衣通郎姫
- 名前
- 衣通郞姬【日本書紀】(そとおりのいらつめ, そとほりのいらつめ, そとおしのいらつめ, そとほしのいらつめ)衣通郎姫
- 弟姬【日本書紀】(おとひめ)弟姫
- 性別
- 女性
- 生年月日
- ( ~ 允恭天皇7年12月1日)
- 没年月日
- (允恭天皇11年3月4日 ~ )
- 父
稚野毛二派皇子 忍坂大中姫命の妹とあり、忍坂大中姫命の父が稚野毛二派皇子であることから判断。【日本書紀 巻第十三 允恭天皇七年十二月壬戌朔条】
- 先祖
- 出来事
-
允恭天皇7年12月1日
允恭天皇が新室で宴をした。
天皇自ら琴をひき、皇后忍坂大中姫命は立って舞った。
舞いが終っても礼事 を言わなかった。
当時の風俗では、宴会で舞う者が舞いが終ると、座長 に「娘子を奉ります」といった。この時に天皇は皇后に「なぜ常の礼を失するのか」と言った。
皇后は畏まり、また立って舞った。
舞いが終わると「娘子を奉ります」と言った。
天皇は皇后に「奉る娘子は誰であるか。名を知りたいと思う」と言った。
皇后はやむを得ずに「私の妹で、名は弟姫といいます」と言った。
弟姫は容姿絶妙で並ぶ者がいなかった。その麗しい体の色が衣を通して輝いていた。時の人は名付けて衣通郎姫といった。天皇の心は衣通郎姫に向いて、皇后に奉らせることを強いた。
皇后はこうなることを知っていて礼事を言わなかった。
天皇は歓喜して、翌日使者を遣わして弟姫を召した。弟姫は母に従って近江の坂田に居た。
弟姫は皇后の心情を恐れて参上しなかった。
また重ねて七度召しても、猶も固く辞して参上しなかった。
天皇は悦ばず、また舎人の中臣烏賊津使主に勅して「皇后の奉る娘子の弟姫が呼んでもやって来ない。お前が行って弟姫を呼んできなさい。そうすれば必ず厚く恩賞を与えよう」と。烏賊津使主は命を受けて、
糒 急用に備える米。を身頃の中に入れて坂田に行った。
そして弟姫の家の庭に伏して「天皇がお召しでいらっしゃいます」と言った。
弟姫は「どうして天皇のお言葉を畏んでお受けしないことがございましょうか。ただ皇后のお心を傷付けたくないのです。私は死んでも参りません」と答えた。
烏賊津使主は「私は既に天皇の命を承り、必ずお連れしなければなりません、もしお連れできなければ必ず罪となるでしょう。それで帰って極刑となるよりは、むしろ庭に伏して死ぬのみです」と言った。
そして七日間、庭の中に伏して、食物を与えられても食べず、密かに懐の中の糒を食べた。
そこで弟姫は皇后の嫉妬を理由に天皇の命を拒み、また君の忠臣を失えば自分の罪となると思った。
それで烏賊津使主に従ってやって来た。
【日本書紀 巻第十三 允恭天皇七年十二月壬戌朔条】倭 の春日 に至り、檪井 のそばで食事をとった。
弟姫は自ら酒を使主に与えてその心を慰めた。
使主はその日に京 に至り、弟姫を倭直吾子籠の家に留めて天皇に復命した。
天皇は大いに喜んで烏賊津使主を褒めて厚く遇した。
しかし皇后の心中は穏やかではなく、宮中に近づけることはなかった。
そして別に殿舎を藤原にたてて住まわせた。 -
允恭天皇8年2月校異:允恭天皇8年3月
允恭天皇が藤原に行幸した。
密かに衣通郎姫の様子を伺った。この夜、衣通郎姫は天皇を独り偲んでいた。
そして天皇が来ていることを知らずに歌を詠んだ。「
和 餓 勢 故 餓 勾 倍 枳 豫 臂 奈 利 佐 瑳 餓 泥 能 區 茂 能 於 虛 奈 比 虛 豫 比 辭 流 辭 毛 」天皇はこの歌を聞き、感動して歌を詠んだ。
「
佐 瑳 羅 餓 多 邇 之 枳 能 臂 毛 弘 等 枳 舍 氣 帝 阿 麻 哆 絆 泥 受 邇 多 儾 比 等 用 能 未 」
翌朝、天皇は井戸のそばの桜の花を見て歌を詠んだ。「
波 那 具 波 辭 佐 區 羅 能 梅 涅 許 等 梅 涅 麼 波 椰 區 波 梅 涅 孺 和 我 梅 豆 留 古 羅 」皇后はこれを聞いて、また大いに恨んだ。
衣通郎姫が言うには「私も常に
【日本書紀 巻第十三 允恭天皇八年二月条】王宮 に近づいて、昼夜ともに陛下のお姿を拝見したいと存じます。しかし皇后は私の姉でございます。私のせいで陛下を恨んでおります。また私のせいで苦んでおります。願わくは王居を離れて遠くに住みたいと存じます。皇后のお心も少しは休まるのではないでしょうか」と。
天皇はただちに宮室を河内の茅渟に造って衣通郎姫を住まわせた。
これにより、しばしば日根野 で遊猟するようになった。 -
允恭天皇9年2月
天皇が
【日本書紀 巻第十三 允恭天皇九年二月条】茅渟宮 に行幸する。 -
允恭天皇9年8月
天皇が茅渟に行幸する。
【日本書紀 巻第十三 允恭天皇九年八月条】 -
允恭天皇9年10月
天皇が茅渟に行幸する。
【日本書紀 巻第十三 允恭天皇九年十月条】 -
允恭天皇10年1月
天皇が茅渟に行幸する。
皇后が言うには「私は毛の末ほども弟姫を嫉んではおりません。しかし陛下がしばしば茅渟にお出でになられることを恐れるのでございます。これは人民の苦しみにならないでございましょうか。願わくは、お出ましの数を減らして頂きたいと存じます」と。
【日本書紀 巻第十三 允恭天皇十年正月条】
この後、行幸は稀となった。 -
允恭天皇11年3月4日
天皇が茅渟宮に行幸する。
衣通郎姫は歌を詠んだ。
「
等 虛 辭 陪 邇 枳 彌 母 阿 閉 椰 毛 異 舍 儺 等 利 宇 彌 能 波 摩 毛 能 余 留 等 枳 等 枳 弘 」天皇が衣通郎姫に言うには「この歌を他人に聞かせてはならない。皇后か聞けば必ず大いに恨むであろう」と。
それで時の人は浜藻を名付けて「なのりそも」という。これより先、衣通郎姫が藤原宮にいた時に、天皇が大伴室屋連に詔して「朕はこのごろ美しく麗わしい
【日本書紀 巻第十三 允恭天皇十一年三月丙午条】嬢子 を得た。これは皇后の妹である。朕は特別に愛しいと思う。願わくは、その名を後世に伝えたいと思うがどうであろう」と。
室屋連が勅を受けて奏上したので許可した。
即ち諸国の造 らに命じて、衣通郎姫のために藤原部 を定めた。
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