雄略天皇
- 名前
- 漢風諡号:雄略天皇(ゆうりゃくてんのう, いうりゃくてんわう)
- 和風諡号:大泊瀨幼武天皇【日本書紀】(おおはつせのわかたけるのすめらみこと, おほはつせのわかたけるのすめらみこと)大泊瀬幼武天皇
- 大泊瀨稚武天皇【日本書紀】(おおはつせのわかたけるのすめらみこと, おほはつせのわかたけるのすめらみこと)大泊瀬稚武天皇
- 大泊瀨天皇【日本書紀】(おおはつせのすめらみこと, おほはつせのすめらみこと)大泊瀬天皇
- 大長谷若建命【古事記】(おおはつせのわかたけのみこと, おほはつせのわかたけのみこと)
- 大長谷命【古事記】(おおはつせのみこと, おほはつせのみこと)
- 大泊瀨皇子【日本書紀】(おおはつせのみこ, おほはつせのみこ)大泊瀬皇子
- 大長谷王子【古事記】(おおはつせのみこ, おほはつせのみこ)
- 大長谷王【古事記】(おおはつせのみこ, おほはつせのみこ)
- 大長谷天皇【古事記】(おおはつせのすめらみこと, おほはつせのすめらみこと)
- 大長谷若建天皇【古事記】(おおはつせのわかたけるのすめらみこと, おほはつせのわかたけるのすめらみこと)
- 幼武尊【日本書紀】(わかたけるのみこと)
- 大泊瀨稚武皇子尊【先代旧事本紀】(おおはつせのわかたけるのみこのみこと, おほはつせのわかたけるのみこのみこと)大泊瀬稚武皇子尊
- 性別
- 男性
- 生年月日
- (允恭天皇7年12月 ~ 允恭天皇8年2月)
- 没年月日
- 雄略天皇23年8月7日
- 父
允恭天皇 【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】
- 母
忍坂大中姫命 【日本書紀 巻第十三 允恭天皇二年二月己酉条】
- 先祖
- 配偶者
- 子
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
- 第21代
天皇
- 第21代
- 出来事
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(允恭天皇7年12月 ~ 允恭天皇8年2月)允恭天皇が藤原宮に初行幸した日が出生日。詳しい日は不明だが、允恭八年二月条に藤原行幸が記されているため、これまでの期間と推測。【日本書紀 巻第十三 允恭天皇七年十二月壬戌朔条】
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允恭天皇42年1月14日允恭記では甲午年正月十五日。
允恭天皇が崩じる。
新羅王は天皇の崩御を聞くと、驚き悲しんで沢山の
【日本書紀 巻第十三 允恭天皇四十二年正月戊子条】調 の船と多数の楽人を貢上した。
この船は対馬に泊って大いに泣き悲しんだ。
筑紫に至ってまた大いに泣き悲しんだ。
難波津 に泊ると皆が麻の白服を着た。
すべての調を捧げ、また様々な楽器を備えて難波から京に至るまでに、あるいは大いに泣き悲しみ、あるいは歌を舞った。
遂に殯宮 に参会した。 -
允恭天皇42年11月
新羅の弔使らが喪礼を終えて還った。
新羅人は
京 のそばにある耳成山 ・畝傍山 を愛した。
琴引坂 に至り、振り返って「うねめはや。みみはや」と言った。
これはこの国の言語を習っていないので、それで畝傍山を『うねめ』、耳成山を『みみ』と訛ったのである。時に
【日本書紀 巻第十三 允恭天皇四十二年十一月条】倭 の飼部 が新羅人に従ってこれを聞いて疑った。新羅人は采女 と通じたのかと。
それで引き返して大泊瀬皇子後の雄略天皇。に報告した。
皇子は新羅の使者を捕えて推問した。
新羅の使者は「采女を犯すことはございません。ただ京のそばにある二つの山を愛でて言っただけでございます」と言った。
すると誤りであったことが分かって皆許された。
しかし新羅人は大いに恨み、貢ぎ物や船の数を減らすようになった。 -
允恭天皇42年12月14日
この頃、大泊瀬皇子後の雄略天皇。は瑞歯別天皇反正天皇の
【日本書紀 巻第十三 安康天皇即位前紀 允恭天皇四十二年十二月壬午条】女 達『女の名はどの記にも見えない』とある。を我が物にしようとした。
皇女達が言うには「君王は常に乱暴で怖いお方でございます。急にお怒りになり、朝にお目にかかった者を夕方には殺され、夕方にお目にかかった者を朝には殺されます。私たちは容色優れず、情性拙い者でございます。もし振舞や言葉が毛の末ばかりでも王のお心に適わなければ、どうして可愛がって頂けましょうか。このようなわけなので、仰せごとを承ることは出来ません」と。
遂に身を隠して聞き入れなかった。 -
安康天皇元年2月1日
安康天皇は大泊瀬皇子後の雄略天皇。のために、大草香皇子の妹の幡梭皇女を妻合わせたいと思った。
そこで坂本臣 の祖根使主を遣わして大草香皇子に言うには「幡梭皇女を頂いて、大泊瀬皇子に妻合わせたいと思う」と。
大草香皇子が答えて言うには、「私はこの頃重い病を患って治りません。たとえば物を積んだ船が満ち潮を待つようなものでございます。しかし死ぬのは天命でございます。どうして惜しむに足りましょうか。ただ妹の幡梭皇女が孤児になるので、容易く死ねないのでございます。いま陛下がその醜さをお嫌いになられず、宮廷の女性の仲間にお入れ頂きました。これは甚だ大きな恩恵でございます。どうしてかたじけないお言葉を辞することが出来ましょうか。それで真心を表すために、私の宝の押木珠縵 (あるいは立縵 という。また磐木縵 ともいう)を捧げて、お使いの根使主に預けて奉ります。どうか賤しく軽々しいといえども、お納め頂き、契りの印として頂きたく存じます」と。
根使主は押木珠縵を見て、その美しさに感動した。そこで偽って宝を自分の物にしようとした。
そして偽って天皇に奏上して「大草香皇子は命を承らず、私めに『同族といえども、どうして我が妹を差し出すことが出来ようか』と言いました」と言うと、縵を己の物にして献上しなかった。
天皇は根使主の讒言を信じて激怒し、兵を起こして大草香皇子の家を囲んで殺した。この時、難波吉師日香蛟父子は大草香皇子に仕えていた。
【日本書紀 巻第十三 安康天皇元年二月戊辰朔条】
共にその主君が罪も無く殺されたことを悲しみ、父は王の頸を抱き、二人の子はそれぞれ王の足を抱えた。
そして「我が君は罪も無いのに死んでしまわれた。なんと悲しいことか。我ら親子三人は生前にお仕え申し上げ、死に殉じなければ家来とはいえない」と言うと、自刎して皇子の屍の側で死んだ。
軍衆の悉くが涙を流した。-
天皇は同母弟の大長谷王子後の雄略天皇。のために、
【古事記 下巻 安康天皇段】坂本臣 らの祖の根臣を大日下王のもとに遣わして「あなた様の妹の若日下王と大長谷王子を結婚させたいと思うので奉りなさい」と詔した。
大日下王が四度拝んで言うには「もしやこのような大命もあるのではないかと存じておりました。それで外出させずに置いておりました。これは恐れ多いことです。大命に従って奉ります」と。
しかし言葉だけでは無礼であると思い、その妹の礼物として押木 の玉縵 を持たせて献上した。
根臣はその礼物である玉縵を盗み取り、大日下王のことを讒言して「大日下王は勅命を受けずに、『私の妹は同族の下敷きにはならない』とおっしゃって、大刀の柄を握ってお怒りになりました」と。
それで天皇は激怒して大日下王を殺し、その王の嫡妻の長田大郎女を奪って皇后とした。
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安康天皇3年8月9日【日本書紀 巻第十三 安康天皇三年八月壬辰条】
穴穂天皇安康天皇は沐浴するために山の宮に巡幸した。
楼 に登って眺め渡した。それから命じて酒宴を開いた。
そして心が和らいで楽しさが極まって語り出し、そっと皇后に言うには「妻よ原文『吾妹』。割注に『妻を妹というのは、古のならわしだろうか』とある。。お前は睦まじいのだが、朕は眉輪王を恐れている」と。眉輪王は幼年で楼の下で遊び戯れていたが、この話をすべて聞いてしまった。
そのうち穴穂天皇は皇后の膝を枕にして昼寝をした。
そこで眉輪王はその熟睡を伺って天皇を刺し殺してしまった。この日に大舎人姓名不明とある。が急ぎ走って天皇後の雄略天皇を指す。に「穴穂天皇が眉輪王に殺されました」と言った。
天皇は大いに驚いた。
そして自分の兄弟を疑って甲 をかぶり太刀を佩くと、兵を率いて八釣白彦皇子を問い詰めた。
皇子は害が及ぶと感じて座ったまま語らなかった。
天皇は抜刀して斬った。また坂合黒彦皇子を問い詰めた。
皇子もまた害が及ぶことを知って座ったまま語らなかった。
天皇の怒りはさらに強まった。またあわせて眉輪王も殺そうと思って罪を調べて問うた。
眉輪王は「私はもとより皇位を望んではおりません。ただ父の仇を報いただけでございます」と言った。坂合黒彦皇子は深く疑われることを恐れて密かに眉輪王に語った。
遂に人がいなくなった隙を見て外に出ると、共に円大臣の家に逃げ込んだ。天皇は使いを遣わした。
大臣が使いを出して答えて言うには「人臣に事あるときに王宮に逃げ込むということは聞きますが、君王が臣の家に隠れるということは聞いたことがございません。まさに今、坂合黒彦皇子と眉輪王が深く私の心をたのみとして私の家にいらっしゃいました。どうして送り出すことが出来ましょうか」と。これにより天皇は益々兵を増やして大臣の家を囲んだ。
大臣は庭に出て脚帯 袴の裾をくくる紐。を求めた。
大臣の妻は脚帯を持ってくると悲しみ傷ついて歌を詠んだ。「
飫 瀰 能 古 簸 多 倍 能 波 伽 摩 嗚 那 那 陛 嗚 絁 儞 播 儞 陀 陀 始 諦 阿 遙 比 那 陀 須 暮 」
大臣は装いを済ませて軍門に進み出て拝礼して言うには「私は誅されようとも、あえて命を承ることはございません。古の人は云います。『匹夫の志も奪うことは難しい』と。まさに今の私に当たります。伏してお願い申し上げます。大王、我が女 の韓媛と葛城の領地七ヶ所を献上することで、罪を贖うことをお聞き入れ下さい」と。
天皇は許さずに火をつけて家を焼いた。
大臣・黒彦皇子・眉輪王は共に焼け死んだ。時に坂合部連贄宿禰は皇子の屍を抱いて焼け死んだ。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇即位前紀 安康天皇三年八月条】
その舎人名は不明とある。どもは焼けた遺骸を取り収めたが、骨を選び分けることは難しかった。
一つの棺に入れて新漢 の擬本 『擬の訓みは未詳で、槻(つき)であろうか』とある。の南の丘に合葬した。-
天皇が神牀で昼寝をしている時、その后に「お前は心配ごとはあるか」と語ると、「天皇の厚い御寵愛を頂いております。何を心配することがございましょうか」と答えた。
その大后の先の子の目弱王大日下王との間の子。はこの年七歳だった。
この王はその時にあたり御殿の下で遊んでいた。
天皇がその幼い王が御殿の下で遊んでいることを知らずに言うには「自分には常に心配していることがある。何かというと、お前の子の目弱王のことだ。成人して私がその父王を殺したことを知ったら、心が変わって邪心を起こすのではないかと」と。
その御殿の下で遊んでいた目弱王はこの言葉を聞いて、密かに天皇の寝ているところを伺い、傍にある大刀を取って天皇の首を斬って都夫良意富美の家に逃げ入った。大長谷王子後の雄略天皇。はこのとき童男だったが、この事を聞くと憤慨して、その兄の黒日子王のもとに行って「人が天皇を殺しました。どうしましょう」と言った。
しかしその黒日子王は驚くこともなく、気にもしなかった。
そこで大長谷王はその兄を罵って「一つには天皇。一つには兄弟。なぜ恃む心もなく、その兄が殺されたと聞いても驚かずに怠慢でいられるのか」と言うと、その襟首を掴んで引きずり出して、刀を抜いて打ち殺した。またその兄の白日子王に前と同じように状況を告げると、また黒日子王と同じように怠慢だった。
それでその襟首を掴んで引いて小治田 に着くと、穴を掘って立ったままの状態で埋めた。
腰まで埋めた時に両目が飛び出て死んだ。また軍を興して都夫良意美の家を囲んだ。
【古事記 下巻 安康天皇段】
都夫良意美も軍を興して応戦し、矢が葦の花のように飛び散った。
大長谷王が矛を杖にして家の中を伺って「私が言い交わした少女は、もしやこの家にいるのか」と言った。
都夫良意美はこの言葉を聞くと自ら出てきて、武器を外して八度拝んで言うには「先日妻問いなされた女 の訶良比売はお仕え致しましょう。また五ヶ所の屯宅 を献上致します(所謂五村の屯宅は、今の葛城の五村の苑人 のことである)。しかし私が参上しない理由は、昔から今に至るまで、臣下が王宮に隠れることは聞きますが、王子が臣下の家に隠れることは聞きません。このことから思いますに、賤しい私めが力を尽くして戦っても勝つことなど無いでしょう。しかし私を頼って家にお入りになった王子は死んでもお見捨てすることはございません」と。
このように言うと、またその武器を取り、帰って戦った。
力尽き、矢も尽き、その王子に言うには「私はすっかり傷付き、また矢も尽きました。今はもう戦うことは出来ません。いかがなさいましょう」と。
その王子が答えて言うには「それならば為す術もない。今すぐ私を殺してくれ」と。
それでその王子を刀で刺し殺し、自分の首を切って死んだ。
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安康天皇3年10月1日
天皇雄略天皇を指す。は、かつて穴穂天皇安康天皇が市辺押磐皇子に皇位を伝えて後事を委ねようと思っていたことを恨み、人を市辺押磐皇子に遣わして偽って巻狩することを約束し、野遊びすることを勧めて言うには「近江の狭狭城山君韓帒が言うには『今、近江の
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇即位前紀 安康天皇三年十月癸未朔条】来田綿 の蛟屋野 に猪や鹿が多くおります。その頂いた角は枯木の枝に似ております。その揃った脚は灌木のようで、吐く息は朝霧に似ています』とのことである。願わくは皇子と初冬の風が冷たくないときに野に遊んでいささかに心を楽しんで狩りをしよう」と。
市辺押磐皇子は従って狩りをした。
そこで大泊瀬天皇は弓を引き、馬を馳せ、偽って「猪 有り」と言うと市辺押磐皇子を射殺した。
皇子の帳内 の佐伯部売輪。またの名は仲手子は屍を抱き、驚き慌ててなす術を知らずにころび回り、叫び散らして右往左往した。
天皇はみな殺した。-
淡海 近江の佐佐紀山君 の祖、名は韓帒が言うには「淡海の久多綿 の蚊屋野 には猪や鹿が多くおります。その立っている足はすすき原のようで、角は枯れ枝のようでございます」と。
この時に市辺之忍歯王を伴って淡海に行幸した。
その野に着くと、仮宮を造って泊まった。翌朝、まだ日も出ていない時に、忍歯王は軽い気持ちで馬に乗って、大長谷王の仮宮の傍に立った。
そして大長谷王子の伴の者に言うには「まだお目覚めではないか。早急に申し上げよ。夜は既に明けたので狩庭に行きましょう」と。そのまま馬を進めて出立した。
大長谷王の側仕えの者たちは「大変なことを言う王子でございます。ご用心なさいませ。また武装なさいませ」と言った。
それで衣の中に鎧を着て、弓矢を携え、馬に乗って出立した。
たちまち馬を並べると、矢を抜いて忍歯王を射落とした。
またその身を斬って、馬の飼葉桶に入れると、地面と同じ高さに埋めた。この市辺王の王子の意富祁王後の仁賢天皇。・袁祁王後の顕宗天皇。の二柱は、この乱を聞いて逃げ出した。
【古事記 下巻 安康天皇段】
それで山代 山城の苅羽井 に着いて、御粮 を食べようとした時、顔に入墨をした老人がやって来て、その御粮を奪った。
その二王が「御粮は惜しまない。それにしてもお前は誰だ」と言うと、「私は山代の豚飼いだ」と答えた。
それで玖須婆 の河を逃げ渡って針間 播磨国に至り、その国人で名は志自牟の家に入り、身分を隠して馬飼い・牛飼いとして仕えた。
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安康天皇3年10月
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安康天皇3年11月13日
天皇は司に命じて、高御座を
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇即位前紀 安康天皇三年十一月甲子条】泊瀬 の朝倉 に設けて天皇に即位した。
遂に宮を定めた。
平群臣真鳥を大臣とした。
大伴連室屋・物部連目を大連とした。-
【古事記 下巻 雄略天皇段】長谷朝倉宮 にて天下を治めた。
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雄略天皇元年3月3日
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大后が日下 にいた時、日下をまっすぐ越える道を通って河内に行幸した。
そこで山の上に登って国内を眺めると、鰹木を上げて造った家があった。
天皇はその家のことを尋ねて「その鰹木を上げて造る家は誰の家であるか」と言うと、「志幾 の大県主 の家です」と答えた。
天皇は「奴め。自分の家を天皇の御舎に似せて造っている」と言うと、すぐに人を遣わしてその家を焼かせようとした。
この時に大県主は恐怖して、頭を深く下げて言うには「奴でございますので、奴のままに不覚にも誤って造ってしまったことは恐れ多いことでございます。それで罪を贖うための贈り物を献上致します」と。
布を白い犬にかけ、鈴をつけて、自分の一族の名は腰佩という人に犬の繩を取らせて献上した。
それで火をつけることを止めた。若日下部王のもとに行幸してその犬を賜り、「この物は今日道中で得た珍しい物だ。よって妻問いの品とする」と言って贈り物とした。
若日下部王は天皇に奏上して「日に背を向けて行幸なされた事はとても恐ろしいことでございます。それで私の方から直々に参上致しましてお仕え奉ります」と。このようなことがあって宮に帰るとき、その山の坂の上に立って歌を詠んだ。
「
久 佐 加 辨 能 許 知 能 夜 麻 登 多 多 美 許 母 幣 具 理 能 夜 麻 能 許 知 碁 知 能 夜 麻 能 賀 比 爾 多 知 邪 加 由 流 波 毘 呂 久 麻 加 斯 母 登 爾 波 伊 久 美 陀 氣 淤 斐 須 惠 幣 爾 波 多 斯 美 陀 氣 淤 斐 伊 久 美 陀 氣 伊 久 美 波 泥 受 多 斯 美 陀 氣 多 斯 爾 波 韋 泥 受 能 知 母 久 美 泥 牟 曾 能 淤 母 比 豆 麻 阿 波 禮 」そしてこの歌を持たせて使いを返した。
【古事記 下巻 雄略天皇段】
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雄略天皇元年3月
三人の妃を立てる。
はじめの妃、葛城円大臣の女 の韓媛が生んだのは
白髪武広国押稚日本根子天皇清寧天皇。
稚足姫皇女。またの名は栲幡姫皇女。この皇女は伊勢大神の祠に侍した伊勢神宮の斎宮となる話。。次に吉備上道臣の女の稚媛(ある書では吉備窪屋臣の女という)は二男を生んだ。
兄を磐城皇子という。
弟を星川稚宮皇子という。次に春日和珥臣深目の女の童女君が生んだのは
春日大娘皇女。またの名は高橋皇女。童女君はもとは采女だった。天皇と一夜をともにして孕んで女子を生んだ。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇元年三月是月条】
天皇は疑って養育しなかった。女の子は歩くようになった。
天皇は大殿にいて物部目大連が侍していた。
女の子が庭を渡った。
目大連が群臣を顧みて言うには「麗しい女の子だなぁ。古の人の言葉があって『なひとやはばに原文『娜毗騰耶皤麼珥』この古語は未詳とある。「お前は母似か」の意か。校異:娜毗騰耶皤磨珥(なひとやはまに)』という。清き庭をしめやかに歩くのは誰の女だろうか」と。
天皇が「なぜ尋ねるのだ」と言うと、目大連は「私が女の子が歩くのを見ると、その姿はよく天皇に似ておりますので」と答えた。
天皇が言うには「この子を見た者は皆がお前と同じように言う。しかし朕と一夜を過ごしただけで身ごもった。一晩で子を産むのは異常なので、これを疑っているのだ」と。
大連は「一晩に何度お呼びになられましたか」と言った。天皇は「七度呼んだ」と言った。
大連が言うには「少女は清き心身で一夜を共に致しました。安易に疑って清潔を嫌ってはなりません。私が聞くところによりますと、孕み易い者は褌が体に触れただけで孕むといいます。一晩中共にされたにもかかわらず、みだりに疑いをおかけあそばされますとは」と。
天皇は大連に命じて女の子を皇女とし、母を妃とした。 -
雄略天皇2年7月
百済の池津媛は天皇がまさに召そうとした時に背いて石河楯と通じた(ある書では
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二年七月条】石河股合首 の祖の楯という)。
天皇は激怒し、大伴室屋大連に詔して来目部 を使って夫婦の四肢を木に張りつけ、桟敷の上に置かせて火で焼き殺させた。 -
ある時、天皇が遊行して
美和河 に着いた時に河辺で衣を洗う童女がいた。その容姿はとても麗しかった。
天皇がその童女に「お前は誰の子であるか」と尋ねると、「私の名は引田部赤猪子といいます」と答えた。
そこで「お前は誰にも嫁がずにいるように。今に召す」と詔して宮に帰った。それでその赤猪子は天皇の命を仰ぎ待って既に八十年が経った。
この赤猪子は「命を仰ぐ間に多くの年月が過ぎ、体は痩せ萎えてしまった。これ以上待っても望みは無い。しかし待っている心情を表さないでいては気も晴れずに忍びない」と思い、おびただしい数の品を持たせて参内して献上した。
しかし天皇は先の命を忘れ、その赤猪子に「お前はどこの老女だ。どういうわけで参内したのだ」と尋ねた。
赤猪子は答えて「先年のある月に天皇の命を受けまして、お召しのお言葉を仰ぎ待って八十年が過ぎました。今は容姿もすっかり老いて望みも無くなりました。しかし私の志を表すために参内したのです」と。
天皇は大いに驚いて言うには「自分は先の事をすっかり忘れていた。しかしお前は志を守り、命を待ち、盛りの年を過ごしてしまった。これは甚だ悲しいことだ」と。
内心は結婚したいと思ったが、あまりにも老いてしまったことに憚って結婚することは出来ず、御歌を賜った。「
美 母 呂 能 伊 都 加 斯 賀 母 登 加 斯 賀 母 登 由 由 斯 伎 加 母 加 志 波 良 袁 登 賣 」また歌を詠んだ。
「
比 氣 多 能 和 加 久 流 須 婆 良 和 加 久 閇 爾 韋 泥 弖 麻 斯 母 能 淤 伊 爾 祁 流 加 母 」赤猪子は涙を流して、その赤い摺り染めの衣の袖をすっかり濡らしてしまった。
その大御歌に答えて歌を詠んだ。「
美 母 呂 爾 都 久 夜 多 麻 加 岐 都 岐 阿 麻 斯 多 爾 加 母 余 良 牟 加 微 能 美 夜 比 登 」また歌を詠んだ。
「
久 佐 迦 延 能 伊 理 延 能 波 知 須 波 那 婆 知 須 微 能 佐 加 理 毘 登 登 母 志 岐 呂 加 母 」そこで多くの品物をその老女に賜って返し遣わした。
【古事記 下巻 雄略天皇段】
この四歌は志都歌 である。 -
雄略天皇2年10月3日
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二年十月癸酉条】吉野宮 に行幸する。 -
雄略天皇2年10月6日
御馬瀬 に行幸する。山の司に命じて思うままに狩りをした。
幾重もの峰を登って広い原へ赴いた。
日が傾く前に十のうち七、八を獲った。狩りするごとに大猟で鳥獣が尽きるかというほどだった。
ついに林泉で休憩した。行夫を休めて車馬を整えた。
群臣に問うて「猟場の楽しみは、膳夫に新鮮な料理を作らせることだが自分で作るのはどうだろうか」と。群臣は即答できなかった。
すると天皇は激怒して、刀を抜いて御者の大津の馬飼を斬った。この日に吉野宮に戻った。国内の民はみな震え怖れた。
これを聞いた皇太后と皇后は大いに心配した。
倭 の采女日媛を遣わして、酒を捧げて迎え奉らせた。
天皇は采女の端麗で雅な容姿を見ると、顔をほころばせて「どうしてお前の笑顔を見ずにいられようか」と言った。
そして手を組み合わせて後宮に入った。皇太后に語って「今日の狩りで大きな禽獣を獲た。群臣と新鮮な料理を作って野外で宴をしようと思い、群臣に尋ねたが良い答えはなかった。それで朕は怒ったのだ」と。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二年十月丙子条】
皇太后はこの言葉の真情を知り、天皇を慰めて言うには「群臣は陛下の猟場に宍人部 を置こうとして群臣に尋ねられたとは気が付かなかったのでございましょう。群臣が黙っていたことも無理はございません。答えることも難しいのでございます。今からでも遅くはございません。自分を初めとなさりませ。膳臣長野はよい膾 を作ります。これに献上させましょう」と。
天皇は跪いて礼をして「良いことだ。下々のいう所の『貴き人は心を互いに知る』というのはこれをいうのか」と言った。
皇太后は天皇の悦びを見て自分も喜び笑った。
さらに人を奉るために「私の厨人 の菟田御戸部・真鋒田高天の二人を加えて宍人部 として頂きたく存じます」と言った。
この後、大倭国造吾子籠宿禰は狭穂子鳥別を奉って宍人部とした。
臣 ・連 ・伴造 ・国造らも続いて奉った。 -
雄略天皇2年10月
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雄略天皇3年4月
阿閉臣国見(またの名は磯特牛)が栲幡皇女と
湯人 皇子・皇女を養育する湯坐。『湯人。此云臾衞』の廬城部連武彦を貶めるために「武彦は皇女を犯して妊娠させました」と讒言した。武彦の父の枳莒喩はこの流言を聞いて、禍が身に及ぶことを恐れた。
武彦を廬城河 に誘い出すと、鵜飼の真似をして欺き、不意をついて打ち殺した。天皇は使者を遣わして皇女に尋ねた。皇女は「私は知りません」と答えた。
にわかに皇女は神鏡を持ち出すと五十鈴河 のほとりにやってきて、人の往来がないところを伺って鏡を埋めて経死した。天皇は皇女の不在を疑って闇夜をあちこち探させた。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇三年四月条】
すると河のほとりに虹が見えた。蛇のようで四、五丈の長さだった。
虹の起ったところを掘ると神鏡が出てきた。近くで皇女の屍を見つけた。
割いてみると腹の中には水のようなものがあった。水の中には石があった。
枳莒喩はこれによって子の罪を雪ぐことができた。
子を殺してしまったことを悔い、報復に国見を殺そうとしたが、石上 神宮に逃げ隠れた。 -
雄略天皇4年2月
天皇は葛城山で狩りをした。
不意に現れた長身の人と谷で出会った。容姿が天皇に似ていた。
天皇はこれを神と知ったが、あえて「どこの公であるか」と尋ねた。
長身の人は「現人神である。まずはあなたの諱を名乗りなさい。然る後に名乗ろう」と答えた。
天皇は「朕は幼武尊である」と答えた。
長身の人が次に名乗って「私は一事主神である」と言った。
そして共に狩りを楽しんだ。
一頭の鹿を追って矢を放つことを譲り合い、轡を並べて馳せた。
言葉も恭しく、仙人に逢ったかのようだった。日も暮れて狩りも終り、神は天皇を送るために
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇四年二月条】来目水 までやってきた。
この時に人民の悉くが「徳の有る天皇だ」と言った。-
ある時に天皇は葛城山に登った。
百官の人らはみな紅い紐をつけた青摺の衣服を賜っていた。
その時、向いの山の尾根伝いに山を登る人がいた。
その様子は天皇の鹵簿 行幸の列。に等しく、またその身なりや従う人々も互いに似て違いはなかった。
天皇がその様子を見て問うには「この倭 国には自分を除いて王はいないのに、今誰が同じような様子で行くのか」と。
すると答える様子もまた天皇の言葉のようだった。
天皇が激怒して弓に矢をつがえると、官人らもまた皆が矢をつがえた。その人らもまた皆が矢をつがえた。
それで天皇がまた問うには「それならばその名を名乗れ。それぞれが名乗りを上げてから矢を放とう」と。
これに答えて「私が先に問われたので私が先に名乗ろう。私は悪い事も一言、善い事も一言で言い放つ神、葛城之一言主大神である」と。
天皇はこれに畏怖して「恐れ多いことです。我が大神よ。現実のお方とは気が付きませんでした」と言うと、大御刀・弓矢をはじめ、官人らの着る服を脱がせて拝礼して献上した。
するとその一言主大神は拍手をして捧物を受け取った。それで天皇が還幸する時、その大神は山の峰から
【古事記 下巻 雄略天皇段】長谷 の山の入り口まで奉送した。
この一言主之大神は、この時に顕れたのである。
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雄略天皇4年8月18日
吉野宮に行幸する。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇四年八月戊申条】-
天皇が吉野宮に行幸した時、吉野川の川辺に童女がいた。その姿形は美しかった。
そこでこの童女と結婚して宮に還った。後にまた吉野に行幸した時、その童女と出会った場所に留まり、そこに
大御呉床 を立てた。
その御呉床に坐して御琴を弾いて、その少女に舞いを舞わせた。
するとその少女は巧みに舞ったので御歌を作った。「
【古事記 下巻 雄略天皇段】阿 具 良 韋 能 加 微 能 美 弖 母 知 比 久 許 登 爾 麻 比 須 流 袁 美 那 登 許 余 爾 母 加 母 」
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雄略天皇4年8月20日
河上の小野に行幸した。
蜻蛉山 の司に命じて獣を狩った。
自分で射ようと待っていると虻が飛んできて天皇の臂 を噛んだ。
そこに蜻蛉 トンボが急に飛んできて虻を咥えて飛び去った。
天皇はその心あることを喜んで、群臣に「朕のために蜻蛉を讃えて歌詠みをせよ」と言った。
群臣にあえて詠む者はいなかった。
そこで天皇は口ずさんだ。「
野 麼 等 能 嗚 武 羅 能 陀 該 儞 之 之 符 須 登 拖 例 柯 擧 能 居 登 飫 裒 磨 陛 儞 麻 嗚 須 『一本。以飫裒磨陛儞麻嗚須。易飫裒枳彌儞麻嗚須』飫 裒 枳 瀰 簸 賊 據 嗚 枳 舸 斯 題 拖 磨 磨 枳 能 阿 娛 羅 儞 陀 陀 伺 『一本。以陀陀伺。易伊麻伺也』施 都 魔 枳 能 阿 娛 羅 儞 陀 陀 伺 斯 斯 磨 都 登 倭 我 伊 麻 西 麼 佐 謂 麻 都 登 倭 我 陀 陀 西 麼 陀 倶 符 羅 爾 阿 武 柯 枳 都 枳 曾 能 阿 武 嗚 婀 枳 豆 波 野 倶 譬 波 賦 武 志 謀 飫 裒 枳 瀰 儞 麼 都 羅 符 儺 我 柯 陀 播 於 柯 武 婀 岐 豆 斯 麻 野 麻 登 『一本。以婆賦武志謀以下易舸矩能御等。儺儞於婆武登。蘇羅瀰豆。野麻等能矩儞嗚。阿岐豆斯麻登以符』」よって蜻蛉を讃え、この地を名付けて
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇四年八月庚戌条】蜻蛉野 という。-
阿岐豆野 で狩りをした時、天皇が御呉床に坐っていると虻がご飯に喰い付いた。
そこに蜻蛉 トンボ。蜻蛉云阿岐豆。がやって来て、その虻をくわえて飛んでいった。
そこで御歌を作った。「
美 延 斯 怒 能 袁 牟 漏 賀 多 氣 爾 志 斯 布 須 登 多 禮 曾 意 富 麻 幣 爾 麻 袁 須 夜 須 美 斯 志 和 賀 淤 富 岐 美 能 斯 志 麻 都 登 阿 具 良 爾 伊 麻 志 斯 漏 多 閇 能 蘇 弖 岐 蘇 那 布 多 古 牟 良 爾 阿 牟 加 岐 都 岐 曾 能 阿 牟 袁 阿 岐 豆 波 夜 具 比 加 久 能 碁 登 那 爾 於 波 牟 登 蘇 良 美 都 夜 麻 登 能 久 爾 袁 阿 岐 豆 志 麻 登 布 」それでその時からその野を名付けて
【古事記 下巻 雄略天皇段】阿岐豆野 というのである。
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雄略天皇5年2月
天皇が葛城山で狩りをていると不思議な鳥が急に来た。
その大きさは雀のようで、長い尾が地を引きずっていた。
そして「努力努力 油断をするなという意味。」と鳴いた。しばらくして怒り狂った猪が草の中から突然現れて人を追った。狩人は木に登って恐懼した。
天皇は舎人に詔して「猛獣も人に逢っては止まる。迎え射て仕留めよ」と。
舎人は正確が臆病で、木に登って色を失い恐れ慄いた。
猪は突進して天皇に喰いつこうとした。
天皇は弓を使って仕留め、脚を上げて踏み殺した。狩りも終って舎人を斬ろうとした。
舎人は刑に臨むときに歌を詠んだ。「
野 須 瀰 斯 志 倭 我 飫 裒 枳 瀰 能 阿 蘇 麼 斯 志 斯 斯 能 宇 拖 枳 舸 斯 固 瀰 倭 我 尼 㝵 能 裒 利 志 阿 理 嗚 能 宇 倍 能 婆 利 我 曳 陀 阿 西 嗚 」
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇五年二月条】
皇后はこれを聞いて悲しみ、思い起して諫めた。
すると「皇后は天皇に与さずに舎人を顧みるのか」と言った。
答えて言うには「国人はみな『陛下は狩りして獣を好む』と言うでしょう。これは良くないことではないでしょうか。いま陛下が猪のことで舎人をお斬りあそばせば、陛下はたとえば狼に異なりません」と。
天皇は皇后と車に乗って帰った。
「万歳 」と叫んで言うには「楽しいなぁ。人はみな獣を狩る。朕は狩りをして良い言葉を得て帰るのだから」と。-
ある時に天皇は葛城山の上に登った。そこで大猪が出た。
すぐさま天皇は鳴鏑の矢でその猪を射ると、その猪は怒り唸って寄ってきた。
それで天皇は、その唸り声を恐れて榛 の木の上に登った。
そこで歌を詠んだ。「
【古事記 下巻 雄略天皇段】夜 須 美 斯 志 和 賀 意 富 岐 美 能 阿 蘇 婆 志 斯 志 斯 能 夜 美 斯 志 能 宇 多 岐 加 斯 古 美 和 賀 爾 宜 能 煩 理 斯 阿 理 袁 能 波 理 能 紀 能 延 陀 」
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雄略天皇5年4月
百済の加須利君(蓋鹵王)は人づてに池津媛(
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇五年四月条】適稽女郎 )が焼き殺されたことを聞き、議って言うには「昔、女を献上して采女とした。しかし無礼にも我が国の名を貶めた。今後は女を献上してはならない」と。
そしてその弟の軍君(昆支君)に「お前は日本に行って天皇に仕えよ」と告げた。
軍君は「君上の命を違えることは出来ません。願わくは君の婦 を賜り、その後にお遣わし下さい」と答えた。
加須利君は孕んだ婦を軍君に嫁がせて言うには「我が孕める婦は臨月に当たる。もし途中で出産したら、一つの船に乗せて、どこからでも速やかに国に送り返してくれ」と。
そして共に別れの言葉を述べて朝 に遣わした。 -
雄略天皇5年6月1日
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雄略天皇5年7月
軍君が
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇五年七月条】京 に入った。既に五人の子があった。 -
雄略天皇6年2月4日
天皇は
泊瀬 の小野で遊んだ。
山野のなりを眺めると、心を奮い起こして歌を詠んだ。「
擧 暮 利 矩 能 播 都 制 能 野 麼 播 伊 底 拖 智 能 與 慮 斯 企 野 麼 和 斯 里 底 能 與 盧 斯 企 夜 麼 能 據 暮 利 矩 能 播 都 制 能 夜 麼 播 阿 野 儞 于 羅 虞 波 斯 阿 野 儞 于 羅 虞 波 斯 」それでこの小野の名を
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇六年二月乙卯条】道小野 という。-
天皇が長谷にある枝の茂った欅の下で酒宴を開いた時に、伊勢国の三重の采女が大御杯を捧げて献上した。
その欅の葉が落ちて大御杯の上に浮かんだ。
その采女は落葉が杯に浮かんでいることを知らずにそのまま大御酒を献上した。
天皇はその杯に浮かんだ葉を見てその采女を打ち伏せ、刀をその頸に当ててまさに斬ろうとした時、その采女が天皇に言うには「私を殺してはいけません。申し上げることがございます」と。
そして歌を詠んだ。「
麻 岐 牟 久 能 比 志 呂 乃 美 夜 波 阿 佐 比 能 比 傳 流 美 夜 由 布 比 能 比 賀 氣 流 美 夜 多 氣 能 泥 能 泥 陀 流 美 夜 許 能 泥 能 泥 婆 布 美 夜 夜 本 爾 余 志 伊 岐 豆 岐 能 美 夜 麻 紀 佐 久 比 能 美 加 度 爾 比 那 閇 夜 爾 淤 斐 陀 弖 流 毛 毛 陀 流 都 紀 賀 延 波 本 都 延 波 阿 米 袁 淤 幣 理 那 加 都 延 波 阿 豆 麻 袁 淤 幣 理 志 豆 延 波 比 那 袁 淤 幣 理 本 都 延 能 延 能 宇 良 婆 波 那 加 都 延 爾 淤 知 布 良 婆 閇 那 加 都 延 能 延 能 宇 良 婆 波 斯 毛 都 延 爾 淤 知 布 良 婆 閇 斯 豆 延 能 延 能 宇 良 婆 波 阿 理 岐 奴 能 美 幣 能 古 賀 佐 佐 賀 世 流 美 豆 多 麻 宇 岐 爾 宇 岐 志 阿 夫 良 淤 知 那 豆 佐 比 美 那 許 袁 呂 許 袁 呂 爾 許 斯 母 阿 夜 爾 加 志 古 志 多 加 比 加 流 比 能 美 古 許 登 能 加 多 理 碁 登 母 許 袁 婆 」それでこの歌を献じたので罪を許した。
ここに大后が歌を詠んだ。「
夜 麻 登 能 許 能 多 氣 知 爾 古 陀 加 流 伊 知 能 都 加 佐 爾 比 那 閇 夜 爾 淤 斐 陀 弖 流 波 毘 呂 由 都 麻 都 婆 岐 曾 賀 波 能 比 呂 理 伊 麻 志 曾 能 波 那 能 弖 理 伊 麻 須 多 加 比 加 流 比 能 美 古 爾 登 余 美 岐 多 弖 麻 都 良 勢 許 登 能 加 多 理 碁 登 母 許 袁 婆 」そして天皇が歌を詠んだ。
「
毛 毛 志 記 能 淤 富 美 夜 比 登 波 宇 豆 良 登 理 比 禮 登 理 加 氣 弖 麻 那 婆 志 良 袁 由 岐 阿 閇 爾 波 須 受 米 宇 受 須 麻 理 韋 弖 祁 布 母 加 母 佐 加 美 豆 久 良 斯 多 加 比 加 流 比 能 美 夜 比 登 許 登 能 加 多 理 碁 登 母 許 袁 婆 」この三歌は
天語歌 である。それでこの酒宴の後、その三重の采女を褒めて多くの禄を賜った。
この酒宴の日、また春日之袁杼比売が大御酒を献上する時に天皇が歌を詠んだ。
「
美 那 曾 曾 久 淤 美 能 袁 登 賣 本 陀 理 登 良 須 母 本 陀 理 斗 理 加 多 久 斗 良 勢 斯 多 賀 多 久 夜 賀 多 久 斗 良 勢 本 陀 理 斗 良 須 古 」これは
宇岐歌 である。そこで袁杼比売は歌を献じた。
「
夜 須 美 斯 志 和 賀 淤 富 岐 美 能 阿 佐 斗 爾 波 伊 余 理 陀 多 志 由 布 斗 爾 波 伊 余 理 陀 多 須 和 岐 豆 岐 賀 斯 多 能 伊 多 爾 母 賀 阿 世 袁 」これは
【古事記 下巻 雄略天皇段】志都歌 である。
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雄略天皇6年3月7日
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雄略天皇6年4月
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇六年四月条】呉国 が使いを遣わして貢物を献上した。 -
雄略天皇7年7月3日
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雄略天皇7年8月
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇七年八月条】官者 の吉備弓削部虚空は取り急ぎ家に帰った。
吉備下道臣前津屋(ある書では国造吉備臣山という)は虚空を留めて使い、月を経ても京に上らせことを許さなかった。
天皇は身毛君丈夫を遣わして呼んだ。
虚空が呼ばれてやって来て言うには「前津屋は小女 を天皇の人とし、大女 を自分の人として競い闘わせております。小女が勝つのを見ると刀を抜いて殺しました。また小さい雄鶏を天皇の鶏として毛を抜いて翼を切り、大きな雄鶏を自分の鶏として鈴と金の蹴爪をつけて競い闘わせております。禿げた鶏が勝つのを見るとまた刀を抜いて殺しました」と。
天皇はこの話を聞くと物部の兵士三十人を遣わして、前津屋と併せて同族七十人を誅した。 -
雄略天皇7年
吉備上道臣田狭が御殿のそばに侍り、さかんに稚媛のことを友人に褒め語って「天下の美人でも私の嫁にかなう者はいない。気品があって様々な良いものを備えている。明るく温和で全てが整っている。化粧をする必要もない。久しい世にも類まれで今の世では抜きん出ている」と。
天皇は耳を傾けて遠くで聞いて心の中で悦んだ。そして稚媛を求めて女御としたいと思った。田狭を任那の国司に任じた。
しばらくして天皇は稚媛を召し入れた。
田狭臣は稚媛を娶って兄君・弟君が生まれている。田狭は任地に赴いてから天皇がその妻を召し入れたことを聞いて、援助を求めて新羅に入ろうと思った。
この時期、新羅と日本は不和だった。天皇は田狭臣の子の弟君と吉備海部赤尾に「お前が行って新羅を罰せよ」と詔した。
このとき側にいた西漢才伎 西漢氏に管理された大陸系帰化工人。の歓因知利が進み出て「もっと優れた者が韓国 には多くおります。召し上げてお使い下さい」と奏上した。
天皇は群臣に詔して「それでは歓因知利を弟君らに副えて百済に遣わし、併せて勅書を下して優れた者を献上させよ」と。
弟君は命を受け、衆を率いて百済に入った。その国に入ると国神が老女に化けて忽然と路に現れた。
弟君は行き先が遠いのか近いのか尋ねた。
老女は「さらに一日歩いたらたどり着くでしょう」と答えた。
弟君は道が遠いと思って征伐せずに帰った。
百済が奉った今来 の才伎 帰化工人。を大島の中に集めて風待ちに託けて久しく留まり月を重ねた。任那 国司の田狭臣は弟君が帰ったことを喜んだ。
そして密かに百済に人を遣わして弟君を戒めて言うには「お前の首領はどれほど堅固で人を討てるというのか。伝え聞くところによると天皇は我が妻を召して既に子供もいるという。今恐れることは我が身に禍が及ぶこと。備えておくべきだ。我が子のお前は百済に留まって日本に帰るな。私は任那に留まって日本には帰らない」と。弟君の妻の樟媛は国家を思う心が深く君臣の義は確かだった。忠心は白日を越えて節は青松のそれに過ぎていた。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇七年是歳条】
それでこの謀反を憎んで密かにその夫を殺して部屋の下に隠して埋めた。
そして海部直赤尾と共に百済の奉った手末才伎 を率いて大島にやってきた。
天皇は弟君がいなくなったことを聞いて日鷹吉士堅磐固安銭を遣わして復命させた。
そして倭 国の吾礪 の広津 廣津。此云比慮岐頭。邑に置いた。しかし病死する者が多かった。
そこで天皇は大伴大連室屋に詔し、東漢直掬に命じて新漢陶部高貴・鞍部堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを上桃原 ・下桃原 ・真神原 の三ヶ所に移住させた。-
吉備臣弟君は百済から帰還して
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇七年是歳条 或本云】漢手人部 ・衣縫部 ・宍人部 を献じた。
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雄略天皇8年2月
天皇の即位からこの年に至るまで新羅国は背いて偽り、貢物を奉らぬこと八年となった。
中国 日本の心を大いに恐れて好を高麗 に修めた。
高麗王は精兵百人を遣わして新羅を守らせた。
しばらくして高麗兵士一人が少しのあいだ国に帰った。この時に新羅人を典馬 典馬。此云于麻柯比。とした。
そして密かに語って「お前の国は我が国のために破られることはそう遠くない」と言った。ある書では「お前の国は果たして我が国となることは遠くない」と言ったという。
これを聞いた典馬は腹痛と偽って遅れ、国に逃げ帰ってその話を伝えた。
新羅王は高麗の守りが偽りと知り、使いを走らせて国人に「人々よ。家の中に養っている雄鶏を殺せ」と告げさせた。
国人はその意味を知って国内の高麗人を全て殺した。
ただ生き残った高麗人が一人いて、隙を見て脱してその国に逃げ入ってつぶさに伝えた。
高麗王はすぐに兵を起して筑足流城 (ある書では都久斯岐城 という)に集めた。そして歌舞をさせて声を響かせた。
新羅王は夜に高麗軍が四方で歌舞をしていることを聞いて、敵が新羅の地に入り尽くしていることを知った。
そこで人を遣わして任那王に言うには「高麗王が我が国を討とうとしている。いまや吊り下げられた旗のようである。積み重ねた卵よりも危うい。命の長短も計ることができない。伏して救いを日本府の将軍たちにお願い致します」と。
任那王は膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子を送って新羅を救援した。
膳臣らはまだ途中で留まっていたが、高麗の諸将は膳臣らと戦ってもいないのに皆が怖れた。
膳臣らは兵を労い、急襲する備えをさせて進軍した。高麗と対峙して十日あまり、夜に地下道を作り、輜重を送って奇兵を備えた。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇八年二月条】
明け方、高麗は膳臣らが逃げたと思って軍勢を出して追った。
そこへ奇兵を放って歩兵・騎兵で挟み撃ちにして大いに破った。
高麗・新羅の二国の怨みは、このときに始まった。
膳臣らが新羅に言うには「お前の国は至って弱いのに、至って強い国と当たった。日本軍が救わなければ必ず乗っ取られていた。人の地になるということは、このようなことが殆どである。今後は天朝に背いてはならない」と。 -
雄略天皇9年2月1日
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雄略天皇9年3月
天皇は自ら新羅を討とうと思った。
神は天皇を戒めて「行ってはいけない」と言った。天皇は行くのをやめた。
そして紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰らに勅して「新羅は西の国にあって世を重ねて臣を称した。朝聘を違えることはなく、貢物も適当だった。朕が天下の王になってからは対馬の外に身を置き、跡を匝羅 朝鮮の地名。に隠して高麗の貢物を阻んで百済の城を呑み込んだ。また朝聘を欠いて貢物を納めることもない。狼の子のように野心があり、飽きては去り、飢えては近づく。お前たち四卿を大将に任ずる。軍を以って征伐して天罰を加えよ」と。紀小弓宿禰が憂え訴えて大伴室屋大連に言うには「私は拙いですが謹んで詔を承ります。しかしいま私の妻が死に際にあり、私を世話してくれる者がおりません。どうかこの事を詳しく天皇に申し上げて欲しい」と。
そこで大伴室屋大連は詳しく奏上した。
天皇はこれを聞いて悲しみ歎き、吉備上道采女大海を紀小弓宿禰に賜り、世話をさせるために自ら送り出した。紀小弓宿禰らは新羅に入って行く先々の郡を占領した。
新羅王は夜に四方から皇軍の鼓の音を聞いて喙 の地を全て占領されていることを知り、数百の騎兵と共に逃げ乱れて大敗した。
小弓宿禰は追撃して敵将を陣中で斬った。
喙の地は平定したが残兵は降伏しなかった。
紀小弓宿禰は兵を収めて大伴談連らと合流した。また兵を整えて残兵と戦った。夕刻、大伴談連と紀岡前来目連は力闘して死んだ。
談連の従者で同姓の津麻呂はその後、軍中に入って主を探した。
しかし軍中には見えず、「我が主の大伴公は何処においででしょうか」と尋ねた。
ある人が「お前の主は敵の手によって殺された」と告げて屍の処を指し示した。
津麻呂はこれを聞くと足を踏みならして叫び、「主は既に死んでしまった。何のために独りで生きなければならないのか」と言うと敵中に入って死んだ。しばらくして残兵は自ずと退いた。皇軍もまた退いた。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇九年三月条】
大将軍紀小弓宿禰は病気になって薨じた。 -
雄略天皇9年5月
紀大磐宿禰は父が薨じたことを聞くと新羅に行き、小鹿火宿禰が掌っていた兵馬・船官と諸々の小官を執って自分勝手に振る舞った。
小鹿火宿禰は深く大磐宿禰を憎んだ。
そこで詐って韓子宿禰に言うには「大磐宿禰が私に『私が韓子宿禰の掌る官を執るのはそう遠くない』と言いました。どうか気を付けて下さい」と。
これによって韓子宿禰と大磐宿禰に隔たりができた。百済王は日本の諸将の小事をもとにした不仲を聞き、人を遣わして韓子宿禰らに「国の境を見せたいので、どうかおいで下さい」と言った。
韓子宿禰らは轡を並べて向った。河に着いて大磐宿禰は馬に河の水を飲ませた。
この時に韓子宿禰は後ろから大磐宿禰の馬の鞍を射た。
大磐宿禰は驚いて振り返り、韓子宿禰を射落とした。すると河に飲まれて死んだ。この三人の臣紀大磐宿禰・蘇我韓子宿禰・小鹿火宿禰は以前から先を競い合って行く道を乱して、百済王の宮にたどり着かずに引き返した。
采女大海は小弓宿禰の喪に従って日本に帰った。
そして大伴室屋大連に憂え訴えて「私は葬る地を知りません。どうか良い地を教えて下さい」と言った。大連はすぐに奏上した。
天皇は大連に勅して「大将軍紀小弓宿禰は竜のごとく驤 がり、虎のごとく睨んで八方を眺めた。逆賊を討って四海を平定した。しかし身を万里に労して三韓に命を落とした。哀矜を致して視葬者 をあてよう。大伴卿と紀卿は同国の近隣で付き合いも長い」と。
大連は勅を受けて土師連小鳥に墓を田身輪邑 に造らせて葬らせた。大海は喜んで黙ることができず、韓奴室・兄麻呂・弟麻呂・御倉・小倉・針の六人を大連に送った。
吉備上道 の蚊島田邑 の家人部 らがこれである。小鹿火宿禰は紀小弓宿禰の喪のためにやって来て、独り
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇九年五月条】角国 に留まった。
倭子連姓は不詳とある。を遣わして八咫鏡 大きな鏡の意。を大伴大連に奉り、請願して「私は紀卿と共に天朝に仕えることは堪えられません。どうか角国に留まることをお許し下さい」と。
大連は天皇に奏上して角国に留まることになった。
この角臣 らがはじめ角国に居して名を角臣としたのはこれが始まりである。 -
雄略天皇9年7月1日
河内国からの言上。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇九年七月壬辰朔条】
「飛鳥戸郡 の人田辺伯孫の女 は古市郡 の人書首加竜の妻である。伯孫は女が子を産んだことを聞いて、婿の家にお祝いに行って月夜に帰った。蓬蔂丘 蓬蔂。此云伊致寐姑。の誉田陵 応神天皇陵の下で赤馬に乗る者と出会った。その馬はうねり歩いて竜のように跳び、急に鴻 のように驚いた。不思議な体つきで他馬より優れていた。伯孫は近くで見ると欲しくなった。自分の乗る芦毛の馬に鞭打ち、頭を揃えて轡を並べた。しかし赤馬は抜け出して塵埃のように小さくなるまで駆け、あっという間に見えなくなった。芦毛馬は遅れて追うことが出来なかった。その駿馬に乗る者は伯孫の願いを知り、足を止めて馬を交換し、挨拶をして別れた。伯孫は駿馬を得て大いに喜び、躍らせて厩に入れた。鞍をおろして馬に秣を与えて寝た。翌朝、赤駿馬は埴輪馬に変っていた。伯孫は不思議に思い、誉田陵に戻って探すと芦毛馬が埴輪の間にいた。取り替えて埴輪馬を置いた」 -
雄略天皇10年9月4日
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雄略天皇10年10月7日
水間君が献じた養鳥人らを
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十年十月辛酉条】軽村 ・磐余村 の二ヶ所に住まわす。 -
雄略天皇11年5月1日
近江国の
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十一年五月辛亥朔条】栗太郡 校異:栗本郡からの言上で「白い鵜が谷上浜 にいます」と。
それで詔して川瀬舎人 を置いた。-
白髪太子後の清寧天皇。の御名代として
【古事記 下巻 雄略天皇段】白髪部 を定めた。
また長谷部舎人 を定めた。
また河瀬舎人 を定めた。
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雄略天皇11年7月
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雄略天皇11年10月
鳥官 の鳥が菟田 の人の犬に喰い殺された。
天皇は怒って顔に入墨を入れて鳥養部 とした。信濃国の
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十一年十月条】直丁 と武蔵国の直丁が宿直していた。
それで話し合って「ああ、我が国に積んである鳥の高さは小塚ほどもある。朝夕食べても猶も余った。今天皇は一羽の鳥のために人の顔に入墨を入れた。道理に外れている。悪い天皇だ」と。
天皇はこれを聞いて集めさせて積ませた。
直丁らは急には集めて積むことが出来なかった。
そこで詔して鳥養部とした。 -
雄略天皇12年4月4日
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雄略天皇12年10月10日
天皇は
木工 の闘鶏御田注に『一本云。猪名部御田。蓋誤也。(ある書に云う猪名部御田というのは誤りである)』とある。同十三年九月条の猪名部真根と混同していたのか。に命じてはじめて楼閣を造らせた。
御田は楼に登り、四面を走り回って飛ぶように働いた。
時に伊勢の采女が楼上を仰ぎ見てその疾走する姿に驚き、庭に倒れて捧げ物をひっくり返した。
天皇は御田がその采女を犯したと疑い、殺そうと思って刑吏に渡した。
この時に秦酒公は側に侍り、琴歌で天皇を悟らせようと思って琴を横にして弾き歌った。「
柯 武 柯 筮 能 伊 制 能 伊 制 能 奴 能 娑 柯 曳 嗚 伊 裒 甫 流 柯 枳 底 志 我 都 矩 屢 麻 泥 爾 飫 裒 枳 濔 爾 柯 拖 倶 都 柯 陪 麻 都 羅 武 騰 倭 我 伊 能 𦤶 謀 那 我 倶 母 鵝 騰 伊 比 志 拖 倶 彌 皤 夜 阿 拖 羅 陀 倶 彌 皤 夜 」天皇は琴歌で悟り、その罪を許した。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十二年十月壬午条】 -
雄略天皇13年3月
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雄略天皇13年8月
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雄略天皇13年9月
木工 の猪名部真根は石を台にして手斧で木を削った。
終日削っても誤って刃を傷つけることはなかった。
そこへ天皇が来て怪しんで「誤って石に当てることはないのか」と尋ねた。
真根は「決して誤りはございません」と答えた。
そこで采女を召し集めると着物を脱がせ、ふんどしを締めさせて人前で相撲をさせた。
真根はしばらく休み、また仰ぎながら削った。
気付かぬうちに誤って刃を傷付けた。
天皇は「どこの奴だ。朕を恐れずに不貞の心でみだりに軽々しい答えをして」と責めた。
そして刑吏に渡して野で処刑しようとした。同僚の工匠が真根を惜しみ嘆いて歌を詠んだ。
「
農 播 拖 磨 能 柯 彼 能 矩 盧 古 磨 矩 羅 枳 制 播 伊 能 𦤶 志 儺 磨 志 一本。換伊能致志儺磨志(いのちしなまし)。而云伊志歌孺阿羅麻志(いしかずあらまし)。柯 彼 能 倶 盧 古 磨 」天皇はこの歌を聞いて「危うく人を失うところだったか」と嘆いた。
そこで赦しの使いを甲斐の黒駒に乗せて走らせた。刑場に着くと刑を止めて赦した。
そして結い綱を解いてまた歌を詠んだ。「
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十三年九月条】農 播 拖 磨 能 柯 彼 能 矩 盧 古 磨 矩 羅 枳 制 播 伊 能 致 志 儺 磨 志 一本。換伊能致志儺磨志(いのちしなまし)。而云伊志柯孺阿羅磨志(いしかずあらまし)。柯 彼 能 倶 盧 古 磨 」 -
雄略天皇14年1月13日
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雄略天皇14年1月
呉の客人のために道を造って
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十四年正月是月条】磯歯津路 に通した。呉坂 と名付けた。 -
雄略天皇14年3月
臣連に命じて呉の使いを迎えた。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十四年三月条】
呉人を桧隈野 に住まわせた。それで呉原 と名付けた。-
【古事記 下巻 雄略天皇段】呉人 支那南方の人。が渡来した。
その呉人を呉原 に置いた。それでその地を名付けて呉原という。
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雄略天皇14年4月1日
天皇は呉人を歓待しようと思って群臣に「食事を共にするのは誰がよいだろうか」と尋ねた。
群臣は口を揃えて「根使主がよいでしょう」と答えた。
天皇は根使主に命じて共食者 とした。
そして石上 の高抜原 で呉人と饗宴した。
この時に密かに舎人を遣わして装飾を観察させた。
舎人は復命して「根使主がつける玉縵 玉を連ねた髪飾り。は際立って美しく、また皆が言うには『前に使いを迎えた時にもつけていた』とのことでございます」と言った。
そこで天皇は自分でも見たいと思い、臣連に命じて装飾を饗宴の時と同じにさせて引見した。
皇后は天を仰いで嘆き、涙を流して哀しんだ。
天皇が「なぜ泣いているのだ」と問うと、皇后が座から降りて「この玉縵は昔、私の兄の大草香皇子が穴穂天皇安康天皇の勅を承り、私を陛下に奉るときに私に贈ってくれた物でございます。それで根使主を疑って不覚にも涙を流してしまいました」と答えた。
天皇はこれを聞いて驚き激怒した。
それで根使主を深く責めると根使主は「恐れ多いことでございます。仰せの通り私の過ちでございます」と答えた。
天皇は「根使主は今後、子々孫々まで永久に群臣に連ねてはならない」と詔した。
そしてまさに斬ろうとした時、根使主は日根 に逃げ隠れて、稲城を造って戦ったが官軍に殺された。
天皇は司に命じて子孫を二分した。
一つを大草香部 の民として皇后に任せた。
一つを茅渟県主 に賜って袋かつぎの者とした。難波吉士日香香の子孫を探し、姓を賜って
大草香部吉士 とした。
日香香らの話は穴穂天皇紀にある。事を平らげた後、根使主の子の小根使主は夜に寝ながら人に「天皇の城は堅固ではないが、我が父の城は堅固だ」と語った。
天皇はこの話を伝え聞くと、使人を遣わして根使主の家を観察させた。本当の話だった。
それで捕えて殺した。根使主の後裔が
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十四年四月甲午朔条】坂本臣 となるのはこれより始まる。 -
雄略天皇15年
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十五年条】秦 の民を臣連らに分散して各々の願いのままに使わせた。
秦造 には委ねなかった。
これによって秦造酒は甚だ憂えつつも天皇に仕えていた。天皇は寵愛した。
詔して秦の民を集めて秦酒公に賜った。
公は多種多様の村主 本文は『百八十種勝』であり、ここでの『勝』の意は、『勝れた者』や、『太秦(うずまさ)の、まさ』、『村主(すぐり)』など諸説ある。を率いて、租税として絹・縑 上質な絹織物。を献じて朝庭に沢山積んだ。
それで姓を賜って禹豆麻佐 という。あるいは禹豆母利麻佐 というのは堆く積んだ姿である。-
秦氏を分けて他族に隷属させた。
秦酒公は寵愛を受けた。
詔して秦氏を集めて酒公に賜った。
そして百八十種の勝部 を率いて絹織物の調を献上させて庭中に積ませた。
これによって姓を賜って宇豆麻佐 とした。
これは積んだ様子が『埋 み益す』ということである。奉る絹・綿は肌に柔らかかった。それで秦の字を訓んで波陀 という。そして秦氏の奉る絹で神の剣の柄を巻いた。今の世も同じである。所謂秦の機織のもとである。これより後、諸国の貢物は毎年満ち溢れた。
【古語拾遺 雄略天皇段】
さらに大蔵 を立てて蘇我麻智宿禰に命じて斎蔵 ・内蔵 ・大蔵を検校させ、秦氏にその物を出納させ、東西文氏にその帳簿に記録させた。
ここに漢氏に姓を賜って内蔵・大蔵とする。
いま秦・漢二氏を内蔵・大蔵の主鎰 ・蔵部 とするのはこれがもとである。
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雄略天皇16年7月
詔して桑に適した国県に桑を植えた。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十六年七月条】
また秦の民を移して租税を納めさせた。 -
雄略天皇16年10月
詔して
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十六年十月条】漢部 を集め、その伴造 を定めて直 の姓を賜った。-
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十六年十月条 一本云】漢使主 らに直の姓を賜った。
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雄略天皇17年3月2日
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十七年三月戊寅条】土師連 らに詔して「朝夕の御膳を盛る清い器を進上せよ」と。
土師連の祖の吾笥は摂津国の来狭狭 村・山背国の内 村・俯見 村、伊勢国の藤形 村、丹波・但馬・因幡の私有の民部を進上した。名付けて贄土師部 という。 -
雄略天皇18年8月10日
朝日郎は官軍が来ると聞いて伊賀の
青墓 で迎え戦った。
自ら射撃の上手さを誇って官軍に「朝日郎の相手をするのは誰か」と言った。
その放つ矢は二重の甲 を貫いた。官軍はみな恐懼した。
菟代宿禰は敢えて進撃せずに対峙すること二日一夜。
物部目連は自ら大刀をとり、筑紫の聞 の物部大斧手に楯をとらせ、雄叫びをあげて進んだ。
朝日郎は遠くから眺めて大斧手の楯と二重の甲を射通した。さらに体にも一寸入った。
大斧手は楯で物部目連を守った。
目連は朝日郎を捕えて斬った。菟代宿禰は完遂できなかったことを恥じて七日間復命しなかった。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十八年八月戊申条】
天皇は侍臣に「菟代宿禰はなぜ復命しないのか」と問うた。
讃岐田虫別という人が進み出て言うには「菟代宿禰は二日一夜の間怯えて朝日郎を捕えることは出来ませんでした。そこで物部目連が筑紫の聞の物部大斧手を率いて朝日郎を捕えて斬りました」と。
天皇はこれを聞いて怒り、菟代宿禰の所有する猪使部 校異:猪名部を奪って物部目連に賜った。 -
雄略天皇19年3月13日
詔して
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十九年三月戊寅条】穴穂部 を置く。 -
雄略天皇20年(10月 ~ 12月)雄略天皇二十年冬。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二十年冬条】高麗 王が大軍を興して百済を滅ぼした。
わずかな生き残りがいて倉下 に集まっていた。兵糧は既に尽きて深く憂えて泣いた。
高麗の諸将が王に言うには「百済の心栄えはよくわかりません。我々は見るたびに迷ってしまいます。おそらくまた蔓延るではないでしょうか。どうか追い払って下さい」と。
王が言うには「それは出来ない。百済国は日本国の官家 となって久しいと聞く。またその王が天皇に仕えていることは近隣諸国はみな知っている」と。それで取り止めた。-
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二十年冬条 百済記云 蓋鹵王乙卯年冬】狛 の大軍がやって来て大城 漢城を攻めること七日七夜。王城は陥落した。
ついに尉礼 国百済国を失った。
王・大后・王子らは敵の手によって殺された。
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雄略天皇21年3月
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雄略天皇22年1月1日
白髪皇子後の清寧天皇。を皇太子とする。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二十二年正月己酉朔条】-
雄略天皇22年1月1日
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雄略天皇22年7月
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雄略天皇23年4月
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雄略天皇23年
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雄略天皇23年7月1日
天皇は病に伏した。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二十三年七月辛丑朔条】
詔して賞罰・掟、事の大小関係なく皇太子に委ねた。 -
雄略天皇23年8月7日雄略記では己巳年八月九日。
天皇の病はいよいよ重くなった。
百寮と別れの言葉を交わし、手を握って嘆いた。
大殿で崩じる。
大伴室屋大連と東漢掬直に遺詔して「まさに今天下は一つの家のようであり、炊煙は万里にまで立つ。人民は治まりやすく、四方の賓も服属している。これは天意が国内を安らかにせんと思うからである。心を責めて己を励まし、日々慎むことは人民のためである。臣 ・連 ・伴造 は毎日参朝し、国司・郡司は時に従って参集する。どうして心肝を尽くして慇懃に訓戒を述べないでいられようか。義においては君臣だが、情においては父子を兼ねる。願わくは臣連の智力を頼り、内外の心を喜ばせ、天下を永く安楽に保たせたいと思う。思いもしなかった。病重く死に至るなどとは。これは人の世の常であり言うには足らぬ。しかし朝野の衣冠をはっきりさせることは出来なかった。教化政刑も最善を尽くしてはいない。言葉に出してこれを思うと恨みだけが残る。年はそこそこに達し短命とは言えない。筋力精神も一時に尽きた。このようなことは本より自身のためではなく、ただ人民を安め養うためである。それでこのように致した。人として生まれれば誰でも子孫に思いを託したいものだ。天下の為には心を尽くすべきである。いま星川王は悪い心を抱き、行いは兄弟の義を欠いている。古の人の言葉がある。『臣を知るは君に及ぶものなく、子を知るは父に及ぶものなし』と。星川が志を得て共に国家を治めれば、必ず辱めを臣連に及ぼし、酷い毒が人民に流れるであろう。悪しき子孫は人民に憚られ、良き子孫は大業を負うに堪える。これは朕が家の事といえども道理において隠してはならない。大連らは民部 が広大で国に充ちている。皇太子 は後嗣の地位にあり、仁孝は目立って聞こえる。その行いは朕が志を成すに堪える。このように共に天下を治めれば、私が瞑目したとしても、どうして恨むことがあろうか」と。
ある書に云うには「星川王は腹黒く、心荒いことは天下に聞こえている。不幸にも朕が崩じた後は皇太子に害を及ぼすであろう。お前たちは民部がとても多い。互いに助け合って侮らせてはならない」と。
この時に新羅征伐の将軍吉備臣尾代は行軍して吉備国の自分の家に立ち寄った。
後に率いられてきた五百人の蝦夷らは天皇崩御を聞いて「我が国を治める天皇は既に崩じた。時を失ってはならない」と語った。
そこで集まって付近の郡を侵略した。尾代は家から駆けつけて、蝦夷と
娑婆水門 で合戦して弓を射た。
蝦夷らは或いは躍り上がり、或いは伏せて矢をうまく避け、ついに射ることが出来なかった。
尾代は弓弦を鳴らして、海浜の上で踊り伏していた二人を射殺した。
二つのやなぐいの矢も尽き、船人を呼んで矢を求めたが船人は恐れて逃げてしまった。
尾代は弓を立て、弭を持って歌を詠んだ。「
瀰 𦤶 儞 阿 賦 耶 嗚 之 慮 能 古 阿 母 爾 擧 曾 校異:阿每爾擧曾(あめにこそ:天にこそ)。あもにこそは、母にこそ。枳 擧 曳 儒 阿 羅 每 矩 儞 儞 播 枳 擧 曳 底 那 」歌い終ると自ら数人を斬った。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二十三年八月丙子条】
さらに丹波国の浦掛水門 まで追って悉く攻め殺した。
ある書では浦掛まで追って人を遣わして悉く殺させたという。-
天皇の御年百二十四歳。
【古事記 下巻 雄略天皇段】
己巳年八月九日に崩じた。
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清寧天皇元年10月9日
丹比高鷲原陵 に葬られる。この時に
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇元年十月辛丑条】隼人 が昼夜、陵の側で泣き叫んだ。
食事を与えても食べず、七日目に死んだ。
司は墓を陵の北に造り、礼を以って葬った。-
御陵は
【古事記 下巻 雄略天皇段】河内之多治比高鸇 にある。
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