物部大前宿禰
- 名前
- 物部大前宿禰【日本書紀】(もののべのおおまえのすくね, もののべのおほまへのすくね)
- 大前宿禰【日本書紀】(おおまえのすくね, おほまへのすくね)
- 大前小前宿禰【古事記】(おおまえおまえのすくね, おほまへをまへのすくね)
- 大前小前宿禰大臣【古事記】(おおまえおまえのすくねのおおおみ, おほまへをまへのすくねのおほおみ)
- 氏(ウジ):物部【先代旧事本紀】(もののべ)
- 姓(カバネ):連公【先代旧事本紀】(むらじきみ)連公
- 名:大前【先代旧事本紀】(おおまえ, おほまへ)
- キーワード
- 水連等祖【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 仁徳天皇87年1月30日)
- 没年月日
- (允恭天皇42年10月1日 ~ )
- 父
物部麦入 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
- 母
全能媛 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
- 先祖
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
- 出来事
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仁徳天皇87年1月
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允恭天皇23年3月7日
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允恭天皇42年10月
允恭天皇の葬礼が終わり、太子木梨軽皇子は暴虐を行い、婦女に淫した。
国人は謗り、群臣は従わず、悉く穴穂皇子後の安康天皇。についた。
太子は穴穂皇子を襲撃しようと思い、密かに兵を用意した。
穴穂皇子もまた兵を起こして戦おうとした。それで穴穂括箭 鉄鏃・軽括箭 銅鏃はこの時に初めて作られた。時に太子は群臣が従わず、人民も背離していることを知り、宮を出て物部大前宿禰の家に匿われた。
穴穂皇子はこれを聞いて家を囲んだ。
大前宿禰は門に出て迎えた。
穴穂皇子は歌を詠んだ。「
於 朋 摩 弊 烏 摩 弊 輸 區 泥 餓 訶 那 杜 加 礙 訶 區 多 智 豫 羅 泥 阿 梅 多 知 夜 梅 牟 」大前宿禰は答えて歌を詠んだ。
「
瀰 椰 比 等 能 阿 由 臂 能 古 輸 孺 於 智 珥 岐 等 瀰 椰 比 等 等 豫 牟 佐 杜 弭 等 茂 由 梅 」そして皇子に「どうか太子を殺さないで下さい。私がお図り申し上げます」と言った。
【日本書紀 巻第十三 安康天皇即位前紀 允恭天皇四十二年十月条】
これにより太子は大前宿禰の家で自ら死んだ。あるいは伊予国に流したという。-
【古事記 下巻 允恭天皇段】
天皇が崩じた後、皇位を継ぐことになっていた木梨之軽太子は、まだ即位をしない間に同母妹の軽大郎女と密通した。
このようなことがあって、百官や天下の人々は軽太子に背き、穴穂御子後の安康天皇。に帰服した。
それで軽太子は恐れて、大前小前宿禰大臣の家に逃げて武器を作って備えた。
穴穂御子もまた武器を作った。穴穂御子は兵を起こして大前小前宿禰の家を囲んだ。
その門に着いたときに激しく氷雨が降った。そこで歌を詠んだ。「
意 富 麻 幣 袁 麻 幣 須 久 泥 賀 加 那 斗 加 宜 加 久 余 理 許 泥 阿 米 多 知 夜 米 牟 」
その大前小前宿禰は手を挙げ膝を打ち、舞い歌ってやって来た。
その歌にいう。「
美 夜 比 登 能 阿 由 比 能 古 須 受 淤 知 爾 岐 登 美 夜 比 登 登 余 牟 佐 斗 毘 登 母 由 米 」この歌を
宮人振 という。
このように歌いながらやって来て言うには「我が天皇の御子よ。同母兄の王に兵を差し向けてはなりません。もし兵をお差し向けなされば、必ずや世間に笑われるでしょう。私が捕えて奉ります」と。
そして兵を解いて退いた。こうして大前小前宿禰は軽太子を捕えて参上した。
この後、軽太子は伊予に流され、後を追った軽大郎女と共に自殺した。
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