仁徳天皇段】
そしてその地から逃亡して、宇陀 の蘇邇 に至るときに、御軍が追いつかれて殺された。
-
-
仁徳天皇40年
新嘗の月の宴会の日、酒を内外の命婦らに賜った。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇四十年是歳条】
この時に近江山君稚守山の妻と采女の磐坂媛の二人の女の手に良い珠が巻かれていた。
皇后がその珠を見てみると、雌鳥皇女の珠に似ていた。
そして疑いを持って役人に命じて、その玉を得た由縁を問わせると、「佐伯直阿俄能胡の妻の玉でございます」と答えた。
それで阿俄能胡を責めただすと、「皇女を誅した日に探して取りました」と答えた。
阿俄能胡を殺そうとしたが、阿俄能胡が自分の土地を献上して死を償いたいと申し出たため、その地を納めて死罪を許した。
それでその地を名付けて玉代 という。 -
仁徳天皇41年3月
-
仁徳天皇43年9月1日
依網 の屯倉 の阿弭古 が怪しい鳥を捕獲した。
そして天皇に言うには「私はいつも網を張って鳥を捕っておりますが、まだこのような鳥を得たことはございません。めずらしいので献上致します」と。
天皇は酒君を呼び、鳥を見せて「これは何の鳥か」と言った。
酒君が答えて「この鳥の類は百済に多く住んでございます。馴らすと良く人に従います。また速く飛んでいろいろな鳥を取ります。百済ではこの鳥を倶知 と申します」と答えた。これは今の鷹である。
それで酒君に授けて養わせた。未幾も経たぬうちに馴れた。
酒君はなめし革の紐をその足につけ、小鈴をその尾につけ、腕の上に乗せて天皇に献上した。この日、
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇四十三年九月庚子朔条】百舌鳥野 に行幸して狩りをした。
時に雌雉が多く飛び立った。
そこで鷹を放して捕らせると、たちまち数十の雉を獲った。 -
仁徳天皇43年9月
はじめて
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇四十三年九月是月条】鷹甘部 を定めた。
それで時の人はその鷹を養ったところを名付けて鷹甘邑 というのである。 -
仁徳天皇50年3月5日
河内の人が上奏して「
茨田堤 に雁が子を産みました」と。
その日に使いを遣わして観察させると真実だった。
天皇は歌を詠んで武内宿禰に問うた。「
多 莽 耆 破 屢 宇 知 能 阿 曾 儺 虛 曾 破 豫 能 等 保 臂 等 儺 虛 曾 波 區 珥 能 那 餓 臂 等 阿 耆 豆 辭 莽 揶 莽 等 能 區 珥 珥 箇 利 古 武 等 儺 波 企 箇 輸 揶 」武内宿禰は歌で答えた。
「
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇五十年三月丙申条】夜 輸 瀰 始 之 和 我 於 朋 枳 瀰 波 于 陪 儺 于 陪 儺 和 例 烏 斗 波 輸 儺 阿 企 菟 辭 摩 揶 莽 等 能 倶 珥 珥 箇 利 古 武 等 和 例 破 枳 箇 儒 」 -
仁徳天皇53年
新羅が朝貢せず。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇五十三年条】 -
仁徳天皇53年5月
上毛野君 の祖竹葉瀬を遣わして朝貢しないことを問うた。
その途上で白鹿を捕えたので、帰還して天皇に献上した。さらにまた日を改めて出発した。
しばらくして竹葉瀬の弟の田道を重ねて遣わした。
そして「もし新羅が抵抗したら、兵を挙げて討て」と詔して精兵を授けた。新羅は兵を起こして防いだ。新羅人は毎日戦いを挑んだ。
田道は守りを固くしてそこから出なかった。時に新羅の軍卒一人が陣営の外に出たので捕えた。
そして様子を尋ねると、「力の強い人がいて、百衝といいます。身軽で速く、勇猛です。つねに軍の右前鋒にいるので、左を攻めれば敗れるでしょう」と答えた。時に新羅は左を空けて右に備えた。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇五十三年五月条】
田道は精鋭の騎馬を連ねて、その左を攻めると新羅軍は潰走した。
勢いに乗じて攻め、数百人を殺した。
そして四つの邑の人民を捕虜として帰還した。 -
仁徳天皇55年
-
仁徳天皇58年5月
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇五十八年五月条】荒陵 の松林の南道に、二本のくぬぎの木が生えた。路を挟んで木の先が一本になっていた。 -
仁徳天皇58年10月
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇五十八年十月条】呉国 ・高麗国 が朝貢する。 -
仁徳天皇60年10月
白鳥陵 の陵守たちを役丁 にあてた。時に天皇自ら役所に臨んだ。陵守の目杵は白鹿に化けて逃げた。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇六十年十月条】
天皇は詔して「この陵はもとから空だった。それでその陵守を除こうと思って役丁にあてた。今この不思議を見ると甚だ恐ろしい。陵守は動かしてはならない」と。
そしてまた土師連 らに授けた。 -
仁徳天皇62年5月
遠江国の国司が上奏して「大きな樹があり、
大井河 から流れて川隈に停まりました。その大きさは十囲で、根元は一つで先は二股になっております」と。時に倭直吾子籠を遣わして船を造らせた。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇六十二年五月条】
南海から巡らせて難波津 に届くと御船とした。 -
仁徳天皇62年
額田大中彦皇子が
闘鶏 で狩りをした。時に皇子が山の上から野の中を見ると物があり、その形は
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇六十二年是歳条】廬 のようだった。
使者を遣わして確認させると、還ってきて「窟 でございます」と言った。
そこで闘鶏稲置大山主を呼んで「あの野の中にあるのは何の窟だ」と問うと、「氷室でございます」と答えた。
皇子が「その納めた様子はどうなっているのか。またどのように用いるのか」と言うと、「土を掘ること一丈余。萱をその上に葺き、厚く茅すすきを敷いて、氷を取ってその上に置きます。夏を越しても消えません。その用途は熱い時期に水酒に浸して用います」と言った。
皇子がその氷を持っきて御所に献上すると天皇は喜んだ。
これ以後、師走になるたびに必ず氷を納め、春分になると始めて氷を配った。 -
仁徳天皇65年
-
仁徳天皇67年10月5日
河内の
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇六十七年十月甲申条】石津原 に行幸して陵地を定める。 -
仁徳天皇67年10月18日
始めて陵を築く。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇六十七年十月丁酉条】
この日、鹿が野の中から急に出てきて、走って役民の中に入って倒れ死んだ。その死に様を怪しんで傷を探させた。
すると百舌鳥 が耳から出て飛び去った。
耳の中を見てみると、悉く喰い齧られていた。
それでそこを名付けて百舌鳥耳原 というのはこれがもとである。 -
仁徳天皇67年
吉備中国 の川島河 の河股に大虬 がいて人を苦しめていた。
道行く人がそこに行って触れば必ず毒にあたり多くが死んだ。笠臣 の祖県守は勇ましく力が強かった。
淵に臨んで三つの瓠を水に投げ入れて言うには「お前は度々毒を吐いて道行く人を苦しめた。私はお前を殺そうと思う。もしお前が瓠を沈めることができたら私は去ろう。沈めることができなければお前の身を斬る」と。
虬は鹿に化けて瓠を引き入れた。しかし瓠は沈まなかった。
そこで剣を挙げて水に入り虬を斬った。さらに虬の仲間を探した。
虬の仲間は淵の底の穴に満ちていたので悉くを斬った。
河水は血に変わった。それでその河を名付けて県守淵 という。この時に当たり、妖気がやや動いて、はじめて叛く者が一人二人現れた。
天皇は早く起きて遅く寝て、税を軽くして民を安心させ、徳を布き恵みを施して困窮を救った。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇六十七年是歳条】
死者を弔い、疫者を尋ね、身寄りのない者を養った。
それで政令は流れるように行われ、天下は太平で二十余年無事だった。 - ・・・
-
【古事記 下巻 仁徳天皇段】
この御世に、免寸河の西に一本の高い木があった。
その木の影は、朝日が当たれば淡道島 に達し、夕日が当たれば高安 山を越えた。
この木を切って船を造ってみると、とても速く進む船だった。時にその船を名付けて枯野 という。
そこでこの船で、朝夕淡道島の清水を汲んで大御水 を献上した。
この船が壊れると、焼いて塩を取り、焼け残った木で琴を作った。その音は七つの里まで響いた。
歌にいう。「
加 良 怒 袁 志 本 爾 夜 岐 斯 賀 阿 麻 理 許 登 爾 都 久 理 加 岐 比 久 夜 由 良 能 斗 能 斗 那 加 能 伊 久 理 爾 布 禮 多 都 那 豆 能 紀 能 佐 夜 佐 夜 」これは
志都歌之歌返 という。
-
-
仁徳天皇82年2月【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 仁徳天皇八十二年二月乙巳朔条】
-
仁徳天皇87年1月16日
崩じる。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇八十七年正月癸卯条】-
天皇は御年八十三歳。
【古事記 下巻 仁徳天皇段】
丁卯年八月十五日に崩じた。
-
-
仁徳天皇87年10月7日
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇八十七年十月己丑条】百舌鳥野陵 に葬られる。-
御陵は
【古事記 下巻 仁徳天皇段】毛受之耳原 にある。
-