安康天皇
- 名前
- 漢風諡号:安康天皇(あんこうてんのう, あんかうてんわう)
- 和風諡号:穴穗天皇【日本書紀】(あなほのすめらみこと)穴穂天皇
- 穴穗御子【古事記】(あなほのみこ)穴穂御子
- 穴穗命【古事記】(あなほのみこと)穴穂命
- 穴穗皇子【日本書紀】(あなほのみこ)穴穂皇子
- 穴穗皇子尊【先代旧事本紀】(あなほのみこのみこと)穴穂皇子尊
- キーワード
- 後裔は河内国
孔王部首 【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
- 後裔は河内国
- 性別
- 男性
- 生年月日
- (履中天皇2年 ~ 履中天皇3年1月1日)
- 没年月日
- 安康天皇3年8月9日
- 父
允恭天皇 【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】
- 母
忍坂大中姫命 【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】
- 先祖
- 配偶者
- 皇后:
中蒂姫命 【日本書紀 巻第十三 安康天皇元年二月戊辰朔条】
- 皇后:
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
- 第20代
天皇
- 第20代
- 出来事
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履中天皇2年記事に崩御時の年齢を五十六歳としている。古事記の年齢を参照していると思われるが。。。【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 安康天皇三年八月壬辰条】
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允恭天皇23年3月7日
木梨軽皇子が太子に立てられる。
【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二十三年三月庚子条】 -
允恭天皇42年1月14日允恭記では甲午年正月十五日。
允恭天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第十三 允恭天皇四十二年正月戊子条】 -
允恭天皇42年10月
葬礼が終わった。
この時に太子は暴虐を行って婦女に淫した。
国人は謗り、群臣は従わず、悉く穴穂皇子後の安康天皇。についた。
太子は穴穂皇子を襲撃しようと思い、密かに兵を用意した。
穴穂皇子もまた兵を起こして戦おうとした。それで穴穂括箭 鉄鏃・軽括箭 銅鏃はこの時に初めて作られた。時に太子は群臣が従わず、人民も背離していることを知り、宮を出て物部大前宿禰の家に匿われた。
穴穂皇子はこれを聞いて家を囲んだ。
大前宿禰は門に出て迎えた。
穴穂皇子は歌を詠んだ。「
於 朋 摩 弊 烏 摩 弊 輸 區 泥 餓 訶 那 杜 加 礙 訶 區 多 智 豫 羅 泥 阿 梅 多 知 夜 梅 牟 」大前宿禰は答えて歌を詠んだ。
「
瀰 椰 比 等 能 阿 由 臂 能 古 輸 孺 於 智 珥 岐 等 瀰 椰 比 等 等 豫 牟 佐 杜 弭 等 茂 由 梅 」そして皇子に「どうか太子を殺さないで下さい。私がお図り申し上げます」と言った。
【日本書紀 巻第十三 安康天皇即位前紀 允恭天皇四十二年十月条】
これにより太子は大前宿禰の家で自ら死んだ。あるいは伊予国に流したという。-
【古事記 下巻 允恭天皇段】
天皇が崩じた後、皇位を継ぐことになっていた木梨之軽太子は、まだ即位をしない間に同母妹の軽大郎女と密通して歌を詠んだ。
「
阿 志 比 紀 能 夜 麻 陀 袁 豆 久 理 夜 麻 陀 加 美 斯 多 備 袁 和 志 勢 志 多 杼 比 爾 和 賀 登 布 伊 毛 袁 斯 多 那 岐 爾 和 賀 那 久 都 麻 袁 許 存 許 曾 婆 夜 須 久 波 陀 布 禮 」これは
志良宜歌 である。
また歌を詠んだ。「
佐 佐 婆 爾 宇 都 夜 阿 良 禮 能 多 志 陀 志 爾 韋 泥 弖 牟 能 知 波 比 登 波 加 由 登 母 宇 流 波 斯 登 佐 泥 斯 佐 泥 弖 婆 加 理 許 母 能 美 陀 禮 婆 美 陀 禮 佐 泥 斯 佐 泥 弖 婆 」これは
夷振 の上歌 である。このようなことがあって、百官や天下の人々は軽太子に背き、穴穂御子後の安康天皇。に帰服した。
それで軽太子は恐れて、大前小前宿禰大臣の家に逃げて武器を作って備えた。
この時に作った矢は、その箭の内が銅だった。それでその矢を名付けて軽箭 という。穴穂御子もまた武器を作った。
この王子の作った矢が、今の矢である。これを穴穂箭 という。穴穂御子は兵を起こして大前小前宿禰の家を囲んだ。
その門に着いたときに激しく氷雨が降った。そこで歌を詠んだ。「
意 富 麻 幣 袁 麻 幣 須 久 泥 賀 加 那 斗 加 宜 加 久 余 理 許 泥 阿 米 多 知 夜 米 牟 」
その大前小前宿禰は手を挙げ膝を打ち、舞い歌ってやって来た。
その歌にいう。「
美 夜 比 登 能 阿 由 比 能 古 須 受 淤 知 爾 岐 登 美 夜 比 登 登 余 牟 佐 斗 毘 登 母 由 米 」この歌を
宮人振 という。
このように歌いながらやって来て言うには「我が天皇の御子よ。同母兄の王に兵を差し向けてはなりません。もし兵をお差し向けなされば、必ずや世間に笑われるでしょう。私が捕えて奉ります」と。
そして兵を解いて退いた。こうして大前小前宿禰は軽太子を捕えて参上した。
その太子は捕えられながらも歌を詠んだ。「
阿 麻 陀 牟 加 流 乃 袁 登 賣 伊 多 那 加 婆 比 登 斯 理 奴 倍 志 波 佐 能 夜 麻 能 波 斗 能 斯 多 那 岐 爾 那 久 」また歌を詠んだ。
「
阿 麻 陀 牟 加 流 袁 登 賣 志 多 多 爾 母 余 理 泥 弖 登 富 禮 加 流 袁 登 賣 杼 母 」それでその軽太子は
伊余 伊予の湯に流された。
まさに流されようとするときに歌を詠んだ。「
阿 麻 登 夫 登 理 母 都 加 比 曾 多 豆 賀 泥 能 岐 許 延 牟 登 岐 波 和 賀 那 斗 波 佐 泥 」この三つの歌は
天田振 という。また歌を詠んだ。
「
意 富 岐 美 袁 斯 麻 爾 波 夫 良 婆 布 那 阿 麻 理 伊 賀 幣 理 許 牟 叙 和 賀 多 多 彌 由 米 許 登 袁 許 曾 多 多 美 登 伊 波 米 和 賀 都 麻 波 由 米 」この歌を
夷振之片下 という。その衣通王は歌を献じた。その歌にいう。
「
那 都 久 佐 能 阿 比 泥 能 波 麻 能 加 岐 賀 比 爾 阿 斯 布 麻 須 那 阿 加 斯 弖 杼 富 禮 」
それで後にまた恋い慕う思いに耐えられず、追っていく時に歌を詠んだ。「
岐 美 賀 由 岐 氣 那 賀 久 那 理 奴 夜 麻 多 豆 能 牟 加 閇 袁 由 加 牟 麻 都 爾 波 麻 多 士 」ここでいう山たずというのは、今の
造木 である。そこで追いついた時に待ち迎えて、懐かしんで歌を詠んだ。
「
許 母 理 久 能 波 都 世 能 夜 麻 能 意 富 袁 爾 波 波 多 波 理 陀 弖 佐 袁 袁 爾 波 波 多 波 理 陀 弖 意 富 袁 爾 斯 那 加 佐 陀 賣 流 淤 母 比 豆 麻 阿 波 禮 都 久 由 美 能 許 夜 流 許 夜 理 母 阿 豆 佐 由 美 多 弖 理 多 弖 理 母 能 知 母 登 理 美 流 意 母 比 豆 麻 阿 波 禮 」また歌を詠んだ。
「
許 母 理 久 能 波 都 勢 能 賀 波 能 加 美 都 勢 爾 伊 久 比 袁 宇 知 斯 毛 都 勢 爾 麻 久 比 袁 宇 知 伊 久 比 爾 波 加 賀 美 袁 加 氣 麻 久 比 爾 波 麻 多 麻 袁 加 氣 麻 多 麻 那 須 阿 賀 母 布 伊 毛 加 賀 美 那 須 阿 賀 母 布 都 麻 阿 理 登 伊 波 婆 許 曾 爾 『いはばこそよ』とする写本多くあり。伊 幣 爾 母 由 加 米 久 爾 袁 母 斯 怒 波 米 」このように歌って共に自ら死んだ。
この二つの歌は読歌 という。衣通姫を、日本書紀では允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹とし、古事記では允恭天皇の皇女軽大娘としているので注意。また軽皇子と軽皇女の話を、日本書紀では允恭天皇の御世とし、軽大娘のみが追放。允恭天皇崩御後に軽皇子は挙兵するが自殺する。
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允恭天皇42年12月14日
即位して天皇となる。
先の皇后忍坂大中姫命を尊んで皇太后とする。
石上 に遷都する。これを穴穂宮 という。この頃、大泊瀬皇子後の雄略天皇。は瑞歯別天皇反正天皇の
【日本書紀 巻第十三 安康天皇即位前紀 允恭天皇四十二年十二月壬午条】女 達『女の名はどの記にも見えない』とある。を我が物にしようとした。
皇女達が言うには「君王は常に乱暴で怖いお方でございます。急にお怒りになり、朝にお目にかかった者を夕方には殺され、夕方にお目にかかった者を朝には殺されます。私たちは容色優れず、情性拙い者でございます。もし振舞や言葉が毛の末ばかりでも王のお心に適わなければ、どうして可愛がって頂けましょうか。このようなわけなので、仰せごとを承ることは出来ません」と。
遂に身を隠して聞き入れなかった。-
【古事記 下巻 安康天皇段】石上之穴穂宮 にて天下を治めた。 -
允恭天皇42年12月14日
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安康天皇元年2月1日
天皇は大泊瀬皇子後の雄略天皇。のために、大草香皇子の妹の幡梭皇女を妻合わせたいと思った。
そこで坂本臣 の祖根使主を遣わして大草香皇子に言うには「幡梭皇女を頂いて、大泊瀬皇子に妻合わせたいと思う」と。
大草香皇子が答えて言うには、「私はこの頃重い病を患って治りません。たとえば物を積んだ船が満ち潮を待つようなものでございます。しかし死ぬのは天命でございます。どうして惜しむに足りましょうか。ただ妹の幡梭皇女が孤児になるので、容易く死ねないのでございます。いま陛下がその醜さをお嫌いになられず、宮廷の女性の仲間にお入れ頂きました。これは甚だ大きな恩恵でございます。どうしてかたじけないお言葉を辞することが出来ましょうか。それで真心を表すために、私の宝の押木珠縵 (あるいは立縵 という。また磐木縵 ともいう)を捧げて、お使いの根使主に預けて奉ります。どうか賤しく軽々しいといえども、お納め頂き、契りの印として頂きたく存じます」と。
根使主は押木珠縵を見て、その美しさに感動した。そこで偽って宝を自分の物にしようとした。
そして偽って天皇に奏上して「大草香皇子は命を承らず、私めに『同族といえども、どうして我が妹を差し出すことが出来ようか』と言いました」と言うと、縵を己の物にして献上しなかった。
天皇は根使主の讒言を信じて激怒し、兵を起こして大草香皇子の家を囲んで殺した。この時、難波吉師日香蛟父子は大草香皇子に仕えていた。
【日本書紀 巻第十三 安康天皇元年二月戊辰朔条】
共にその主君が罪も無く殺されたことを悲しみ、父は王の頸を抱き、二人の子はそれぞれ王の足を抱えた。
そして「我が君は罪も無いのに死んでしまわれた。なんと悲しいことか。我ら親子三人は生前にお仕え申し上げ、死に殉じなければ家来とはいえない」と言うと、自刎して皇子の屍の側で死んだ。
軍衆の悉くが涙を流した。-
天皇は同母弟の大長谷王子後の雄略天皇。のために、
【古事記 下巻 安康天皇段】坂本臣 らの祖の根臣を大日下王のもとに遣わして「あなた様の妹の若日下王と大長谷王子を結婚させたいと思うので奉りなさい」と詔した。
大日下王が四度拝んで言うには「もしやこのような大命もあるのではないかと存じておりました。それで外出させずに置いておりました。これは恐れ多いことです。大命に従って奉ります」と。
しかし言葉だけでは無礼であると思い、その妹の礼物として押木 の玉縵 を持たせて献上した。
根臣はその礼物である玉縵を盗み取り、大日下王のことを讒言して「大日下王は勅命を受けずに、『私の妹は同族の下敷きにはならない』とおっしゃって、大刀の柄を握ってお怒りになりました」と。
それで天皇は激怒して大日下王を殺し、その王の嫡妻の長田大郎女を奪って皇后とした。
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安康天皇2年1月17日
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安康天皇3年8月9日【日本書紀 巻第十三 安康天皇三年八月壬辰条】
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇即位前紀 安康天皇三年八月条】穴穂天皇安康天皇は沐浴するために山の宮に巡幸した。
楼 に登って眺め渡した。それから命じて酒宴を開いた。
そして心が和らいで楽しさが極まって語り出し、そっと皇后
(去来穂別天皇の女の中蒂姫皇女という。またの名は長田大娘皇女という。大鷦鷯天皇の子の大草香皇子が長田皇女を娶り、生まれたのが眉輪王である。この後に穴穂天皇が根臣の讒言を用いて大草香皇子を殺した。そして中蒂姫皇女を立てて皇后とした)
に言うには「妻よ原文『吾妹』。注釈に『妻を妹というのは、古のならわしだろうか』とある。。お前は睦まじいのだが、朕は眉輪王を恐れている」と。眉輪王は幼年で楼の下で遊び戯れていたが、この話をすべて聞いてしまった。
そのうち穴穂天皇は皇后の膝を枕にして昼寝をした。
そこで眉輪王はその熟睡を伺って天皇を刺し殺してしまった。安康天皇三年八月壬辰条には、『雄略紀に詳しく書いてある』とあり、詳細は記述していない。-
天皇が神牀で昼寝をしている時、その后に「お前は心配ごとはあるか」と語ると、「天皇の厚い御寵愛を頂いております。何を心配することがございましょうか」と答えた。
その大后の先の子の目弱王大日下王との間の子。はこの年七歳だった。
この王はその時にあたり御殿の下で遊んでいた。
天皇がその幼い王が御殿の下で遊んでいることを知らずに言うには「自分には常に心配していることがある。何かというと、お前の子の目弱王のことだ。成人して私がその父王を殺したことを知ったら、心が変わって邪心を起こすのではないかと」と。
その御殿の下で遊んでいた目弱王はこの言葉を聞いて、密かに天皇の寝ているところを伺い、傍にある大刀を取って天皇の首を斬って都夫良意富美の家に逃げ入った。天皇の御年五十六歳。
【古事記 下巻 安康天皇段】
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雄略天皇3年暗殺の三年後。
【日本書紀 巻第十三 安康天皇三年八月壬辰条】菅原伏見陵 に葬られる。-
御陵は
菅原之伏見岡 にある。
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