木梨軽皇子

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名前
  • 木梨輕皇子【日本書紀】なしかる)木梨軽皇子
  • 木梨之輕王【古事記】なしかる)木梨之軽王
  • 木梨輕太子【日本書紀】なしかる)木梨軽太子
  • 木梨之輕太子【古事記】なしかる)木梨之軽太子
  • 輕太子【古事記】(かる)軽太子
  • 木梨輕太子尊【先代旧事本紀】なしかる)木梨軽太子尊
性別
男性
生年月日
( ~ 允恭天皇23年3月7日)
没年月日
允恭天皇42年10月
  • 允恭天皇いんぎょうてんのう【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】
  • 忍坂大中姫命おしさかのおおなかつひめのみこと【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】
先祖
  1. 允恭天皇
    1. 仁徳天皇
      1. 応神天皇
      2. 仲姫命
    2. 磐之媛命
      1. 葛城襲津彦
      2. unknown
  2. 忍坂大中姫命
    1. 稚野毛二派皇子
      1. 応神天皇
      2. 弟媛
    2. 百師木伊呂弁
出来事
  • 允恭天皇の皇子として生まれる。母は忍坂大中姫命

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】
  • 允恭天皇が木梨之軽王の御名代として軽部(かるべ)を定める。

    【古事記 下巻 允恭天皇段】
  • 允恭天皇23年3月7日

    允恭天皇が木梨軽皇子を立てて太子とした。
    その容姿は佳麗で、見た者は自ずと感動した。
    同母妹の軽大娘皇女もまた妙艶であった。

    太子は常に大娘皇女と一緒になりたいと思っていたが、罪になることを恐れて黙っていた。
    しかし感情は燃え上がり、死ぬかというほどだった。
    そこで思うには「空しく死んでいくよりは、罪になろうとも忍ぶことは出来ない」と。
    遂に密かに通じた。鬱積した思いは少し和らいだ。
    それで歌を詠んだ。

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    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二十三年三月庚子条】
  • 允恭天皇24年6月

    御膳の(あつもの)の汁が氷った。
    天皇は怪しんで、そのもとを(うらな)わせた。
    卜者が言うには「内の乱れがございます。同母のご兄妹に相姦があるのではないでしょうか」と。

    時にある人が言うには「木梨軽太子と同母妹の軽大娘皇女が通じております」と。
    それで推問してみると事実だった。
    太子は儲君(もうけのきみ)天皇の世継ぎ。なので、罰することは出来なかった。
    そこで大娘皇女を伊予に流した。
    時に太子が歌を詠んだ。

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    また歌を詠んだ。

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    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二十四年六月条】
  • 允恭天皇42年1月14日允恭記では甲午年正月十五日。

    允恭天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇四十二年正月戊子条】
  • 允恭天皇42年10月

    葬礼が終わった。

    この時に太子は暴虐を行って婦女に淫した。
    国人は謗り、群臣は従わず、悉く穴穂皇子後の安康天皇。についた。
    太子は穴穂皇子を襲撃しようと思い、密かに兵を用意した。
    穴穂皇子もまた兵を起こして戦おうとした。それで穴穂括箭(あなほや)鉄鏃軽括箭(かるほや)銅鏃はこの時に初めて作られた。

    時に太子は群臣が従わず、人民も背離していることを知り、宮を出て物部大前宿禰の家に匿われた。
    穴穂皇子はこれを聞いて家を囲んだ。
    大前宿禰は門に出て迎えた。
    穴穂皇子は歌を詠んだ。

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    大前宿禰は答えて歌を詠んだ。

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    そして皇子に「どうか太子を殺さないで下さい。私がお図り申し上げます」と言った。
    これにより太子は大前宿禰の家で自ら死んだ。あるいは伊予国に流したという。

    【日本書紀 巻第十三 安康天皇即位前紀 允恭天皇四十二年十月条】
    • 天皇が崩じた後、皇位を継ぐことになっていた木梨之軽太子は、まだ即位をしない間に同母妹の軽大郎女と密通して歌を詠んだ。

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      これは志良宜歌(しらげうた)である。
      また歌を詠んだ。

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      これは夷振(ひなぶり)上歌(あげうた)である。

      このようなことがあって、百官や天下の人々は軽太子に背き、穴穂御子後の安康天皇。に帰服した。

      それで軽太子は恐れて、大前小前宿禰大臣の家に逃げて武器を作って備えた。
      この時に作った矢は、その箭の内が銅だった。それでその矢を名付けて軽箭(かるや)という。

      穴穂御子もまた武器を作った。
      この王子の作った矢が、今の矢である。これを穴穂箭(あなほや)という。

      穴穂御子は兵を起こして大前小前宿禰の家を囲んだ。
      その門に着いたときに激しく氷雨が降った。そこで歌を詠んだ。

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      その大前小前宿禰は手を挙げ膝を打ち、舞い歌ってやって来た。
      その歌にいう。

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      この歌を宮人振(みやひとぶり)という。
      このように歌いながらやって来て言うには「我が天皇の御子よ。同母兄の王に兵を差し向けてはなりません。もし兵をお差し向けなされば、必ずや世間に笑われるでしょう。私が捕えて奉ります」と。
      そして兵を解いて退いた。

      こうして大前小前宿禰は軽太子を捕えて参上した。
      その太子は捕えられながらも歌を詠んだ。

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      また歌を詠んだ。

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      それでその軽太子は伊余(いよ)伊予の湯に流された。
      まさに流されようとするときに歌を詠んだ。

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      この三つの歌は天田振(あまだぶり)という。

      また歌を詠んだ。

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      この歌を夷振之片下(ひなぶりのかたおろし)という。

      その衣通王は歌を献じた。その歌にいう。

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      それで後にまた恋い慕う思いに耐えられず、追っていく時に歌を詠んだ。

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      ここでいう山たずというのは、今の造木(みやつこぎ)である。

      そこで追いついた時に待ち迎えて、懐かしんで歌を詠んだ。

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      また歌を詠んだ。

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      このように歌って共に自ら死んだ。
      この二つの歌は読歌(よみうた)という。

      【古事記 下巻 允恭天皇段】