蘇我韓子
- 名前
- 氏(ウジ):蘇我【日本書紀】(そが)
- 名:韓子【日本書紀】(からこ)
- 蘇我韓子宿禰【日本書紀】(そがのからこのすくね)
- 韓子宿禰【日本書紀,紀氏家牒逸文】(からこのすくね)
- 生年月日
- ( ~ 雄略天皇9年3月29日)
- 没年月日
- 雄略天皇9年5月
- 親
蘇我満智 【紀氏家牒逸文】
- 先祖
- 子
蘇我馬背 【紀氏家牒逸文】【母:不明】
- 出来事
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雄略天皇9年3月
雄略天皇が紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰らに勅して「新羅は西の国にあって世を重ねて臣を称した。朝聘を違えることはなく、貢物も適当だった。朕が天下の王になってからは対馬の外に身を置き、跡を
匝羅 朝鮮の地名。に隠して高麗の貢物を阻んで百済の城を呑み込んだ。また朝聘を欠いて貢物を納めることもない。狼の子のように野心があり、飽きては去り、飢えては近づく。お前たち四卿を大将に任ずる。軍を以って征伐して天罰を加えよ」と。紀小弓宿禰らは新羅に入って行く先々の郡を占領した。
新羅王は夜に四方から皇軍の鼓の音を聞いて喙 の地を全て占領されていることを知り、数百の騎兵と共に逃げ乱れて大敗した。
小弓宿禰は追撃して敵将を陣中で斬った。
喙の地は平定したが残兵は降伏しなかった。
紀小弓宿禰は兵を収めて大伴談連らと合流した。また兵を整えて残兵と戦った。しばらくして残兵は自ずと退いた。皇軍もまた退いた。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇九年三月条】
大将軍紀小弓宿禰は病気になって薨じた。 -
雄略天皇9年5月
紀大磐宿禰は父が薨じたことを聞くと新羅に行き、小鹿火宿禰が掌っていた兵馬・船官と諸々の小官を執って自分勝手に振る舞った。
小鹿火宿禰は深く大磐宿禰を憎んだ。
そこで詐って韓子宿禰に言うには「大磐宿禰が私に『私が韓子宿禰の掌る官を執るのはそう遠くない』と言いました。どうか気を付けて下さい」と。
これによって韓子宿禰と大磐宿禰に隔たりができた。百済王は日本の諸将の小事をもとにした不仲を聞き、人を遣わして韓子宿禰らに「国の境を見せたいので、どうかおいで下さい」と言った。
韓子宿禰らは轡を並べて向った。河に着いて大磐宿禰は馬に河の水を飲ませた。
この時に韓子宿禰は後ろから大磐宿禰の馬の鞍を射た。
大磐宿禰は驚いて振り返り、韓子宿禰を射落とした。すると河に飲まれて死んだ。この三人の臣紀大磐宿禰・蘇我韓子宿禰・小鹿火宿禰は以前から先を競い合って行く道を乱して、百済王の宮にたどり着かずに引き返した。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇九年五月条】
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