忍坂大中姫命

名前
  • 忍坂大中姬命【日本書紀】(おしさかのおおなかつひめのみこと, おしさかおほなかつ)忍坂大中姫命
  • 忍坂之大中津比賣命【古事記】(おしさかのおおなかつひめのみこと, おしさかおほなかつ)忍坂之大中津比売命
  • 忍阪之大中津比賣命校異【古事記】(おしさかのおおなかつひめのみこと, おしさかおほなかつ)忍阪之大中津比売命
  • 忍坂大中姬【日本書紀】(おしさかのおおなかつひめ, おしさかおほなかつ)忍坂大中姫
  • 大中姬命【日本書紀】(おおなかつひめのみこと, おほなかつ)大中姫命
  • 大中姬【日本書紀】(おおなかつひめ, おほなかつ)大中姫
  • 踐坂大中比彌王【釈日本紀】(おしさかのおおなかつひみのみこ)践坂大中比弥王
生年月日
( ~ 反正天皇5年1月30日)
没年月日
(雄略天皇3年4月1日 ~ )
  • 稚野毛二派皇子わかのけふたまたのみこ若沼毛二俣王わかぬけふたまたのみこ【日本書紀 巻第十三 安康天皇即位前紀, 古事記 中巻 応神天皇段】
  • 百師木伊呂弁ももしきいろべ【古事記 中巻 応神天皇段】
    • 弟日売真若比売命おとひめまわかひめのみこと古事記と違い日本書紀では、父の母にあたる人物なので注意。【古事記 中巻 応神天皇段】
先祖
  1. 稚野毛二派皇子
    1. 応神天皇
      1. 仲哀天皇
      2. 神功皇后
    2. 弟媛
      1. 河派仲彦
      2. unknown
  2. 百師木伊呂弁
配偶者
  • 允恭天皇いんぎょうてんのう【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】
  • 木梨軽皇子きなしのかるのみこ【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【父:允恭天皇いんぎょうてんのう
  • 名形大娘皇女ながたのおおいらつめのひめみこ【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【父:允恭天皇いんぎょうてんのう
  • 境黒彦皇子さかいのくろひこのみこ【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【父:允恭天皇いんぎょうてんのう
  • 穴穂皇子あなほのみこ安康天皇あんこうてんのう【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【父:允恭天皇いんぎょうてんのう
  • 軽大娘皇女かるのおおいらつめのひめみこ【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【父:允恭天皇いんぎょうてんのう
  • 八釣白彦皇子やつりのしろひこのみこ【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【父:允恭天皇いんぎょうてんのう
  • 大泊瀬皇子おおはつせのみこ雄略天皇ゆうりゃくてんのう【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【父:允恭天皇いんぎょうてんのう
  • 但馬橘大娘皇女たじまのたちばなのおおいらつめのひめみこ【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【父:允恭天皇いんぎょうてんのう
  • 酒見皇女さかみのひめみこ【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】【父:允恭天皇いんぎょうてんのう
子孫
  1. 木梨軽皇子
  2. 名形大娘皇女
  3. 境黒彦皇子
  4. 安康天皇
  5. 軽大娘皇女
  6. 八釣白彦皇子
  7. 雄略天皇
    1. 清寧天皇
    2. 稚足姫皇女
    3. 磐城皇子
    4. 星川稚宮皇子
    5. 春日大娘皇女
      1. 高橋大娘皇女
      2. 朝嬬皇女
      3. 手白香皇女
      4. 樟氷皇女
      5. 橘仲皇女
      6. 武烈天皇
      7. 真稚皇女
  8. 但馬橘大娘皇女
  9. 酒見皇女
出来事
  • 反正天皇5年1月(23日 ~ 30日)反正記では丁丑年七月。

    反正天皇が崩じる。

    群卿らは雄朝津間稚子宿禰皇子後の允恭天皇に帝位につくよう説得したが、皇子は病を理由にこれを固辞した。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇即位前紀 反正天皇五年正月条】
  • 允恭天皇元年12月

    妃の忍坂大中姫命は、群臣が憂え惑ってることを心配して、自ら洗手水(おおてみず)をとって雄朝津間稚子宿禰皇子の前に進んだ。
    そして「大王は辞退なさって即位されません。空位のまま既に年月が経ちました。群臣百寮は憂えて為す術を知りません。願わくは大王が人々の望みに従って、無理にでも帝位におつき頂きたく存じます」と言った。
    しかし皇子は聞き入れようとせずに、背を向けて物を言わなかった。

    大中姫命は畏まり、退くことをせずに侍ること四、五剋一時間あまり。が経った。
    この時まさに冬の季節。風も激しく寒かった。
    大中姫が捧げていた鋺の水が溢れて腕に凍った。
    寒さに堪えられず、まさに死なんとする時、皇子は驚いて顧みた。
    そして助け起こして言うには「嗣位(ひつぎのくらい)は重い事である。容易く就くことは出来ない。それで今まで従うことはなかった。しかし群臣が請うことも道理に適っている。断り続けることも出来ない」と。
    大中姫命は仰ぎ喜んで群卿に「皇子は群臣の請いをお許しになりました。今すぐに天皇の璽符を奉りなさい」と言った。
    群臣は大いに喜んで、その日に天皇の璽符を捧げて再拝した。
    皇子は「群卿は天下の為に私に請うた。私も辞退し続けることはで出来ない」と言って帝位についた。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇元年十二月条】
    • 天皇が皇位を継承するときに、天皇が辞退して言うには「私には長い病がある。皇位を継ぐことは出来ない」と。
      しかし大后をはじめとして、高官らが強く申し出たため、天下を治めることにした。

      【古事記 下巻 允恭天皇段】
  • 允恭天皇2年2月14日

    允恭天皇の皇后となる。

    この日、天皇は皇后のために刑部(おしさかべ)を定めた。

    皇后がまだ母と一緒に暮らしていた頃、ひとり苑の中で遊んでいた。
    時に闘鶏国造がそばの道を通った。
    馬に乗って垣根越しに皇后を嘲って「お前にうまく園を作れるのか。お前は誰だ」と言った。また「おい、そこの(あららぎ)ノビルの古名。を一本よこせ」と言った。
    皇后は一本の蘭を採って、馬に乗る者に与えた。
    そして「何のために蘭をお求めになるのですか」と問うと、馬に乗る者は「山に行くとき(まぐなき)蠛。此云摩愚那岐。糠蚊の一種。を追い払うためだ」と答えた。
    皇后は心の中で馬に乗る者の言葉の無礼を心に留めて「お前、私は忘れないよ」と言った。

    この後、皇后に立てられた年に馬に乗って蘭を求めた者を探して、昔日の罪を責めて殺そうとした。
    蘭を求めた者は叩頭して「私の罪は万死に値します。しかしその日は貴い方とは知らなかったのでございます」と言った。
    そこで皇后は死刑を赦して、その(かばね)を貶めて稲置(いなき)とした。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】
    • 大后の御名代として刑部(おさかべ)を定めた。

      【古事記 下巻 允恭天皇段】
  • 允恭天皇7年12月1日

    新室で宴をした。
    天皇自ら琴をひき、皇后は立って舞った。
    舞いが終っても礼事(いやごと)を言わなかった。
    当時の風俗では、宴会で舞う者が舞いが終ると、座長(くらのかみ)に「娘子を奉ります」といった。

    この時に天皇は皇后に「なぜ常の礼を失するのか」と言った。
    皇后は畏まり、また立って舞った。
    舞いが終わると「娘子を奉ります」と言った。
    天皇は皇后に「奉る娘子は誰であるか。名を知りたいと思う」と言った。
    皇后はやむを得ずに「私の妹で、名は弟姫といいます」と言った。
    弟姫は容姿絶妙で並ぶ者がいなかった。その麗しい体の色が衣を通して輝いていた。時の人は名付けて衣通郎姫といった。

    天皇の心は衣通郎姫に向いて、皇后に奉らせることを強いた。
    皇后はこうなることを知っていて礼事を言わなかった。
    天皇は歓喜して、翌日使者を遣わして弟姫を召した。

    弟姫は母に従って近江の坂田に居た。
    弟姫は皇后の心情を恐れて参上しなかった。
    また重ねて七度召しても、猶も固く辞して参上しなかった。
    天皇は悦ばず、また舎人の中臣烏賊津使主に勅して「皇后の奉る娘子の弟姫が呼んでもやって来ない。お前が行って弟姫を呼んできなさい。そうすれば必ず厚く恩賞を与えよう」と。

    烏賊津使主は命を受けて、(ほしい)急用に備える米。を身頃の中に入れて坂田に行った。
    そして弟姫の家の庭に伏して「天皇がお召しでいらっしゃいます」と言った。
    弟姫は「どうして天皇のお言葉を畏んでお受けしないことがございましょうか。ただ皇后のお心を傷付けたくないのです。私は死んでも参りません」と答えた。
    烏賊津使主は「私は既に天皇の命を承り、必ずお連れしなければなりません、もしお連れできなければ必ず罪となるでしょう。それで帰って極刑となるよりは、むしろ庭に伏して死ぬのみです」と言った。
    そして七日間、庭の中に伏して、食物を与えられても食べず、密かに懐の中の糒を食べた。
    そこで弟姫は皇后の嫉妬を理由に天皇の命を拒み、また君の忠臣を失えば自分の罪となると思った。
    それで烏賊津使主に従ってやって来た。

    (やまと)春日(かすが)に至り、檪井(いちいい)のそばで食事をとった。
    弟姫は自ら酒を使主に与えてその心を慰めた。
    使主はその日に(みやこ)に至り、弟姫倭直吾子籠の家に留めて天皇に復命した。
    天皇は大いに喜んで烏賊津使主を褒めて厚く遇した。
    しかし皇后の心中は穏やかではなく、宮中に近づけることはなかった。
    そして別に殿舎を藤原にたてて住まわせた。

    大泊瀬天皇雄略天皇を産んだ夜、天皇がはじめて藤原宮(ふじわらのみや)に行幸した。
    皇后がこれを聞いて恨んで言うには「私は初めて髪を結い上げて後宮に侍り、すでに多くの年月が経ちました。いま私が出産して死生の境にあるのに、どうして今夜藤原にお出でになられるのですか」と。
    そして自ら産殿を焼いて死のうとした。
    天皇は大いに驚いて「朕の過ちであった」と言うと、皇后の心を慰めて機嫌を取った。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇七年十二月壬戌朔条】
  • 允恭天皇8年2月校異:允恭天皇8年3月

    天皇が藤原に行幸した。
    密かに衣通郎姫の様子を伺った。

    この夜、衣通郎姫は天皇を独り偲んでいた。
    そして天皇が来ていることを知らずに歌を詠んだ。

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    天皇はこの歌を聞き、感動して歌を詠んだ。

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    翌朝、天皇は井戸のそばの桜の花を見て歌を詠んだ。

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    皇后はこれを聞いて、また大いに恨んだ。

    衣通郎姫が言うには「私も常に王宮(おおみや)に近づいて、昼夜ともに陛下のお姿を拝見したいと存じます。しかし皇后は私の姉でございます。私のせいで陛下を恨んでおります。また私のせいで苦んでおります。願わくは王居を離れて遠くに住みたいと存じます。皇后のお心も少しは休まるのではないでしょうか」と。
    天皇はただちに宮室を河内の茅渟に造って衣通郎姫を住まわせた。
    これにより、しばしば日根野(ひねの)で遊猟するようになった。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇八年二月条】
  • 允恭天皇9年2月

    天皇が茅渟宮(ちぬのみや)に行幸する。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇九年二月条】
  • 允恭天皇9年8月

    天皇が茅渟に行幸する。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇九年八月条】
  • 允恭天皇9年10月

    天皇が茅渟に行幸する。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇九年十月条】
  • 允恭天皇10年1月

    天皇が茅渟に行幸する。

    皇后が言うには「私は毛の末ほども弟姫を嫉んではおりません。しかし陛下がしばしば茅渟にお出でになられることを恐れるのでございます。これは人民の苦しみにならないでございましょうか。願わくは、お出ましの数を減らして頂きたいと存じます」と。
    この後、行幸は稀となった。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇十年正月条】
  • 允恭天皇11年3月4日

    天皇が茅渟に行幸する。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇十一年三月丙午条】
  • 允恭天皇42年1月14日允恭記では甲午年正月十五日。

    允恭天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇四十二年正月戊子条】
  • 允恭天皇42年12月14日

    穴穂皇子安康天皇の即位に伴い皇太后となる。

    【日本書紀 巻第十三 安康天皇即位前紀 允恭天皇四十二年十二月壬午条】
  • 安康天皇3年8月9日

    安康天皇眉輪王に殺害される。

    【日本書紀 巻第十三 安康天皇三年八月壬辰条】
  • 安康天皇3年11月13日

    大泊瀬皇子雄略天皇が即位する。

    【日本書紀 巻第十四 雄略天皇即位前紀 安康天皇三年十一月甲子条】
  • 雄略天皇3年4月

    雄略天皇の悪評を聞いた皇太后忍坂大中姫命と皇后草香幡梭姫皇女は大いに心配した。
    そこで(やまと)の采女日媛を遣わして、酒を捧げて迎え奉らせた。
    天皇は采女の端麗で雅な容姿を見ると、顔をほころばせて「どうしてお前の笑顔を見ずにいられようか」と言った。
    そして手を組み合わせて後宮に入った。

    皇太后に語って「今日の狩りで大きな禽獣を獲た。群臣と新鮮な料理を作って野外で宴をしようと思い、群臣に尋ねたが良い答えはなかった。それで朕は怒ったのだ」と。
    皇太后はこの言葉の真情を知り、天皇を慰めて言うには「群臣は陛下の猟場に宍人部(ししひとべ)を置こうとして群臣に尋ねられたとは気が付かなかったのでございましょう。群臣が黙っていたことも無理はございません。答えることも難しいのでございます。今からでも遅くはございません。自分を初めとなさりませ。膳臣長野はよい(なます)を作ります。これに献上させましょう」と。
    天皇は跪いて礼をして「良いことだ。下々のいう所の『貴き人は心を互いに知る』というのはこれをいうのか」と言った。
    皇太后は天皇の悦びを見て自分も喜び笑った。
    さらに人を奉るために「私の厨人(くりやびと)菟田御戸部真鋒田高天の二人を加えて宍人部(ししひとべ)として頂きたく存じます」と言った。

    【日本書紀 巻第十四 雄略天皇三年四月条】
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