狭狭城山君韓帒

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名前
  • 狹狹城山君韓帒【日本書紀】(ささやまからふく)狭狭城山君韓帒
  • 狹狹城山君韓帒宿禰【日本書紀】(ささやまからふくすくね)狭狭城山君韓帒宿禰
  • 韓帒【古事記】(からふく
キーワード
  • 淡海之佐佐紀山君(おうみのささきのやまのきみ)之祖【古事記 下巻 安康天皇段】
生年月日
( ~ 安康天皇3年10月1日)
没年月日
(顕宗天皇元年5月1日 ~ )
出来事
  • 安康天皇3年10月1日

    大泊瀬皇子後の雄略天皇。は、かつて穴穂天皇安康天皇市辺押磐皇子に皇位を伝えて後事を委ねようと思っていたことを恨み、人を市辺押磐皇子に遣わして偽って巻狩することを約束し、野遊びすることを勧めて言うには「近江の狭狭城山君韓帒が言うには『今、近江の来田綿(くたわた)蛟屋野(かやの)に猪や鹿が多くおります。その頂いた角は枯木の枝に似ております。その揃った脚は灌木のようで、吐く息は朝霧に似ています』とのことである。願わくは皇子と初冬の風が冷たくないときに野に遊んでいささかに心を楽しんで狩りをしよう」と。
    市辺押磐皇子は従って狩りをした。
    そこで大泊瀬天皇は弓を引き、馬を馳せ、偽って「(しし)有り」と言うと市辺押磐皇子を射殺した。

    【日本書紀 巻第十四 雄略天皇即位前紀 安康天皇三年十月癸未朔条】
    • 淡海(おうみ)近江佐佐紀山君(ささきのやまのきみ)の祖、名は韓帒大長谷王に言うには「淡海の久多綿(くたわた)蚊屋野(かやの)には猪や鹿が多くおります。その立っている足はすすき原のようで、角は枯れ枝のようでございます」と。

      【古事記 下巻 安康天皇段】
  • 顕宗天皇元年5月

    狭狭城山君韓帒宿禰は事を謀って押磐皇子殺害に関わった。
    処刑に臨み、叩頭して言う言葉は極めて哀れだった。
    顕宗天皇は殺すに忍ばず、陵戸(はかもり)に充てて山を守らせた。官籍を削って山部連(やまべのむらじ)に従わせた。

    【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年五月条】
    • 韓帒の子達にその陵を守らせた。

      【古事記 下巻 顕宗天皇段】