倭吾子籠
- 名前
- 氏(ウジ):倭【日本書紀】(やまと)
- 姓(カバネ):直【日本書紀】(あたい, あたひ)
- 名:吾子籠【日本書紀】(あごこ)
- 大倭國造吾子籠宿禰【日本書紀】(やまとのくにのみやつこあごこのすくね)大倭国造吾子籠宿禰
- 生年月日
- ( ~ 応神天皇41年2月30日)
- 没年月日
- (雄略天皇2年10月6日 ~ )
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
大倭国造 【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二年十月丙子条】
- 出来事
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応神天皇41年2月(15日 ~ 30日)
額田大中彦皇子は
倭 の屯田 と屯倉 を支配しようとして、その屯田の司の淤宇宿禰に「この屯田はもとより山守の地である。これからは私が治める。お前が司ることはない」と言った。
淤宇宿禰は太子菟道稚郎子に報告した。
太子は「大鷦鷯尊に申し上げよ」と言った。
それで淤宇宿禰は大鷦鷯尊に「私がお預かりしていた屯田は、大中彦皇子が妨げられて治めることが出来ません」と言った。
大鷦鷯尊は倭直 の祖麻呂祖麻呂という名の可能性もある。に「倭の屯田はもとより山守の地というが、これはどうか」と尋ねると、「私は存じ上げませんが、弟の吾子籠が存じ上げております」と答えた。この時、吾子籠は
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇即位前紀 応神天皇四十一年二月条】韓国 に遣わされていて、まだ帰還していなかった。
そこで大鷦鷯尊が淤宇宿禰に言うには「お前は自ら韓国に行って、吾子籠を連れてきなさい。昼夜兼行で急ぐように」と。
そして淡路の海人八十人を水手とした。
淤宇宿禰は韓国に行って吾子籠を連れて帰った。
そして倭の屯田について尋ねると、答えて「伝え聞きますには、纒向玉城宮御宇天皇垂仁天皇の御世に、太子大足彦尊後の景行天皇に仰せられて、倭の屯田をお定めになられました。この時の勅旨は『およそ倭の屯田は、時の帝皇の屯田である。その帝皇の子といえども、天下を治める者でなければ司ることは出来ない』といいます。これを山守の地というのは間違いでございます」と。
大鷦鷯尊は吾子籠を額田大中彦皇子のもとに遣わして、このことを知らせた。 -
仁徳天皇62年5月
遠江国の国司が上奏して「大きな樹があり、
大井河 から流れて川隈に停まりました。その大きさは十囲囲は三尺。で、根元は一つで先は二股になっております」と。時に仁徳天皇は倭直吾子籠を遣わして船を造らせた。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇六十二年五月条】
南海から巡らせて難波津 に届くと御船とした。 -
仁徳天皇87年1月
この当時、倭直吾子籠と仲皇子は親しかった。
【日本書紀 巻第十二 履中天皇即位前紀 仁徳天皇八十七年正月条】
予めその謀を知っていて、密かに精兵数百を攪食 の栗林に集めて、仲皇子の為に太子を防ごうとした。
時に太子は兵が塞いでいることを知らず、山を出て数里のところで多数の兵が塞いで進めなかった。
そこで使者を遣わして「誰であるか」と問うと、「倭直吾子籠である」と答えた。
逆に使者に「誰の使いか」と問うと、「皇太子の使いである」と答えた。
時に吾子籠は多くの軍勢が集まっているのを憚り、使者に「伝え聞くところによると、皇太子に大変なことがおありになるということなので、お助けするために兵を備えて待っておりました」と言った。
しかし太子はその心を疑って殺そうとした。
吾子籠は恐れて、妹の日之媛を奉って死罪の許しを請うと、これを許された。
その倭直 らが采女を奉るのは、この時に始まったのだろう。 -
允恭天皇7年12月
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雄略天皇2年10月6日
狭穂子鳥別を
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二年十月丙子条】宍人部 に推挙する。
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