履中天皇

名前
  • 漢風諡号:履中天皇(りちゅうてんのう, りちうてんわう)
  • 和風諡号:去來穗別天皇【日本書紀】いざほわ)去来穂別天皇
  • 大兄去來穗別天皇【日本書紀】(おおえのいざほわけのすめらみこと, おほ𛀁いざほわ)大兄去来穂別天皇
  • 大兄去來穗別皇子【日本書紀】(おおえのいざほわけのみこ, おほ𛀁いざほわ)大兄去来穂別皇子
  • 大兄去來穗別尊【日本書紀】(おおえのいざほわけのみこと, おほ𛀁いざほわ)大兄去来穂別尊
  • 大江之伊邪本和氣命【古事記】(おおえのいざほわけのみこと, おほ𛀁いざほわ)大江之伊邪本和気命
  • 大江之伊耶本和氣命【古事記】大江之伊耶本和気命
  • 伊邪本和氣命【古事記】(いざほわ)伊邪本和気命
  • 伊奘本別王【古事記】(いざほわ
  • 伊邪本和氣天皇【古事記】(いざほわ)伊邪本和気天皇
  • 去來穗別尊【先代旧事本紀】(いざほわ)去来穂別尊
  • 稚櫻宮御宇天皇【先代旧事本紀】(わかさくらやにあしたしししす)稚桜宮御宇天皇
性別
男性
生年月日
仁徳天皇24年
没年月日
履中天皇6年3月15日
  • 仁徳天皇にんとくてんのう【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇二年三月戊寅条】
  • 磐之媛命いわのひめのみこと【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇二年三月戊寅条】
先祖
  1. 仁徳天皇
    1. 応神天皇
      1. 仲哀天皇
      2. 神功皇后
    2. 仲姫命
      1. 品陀真若王
      2. 金田屋野姫命
  2. 磐之媛命
    1. 葛城襲津彦
      1. 建内宿禰
      2. 葛比売
    2. unknown
配偶者
  • 皇妃:黒媛くろひめ【日本書紀 巻第十二 履中天皇元年七月壬子条】
  • 妃→皇后:草香幡梭皇女くさかのはたひのひめみこ【日本書紀 巻第十二 履中天皇元年七月壬子条】
  • 嬪:太姫郎姫ふとひめのいらつめ【日本書紀 巻第十二 履中天皇六年二月癸丑朔条】
  • 嬪:高鶴郎姫たかつるのいらつめ【日本書紀 巻第十二 履中天皇六年二月癸丑朔条】
  • 皇子:磐坂市辺押羽皇子いわさかのいちのへのおしはのみこ【日本書紀 巻第十二 履中天皇元年七月壬子条】【母:黒媛くろひめ
  • 皇子:御馬皇子みまのみこ【日本書紀 巻第十二 履中天皇元年七月壬子条】【母:黒媛くろひめ
  • 皇女:飯豊青皇女いいとよあおのひめみこ【日本書紀 巻第十二 履中天皇元年七月壬子条】【母:黒媛くろひめ
  • 皇女:中磯皇女なかしのひめみこ中蒂姫命なかしひめのみこと【日本書紀 巻第十二 履中天皇元年七月壬子条】【母:草香幡梭皇女くさかのはたひのひめみこ
称号・栄典
  • 第17代天皇てんのう
出来事
  • 仁徳天皇24年

    仁徳天皇の皇子として生まれる。母は磐之媛命

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇二年三月戊寅条】
  • ・・・
    • 仁徳天皇7年8月9日

      仁徳天皇大兄去来穂別皇子のために壬生部(みぶべ)を定める。

      【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇七年八月丁丑条】
    • 伊邪本和気命の御名代として壬生部(みぶべ)を定める。

      【古事記 下巻 仁徳天皇段】
  • 仁徳天皇31年1月15日【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十一年正月丁卯条】

    立太子。
    時に年十五

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇即位前紀 仁徳天皇三十一年正月条】
  • 仁徳天皇87年1月16日

    仁徳天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇八十七年正月癸卯条】
  • 仁徳天皇87年1月(16日 ~ 30日)

    太子は喪から出て、まだ即位しない間に、羽田矢代宿禰の女の黒媛を妃にしたいと思った。
    婚約も整い、住吉仲皇子を遣わして吉日を告げさせた。
    時に仲皇子は太子の名を騙って黒媛を犯した。

    この夜、仲皇子は手に巻いていた鈴を黒媛の家に忘れて帰った。

    翌日の夜、太子は仲皇子が犯したことを知らずにやって来た。
    寝室に入り、帳を開けて寝床についた。このとき枕元から鈴の音が聞こえた。
    太子は怪しんで黒媛に「何の鈴か」と問うと、「昨夜に太子が持っていた鈴ではございませんか。どうして私にお尋ねになるのですか」と答えた。
    太子は仲皇子が名を偽って黒媛を犯したことを知り、しばらく黙ってそこを去った。

    仲皇子は大事に至ることを恐れ、太子を殺そうとして密かに兵を興して太子の宮を囲んだ。
    時に平群木菟宿禰物部大前宿禰漢直(あやのあたい)の祖阿知使主の三人が太子に申し上げることがあったが太子は聞かなかった。あるいは太子が酔って起きられなかったという。
    それで三人は太子を助けて馬に乗せて逃げた。あるいは大前宿禰が太子を抱いて馬に乗せたという。
    仲皇子は太子が不在であることを知らずに太子の宮を焼いた。夜を通して火は消えなかった。

    太子は河内国の埴生坂(はにゅうのさか)で目が覚めた。
    難波(なにわ)の方を眺め、火の光を見て大いに驚いた。
    そして急ぎ大坂から(やまと)に向かった。
    飛鳥山(あすかのやま)に至り、山の口で少女に出会った。
    「この山に人はいるか」と問うと、「武器を持った者が山中に満ちています。引き返して当摩径(たぎまのみち)から越えなさい」と答えた。
    太子は少女の言葉を聞いて難を免れた。そこで歌を詠んだ。

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    さらに引き返して、その県で兵を集めて味方につけて、竜田山(たつたのやま)を越えた。
    時に数十人が兵を率いて追ってきた。
    太子は遠くを望んで「あのやって来るのは誰だ。なぜ急ぎ追ってくるのか。もしや賊であろうか」と言った。
    そして山中に隠れて待った。
    近づいてくると一人を遣わして「誰であるか。また何処へ往くのか」と問うと、「淡路(あわじ)野島(のしま)の海人です。阿曇連浜子(あるいは阿曇連黒友という)の命令で仲皇子の為に太子を追っています」と答えた。
    そこで伏兵を出して囲み、悉くを捕えた。

    この当時、倭直吾子籠仲皇子は親しかった。
    予めその謀を知っていて、密かに精兵数百を攪食(かきはみ)の栗林に集めて、仲皇子の為に太子を防ごうとした。
    時に太子は兵が塞いでいることを知らず、山を出て数里のところで多数の兵が塞いで進めなかった。
    そこで使者を遣わして「誰であるか」と問うと、「倭直吾子籠である」と答えた。
    逆に使者に「誰の使いか」と問うと、「皇太子の使いである」と答えた。
    時に吾子籠は多くの軍勢が集まっているのを憚り、使者に「伝え聞くところによると、皇太子に大変なことがおありになるということなので、お助けするために兵を備えて待っておりました」と言った。
    しかし太子はその心を疑って殺そうとした。
    吾子籠は恐れて、妹の日之媛を奉って死罪の許しを請うと、これを許された。
    その倭直(やまとのあたい)らが采女を奉るのは、この時に始まったのだろう。

    太子は石上振神宮(いそのかみのふるのかみのみや)に来ていた。
    瑞歯別皇子は太子が不在であることを知り、尋ねて追ってきた。
    しかし太子は弟王の心を疑って会わなかった。
    時に瑞歯別皇子が言うには「私に汚い心はございません。ただ太子がおいでにならぬのを心配して参ったのでございます」と。
    太子が弟王に伝えて言うには「自分は仲皇子の反逆を恐れて独りここに来ている。なぜお前を疑わないでいられよう。仲皇子がいることは我が病である。これを除きたい。お前に汚い心が無いのであれば、引き返して難波にいる仲皇子を殺しなさい。然る後に会おうではないか」と。
    瑞歯別皇子が太子に言うには「あなたはひどくご心配のようですが、いま仲皇子は無道であり、群臣及び百姓共々恨んでおります。またその配下の人もみな叛いて賊となっており、独り相談する相手もおりません。私はその逆らいを知っておりますが、太子の命を受けておりません。それで独り憤り嘆いているのですございます。いま命を受けて仲皇子を殺すことを憚ることなどございません。ただ恐れるのは、仲皇子を殺しても、猶も私が疑われることでございます。願わくは心の正しい者を遣わして頂き、私に欺く心が無いことを明らかにしたいと思います」と。
    太子は木菟宿禰を副えて遣わした。
    瑞歯別皇子が嘆いて言うには「太子と仲皇子は共に私の兄である。誰に従い、誰に背けばよいのだ。しかし無道を亡ぼし、有道に就けば、誰が私を疑うだろうか」と。

    難波に至り、仲皇子の消息を伺った。
    仲皇子は太子がすでに逃亡したと思って、備えをしていなかった。
    時に近習に隼人があった。刺領巾という。
    瑞歯別皇子は密かに刺領巾を呼び、誘って「私の為に皇子を殺してくれ。私は必ずお前に厚く報いよう」と言うと、錦の衣・(はかま)を脱いで与えた。
    刺領巾はその言葉を恃んで、独り矛をとり、仲皇子が厠に入るのを伺って刺し殺した。そして瑞歯別皇子に従った。
    木菟宿禰瑞歯別皇子に言うには「刺領巾は人の為に自分の君を殺しました。それは我々の為には大功ではありますが、自分の君には慈悲が無いこと甚だしい。どうして生かしておけましょう」と。
    そして刺領巾を殺した。

    その日に(やまと)に向った。
    夜中に石上に着いて復命した。
    そこで弟王を呼んで厚くもてなし、村合屯倉(むらわせのみやけ)を賜った。

    この日、阿曇連浜子を捕えた。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇即位前紀 仁徳天皇八十七年正月条】
    • 難波宮(なにわのみや)で大嘗祭の酒宴があり、大御酒に気分がよくなって寝た。

      その弟の墨江中王天皇を殺そうと思って大殿に火をつけた。

      この時に倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖阿知直が天皇をこっそり連れ出して、御馬に乗せて(やまと)に向った。
      多遅比野(たじひの)に至る時に天皇が目覚めて「ここは何処か」と言った。
      阿知直は「墨江中王が大殿に火をつけたので、それでお連れして倭に逃げているのでございます」と言った。
      そこで天皇は歌を詠んだ。

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      波邇賦坂(はにゅうざか)に至り、難波宮を望み見ると、その火は猶も赤々と燃えていた。
      そこで天皇はまた歌を詠んだ。

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      大坂の山の入り口に至った時に一人の女に会った。
      その女が言うには「武器を持った沢山の人たちが、この山を塞いでおります。当岐麻道(たぎまち)を回って越えられるのがよいでしょう」と。
      そこで天皇は歌を詠んだ。

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      こうして上って石上神宮に滞在した。

      ここにその同母弟の水歯別命が面会を申し入れた。
      天皇は「もしやあなたも墨江中王と同じ心ではないかと疑っているので、語り合うことはありません」と詔すると、「私に汚い心はございません。また墨江中王と同じではございません」と答えた。
      また詔して「それならば、引き返して墨江中王を殺して戻ってきなさい。その時に必ず語り合おうではないか」と。

      それで難波に引き返して、墨江中王の近習の隼人、名は曽婆加理を欺いて「もしお前が私の言葉に従えば、私は天皇になり、お前を大臣として天下を治めようと思うがどうか」と言った。
      曽婆訶理は「命に従います」と答えた。
      そこで多くの品物を隼人に与えて「それならばお前の主君を殺せ」と言った。
      曽婆訶理は密かに自分の主君が厠に入るのを伺い、矛で刺し殺した。

      それで曽婆訶理を連れて倭に上る時、大坂の山の口に至り、「曽婆訶理は私のために大功を立てたが、自分の主君を殺すことは不義である。しかしその功に報いないのは信義に反する。功に報いれば逆にその心が恐ろしい。それで功に報いたといえども本人は亡きものにしよう」と考えた。
      そこで曽婆訶理に「今日はここに留まり、先に大臣の位を授けて、明日に上ろう」と言った。
      その山の口に留まって仮宮を造った。
      にわかに酒宴を開いて、その隼人に大臣の位を授けた。
      百官に拝礼させると隼人は喜んで「願いがかなった」と思い込んだ。
      そしてその隼人に「今日は大臣と同じ盃の酒を飲もう」と言った。
      共に飲もうとする時に、顔を覆うほどの大きな鋺にその勧める酒を盛った。
      そして王子が先に飲み、隼人が後に飲んだ。それで隼人が飲む時に大鋺が顔を覆った。
      そこで敷物の下に置いていた剣を取り出して、その隼人の首を斬った。そして翌日に上った。
      それでその地を名付けて近飛鳥(ちかつあすか)というのである。

      倭に着くと、「今日はここに留まり、禊払いをしてから明日参上して神宮を拝礼しよう」と詔した。
      それでその地を名付けて遠飛鳥(とおつあすか)というのである。

      そして石上神宮に参上して、天皇に「御命令は既に平らげまして参上致しました」と報告した。
      そこで呼び入れて共に語り合った。

      【古事記 下巻 履中天皇段】
  • 履中天皇元年2月1日

    磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)にて即位する。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇元年二月壬午朔条】
    • 伊波礼之若桜宮(いわれのわかざくらのみや)にて天下を治めた。

      【古事記 下巻 履中天皇段】
    • 後磐余稚桜朝に至り、三韓が貢献することは世を重ねても絶えることは無かった。

      【古語拾遺 履中天皇段】
    • 履中天皇元年2月1日

      皇后を尊んで皇太后とする。

      皇太后を尊んで太皇太后を追贈する。

      磐余(いわれ)を都とする。稚桜宮(わかさくらのみや)という。

      物部伊筥弗連大連とする。

      【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 履中天皇元年二月壬午朔条】
  • 履中天皇元年4月17日

    阿曇連浜子を呼び、詔して「お前は仲皇子と共に反逆を謀って国家を傾けようとした。まさに死罪に当たる。しかし大恩を垂れて死を免じ、入墨することを刑とする」と。
    その日に目の縁に入墨をした。
    これを時の人は阿曇目(あずみのめ)といった。
    また浜子に従った野島の海人らの罪を免じて、(やまと)蒋代屯倉(こもしろのみやけ)で労働させた。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇元年四月丁酉条】
  • 履中天皇元年7月4日

    葦田宿禰の女の黒媛を立てて皇妃とした。妃が生んだのは
    磐坂市辺押羽皇子
    御馬皇子
    青海皇女。あるいは飯豊皇女という。

    次の妃の幡梭皇女が生んだのは
    中磯皇女

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇元年七月壬子条】
  • 履中天皇2年1月4日

    瑞歯別皇子を立てて儲君(もうけのきみ)とする。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇二年正月己酉条】
  • 履中天皇2年10月

    磐余(いわれ)を都とする。

    この時にあたり、平群木菟宿禰蘇賀満智宿禰物部伊莒弗大連円大使主らは共に国の政治を執り行った。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇二年十月条】
  • 履中天皇2年11月

    磐余池(いわれのいけ)を造る。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇二年十一月条】
  • 履中天皇3年11月6日

    天皇は両枝船(ふたまたぶね)磐余市磯池(いわれのいちしのいけ)に浮かべた。
    皇妃とそれぞれ分乗して遊んだ。
    膳臣余磯が酒を献上した。時に桜の花が盃に落ちた。
    天皇は怪しんで、物部長真胆連を呼んで「この花は咲くべき時期でないのにやってきた。どこの花であろうか。お前が探してきなさい」と詔した。
    長真胆連は独り花を尋ね、掖上(わきのかみ)室山(むろのやま)で手に入れて献上した。
    天皇はその珍しさを喜んで宮の名とした。
    それで磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)というのは、これがそのもとである。

    この日、長真胆連の本姓を改めて稚桜部造(わかさくらべのみやつこ)とした。
    また膳臣余磯を名付けて稚桜部臣(わかさくらべのおみ)とした。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇三年十一月辛未条】
    • 若桜部臣(わかさくらべのおみ)らに若桜部の名を賜った。
      また比売陀君(ひめだのきみ)らに姓を賜って比売陀君といった。
      また伊波礼部(いわれべ)を定めた。

      【古事記 下巻 履中天皇段】
  • 履中天皇4年8月8日

    はじめて諸国に国史(くにふみ)を置いた。
    言事(ことわざ)を記して諸国の情勢を報告させた。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇四年八月戊戌条】
  • 履中天皇4年10月

    石上溝(いそのかみのうなで)を掘る。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇四年十月条】
  • 履中天皇5年3月1日

    筑紫にいる三神が宮中に現れて言うには「なぜ我が民を奪うのか。私がお前に恥を与える」と。
    そこで祈祷はすることにしたが祭祀は行わなかった。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇五年三月戊午朔条】
  • 履中天皇5年9月18日

    天皇は淡路島で狩りをした。
    この日、河内飼部(かわちのうまかいべ)らが従って馬の轡をとった。
    これより先、飼部の目の縁の入墨がみな癒えず、にいた伊奘諾神(はふり)に神懸かりして「血の臭さに堪えられない」と言った。
    それで占ってみると、「飼部らの目の傷の気を憎む」と出た。
    それでこれ以後、飼部らに入墨することをやめた。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇五年九月壬寅条】
  • 履中天皇5年9月19日

    風の音のように大空に呼ぶことがあり、「剣刀太子王(つるぎたちひつぎのみこ)」という。
    また呼んで「鳥往来(かよ)う羽田の汝妹(なにも)羽狭丹(はさに)(はぶ)り立ちぬ」という。
    また「狭名来田蒋津之命は羽狭丹に葬り立ちぬ」という。
    すると急使がやってきて「皇妃がお隠れになりました」と言った。
    天皇は大いに驚き、馬に乗って帰った。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇五年九月癸卯条】
  • 履中天皇5年9月22日

    淡路に至る。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇五年九月丙午条】
  • 履中天皇5年10月11日

    皇妃を葬った。
    天皇は神の祟りを治めずに皇妃を亡くしたことを悔やんだ。またその咎を探した。

    ある者が言うには「車持君(くるまもちのきみ)が筑紫国に行き、すべての車持部(くるまもちべ)を調べて徴発して、充神(かんべ)らの民を奪い取りました。きっとこれが罪でしょう」と。
    天皇が車持君を呼んで問いただすと事実だった。
    そして責めて言うには「おまえは車持君だが、勝手に天子の人民から徴発した。一つ目の罪である。また神にお配り申し上げた車持部を奪い取った。二つ目の罪である」と。
    それで悪解除(あしはらえ)善解除(よしはらえ)を負わせて、長渚崎(ながすのさき)に出して、禊祓をさせた。
    そして「今後は筑紫の車持部を掌ってはならない」と詔した。
    そこで悉く取り上げて三神に奉った。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇五年十月甲子条】
  • 履中天皇6年1月6日

    草香幡梭皇女を立てて皇后とする。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇六年正月戊子条】
  • 履中天皇6年1月29日

    はじめて蔵職(くらのつかさ)を建てた。そして蔵部(くらひとべ)を定めた。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇六年正月辛亥条】
    • 阿知直蔵官(くらのつかさ)に任じた。また田地を賜った。

      【古事記 下巻 履中天皇段】
    • 斎蔵(いみくら)の傍に、更に内蔵(うちのくら)を建てて、官物を分けて収めた。
      そして阿知使主と百済の博士王仁に命じて、その出納を記させた。
      はじめて更に蔵部(くらひとべ)を定めた。

      【古語拾遺 履中天皇段】
  • 履中天皇6年2月1日

    鯽魚磯別王の女の太姫郎姫高鶴郎姫を後宮に召し入れて(みめ)とした。

    この二人の嬪は常に「悲しいなぁ。我が兄王は何処に行ってしまったのだろう」と嘆いた。
    天皇がその嘆きを聞いて「お前は何を嘆いているのだ」と問うと、「私の兄の鷲住王は力が強く身軽で、ひとり高く大きな家を飛び越えて行ってしまいました。それから幾日も経つのに、会って話ことも出来ません。それで嘆いているのでございます」と答えた。
    天皇はその力が強いことを喜んで招喚したが応じなかった。
    また重ねて使いを出しても、猶も応じることはなく、常に住吉邑(すみのえのむら)に居た。これ以後招喚することはなかった。
    これは讃岐国造阿波国(あわのくに)脚咋別(あしくいわけ)の二族の始祖である。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇六年二月癸丑朔条】
  • 履中天皇6年3月15日

    天皇は病気になり、身体の不調から臭みが増してきて、稚桜宮(わかさくらのみや)で崩じた。
    時に年七十。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇六年三月丙申条】
    • 御年六十四歳。
      壬申年正月三日に崩じた。

      【古事記 下巻 履中天皇段】
  • 履中天皇6年10月4日

    百舌鳥耳原陵(もずのみみはらのみささぎ)に葬られる。

    【日本書紀 巻第十二 履中天皇六年十月壬子条】
    • 御陵は毛受(もず)にある。

      【古事記 下巻 履中天皇段】