八田皇女

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名前
  • 八田皇女【日本書紀】(やた
  • 矢田皇女【日本書紀】(やた
  • 八田若郞女【古事記】(やたわかいらつ, やたいらつ)八田若郎女
性別
女性
生年月日
( ~ 仁徳天皇元年12月30日)
没年月日
(允恭天皇42年12月14日 ~ )
  • 応神天皇おうじんてんのう【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条, 先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 応神天皇二年四月壬子条】
  • 宮主宅媛みやぬしやかひめ【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】
    • 香室媛かむろひめ物部山無媛もののべのやまなしひめ【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 応神天皇二年四月壬子条】
先祖
  1. 応神天皇
    1. 仲哀天皇
      1. 日本武尊
      2. 両道入姫命
    2. 神功皇后
      1. 気長宿禰王
      2. 葛城高顙媛
  2. 宮主宅媛
    1. 日触使主
    2. unknown
配偶者
  • 仁徳天皇にんとくてんのう【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十年九月乙丑条】
出来事
  • 応神天皇の皇女として生まれる。母は宮主宅媛

    【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】
  • 応神天皇41年2月15日応神記では甲午年九月九日。

    応神天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第十 応神天皇四十一年二月戊申条】
  • 仁徳天皇元年記事に従えば、菟道稚郎子薨去は早くて仁徳天皇元年1月4日以降になるが、仁徳天皇即位日と矛盾が生じる。

    大鷦鷯尊後の仁徳天皇。は太子菟道稚郎子が薨じたことを聞くと、驚いて難波から急いで菟道宮にやって来た。
    太子が薨じて三日が経っていた。
    大鷦鷯尊は胸を打って泣き叫び、なす術を知らなかった。
    髪を解いて屍に跨って「我が弟の皇子よ」と三度呼んだ。
    すると瞬く間に生き返り、自ら起き上がった。
    大鷦鷯尊は太子に語って「悲しい。惜しい。どうして自ら逝こうとするのですか。もし死を知られたら、先帝は私に何とおっしゃるでしょう」と。
    太子が兄王に言うには「天命なのです。誰も止めることは出来ません。もし天皇の御所に参ることがございましたら、兄王が聖で、しばしば譲られましたことを申し上げます。しかし聖王は我が死をお聞きになり、遠路を急ぎお出で下さいました。御礼を申し上げないことなど有り得ません」と。
    そして同母妹の八田皇女を奉り、「お召しなるには不足と存じますが、どうか後宮の数に入れて頂きたく存じます」と言うと、棺に伏して薨じた。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇即位前紀 応神天皇四十一年二月条】
  • 仁徳天皇22年1月

    仁徳天皇が八田皇女を妃にしようとするが、皇后磐之媛命は承知しなかった。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇二十二年正月条】
  • 仁徳天皇30年9月11日

    天皇は皇后不在を伺い、八田皇女を娶って宮中に召し入れた。
    皇后はこれを聞いて激怒した。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十年九月乙丑条】
    • 天皇は八田若郎女が恋しくて、御歌を賜って遣わした。

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      八田若郎女は答えて歌を詠んだ。

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      そこで八田若郎女の御名代として八田部(やたべ)を定めた。

      【古事記 下巻 仁徳天皇段】
  • 仁徳天皇35年6月

    皇后磐之媛命が崩じる。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十五年六月条】
  • 仁徳天皇38年1月6日

    仁徳天皇の皇后となる。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十八年正月戊寅条】
  • 仁徳天皇38年7月

    天皇と皇后は高殿で暑さを避けた。

    時に毎夜菟餓野(とがの)の方から鹿の鳴き声が聞こえた。その声はとても悲しげで、二人は憐れみを感じた。
    月末になると鹿の鳴き声は聞こえなくなっていた。
    天皇は皇后に「今宵は鹿の鳴き声が聞こえない。なぜだろうか」と語った。

    翌日、猪名県(いなのあがた)佐伯部(さえきべ)が贈り物を献上した。
    天皇が膳夫(かしわで)に「その贈り物は何であるか」と問うと、「牡鹿でございます」と答えた。「どこの鹿であるか」と問うと、「菟餓野でございます」と答えた。
    天皇はこの贈り物を、きっとあの鳴いていた鹿であると思った。
    それで皇后に語って「朕はこのごろ物思いにふけっていたが、鹿の声を聞いて心が慰められた。佐伯部が獲った鹿は、時間と場所を考えると、あの鳴いていた鹿であろう。その人は我が愛を知らずに獲ってしまったといえども、猶も恨めしいことだ。それで佐伯部を皇居に近づけたくない」と。
    そして役人に命じて、安芸(あき)渟田(ぬた)に移した。

    俗に言う。
    昔ある人が菟餓(とが)に行って、野中に宿った。
    時に二頭の鹿が傍に伏していた。
    夜が明けようとする頃、牡鹿は牝鹿に語って「私は昨夜夢を見た。白霜が多く降って我が身を覆ったのだが、これは何のしるしであろうか」と。
    牝鹿は答えて「あなたが出て行けば、必ず人に射られて死んでしまいます。塩をその身に塗れば、その霜と同じしるしとなるでしょう」と。
    時に宿っていた人は不思議に思った。
    明け方、猟師が牡鹿を射殺した。
    時の人の諺に「鳴く牡鹿でもないのに、夢のままになった」というのである。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十八年七月条】
  • 仁徳天皇40年2月三月とする写本あり。

    仁徳天皇雌鳥皇女を妃に入れたいと思い、隼別皇子を仲立ちとした。
    隼別皇子は密かに自ら娶り、久しく復命しなかった。
    天皇は夫があることを知らずに、自ら雌鳥皇女の寝室にやってきた。
    時に皇女の為に機織りの女たちが歌った。

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    天皇は隼別皇子が密かに結婚していたことを知って恨んだ。
    しかし皇后の言葉にはばかり、また兄弟の義を重んじ、耐えて罪とはしなかった。

    しばらくして隼別皇子は皇女の膝を枕にして寝た。
    そして「鷦鷯(さざき)ミソサザイ。仁徳天皇の御名は大鷦鷯。と隼ではどちらが速いだろうか」と語った。すると「隼が速いです」と答えた。
    皇子は「私が先んじているということだ」と言った。

    天皇はこの言葉を聞いて、更に恨みを起こした。

    時に隼別皇子の舎人たちが歌った。

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    天皇はこの歌を聞くと大いに怒って言うには「朕は私事の恨みで親族を失いたくはないので耐えてきたのだ。なぜ隙があるからと私事を世の中に及ぼそうとするのか」と。
    そして隼別皇子を殺そうと思った。

    時に皇子は雌鳥皇女を連れて、伊勢神宮を参拝しようと急いだ。
    天皇は隼別皇子が逃走したと聞いて、吉備品遅部雄鯽播磨佐伯直阿俄能胡を遣わして「後を追って捕えたら、ただちに殺せ」と言った。
    皇后八田皇女は「雌鳥皇女は重罪に当たります。しかし殺すときに皇女の身を露わにすることは望みません」と言った。
    そこで雄鯽らに勅して「皇女が身につけている足玉・手玉を取ってはいけない」と言った。
    雄鯽らは追って菟田(うだ)に至り、素珥山(そにやま)に迫った。
    この時に皇子たちは草の中に隠れて僅かに免れることができた。そして急いで逃げて山を越えた。
    ここで皇子が歌を詠んだ。

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    雄鯽らは逃げられたことを知り、急ぎ追って伊勢の蒋代野(こもしろのの)で殺した。
    時に雄鯽らは皇女の玉を探して、裳の中から見つけて取った。
    そして二王の屍は廬杵河(いおきがわ)のほとりに埋めて復命した。
    皇后が雄鯽らに「もしや皇女の玉を見ていませんか」と問うと、「見ませんでした」と答えた。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇四十年二月条】
  • 仁徳天皇40年

    新嘗の月の宴会の日、酒を内外の命婦らに賜った。
    この時に近江山君稚守山の妻と采女の磐坂媛の二人の女の手に良い珠が巻かれていた。
    皇后八田皇女。古事記ではこの時の皇后を石之日売命(磐之媛命)とする。がその珠を見てみると、雌鳥皇女の珠に似ていた。
    そして疑いを持って役人に命じて、その玉を得た由縁を問わせると、「佐伯直阿俄能胡の妻の玉でございます」と答えた。
    それで阿俄能胡を責めただすと、「皇女を誅した日に探して取りました」と答えた。
    阿俄能胡を殺そうとしたが、阿俄能胡が自分の土地を献上して死を償いたいと申し出たため、その地を納めて死罪を許した。
    それでその地を名付けて玉代(たまて)という。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇四十年是歳条】
  • 仁徳天皇87年1月16日仁徳記では丁卯年八月十五日。

    仁徳天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇八十七年正月癸卯条】
  • 履中天皇元年2月1日

    履中天皇の即位に伴い皇太后となる。

    【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 履中天皇元年二月壬午朔条】
  • 允恭天皇42年12月14日

    追贈太皇太后。

    【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 安康天皇即位前紀 允恭天皇四十二年十二月壬午条】