大伴室屋

名前
  • 氏(ウジ):大伴【日本書紀】(おおとも, おほも)
  • 姓(カバネ):連【日本書紀】(むらじ)連
  • 名:室屋【日本書紀】(むや)
  • 室屋連【日本書紀】(むむらじ)室屋連
  • 大伴室屋大連【日本書紀】(おおとものむろやのおおむらじ, おほおほむらじ)大伴室屋大連
  • 大伴大連室屋【日本書紀】(おおとものおおむらじむろや, おほおほむらじむや)大伴大連室屋
  • 室屋大連公【新撰姓氏録抄】(むろやのおおむらじきみ, むおほむらじ)室屋大連公
  • 室屋大連【新撰姓氏録抄】(むろやのおおむらじ, むおほむらじ)室屋大連
  • 大伴室屋大連公【新撰姓氏録抄】(おおとものむろやのおおむらじきみ, おほおほむらじ)大伴室屋大連公
キーワード
  • 後裔は左京佐伯宿禰(さえきのすくね)・右京高志壬生連(こしのみぶのむらじ)・大和国高志連(こしのむらじ)・河内国佐伯首(さえきのおびと)【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
生年月日
( ~ 允恭天皇11年3月4日)
没年月日
(武烈天皇3年11月1日 ~ )
  • 御物宿禰みもののすくね【新撰姓氏録抄 第二帙 第十九巻 河内国神別 天神 林宿禰条】【母:不明】
子孫
  1. 御物宿禰
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 大連おおむらじ【日本書紀 巻第十四 雄略天皇即位前紀 安康天皇三年十一月甲子条】
出来事
  • (允恭天皇7年12月 ~ 允恭天皇11年3月4日)

    大伴室屋連に允恭天皇が詔して、「自分はこのごろ美しく麗わしい嬢子(おみな)を得た。これは皇后の妹である。特別に可愛い。願わくはその名を後世に伝えたいと思うが、どうであろう」と。
    そこで藤原部(ふじわらべ)を定めることを上奏すると、これを許可された。

    【日本書紀 巻第十三 允恭天皇十一年三月丙午条】
  • 安康天皇3年11月13日

    雄略天皇の即位に伴い大連となる。

    【日本書紀 巻第十四 雄略天皇即位前紀 安康天皇三年十一月甲子条】
  • 雄略天皇2年7月

    雄略天皇の命令で、来目部(くめべ)を使って池津媛石河楯の夫婦の四肢を木に張りつけ、桟敷の上に置いて火で焼き殺した。

    【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二年七月条】
  • 雄略天皇7年

    雄略天皇の詔に従い、東漢直掬に命じて新漢陶部高貴鞍部堅貴画部因斯羅我錦部定安那錦訳語卯安那らを上桃原(かみつももはら)下桃原(しもつももはら)真神原(まかみのはら)の三ヶ所に移住させる。

    【日本書紀 巻第十四 雄略天皇七年是歳条】
  • 雄略天皇9年3月

    新羅討伐の命を受けた紀小弓宿禰から懇願されて「私は拙いですが謹んで詔を承ります。しかしいま私の妻が死に際にあり、私を世話してくれる者がおりません。どうかこの事を詳しく天皇に申し上げて欲しい」と。
    そこで雄略天皇に詳しく奏上した。

    【日本書紀 巻第十四 雄略天皇九年三月条】
  • 雄略天皇9年5月

    紀小弓宿禰を亡くした采女大海が懇願して「私は葬る地を知りません。どうか良い地を教えて下さい」と。
    そこですぐ天皇に奏上した。

    【日本書紀 巻第十四 雄略天皇九年五月条】
  • 雄略天皇9年5月

    小鹿火宿禰倭子連を遣わし、請願して「私は紀卿紀大磐宿禰と共に天朝に仕えることは堪えられません。どうか角国に留まることをお許し下さい」と。
    そこで天皇に奏上した。

    【日本書紀 巻第十四 雄略天皇九年五月条】
  • 雄略天皇23年8月7日

    雄略天皇が崩じる。

    天皇は大伴室屋大連と東漢掬直に遺詔して「まさに今天下は一つの家のようであり、炊煙は万里にまで立つ。人民は治まりやすく、四方の賓も服属している。これは天意が国内を安らかにせんと思うからである。心を責めて己を励まし、日々慎むことは人民のためである。(おみ)(むらじ)伴造(とものみやつこ)は毎日参朝し、国司・郡司は時に従って参集する。どうして心肝を尽くして慇懃に訓戒を述べないでいられようか。義においては君臣だが、情においては父子を兼ねる。願わくは臣連の智力を頼り、内外の心を喜ばせ、天下を永く安楽に保たせたいと思う。思いもしなかった。病重く死に至るなどとは。これは人の世の常であり言うには足らぬ。しかし朝野の衣冠をはっきりさせることは出来なかった。教化政刑も最善を尽くしてはいない。言葉に出してこれを思うと恨みだけが残る。年はそこそこに達し短命とは言えない。筋力精神も一時に尽きた。このようなことは本より自身のためではなく、ただ人民を安め養うためである。それでこのように致した。人として生まれれば誰でも子孫に思いを託したいものだ。天下の為には心を尽くすべきである。いま星川王は悪い心を抱き、行いは兄弟の義を欠いている。古の人の言葉がある。『臣を知るは君に及ぶものなく、子を知るは父に及ぶものなし』と。星川が志を得て共に国家を治めれば、必ず辱めを臣連に及ぼし、酷い毒が人民に流れるであろう。悪しき子孫は人民に憚られ、良き子孫は大業を負うに堪える。これは朕が家の事といえども道理において隠してはならない。大連らは民部(かきべ)が広大で国に充ちている。皇太子(ひつぎのみこ)は後嗣の地位にあり、仁孝は目立って聞こえる。その行いは朕が志を成すに堪える。このように共に天下を治めれば、私が瞑目したとしても、どうして恨むことがあろうか」と。

    【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二十三年八月丙子条】
    • 星川王は腹黒く、心荒いことは天下に聞こえている。不幸にも朕が崩じた後は皇太子に害を及ぼすであろう。お前たちは民部がとても多い。互いに助け合って侮らせてはならない」と。

      【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二十三年八月丙子条 一本云】
  • 雄略天皇23年8月(7日 ~ 30日)

    星川皇子が大蔵の官を取った。
    外門を閉ざして事に備え、権勢をほしいままにして官物を費やした。

    ここに大伴室屋大連が東漢掬直に言うには「大泊瀬天皇の遺詔のことが今まさにやって来ようとしている。遺詔に従って皇太子にお仕えすべきである」と。
    そして兵を起して大蔵を囲った。
    外を防ぎ固めて火をつけて焼き殺した。

    河内三野県主小根は恐れ慄き、火を避けて逃げ出た。
    草香部吉士漢彦の脚に抱きついて大伴室屋大連に助命を乞うてほしく言うには「奴、県主小根星川皇子に仕えていたことは事実です。しかし皇太子に背くものではございません。どうか大恩を垂れて命をお救い下さい」と。

    漢彦は詳しく大伴大連に申し立てた。刑の類に入ることはなかった。

    小根漢彦を通じて大連に言うには「我が君大伴大連が大いなる恵みをお下しになり、短かい命を引き延ばして頂きました。日の光を見ることが出来ました」と。

    即ち難波(なにわ)来目邑(くめのむら)大井戸(おおいへ)の田十町を大連に送った。
    また田地を漢彦に与えてその恩に報いた。

    【日本書紀 巻第十五 清寧天皇即位前紀 雄略天皇二十三年八月条】
  • 雄略天皇23年10月4日

    臣・連らを率いて(しるし)を皇太子に奉る。

    【日本書紀 巻第十五 清寧天皇即位前紀 雄略天皇二十三年十月壬申条】
  • 清寧天皇元年1月15日

    清寧天皇の即位に伴い、引き続き大連となる。

    【日本書紀 巻第十五 清寧天皇元年正月壬子条】
  • 清寧天皇2年2月

    清寧天皇は子が無いことを惜しんだ。
    それで大伴室屋大連を諸国に遣わして白髪部舎人(しらかべのとねり)古事記では雄略天皇が白髪太子(後の清寧天皇)の御名代として白髪部舎人を置いている。白髪部膳夫(しらかべのかしわで)白髪部靫負(しらかべのゆげい)を置いた。
    遺跡を残して後世に伝えたいと思ったのである。

    【日本書紀 巻第十五 清寧天皇二年二月条】
  • 武烈天皇3年11月

    武烈天皇が大伴室屋大連に詔して「信濃国の男丁(よほろ)徴集された男子。を起こして城を水派邑(みまたのむら)に作れ」と。
    これを城上(きのえ)という。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇三年十一月条】
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